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« 和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 衣魚(シミ) | トップページ | 宿直草卷三 第十二 幽靈、讀經に浮かびし事 »

2017/07/11

宿直草卷三 第十一 幽靈、僞りし男を睨殺す事

 

  第十一 幽靈、僞りし男を睨(にらみ)殺す事

 

 津の國茨木(いばらき)に、木綿(もめん)を商ひて、年(とし)に二度づゝ越前へ下る人あり。

 其問屋(といや)にやさしき婢(はしたもの)有(あり)しを、年を重ねて愛せしが、なべて男の誑(たら)す癖かは、常しみじみと語るは、

「我、未だ定まりし妻もなし。遂には貰ひ行(ゆき)て、長くも添ひ果てね。」

など、まことしやかに戲(たは)れけり。

 下女(ぎぢよ)も、末賴もしく思ひければ、いとゞもてはやしつゝ語る。はかなくぞ侍る。男も時分なれば、また、津の國に歸る。

 かくて茨木には、家もあり妻もありて、其年もかい暮れて、正保(しやうほ)の春も三つは重ねし。

 睦月(むつき)に若(わか)ゆく明日(あした)を壽(ことぶき)て、白馬(あをむま)の節(せち)の明(あ)けの日、友どちを呼びて、方引(はうびき)などかゝづらふ夜(よ)、夜食、似あはしく調(とゝの)へ、田樂(でんがく)刺し並べ、火鉢に寄り居て、座したるまゝに炙(あぶ)るに、時ならぬ蛙(かはづ)、火のもとに下る。

「さても今、この虫の來たるべきにあらず。」

とて、不思議の思ひをなすに、初春の事なれば、何(いづ)れも祝言(いはひこと)にてまぎらかす。其座に輕はづみの病ひ無し有(あり)て云ふやう、

「そちが身體(しんだい)かへる相(さう)ぞ。」

と秀句と心得、後先(あとさき)も無ふ云ふ。おかしきにまかせ、滿座、どつと笑ふ。又、苦(にが)み返りて、

「あは。」

と思ふ人もありけり。いづれ、亭主は不興氣(ふきようげ)にして、火箸を燒(やき)すまし、蛙(かはづ)の眞甲(まつこう)に當てければ、手足、びりびりとなりて、死す。

「無用の人、交(まじ)り召されて、よき態(なり)かな。」

とて、取りて捨(す)てけり。

 扨、正月も過ぎ、如月(きさらぎ)中(ちう)の旬(じゆん)にもなり、越路(こしぢ)の雪も斑消(むらぎ)えて、道も通ひ易(やす)ければ、また、思ひ立(たち)て越前へ下る。問屋(といや)の夫婦、

「御下り、めでたし。」

など云ひて馳走するに、名染(なじみ)し下女は見えず。外(ほか)へ出(いで)けるにこそと、人やりならず戀しきながらに臥す。

 しかるに秋田の者にて、商ひ友だち、

「申べきやうもなき、御力落(おちからおと)し。」

と云ふ。茨木の者、聞きて、

「何事ぞ。」

と云ふ。

「いや、これの下女が事よ。」

と。

「扨は。まかり候か。」

と云へば、

「まだき知り給はぬや。」

と云ふ。

「さても便(びん)なや。」

と云ふに、翌(あ)くる日、宿(やど)の内、語りて云ふやう、

「正月八日の宵、茶を立てさせて云やう、

『もはや、茨木の人も、やがて如月(きさらぎ)の比、下(くだ)り給ふべきぞ。待遠(まちどを)に思ひそ。』

なんど興ずれば、

『さこそ思へ。』

とて打笑ひしが、少しまどろむと見るほどに、

『かなしや。』

とて、倒(たを)る。其樣、蛙(かはづ)など蹈み殺せるがごとく、手足伸してびりびりと震ひて、つゐまかり候。病みもせず、あまり殘り多かりければ、いろいろとせしかども、長く果てゝ、速中風(そくちうぶ)といふものにかと申(まうし)合ひしが、髮剃りて沐浴せしに、頂上(ちやうじやう)に燒鐵(やきがね)當たりし樣(やう)の痕(あと)有(あり)。一入(ひとしほ)、惜しみ可愛(かは)ゆくさふらへ。それ樣(さま)も、なづさふ者なれば、不憫(ふびん)に思しさふらはん。」

と語る。

 『扨は例の蛙(かはづ)は、彼(かれ)が魂(たましゐ)なり』と、慘(むご)く哀れなる事、腸(はらわた)を斷つ。銀(しろがね)十錢、寺へ送り、用整へて、茨木へ歸る。

 その菊月に心地惡しうして臥(ふす)。

 彼(か)の者の家は、表は町、裏は畑(はたけ)にて賊を防ぐ塀もなく、風をとゞむる袖垣もなし。眞屋四阿屋(まやあづまや)のありさまに飄々(ひようひよう)たるあばら屋なり。裏に窓有て、引くべき戸もなく、網代(あじろ)組みたる如く、割り竹やりすごして、とかくしつらひ、薄紙にて貼り綴(つゞ)りたる障子なり。

 ある夜、かの窓の障子に、光りの影、うつらふ。

 男、事ありげに、脇差取(とり)て、かの窓にむかふ。側に臥(ふし)たる妻も、男の氣色(けしき)たゞならざれば、伴(とも)に起(おき)て、壁の破(や)れ間(ま)より見るに、二十(はたち)ばかりの女、白き裝束(さうぞく)に亂れ髮にて、苦しげに立ち、鐵漿(かね)黑き口より、息吐くたびに、火炎、出でたり。此光りにぞ窓もうつらふて見えし。

 初(はじめ)の程は畑(はたけ)の中に有しが、漸々(ぜんぜん)に近づき、やうやう二間ほどになりて、我(わが)男の方(かた)を睨みつけてありしかば、怖ろしさ云ふばかりなし。男の側に寄り、

「あれ何者ぞ。」

と云へど、男、返事もせず。たゞ嘆息(ためいき)ばかりになりて、つゐ俯(うつ)ぶしに倒る。

 隣りなど起こして、呼び生(い)け、藥など與ふれど、その甲斐なく、むなしくなる。

 あゝ、睨み殺されしなり。

 妻は越前の事は露(つゆ)ばかりも知らず。後に友だちの語りしにぞ、思ひ合はせしなり。

 如何に愚かの女なりとも、口のよき男、賢顏(かしこがほ)に誑(たら)すべからず。正直に思ひ入る一念、さりとは、恐ろし。繫念無量劫(けねんむりやうこう)、いかゞ贖(あがな)はんや。

 惣(さう)じて、其身は覺えねども、心の行くところに、形、現(あら)はれ、其處(そこ)にて受けし害(がい)の、又、此方(こなた)の本(ほん)の身に覺ゆる事、まゝあり。聞かずや如何に、賀茂の祭りに車爭(あらそ)ふ事ありて、異人(ことひと)を憎しと思(おんぼ)し初(そ)め、後妻嫉(うはなりねた)みの事侍りしに、餘所(よそ)にて焚(た)ける護摩(ごま)の煙(けふり)、花の袂に通ひけんも、其おほん身には知ろし召さずとかや。

 『形に常(つね)の主(あるじ)なく、魂(たましゐ)に常の家(いへ)なし』と、仁王(にんわう)なりし經(きやう)に侍る。命根(めいこん)斷(たゝ)ぬうちなりとも、魂(たましゐ)、ゆかば、暫時の形(かたち)は、欲(ほつ)する思(おもひ)より求めてまし。身は越前に有(あり)ながら、魂(たましゐ)は蛙(かはづ)となる。さらば蛙(かはづ)よと思へど、越前の身に疵(きず)ありて、死(しゝ)たり。此話にぞ知られ侍る。

 あゝ、この袖に限らず、なべての女に螽(いなご)の黑燒嚥(の)ませてしがな。貴船(きぶね)の道も露(つゆ)さだかに置き得(え)、寺の鐘の湯とならずもあらなん。猶、辻に聞く女夫諍(めおといさか)ひよ、痴話(ぢわ)か眞實(しんじつ)か、聞きにくきはあらじ。

 

[やぶちゃん注:「津の國茨木(いばらき)」現在の大阪府茨木市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「いとゞもてはやしつゝ語る」岩波文庫版の高田氏の注では、この「語る」について、『「契る」と同意』とある。

「正保(しやうほ)の春も三つは重ねし」正保は一六四五年から一六四八年まで。正保元年は寛永二十一年十二月十六日(グレゴリオ暦一六四五年一月十三日)に改元されており、事実上の正保元年は十五日しかない。ここは「春も三つは重ねし」とあるから、陰暦上も感覚からも正保二年から数えて三年で、話柄内の主たる時制は正保四年一月から同年九月頃と考えてよい。細かな月や日付までリアルに示されるのは、本書の中ではかなりの特異点である。徳川家光の治世。

「白馬(あをむま)の節(せち)の明(あ)けの日」正保四年一月八日(グレゴリオ暦二月十二日)。ここに出る白馬(あおうま)の節会(せちえ)は、この節会は重要な宮中行事の一つで、旧暦一月七日、天皇が豊楽院(後に紫宸殿)に出御、邪気を祓うとされた用意された白馬を庭に牽き出して群臣らと宴を催した。ウィキの「白馬の節会」によれば、『白馬節会の由来は、この白馬節会が始まった当初、中国の故事に従い、ほかの馬よりも青みをおびた黒馬(「アオ」と呼ばれる)が行事で使用されていたが、醍醐天皇のころになると白馬または葦毛の馬が行事に使用されるようになり、読み方のみ』、『そのまま受け継がれたため』に『「白馬(あおうま)」となったとされる』とある。民間の生活節季とは無縁なものであり、ここもたまたまその日の翌日に当たったと言っているに過ぎず、この節会自体と話柄の関連性はないと思われる。ただ、「白馬の節会」の挙行によって現人神たる天皇による邪気払いが行われたのを受けてから、やおら、その翌日に、民草の商人(あきんど)として新年の公的な仲間内の宴会を開く権利が与えられたという認識はあるのかも知れぬ。荻田は少なくともそのようなものとして叙述しているのであろう。そんなことはどうでもいいことだ。この日付と時刻が、後の越前での下女の奇怪な変事と完全にシンクロしていることが大切なのだ。

「方引」「寶引」が一般的。所謂、正月に行われた現在の「福引き」の一種。室町時代から江戸時代にかけて正月に行われたもので、形態としては数本の細い繩を束ねておき、その中の孰れかに橙(だいだい)の果実或いは金銭などが結い附けてあって、それを引き当てた者を勝ちとしたもの。平凡社「世界大百科事典」によると、この原型は天平二(七三〇)年に聖武天皇が正月の酒宴を開催した際、諸臣に以上のような形式で、中に仁・義・礼・智・信の一文字を記した短冊をセットしておき、それを抜かせて引き当てた者それぞれに絁(あしぎぬ:「悪(あ)し絹」の意。太い糸で織った粗末な絹布。太絹)・糸・真綿・布・常布を下賜した余興に由来するとされる。本話よりも後のことになるが、元禄年間(一六八八年~一七〇四年)には繩の先に品物を結わえて引かせ、それを引き当てた者に賞品として与える遊戯が試みられるようになり、寛延・宝暦年間(一七四八年~一七六四年)になると、「辻宝引き」と称して街頭で百本の細繩を用意し、その内の数十本に玩具を結びつけ、「さござい、さござい」と囃しながら、子どもらを客にして引かせる大道商人が現われたとある。大人向けでは金銭を出す賭博も現れたらしいが、幕府によって禁止されている。

「病ひ無し」岩波文庫版の高田氏の注に『思い悩むことなどが無いために病気をしないおうな』阿呆、とある。

「そちが身體(しんだい)かへる相(さう)ぞ。」主人公の対して「おまはんの身代が蛙(かわず)、かえる、変わる、ちゅう、予兆やで!」と「秀句」=洒落れて言ったのである。「心得」はなかなか上手い洒落と思うてからに、の意。しかし「変わる」のは悪い方かも知れず、だから筆者は「後先(あとさき)も無ふ」軽々しく言い放って(言上げして)しまったと言い添え、「おかしきにまかせ」て「滿座」は概ね、確かに「どつと笑」ったのだが、中には不吉な方のそれを強く感じて、「苦(にが)み返りて」(すっかり苦虫をかみつぶしたように不快そうな顔をしては、「あは」(驚きを示す感動詞。「あちゃあ!」「なんてまあ!」)「と思ふ人もあ」ったのである。如何にも視聴覚的で映像的なリアルな描写である。実は「亭主」もこの〈抜け作〉の不用意な〈言上げ〉に凶兆を敏感に感じてしまい(それは正しかったのだが)、だからこそ「不興氣(ふきようげ)に」なって、遂には逃がしてやればよい蛙を、無惨にも熱した火箸を以って焼き殺してしまうのである。

「無用の人、交(まじ)り召されて、よき態(なり)かな。」「この時節、この新春の言祝ぎの祝いの席に、ここに来るべきでない無用のものが、交って呼ばれたなさった、さればこそ、それ相応のお仕置きをした、いい様(ざま)で昇天しよったがな。」。

「如月(きさらぎ)中(ちう)の旬(じゆん)」正保四年二月は小の月で、同十五日はグレゴリオ暦で三月二十一日

「(ほか)へ出(いで)けるにこそ」ここの下女を辞めて他へ移ってしまったものか? と思っているのであろう。「たまたま、今は用字で外に出ているだろうか?」という意味ではあるまい。彼女だけでなく問屋夫婦の贔屓でもある商人が来た(到着時機も恐らくは分っていた)のであるから、外出の用を問う実に夫婦が下女に命ずる筈はまずなく、そもそも下女が、この季節の、この有意に遅い時間(この馳走は夜と読める)に外向きの用件で出かけるということ自体があり得ない。問屋夫婦がこんな接待をしながら、しかも何も言わないのは、何か重大な問題があってお払い箱にしたか、結婚して出たかぐらいしか私でも思い浮かばず、そのどちらの場合も問屋夫婦が下女と彼のただならぬ仲を知っている以上、口には出しにくいことだからであり、彼からも、だとするならば、聴くことが憚られるからである。

「人やりならず」ここは「自ずと」(自発)の意であろう。

「さても便(びん)なや」「さても! なんと!……ああっ! 不憫なことやなぁ!」。

「待遠(まちどを)に思ひそ」「そ」が不審。禁止の終助詞の単独使用(これはしばしば行われる)で、「待ち遠しい待ち遠しいと思い詰めてはいけないよ、あまりに思い詰め過ぎると、気疲れして体によくないし、そもそもが、後、一月ばかり、あっという間だからね。」の謂いでとっておく。これなら、後の「興ず」る(ちょっとからかった)という表現ともしっくりくるからである。

「其樣、蛙(かはづ)など蹈み殺せるがごとく、手足伸してびりびりと震ひて、つゐまかり候。病みもせず、あまり殘り多かりければ、いろいろとせしかども、長く果てゝ、速中風(そくちうぶ)といふものにかと申(まうし)合ひし」ここも逐語的に訳そうとすると、どうも不自然になる難しい台詞である。「つゐ」は「つひ」で発症から短かい期間で亡くなったと読め、それは後の「病みもせず」が「長患いもせずに」というニュアンスと親和的である。或いはこれは「それまで、この下女が病気らしい病気をしたことがないとても健康であった」ということを言っているのかも知れぬ。「あまり殘り多かりければ、いろいろとせしかども」というのは激しい全身痙攣を伴う発作から直ぐに臨終となったのではなく、短い期間ではあったが、医者や薬で手厚く看護を尽くしてやったことを言っているととるなら、それほど時間的な不審はない。しかし問題は最後の「あまりに長く果てゝ」で、これはこのままでは訳せない。私は勝手に「あまりに長くは果て」(ちっとも生き長らえることがなくあっという間に亡くなってしまったので)、或いは「あまりに(長くにはあらで)短くして果てて」の意で解釈している。私の解釈に致命的な誤りがある場合は、御指摘戴きたい。

「速中風(そくちうぶ)」岩波文庫版の高田氏の注に『脳溢血』とある。

「それ樣(さま)」貴方様(あなたさま)。

「なづさふ」馴れ親しむ。懐(なつ)く。

「菊月」旧暦九月(長月)の異名。」正保四年九月は大の月で、同朔日はグレゴリオ暦九月二十八日、同晦日三十日はグレゴリオ暦十月二十七日である。

「眞屋四阿屋(まやあづまや)」「眞屋」は「両下」とも書き、「ま」は接頭語で「や」は「建物」の意で、棟の前後二方へ軒を葺き下ろした切妻造りのこと。後の「四阿屋」は単なる当て字で本来の「東国風の鄙びた家」の意であろう。岩波文庫版の高田氏の注には、『東国風の、屋根を前後二方にふきおろして作った粗末な家屋』とある。ちょっと意想外なのは、この家もあって妻もいるとしたチャラ男(お)の住まいが、大坂商人でありながら、かなり激しいあばら家らしいことである。私は少なくともそう感じた。そう感じることによって、実はこのチャラ男をどうしても完全に憎めないことを告白しておく。

「やりすごして」岩波文庫版の高田氏の注に『交叉させて』とある。

「とかくしつらひ」不十分な状態であれこれと応急的に設け。

「鐵漿(かね)」お歯黒。

「二間」三メートル六十四センチ弱。

「男の側に寄り」「あれ何者ぞ」主語と話者は主人公の妻。

「つゐ俯(うつ)ぶしに倒る」「隣りなど起こして、呼び生(い)け、藥など與ふれど、その甲斐なく、むなしくなる」「睨み殺されしなり」これは女(及びその魂の変じた蛙)の死に方とミミクリーを成りし、その死に到る様態も相似的である。蛙に火箸を押しつけた際の主人公の視線は蛙の目を睨んでいた。この共通した強い親和性は一種の共感呪術的構造を持っていることを示す。因みに、西洋の黒魔術やブードゥー教の呪いでは蛙は憑代のような呪具動物としてかなりメジャーであり、生きたまま目蓋を縫い合わされたりして使用される。

「繫念無量劫(けねんむりやうこう)」岩波文庫版の高田氏の注に『仏語。一つの事に執着した一念は、限りない罪業にひとしい、の意』とある。

「賀茂の祭りに車爭(あらそ)ふ事ありて、異人(ことひと)を憎しと思(おんぼ)し初(そ)め、後妻嫉(うはなりねた)みの事侍りしに、餘所(よそ)にて焚(た)ける護摩(ごま)の煙(けふり)、花の袂に通ひけんも、其おほん身には知ろし召さずとかや」言わずもがな、私の偏愛する「源氏物語」の「葵」の帖の葵上に六条御息所の生霊が憑依するシークエンス及びそこに続く、それを知らずにいる当の御息所が、体から悪霊退散に用いる護摩の臭いがしてくるという圧巻の場面である。

「『形に常(つね)の主(あるじ)なく、魂(たましゐ)に常の家(いへ)なし』と、仁王(にんわう)なりし經(きやう)に侍る」「仁王經」(にんのうきょう)は大乗仏典の一つとされ、「仁王般若經」とも称する。内容は仏教に於ける国王の在り方について述べたもので、ウィキの「仁王によれば、『釈尊が舎衛国の波斯匿王との問答形式によって説かれた教典で、六波羅蜜のうちの般若波羅蜜を受持し講説することで、災難を滅除し国家が安泰となる現存するもの般若経典としては異質の内容を含んでいる』は二種で、一つは鳩摩羅什(くまらじゅう 三四四年~四一三年)訳になるとされる「仁王般若波羅蜜経」で、今一つは唐の不空訳のそれであるが、これらは現在、孰れも偽経と考えられている。しかし、本邦では『古くから伝わり、『仁王般若波羅蜜経』は、『法華経』・『金光明経(金光明最勝王経)』とともに護国三部経のひとつに数えられ、鎮護国家のために仁王経を講ずる法会(仁王会=におうえ)や不動明王を中心とした仁王五方曼荼羅(仁王経曼荼羅ともいう)を本尊として修される仁王経法が行われた』。『仁王会は宮中や国分寺などの大寺で』百もの『高座を設けて行われ、主に奈良時代から平安時代にかけて盛行し、「百座会」とも称され』、『地方の武士や僧侶が地域・村落の鎮守のために仁王講も行われるなど、諸国に広まった。中世』(十一『世紀以降)に入ると天災や虫害・疫病や飢饉を攘災するための公共的性格とともに息災延命・安穏福寿・子孫繁栄などを祈願する民間儀礼の要素が強い仁王会・仁王講も増加することになる。鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府の寺社興行政策の遂行の影響を受けて、当初は国家や荘園の仁王会・仁王講における負担に対して抵抗の姿勢を見せていた地頭などの御家人層が地域の寺社を舞台とした仁王講の積極的な担い手となった。日蓮の『立正安国論』の中においても「百座百講の儀」という文言を用いて仁王会・仁王講の流行が批判の対象とされている。一方、国家における一代一度大仁王会は両統迭立の混乱もあり、後深草天皇の時を最後に中絶するが、この頃には各地で開かれた仁王会・仁王講が公共的呪術儀礼としての役目を代替することとなっていた』とある。但し、本記載は荻田が実際の「仁王經」に拠ったものではなく、また、これを読んだ当時の庶民も意想外に腑に落ちた記載であったのではないかと私は思う。何故ならば、例えば、室町時代に成立して以後、本邦に於いて永く庶民の国語辞典的役割を成すこととなった節用集の一つである寛永一九(一六四二)年本「運歩色葉集」の「いろは歌」の解説中に(下線太字やぶちゃん)、

   *

色ハ匂卜散ヌルヲ花ハ色々ニ咲トモ程モナク散ヲ盛者必衰世間ノ無常ニ譬タリ万ツ皆假染ノ宿アタナル事夢幻ノ如シ誰カ常ニアルへキ故ニ我代誰ソ常ナラン仁王經云神ハ無常ノ主形ハ無常ノ家云々主ハ形ヲ家トス形神共ニアタニシテ光ノ露ニ宿レルカ露モ落宿レル光モ失カ如シ迷ノ境界ヲ有爲ノ奥山ニ喩也譬ハ道ニ迷タル者酒ニ醉タル者奥山ノ遙ナルニ入可出方モ不知登ㇾ峰下ㇾ谷如シ自無始本覺眞如都ヲ出テ無明ノ酒ニ醉智恵ノ眼盲テ難逢佛教モ信セス苦悟佛道ニ歸スレハ有爲ノ奥山今日越テ淺キ夢不ㇾ見醉モセス也

   *

と出る辺りを踏まえているのではなかろうか?

「螽(いなご)の黑燒」岩波文庫版の高田氏の注に『疳の虫の妙薬とされた』とある。ここはその効能を嫉妬心抑制作用と言い換えたのであり、それによって女の嫉妬心がなくなったならば、「貴船(きぶね)の道も露(つゆ)さだかに置き得(え)」(丑の刻参りで知られた京の貴船神社への夜の参道には呪うために女は来なくなるから、そこの草葉に置かれる夜露は朝まで散ることもなく)、「寺の鐘の湯とならずもあらなん」(清姫が安珍を追って道成寺に蛇体となって行き、火炎を吐いて鐘を溶かして鉄の沸き立つ湯(液体)とすることもなくなるであろうに)というのである。説教が波状的に衒学的且つ辛気臭くなって、折角の本篇メインのホラー性が殺がれてしまっている。]

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