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2017/06/20

宿直草(御伽物語)〔大洲本全篇〕 荻田安靜編著 附やぶちゃん注 始動 /宿直草卷一 第一 すたれし寺を取り立てし僧の事

宿直草(御伽物語)〔大洲本全篇〕 荻田安靜編著 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本書は延宝五(一六七七)年に京の松永貞徳直系の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい ?~寛文九(一六六九)年:姓は「荻野」とも)の編著になる「宿直草(とのゐぐさ)」として、京の知られた書肆西村九郎右衛門から出版した怪談集であるが、後に「御伽物語」と改組・増補編集され(その主たる作業は富尾似船(とみおじせん 寛永六(一六二九)年~宝永二(一七〇五)年:京都の俳人で初め、まさに荻田安静に師事したが、後に談林に転じ、元禄期の京俳壇で活躍した)によるものと推定されている)、この二様の名、寧ろ、「御伽物語」の名で流布してきた、「曾呂利物語」と並ぶ近代怪異小説集の濫觴ともされるものである(実際の改版や改題及び異版は複雑で、詳しくは以下に示した底本の高田衛氏の解題に詳しい)。

 本電子化注の底本は一九九二年国書刊行会刊の「叢書江戸文庫」の「近世奇談集成(一)」を基礎底本としたが、底本は新字であるため、私のポリシーから恣意的に漢字を正字化したサイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本である本「宿直草」も参考にした。但し、この原本(PDF版(カラー)でリンク先で全巻ダウン・ロード可能)は草書で平仮名が多い上に破損が甚だしい。読みは原典に加えて同編者である高田衛氏が附したものも含まれるが、更に私が歴史的仮名遣で概ね原典に従って大幅に追加しておいたまた、以下の同氏編の岩波文庫版のそれも参考にした(同じ大洲本を用いているはずであるが、表記や読点・ルビ等が一部でかなり異なり、寧ろ、原本の平仮名を漢字にした箇所は岩波版の方が躓かずに読める場合が多々あることから、そちらの表記を元に正字化して示した箇所も多く、また、私個人の判断でオリジナルな別漢字表記にした箇所もかなりある注の一部は同じ高田氏が刊行した一九八九年岩波文庫刊「江戸怪談集 上」(但し、こちらは抄録版)の注を参考にさせて戴きつつも、基本、オリジナルに施した。但し、私自身が必要と認めないものには附していない。悪しからず。読み易さを考えて、改行や句読点や濁点も増やした(一部には底本のそれに私が従えず、変更した箇所もある)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。挿絵は底本画像或いは岩波版のそれを用いた。後者を採用したものは底本画像の汚損が激しいからである。これはその都度、採用版を示す。

 序及び目録は最後に電子化する。【2017年6月20日始動 藪野直史】]

 

 

宿直草卷一

 

  第一 すたれし寺を取り立てし僧の事

 

Sutaresitera

 

[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫版である。底本のそれは、僧や狐の変化の顏部分がひどく汚損しており、正直、見るにたえない。岩波版のそれも一部を清拭した。]

 

 古人、燭(しよく)をとりて、日を繼(つ)ぐに夜(よ)を以てす。何とて、お眠(ねふ)り候や。籠耳(かごみみ)に聞きはつりし咄(はなし)、お茶受けひとつ、申(まう)さふか。

 むかし、智行兼備の僧、諸國さすらへしに、ある所に興景無雙(けうけいぶさう)の寺ありて住持の僧なし。庭に草しげく、床(とこ)、蜘蛛(ささがに)のいと、みだれり。此(この)靈境、見過ぐしがたく、かたへの在家(ざいけ)に入り、樣子たづね侍れば、

「さればとよ、所々(しよしよ)のお僧、いく袖(そで)か來たり、すみ給ふべきと兼て御すはり候へども、宵に入(いり)て、あくる朝(あさ)は、行衞(ゆくゑ)更に見え給はずさふらへば、いたづらに悲しび、悔むばかりにて、今ははや、住持の沙汰もいたさず候。さだめて、化物なんど、さふらふにやと申す事にて候。」

と、かたる。僧、聞きて、

「しからば、その寺、望みにて候。許されて我ら預りたく候。その外の人々へも云ひあはされ候て、据(す)え給(たまは)るまじや。」

と。あるじ、

「やすき事にてさふらへども、右申し候通りにて、あやしの所なれば、御無用にこそ。さりとて、我心ひとつにて否(いな)び申すべきにもあらず。」

とて、檀中(だんちう)あつめて相談するに、みな一同に、

「無益(むやく)。」

といへば、僧のいはく、

「尤(もつとも)なり。さりながら、不惜身命不求名利(ふしやくしんみやうふぐみやうり)と侍れば、捨てん命も惜しからず候。只、消えなん法灯(ほつとう)をかゝげたきのみ。ねがはくは、許し給(たまは)れ。」

と、再三に及べば、

「さては力(ちから)なし。けふ、かりそめに見えまいらせ、あすの噂となりたまはん事こそ、そなたの爲に悲しけれ。」

と、寺を預くるになりけり。

 哺時(ほじ)になりて、油、灯心、抹香をたづさへ、佛前、形(かた)ばかりかざり、看經(かんきん)、やうやう、時うつれば、夜も四更(しかう)になんなんたり。煩惱の霧すさびては、はれぬ眞如(しんによ)の月の影、たゞ觀念のあらしならずもと、心も澄みわたるをりふし、庫裏(くり)より長(たけ)一丈あまりの光物(ひかりもの)、見えたり。

「すは。」

と、おもふところに、また、外より、

「椿木(ちんぼく)さふらふか。」

と聲す。かの光物、

「たぞ。」

といへば、

「東野(とうや)の野干(やかん)。」

とこたへて、壁の破間(やれま)より入る。長(たけ)五尺ばかり、まなこ、日月(じつげつ)の如し。火ともして來たる。又、呼ぶ。

「たぞ。」

といへば、

「南池(なんち)の鯉魚(りぎよ)。」

と名のりて、橫行(わうぎやう)の物、たけ七、八尺、まなこは黃金(こがね)にて、身は白銀(しろがね)の鎧(よろひ)なり。

 次に呼ぶ。答(こたへ)れば、

「西竹林(さいちくりん)の一足(いつそく)の鷄(けい)。」

と名のりて、朱(あけ)の冑(かぶと)、紫の鎧、左右(さう)に翼ありて、たけ六尺ばかり。天狗もかくやと恐ろし。

 また、案内(あない)す。いらへすれば、

「北山(ほくざん)の古狸(こり)。」

といひて、色(いろ)、見別けがたく、たけ四尺ばかり、進退、利(さとしく)して、いづれ、妖(あや)しの物なり。此五つのばけもの、僧を中に取りこめ、鳴き、啀(いが)み脅(おど)しけれども、僧、怖(お)ぢずして、魔佛一如(まふついちによ)と觀(くわん)じ、心經(しんきやう)誦(ず)じ侍れば、せんかたなくや有りけん、何處(いづち)となふ、去りぬ。

 とかくせし内に、東岱(とうたい)、雲ひいて、常世(とこよ)の鳥も、聲みだせり。晨朝(じんでう)のつとめ、𢌞向(ゑかう)のなごりに、昨日(きのふ)の檀那五、六人來たり、僧を見て、不思議の思ひをなす。

「さて。危うき事も、なしや。」

と問ふ。僧、事の次第、いちいちにかたる。

「さこそ候はめ。かしこくも寺を預けしものかな。さて、その化物は如何にいたし侍らん。」といふ。僧のいはく、

「その事よ。殺生(せつしやう)の事、佛、いましめ置けり。さりながら、興隆佛法のため、一殺多生(いつせつたしやう)の善とは、これらをや申すべき。退治し給へ申さん。をよそ化物、四つは外(ほか)、ひとつは内に候。五つながら所を覺え候。まづ、東の野に狐あるべし。南の池に鯉、西の藪に足ひとつある庭鳥(にはとり)、北の山に狸、これ外(ほか)より來る四つなり。」

といヘば、

「さてはそれか。」

と弓・うつぼ、鑓(やり)、長刀(なぎなた)なんど、こしらへて、犬追ふものにあらねども、那須野(なすの)の昔とふらひて、狩場(かりば)に出(いづ)れば、狐、いでたり。やがて殺してけり。池の樋(ひ)をぬき、水ほして見れば、大きなる鯉あり。これもずんずんに切り捨(すて)つ。藪に網(あみ)はり、三方より聲して狩(かる)に、庭鳥、出でしを、やがて、とる。山をたづね、穴をもとめて、靑松葉、かきくべて、古き狸をえたり。

「さて、此堂の材木に椿や使はれ候か。」

といへば、其中にも古き人、

「げに。乾(いぬゐ)の隅の柱こそ、椿の木よ、と語りつたへて侍れ。」

といふ。

「さては。内(うち)の光物は、それにてこそ候へ。」

とて、やかて番匠(ばんじやう)をやとひ、別(よ)の木にとりかへけり。これより後、寺、いよいよ繁昌しけりとなん。

 

 宜(むべ)なるかな、この僧、德ありて妖怪にさまたげられず。多くの僧の、あるは果(は)て、あるは失せ給ひしに、寺も再び榮へしは、いみじきにはあらずや。また、東野(とうや)の野干(やかん)と聞きて、東(ひがし)の野(の)の狐(きつね)と讀まずは、詮(せん)はあらじ。物ごと、心を配るべきをや。外(ほか)より來たる四つは、年へて化くる術(じゆつ)をおぼゆる事もあるべし、内の椿の光るこそ、おぼつかなくも、怪しけれ。朽(くち)たる葦(あし)はきりぎりすとなり、稻また𧉪(よなむし)となると、出世(しゆつせ)の書(ふみ)に侍る。これまた、其たぐひか。かからば、などか、古下駄(ふるげた)も師走をまちて踊らざらん。化けまじき物の化けたるこそ、咄の中の咄ならめ。かの戀路(こひぢ)の關(せき)の夕霧(ゆふぎり)に、梅が小路(こみち)の露をわけてふ、熊谷笠(くまがへがさ)に息こめて、ひたに人目を忍ふ袖も、怖(こは)さの外(ほか)の化物(ばけもの)ならし。

 

[やぶちゃん注:ちょっと思うのだが、この中央に木、東西南北に動物を配したそれは、五行説の四神のパロディのように思われる。五行では中央は「土」であるが、これは植物の芽が地から萌え出でるシンボルとされる。なお、本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」(寛文三(一六六三)年刊)の巻四の「四 万の物年をへては必化事」をインスパイアものである。私は「曾呂利物語」を所持しないので、同論文から梗概を引用させて貰う。

   《引用開始》

 伊予国いづしの山寺は、にゐという僧が創立したのだが、何時の時からか化物が棲み、住持の僧たちを捕っていったので、今は主無き寺となっていた。ここに、関東の足柄から僧が訪れ、にゐに山寺の住持を無理に願い、山寺に入った。すると夜に「こんかのこねん」「けんやのばとう」「そんけいが三ぞく」「こんさんのきうぼく」という物が訪れ、寺の内から「ゑんよう坊」が出て、今夜は生魚があると言って客を歓待する。僧は化物の正体を見抜き、化物に名乗りをあげ、金棒で化物を打ち砕くと、いずれも数百年を経て形を変じて現れた物々であった。夜明けてにゐとその使いが訪れたが、僧は無事で、夜の出来事を語った。にゐは僧を中興開山の智者とし、寺は今でも仏法繁昌の霊地ということである。

○  出石寺は、現在の愛媛県喜多郡出石山にあった寺。『愛媛の面影』(五巻五冊、慶応三年刊、半井梧庵著)巻四「喜多郡」に「金山出石寺(きんざいづしでら)」とある。

   《引用終了》

「古人燭をとりて、日を繼ぐに夜を以てす。何とてお眠り候や」。「古詩十九首」(文選に載る漢代の五言詩群)の「十五」の「生年不滿百」(生年 百に滿たず)の冒頭前半の「生年不滿百 常懷千歳憂 晝短苦夜長 何不秉燭遊 爲樂當及時」(生年 百に滿たざるに/常に千歳の憂ひを懷く/晝は短くして 夜の長きに苦しむ/何ぞ燭を秉(と)りて遊ばざる/樂しみを爲すは當(まさ)に時に及ぶべし)や、それに基づく李白の「春夜宴桃李園序」(春夜桃李園に宴するの序)の一節、冒頭の『夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客。而浮生若夢、爲歡幾何。古人秉燭夜遊、良有以也。』(夫れ、天地は萬物の逆旅(げきりよ)にして、光陰は百代(はくたい)の過客(くわかく)なり。而して浮生(ふせい)は夢のごとし、歡(くわん)を爲(な)すこと幾何(いくばく)ぞ。古人、燭を秉(と)りて、夜(よ)、遊ぶ、良(まこと)に以(ゆゑ)有るなり。)などを下敷きとし、巻首に本篇の話者が直接話法の形で登場し、夜長を楽しむ夜伽話の怪談の面白さを読者に誘う形式をとっている。

「籠耳に聞きはつりし咄」「籠耳」は、竹籠に入れた水が編目からすぐ漏れてしまうことから、聴いてもじきに忘れてしまうこと。ここはそうした凡愚な私が聴きかじった(「はつる」は「斫る・削る」)、しかもなんとまあ、そんな私が未だ忘れておらぬ奇怪な話、という話者の謙辞である。

「お茶受け」ちょとした退屈しのぎの御茶飲み話。

「興景無雙」景色や雰囲気が二つとないほどに如何にも興趣に富んでいること。

「無益」無駄なこと。ここは前例に徴して、好意的に、その僧のためにならぬこと、の意で採る。

「不惜身命不求名利」身命を惜しまず、名利を求めず。インドの僧龍樹の記した「大品(だいほん)般若経」の注釈書を鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した「大智度論」に出る。

「あすの噂となりたまはん事こそ、そなたの爲に悲しけれ」檀家連中がこの僧に全く期待しておらず、前の連中と同じように、翌朝になる前に寺を逃げ出に違いないと憐れんでいる。まさに前の「無益」の一発声と心底が響き合っているのである。

「哺時(ほじ)」狭義には申の刻、現在の午後四時前後を指し、広義には日暮れ時の意。

「形ばかり」手持ちのものもなく、荒れ寺であるから、かくするしかなかったのである。檀家連中も何も布施しなかったと考えてよい。それだけ、彼への期待が零であることがはっきりと判るからである。

「看經」主に禅宗などで声を出さずに経文を読むこと(対語は「諷経(ふぎん)」であるが、広義には声を出して経文を読む読経の意でも用いる。

「四更」丑の刻。現在の午前一時或いは二時からの凡そ二時間を指す。

「煩惱の霧すさびて」「煩惱の霧」は岩波文庫版の高田氏の注で『煩悩を、悟りの智恵である光明をさえぎる霧にたとえた』とする。ここはその比喩を実景に逆転させたもので、深い霧が甚だしく立ち込めてくるのを描出したもの。

「はれぬ眞如(しんによ)の月の影」「眞如の月」は岩波文庫版の高田氏の注で『煩悩が消え去って現われるすみきった心の本体を月にたとえた語』とする。前者と同じ逆転表現で、雲が厚く、射し込むはずの月光が至らぬ実景を描く。前の時刻から、このロケーションが旧暦の月の下旬であることが判る

「たゞ觀念のあらしならずもと」「あらし」は嵐。煩悩による心の乱れを「觀念の」嵐と譬えながら、その実、戸外には実際に妖しげな強風が吹き荒んでいるのである。

「長(たけ)一丈あまりの光物」「一丈」は三・〇三メートル。ここで「丈」と言っている点に着目すべきで、これは挿絵でもそうであるが、床からの高さがそれなのである。最後に明らかになる通り、これは実は柱に用いられた椿の精であるから、床面から立ち上っている光体なのである。

「椿」は岩波文庫版の高田氏の注では「莊子」の「逍遙游」の冒頭にある、「上古有大椿者、以八千歳爲春、八千歳爲秋。」(上古、大椿(たいちん)なる者、有り、以つて八千歳を春と爲(な)し、八千歳を秋と爲す。)を引かれ、『椿は古来長寿の霊木とされ、また』、『その古木は奇異をもたらすものとされた』と記しておられる。これは、その「大椿」なる巨木の一年は人間の三万二千年に当たるということで、この「大椿」(たいちん/だいちん)は人の長寿を祝いで言う語となったのであるが、しかし、中国語の「椿」は本邦の椿(ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ツバキ(ヤブツバキ)Camellia japonica)とは全くの別種である中国中部及び北部原産の「香椿」(中国語音写:チャンチン:ムクロジ目センダン科 Toona属チャンチン Toona sinensis)を指し、本邦とツバキとは何の関係もない(因みに、現代中国語で日本のツバキは「山茶花」「山茶」などと表記する)。そもそもが、「荘子」の冒頭に登場する、とんでもない大きさの動植物群は、想像不能の譬えようのない(そこが荘子の謂わんとする核心)、全くの伝説上の架空のものであって、「荘子」の「大椿」自体を本邦産の「椿」と並べて論じること自体は植物学的にまず無効である上に、そういう意味で駄目押しで無効なのである。無論、同字であることから、日本の「椿」が同様霊木や化物候補として誤認された事実はある訳ではあるから、ウィキの「ツバキ」にも、『年を経たツバキは化けるという言い伝えが日本各地に残る。新潟の伝説では、荒れ寺に現れる化け物の正体が椿の木槌であったり、島根の伝説では、牛鬼の正体が椿の古根だったという話がある』とはある。しかし私は、明白に違う部分は違っていることをはっきりと言わなければ、正しく注したことにはならぬと考える人種である

「火ともして來たる」挿絵の右手の狐の変化は右手先に紙燭(しそく)というにはコンパクトな付木(つけき)様のものを持っているのが、ちゃんと描かれている。

「朱(あけ)の冑(かぶと)」雄鶏の鶏冠(とさか)が隠喩(メタファー)されている。

「紫の鎧」地鶏の一種は、胸から腹にかけて濃い青黒い色をしているものがよくいる。古語の「紫」はくすんで暗く青に近い。

「橫行(わうぎやう)の物」岩波文庫版の高田氏の注に、『異類、動物をいう。横に歩くもの』とある。

「啀(いが)み」動物が吠えたり、噛みつこうとする動作を指す。現在の互いに敵意を持って激しく争う意味の「いがみ合う」はこれが原義。

「魔佛一如」「生仏(しょうぶつ)一如」などと同じく、魔物も凡夫の衆生も悟った仏もその本性は全く同じ一つのものであるとするもの。

「觀じ」心を乱すことなく、観想し。

「心經」般若波羅蜜多心経。ここまで出てきた種々の語から見て(細かく示さないが、例えば南宋以降に座禅をする定刻とされた「哺時」など)、この僧は禅僧と考えてよい。

「東岱」原義は中国の霊山である泰山で、転じて東方の山のこと。

「常世(とこよ)の鳥」常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)で鷄の異名。神話に於いて天照大神が天の岩戸隠れをした際、八百万神が天鈿女命(あめのうずめのみこと)にストリップを演じさせると同時に、この常世長鳴鳥を鳴かせて天照大神を呼び戻すことに基づく。即ち、一番鷄のそれは太陽の再生儀礼のひとつのアイテムでもあったのである。

「みだせり」「亂せり」。魑魅魍魎の跳梁する夜の闇の世界を掻き乱した。

「晨朝(じんでう)のつとめ」早朝の勤行。

「𢌞向(ゑかう)のなごり」これは勤行や法会の終わりに修めたところの功徳を一切の衆生に振り向けるために唱える願いの経文である「回向文(えこうもん)・回向偈(えこうげ))」のことであろう。普通は偈頌(げじゅ)又は陀羅尼(だらに)を唱える。

「一殺多生の善」これも仏語。一つの生けるものを犠牲にして、沢山の生けるものが助かることを善とする考え方。多くの衆生を救わんがために、悪しき存在である一つの生ける存在を犠牲にするという善行。無論、望ましいことではないが、方便として仕方ないとする場合の口上と考えてよい。「瑜伽師地論」(ゆがしじろん:玄奘が六四八年に訳した仏典。全百巻)を出典とするという。

「うつぼ」「靫」或いは「空穗」とも書く。弓の射手が弓矢を納めるために腰や背につける細長い筒状の入れ物。

「犬追ふもの」犬追物。中世武士の武芸の一つで、馬上から犬を標的として弓を射、その技能を競ったもの。馬場の中央に繩で円形の囲いを作ってその中に犬を放ち、三手(みて)に分かれた射手が外周からこれを射た。流鏑馬(やぶさめ:疾走する馬上から鏑矢(かぶらや)で的を射る。通常は直線馬場で距離は百二十間(約二百二十メートル)、的は一尺四寸(約五十センチメートル)四方の檜板を竹に挟んで地面に挿した)や笠懸(かさかけ:騎射である点では流鏑馬と似るが、的の位置が凡そ三十メートル離れた遠い位置にある)などと合わせて騎射三物(きしゃみつもの)の一つとして流行ったが、室町末期には戦術法が変化するとともに衰えた。

「那須野の昔とふらひて」寵妃玉藻前(たまものまえ)に変じて鳥羽天皇を惑わし、下野国那須野原(現在の栃木県北部の那須町付近)で退治されて殺生石に変じた九尾狐の伝承を受ける。ウィキの「玉藻前」によれば、帝の病いの元凶を『陰陽師・安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)が玉藻前の仕業と見抜』き、『安倍が真言を唱えた事で玉藻前は変身を解かれ、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を眩ました』。『その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてからの那須野領主須藤権守貞信の要請に応え、討伐軍を編成』、『三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し』、八万余りもの『軍勢を那須野へと派遣した』。『那須野で、既に九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍は』直ちに、『攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。三浦介と上総介をはじめとする将兵は犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始』、『対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた』。しかし、『九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪った。そのため村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたといわれている。南北朝時代、会津の元現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝わる』とある(下線やぶちゃん)。

「池の樋」後に抜いて水を干したとあるから、この場合は、水の出口に設けた堰き止めの板、水門の謂いである。

「ずんずんに」「寸寸に」で副詞。物を細かく幾つにも截ち切るさま。ずたずたに。
 
「靑松葉かきくべて」とは
脂が強く、煙が盛んに出る青松葉を掻き集めて穴に押し込み、それに火を放ち、より燃やして火煙を出すために青松葉を更に「くべて」(燒(く)べて)である。

「乾(いぬゐ)」北西。

「番匠」大工。

「詮(せん)はあらじ」全く役に立たなかっただろう。かくも美事に総てを退治することは出来なかったに違いない。

「おぼつかなく」(最も)気懸りで不審にして。

「朽(くち)たる葦(あし)はきりぎりすとなり、稻また𧉪(よなむし)となる」「𧉪(よなむし)」は「米蟲(よなむし)」で、甲虫目多食亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属コクゾウムシ Sitophilus zeamais のこと。深い叢の奥や米の中から突如、生まれるように見えた彼らを、因果の理を越えて全く突然に生まれ出たものと捉えた、仏教生物学の四生の一つである化生(けしょう)説である。

「出世(しゆつせ)の書」岩波文庫の高田氏の注によれば、出家が所持している仏典の意とする。

「古下駄も師走をまちて踊らざらん」ある程度の長い年月を経たものか、或いはいわく因縁のある道具などに霊が宿った所謂、「付喪神(つくもがみ)」のこと。但し、妖怪めいたものとしてそれらが登場跋扈するのは中世以降で、近世には流行がすたった。「化けまじき物の化けたるこそ、咄の中の咄ならめ」という謂いには、こうした話を主君にして聴かせた御伽衆の発生が中世末期であることを考えると、この謂い方は本怪談集の深層的側面を剔抉しているようにも思われる。

「夕霧」岩波文庫版の高田氏の注では、『大坂新町の名遊女夕霧をさすか』とある。ウィキの「夕霧太夫」(ゆうぎりたゆう)によれば、彼女は生年は不詳で延宝六(一六七八)年没とし(これは本書刊行の翌年である)、『京都・島原、大坂・新町廓にいた太夫』で『本名は照。出身地は一説によると、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるといわれる。いつ、どういう風に島原に入ったか不明であるが「扇屋」の太夫となり、のちに扇屋が大坂(大阪市)の新町に移転したため、新町の太夫となる。ここから大坂の太夫は生まれるのである。姿が美しく、また芸事に秀でた名妓であった。若くして病没すると、大坂中がその死を悼んだという。享年は』二十二とも二十七とも『伝えられ』、『亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもある。墓は大阪の浄国寺、京都の清涼寺が有名だが』、『他に徳島や和歌山にもある』。『死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎などの作品が多く作られ、それらは「夕霧伊左衛門」または単に「夕霧」と総称された。近松門左衛門の浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』を始めとして、浄瑠璃の『廓文章』、歌舞伎の『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』などがある』とし、現在でも清涼寺で「夕霧供養祭」が催されているとある。

「熊谷笠(くまがへがさ)」岩波文庫版の高田氏の注では、『武蔵国熊谷』で生産された『普通の編笠より深い』タイプの笠とある。しかし、どうもこれらの高田氏の注を繋げて見ても、このエンディングの「かの戀路の關の夕霧(ゆふぎり)に、梅が小路(こみち)の露をわけてふ、熊谷笠(くまがへがさ)に息こめて、ひたに人目を忍ふ袖も、怖さの外の化物ならし」の謂いは今一つ、私には半可通である。無理矢理、解釈するなら、

――かの美しい、人目を惹かぬことのないはずの遊女夕霧、その美女が許されぬ禁断の恋をして、その恋路の、越えようにも越えられぬ関道(せきみち)を、しかし秘かに抜け行く折り――匂いたちはするものの、儚(はかな)き梅の花の咲く、小路(こみち)を通り抜けてゆく――その華奢な足元をそぼ濡らす露、それを必死に振り分け振り分けして越えてゆく夕霧の――その苦しさ、辛さ、その振り切れぬ切ない恋の思いを、その顔を――深く深く熊谷笠(くまがえがさ)に隠し隠して、只管(ひたすら)に人目を偲び、その美しき面(おもて)をも、ただただ、隠し隠しゆく、その袖――その姿こそ――「怖さ」という外の言葉にては言い表わせはぬ、いやさ! 化け物にては、これ、御座いましょうぞ!……

といった感じか。大方の御叱正を俟つ。]

 

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