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« 北條九代記 卷第十一 准后貞子九十の賀 | トップページ | 宿直草卷二 第十 夢に驚て信を得る事 »

2017/06/30

柴田宵曲 續妖異博物館 「埋もれた鐘」

 

 埋もれた鐘

 

 むかし京の町に不思議な夢を見た男があつた。異名を釋迦右衞門と呼ばれる信心者であつたが、家主の寢間の下に九寸ばかりの金佛が埋もれてゐるといふ夢を五十日續けて見た。掘り出す費用は私が負擔致しますから、どうか掘らせていたゞきたい、と云ひ出した。家主は精進嫌ひの無信心者であつたから、その夢は判金千枚ばかりにして掘りたいものだと茶化して取り合はぬのを、傍から口を添へる人があつて、遂に家主も承知した。板敷を外し鋤鍬を鳴らして、その日の暮れ方までに五尺足らず掘つたが、口の吹けた茶壺、消炭、榮螺殼(さざえがら)が出ただけで、佛らしいものは何も見當らなかつた。それ見た事かと家主は腹を立て、釋迦右衞門は恐れ入つて引き下る。然るに翌日またやつて來て、昨夜たしかに幻に拜まれました、今二三寸辰巳(たつみ)の隅にある、是非に掘り出せとの御託宣でござる、といふことで、再度掘り出しにかゝつたところ、成程佛像が出現した。先づ水で洗つて見ると、底光りのする樣子が如何にも古佛らしい。家主にも慾心が起つて、繹迦右衞門との爭ひになり、奉行所へ訴へ出た。役人は佛像に封印をさせ、洛中の佛具師を呼び出して、何年ぐらゐ埋もれてゐたものかと尋ねられた時、いづれも吟味の上、五七年は土中に在つたものと申上げる。その家の普請はいつ頃かと云へば、四十年餘も經過してゐる。一切はこれで明白になり、釋迦右衞門が前日掘り返しの際、ひそかに本尊を埋めたものとわかつた、といふのが「本朝櫻陰比事」にある「佛の夢は五十日」の概略である。

[やぶちゃん注:「辰巳」南東。

「佛の夢は五十日」は私の好きな「本朝櫻陰比事」の「卷二」の三番目にある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(大正十四(一九二五)年~大正十五年日本古典全集刊行会刊の与謝野寛等編「日本古典全集 西鶴全集 第二」)を視認して電子化した。句読点や記号はオリジナルに適宜、変更・追加した。読みは一部従えないので、オリジナルに一部に歴史的仮名遣で附した。その際は、所持する明治書院版「対訳西鶴全集」第十一巻を参照し、注もそれを参考にして附した。適宜、改行し、段落の頭は一字空けた。

   *

 昔、都の町に、不思議の夢を見し人有。世わたりは時計の細工人、此鐘の音(ね)に浮世の眠(ねぶ)りを覺まし、明暮、後の世を一大事と願へば、異名(いみやう)を釋迦(しやか)右衞門と云へり。自然(しぜん)と縐頭(ちゞみがしら)[やぶちゃん注:縮れ毛。釈迦もそうでことから、彼もそう綽名したのでもあろう。]にて其形、殊勝なり。年ひさしく烏丸(からすま)の下(しも)[やぶちゃん注:下ったところ。所謂、現在の京でも言う「下ル」である。]に借宅(しやくたく)して住ぬ。

 其家主(やぬし)は一向宗にて、隱れも無き精進嫌(しやうじんぎら)ひ、霜月二十八日[やぶちゃん注:親鸞の忌日。]も構はず、杉燒(すぎやき)の𢌞り振舞(ぶるまひ)して[やぶちゃん注:杉の枌板(へぎいた)に魚や鳥の肉を載せて炙った料理を振る舞い。殺生戒をものともせぬ不敵な仕儀である。]、町衆(まちしゆ)四、五人參會の折節、借家の釋迦右衞門、腰を屈(かが)め、

「私(わたくし)、名譽(めいよ)の夢を、夜前(やぜん)まで、五十日、續けて見えさせ給ふ。御託宣(おんつげ)ありありと、さながら夢とは思はれず候。御長(おんたけ)九寸ばかりの金佛(かなぶつ)、こなたの御寐間(おんねま)の下(した)なる土中に埋もれまします。是れ、弘法大師の御作(おんさく)なるが、我等が枕許(まくらもと)に金色(こんじき)の光を射し給ひ、

『汝、佛緣の深き者なれば、後世(ごせ)の爲に掘り出だすべし。然らば、衆生、救ひ、諸(もろもろ)の難病を助けん。』

の御事(おんこと)。是れ、萬人(まんにん)の慈悲なり。番匠(ばんじやう)・人足の入用は此方(こなた)より仕(つかまつ)るべし。今日、掘らせて賜はれ。」

と申せば、此(この)家主、佛(ぶつ)とも法(ほふ)とも辨(わきま)へ無く、手を拍(う)つて笑ひ、

「世の中の夢と云ふものが合へる[やぶちゃん注:夢なんどというものが事実として当たる。]事ならば、其夢を判金(はんきん)[やぶちゃん注:小判。]千枚ばかりにして掘りたきもの。」

と云ふ。

 此座に分別㒵(ふんべつがほ)なる人ありて、是れを聞きながら、

「其儘置くこと、心宜しからず。あのかたより入目(いりめ)[やぶちゃん注:掘り出しための全費用。]をせらるるならば、掘らせても見給へ。」

と云ふ。時に亭主も同心して、俄かに諸道具を取り直し、板敷(いたじき)を打(うち)はづし、鋤(すき)・鍬(くは)を鳴らし、其日の暮方までに五尺足らず掘りぬれども、佛(ほとけ)らしきものは見えずして、口欠(くちかけ)の茶壺、または消炭(きへずみ)、螺殼(さゝいがら)より外は何も無かりき。

 興覺めて、本(もと)の如くに埋めける。

「初めから、斯く有るべき事なり。」

と亭主は腹立(ふくりふ)、借家の者は何とも言葉無くて歸りぬ。

 また明(あけ)の日、家主(やぬし)へ云ひけるは、

「夜前(やぜん)、また正(まさ)しく幻(まぼろし)に拜まれされ給ひ、

『今二、三寸下(した)の辰巳(たつみ)の隅(すみ)に有りけるを、今少しの事に出現(しゆつげん)せざるは念(ねん)無し。是非に掘り出せ。』

との御願(おちか)ひなれば、とてもの事に御掘(おんほ)らせ給はれ。」

と望み、今一度(ひとたび)、掘(ほ)りて見しに、御告(おつ)げに違(たが)はず、佛像、顯はれ給へば、各(おのおの)有難く拜し、先づ、水に灌(そそ)ぎて見しに、底光(そこびかり)の躰(てい)、如何さまにも古佛(こぶつ)と見えさせ給へば、家主、欲心發(おこ)りて、

「此(この)本尊、我等が物。」

と云ふ。借家の者は、此事、合點(がつてん)せず、

「萬事、入用(いりよう)を此方(こなた)から拂ひぬる上は、私(わたくし)の佛(ほとけ)。」

と云ふ。

「如何にも掘りたき大願(だいぐはん)なれば、其段は此方(こなた)も同心なり。然れども佛(ほとけ)を其方(そのはう)の物にする約束は致さず。」

と言分(いいぶん)募(つの)つて、既に御前(ごぜん)の沙汰に成。[やぶちゃん注:ここは底本では「なり」で下に続くが、奉行所の裁きとなる転回点として、明治書院の処理を採った。]

 初めは聞かせられ、其佛(ほとけ)に兩人の封判(ふうはん)を致させ、三日預かり給ひ、洛中の佛具師を召寄(めしよ)せられ、

「此(この)金佛(かなぶつ)、年數(ねんす)何程(なにほど)か埋もれしものぞ。」

と御尋(おんたづ)ね遊ばされしに、何(いづ)れも吟味の上に申上(まうしあ)ぐるは、

「凡そ、五、七年も土中に有りし物。」

と申上ぐる。

 其後(そののち)、彼(かの)者どもを召されて、其(その)町の者に仰せられしは、

「この家(や)、普請(ふしん)は何程に成るや。」

と御尋ね有りしに、

「四十年餘(よ)に罷り成り候。」

由を申上ぐる。

 時に釋迦右衞門を召され、

「己(おの)れ、世間へは後生願(ごしやうねが)ひと見せ掛け、心中(しんちう)は淺ましき曲者(くせもの)なり。此事、豫(かね)て工(たく)み、前日(まへじつ)、掘る時、本尊を埋め置き、明(あけ)の日、其れを顯はし、京都の風聞致させ、何れの賣僧(まいす)とかと馴合(なれあ)ひて散錢(さんせん)取込(とりこ)むべき仕掛(しかけ)、疑ひ無し。有りの儘に白狀すべし。此時、僞(いつは)るに於ては、さまざま僉議(せんぎ)の爲樣(しやう)あり。」

と仰せ出だされし時、釋迦右衞門、驚き、貧より惡事を工(たく)み申す由、心底、殘さず申上ぐる。

「己(おの)れ、世の費男(つひえをとこ)、殊に佛の眼(まなこ)を拔く事、彼れ是れ以て、惡人なり。急度(きつと)仕置(しおき)に申付(まうしつ)くべき者なれども、未だ外の者を欺瞞(たぶらか)さざれば、命は助け置くなり。此(この)過怠(くわたい)[やぶちゃん注:罪の償い。]に、其佛を鍬(くは)の柄(え)に附けて荷擔(かた)[やぶちゃん注:底本の二字へのルビ。]げさせ、右の次第を札(ふだ)に記るし、洛中、三日が間(あひだ)𢌞(まは)らせて、後生(ごしやう)盜人(ぬすびと)[やぶちゃん注:信心深い素朴なる民を騙す悪人。]の㒵(かほ)を諸人(しよにん)に見知らせ、其後(そののち)、京都を追ひ拂ふべし。また、家主(やぬし)の義は、無用の爭ひ仕る事、是れ惡人(あくにん)近し[やぶちゃん注:「惡人に近し」の脱字であろう。]。是れに由つて、袴・肩衣(かたぎぬ)[やぶちゃん注:町人の礼装。]を着(ちやく)し、高札(たかふだ)を持つて、釋迦右衞門同事(どうじ)[やぶちゃん注:同様。]に𢌞(まは)るべき。」

と仰せ付けられけるとなり。

   *]

 

 かういふ手段は世の賣僧(まいす)によつて時折企てられたらしく、「朝野僉載」には白鐡餘の話がある。先づ深山に入つて柏の樹の下に鋼佛を埋め、數年たつてその上に草が生えるやうになつてから、こんな事を云ひ出した。昨夜この山の下を通つたところ、山中に佛の光りが見える、日を期して齋を設け、聖佛を世に出すことにしたい――。その日になつて數百人が集まると、この人々から多分の布施を求め、柏の根を掘り返して佛像を取り出した。この時が遠近に傳はつて、白鐡餘は聖人と崇(あが)められ、聖佛を拜しに來る者引きも切らずといふ有樣になる。紺紫紅緋黃の綾を以て數十重の袋を作り、これを佛像に被せて、布施に從つて一重を取ると定めたから、忽ち多くの金を獲た。一二年の間に郷人は皆彼に歸伏したので、自ら光王と稱し、亂を起すところまで持つて行つた。

[やぶちゃん注:「朝野僉載」(ちょうやせんさい)は唐代の則天武后の頃、張族鳥が朝廷と民間とで見聞した事柄を書き留めた随筆集。 以上は同書の「第三卷」にある以下。

   *

白鐵餘者、延州稽胡也、左道惑衆。先於深山中埋一金銅像於柏樹之下、經數年、草生其上。紿人曰、「吾昨夜山下過、每見佛光。」。大設齋、卜吉日以出聖佛。及期、集數百人、命於非所藏處劚、不得。乃勸曰、「諸公不至誠布施、佛不可見。」。由是男女爭布施者百餘萬。更於埋處劚之、得金銅像。人以爲聖、遠近傳之、莫不欲見。乃宣言曰、「見聖佛者、百病即愈。」。左側數百里、老小士女皆就之。乃以緋紫紅黃綾爲袋數十重盛像、人聚觀者、去一重一囘布施、收千端乃見像。如此矯僞一二年、郷人歸伏、遂作亂。自號光王、署置官職、殺長吏、數年爲患。命將軍程務挺斬之。

   *

これは岡本綺堂「中国怪奇小説集」にある。「青空文庫」のこちらの「仏像」で、より本文に即した現代語訳(但し、新字新仮名)が読める。]

 

 釋迦右衞門の佛像は貧からの思ひ付きで罪がなかつたが、白鐡餘の方はさう單純でない。財を獲、信望を集め、聖人と渇仰されるあたりで滿足すればよかつたのに、光王と名乘つて亂を起したのが運の盡きで、將軍程務挺のために討伐されてしまつた。尤もこの類の話は昔から無いこともないので、地中に埋められた銅の提子(ひさげ)の精が、人の形をして出步いた話が「今昔物語」にある。それだけなら奇譚で了るわけであるが、釋迦右衞門や白鐡餘のは、慾にからんだ工作であるため、馬脚を顯さざるを得なかつたのであらう。

[やぶちゃん注:「獲」「とり」。

『中に埋められた銅の提子(ひさげ)の精が、人の形をして出步いた話が「今昔物語」にある』これは「今昔物語集」の「卷第二十七」の「東三條銅精成人形被掘出語第六」(東三條の銅(あかがね)の精(たま)、人の形と成りて掘り出だされたる語(こと)第六)である。以下に示す。

   *

 今は昔、東三條殿[やぶちゃん注:藤原兼家の旧邸宅。京都の二条附近にあった。]に式部(しきぶの)卿の宮と申しける人の住み給ひける時に、南の山に、長(たけ)三尺許りなる五位(ごゐ)[やぶちゃん注:物の怪が人に変ずる場合、当時は五位・六位にの装束を着て出現することが多かった。]の太りたるが、時々、行(あり)きけるを、御子(みこ)、見給ひて、怪しび給ひけるに、五位の行(あり)く事、既に度々に成りにりければ、止む事無き陰陽師(おむやうじ)を召して、其の祟(たたり)を問はれければ、陰陽師、

「此れは物の氣也。但し、人の爲に害を可成(なすべ)き者には非ず。」

と占ひ申しければ、

「其の靈(りやう)は何(いど)こに有るぞ。亦、何の精(たま)の者にて有るぞ。」

と被問(とはれ)ければ、陰陽師、

「此れは銅(あかがね)の器(うつはもの)の精也(たま)。辰巳の角に、土の中に有り。」

と占ひ申したりければ、陰陽師の申すに隨ひて、其の辰巳の方の地(ぢ)を破(わ)りて、亦、占はせけるに、占に當たる所の地を、二、三尺許り掘りて求むるに、無し。

 陰陽師、

「尚、可掘(ほるべ)き也。更に此(ここ)は不離(はなれ)じ。[やぶちゃん注:この場所以外のところではなく、ここであることに間違いない。]」

と占ひ申しければ、五、六寸許り掘る程に、五斗納(ごとなは)許りなる[やぶちゃん注:有に五斗は入りそうな。「五斗」は凡そ九十リットル。]銅の提(ひさげ)[やぶちゃん注:注ぎ口と弦(つる)の附いた銀や錫製の鍋形の器。しかしこれは異様に大きい。大き過ぎる。]を掘り出でたり。其の後よりなむ、此の五位、行(あり)く事、絶えにけり。

 然(しか)れば、其の銅の提の人に成りて行きけるにこそは有らめ。糸惜(いとほ)しき事也[やぶちゃん注:「哀れなことであった」という感懐である。長い年月を経た道具などに神や精霊などが宿った付喪神(つくもがみ)に対する同情の思いが示されている点に注意されたい。]。

 此れを思ふに、

「物の精(たま)は此(か)く人に成りて現ずる也けり。」

となむ、皆人(みなひと)、知りにけり、となむ、語り傳へたるとや。

   *]

 

 小野篁が愛宕寺を建てた時、鑄師をして新たに鐘を鑄させた。その鑄師の話によると、この鐘は人が撞かないでも、十二時に鳴るやうにする、その代り鑄てから三年間は土に埋めて置いて、滿三年といふ日に掘り出して下さい、もし三年たゝぬ前に掘り出せば、十二時に鳴る鐘にはなりません、といふことであつた。然るに愛宕寺の別當になつた法師が、三年の月日を待ちきれず、二年餘りで掘り出したものだから、やはり撞かなければ鳴らぬ、世間竝の鐘になつてしまつた。――この話も「今昔物語」に出てゐる。

[やぶちゃん注:これは「今昔物語集」の「卷第三十一」の「愛宕寺鑄鐘語第十九」(愛宕寺(あたぎでら)の鐘を鑄(い)る語(こと)第十九)。愛宕寺は現在の京都市東山区にある大椿山六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)の前身とされる寺院。現在は臨済宗建仁寺派であるが、当時は真言宗。創建は延暦年間(七八二年~八〇五年)とされ、開いたのは慶俊(空海の師)とも空海とも、或いはまた、ここに出るように小野篁自身とする伝承もある。小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸があることでよく知られる。(グーグル・マップ・データ)。

   *

 今は昔、小野の篁(たかむら)と云ひける人、愛宕寺を造りて、其の寺の料(れう)に[やぶちゃん注:用立てるものとして。]鋳師(いもじ)を以て鐘を鑄(い)させたりけるに、鋳師が云く、

「此の鐘をば、搥(つ)く人も無くて十二時に鳴らさむと爲(す)る也。其れを此く鋳て後(のち)、土に堀[やぶちゃん注:ママ。]り埋(うづ)みて、三年可有令(あらしむべ)きなり。今日(けふ)より始めて、三年に滿てらむ日の其の明けむ日、可掘出(ほりいだすべ)き也。其れを、或いは日を不令足(たらしめ)ず、或いは日を餘して堀り開けたらむには、然(し)か搥(つ)く人も無くて、十二時に鳴る事は、不可有(あるべから)ず。而(しか)る構へをしたる也。」

と云ひて、鑄師(いもじ)は返り去りにけり。

 然(さ)て、土に堀り埋みてけるに、其の後、別當にて有りける法師、二年(ふたとせ)を過ぎて、三年(みとせ)と云ふに、未だ其の日にも不至(いたら)ざりけるに、否(え)待得(まちえ)ずして、心もとなかりけるままに、云ふ甲斐無く、堀り開けてけり。然(しか)れば、搥(つ)く人も無くて十二時に鳴る事は無くて、只、有る鐘にて有る也けり。

「鑄師(いもじ)の云ひけむ樣に、其の日堀り出だしたらましかば、搥(つ)く人も無くて十二時に鳴らなまし。然(さ)鳴らましかば、鐘の音(おと)の聞き及ばむ所には、時をも慥(たしか)に知り、微妙(めでた)からまし。極(いみ)じく口惜しき事したる別當也。」

となむ、其の時の人、云ひ謗(そし)りける。

 然(しか)れば、騷がしく物念(ものねむ)じ不爲(せ)ざらむ人は、必ず、此く弊(つたな)き也。心愚かにて不信なるが至す所也。

 世の人、此れを聞きて、

「努々不信ならむ事をば可止(とどむべ)し。」

となむ、語り伝へたるとや。

   *]

 

 時計といふものが普及せぬ時代に、時を告げて鳴り渡る鐘の有難味は、今の人の想像を許さぬものであつたらう。もしこの鑄師の言の如く、十二時每に自然に鳴る鐘が成就してゐたとしたら、明治の大時計の先驅のやうなもので、正に天來の神器と解すべきであつた。たゞ三年間地下に潛つてゐるだけで、果してそんな鐘が出來たかどうかは固より疑問である。

 

 唐の開元中、淸江郡叟なる者が、牧場に於て地中に異樣な聲の起るのを聞いた。叟は牧童數人と共に驚いて逃げ出したが、それから熱が出て病臥してしまつた。十日ばかりしていくらか快くなつた時、夢に靑い著物を著た男が現れ、我を開元觀に遷せと云ふ。叟は目が覺めてから考へて見ても、何の事かわからぬ。數日後再び野に於て同じ事を聞いたので、郡守にその話をしたら、何を寢惚けた事を云ふかと叱られた。靑い著物の男はその夜また夢に現れて、自分は地下に在ることが已に久しい、汝速かに我を出せ、さうしなければまた病氣になるぞ、と云つた。叟大いに懼れ、曉に及びその子と共に郡南の地を掘つたら、一丈餘りの鐘が出て來た。その色の靑い事、夢中の男の著物と同じであつた。よつて再びこの旨を郡守に申し出で、郡守は鐘を開元觀に置いたところ、その日の辰の時に至り、鐘は誰も撞かぬのに鳴り出したといふ話が「宣室志」に出てゐる。「今昔物語」の話はこれから思ひ付いたのかどうか。久しく地下に埋もれてゐた鐘が、掘り出されて自然に鳴ることは同じである。

[やぶちゃん注:「唐」実は底本は「廣」であるが、引用元原典と突き合わせて(突き合わせるまでもないのだが)誤植と断じて特異的に訂した。

「唐の開元」七一三年から七四一年。

 以上は「宣室志」の「清江郡叟」。

   *

唐開元中、淸江郡叟常牧牛於郡南田間、忽聞有異聲自地中發。叟與牧童數輩俱驚走辟易、自是叟病熱且甚。僅旬餘、病少愈、夢一丈夫、衣靑襦、顧謂叟曰、「遷我於開元觀。」。叟驚而寤、然不知其旨。後數日、又適野、複聞之。卽以其事白於郡守封君。怒曰、「豈非昏而妄乎。」。叱遣之。是夕、叟又夢衣靑襦者告曰、「吾委跡於地下久矣、汝速出我、不然得疾。」。叟大懼。及曉、與其子偕往郡南、卽鑒其地、約丈餘、得一鍾、色靑、乃向所夢丈夫色衣也。遂再白於郡守、郡守置於開元觀。是日辰時、不擊忽自鳴、聲極震響。淸江之人俱而驚嘆。郡守因其事上聞、玄宗詔宰臣林甫寫其鍾樣、告示天下。

   *]

 

 時計のことを自鳴鐘といつた時代がある。「今昔物語」のは不成功に了つたから仕方がないが、「宣室志」の方は慥かに自鳴鐘の實を擧げた。鐘自身先づ地下に異聲を發し、次いで夢に現れ、遂に叟をして掘り出さしめたのは、徹頭徹尾自鳴的であつた。

 

「子不語」に張家口外の總管廟に妖鐘があり、三更故なくしておのづから鳴るとあるが、その由來は何も書いてない。

[やぶちゃん注:宵曲は「子不語」と言っているが、これは同じ袁枚の手になる続篇の「續子不語」の「第六卷」の「飛鐘啞鐘妖鐘」の最後の一節である。

   *

武夷伏虎山之巓有鐘繫焉、相傳唐時飛來、離地三十餘丈、無人能擊、故又號啞鐘。張家口外總管廟有妖鐘、三更外無故自鳴。

   *]

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