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2017/06/04

「想山著聞奇集 卷の四」 「美濃國須原神社祭事不思議幷靈驗の事」 / 卷の四~了

 

 美濃國須原(すはら)神社祭事(さいし)不思議靈驗の事

 

Suharajinjya1

 

Suharajinjya2

 

濃國洲原大神社之眞景

 

[やぶちゃん注:以上は右キャプション。以下、左キャプション。]

 


   學劍聲裡梅花翻千

   年祠畔別成村澹炬

   喬木畫圖裏忨慨家々

   侠骨存養老年来古

 冠衣果然強項訟且論我陟峻 

 阪来談辨説破當年新垣衍

 廟廊門廡益治甌窶汙 (1)

 邪神益顯它日黃金鑄魯連

 寧徃還脚重繭 (2)

已仲春藤城兄同清興 (3)

禪二禪師奉 官命屢至洲

原釋紛止訟謀祠宇修繕祠

称農神祠祝有五十家兄詩

云爾

     秋水製圖併識

 

[やぶちゃん注:判読というか表記出来ない字(□)を示す。

(1)「膏」に似るが、上部が(くさかんむり)に「口」とL字型のの組み合わせ。

(2)「厭」に似るが、(がんだれ)内部の左下が「月」ではなく「日」で、同右部分が「犬」でなく「大」。

(3)「恭」に似るか、上部が「吉」のように見える。

 これ、全体が不思議にまるで全く読めない。識者の御教授を切に乞う。]

 美濃國武儀郡(むぎこほり)須原の神社は【郡上川の川端にて上有知(かうづち)より二里程北、郡上の八幡よりは五里ほど南なり。】[やぶちゃん注:現在の岐阜県美濃市須原。ここ(グーグル・マップ・データ)。「郡上川」は長良川の上流の呼称。「上有知」美濃国武儀郡。現在の岐阜県美濃市小倉山。ここ(グーグル・マップ・データ)。当時、須原は尾張藩領。]當國の大社にして、貮拾三石餘の御朱印地も拜領なれども、田畑の外、山野をかけては、社領、殊の外廣く、隨(したがつ)て社家(しやけ)も多く、神靈赫々(かくかく)たる御社(みやしろ)と聞及ぶ。我國上有知(かうづち)といふ所に勤役(きんやく)をなせし鳥居何某なるものゝ咄に、此御社の神事は十一月晦日(つきび)にて、甚だの奇怪これ有。先(まづ)、神人(しんじん)、川へ入(いり)て、七拾五度、垢離(こり)を取て後、神迎(かみむかひ)の神哥(しんか)をうたふと、忽ち物すさまじく風落(おち)て來(きた)ると等しく、神人は夢中に成(なり)て天へ引揚(ひきあぐ)る故、大勢懸(かゝ)りて漸(やうやく)引留(ひきとめ)、甚だ不思議なる事也。其昔は、人を二人まで、遂に天へ引揚て仕舞しと申事にて、餘り不審に思ひ、又翌年も態々(わざわざ)見に行たるに、かの神迎(かみむかひ)の歌を謠(うた)ふて神を呼(よび)奉ると、恐敷(おおそろしく)落風(おちかぜ)して、其儘打置(うちおく)ものならば、實(じつ)に神人は空中へ引揚て行(ゆく)有(あり)さま、前年に少しも違(たが)ふ事なく、呉々も不思議なる神事(じんじ)也と、具(つぶさ)に聞置(きゝおき)たれども、は其有樣を見ざれば、何とも分り兼、今、一入(ひとしほ)、慥に知居(しりゐ)たる人に聞(きか)ばやと、年來(ねんらい)打過(うちすぎ)しに、が入魂(じつこん)[やぶちゃん注:昵懇。]なる朝日七左衞門は、上有知(かうづち)の産にて、惣躰(さうたい)、中美濃邊(へん)の事、能(よく)知居たる人故、聞索(きゝさぐる)べしとて、此程、態々尋行たるに、七左衞門は格別の酒好(さけずき)故、面會すると直(ぢき)に酒を出(いだ)し、盃(さかづき)の數も重(かさな)る折節、かの須原の神事の儀を申いだし、懇にたづね問に、七左衞門云には、須原の神事は格別の儀にて、中々、か樣の酒席にて御咄し申べき事にてはなく、身を淸め席を正敷(ただしく)して、御物語申さねば勿躰なく、神慮も量り兼、實(じつ)に恐敷(おそろしき)神事に御座候。去ながら、あの神事は、御咄し申計りにては、中々分り申さず、現在の事を御覽なさらねば、知れ申さず、妙(めう)なる事に御座候とて、語り兼たれども、篤(とく)と聞訂(きゝたゞ)すに、神主三人有(あり)、【大家(おほや)大和守、宮脇(みやわき)加賀守、執行(しゆぎやう)淡路守】是を三人衆と云。夫(それ)に差續(さしつゞ)きたる次官四人有、是を四人衆と云。合(あは)して七人衆と云て、各別、家柄の舊家の由。其下(した)の社家(しやけ)・禰宜等は、惣躰にて三四十人も有由。その三人衆の内壹人、祭人(さいじん)と成(なり)、【若(もし)、三人共、支(つかへ)有(ある)時は、四人の内より勤(つとむ)る事も有(あり)とぞ。】一月にや、半月にや、餘程以前より潔齋して、神前を流るゝ郡上川【此川は越前境(さかひ)、阿彌陀が滝[やぶちゃん注:岐阜県郡上市白鳥町(しらとりちょう)前谷(まえだに)にある滝。同地区はここ(グーグル・マップ・データ)。]より流れ出(いで)て、水上は飛彈加賀境の山々より流れ出る郡上郡の聚水(しゆすゐ)[やぶちゃん注:複数の河川の集合河川の謂いであろう。]ゆゑ、大ひなる川なり、川下は長良川と云、墨俣(すみまた)[やぶちゃん注:岐阜県大垣市墨俣町墨俣。ここ(グーグル・マップ・データ)。]より長嶋(ながしま)[やぶちゃん注:輪中で知られる長良川河口近くの三重県桑名市長島町。ここ(グーグル・マップ・データ)。その西一帯の河口右岸が桑名。]の西を流れて桑名より海に入る。】の川岸に假屋を修補(しつら)ひ、日々川へ入(いり)て垢離(こり)をとり、扨、其祭日(さいじつ)には、朝より懸りて、假屋の傍(かたはら)にて太鼓を叩き、その太鼓に隨て、左右に介添(かひぞへ)兩人添て、ともに肩より手を組合(くみあい)、川へ下りて、胸まで水中に入て腰を折(をり)、左右の介添までも、等しく天窓(あたま)迄ずつふり[やぶちゃん注:ずっぷり。オノマトペイア。]水へ突込(つきこみ)、戾り來りて休息の上、又、右のごとく入水(じゆすゐ)する事度々にて、夜(よ)に入(いつ)ては、だんだん太鼓も繁く成(なり)、度數も世話敷(せはしく)なり、九つ頃[やぶちゃん注:午前零時前後。]に至りては、假屋へ歸ると、太鼓を打(うつ)まゝ懸出(かけいだ)し、又歸ると太鼓にて懸出し、遂に八つ[やぶちゃん注:午前二時前後。]過(すいぎ)頃に、七十五度、水をあび仕舞(しまふ)事也。此水をあびる計りも不思議成(なる)に、頃は嚴冬、殊に山邊(やまべ)にて、越前・飛彈境へも程遠からざる所ゆゑ、寒氣も南國に十倍して甚敷(はなはだしく)、其上、六、七十の老人の元氣衰へたるも、年番(ねんばん)に當りては勤(つとむ)る事にて、たとへ若き社(しや)人にても、半(なかば)以後は夢中[やぶちゃん注:朦朧状態。]同樣と成(なり)て、介添に助けられ、水中へ渡り込(こみ)ても、介添の力にて、ともに水の中へ天窓(あたま)を突込(つきこむ)事なれども、介添は至(いたつ)て若く、何れも血氣成(なる)もののみ、代り合(あひ)て入水(じゆすゐ)する故、その元氣に引立(ひきたて)られて、其行(ぎやう)を修(しゆ)する者も、後(のち)に成(なり)ては覺(おぼえ)なく、水に入來(いりきた)る有さま、各別の事にて、假屋より水中迄も一二丁[やぶちゃん注:一〇九から二一八メートル。]も有て、其道、巖石(がんせき)にて、夫(それ)を傳ひて上下する計(ばかり)も大役(たいやく)。實(じつ)に氣絶せざるも不思議にて、扨、夫より神前へ行て、左右の手に榊(さかき)の枝を持(もち)て、小脇にかい込み、神拜(しんはい)なして後(のち)、北のかた、加賀國白山の方(かた)に向(むかひ)て神歌を謳(うた)ひ、遙拜(えうはい)なすと、唯一度にて、神風(かみかぜ)の落來(おちきた)る事も有、三、四度も拜して、漸(やうやう)と風の落來ることも有て、其落風(おちかぜ)のすさまじき事は、草木(くさき)も吹折(ふきをれ)、身躰(しんたい)も吹飛(ふきとぶ)かと思ふ程なる強風(がうふう)にて、提灯(てうちん)神燈(しんとう)の類(るゐ)も吹消(ふききゆ)るをり、彼(かの)祭人、夢中にて、はたはたと震ひ出(いだ)して、自然と躍り振ひて空へ揚(あが)るを、大勢の神人等(ら)、腰に纏ひ、袖にすがり、脊にとまりて引下(ひきさぐ)ると、又、はたはたはたと震ひなをして、空中へ揚(あが)らんとするを、前のごとく、大ぜひ搦(から)み付(つき)て引戾せし有樣は、身の毛もよだち恐敷(おそろしく)、斯(かく)神靈の赫耀(かくやく)たる御事は、衆人、目(ま)の當り拜し奉る事にて、夫より何度も前の如く、空中へ揚(あが)るを引留め居(ゐ)る内に、神は揚(あが)り玉(たま)ふにや、漸(やうやう)、祭人も靜(しづま)りて、扨、其後(のち)にも、彼(かの)榊を握り詰つめ)たるなりにて、中々放さゞる故、指一本每に呪文を唱(となへ)て、力に任せ、むりにあくるよし。若(もし)、咒文(じゆもん)なしにこぢあくると、又、直(ぢき)に指〆(ゆびしま)りて握り堅(かたむ)るよし、此(この)指の一事(いちじ)計りにても、不思議の事と也。此頃(このころ)に至りては、例年、夜(よ)もほのぼのと明渡(あけわた)りて、いつしか十二月の朔日となると也。かの榊の枝を小脇に搔込(かひこみ)たるなりに、身躰(しんたい)とともに震ひて躍(をど)り揚(あが)る故、其勢ひに、榊の生葉(なまば)は、一葉(ひとは)も殘らず落散(おちち)る事なり。是にて、震ひ方の甚敷(はなはだしき)を察し見るべしとの咄し也。此榊の葉は、守りに成(なり)て、瘧(ぎやく)[やぶちゃん注:-隔日又は周期的に起こる病いの意で間欠的に発熱して悪寒(おかん)や震えを発するもの。主に当時、本邦でも猖獗していたマラリアの一種と考えてよい。]などは卽座に落失(おちうせ)、狐狸變怪の類(るゐ)も甚だ恐るゝ事故、人々爭ひ合(あひ)て拾ひ來る事なり。所詮、此神事(じんじ)は、現に見申さねば、神明(しんめい)の恐ろ敷(しき)事、分り兼(かぬ)るとて、七左衞門、舌を卷(まき)て咄せし也。前にも云(いへ)る通り、鳥居何某も、神歌を謳ふと落風(おちかぜ)して來り、身躰、空中へ釣揚(つりあぐ)る有さま、餘り不審故、重(かさね)ての年、また參詣なし試るに、前年に變る事もなく、あれは、不思議なる事也と申たりき。尤、此神事は至て深祕(しんび)なる事にて、俗人のしる事にはあらざれども、土俗の申傳(つたへ)は、加州の白山權現、彼(かの)山は雪深く積り埋(うづむ)故、此社へ來らせ給ふて、四月の祭事には歸り給ふと云傳(いひつたふ)るよし。夫より、彼祭人は勞(つか)れ果て、五六日臥(ふせ)り、少しづゝ粥などたべて、一旬[やぶちゃん注:十日。]も過(すぎ)、漸(やうやう)、元の通りに成(なる)事とそ[やぶちゃん注:「そ」はママ。]。祭神は陰神(いんじん)[やぶちゃん注:「女尊」等とも書く。女神8めがみ)のこと。]にして、伊弉册(いざなみ)の尊(みこと)にて、北伊勢大神宮は【多度權現の事なり。】[やぶちゃん注:三重県桑名市多度町(たど多度にある多度大社(たどたいしゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、同神社は天津彦根命(天照大神の第三子)を主祭神としているので不審。]陽神にして、伊弉諾(いざなぎ)の尊にて、夫婦の御神(おんかみ)にてましますと申傳(つたふ)るとの事也。文化年中[やぶちゃん注:一八〇四年から一八一八年。]の事にや、社家(しやけ)、大(おほひ)に困窮に及び、此山の木を、山師どもの受負(うけおひ)にて、三、四百兩に引渡し、のち、木を伐(きり)たるに、悉く疵木(きづき)にて、適(たまたま)良木(りやうぼく)成(なる)も、伐出す時に折損(をれそん)じて、一本も滿足の分なく、請負人、大に損をなせしと。定(さだめ)て神慮に應ぜさるにや。如何成(いかゞなる)事かと申居たりしに、翌夏(なつ)四月の神事に、例年の如く、御輿所(みこしじよ)より御輿を舁出(かきいだ)さんとするに、大盤石(だいはんじやく)のごとくに成て動かず。仍(よつ)て、段々人も重りて、力業(ちからわざ)にて出さんとするに、地中より生出(はえいで)たる如く、少しも動かず。よつてせんすべなく、渡御の神事、ならずして止(やみ)たりと。元來、前に申せし如く、靈驗新たなる大社の事故、信向(しんかう)の輩(ともがら)も多く、神事には、遠國よりも人來り、賑成(にぎやかなる)祭事なれども、此年は、神事ならずして止みたるは、彼(かの)木を伐たる神怒(しんど)にやと、擧(こぞつ)て恐れをなしたりとかや。是も七左衞門、能(よく)知居ての咄し也。又、昔し、神人を天へ引揚たりと云事は、證據にても有かと尋試(たづねこゝろみ)るに、左樣にも申せども、慥成(たしかなる)事は計りがたし。昔、草刈(くさかり)の者、彼(かの)神迎(かみむかひ)の神歌を覺(おのえ)居て、戲(たはむ)れに眞似をなしたるに、忽ち神のうつり給ひて、天へ引揚行(ゆき)給ひたるよし云傳へて、兒童といへども、戲(たはむれ)にも、此神事の眞似をする事なく、恐れ居るとなり。其(その)天へ釣揚(つりあぐ)る勢ひ、又、大勢して引留(ひきとゞ)むる有樣は、前にも申すごとく、現に拜(はい)し奉らねば分り申さず。呉々(くれぐれ)も新たなる神威なりと、口にて屆かぬ所は、皆身振(みぶり)にして、七左衞門、具(つぶさ)に語りて、能(よく)合點もゆき、まの當り、拜し奉りたる心地して、感淚留(とゞ)め兼たり。猶、社説(しやせつ)を聞訂(きゝたゞす)に、此大御神(おほみかみ)は、養老五年[やぶちゃん注:七二一年。]の鎭座にて、泰澄(たいちよう)大師[やぶちゃん注:後注参照。]、加賀の國白山を開き給ひて、右(みぎ)山の絶頂同樣、正殿(しやうでん)菊理媛命(くゝりひめのみこと)[やぶちゃん注:後注参照。]、左の社は伊弉册尊、右の祀は大己貴命を勸請有て、洲原(すはら)白山大權現と稱し來り奉る由。源滿仲朝臣、同賴光朝臣、同賴信朝臣を初として、當國受任の人々は格別、其外、土岐(とき)・齋藤の兩家、幷、織田家三代とも信仰にて、田園若干(そこばく)、寄附(きふ)も有て、なかんづく一條關白忠良公の執奏(しつそう)を以(もつて)、享和元年【辛酉】[やぶちゃん注:一八〇一年。]六月朔日、白山大神宮と敕許相成、同年、敕額をも下し置れ、其節、神主三人の儀は、四位の黑袍(こくはう)着用も御免に相成候由。此時、右御額、一條家の御代參として、古守奉膳(ふるもりほうぜん)初(はじめ)、下向にて持參有て、土俗は敕使下向と申はやし、色々、流行歌(はやりうた)など拵へ、近隣の老若男女(らうにやくなんによ)、擧(こぞつ)て怡悦(いゑつ)せし由。古き人々は、いまに其時の事を知居る人も有よし。實(じつ)に格別の大御神(おほみかみ)也。社説にては、十一月晦日の神事は、最初、養老の年、鎭座以來、執行(しつぎやう)仕來りたるよし云傳ふ。呉々も不思儀なる神事なり。

[やぶちゃん注:ここに記された須原神社の祭りは現在、行われていない。同神社公式サイトの「神事」の頁によれば、「特殊大祭」として「垢離取祭」と出、御神迎の 十一月三十日に、養老五(七二一)年に同神社に泰澄(天武天皇一一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年):奈良時代の修験道の僧で加賀国(当時の越前国)白山の開山と伝えられる。「越の大徳(だいとこ)」と称された。越前国麻生津(現在の福井市南部)の豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれ、十四歳で出家、越智山(福井県福井市と丹生郡越前町の境にある標高六一二・八メートル。古くから修験の山として知られた)に登って十一面観音を念じ、修行を積んだ。大宝二(七〇二)年、文武天皇から鎮護国家の法師に任ぜられ、豊原寺を建立、その後、養老元(七一七)年に越前国の白山に登攀して妙理大菩薩を感得、同年、平泉寺を建立している。養老三年からは越前国を離れて各地を巡って布教活動を行った。養老六年、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により、「神融禅師(じんゆうぜんじ)」の号を賜っている。天平九(七三七)年には、流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞重祚による称徳天皇即位に際して正一位大僧正位を賜り、「泰澄」に改名したと伝えられている。役小角(えんのおづぬ:役の行者)とともに山岳仏教の祖とされる。以上は主にウィキの「泰澄」に拠った)が神霊を招請した際の古儀による伝承に基づく神事として行われていたとある。表記に頗る不審な箇所(誤植)が複数あるが、記載に対する著作権を主張してあるので、そのまま変更せずに引いた。

   《引用開始》

斎主は一週間前から斎籠殿に入室し、六色の禁法を守り無言の行を続け朝・昼・夜の三回神前から川へ向けて造られた道を、家形を造って神に仕える人と白い着物を着、肩には着替えを掛けて川の付近に行かれ、「こりとり」(全身に水をかぶり体を清められた)を行い、その都度三社の神前参拝祝詞をされ斎主は斎籠殿内へ入室された。

斎籠殿内食事は忌火にて炊きたるもので、塩分は一切断ち忌火以外の火によりて成わる原料は一切用いざる等、洵に人知れぬ苦痛を忍び身を責むる致斎の様子筆舌に尽し難し。

この忌火は斎主意外の者の使用を厳禁し、一人の給仕は斎主に仕え毎朝未明に川に入りて禊を為し、然る後斎主の食事を調理したとされる。

晦日(30日)は毎時一回の禊を行い、更に夕方からは若者達(子供も含む)が打ち鳴らす太鼓のもと禊を行い、更に十二時以降ともなれば時間を早め、殊に「返しこり」ともなれば入殿休息することもなく拝殿前にて拝を為し、直に引き返し禊を行いかくして五度・七度連続禊を行い慈に全く神身の汚蔵意念を去り、最後に「鳥帽子こり」ともなれば、斎主は鳥帽子を頂き数人の随員(ませこおりと称す)に守護され伶人の樂の音も神々しく列を為して、最後の禊を行って入殿、更に座に就くことなく直に衣冠を改め中啓を取って、随員に守護され伶人の樂の音につれ斎籠殿から渡橋(一週間前に造られる)されて舞殿に昇段し御神事に入られた。

祭員の神伝板を打ちつつ神歌を奉する中で、斎主は静かに起ちて両手に真賢木を採り秘法を唱えつつ東・南・北の三方を拝す、この時点ですでに斎主に神が乗り移り全身が震えだし、天に昇られようとするのを他の神官さんが大勢で抑えられ、治まるのを待って皆に抱きかかえられ、斎籠殿入りとなる。非常に深秘を尽くして厳修し、終れば辰塑の払暁となる。

この神事には、神職を始め旧禰宜の内より二十有余名が神行奉仕し、徹宵打ち鳴らす太鼓(夜明けと共に子供達も一緒に)の音も勇ましく、老杉・古檜・蒼たる神域に斎主・祭員・随員等の姿は、庭火又は炬火の光に夜の戸張りに浮き出されて古典的なる、余りにも古典的にして実に神厳極まりなしの行事であったと伝えられる。

当日は露天商人も多く出店し、ガス灯又はお灯明で明かりをとり掛け声も勇ましく、本当に立派なお祭りだったとのこと。

又広場(境内)には怖いお化け屋敷も設営され、其の口上が今でも懐かしいとのことでした。

   《引用終了》

その折りの「口上」の一部分は『在所は名古屋のはばしたで、まま子いじめの幽霊が、髪はざんばらみだれ髪口にはこんにゃくくわえたり』といったものであったこと、『大祭の翌日は遊び日となり』、地区の人々が『総出で宮掃除を実施したと』というとある。因みに、最後に、この「垢離取祭」は昭和初、昭和十四~五年(一九三九~一九四〇年)年頃までは続いていたと推察されるという(年配者の談によるもの)

 なお、ここで語られる、空へ人が舞い上がって攫われそうになるというのは、所謂、神憑りのトランス状態に於けるヒステリー弓等の痙攣や異常体位、無意識的詐欺として生じる空へ飛ぼうとする激しい跳躍行為などを指すものと考えられる。

「神人(しんじん)」ここではどうも神主及びその配下の神職を総称しているようにしか読めない。「神人」は「じにん」とも読み、これは狭義には古代から中世の神社に於いて社家に仕えて神事・社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人(よりゅうど)・社人(しゃにん)とも称した差別された下層神職を指した。平安の院政期から室町までは僧兵と同様に武器を常時携帯し、乱暴狼藉や強訴を起こした武装集団の一角をも形成し、さらにその裾野は神社に隷従した差別された芸能者や、用具調達や資金援助を行う純粋に町方の手工業者や商人なども含まれ、後にはこうした神人(じにん)が組織した商工・芸能の「座」が多く形成されもした。また、ある種の下層の神人の中には、漂泊者を特定の祭儀のためにのみとり立てて設定し、祭りの最後にはその者を石打ちにしたり、半殺しの目にしたりして、謂わば、災厄神追放のシンボルとして橋上や堤から川中や河原などに突き落として殺害された者もいた事実がある(近世までこれは行われた)。私はこの祭りの原形にも恐らくはそうした人身御供の生贄としての存在があったのではないか、それを「天に昇る」と美しく言い換えたのではなかったか、という可能性を実は深く疑っている。

「大家(おほや)大和守、宮脇(みやわき)加賀守、執行(しゆぎやう)淡路守」「大家(おほや)」は主催の神主格、「宮脇(みやわき)」は権禰宜格、「執行(しゆぎやう)」は執行実務のそれで、それぞれの「大和守」「加賀守」「淡路守」は彼らに与えられた祭事の際の特殊な格を示すものであって、実際の官職でないと私は考える。

「菊理媛命(くゝりひめのみこと)」ウィキの「菊理媛神」によれば、『加賀国の白山』『や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる』が、『日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』本文には登場せず、『日本書紀』の一書(第十)に一度だけ出てくる』マイナーな神である。『神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出し』たが、『泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論にな』った。『そこに泉守道者』(よもつちもりびと)が現れ、『伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った』。そこに、続いて現われたのが菊理媛神で、彼女が『何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある』。残念ながら、『菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない』 。『この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされ』、彼女は『夜見国で伊弉冉尊に仕える女神とも』、『伊奘諾尊と伊弉冉尊の娘』、『黄泉神(よもつかみ)』『(イザナミ以前の黄泉津大神)』、或いは『伊弉冉尊の荒魂(あらみたま)もしくは和魂(にぎみたま)』、又は伊弉冉尊(イザナミ)の別名とする説さえもある。ともかくも、『菊理媛神(泉守道者)は、伊奘諾尊および伊弉冉尊と深い関係を持』ち、『また、使者(これ詐完全尊)と斉射(これ盛んだ屎ん)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかと』もされ、『ケガレを払う神格ともされる』という。『神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられ』、『菊花の古名を久々(くく)としたことから「括る」に菊の漢字をあてたとも』、また、『菊花の形状からという説』や、『菊の古い発音から「ココロ」をあてて「ココロヒメ」とする説』、『糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜(くく)り/潜(くぐ)る」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある』。『白山比咩神と同一とされるようになった経緯は不明である。白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の祭神について、伊奘諾尊・伊弉冉尊と書物で書かれていた時期もある。菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房』『が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われて』おり、『白山は霊山(山岳霊場)として、北陸地方を中心に信仰を集めていた』とある。

「源滿仲」(延喜一二(九一二)年?~長徳(九九七)年)は多田源氏の祖で頼光・頼信兄弟の父。彼は多くの叙任を受けているが、その中に美濃守もある。

「同賴光」(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)は満仲の長男。丹波大江山の酒呑童子討伐や土蜘蛛退治で知られるが、彼も長保三(一〇〇一)年に美濃守に叙任されており、実際に実務国司として現地に赴いているものと思われる。

「同賴信」(安和元(九六八)年~永承三(一〇四八)年)は満仲の三男。長元五(一〇三二)年に美濃守となっている。

「土岐」土岐氏は鎌倉から江戸にかけて栄えた武家。本姓は源氏で、清和天皇を祖とする清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた一族。

「齋藤」美濃斎藤氏。ウィキの「斎藤氏」によれば、越前斎藤氏の庶流河合系斎藤の赤塚氏が美濃目代として越前から移り住んだのが始まりとされる。室町時代に前に示した『美濃守護土岐氏に仕え、文安元』(一四四四)年に、『斎藤宗円が京都の土岐屋形で富島氏を誅殺し守護代となって勢力を揮った』。後の天文八(一五三九)年頃に『長井長弘の家臣・長井規秀が頭角を現し、斎藤氏を名乗』り、『道三は稲葉山城主となり、さらに守護土岐頼芸を追い、下克上によって美濃を押領したが』、弘治二(一五五六)年、『嫡子義龍に殺された。義龍の早世後、子の龍興は』永禄一〇(一五六七)年、『本拠地稲葉山城を織田信長に攻略され、美濃を追放されて越前の朝倉義景を頼った』。龍興は天正一〇(一五七三)年に『義景が信長に滅ぼされた時に運命を共にして討死、戦国大名斎藤家は滅亡し』ている。

「織田家三代」織田信秀・信長・信忠ととっておく。

「一條關白忠良」(安永三(一七七四)年~天保八(一八三七)年)は江戸時代の公卿。内大臣・右大臣・左大臣を歴任、寛政一一(一七九九)年に従一位となり、文化一一(一八一四)年には関白となっている。]

 

 

 想山著聞奇集卷の四 終

 

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