フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 宿直草卷五 第二 戰場の跡、火燃ゆる事 | トップページ | 宿直草卷五 第四 曾我の幽靈の事 »

2017/07/26

宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事

 

  第三 仁光坊(にくはうばう)と云ふ火の事

 

Nikoubounohi

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。この女房が気に入らぬから修正を施さなかった。なお、本文の恋文及びその中の長歌・短歌及び添え詞は恣意的に前後を一行空けで示した。長歌と短歌の本文は原典のママとし、原典にルビがあっても添えていない。並びが汚くなるからである。恋文全体の字の大きさをブラウザの都合上、小に変えてある。]

 

 津の國嶋下郡(しましものこほり)に仁光坊と云ふ火あり。雨氣(あまけ)の夜、飛び巡り、やゝもすれば、人、行き遭ふて恐怖す。遭ひし人に聞くに、

「廣大にして唐傘ほどになり、狹少(けふせう)になりては、また、螢飛(ほたるとぶ)見ゆ。火に增減あり。大方(おほかた)は毬(まり)ほどなり。」

となん。速くして疾風(しつふ)のごとく、火に尾ありて、三、四尺、ひかれり。至りて近く遭ふ時は、坊主の首にて息吐く度(たび)に火焰出(いづ)る、となり。

 如何なる始末かと云へば、その郡に溝杭(みぞくい)といふ邑(さと)あり。その閭(さと)の尹令(つかさ)し給ふ俗(ひと)を、名に負ひて溝杭殿とよぶ。其地(そのところ)拜領して、目出度く富(とみ)增(ま)すも、はや中古の事、今ははや、世語(よがた)りとなれり。

 其頃、仁光坊は、溝杭殿の祈願法師なり。才(ざへ)も德(とこ)も尊(たと)ふして、また、美僧なり。芝(し)が眉宇(びう)も色を失ふ。これがために衣紋(ゑもん)を繕ひ、これが爲に鬢髮(びんはつ)を撫(な)づる人、そも幾(いく)袖ぞや。然れども、此僧、不犯(ふぼん)にして、威儀正(たゞ)しく行なふ。

 一日(ひぐらし)、溝杭殿の内より、色深き情(なさけ)に、小童(こわらは)をして文(ふみ)遣(つか)ひ給ふに、取り上げもせで、返す。また、御消息(せうそこ)とて、來(きた)る。あまりに便(びん)なかりければ、開きて見るに、

 

君ゆへに  思ひたつたの  たびころも  きてしも花を

みわのやま 過ゆくまゝに  ならざかや  かすがのさとに

ひとりねて おもひはいかゞ ひろさはの  池のしみづに

身をはぢて 見る人もなき  秋の夜の   つきぬなみだは

おほ井川  ふかき恨みは  あらし山   たれまつ虫の

ねをのみに おもふ思ひは  ふかくさの  ひとりふしみの

ゆめにだに したふ契は   はつせやま  おのへのかねの

よそにのみ 君がこゝろも  はづかしの  もりてことのは

あらはるゝ みしま江に浮  ながれあし  ながらの橋の

中たえて  戀しき人に   あふさかや  しるもしらぬも

わかれては 物うき旅を   しがのうら  うらみて爰に

きのくにや 人をまつほの  やまおろし  ゆめにも君を

みくまのゝ をとなし川に  あらねども  ふかきねがひを

みちのくの しのぶもぢ摺  たれゆへに  けふしら川の

せきぢまで まよひまよひて こがねやま  いつかあひづの

雲ならん  たとひ別を   するがなる  ふじのけふりと

なるまでも なを浮嶋の   さよちどり  いそのまくらに

ふしわびて なげく淚は   おほゐ川   かはるふちせに

しづみなば さよの中山   なかなかに  なにしに君を

みかはなる その八はしを  かけてだに  ちぎらざりける

人ゆへに  くもでに物や  おもふらん  さてもやつらき

美濃おはり ゆくゑは何と  なるみがた  はてはあはでの

もりのくさ しげき思を   さらしなや  われ姨捨の

やまおろし したふ心は   あさましや  淺間のたけに

たつけふり ふかき思は   あすか川   なにはのことも

かいなきに などかはみをも つくすらん  とはおもへども

うき人を  こひせの川に  しづみつゝ  なきためしをも

しもつけや 室のやしまに  たつけふり  いかでうき世に

すまの浦  ふかき思は   ありあけの  つきぬなみだを

あはれとも 君や思はん   たゞたのめ  しめぢか原の

さしもぐさ われ世中に   ながらへて  つれなかりける

人ゆへに  思ひつくばの  やまかぜも  はげしきよはの

かりまくら かすかに君を  みなれ川   こゝをこしぢの

たひの空  かへる山路を  ものうきに  何とうき世に

すみだ川  我思ふ人は   有やなしやと とへどこたへぬ

みやこどり うたて昔の   ことをだに  つゐにいはでの

もりなれや 吹飯の浦の   ゆふなみに  ぬるゝたもとを

あはれとも いでも見よかし かゞみやま  影もうつろふ

世中に   おなじ心に   なれもなは  くにくに所の

名とり川  ちいろの濱の  まさごより  つくしがてなる

ことのはを あはれともいさ 見ずやあらなん

 

聲はせで身をのみこがすほたるこそいふにも增る思ひなりけれ

 

古言(ふるごと)ながらお思ひ寄り侍り。などてか心強(こころづよ)くいます。

 

など、紅葉重(がさ)ねの薄樣(うすやう)に書きしは、見るから、罪(つみ)深(ふか)くて、返しも無(な)ふ過(すぐ)すに、夜に增し、日に添ひ、錦木(にしきゞ)も千束(ちつか)になり、濱千鳥のふみゆく跡の汐干(しほひ)の磯に、隱れがたくぞ侍る。

 然れども、此僧、水莖(みづぐき)の岡(をか)も踏まず、堅くも、返しなく、有(あり)けり。

 女、打ち怨みて、日頃の愛(いと)しさを引き變へ、今は中中(なかなか)生憎(あやに)く思ひければ、ある夜の床に、溝杭殿に語りしは、

「さても、仁光房こそ、我が方に心ある由(よし)にて、艷書(ゑんしよ)、たび重なる、いとあさましくこそ侍れ。よきに計(はから)ひ給へ。」

と云ふ。

 男、聞(きき)て、

「さてさて。左樣の事か。」

とて、殊の外にもてなし、殺すべきになれり。

 しかと究(きは)めざるぞ、淺ましき。

 やがて下部(しもべ)をして、野原に引据へ、首斬るべきに聞こえければ、僧、大きに怒り、

「故なき事に命終はる事よ。内のさがなき讒(ざん)ならまし。よし、我にも尋ね給はで、片口(かたくち)を聞き、命のみか、耻(はぢ)を巷(ちまた)に晒(さら)す。然るべき報ひか、無實の罪を得る、無念にこそ侍れ。太刀執る者、よく聞(きき)て殿にも申せ、我、さらに誤りなきを。後に思ひ知りて、悔(くや)み給へ。日比(ひごろ)の行力(ぎやうりき)、私(わたくし)なく、今の一念、望みたらば、七代まで見殺(みころ)すべし。」

と、齒嚙(はが)みをなして有(あり)けり。

 遂に首討つに、首、飛んで空に行(ゆき)、質(むくろ)のみ、殘れり。

 貴賤、眉を顰(ひそ)む。

 案のごとく、その年より、其家に災ひありて、遂に跡絶え、溝杭と名のる氏(うじ)なし。

 恨み、尤(もつとも)にこそ。

 あゝ、是非もなき僧の仕合(しあはせ)なり。女の男を慕ふは、耻の外(ほか)までせり。甚(はなはだ)恐るべし。

 かの鞍馬の安珎(あんちん)は、道成寺の鐘樓(しゆろう)に死しけれど、夢に詑(たく)して壽量品(じゆりやうぼん)の書寫を請(こひ)て、昇天の果(くは)あり。仁光坊は、それ無し。知らず、何時(いつ)まで飛(とん)で光り渡らん。不幸の中の不幸か。他(よそ)の國にも、猶、色好みの𢌞文(くはいぶん)、錦字(きんじ)の詩を賦して、征夫(せいふ)に託(かこ)ちし蘇若蘭(そじやくらん)は、如何(いか)ばかりか胸を刺すらん。又、陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の女(むすめ)は、箱王(はこわう)といふ兒(ちご)に錦哥(にしきうた)を書けり。唐土(もろこし)の人、大和の袖、彼(かれ)も是(これ)も情の道の哀れさは、とりどりにこそ侍れ。富士の煙(けふ)りの空に消えて、行方(ゆくゑ)なき思ひのほど、忍ぶる事の弱るわざなれ。

 

[やぶちゃん注:前話とは恨みの妖火で直連関。「中古の事」とあるから、本「宿直草」の中ではすこぶる時代を遡った事件を起因とする、その原話設定は特異的に最も古い怪談と考えてよい。最初に断わっておくが、色情狂の残虐女の恋文の歌枕尽くしの和歌は怪談とは関係性の希薄な(病的なまでに思いつめた感じを出すという点では無縁ではないが)荻田の趣味の挿入であるので、表記の説明及び最低限の修辞注を禁欲的に附すに留めた。私は短歌嫌いであるから、言い尽くすことは出来ないし、そんな徒労を尽くす気もない。和歌好きの方には大いに不満足であろうが、悪しからず。しかし、例えば岩波文庫版が五つしか注をつけていないのよりは遙かに親切であろうとは思う

「仁光坊と云ふ火」この仁光坊(にこうぼう)という名の妖しい怪火現象は、やや言い方や伝承の細部には異同が認められるものの、かなり有名なものである。そうしてその中でも、この「宿直草」のそれは活字化されたものでは最も古形のものに属すると言える。といよりも、優れた僧が自らの破戒や冤罪によって遺恨を以って怪火となって人に祟るという構造自体は古形ではあるものの、この個別的な類話群自体は江戸初期に形成されたものと見てよいと思われる。ウィキの「二恨坊の火」より引いておく。『二恨坊の火、仁光坊の火(にこんぼうのひ)は、摂津国二階堂村(現・大阪府茨木市二階堂)』、『同国高槻村(現・同府高槻市)に伝わる火の妖怪』。三月から七月頃までの『時期に出没したもので、大きさは』一『尺ほど、火の中に人の顔のように目、鼻、口のようなものがある。鳥のように空を飛び回り、家の棟や木にとまる。人間に対して特に危害を加えることはないとされる』。『特に曇った夜に出没したもので、近くに人がいると火のほうが恐れて逆に飛び去ってしまうともいう』。江戸中期の俳人で作家の菊岡沾凉(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の随筆「諸国里人談」によれば、『かつて二階堂村に日光坊という名の山伏がおり、病気を治す力があると評判だった。噂を聞いた村長が自分の妻の治療を依頼し、日光坊は祈祷によって病気を治した。ところが村長はそれを感謝するどころか、日光坊と妻が密通したと思い込み、日光坊を殺してしまった。日光坊の怨みは怨霊の火となって夜な夜な村長の家に現れ、遂には村長をとり殺してしまった。この「日光坊の火」が、やがて「二恨坊の火」と呼ばれるようになった。「本朝故事因縁集」(作者未詳。刊記に元禄二(一六八九)年とある。説法談義に供される諸国奇談や因果話を収めた説話集)には、『二階堂村に山伏がおり、一生の内に二つの怨みを抱いていたために二恨坊とあだ名されていた。彼は死んだ後に魔道に堕ちたが、その邪心は火の玉となって現世に現れ、「二恨坊の火」と呼ばれるようになった』とし、以下、本「宿直草」の本篇及び、後に刊行される荻田安静とほぼ同時代人と言える俳人で作家の山岡元隣(寛永八(一六三一)年~寛文一二(一六七二)年)による怪談本「古今百物語評判」に、『かつて仁光坊という美しい僧侶がいたが、代官の女房の策略によって殺害された、以来、仁光坊の怨みの念が火の玉となって出没し、「仁光坊の火」と呼ばれるようになった』と載ると記す。しかし、『大阪府吹田市にも、表記は異なる』ものの、『読みは同じ「二魂坊」といって、月のない暗い夜に』二『つの怪火が飛び交うという伝説がある』と記す。『伝説によれば、かつて高浜神社の東堂に日光坊、西堂に月光坊という、親友同士の修行僧がいた』。二『人の仲を妬んだ村人が日光坊のもとへ行き、月光坊が彼を蔑んでいると吹き込み、さらに月光坊のもとへ行き、日光坊が彼を蔑んでいると吹き込んだ。月光坊は疑心暗鬼となり、次第に日光坊を憎み始めた。村人たちはさらに、日光坊が月光坊を殺しに来ると月光坊に告げた。一方で日光坊は、最近の月光坊の心変わりを疑問に思い、誤解を解こうと彼のもとへ赴いた』。『月光坊は、ついに日光坊が自分を殺しに来たと思い込み、錫状を彼の胸に突き立てた。日光坊は殺しなどではなく、仲直りに来たとわかったときには、すでに日光坊は息絶えていた。月光坊は罪となり、自分たちを騙した者を取り殺すと叫びながら死んでいった。以来、この村には怪火が飛び交うようになり、村人たちは「二魂坊の祟り」と恐れたという』。また、『寛政時代の地誌『摂津名所図会』にも「二魂坊」といって、かつて日光坊という山伏が別の山伏を殺して死罪になり、その怨念が雨の夜に怪火となって現れ、木の上に泊まって人々を脅かしたという記述がある』。『高浜神社の社伝によれば、河内(現・大阪府東部)の豪族が祖神の火明命と天香山命を祀ったのが神社の起こりとされ、二魂坊や日光坊とは、この』二『柱の神を指しているとの説もある』とある。なお、以上に出る、山岡元隣の「古今百物語評判」のそれは、「第九 舟幽靈付(つけたり)丹波の姥が火、津の國仁光坊の事」のことで、ここに出るような恋文などは出ない短いものである。以下にそこだけを抜粋して示しておく。底本はやはり国書刊行会の江戸文庫所収のものを用い、やはり恣意的に正字化して示す。一部で読点を追加し、読みは一部に留めた。場所を現在の大阪府高槻市を主に流れる芥川とする以外は明らかに本篇と同話である。踊り字は正字化した。

   *

又、津の國仁光坊(にんくはばう)の火と云へるは、是れは先年、攝州芥河(あくたがは)のあたりに、何がしとかや云ふ代官あり。それへ往來する眞言僧に仁光坊といひて美僧ありしに、代官の女房ふかく心をかけ、さまざまくどきけれども、彼の僧同心せず。女房おもひけるは、かく同心せぬうへからは、我れ不義奉ることのかへり聞こえむもはかりがたし。然るうへは、此僧を讒言して、なき者にせんと思ひ、『仁光坊、われに心をかけ、いろいろ不義なる事申しかけたり』と告げれば、其代官、はなはだ立腹して、とかくの沙汰に及ばず、彼の僧を斬罪におこなふ。其時、仁光坊、大きにうらみ、此事はかやうかやうの事なるを、實否のせんさくもなく、かくうきめを見するからは、忽ち、おもひ知らせん、とて、目をいからし、齒をくひしばりて死にけるが、終に、其一類、のこりなく取り殺して後(のち)、今に至るまで、其僧のからだを埋(うづ)みし處の山ぎはより、火の丸かせ、出で候ふが、其火の中に法師の首ありありと見ゆると云へり。かやうの事、つねに十人なみにある事には侍らねども、たまたまはある道理にして、もろこしの書にもおりおり見え侍る」とかたられき。

   *

文中の「火の丸かせ」は「ひのまろかせ」で「火が玉のようにまるくなって」の謂いであろう。

「津の國嶋下郡(しましものこほり)」現在の大阪府三島郡及び茨木市の一部であるが、先のウィキペディアの記載を信ずるなら、大阪府茨木市星見町二階堂に比定出来る。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「螢飛(ほたるとぶ)見ゆ」蛍の灯が飛ぶ如くに見える。

「火に尾ありて、三、四尺、ひかれり」岩波版では「ひかれり」を「光れり」とするが、採れない。これは尾を「三、四尺」も「曳かれり」で、光りの尾を九十一~一メートル二十一センチほども自ずと曳いていると採るべきであろう。

「至りて近く遭ふ時は、坊主の首にて息吐く度(たび)に火焰出(いづ)る」このクロース・アップされる映像的処理は上手い。

「溝杭(みぞくい)」溝咋が正しい。現在の大阪府茨木市五十鈴町に溝咋神社がある。(グーグル・マップ・データ)。同社は社伝では崇神天皇の頃の創建され、五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと:綏靖(あんせい)天皇皇后で事代主の娘。安寧天皇の母とされる)の父親である三島溝咋耳命(みぞくいみみのみこと)を祀るが、本文では「拜領」「その閭(さと)の尹令(つかさ)し給ふ俗(ひと)を、名に負ひて」とか「中古の事」とか言っているから、後世に地名を姓としただけで、この祭神と「溝杭殿」とは関係性がないと考えた方がよい。

「芝(し)が眉宇(びう)」岩波文庫版の高田氏の注には、『唐の房琯が紫芝の眉を誉めた故事により、立派な眉をもつ顔。眉宇は眉だけでなく、仏者の尊顔の意がある』とあり、諸辞書の「芝眉(しび)」によれば、玄宗の命によって粛宗の宰相となっていた房琯(ぼうかん 六九七年~七六三年:直後に粛宗は粛清されるが、それを杜甫が弁護して杜甫も失職した)元徳秀(字(あざな)が紫芝)の眉を褒めて「見紫芝眉宇、使人名利之心都盡」と言ったという「新唐書」の「元德秀傳」に基づくとし、「すぐれた眉や顔つき」或いは他人を敬って言う「尊顔」の意とあるが、ここは比喩としての美顔ではなく、眉だけでもうとてつもなく美しかった絶世の美男子元紫芝でさえも真っ青の意である。

「溝杭殿の内」「内」は「ない」で内儀、「奥方・正妻」のこと。

「色ふかき情(なさけ)に」仁光坊に対する禁じられた色情が募って。

「取り上げもせで、返す」手にとることもせずに、受け取りを丁重に拒否して返した。普段の奥方の雰囲気や、使いの少女(「小童」とあるが、奥方附きであるから少女である。挿絵でもそう描かれてある)が渡そうとする際の様子(ごくごく内密にと言い含められたことから少女も察していたに違いない)などから仁光坊は鋭くその内容を察したのである。

「あまりに便(びん)なかりければ」前のように断固として受けとらないというのはあまりにも立場上から都合が悪く(「不便」=不憫)、失礼に思ったので。

 

「思ひたつたの」歌枕「龍田山」を掛ける定番の修辞技法で、長歌全体の架空の恋の旅路(これが本州内の東西南北をこれまた目まぐるしく巡る噴飯物)の名所を詠み込んだ物語の始まりとなる。以下の固有地名は殆んどが歌枕と採り得るから、以後、その指示は原則、省略する。部分的に既存の和歌由来のものが多いようだが、私は和歌嫌いであるから、私でも気がつく箇所のみに留めた。悪しからず。

「みわのやま」「三輪の山」に「花の」ような貴方を「見」を掛けていようし、また、三輪山の神木である大「杉」から次の「過ぎ」に繋げている。

「ならざかや」「奈良坂」(奈良と南山城の境をなす平城山(ならやま)を越える坂道。時代によって変遷した)に「過ぎ行くまま」に「なってしまうことなどありましょうか、いえ、そんなつれないことは我慢が出来ませぬ。だのに」「獨り寢」ているという恨みの意を掛けていよう。

「かすがのさと」「春日の里」。

「ひろさはの」「どうしようもなく過剰に(「さは」)に貴方への恋心が広がってしまい」に「廣澤の」で「池」を引き出す。ここから「水」絡みの縁語が波状的に配される。

「池のしみづに」「池」には原典では「いけ」とルビ。「池の淸水に」。

「身をはぢて」「恥ぢて」は前の「淸水」から、同ハ行音の一字下の「漬(ひ)ぢて」を禊(みそぎ)のパロディとして掛けていよう。

「おほ井川」「淚」が「多い」に「大井川」を掛け、「川」の縁語で「ふかき」と続く。

「ふかき恨みは」原典では「恨」には「うら」とルビ。

「あらし山」つれなさへの恨みが「あ」ることに「嵐山」を掛ける。

「たれまつ虫の」「誰れ待つ」に「松虫」を掛ける。

「ねをのみに」「ね」は松虫の「音(ね)」に焦がれる共寝の「寢(ね)」を掛ける。

「ふかくさの」「思いは」「深く」に地名の「深草」を掛ける。

「ひとりふしみの」「獨り臥し身」に「伏見」を掛ける。

「契」原典は「ちぎり」とルビ。

「はつせやま」「契り」が「果つ」に「初瀨山」を掛ける。

「おのへのかねの」「尾の上の鐘の」。長谷寺の鐘のこと。この前後、藤原定家の「新古今和歌集」に載る「年も經ぬ祈る契りは初瀨山尾上の鐘のよその夕暮れ」に基づく。恋の成就を祈りながら、それが外の人のためにのみ鳴って、自分のためには鳴(成)なって呉れないというので、この長歌にはもってこいの一首ではあろう。

「よそにのみ」「餘所にのみ」。前注参照。

「もりてことのは」「洩りて言の葉」。「言の葉」は和歌の意もあるから、この切なく「洩」らすところの恋情告白の長歌自体を暗示するか。

「みしま江に浮」「三嶋江に浮く」。原典では「江」に「え」、「浮」に「うく」とルビ。三島江は万葉以来の淀川河口の歌枕。「浮く」は「憂く」を掛ける。

「ながれあし」「流れ葭(あし)」。前の「憂く」に応じた鬱屈した感情から、「流れ」てしまって成就しないで「惡し」き状態の意を掛けるのであろう。

「ながらの橋の」「ながら」は「長良」川。

「中たえて」「仲絶えて」。前の抑鬱的気分が一つの頂点に達する。

「あふさかや」「逢坂や」。山城国と近江国の国境である逢坂関に「戀しき人に逢ふ」を掛ける。次注参照。

「しるもしらぬも」この前後は「小倉百人一首」にも出る蟬丸の「後撰和歌集」に載る「これやこの行くも歸るも別れては知るも知らぬも逢坂の關」に基づく。

「物うき旅を」原典は「旅」に「たひ」とルビ。「もの憂き旅を」。あなたがつれないので何とも言えずメランコリックになっている。

「しがのうら」に歌枕「滋賀の浦」に「して来ました」(憂鬱な状態が続いている)を掛ける。

「うらみて爰に」「爰」は「ここ」。前の「滋賀の浦」から「浦見て」を掛けて、本意の「恨みて」を出す。

「きのくにや」「紀の國や」。「き」は「爰」に、ここまで「來」てしまいました、を掛ける。

「人をまつほの」「まつほ」は兵庫県淡路島北端の松帆浦。「松」に「待つ」を掛ける(岩波文庫版は「松尾」と漢字表記する。松尾山は松帆浦の西にある。原典は「まつほ」と記するものの、確かに後が「やまおろし」「山颪」であるから、「松尾」と漢字表記する根拠は物理的には判らないではない。しかし、松尾の山から吹き降ろす山颪の風の厳しく辛いあなたを待つ松帆の浦と読めばよいのであって、これを「松尾」とするのはやはり私には採れない)。

「みくまのゝ」熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉(はやたま)大社・熊野那智大社)の総称「三熊野」。「み」に前の「夢にも君を」「見」るを掛けて言った。

「をとなし川に」「音無川に」。熊野本宮の近くで熊野川に合流する河川名。「音無(し)」は手紙の返事がないことを掛けるのであろう。後の「にあらねども」は「かの名川の名である音無川ではありませんが、ちっともお返事を下さらないという捩れた謂いであろう。

「みちのくの」「陸奥の」。ここは「小倉百人一首」にも出る河原左大臣の「古今和歌集」の「陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに亂れそめにしわれならなくに」に基づく。

「しのぶもぢ摺」原典では「摺」に「ずり」のルビ。現在の福島県福島市の中心市街地北部にある信夫山一帯に伝わっていた草による染色法「しのぶ摺」。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』を参照されたい。

「けふしら川の」「今日白河の」。

「せきぢまで」「關路まで」。

「こがねやま」「黃金山」。宮城県石巻市の金華山のことであろう。同島には黄金山(こがねやま)神社が鎮座する。「こがね」には類似音の恋「焦がれ」を掛けているのであろう。

「いつかあひづの」「何時か會津の」。「あひ」は「逢ひ」を掛ける。

「雲ならん」「雲」にはいつかは逢えると思えば「苦」にもなりません、の意を掛けるのであろう。

「たとひ別を」原典は「別」に「わかれ」とルビ。

「するがなる」「駿河なる」。「別」れを「する」と繫げて掛ける。

「ふじのけふりと」「富士の煙りと」。「竹取物語」の相思相愛の悲恋のエンディングを確信犯で暗示させている。

「なを浮嶋の」原典は「浮嶋」に「うきしま」とルビ。「浮嶋」は宮城県多賀城市浮島地区 で歌枕に詠まれた浮島の地。「なを」は「猶(なほ)」で歴史的仮名遣は誤りであるが、これは「浮き」「名を」を掛けるための確信犯と思われる。

「さよちどり」「小夜千鳥」。夜に鳴く千鳥。チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae(海岸・干潟・河川・湿原・草原などの水辺域を中心とした多様な環境に棲息する)を初めとした野辺や水辺に群れる小鳥の夜鳴きを指す。五音で使い勝手がよいから古くから好んで歌に詠み込まれた。

「いそのまくらに」「磯の枕に」。侘びしい旅寝で次で屋上屋。

「ふしわびて」「臥し侘びて」。

「おほゐ川」「大井川」に「淚」「多い」を掛けるのは既に使用済みであるが、「万葉集」の長歌ではよく見られる反復手法ではあるから下手糞なのではない。

「かはるふちせに」「變はる淵瀨に」。前の「川」の縁語で「淵」「瀨」を出して、以下で絶望的に「沈み」と続く。

「さよの中山」「小夜の中山」。箱根峠や鈴鹿峠と並ぶ東海道の三大難所として知られる静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)にある峠道。好んで歌枕に使われる最強の歌枕の一つで「佐夜の中山」とも書く。

「みかはなる」「三河なる」。前から「何しに君を」「見交は」してしまったのか、その結果としてかくも恋焦がれることとなってしまった、というのである。

「その八はしを」この前後は「伊勢物語」の第九段、知られた「東下り」の冒頭を下敷きとする。教師時代が懐かしいので、頭からソリッドに引いておく。

   *

むかし、男ありけり。そのをとこ、身を要(えう)なきものに思ひなして、

「京にはあらじ、あづまの方に住むべき國求めに。」

とて、行きけり。

 もとより友とする人ひとりふたりして、行(い)きけり。

 道知れる人もなくて、まどひ行きけり。

 三河の國、八橋(やつはし)といふ所にいたりぬ。

 そこを八橋といひけるは、水ゆく河(かは)の蜘蛛手(くもで)なれば、橋を八つ、渡せるによりてなむ、八橋といひける。

 その澤のほとりの木の蔭に下りゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。

 その澤に、かきつばた、いとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、

「『かきつばた』といふ五文字(いつもじ)を句の上にすゑて、旅の心をよめ。」

と言ひければ、よめる、

 

  から衣着つつなれにしつましあれば

    はるばる來ぬる旅をしぞ思ふ

 

とよめりければ、みな人、乾飯の上に淚おとして、ほとびにけり。

   *

ここは恨み節の痙攣的な部分で、「八橋を掛けて」でも私とどうして「契」ろうとしないのか?! 「人」=貴方故に、恋い焦がれる思いが「蜘蛛手」の如く、蛸や烏賊の触手の如く、竹の根の如くに病的に広がり、異常な「物」「思」ひに沈んでいるこの私を! というのである。

「さてもやつらき」「さてもや辛き」。副詞「さて」+係助詞「も」+係助詞「や」で「それでも~か」の意。「これだけ(思いを語っても)貴方はそれでもかくも私に辛く当たるとは!」。

「美濃おはり」原典では「美濃」に「みの」のルビ。「美濃尾張」に「身の終はり」を掛ける。ネガティヴな傾向がまた始まる。この長歌、躁鬱病の典型事例を記した精神科の教科書のようだ。

「なるみがた」「鳴海潟」。名古屋市緑区鳴海付近にあった海浜。

「はてはあはでの」「果ては阿波手の」。次の「もり」と繋がって「あはでの森」で尾張国にあった歌枕「阿波手(あわで)の森」。旧愛知県海部(あま)郡甚目寺(じもくじ)町、現在のあま市甚目寺の内。無論、「逢わで」を掛ける。

「しげき思を」「繁き思ひを」。「繁き」は前の「森」「草」の縁語。

「さらしなや」「更科や」。

「われ姨捨の」原典では「姨捨」に「おばすて」とルビ。

「やまおろし」「山颪」。前の「姨捨」山から展開。

「したふ心は」前の「颪」から「下」でそれが「慕(した)ふ」を引き出す。

「淺間のたけに」原典では「淺間」に「あさま」とルビ。

「たつけふり」「立つ烟り」。前の富士のそれと対句的リフレイン。

「ふかき思は」「深き思ひは」。

「あすか川」「飛鳥川」。この辺りは岩波文庫版の高田氏の注によるならば、「古今和歌集」の詠み人知らずの一首、「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀨になる」に

「なにはのことも」「難波の事も」。豊臣秀吉の辞世とされる(事実は辞世ではない)「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」に基づく。

「かいなきに」「甲斐なきに」。

「などかはみをも」「みを」は「身をも」に「澪」を掛け、次の「つく」で「澪標」と繋がる。

「つくすらん」「盡すらん」。

「うき人を」「憂き人」であるが、前の「澪標」から「浮き」、そして以下の「瀨」「川」「沈み」と縁語を形成する。

「こひせの川に」「戀瀨の川に」。茨城県を流れる恋瀬川は歌枕。

「なきためしをも」「無き例をも」。

「しもつけや」「下野や」。前の「をも」「しも」で限定の意で続く。

「室のやしまに」原典では「室」に「むろ」とルビ。「室の八嶋」。栃木県栃木市惣社町にある大神(おおみわ)神社を指すとされ、名の由来は境内にある池の八つの島を指すということになっているが、これはこじつけっぽい。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉 芭蕉』を参照されたい。

「すまの浦」「須磨の浦」。「すま」は「住む」を掛ける。「源氏物語」の「須磨」の帖を響かせる。

「ふかき思は」「深き思ひは」。

「ありあけの」「有明の」で次の「つきぬなみだを」(盡きぬ淚を)の「つき」(月)に繋がる。

「たゞたのめ」「只、賴め」。

「しめぢか原の」「標茅原の」。栃木市の北方にあった野原で歌枕。

「さしもぐさ」「指燒草」。漢字表記は岩波版に従った。艾(もぐさ:キク目キク科キク亜科ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)のこと。和歌では艾の名産地である伊吹・伊吹の山に続けて用うことが多いが、ここは同音の「さしも」(それほどにも)を掛ける。

「われ世中に」「我世の中に」。

「思ひつくばの」「思ひ筑波」。

「はげしきよはの」「激しき夜半の」。

「かりまくら」「假り枕」。

「かすかに君を」「幽かに君を」。次の「見馴れ」(一目見て馴れ親しんでしまった)と続く。

「みなれ川」「見馴川」。埼玉県北部を流れる小山川(こやまがわ)の旧称。慈円の私家集「拾玉集(しゅうぎょくしゅう)」に「五月雨(さみだれ)の日を經るままに水馴川(みなれがは)水馴し瀨々も面(おも)變りつつ」を暗示するか。但し、この「水馴川」は奈良県にある水沢(みなれ)川である。

「こゝをこしぢの」「此處を越路の」。

「たひの空」「たひ」は原典のママ。和歌だから清音は問題ない。「旅の空」。

「ものうきに」「物憂きに」。

「すみだ川」「隅田川」。「憂き世」に「住み」と繫げる。

「我思ふ人は」「我」は「わが」。この前後は「有やなしやと」とあとの「みやこどり」から、やはり「伊勢物語」(荻田は本書で好んでインスパイアしている)の第九段「東下り」の人口に膾炙した以下のコーダに基づく。

   *

なほ、行き行きて、武藏野の國と下つ總(ふさ)の國との中に、いと大きなる河あり。それを隅田河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、

「限りなく遠くも來にけるかな。」

とわびあへるに、渡守(わたしもり)、

「はや、舟に乘れ、日も暮れぬ。」

と言ふに、乘りて渡らむとするに、みな人、ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折りしも、白き鳥の、嘴(はし)と脚あし)と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上(うへ)に遊びつつ、魚を食(く)ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人、見知らず。渡守に問ひければ、

「これなむ都鳥。」

と言ふを聞きて、

 

  名にし負はばいざこと問はむ都鳥

    わが思ふ人はありやなしやと

 

とよめりければ、舟、こぞりて、泣きにけり。

   *

「とへどこたへぬ」「問へど答へぬ」。「東下り」の渡し守の応じたのに反して、恋文への返事がないことの恨みへと転ずる。

「うたて昔の」「うたて」は副詞ではなく、形容詞語幹の用法による返事をくれぬことへの歎きの表現であろう。「昔の」「事をだに」は古えの渡し守でさえ応えて呉れたのに、という恨みであろう。

「つゐにいはでの」「遂に岩手の」。「遂に言わで」(返事を呉れずに)。後の「もりなれや」「もり」は前との続きならば歌枕である「岩手の關」(後の「尿前の関」)の関「守」で、「伊勢物語」の渡し「守」に掛けてあると読む。岩波文庫は「もり」を「森」とする。これは尿前の関の西方の関所番所のあった森である。

「吹飯の浦の」原典では「吹飯」に「ふけゐ」、「浦」に「うら」のルビ。「吹飯の浦」は「ふけいのうら」が一般的。現在の大阪府泉南郡岬町(みさきちょう)深日(ふけ)の海岸とされる。古来より「風が吹く」意や「夜が更ける」の意を掛けて和歌に詠まれることが多い歌枕。

「ゆふなみに」「夕波に」。

「ぬるゝたもとを」「濡るる袂を」。

「かゞみやま」「鏡山」。滋賀県南部の野洲(やす)市と蒲生(がもう)郡竜王町との境にある山で歌枕であるが、私はここは佐賀県唐津市にあるそれではないかと思う。大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が加羅(から)に船出する際、恋人の松浦佐用姫(まつらさよひめ)がこの山に登って領巾(ひれ)を振って別れを惜しみ、悲しみのあまり、石と化したとする伝承を持つ、別名領巾振山(ひれふるやま)である。自身の恋情のまことを語るにはここの方がしっくりくるからである。

「なれもなは」「あなたもなって呉れるならば」の「汝(なれ)もなば」か?

「くにくに所の」「國國所の」。

「名とり川」「名取川」。宮城県と山形県の県境附近に源を発し、仙台市の南東で広瀬川と合流して太平洋に注ぐ歌枕。但し、ここはこの長歌全体の総括で、「國國」の名「所の」歌枕の「名」を「取り」入れて詠み込んだことを指していよう。

「ちいろの濱の」「千尋の濱の」。見渡す限り広い海浜という一般名詞ながら、概ね藤原敦忠の「伊勢の海のちひろの濱に拾ふとも今は何てふ甲斐かあるべき」が著名。この一首は詞書に「西四条の齋宮(いつきのみや)まだみこにものし給ひし時、心ざしありておもふ事侍りけるあひだに、斎宮にさだまりたまひにければ、そのあくるあしたにさか木の枝にさしてさしおかせ侍りける」という悲恋の思いを込めた一首であるからこの長歌のコーダに暗示させるには相応しいと私は思う。

「まさごより」「眞砂より」。「眞砂」は前の「濱」の縁語。

「つくしがてなる」「筑紫がてなる」。「濱」の「眞砂」は「盡しがてなる」、容易には数え尽くすことが出来ない、私の貴方への思いも「ことのは」(言の葉)では尽くすことはないほど深い、というニュアンスであろう。

「あはれともいさ」ここは「玉葉和歌集」に載る西行の「あはれとも見る人あらば思はなむ月のおもてにやどす心を」をインスパイアした。

「古言(ふるごと)」古歌や古文に託した使い古された詞。

「などてか心強くいます」反語。「私の誠心の思いを無視して、どうしてそんなに信心堅固に平然としておられることが出来るのでしょう? あり得ませんわ!」というキョウレツな決め文句である。

「紅葉重(がさ)ね」本来は襲(かさね)の色目(いろめ)の名で、表は黄、裏は蘇芳である。そのように染色した和紙なんだろうか? 識者の御教授を乞う。

「薄樣(うすやう)」これは紙の質を言う。薄手の鳥の子紙・雁皮紙(がんぴし)であるが、広く薄手の和紙をも指す 

「錦木(にしきゞ)も千束(ちつか)になり」岩波文庫版で高田氏は、『男が女に逢おうとする時、女の家の門にこれを立て、女に応ずる心があれば取り入れ、取り入れたくなければ、男が更に加えて、千束を限りとする風習があった。「錦木は千束になりぬ今こそは人に知られぬ閨の内見め」(謡曲『錦木』)』と注しておられる。錦木はニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属ニシキギ Euonymus alatus。この習俗は東北のものだったらしい。風習及びニシキギの詳細は、個人ブログ「花々のよもやま話」のこちらに詳しい。必読! おう! 其の最後には錦木の花言葉が! 「あなたの定め」「あなたの魅力を心に刻む」「危険な遊び」!!!

「濱千鳥のふみゆく跡の汐干(しほひ)の磯に、隱れがたくぞ侍る」「然れども、此僧、水莖(みづぐき)の岡(をか)も踏まず、堅くも」ここは縁語のラッシュ・アワー。「濱(千鳥)」「汐干」「磯」「がた(潟)」「水」「岡」(水域に対する「陸(おか)」)「堅(潟)」。「水莖(みづぐき)」は毛筆で書いた文字のことで、転じて手紙のこと。

「生憎(あやに)く」感動詞「あや」に形容詞「憎し」語幹が付いた語。「生」は当て字。ここはその形容動詞の語幹で、「予期に反して思いどおりにならないさま・不本意であるさま」「意に染まず、意地悪く感じられるさま」の意。

「しかと究(きは)めざるぞ」仁光坊を糺してしっかりと確認をとらなかったのは。

「さがなき」手に負えない性質(たち)の悪い。

「讒(ざん)」讒言。

「よし」副詞。仮初めにも。

「片口(かたくち)を聞き」一方の主張だけを鵜呑みにし。

「耻(はぢ)」この場合は、仁光坊の冤罪による恥辱。

「然るべき報ひか」彼は僧であるから、これも私の前世の因果なのか? と一応は疑問を呈しているのであるが、事実はそう思っていない。そう思っていないからこそ「無實の罪を得る、無念にこそ侍れ」と叫び、遂には正法(しょうぼう)を敢然と放棄し、七代まで祟る天魔へと身を堕したのである。

「今の一念、望みたらば」今の私のこの一途の怨念の望みを満足に遂げんとするためならば。

「仕合(しあはせ)」顛末。始末。

「耻の外(ほか)までせり」岩波文庫版の高田氏の注には、『男の命を取るまで』とある。

「鞍馬の安珎(あんちん)」変形の多い道成寺伝説(安珍・清姫伝説)の中で、「元亨釈書」に載るそれでは鞍馬寺の僧安珍とする(そこでは清姫も寡婦という設定である)。因みに私は道成寺伝承のフリークで、サイトに「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chroniclという特設サイトを持っている。

「壽量品(じゆりやうぼん)」「法華經」二十八品(ぽん)中の第十六「如來壽量品」のこと。全体は釈迦が久遠の昔から未来永劫に亙って存在する仏として描かれたものであるが、その中に竜女の即身成仏の話が語られている。

「𢌞文(くはいぶん)」本来は順序を逆にして読むんでもちゃんとした文章となるもので、それなら、後に注する「蘇若蘭」の故事と符合する。そのような凝った恋文ととってよいだろうが、ここまであの長ったらしい退屈な長歌を読まされると、或いはこの長歌のように、同じような内容、同じような思いを執拗に記した恋文のことじゃあねえの? などと邪推したくもなった。

「錦字(きんじ)の詩」見た目ばかりが絢爛に粉飾された中身の軽く薄い詩歌。荻田さん、これってちょっと鏡返ししたくなりますけど?

「征夫(せいふ)」出征した人の意であるが、ここは次に記す遠い地に赴任或いは辺塞に流刑となった夫の意。

「託(かこ)ちし」以下の私が示す話には出ないが、夫が妾を寵愛したことを嫉んで不平を言ったことを指す。岩波文庫版の高田氏の注にはそうあり(次注参照)、ネットで調べると、そうした事実を記し、夫は転勤する際に妾を連れて、彼女を置き去りにしたという前半を記すものが確かにある(やはり次注を参照)。

「蘇若蘭(そじやくらん)」サイト詩詞世界 二千四百首詳註 碇豊長の漢詩李白「啼」の「秦川女」の注に『蘇蕙』(そけい)『(蘇若蘭)のこと。夫を思う妻の典型。彼女の出身地が秦川によるための言い方[やぶちゃん注:ここは李白の当該詩の中で彼女を「秦川女」としていることを指す。]。回文の錦を織った妻のことで竇滔』(とうとう)『の妻の蘇蕙(蘇若蘭)のこと』で、これは「晋書」の「列傳第六十六」の「列女」にある「竇滔妻蘇氏」に出る『竇滔の妻の蘇氏のこと。蘇氏は夫・竇滔が罪を得て流沙に流されたのを偲び、錦を織り、その中に回文(順序を逆に読めば、別の意味になる文)を織り込んで送った故事に基づく』とある。岩波文庫版の高田氏の注では、彼女が『夫が妾を寵することを嫉んだところ、置き去りにされたので、五采文錦を織って、詩二百余首を付して夫に贈り、迎えられた』とする。ウィキの「ケイによれば、蘇蕙(そけい 生没年未詳)は『五胡十六国時代の中国の女性で詩人』。『始平郡の人。字は若蘭。若くして文才あり。苻堅の治めていた時代の前秦にいた竇滔に嫁ぐ。夫の滔が秦州刺史となり流沙に赴任することになるが、別に妾を連れて行き』、『正妻の蕙を伴わなかった。蕙は思慕の念に耐えきれず、錦を織り、「廻文旋図の詩」をその中に織りこんで贈った。その文は順に読んでも逆に読んでも平仄や韻字の法則にかない、循環させて読むことができた。およそ』八百四十『字でできたその文は絢爛多彩で、はなはだ凄艶であったという。現存はしていないが、これが後に流行した廻文の始まりであるという。その錦に織られた文を読んで感動した夫は妾を関中に送り返し、蘇蕙を呼び寄せたともいう』とある。嫉妬という前振りはこのいまわしい色情女と親和性はあるものの、後の「如何(いか)ばかりか胸を刺すらん」というのは、流刑となった夫に贈る錦を織った際、その中にこっそりと(罪人ゆえに大っぴらに「胸」中に思いを込めた手紙は添えられないのであろう)「刺」し入れた回文の詩篇を潜ませた、というストーリーの方が、よりしっくりくる。このいやらしい女が蘇若蘭の誠心のエピソードを知ったら、それは蘇若蘭を、ではなく、かの溝杭の残酷極まりない正妻の「胸」を「刺」すように打つことであろう、という謂いではあるまいか? いやいや、人非人の彼女は、ただほくそ笑むだけかも知れないが、ね。

「陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の女(むすめ)は、箱王(はこわう)といふ兒(ちご)に錦哥(にしきうた)を書けり」「筥王」は曾我兄弟の仇討で知られた弟の曾我時致(ときむね 承安四(一一七四)年~建久四(一一九三)年)の幼名であるが、彼に「陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の女(むすめ)」が恋文を書いたというエピソードは不学にして知らない。識者の御教授を乞う。

「唐土(もろこし)の人」蘇若蘭及びそのような中国の貞女。

「大和の袖」信夫の里の娘及びそのような本邦の可憐純情な娘。

「富士の煙(けふ)りの空に消えて、行方(ゆくゑ)なき思ひのほど」ここは明らかに「竹取物語」のエンディングを確信犯でインスパイア。]

« 宿直草卷五 第二 戰場の跡、火燃ゆる事 | トップページ | 宿直草卷五 第四 曾我の幽靈の事 »