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« 柴田宵曲 續妖異博物館 「不思議な車」 | トップページ | 宿直草卷二 第七 似たるは似てさらに是ならざる事 »

2017/06/28

宿直草卷二 第六 女は天性、肝ふとき事

 

  第六 女(をんな)は天性(てんせい)、肝ふとき事

 

Onnatensei

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。]

 

 津の國富田(とんだ)の庄の女、郡(こほり)をへだてゝ、男の方(かた)へかよふ。道も一里の余(よ)ありければ、行きて臥すにも暇(ひま)惜しむのみ也。また、さだかなる道にもあらず。田面(たづら)の畦(あぜ)の心細くも、人をとがむる里の犬、露の玉散る玉鉾(たまぼこ)の、道行(みちゆく)人の目繫(しげ)きをも、忍び忍びに通ひしは、げに戀の奴(やつこ)なりけり。賤(しづ)が夜なべの更け過ぎて、曉(あかつき)まだき夜(よ)をこめしも、情(なさけ)にかゆる有さま、いとあやかりたきわざなりけらし。

 この通ひ路(ぢ)に西河原(にしかはら)の宮(みや)とて、森深き所有(あり)。そこを越ゆるに、また、渭(い)のための溝(みぞ)あり、一つ橋ありて渡る。

 ある夜、この女の通ふに、例の橋なし。其溝、上り下りて見るに、非人のまかりたるが、溝に橫たはり、仰(あふ)のけになりて臥(ふ)す。女、

「幸ひ。」

と思ひ、かの死人(しびと)を橋に賴みて渡るに、この死人、女の裾を銜(くは)へて離さず。引きなぐりて通るが、一町ばかり行き過(すぎ)て思ふやう、

「死人(しびと)、心なし。いかで我が裾を食はん。如何樣(いかさま)にも訝(いぶ)かし。」

と、また元の所へ歸りて、わざと、己(をの)が後(うしろ)の裾を、死人の口に入れ、胸板(むないた)を蹈まへ、渡りて見るに、元の如く、銜(くは)ゆ。

 さてはと思ひ、足を上げてみれば、口、開(あ)く。

「案のごとく、死人に心はなし。足にて蹈むと蹈まぬとに、口を塞(ふさ)ぎ、口を開(あ)くなり。」

と合點して、男の方(かた)へ行く。

 さて、敷妙(しきたへ)の枕に寄り居(ゐ)て、右のことを賞(ほ)められ顏(がほ)に話す。男、大きに仰天して、その後(のち)は逢はずなりにけり。

 げに、理(ことわ)りなり。かゝる女に、誰(たれ)とても添ひ果てなんや。天性(てんせい)、女は男(おのこ)より猶、肝(きも)太きものなり。そこら、隱すこそ、女めきて、よけれ。似合はぬ手柄(てがら)話、「臆病になき」などいふ人は、たとひ、其人に戀すてふ身も、興醒(けうさ)めてこそ止(や)みなん。只人(たゞうど)の女とても、肝太き袖は㒵(かほ)眺めらるゝわざよ。まして、上(うえ)つ方(かた)はさらなり。松虫・鈴虫のほかに、異樣(ことやう)なる虫見たるときも、

「あ、怖(こは)。」

など、答(いら)へたるは、氣高(けだか)きよりは心憎し。

 

[やぶちゃん注:本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」の巻二の七「天狗はなつまみの事」のインスパイアである。私は「曾呂利物語」の書籍版を所持しないので、同論文から梗概を引用させて貰う。

   《引用開始》

 三河国のどうしんという坊主は怖いもの知らずの者である。平岡の奥の古宮の社僧であったが、人々に斎非時[やぶちゃん注:「ときひじ」。「斎」僧の正式な一日一度の午前中のみの食事。「非時」はそれでは実際にはもたないので午後に採る非公式の食事を指す。]を乞うていた。ある時道端で死人があり、坊主が腹を踏んで通ると、死人は坊主の衣の裾を銜えて引き止めた。坊主がなお腹を押さえると離した。踏むと口を開き、足を上げると銜える(無刊記版。寛文三年版では足を上げると離す、とある)。その後、坊主は寺の門前の大木に死人を縛り付けた。夜更け、死人がだうしんの名を呼び、自ら縄を解いて寺に入ってきた。坊主が右腕を斬り落とすと、死人は消えた。夜明けに参詣の老女が訪れ、坊主が出来事を話すと、老女は斬った腕を見たいと所望し、自分の腕だといって体に差し接いで帰り、あたりは再び暗闇となった。後に、本当の老女が訪れて坊主を介抱したが、その後坊主は臆病者になってしまった。これは、坊主の高慢の鼻を天狗がつまんだのだ。

   《引用終了》

ご覧の通り、「曾呂利物語」は真正の怪談であるのに対し、こちらは主人公を男の元に通う女の疑似的怪異体験に変え、それを物理的現象として説明し、それを別に現実的に、本来の女性が汎用属性として持っている(と筆者の主張するところの)現実に対する先天的な〈肝の太さ〉という〈女の本性の恐ろしさ〉への指弾(というか、その「げに恐ろしきは女の本性」というホラー性という点では立派に怪談ではある)というテーマへとずらしてある。また、この「曾呂利物語」版は「諸國百物語」の「卷之一 三 河内の國闇峠道珍天狗に鼻はぢかるゝ事」で遙かに原話に近い形でインスパイアされてある(リンク先は私の電子化注)。なお、ここで荻田が暗に謂いたいその濫觴は言わずもがな、「伊勢物語」の第二十三段、所謂、「筒井筒」の、「高安の女」が「はじめこそ心にくもつくりけれ、いまはうちとけて、てづから飯匙(いひがひ)とりて笥子(けこ)のうつはものにもりけるを見て、心うがりていかずなりけり」であり、また、今風に批判するなら、男性の身勝手な差別意識に基づく限界性を持ったように見える最後に称揚される女性像でさえも、かの紫式部がその日記で清少納言を批判した内容に起原を求められるものであろうと私は思う。

「津の國富田(とんだ)の庄」現在の大阪府高槻市富田町一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「郡(こほり)をへだてゝ」富田の庄は急島上(しまかみ)郡。郡を越えてはいるが、距離は一里とするなら男のいたのは「島下(しましも)郡」か。後に出る「西河原(にしかはら)の宮(みや)」は不詳であるが、単純に「西」から、富田から西に「一里」、四キロメートルも行けば、旧島下郡に属する茨木市である。

「露の玉散る玉鉾(たまぼこ)の、道行(みちゆく)人の」男のもとに通う夜道の夜露の美称表現の「露の玉散る」から「玉」で「道」の枕詞である「玉鉾の」を引き出した。

「戀の奴(やつこ)」恋の虜(とりこ)・奴隷。

「賤(しづ)が夜なべの更け過ぎて」「夜なべ」(夜鍋:深夜に鍋で夜食を作りつつをしたことに由来するとされる)仕事は「賤」、貧しい民のみのすることで、そこから逆方向で、女が男のもとに通う「更け過ぎ」た「夜」の時間を引き出したに過ぎない修辞。

「曉(あかつき)まだき夜(よ)をこめしも」暁にならぬごく短い間の逢瀬に心をこめんがためと夜道を急ぐのも。

「情(なさけ)にかゆる有さま」恋の思いを、深夜の道を男のもとへと走らせるという実行動に「替ゆる」様子。

「いとあやかりたきわざなりけらし」と見かけ上、この女をヨイショするのである。そうしておいてあらためて〈あら、恐ろしき本性(ほんしょう)じゃわいのう!〉と蹴落とすのである。極めて厭らしいアイロニカルな手法である。

「渭(い)」岩波文庫版の高田氏の注では『灌漑のために掘る通水路』とする。

「例の橋なし」流失してしまっていたのであろう。富田の庄一帯はやや小高い丘となっており、当時は南北と西の三方が湿地帯で、富田自体は淀川による水運の便はよかったものの、その周辺域はかなりの水害を被った地域であったから、かく、橋が流されてしまっていたとしてもおかしくはない。ともかくもこれ自体は怪異でもなんでもなく、その水路は女がひょいと飛び越えるには有意に川幅があり、水量も多かったのである。

「非人」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀()」の「非人」の注を参照されたい。

「まかりたるが」死んでいる者が。行路死病人である。

「引きなぐりて」引き外して。裾をぐいと引っ張って口から外し。

「一町」百九メートル。

「敷妙(しきたへ)の」「しきたへ」(「敷栲」とも書く)は原義は「寝床に敷く布」で、また「枕」を指す女性語でもあるが、ここは文字通り、「枕」の枕詞。「敷妙」に関わることから「枕」の他、「床 (とこ)」・「衣」・「袖 」「袂」「黒髪」「家」などの枕詞となる。

「賞(ほ)められ顏(がほ)」疑似的怪異の真相を理路整然と解き明かしたことを褒められたいといった感じがありありと窺える顔で。非人とは言え、死者を橋代わりに踏みつけにしたばかりか、彼女が死体が裾を噛み銜えたという事態を全く恐懼しなかったばかりか、死んだ奴が裾を銜える道理があろうはずがないと不審を抱き、わざわざ舞い戻って、説明出来る事実を、遺体の胸を何度か踏みつけることで、ただ顎が閉じたり開いたりするだけに過ぎないという物理的実験によって実証証明した。その一連の行動と考察に過程に於いて、自分の成したことを何ら、不謹慎・不道徳にして非道な人非人のすることと微塵も認識していない。それどころか、それを「褒めてよ」顔で自慢したのである。この男ならずとも、私でも「大きに仰天して、その後(のち)は逢はずなりにけり」とすること間違いない。だって万一、こんな女に恨まれでもしたら、何をされるか考えてみれば判ることだ。

「臆病になき」「あたしって臆病じゃ、ないわよ。」。

「只人(たゞうど)」一般庶民。

「袖」人。

「㒵(かほ)眺めらるゝわざよ」相手にはなはだ呆れられて凝っと見つめられるのがオチだ。

「上(うえ)つ方(かた)」中・上流階級の女。

「松虫・鈴虫のほかに」鳴き音を楽しんだこれらの虫は(荻田には)例外とされている。因みに私には孰れもゴキブリとたいして変わらぬようにしか見えず、触りたくない昆虫である。

「異樣(ことやう)なる虫見たるとき」荻田にとっては「松虫・鈴虫」型でない昆虫は怪異(けい)なのである。清少納言のように(「枕草子」第四十段「虫は……」)動く小さな木の枝みたような妖しい「われから」(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類)や、パッチンパッチン音をさせる「額づき虫」(昆虫綱鞘翅目(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae の「米搗き虫」類)、夏の夜に怪しく灯に近づいては飛び込んで捨身する驚くべき「夏虫」(灯取り虫:昆虫綱鱗翅目の中の蛾(ガ)の類)なんぞは怪虫なんではあるまいか? 因みに私は海産動物はオール・クリアーで何でも平気なのではOK、「米搗き虫」も平気(刺毒等を持たない種で、クチクラ層が堅い昆虫群はどちらかというと大丈夫)であるが、蛾はダメ!

「氣高(けだか)きよりは心憎し」「虫尽くし」などを得意げに論っては博識をひけらかし、それをまた「雅び」なこととしてお高くとまっているどこかの才媛なんぞよりは、カマトトぶってでも、「おお、怖(こわ)!」と怯えたふりをして(本当に怯えているのならもっとよい)私の袖をきゅっとつかむような女の方が、これ、遙かに心惹かれるね、といったニュアンスであろう。]

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