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2017/06/05

「想山著聞奇集 卷の五」 「柳谷觀音利益の事」

 

 想山著聞奇集 卷の五

 

 柳谷(やなぎだに)觀音利益(りやく)の事

 

Yanagidanikannon

 

 京都西山の内、坤(ひつじさる)の方に當り、三里計(ばかり)に、楊谷(やなぎだに)と云所有て、その所に、立願山楊谷寺(りうぐわんざんやうこくじ)【淨土宗粟生(あを)光明寺末】といふ寺あり。畧緣起の趣にては、當山は、人皇(にんかう)五十一代平城(へいぜい)天皇の御宇、大同元年、釋延鎭(しやくえんちん)僧都、草創の地也。本尊は千手千眼(せんがん)觀音菩薩、脇士(わきし)は將軍地藏毘沙門天也。右本尊は、春日大明神の御作(おんさく)といひ、或は化人(けにん)の作共いへり。其濫觴は、延鎭、洛東に在(あり)し時、夢中に化人の告(つげ)を蒙りて、西山の柳谷に入て、感得なして建立なし給ふところといひ傳ふ。其後(のち)、弘仁年中、弘法大師も此山に入て、十三佛の石像を刻み、溪谷(たにだに)に安置し給ひて、字(あざな)今に有。惠心僧都も此山に入て、欣求(ごんぐ)淨土の修行は此地にしかじとて、石上(せきじやう)に念佛三昧なし給ひ、廿五菩薩、常に來迎有ければ、淨土谷(じやうどだに)と名付給ふと。又、白川院、勅命に依(よつ)て、水願(すゐぐわん)上人、七堂伽藍を建立し給ひて、莊觀(さうくわん)たりしに、其後、地震・兵亂(ひやうらん)等(とう)に破壞(はゑ)せしかども、本尊の聖相(せいさう)は圓滿にして、奇瑞多かりしとなり。慶長の頃、寶室志荃(はうしつしせん)上人、當山に登り、七間四面の佛閣を建立し給ひたるが、卽、今の本堂にて、代々、帝の勅願所にして、御信仰淺からず。東山院(ひがしやまのゐん)・靈元院の兩帝は、御信仰も他(た)に異(こと)にして、寺主(じしゆ)量空是海上人に勅して、御祈願有て、御惱御平愈ましませし時、本尊の前の唐戸(からど)、其外寶物御寄附にて、新崇賢門院(しんさうけんもんゐん)も御信仰にて、御宿願の御子細有(あつ)て、千手觀音の御光の中に、西國三十三所の靈像を刻ましめ、隨喜せさせ給ひて、彌(いよいよ)、本尊の利生(りしやう)空しからず。危難・橫死・橫難(わうなん)をまぬかれさせ給ふとなり。【右、寺記(じき)の趣にして略記す、都名所圖繪に有(ある)所とは聊(いさゝか)相違す。】扨、、天保九年【戊戌】の六月、此寺へ參詣せしに、人跡(じんせき)も絶(たえ)たる淋敷(さびしき)山寺なれど、堂内に二百五六十人も篭り滿居(みちゐ)て、本尊を念(ねん)し居たり。餘り仰山(ぎやうさん)なる篭り人なれば、其故を聞訂(きゝたゞす)に、此菩薩を祈願すれば、諸病を愈し給ふと申うち、別て能(よく)眼病を愈し給ふ故、多分、眼病の者篭り居るよしにて、悉く眼病のみ也。世には、かく迄、眼病の人も有ものかと驚(おどろか)れて、靈驗の事を問(とふ)に、皆、口を揃へて、一切の眼病は、此菩薩を信じて治らざるはなしとのみ答ふ。疑ふにはあらねども、餘り廣大なる靈驗故、左(さ)候はゝ、現在に利益を蒙りたるも多きかと問に、壹人の云、私(わたくし)は風眼(ふうがん)にて、段々諸醫、手を盡せしかども、終に少しもみえぬ樣に成申候に、此寺へ來りて、かく御堂へ篭り始(はじめ)しも、まだ漸(やうやう)二七日に及び候はぬに、はや少しづゝ、みえ初(そめ)申候と云故、感嘆、膽(きも)に徹せしに、直(ぢき)に其傍(かたはら)に居たる老人の、私も内瘴(そこひ)と成、さらにみえぬ程に成申候に、今日(こんにち)にて、僅(わづか)十日篭り居(ゐ)候て、眼精(めしやう)、甚だ明らかに成、誠に有がたき事也と云。左候はゝ、此内には、盲人と成切(なりきる)べき人の助りつるも、いくらも有べしと問に、又、傍の人のいへるには、夫はいくらも御座候。あの向(むかふ)の方(かた)に居申候此丘尼も、此間中は一向みえ申さず、手水(てうづ)にも、繩傳ひにて參り候ひしに、まだ一七(いつしち)日には成(なら)ざれども、一昨日より繩なしに行(ゆく)樣になり申候。あれなどは早く利益の有しと云ふと、又、傍の者の云には、此間來た、あの一の部屋に居る姥(ばば)さまも、きのふより、繩なしに手水に行やうに成たり。あれなども、眞(しん)の盲目と成居たるにといへば、向(むかふ)の娘も、今朝(けさ)よりは、壹人、手水に行やうになりたりなど云。猶、懇(ねんごろ)に問ふに、いづれも來(きた)る時は、かごに乘(のり)て送られ來りて、一七日、或は二七日、三七日等(とう)にて、大かた治(ぢ)して、壹人にて歸り行。中には、四七日、五七日懸るも御座候得共、其人の信心の厚薄(かうはく)にもより、病症にもより申べく、先(まづ)、治らぬは御座なしと答たり。初め、堂に向ひて左りの方に、阿彌陀堂の有たるゆゑ、參詣して見るに、本堂より右の阿彌陀堂の方へ、眞直に細き繩一筋、引張有(ひきはりあり)、如何成(いかなる)事かとおもひ居たるが、此咄を聞て後、能(よく)見るに、阿彌陀堂の並びの方(かた)に厠(かはや)有て、目の見えぬものは、右(みぎ)繩をたよりとして便所へ行のにて、見て居るうちにも、その繩に便りて行もの、いくらも有。是等の人々、悉く利益を以、快氣して歸り行(ゆく)事かと思へば、感淚も止(とゞ)め兼たり。か程迄の利益の事を、都名所圖繪等(とう)には、何故、書顯(かきあらは)さゞるにや、不審に思ふ事也。此堂に、かく人の篭ると云は、新敷(あたらしき)事にや。門内には、病人の屯(たむろ)せし部屋々々も幾棟(いくむね)も有て、賑やかなり。門前の左右に、玉屋藤五郎・木屋喜三郎といふ大なる茶屋有て、此二軒にて、右篭り人の焚出(たきだ)しをなして𢌞(まは)す事也。も此家に入て支度せしに、其設(まうけ)の事、多成(おほなる)は、全(また)く多人數(たにんず)の食事を拵へ居(ゐ)るのなり。冬は人數(にんず)減じて六、七十人と成、夏は二、三百人より四、五百人にも至る事有と。仍(よつ)て本堂のみにもなく、阿彌陀堂等へも充滿して篭り居る事也。呉々も廣大無邊の妙智力(めうちりき)なる故、普(あまね)く諸人(しよにん)にしらせたく、纔(わづか)に見聞(みきく)丈(だけ)の事を、其儘記し置(おき)たり。

[やぶちゃん注:「柳谷(やなぎだに)觀音」「立願山楊谷寺(りうぐわんざんやうこくじ)【淨土宗粟生(あを)光明寺末】」京都府長岡京市浄土谷に現存する浄土宗の寺院。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「平城(へいぜい)天皇の御宇」在位は延暦二五(八〇六)年から大同四(八〇九)年。

「大同元年」八〇六年。

「釋延鎭(しやくえんちん)僧都草創の地」延鎮(生没年不詳)は平安前期の法相宗の僧。奈良の報恩法師の弟子となり、宝亀九(七七八)年に京都東山にある多くの峰の内の一つである乙輪山(音羽山)に移ったとされ、延暦一七(七九八)年、坂上田村麻呂が乙輪山に山荘を作った後、この延鎮を開山として招き、現在の清水寺を創建したと伝えられる(延鎮の晩年については不明。以上はウィキの「延鎮」に拠った)。同寺公式サイトの解説によれば、『延鎮僧都は『西山にて生身の観音様に出会うことができる』という夢のお告げにより、清水寺からこの西山に入り、柳(楊)生い茂る渓谷の岩上に生身の観音様を見つけ』、『その観音様が、古来より眼病に霊験あらたかな十一面千手千眼観世音菩薩だったという』。『十一面千手千眼観世音菩薩は十一の顔と千の手。更にその千の手のひとつひとつに眼を持つとされて』おり、『あらゆる方向のあらゆる人を見失うことなく救済できる力を持った、とても徳の高い観音様で』あるとする(本文で想山が「餘り廣大なる靈驗」も納得出来る説明と言える)。『延鎮僧都は喜び、その場所に堂宇を建て観音様をお祀りし、『楊谷寺』とし』、『楊谷寺は『柳谷観音』として親しまれ、眼病平癒の祈願所として天皇家公家の方々を初め、人々の厚い信仰により支えられて』、『その信仰と伝統は』一二〇〇『年経った今も変わらずここに息づいてい』るとある。本寺は西山浄土宗に属し、その総本山である「光明寺」は京都府長岡京市の「粟生(あお)」西条ノ内にある。

「脇士(わきし)は將軍地藏毘沙門天」当時の観音の両脇立は同寺公式サイトによれば、右隣り(左脇侍のこと)に勝敵毘沙門天王、左隣りに将軍地蔵大菩薩(勝軍地蔵とも称し、幡(はた:軍旗)や剣などを持ち、甲冑姿をした特異な地蔵尊像でしばしば実際の戦勝祈願の対象となった)が祀られており、清水寺の十一面観音の脇侍と同様であるとある。

「右本尊は、春日大明神の御作(おんさく)といひ、或は化人(けにん)の作共いへり」「春日大明神」は神仏習合の神である春日権現のこと。不空羂索観音・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音を本地仏とする。「化人」は仏教で仏菩薩が衆済度のために仮に垂迹して人の姿となった者を指す。無論、単なる伝承。公式サイトによれば、平成一〇(一九九八)年の大修理の際に胎内から文書が発見されており、そこには寄進者の名前等が書かれてあったとある。

「弘仁年中」八一〇年から八二四年.

「弘法大師も此山に入て」公式サイトの解説によれば、延鎮僧都は『開創後、清水寺に帰らなければならなくな』ったが、その後の弘仁二(八一一)年、乙訓寺(おとくにでら:京都府長岡京市に現存する真言宗の寺)の『別当(総括管理の僧官)を命じられた空海は当山を参詣』、『ある時、お堂のそばの溜まり水で親ザルが目のつぶれた子ザルの眼を一心不乱に洗っている姿を見て、空海が』十七『日間の祈祷を施したところ、子ザルの眼が開』いたことから、『空海はこの不思議な水にさらに祈祷を施し、眼病に悩む人々のために霊水にしたという伝説があ』って、その霊水を「独鈷水(おこうずい)」と呼ぶ(弘法大師が仏具の一種である独鈷を使って湧出させたと伝承する霊水や灌漑水である「弘法水(こうぼうすい)」の一種)。『その由来から当山第二世は弘法大師と仰』ぐとし、『古くより、眼病に悩む人々が当山で籠ってお経を唱えたり、数珠繰りやご祈祷、独鈷水(おこうずい)を飲んだりして病気を治癒』することとなりまた、その御利益を受けた『人々が郷里に帰り、治ったことをお話になる事で更に信仰が広がり皆様から『やなぎださん』と呼ばれ親しまれ』、『現在でも全国から来られる多くの参拝でにぎわってい』るとある。『また、今では眼(がん)という言葉にかけてがん封じのご祈祷をされる方も増え、実際に命を救われた方々のお参りも絶え』ないとする。

「十三佛の石像を刻み、溪谷(たにだに)に安置し給ひて、字(あざな)今に有」公式サイトにはそのような石仏群の記載はなく、最後の「字(あざな)今に有」から、地名として残るだけのようである。一部の観光サイト記載には同寺の境外には「弥勒谷十三仏」といわれる石仏群があるとするが、これは江戸時代の中国の偽経に基づく地獄思想の、本地垂迹(以下の丸括弧内が垂迹たる冥官)である十三仏信仰(不動明王(秦広王)・釈迦如来(初江王)・文殊菩薩(宋帝王)・普賢菩薩(五官王)・地蔵菩薩(閻魔王)・弥勒菩薩(変成王(へんじょうおう)・薬師如来(泰山王)・観音菩薩(平等王)・勢至菩薩(都市王)・阿弥陀如来(五道転輪王)・阿閦(あしゅく)如来(蓮華王)・大日如来(祇園王)・虚空蔵菩薩(法界王)。それぞれが順に初七日から百か日の八法要と一・三・七・十三・三十三回忌の冥府の十三の審理期日に対応させてある)によって死者の冥福と極楽浄土を祈願したものであって、弘法大師所縁とは思われない。

「惠心僧都」浄土教の新約聖書とも言える「往生要集」(寛和元(九八五)年脱稿)を書いた天台僧源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)のこと。

「廿五菩薩」阿弥陀仏を念じて往生を願う者を浄土に迎えるとする菩薩群。観世音・勢至・薬王・薬上・普賢・法自在王・獅子吼・陀羅尼・虚空蔵・徳蔵・宝蔵・山海慧(さんかいえ)・金蔵・金剛蔵・光明王・華厳王・衆宝王・日照王・月光王(がっこうおう)・三昧王・定自在王じょうじざいおう)・大自在王・白象王・大威徳王・無辺身の各菩薩を指す。

「白川院」白河天皇(天喜元(一〇五三)年~大治四(一一二九)年)。在位は延久四(一〇七三)年から応徳三(一〇八七)年。

「水願(すゐぐわん)上人」詳細事蹟不詳。水観上人とも称するようで、どうも浄土宗としての本寺の草創は平安末期の承保年間(一〇六四年~一〇七六年)でこの上人とする記載もネット上にはあるが、公式サイトには載らない。

「慶長」一五九六年から一六一五年。

「寶室志荃(はうしつしせん)上人」不詳。

「七間」十二・七二メートル。

「東山院」江戸時代の第百十三代東山天皇(延宝三(一六七〇)年~宝永六(一七一〇)年)。次の霊元天皇の第五皇子。第五代将軍徳川綱吉の治世。公式サイトのこちらには、『東山天皇の皇妃新崇賢門院(四条の局)さまが皇子の誕生を望みながらもなかなか恵まれず、当山本尊に祈祷されていたところ、念願の皇子(後の中御門天皇)が』生まれ、『そのお礼として、中御門天皇が当山ご本尊を模し、勅刻された仏像が奥之院のご本尊としてまつられてい』るとある。

「靈元院」東山天皇の前代の霊元天皇(承応三(一六五四)年~享保一七(一七三二)年)。後水尾天皇の第十六皇子。やはり前注のリンクの公式サイト内に、この『霊元天皇が独鈷水で眼病を治癒されたのをきっかけに独鈷水を天皇へ献上するようにな』ったと記す。

「量空是海上人」元禄六(一六九三)年頃に入山、本柳谷寺中興とされる僧。参照記載では、この頃に光明寺の末寺になったと推定してある。

「新崇賢門院(しんさうけんもんゐん)」前の「東山院」の注を参照されたい。

「橫難(わうなん)」思いがけなく起こる災い。不慮の災難。

「都名所圖繪に有(ある)所とは聊(いさゝか)相違す」「都名所圖繪等(とう)には、何故、書顯(かきあらは)さゞるにや」「都名所図会(みやこめいしょずえ)」は江戸後期の安永九(一七八〇)年(年)に刊行された全六巻十一冊。好評を博したために七年後の天明七(一七八七)年になって続編「拾遺都名所図会」が出されている。京都及びその周辺の広域地誌で名所図会シリーズの濫觴とも言える作品。「都名所」と称してはいるものの、記載は洛中・洛外だけでなく広く山城国全域に及んでいる。文章は読本作家の秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳)、挿絵は竹原春朝斎(たてはらしゅんちょうさい)。私も所持しており、「卷之四 右白虎」の「柳谷觀音堂」と「拾遺卷之三 後玄武 右白虎」の「立願山柳谷寺」の二箇所に記すが、電子化するのも阿呆くさいほど、記載が乏しい。眼病平癒に関わる部分は本編に、

   *

楊柳の瀧は本堂の下壇左にあり【諸人このところに籠りて病苦をまぬがるとぞ】

   *

とあるばかりで(嘘だと思ったら、日文研」データベース画像でどうぞ)、続編も、

   *

楊柳水【本堂のうしろにあり。眼(めの)疾(やまひ)にこの水を得て洗へば忽(たちまち)平癒の靈驗あり。】

   *

だけである(やはり「日文研」データベースのこちらの画像でどうぞ)。ここに載る境内地の附図はよい。本「想山著聞奇集」の挿絵の位置から右に四十五度移動した辺りから描いている(やはり日文画像をどうぞ)。ともかくも、想山の不満には私は激しく同感するものである。これは恐らく秋里自身は出向くことなく書いたのではないかと私は激しく疑うものである。

「天保九年」一八三八年。

「風眼(ふうがん)」膿漏眼(のうろうがん)のこと。性感染症である淋病の病原菌として知られる、真正細菌プロテオバクテリア門βプロテオバクテリア綱ナイセリア目ナイセリア科ナイセリア属ナイセリア・ゴノローエ(淋菌)Neisseria gonorrhoeae が胎内感染したり、眼へ侵入することによって、眼球の結膜に急性化膿性炎症が起きる急性結膜炎の一種。多量の分泌物が出、結膜の充血や腫れがひどくなり、悪化すると角膜潰瘍へと進み、角膜が破れて穿孔してしまうと失明に至る危険もある。新生児膿漏眼と成人膿漏眼とがあり、前者は産道に於いて感染する。

「二七日」言わずもがな乍ら、十四日。以下の「一七日」(ひとなぬか)「二七日」「三七日」「四七日」「五七日」も総て掛け算。

「阿彌陀堂」公式サイトによれば、『江戸時代の建立で、昔は念仏堂とも呼ばれ』、『ここのお厨子は、淀殿の寄進と伝えられ、厨子の扉には豊臣家の紋が入ってい』る。『本来このお厨子はご本尊のもので』あったのであるが、『徳川の世になり、幕府をはばかった当時の住職が阿弥陀堂に移したと伝えられてい』るとする。『ご本尊は阿弥陀如来で、向かって右に中国の高僧善導大師像が、左には日本の念仏思想を広めた法然上人像が安置されて』あるとある。]

 

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