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« 宿直草卷三 第九 伊賀の池に虵すむ事 | トップページ | 柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(5) 神々の争い »

2017/07/08

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(4) 橋姫と謡曲

 

 それから今度は謠をうたつては惡いと云ふ言傳へをあらまし説明しよう。是も亦各地方に同じ例の多い事で、九州では薩州山川港の竹の神社の下の道、大隅重富の國境白銀坂等に於て、謠を謠へば必ず天狗倒しなどの不思議があつたことは三國名勝圖會に見え、越後五泉町の八幡社の池の側では、謠を謠へば女の幽靈が出ると溫故之栞第七號に見えて居る。又駿州靜岡の舊城内杜若長屋と云ふ長屋では、昔から杜若の謠を嚴禁して居たことが津村淙庵の譚海卷十二に見えて居るが、是は何故に特に杜若だけが惡いのか詳しいことは分らぬ。併し他の場合には理由の明白なるものもあるのである。例へぱ近頃出來た名古屋市史の風俗編に、尾張の熱田で揚貴姫の謠を決してうたはなかつたのは、以前此境内を蓬萊宮と稱し、唐の揚貴姫の墳があると云ふ妙な話があつた爲で、新撰陸奧風土記卷四に、磐城伊具郡尾山村の東光院と云ふ古い寺で、寺僧が道成寺の謠を聞くことを避けて居たのは、かの日高川で清姫が蛇になつて追掛けたと云ふ安珍僧都が、實は此寺第三世の住職であつた爲であると言つて居る。信濃の善光寺へ越中の方から參る上路越(あげろこゑ)の山道で、山姥の謠を吟ずることは禁物と、笈埃隨筆卷七に書いてある理由などは、恐くはくだくだしく之を述べる必要も無いであらう。然らば立戾つて前の甲州國玉の逢橋の上で、通行人が「葵の上」を謠ふと暗くなつて道を失ふと裏見寒話にあり、近代になつては「野宮」がいかぬと云ふことになつたのは抑如何。是は謠と云ふものを知らぬ若い人たちでも、源氏物語を讀んだことのある方にはすぐに推察が能ることである。つまり「葵の上」は女の嫉妬を描いた一曲であつて、紫式部の物語の中で最も嫉深い婦人、六條の御息所と云ふ人と賀茂の祭の日に衝突して、其恨の爲に取殺されたのが葵の上である。「野宮」と云ふのも所謂源氏物の謠の一つで、右の六條の御息所の靈をシテとする後日譚を趣向したものであるから、結局は女と女との爭ひを主題にした謠曲を、この橋の女神が好まれなかつたのである。「三輪」を謠へば再び道が明るくなると云ふ仔細はまだ分らぬが、古代史で有名た三輪の神樣が人間の娘と夫婦の語ひをたされ、苧環(おだまき)の絲を引いて神の驗の杉木の上に御姿を示されたと云ふ話を作つたもので、其末の方には「又常闇(とこやみ)の雲晴れて云々」或は「其關の戸の夜も明け云々」などゝ云ふ文句がある。併し何れにしても橋姫の信仰なるものは、謠曲などの出來た時代よりもずつと古くからあるは勿論、源氏の時代よりも更に又前からあつたことは、現に其物語の中に橋姫と云ふ一卷のあるのを見てもわかるので、此には只どうして後世に、そんな話を憎む好むと云ふ話が語らるゝに至つたかを、考へて見ればよいのである。

[やぶちゃん注:「薩州山川港の竹の神社」現在の鹿児島県指宿市山川(やまがわ)福元にある竹山神社のことと思われる。鹿児島県神社庁公式サイト内の同神社の頁によると、創建は天和三(一六八二)年で、『岩石奇峯二山を神体としている』とした後に、『一説に谷山烏帽子嶽大権現大天狗ともいう。縁起によれば、隣に連なっている鳶之口峰との間は天狗の住みかで、頂上に神灯が見えたり、太鼓・笛・法螺の音が鳴り響き渡ったり、岩石が大きな音をたてて崩れ落ちたりする様々な霊怪が伝えられている』とあるからである。場所はこちら(グーグル・マップ・データ)。なお、ずっと北の指宿市山川新生町の町中にも同名の神社があるが、これはこちらの分社か。

「大隅重富の國境白銀坂」文庫版全集では白銀に『しろがね』とルビを振るが、これは現在の鹿児島県姶良市脇元から鹿児島市牟礼岡まで伸びる石畳の坂道白銀坂(しらかねざか)のことである。ウィキの「白銀坂」によれば、『坂のある山並みは古代から近世における薩摩国と大隅国の国境であり、戦国時代には島津貴久や島津義弘といった武将たちがこの坂に陣を構えていた』。『江戸時代に入ると、白銀坂は鹿児島の主要街道である「大口筋(薩摩街道)」上の難所として、多くの人々に知られるようになった。 坂の全長は約』四キロメートルであったが、現在はその内の約二・七キロメートルが残っている、坂の高低差は三百メートル以上もあって、『中腹には「七曲り」といわれる急勾配の箇所もあり、急な坂道部分には石畳が敷くのとは対照的に、尾根上の平坦部分には石段を部分的に設けるのが坂の特徴である』とある。如何にも天狗好みの坂ではないか。この中央付近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「天狗倒し」深山に於いて突然凄まじい原因不明の大音響が起こるが、行って見ても何らの形跡もない怪奇現象を指す。天狗の仕業とされた。

「三國名勝圖會」江戸後期、薩摩藩第十代藩主島津斉興(なりおき)の命によって編纂された領内地誌。天保一四(一八四三)年完成。書名の「三國」は薩摩国・大隅国と日向国の一部を含むことによる。特に神社仏閣についてはその由緒・建物の配置図・外観の挿絵まで詳細に記載されており、各地の名所風景を描いた挿絵も多い。全六十巻(以上はウィキの「三国名勝図会」に拠った)。

「越後五泉町の八幡社」旧新潟県中蒲原郡五泉町(ごせんまち)は現在は五泉市内。同所で最も知られる八幡社は宮町にある五泉八幡宮(グーグル・マップ・データ)であるが、ここか?。

「溫故之栞」(おんこのしおり:現代仮名遣)は新潟の温故談話会の発行した地方民俗雑誌『越後志料温故之栞』。明治二三(一八九〇)年二月から明治二十六年一月まで三十六号を刊行している。

「駿州靜岡の舊城内杜若長屋と云ふ長屋では、昔から杜若の謠を嚴禁して居たことが津村淙庵の譚海卷十二に見えて居る」「杜若」は「かきつばた」(文庫版全集ルビ)。以下。

   *

駿河城内に、杜若といふ御長屋あり。爰にて杜若の謠をうたへば、かならずあやしき事あり。よつて駿河御番の衆には、杜若の謠は御法度のよし、御條目の一つに仰渡さるゝこと也。

   *

因みに、謡曲「杜若」は作者不詳(世阿弥や金春禅竹作説あり)。旅僧が三河の八橋 に行きかかると、杜若の精が現れて「伊勢物語」の話をし、在原業平の歌の功徳で成仏したことなどを語るもの。その判り易い梗概は「スーちゃんの妖怪通信」の島根県松江市の伝承「杜若の謡」が判り易いが、そこに書かれた妖怪「小豆研ぎ」との関連も面白い。そこにも記されている通り、この松江の怪奇伝承は小泉八雲が記している。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一八)』を参照されたい。

「揚貴姫」後の部分とともにママ。文庫版は両方とも普通に『楊貴妃』となっている。謡曲「楊貴妃」は金春禅竹作で、玄宗皇帝の命を受けた方士が亡き楊貴妃の霊を仙界の蓬萊宮に尋ね当てて貴妃の霊がかつての玄宗との愛などを語る、白居易の「長恨歌」をもととした唐物。

「新撰陸奧風土記」保田光則(やすだみつのり 寛政九(一七九七)年~明治三(一八七〇)年):陸奥仙台藩士で国学者。和漢の学に優れ、藩校養賢堂和学指南役及び藩主の歌道師範役を兼ねた)著。万延元(一八六〇)年刊。

「磐城伊具郡尾山村の東光院」現在の宮城県角田市尾山(ここ(グーグル・マップ・データ))にあった修験寺。現存しない。宮城県角田市観光情報ポータルサイト「ココカクダ」の「東光院跡」によれば、『東光院は本山派京都聖護院の大先達として、仙台の良覚院、丸森木沼の宗吽院とともに祈祷所として大きな役割を果し、伊具・名取・宇多も』三『郡を霞場(祈祷の縄張り的地域)として』、慶長一三(一六〇八)年に『伊達政宗に与えられた』。『東光院には安達ヶ原の鬼退治の伝説、安珍清姫の道成寺物語がある』とある。この「かの日高川で清姫が蛇になつて追掛けたと云ふ安珍僧都が、實は此寺第三世の住職であつた」とする話は、調べてみると、現行の安珍清姫伝承とは異なる不審な展開のように思われる(何より「僧都」「三世」とあってはこの物語の安珍は死んでいないとしか読めぬ)。場所が少し離れるが(角田市尾山から西北西十一キロメートルほど。(グーグル・マップ・データ))、宮城県白石市不澄ケ池にある真言宗延命寺には「安珍地蔵尊(ころり地蔵尊)」なるものがあり、その寺にある解説板に、本寺の伝承についての言及が以下のようにある(杜のイーグルス氏のブログのこちらにある画像を視認した)。

   *

修行僧安珍については、各地に種々の伝承が残っている。伊具郡尾山村(現在の角田市尾山)東光院の寺伝によると、東光院第三世安珍が二十七歳の折、紀州熊野山三山への修行行脚の途中、紀州真砂庄司(しょうじ)の佐夜姫(清姫)に恋慕されるが、修行のためとそれを拒む。

 佐夜姫は安珍恋しさのあまり、日高川に身を投じ、その霊魂が妖怪となり、後々までもたたりをなしたという。

(伊具郡尾山風土記書上) 

 歌舞伎「道成寺物語」では、安珍が道成寺の釣鐘に身を隠すが、大蛇と化した清姫に鐘もろとも巻き付かれ、その煩悩の火によって焼死したという。さらに一説に、この僧安珍は白石生まれと伝えられ、その悲報を伝え聞き、供養のために造立したのがこの地蔵尊といわれ、いつのころからか「ころり地蔵尊」と呼ばれ参詣されるようになったという。

   *

「道成寺の謠」私は道成寺伝承のフリークで、サイトに「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chroniclという特設サイトを持っている。謡曲の「道成寺」はこちら

「信濃の善光寺へ越中の方から參る上路越(あげろこゑ)の山道で、山姥の謠を吟ずることは禁物と、笈埃隨筆卷七に書いてある」「笈埃隨筆」(きゅうあいずいひつ)は江戸中期の旅行家百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年)の作。所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。

   *

     ○山姥

 越後より信州善光寺へ參詣するに、上道下道あげろ越とて、三筋の大難所ありて、多くの谷峯を越ゆる也。或は葛を以て橋となせる川など有て、なかなか容易に至り難き道なれば、本道を十度參らんよりは、此道を步行にて、一度參詣するを功德勝れたりとす。則あけろと云。糸魚川より五里上の村中に一つの林あり。昔山姥の住家なりとて、古松は兩枝相さゝへ鳥居の形に似たり。此邊にて山姥の謠を吟ずる事を堅く禁止すといふ。【案ずるに、上道下道あけろの三道とは不審。上道則上路ならんか。尋ぬべし。此謠曲も善光寺へ參る道すがら山姥に逢しといへりとぞ。】

   *

筆者百井も不審に思っているように、「上道下道あげろ越とて、三筋の大難所」と言いつつ、「本道を十度參らんよりは、此道を步行にて、一度參詣するを功德勝れたり」とある以上は、「上道」・「下道」・「あげろ越」という別個な三通りの参道があるのではなく、「上道」は「則」ち「上路」(あげろ)なのであり、その上り下りのある、途中の峠を「あげろ越」と称する難道の参道が「本道」以外に今一本あると言っているのだと私は思う。ここに出る謡曲「山姥」は、世阿弥作と推定されるもので、京で「山姥の山廻り」という曲舞(くせまい)を美事に演したことから「百ま(「萬」或いは「魔」)山姥」と呼ばれた遊女が従者を連れて善光寺参りを志し、越中越後の国境にある境川から上路山を越えんとするも、山中で急に日が暮れてしまって困り果てていると、そこに年嵩の女が現われ、一夜の宿を貸してくれる。女は自ら山姥であることを明かし、遊女のまさにかの曲舞を今宵の月の上がった夜半に舞うてくれることを乞うて消える(この中入の前後にもう少し展開がある)夜更けに舞いを奏でると、山姥が異形の姿を現し、己が深山幽谷での妖魔としての境涯を語り、しかも仏法の深遠な理りを説いて、まことの「山廻り」のありさまを表わして舞いつつ、姿を消すというストーリーである。

『前の甲州國玉の逢橋の上で、通行人が「葵の上」を謠ふと暗くなつて道を失ふと裏見寒話にあり』本橋姫」冒頭の私の注を参照。謡曲「葵の上」はシテを六条御息所の生霊とする「源氏物語」の「葵」に基づく怨霊物で世阿弥以前の作。

「野宮」謡曲「野宮」。「ののみや」と読む。金春禅竹作ともされる。旅僧が嵯峨野の野宮の旧跡を訪れ,一人の女と会い、光源氏がこの野宮に六条御息所を訪問したことなどを語って鳥居の陰に消える。夜となって弔いをする僧の前に車に乗った御息所の霊が現われ、正妻葵上との車争いのことなどを語って、嘗ての恋の喜びと悲しみを舞うもの。

「抑如何」「そもいかん」。

「能る」「かなふる」か。文庫版全集では平仮名で『できる』となっている。

『「三輪」を謠へば再び道が明るくなる』やはり橋姫」冒頭を参照。謡曲「三輪」は作者不明。シテは三輪明神の神霊。大和の三輪に住む玄賓(げんぴん)僧都のもとに一人の女が来、衣を一枚恵んで欲しいと願う。僧都が与えてその棲家を聞くと、三輪山の杉の辺りと言って消える。僧都が三輪山を訪ねると、神木の杉に先に女に与えた衣が掛かっており、その裾に神託の和歌が託してあった。やがて、巫女の姿を借りた神霊が烏帽子・狩衣の男の衣装で現われて三輪明神に纏わる上古の伝説を物語るという趣向。

「苧環(おだまき)」紡いだ麻糸を巻いて中空の玉にしたもの。

『其末の方には「又常闇(とこやみ)の雲晴れて云々」或は「其關の戸の夜も明け云々」などゝ云ふ文句がある』。謡曲「三輪」のエンデイングは以下。

   *

神樂

シテ 〽天の岩戸を引き立てて

地  〽神は跡なく入り給へば 常闇(とこやみ)の世と早なりぬ

シテ 〽八百萬(やおよろず)の神達 岩戸の前にてこれを歎き 神樂を奏(そお)して舞ひ給へば

地  〽天照太神(てんしよおだいじん) 其時に岩戸を 少し開き給へば

地  〽また常闇の雲晴れて 日月(じつげつ)光り輝(かかや)けば 人の面(おもて)白々(しろじろ)と見ゆる

シテ 〽面白やと 神の御聲(みこえ)の

地  〽妙(たえ)なる始めの 物語

地  〽思へば伊勢と三輪の神 思へば伊勢と三輪の神 一體 分身(ふんしん)の御事(おんこと) 今さら何(なに)と岩倉(いはくら)や その關の戸の夜(よ)も明け かく有難き夢の告げ 覺(さ)むるや名殘(なごり)なるらん 覺むるや名殘なるらん

   *

「橋姫と云ふ一卷」「源氏物語」(五十四帖)の内の第四十五帖。第三部の一部である「宇治十帖」の第一帖で主人公薫は十九から二十一歳。世の無常を感じて出家を志す薫が宇治の八の宮(光源氏の異母弟)を訪ねる。三年の後に再訪した薫は、彼の二人の姫君(大君(おおいきみ)と中君(なかのきみ))を見て心動かされ、出家を決意した八の宮は彼に二人の娘を託すが、その夜、薫は弁(べん)の乳母(めのと)から柏木臨終のさまを聴き、自分の出生の秘密を知って暗澹たる思いとなるといった展開の帖である。]

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