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2017/07/27

宿直草卷五 第五 古曾部の里の幽靈の事

 

 第五 古曾部(こそべ)の里の幽靈の事



Nouitusekettei_3

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものの二枚目(向かって左)の下部が著しく汚損して見るに堪えないため、岩波版のそれを示した。この挿絵、涙ぐましいまでに本文の描写を絵師なりに生かそうとしている。その辺り、是非、本文と対比しながら読まれたい。そのため、画素数を大きくし、清拭も特異的に念入りにし、左右二枚を近づけて合成、両画の上下左右の枠を除去した一枚の絵として描かれたものを二枚にしたものではないために、中央部は上手く接合はしないが、これは私のトリミング・ミスやサイズ・ミスではないのでここで断っておく。なお、本文の和歌の前後は恣意的に一行空けた。]

 

 古曾部の入道、能因法師が跡をとへば、古墳、草、繁りて、村雨、哀れを添ふ。誰(たれ)問ふ者無かりけるに、翰林處士羅山子、碑文(ひもん)を鐫(え)りて、后(のち)の疑凝(ぎきやう)を斷はる。又、能因、聊(いさゝ)め棲みし庵の跡、今も淸水ありけり。昔、野守の鏡(かゞみ)とも賴みしにや。法師、詠める、

 

 あしびきの山した水に影見ればまゆ白妙に我おひにけり

 

 又、山越えに金龍寺(こんりうじ)に詣でしに、艷(なま)めける女の、芝生にまかりければ、

 

 あさぢ原まとふ黑髮きのふまでたが手枕(たまくら)に懸(かけ)てきぬ覽(らん)

 

と弔(とふら)ひしと也。

 猶、入相(いりあひ)の鐘に花を惜しみし春の夕暮、來(こ)し方、懷(なつか)しく、その里、かれこれと步(あり)くに、また、伊勢寺(いせいじ)と云ふ寺へ案内(あない)の袖に任せ行く。境(さかひ)、狹(せば)く、寺も優しきばかりなり。

 その上(かみ)、左大辨家宗の子、伊勢守繼蔭(つぎかげ)の女(むすめ)、伊勢と云ふ上達女(かんだちめ)、秀歌の達者なり。小倉山庄(をぐらさんざう)の百首にも撰(えら)ばれ、我(わが)敷島の言の葉の道に、曲(きよく)をまゝ得給ひし人の菩提道場なり。像(かげ)も紙に殘りて、今に坐(いま)せり。

 此寺の岸根(きしね)に添ふて、暫し、休らふに、不立文字(ふりうもんじ)の靈場に、讀經の聲も幽(かす)かに聞え、寂莫(じやくまく)たる院(いへ)の内(うち)に、磬(うちならし)の音(ね)も仄(ほの)かなり。

 遠く望めば、生駒(いこま)が峯、飯森(いゐもり)山も向かひ、近く尋(たづぬ)れば金龍寺、神峯山(かぶせん)も覆ふ。本山の晩(くれ)の鐘、颪(おろし)に誘ふておかしく、牧方(ひらかた)の歸帆も誰(た)が託(かこ)つ風ならんと、侘(わ)びし。三嶋江(みしまえ)の夜の雨には、釣叟(てうそう)の焚く篝火(かゞりび)も消え、鵜殿(うどの)の芦間(あしま)に群れゐる鴈(かり)は、漁父(ぎよふ)・渉人(しようにん)の舟呼ばひに驚く。夕日照る梶原の紅葉(こうえう)は、唐紅(からくれなゐ)の色增して、久方(ひさかた)の雲の脚(あし)かとあやしく、天滿神(あまみつかみ)の森の雪は、暮れ過(すぎ)つゝも、曙(あけぼの)に紛(まが)ふ。高槻(たかつき)の晴嵐には、玉桙(たまほこ)の袖道を急ぎ、金龍(こんりう)の梢(こずゑ)の月は、羈客(はかく)も秋の悲しびを忘れん。安滿(あま)に焚く夕煙(ゆふけふり)は、遠方(をちかた)人の胸を焦(こが)し、芥川の朝(あさ)の露は、さらでも、樵夫(せうふ)の履(くつ)を潤(うるほ)す。

 能因が詠(よ)み、伊勢が詠(なが)めしは、さぞな、その數奇人(すきびと)住(すみ)にし里、その數、十種百種(とくさもゝくさ)の哥(うた)ならめかは、と心にくゝ、能因の塚、伊勢の影、眺めしに、里人のいはく、

「この所に、また、不思議の事あり。これより西の谷に、騎馬の士(さふらひ)、束帶(そくたい)の女房、幽靈と見えて、夜每(よごと)に出(いづ)。露の玉ゆら現はれて、後(のち)、搔き消すやうに、去る。げに、その上(かみ)、由(よし)ある人にか、御座(おは)すらめ。數(かぞ)ふれば遠かめれど、伊勢は寺に依り、能因は碑の銘に殘りて、今にそれぞと名は朽ちずも侍るに、これらは如何なる人とも知れぬ身の、夜每に出(いで)て、誰(た)が爲(ため)に見ゆると、哀れにさふらふ。」

と語る。

 我、聞(きき)て、

「聞き捨つべきにあらず。細やかに語り給へ。」

と云へば、里人のいはく、

「ある時、二人、狩のためにその谷に行く。月落ちけれど、影まだ明(あ)かきに、岡(をか)の方(かた)より、物音、轟(とゞろ)ひて、凄(すざ)まし。何ぞと見れば、甲冑(かつちう)帶(たい)せし男、緋縅(ひおどし)に見えて、弓緩(ゆる)やかに持ち、箭(や)を筈高(はづだか)に負ひ、太く逞しき馬に白泡(しらあは)嚙ませて、岡より谷を下(くだ)りに、一文字(いちもんじ)に來(きた)る。又、その後(あと)に白糸の鎧に、直垂(ひたたれ)世の常にして、下髮(さげがみ)に鉢卷の女房、白柄(しらえ)に蛭卷(ひるまき)したる長刀(なぎなた)、脇に搔い込み、しづしづと步み、初めの武者に續く。昔は墓にもありなん、今しも茅萱(ちかや)に深き野原を、二人ながら、二、三遍(べん)、𢌞りて、搔き消すやうに、失せぬ。不思議にこそ侍れ。」

と語る。

 我(われ)思ふに、昔、正親町(おほぎまち)の御宇、永祿の比、天下、大(おほい)に亂る。義元、信長入恨(じゆつけん)になり、輝虎と晴信と大に戰ふ事ありて、さがなき世なりけり。其後、元龜元年、三好日向守が殘黨あり。此の里よりは西、服部(はつとり)の北に、原(はら)と云ふ村、租山(そやま)に城ありて、暫し、支へしかども、遂に義昭(よしてる)がために敗北しけり。其時、此邊り、戰場たらん。疑ふらくは、その時の勇士か。修羅(すら)の巷(ちまた)、何時(いつ)か出でなん、と悲しくこそ侍れ。

 

[やぶちゃん注:本話はまたしても明らかに筆者自身が主人公の実録風の怪談である(但し、ここでの怪談部分は聞き書き)。こうした怪談物で各所に作者の実体験物が挟まれるのは、完全な創作物であったとしても、怪談としてのリアリティを否が応でも高める非常に上手い手法と言える。なお、私が注した以外に、この本文には能因或いは伊勢の和歌をインスパイアした箇所があるかも知れぬ。判る方は御指摘戴ければ幸いである。

「古曾部」現在の大阪府高槻市古曽部町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。平安中期の僧で歌人として知られる能因(永延二(九八八)年~永承五(一〇五〇)年又は康平元(一〇五八)年とも)の墓と伝えるものが今も同所に残る(リンク先にも指示がある)。ウィキの「能因」によれば、俗名は橘永愷(たちばなのながやす)で二十五で出家した際の法名は「融因」であったという。近江守であった橘忠望の『子で、兄の肥後守・橘元愷の猶子となった。子に橘元任がいた』。初め、『文章生に補されて肥後進士と号したが』、長和二(一〇一三)年に出家している。『和歌に堪能で、伊勢姫に私淑し、その旧居を慕って自身の隠棲の地も摂津国古曽部』を隠棲の地と定め、『古曽部入道と称した。藤原長能に師事し、歌道師承の初例とする』。『和歌六人党を指導する一方、大江嘉言・源道済などと交流している。甲斐国や陸奥国などを旅し、多くの和歌作品を残し』、「後拾遺和歌集」には三十一首所収され、以下の勅撰和歌集にも実に六十七首が入集している。歌集に「能因集」の他、私撰集「玄々集」や歌学書「能因歌枕」があるとする。複数の辞書などの資料で補足しておくと、万寿二(一〇二五)年には東北地方を行脚しており、その死に際しては、自身の和歌の草稿を地中に埋めたとも伝えられる。岩波文庫版で高田氏は、この古曾部を『能因法師の古里で』あると注しておられるが、この『古里』が生まれ故郷という意味だとすると、疑問である(永く住み馴れた地の意ならば肯んずるし、死に際しては彼はここを『古里』と認識はしていたであろう)。諸記載を見る限りでは、ここは能因の生地とは思われないからである。彼がここを終の棲家と定めたと思われるのは、ここに登場する三十六歌仙の一人伊勢(後注)に、後代の能因が歌人として激しく私淑していたことによるものと推定されている。伊勢はこの地に住み、後の出る伊勢寺(ここ(グーグル・マップ・データ))に葬られており(現在は能因塚のある古曾部の北西に接する高槻市奥天神町内であるが、能因塚との距離は四百メートルほどしか離れていない)、伊勢の旧跡を慕った能因が、遂にはここに庵をも結んだと考えるのが至当である。

「翰林處士羅山子」江戸初期の朱子学派儒学者で林家(後に林家は大学頭を名乗るが、それは羅山の孫の三代林鳳岡(ほうこう)以降のこと)の祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)、字は子信、通称を又三郎と称し、出家した後の号である道春(どうしゅん)の名でも知られる。「翰林處士」は文字通りなら、在野の学者を意味するが、ここは家康・秀忠・家光・家綱の四代の将軍に仕えた御用学者(概ね侍講として強力なブレーンとなった)といった意味で用いているようである。高槻市公式サイト内の「伝能因法師墳」によれば、林羅山の手になる碑文を彫った墳墓正面にある顕彰碑は慶安三(一六五〇)年に高槻城主永井直清が建立したとある。岩波文庫版の高田氏の注では『慶安元年』とあるが、これは文脈から『依頼をうけた』年で、碑の完成が二年後であったということであろうか。森本行洋氏のサイト「古墳のある町並みから」の「能因塚(能因法師墳)」がルートその他に詳しい。必見。

「疑凝(ぎきやう)」岩波文庫版の高田氏の注に『「疑驚(ぎきょう)」の誤りか』とある。「疑驚」とは、本当かと疑い驚くことの意。

「斷はる」「予め、説明しておく」の意。

「聊(いさゝ)め」仮初めに。ちょっと。彼がここに庵を結んだのは晩年と考えられてい「淸水ありけり」能因塚の近くには能因法師が日常生活の用に水を得ていたとされる「花の井」と呼ばれている井戸や(森本行洋氏のサイト「古墳のある町並みから」の「花の井」参照)、彼が不老不死を願って煎茶に使用したとされる名水の井戸「不老水」(同前の森本氏のサイトの「不老水」参照)がある。

「野守の鏡」昔、鷹狩りの途中で逃げた鷹を野守が溜まり水に映る影を見て発見したという故事から野中の池水や清水を鏡に譬えて言う語。

「あしびきの山した水に影見ればまゆ白妙に我おひにけり」「あしびきの山下水に影見れば 眉白妙にわれ老いにけり」が表記としては正しい。「新古今和歌集」の「卷十八 雜下」の能因の一首(一七〇八番歌)で「山水を掬(むす)びて詠み侍りける」という詞書を持つ。能因会心の作とされる。

「金龍寺(こんりうじ)」現在の大阪府高槻市成合にあった天台宗邂逅山(たまさかざん)華雲院金龍寺。ウィキの「金龍寺(高槻市)」によれば、延暦九(七九〇)年に建立された安満寺に始まるとされ、盛時には十九の『坊舎があり、天皇の行幸があるなど巨刹であった。その後衰退したが』、康保九(九六四)年、『三井寺で修行した千観が「日想観」のある土地を求め、金色の雲が湧く山』として、『この地に来て再興した』。『ある時、境内の池に竜女が現れて法水を甘んじ成仏したのを見て、金竜寺と改称した。それ以来、雨乞いの霊験があり』、安和二(九六九)年に旱魃が続いた際には、『冷泉天皇の勅命で千観が祈雨したところたちまち雨が降ったという。戦国時代』の天正年間(一五七三年~一五九二年)に『高山右近の兵火にあって焼失したが』、慶長七(一六〇二)年には『豊臣秀頼によって再興された。その頃には寺領』三十石『クラスの寺として門前村が形成され、巡拝や遊山でも浄財を集め大いに栄えたという。古くから桜の名所であった』。『この寺の桜は能因桜と呼ばれ』、『西行や松尾芭蕉もこの寺を訪れ句や文を残している』。しかし、『その後の金龍寺は明治時代の廃仏毀釈により荒廃』、昭和一三(一九三八)年に、植物学者で桜の研究の第一人者として「桜博士」と称された『笹部新太郎が桜の調査に訪れたときも、電気も水道もない荒れた境内に老僧が一人いるだけの状態であったという。その後、寺籍は岐阜に移され』、『金龍寺は廃寺となった』。しかも唯一残っていた寺の本堂も昭和五八(一九八三)年に『ハイカーの火の不始末により焼失して』しまい、『現在は金龍寺跡となっている』(ここまでの引用は総てウィキ)とある。高槻市公式サイトのこちらによれば、『松茸狩りの絶好の場所として』も知られており、「攝津名所圖會」の「金龍寺山松茸狩」には、『丘の上にござを敷いて火に鍋をかけ、男も女も松茸狩りに興じている様子を見ることができ』るとある(画像有り)。『この絵柄から、いわゆる行楽シーズンに金龍寺界隈が多くの人でにぎわっていたことがうかがえ』るが、『明治以後無住となって荒れ果て』、『現在、寺の跡には石塔・礎石・石垣が残』るのみとある。能因が知ったら、さぞや無常の思いを致すであろう。能因がこの寺で詠んだ歌としては、ここに出るものではなく、「新古今和歌集」の「卷第二 春歌下」にある一首(一一六番歌)、

 

   山里(やまざと)にまかりてよみ侍りける

 山寺の春の夕暮れ來て見れば入相の鐘に花ぞ散りける

 

が有名で、本文の後文はそれに基づく。「入相の鐘」は太陽の沈む頃に寺で勤行の合図として撞き鳴らす鐘で、一般には酉の刻(午後六時頃)に撞いた。

「まかりければ」これは「息絶えていた」というのである。だから「弔(とふら)ひし」とあるのである(次注参照)。

「あさぢ原まとふ黑髮きのふまでたが手枕(たまくら)に懸(かけ)てきぬ覽(らん)」ネット上の私家集なども調べて見たが、見当たらないので、衝撃的な情景でもあり、伝として調べて見たところ、「攝津名所圖會」に麻茅原  金竜寺の麓にあり

里諺に云ふ、能因法師この原にて美女の死したるを見たまひてかくぞ詠じたまふ

   *

淺茅原(あさぢはら)【金龍寺の麓にあり。里諺(りげん)に云、能因法師、此原にて美女の死(しゝ)したるを見たまひて、かくぞ詠したまふ。】

 

 淺茅原まとふ黑髪きのふまでたか手枕(たまくら)のうへに置けん

 

と詠吟したまへば、かの屍(しかばね)動き出てて草むらより枕をもたげ、悦ぶけしき見えて、又もとの如し。終(つひ)にこゝに葬(はうふ)り、印(しるし)の石を置(すへ)て吊(とふら)ひたまふとなん。此石、今にあり。

   *

CHECHENTARO氏の『「古典」ゆかりの地を訪ねる』の「麻茅原(大阪府高槻市)」に示された原典画像を元に活字に起こした(【 】は二行割注)。CHECHENTARO氏に感謝申し上げる。

「伊勢寺(いせいじ)」現在の大阪府高槻市奥天神町にある現在は曹洞宗の金剛山伊勢寺(いせじ)。ウィキの「伊勢寺」によれば、歌人伊勢(貞観一四(八七二)年頃~天慶元(九三八)年頃藤原北家真夏流の藤原伊勢守継蔭の娘。当初、宇多天皇の中宮温子(おんし/あつこ)に女房として仕え、藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受けて、その皇子を生んだが、その子は早世し、その後は宇多天皇の第四子敦慶(あつよし)親王と結婚して中務を生んだ)を開基とするという。伊勢の死後の寛平三(八九二)年、『その草庵は伊勢寺と号し、天台宗に属した。天正年間、高山右近の兵火に焼かれたが、江戸時代の寛永年間、僧宗永によって再興され曹洞宗に改められた』(下線やぶちゃん)とある。位置は先のグーグル・マップ・データを参照されたい。

「境(さかひ)」境内。

「優しきばかりなり」ここは前に境内も狹いとしているから、その侘びしさに「正直、つらい感じがするばかりであった」の謂いと読んでおく。

「左大辨家宗」公卿藤原家宗(いえむね 弘仁八(八一七)年~貞観一九(八七七)年)。藤原北家の参議藤原真夏(まなつ)の孫で民部少輔藤原濱雄(はまお)の長男。最終官位は従三位で参議。彼は死の三年前の貞観十六年に左大弁となっている(ウィキの「藤原家宗」に拠る)。

「伊勢守繼蔭(つぎかげ)」藤原継蔭(つぐかげ(以下のウィキの読み) 生没年不詳)最終官位は従五位上で伊勢守。ウィキの「藤原継蔭によれば、『文章生から式部大丞を経て』、元慶五(八八一)年、『従五位下に叙爵』、仁和二(八八六)年には従五位上、『伊勢守に叙任されるが、しばらく任地に出発しなかったため、同じように平安京に留まっていた諸国司とともに召問を受けている』とある。娘の伊勢の名は父の任国に由来する呼称

「上達女(かんだちめ)」不審。「かんだちめ」(或いは「かむだちめ」)は「上達部」でこんな表記しないし、そもそも「上達部」とは三位以上及び四位の参議、即ち、公卿のことを指し、彼女は「伊勢の御(ご)」「伊勢の御息所(みやすんどころ)」とは呼ばれたが、天皇の子を生んでも下級女官である彼女を「かんだちめ」とは決して呼ばない。

「小倉山庄(をぐらさんざう)の百首」藤原定家はかの「百人一首」を現在の京都市右京区嵯峨亀ノ尾町にある小倉山(おぐらやま:標高二百九十六メートル。桂川の北岸にあって南岸の嵐山と相対し、「雄蔵山」「小椋山」とも書かれる。紅葉の名所で歌枕としても知られる)に建てた小倉山荘(「時雨亭」とも称した)で編纂した(そこから「小倉百人一首」とも呼ばれる)。

「敷島の言の葉の道」和歌。

「曲(きよく)をまゝ得給ひし人」岩波文庫版の高田氏の注に『「曲」は「極」。最高の技術を手に入れられた人』とある。

「菩提道場」伊勢の菩提寺であるということ。

「像(かげ)」描かれた肖像。

「岸根(きしね)」山下。伊勢寺は現在でもこんもりとした丘陵の南に建つ。後の「本山の晩(くれ)の鐘、颪(おろし)に誘ふ」というのもそうしたロケーションを指す。

「不立文字(ふりうもんじ)の靈場」禅宗の寺院。禅宗は経論に拠らず(「不立文字」「教外(きょうげ)別伝」)、師の心から弟子の心へと直接に悟りの内容を伝えてゆくことを唯一の伝法とする(「直指人心(じきしにんしん)」「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」)。所謂、「以心伝心」で禅宗の宗風を最も端的に表現した四句の冒頭の語。

「磬(うちならし)」音の「ケイ」で呼ぶのが一般的。ここは本邦の仏教寺院では読経の合図に鳴らす仏具を指す。ウィキの「磬」の「仏教の磬」によれば、鋳銅製で、『奈良時代から制作され、平安時代には密教で必須の仏具となり、その後他宗派でも用いるようになった』。『仏教寺院では、金属製の碗を台の上に置いて棒で叩いて鳴らす楽器のことを「磬子」または「鏧子」と書いて「けいす」または「きんす」と読む』。『柄がついていて手に持って鳴らす「引磬」も存在する』とある。リンク先で画像が見られる

「生駒(いこま)が峯」現在の奈良県生駒市と大阪府東大阪市との県境にある標高六百四十二メートルの生駒山。生駒山地の主峰。伊勢寺の南南東二十一キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データで伊勢寺を起点に中央直下に生駒山を置いた)。

「飯森(いゐもり)山」飯盛山(いいもりやま)は現在の大阪府生駒山地の大東市と四条畷市に跨った標高は三百十四・三メートルの山(山頂は大東市内)。ここ(グーグル・マップ・データ)。生駒山の北北西六キロ圏内。

「神峯山(かぶせん)」現在の大阪府高槻市原にある天台宗神峯山寺(かぶさんじ)。伊勢寺の北北東約四キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「覆ふ」一望の内に含まれることを言う。

「本山の晩(くれ)の鐘」先に注した通り、「本山」はこの伊勢寺ととっておく。これは前の能因の和歌を引いた「入相の鐘」と同じものと考えてよい。「入相の鐘」よりも後にこれがあるとなると、話柄内の季節は判らないものの(各所に季節が出るが、それは能因の歌や想像に依拠したもので確定出来ない)、ここに語られるような眺望は見られないと私は思うからである。

「牧方(ひらかた)」「牧」は原典・底本・岩波文庫版のママ。淀川を挟んで現在の高槻市に西で接する大阪府枚方市。淀川水運の港として栄えた。

「歸帆も誰(た)が託(かこ)つ風ならんと、侘(わ)びし」伊勢寺の上から吹き降ろす風であるから、これは淀川を河口方向から遡って帰ってくる舟には逆風となり、それでなくても遡上するのだから不平の種とはなろうと思うと、行き悩む帰り舟の様子は、なんとなく侘びしい思いをさせる、というのであろうか?

「三嶋江(みしまえ)」ロケーションとしては南の先、淀川の少し下流の現在の高槻市三島江。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは万葉の昔から「淀の玉江」と呼ばれた淀川を代表する歌枕で。江戸時代には対岸の出口(でぐち:現在は枚方市出口)との間に渡し舟があって北摂津と北河内を結ぶ地として大変賑わった。以下の景は実際に見えているものではなく、荻田の風流の幻像である。その証拠に遠近自在で季節もばらばらである。

「鵜殿(うどの)の芦間(あしま)」これは「鵜殿の葦原(よしはら)」で、現在の大阪府高槻市鵜殿から上牧に広がる淀川右岸河川敷の葦原(単子葉類植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australisの群生地)のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。前の三島江から反転するように淀川の遙か上流位置にある。ウィキの「鵜殿のヨシ原によれば、『鵜殿一帯は、奈良時代には都の牧場として使用されていた。鵜殿の地名については』、紀元前八八年に起きた建波邇安王(たけはにやすひこおう:孝元天皇の皇子で崇神天皇に対する反乱を起こしたとされる)の乱『以後、敗軍の将兵が追い詰められ』、『淀川に落ち鵜のように浮いたので、一帯を「鵜河(川)」と呼ぶようになったと『古事記』に書かれており、 平安時代に鵜河の辺に造られた宿を「鵜殿」と呼び、それが土地の名になったと言われている』。承平五(九三五)年には、『紀貫之が土佐から帰京するおり、「うどの(鵜殿)といふところにとまる」という記述がある。江戸時代には「宇土野」という文字での記述もみられる』。ここにも昭和初期まで「鵜殿の渡し(下島の渡し)」という渡し場があった。また、ここで穫れる葦(よし)は『良質なことで知られ、特に雅楽で用いられる楽器・篳篥の吹き口として珍重され』て『貢物として献上されていると、『摂津名所図会』にも記されている。 その他、江戸時代には、ヨシで編んだ葦簾が盛んに生産され』、昭和三十年代までは簾や『建築資材などの材料として使用されていた』とある。

「漁父(ぎよふ)・渉人(しようにん)」漁師の声や、渡し(前注下線部参照)を渉るために向こう岸の舟に呼びかける(「舟呼ばひ」)旅人ら。

「梶原」高槻市梶原・淀川右岸で鵜殿の内陸直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。西国街道沿いの集落。

「久方(ひさかた)の」「雲」の枕詞。「雲の脚(あし)かとあやしく」夕日に赤く映える雲の体から地上に伸びた赤い脚のように見えるというのである。

「天滿神(あまみつかみ)の森」あてずっぽうだが、大阪府枚方市楠葉丘にある交野天神社(かたのてんじんしゃ)ではないか? この社名は「かたのあまつかみのやしろ」とも読まれるからである。「森」はその鎮守の森で、ここには現在も原生林が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)なら、伊勢寺からのロケーションの範囲内と思われるからでもある。

「晴嵐」晴れた日に空にかかる霞。

「玉桙(たまほこ)」道中。「たまほこの」(「玉鉾の」とも書く)は枕詞として「道」に掛かるところから「道・道中」の意となった。

「袖」人。

「金龍(こんりう)」先に出た直近の金龍寺。

「羈客(はかく)」読みは原典のママ。「き」の誤記であろう。馬で旅する人。

「安滿(あま)」古曾部の東直近の高槻市の安満(あま)地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。淀川の支流檜尾川(ひおがわ)の河畔。

「芥川」現在、主に高槻市を流れる淀川の支流。伊勢寺からは前注で出した檜尾川と反転した西位置に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ)。こうしたここまでの描写は地図上で見ても描写位置のバランス感覚に私は舌を捲く。また、この芥川は、荻田の好きな「伊勢物語」の第六段、かの「芥川」とする説もあり、さればこそ、荻田はここに続けて「朝(あさ)の露」と確信犯で記したのであった(以下、原文抜粋)。

   *

芥川といふ川を率(ゐ)て行きければ、草の上に置きたりける露を、

「かれは何ぞ。」

となむ男に問ひける。

[やぶちゃん注:中略。]

 

  白玉かなにぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを

 

   *

「これより西の谷」位置は古曾部から動いていないから、実は最後の「伊勢物語」中の特異点である怪奇譚〈鬼一口の芥川〉の上流域こそが、以下の怪異出来の現場であることが判る。グーグル・マップ・データでこの附近を候補としておく。

「伊勢は寺に依り、能因は碑の銘に殘りて、今にそれぞと名は朽ちずも侍る」と述べているが、実はやはり高槻市公式サイト内の「伊勢寺」によれば、伊勢寺には伊勢廟堂という伊勢を祀る独立の堂が寺の本堂の西側にあって、そこにはやはり能因塚と同じく林羅山の書いた顕彰碑があるとある。これは能因塚の碑建立の翌年、慶安四(一六五一)年にやはり同じ高槻城主永井直清によって建てれたとあるのである。荻田が実際に伊勢寺に行っていたら、案内人がそこを教えぬはずがない。ここに荻田は実は伊勢寺の本堂まで上ってはいないのではなかったか? という疑惑が生ずる。或いは、能因の叙述と雰囲気を差別化するため、それを記さなかったともとれなくはないが、これはあくまで荻田に対して善意に過ぎる解釈のようにも思われる。如何?

「筈高(はづだか)」箙(えびら)に入れた矢の矢筈(やはず:矢の末端の弦(つる)に番える部分)が頭上高く突き出ていること。それだけで敵に確信犯で目立ち、威圧的な印象を与えることから、強弓(つよゆみ)の勇士を形容する語としてしばしば用いられる。

「白泡(しらあは)嚙ませて」岩波文庫版の高田氏の注に『馬を勇み立たせ、口から白い泡』となった涎『を吹かせて』とある。

「蛭卷(ひるまき)」補強や装飾のために刀剣の柄や鞘、また、槍・薙刀・手斧などの柄を鉄や鍍金・鍍銀の延べ板で間をあけて巻いたもの。蛭が巻きついた形に似ることからの呼称。

「正親町(おほぎまち)の御宇」織豊時代の天皇である第百六代正親町天皇(永正一四(一五一七)年~文禄二(一五九三)年)。在位は弘治三年十月二十七日(一五五七年十一月十七日)から天正十四年十一月七日(一五八六年十二月十七日。

「永祿」一五五八年~一五七〇年。

「義元」今川義元(永正一六(一五一九)年~永禄三年五月十九日(一五六〇年六月十二日)。永禄三年五月に二万余の軍を率いて尾張国へ侵攻を開始したが、桶狭間山で休息中に織田信長(天文三(一五三四)年~天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)の攻撃を受け、織田家家臣毛利良勝によって首級をとられた。享年四十二。

「入恨(じゆつけん)」見馴れぬ熟語で詠みも得意。恨み骨髄となることの意でとっておく。ここは義元が、である。

「輝虎」後の上杉謙信(享禄三(一五三〇)年~天正六(一五七八)年)。法号である謙信を名乗ったのはずっと後の亀元(一五七〇)年

「晴信」後の武田信玄(大永元(一五二一)年~元亀四(一五七三)年)。永禄二年に出家して信玄に改名。言わずもがなであるが、ここは輝虎と晴信の抗争を指す。「川中島の戦い」の最も知られた両者一騎打ちの第四次合戦は、永禄四(一五六一)年)に行われ、五次に及んだ「川中島の戦い」の中で最大規模の戦さとなり、多くの死傷者を出している。

「さがなき」とんでもなく性質(たち)の悪い。

「元龜元年」一五七〇年。

「三好日向守」畿内や四国で八ヶ国をも経営し、室町幕府の摂津国守護代も勤めた三好長慶(ながよし 大永二(一五二二)年~永禄七(一五六四)年)。信長に先行する最初の「戦国天下人」とも称されて絶大な権力を誇ったが、晩年は家宰の松永久秀に実権を奪われ、嫡子義興をも失い、第十三代将軍義輝(よしてる)との調整に悩みながら、失意のうちに病死した。文芸に秀いで、連歌の名手でもあった。

「服部」この附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「原(はら)と云ふ村」前注の地区の北に現在、大阪府高槻市原がある。

「租山(そやま)に城ありて」前注の原地区の、芥川の上流にある三好山に築かれた巨大な山城。この当時は三好氏の家臣で三好一族の長老的立場にあった三好長逸(ながやす 生没年不詳:永禄八(一五六五)年五月、三好氏の障害となっていた第十三代足利義輝(よしてる)を暗殺した人物)が城主であったと思われるが、ここにあるような形では長逸は死んでいないし、落城もしていない(ウィキの「芥川山城」によれば、同山城は廃城の時期さえも明らかでないとある)。

「義昭(よしてる)」「よしてる」は原典のママ。「よしあき」の誤りである。室町幕府最後の第十五代将軍足利義昭(天文六(一五三七)年~慶長二(一五九七)年:在職:永禄一一(一五六八)年~天正一六(一五八八)年)。]

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