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2017/07/13

宿直草卷三 第十四 虱の憤り、人を殺せし事

 

  第十四 虱の憤り、人を殺せし事

 

 さる高家(かうけ)の内に、中居(なかゐ)の役(やく)する人、江戸へ詰めけるが、ある時、身、痒かりければ、手やりて見るに半風(しらみ)なり。大きに驚きて、

「まだあるか。」

と尋れども、移りし分際(ぶんざい)なれば、最早、見えず。一寸四方の紙に包み、

「干死(ひじに)になれ。」

とて、臺所の柱に、割目の有しに押し込み、役義勤めて、國へ下る。

 三年過(すぎ)て、又、當番の年、下りて勤む。かの柱にて思ひ出し見るに、例(れい)の紙、包みしまゝに、やはり、あり。やがて取出(とりだ)して見るに、かの虱、紙ほど薄くなりて有(あり)。

「さてさて、腐りもせで居(お)る事よ。」

と見るに、あまさへ、まだ死なず。手を打(うち)て、

「これはこれは。皆々、見給へ。去々年(おとゝし)移りし虱の、今見るに、まだ、死なぬ事よ。珍しきにあらずや。」

と、掌(たなごゝろ)に据へて、あちこち見する内に、かの虱、尻を上げて、いぢいぢとして手の内を喰らふ。

「やれやれ、物喰(ものく)い機嫌か。」

と侮りしが、痒くしたるかりければ、

「いやいや、和御前(わごぜ)に喰はれて何かせん。」

と、外(そと)へ放(はふ)らかしゝが、其喰(く)いし跡、漸々(ぜんぜん)に大きくなり、色々、療治せしが、遂に癒えず、そこより腐りて、死せりとなり。

 これを思ふに、虱は毒にて、身にあれば喰らはれし所、腐りて、なべて死するかと思へば、さは、なし。かの祇園林(ぎをんはやし)の草枕、村雨(むらさめ)そほる起き臥しに、濡れみ濡れずみ破(やれ)衣(ぎぬ)に、湧くか移るか、さらに半風(しらみ)の數へがたきも、つらき命の生き過(すぎ)て、面桶(めんつ)の曲げて世を渡り、割御器(われごき)の我あり顏のこもじも有けり。たゞこの人よ、三年(みとせ)過てふころしもあへぬ、其怨念のなすところか。蚤の息も天へ昇らば、小さき物と侮どるべからず。一思ひに死なば、かほど恨みはあらざらまし。

 總(すべ)て此(この)話のみか、派手な小歌に破(やぶ)れ菅笠(すげがさ)、さらに着もせず捨てもせぬ、曲(くね)り心の生煮へ人は、万(よろづ)につけて、をとましくこそ。

 

[やぶちゃん注:これは「古今著聞集」の「卷第二十 魚蟲禽獸」に載る「或る京上りの田舍人に白蟲仇を報ずる事」の焼き直しに過ぎない。以下に新潮日本古典集成版を参考に恣意的に正字化して示す。

   *

或る田舍人、京上りして侍りけるが、やどにて天道(てんたう)ぼこり[やぶちゃん注:日向ぼっこ。]してゐたりけるに、くびの程のかゆかりけるをさぐりたれば、大きなる白蟲(しらみ)の食つきたりけるなり。それを何となくて[やぶちゃん注:これといった理由もなくして。]、腰刀を拔きて、柱をすこしけづりかけて、其中にへしこめて、はたらかぬやうにをしおほひてけり。さて、このぬし、田舍へ下りぬ。

 次の年、のぼりて、また、このやどにとどまりぬ。ありし折りの柱を見て、

「さてもこの中にへしいれし白蟲、いかがなりぬらん。」

と、おぼつかなくて[やぶちゃん注:気になって。]、けづりかけたる所を、ひきあけて見れば、白蟲の、み[やぶちゃん注:肉身。]もなくて、やせがれて、いまだあり。死にたるかと見れば、猶、はたらきけり。ふしぎにおぼえて、おのがかひな[やぶちゃん注:腕。]に置きて見れば、やをらづつはたらきて、かひなにくひつきぬ。いとかゆくおぼしけれども、いまだ生きたるがむざんさに[やぶちゃん注:不憫さ故に。]、

「事のやう見ん。」

とて、猶、くはせをりけるほどに、しだいにくひて、身あかみける折り、はらひすててけり。そのはひたる跡、あさましくかゆくて、かきゐたりけるほどに、やがてはれて、いく程もなきおびただしき瘡(かさ)になりにけり。とかく療治すれども、かなはず。つひにそれをわづらひて死ににけり。白蟲は下﨟(げらふ)などは、なべてみな持ちたれども、いつかはそのくひたるあと、かゝる事ある[やぶちゃん注:きっぱりとした反語である。]。これは去年よりへしつめられてすぐしたる思ひ通りて、かく侍りけるにや。あからさまにも、あどなき事[やぶちゃん注:子ども染みた悪戯。]をば、すまじき事なり。

   *

「虱」ここは昆虫綱咀顎目シラミ亜目 Anoplura に属するもののうち、ヒト寄生性のヒトジラミ科ヒトジラミ属ヒトジラミ(Pediculus humanus:アタマジラミ Pediculus humanus humanus とコロモジラミ Pediculus humanus corporis の二亜種。但し、両者を独立種とする説もある)及び、陰部に特異的に寄生するシラミ亜目ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Phthirus pubis の二種の孰れかである。主人公が最初に自分の体のどこから採取したかが書かれていないので同定は不能であるが、たまたま体に移ったという表現が繰り返され、他の寄生個体が全く見られないところからは、ケジラミの可能性はかなり低くなるように思う。また、人から離れた場合はヒトジラミで一週間程度、ケジラミはもっと短くて二日未満しか生きられないヒト寄生の依存度の高い寄生虫で、三年というのは絶対にあり得ない。また、最後にこの武士は咬み痕が腐って死んだとあり、荻田は「虱は毒」と断じつつも、「なべて死するかと思へば、さは、なし」とも言い添えてあるのであるが、ヒトジラミは発疹チフスの病原体(真正細菌プロテオバクテリア門αプロテオバクテリア綱リケッチア科リケッチア属発疹チフスリケッチア Rickettsia prowazekii)のベクターであり、本疾患は重症化すると、死に到る。特に高齢者の場合は死亡率が格段に高いので、強ち、これを絵空事とは言えない。なお、「古今著聞集」の原話の虱は首筋とあるから、明らかにヒトジラミであり、その症状も発疹チフスとよく一致しているように思われる。

「高家(かうけ)」広義には「由緒正しい家・名門」であるが、江戸幕府の職名でもあり、その場合、老中支配に属して主として儀式・典礼を掌り、伊勢・日光への代拝の他、特に京都への御使い・勅使接待などの朝廷との間の諸礼に当った家柄を指す。これは世襲で、足利氏以来の名家である吉良・武田・畠山などの諸氏が任ぜられた。ここは後者でとっておく。

「中居(なかゐ)の役」岩波文庫版の高田氏の注には、『屋敷の奥向きの取次ぎなどをする役』とある。

「半風(しらみ)」半風子(はんぷうし)とも称し、シラミの別名。「虱」を「風」の半分と見たところに由来する。

「移りし分際なれば」たまたまこの一個体が彼の体に移ってきたばかりのことであったので、繁殖もせず、外には見えなかった、というのである。

「やれやれ、物喰(ものく)い機嫌か。」「いやはや、そんな木乃伊のようなざまで拙者を嚙み喰わんとするかのう。」。

「痒くしたるかりければ」「痒くしたるべかりければ」の脱字か。この時、彼奴(きゃつ)が肌に噛み付いて痒くさせたらしいことに気がついたので。

「祇園林(ぎをんはやし)の草枕、村雨(むらさめ)そほる起き臥しに、濡れみ濡れずみ破(やれ)衣(ぎぬ)に」岩波文庫版の高田氏の注には、『遊女熊野が平宗盛に止められて何年も老母の待つ古郷に帰れず、都に滞在した話をさす。謡曲『熊野』による』とある。老婆心ながら、「熊野」は「ゆや」と読む。作者未詳。平宗盛の愛妾熊野が遠江国にいる病母のことを案じて暇を乞うも許されず、清水寺への花見の供をさせられるが、そこでにわかに降り出した村雨に桜花が散るのを見て熊野が「いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらむ」という歌を詠じたのを、宗盛が哀れに思って帰郷を許すという筋立てである。小原隆夫氏のサイト内の宝生流謡曲「熊野」の詞章を参照されるとよく判る。柱に虱を意味もなく理不尽に封じ込めた武士の行為をそれに対称化したものであるが、どうも取って附けた何だかな風流という気が私にはする

「數へがたき」たった一匹であることを指すか。

「面桶(めんつ)」岩波文庫版の高田氏の注には、『檜の薄板を曲げて作った楕円形の食器。「曲げ」ということばを引き出す語』とある。

「割御器(われごき)」割れた木製食器のことか。これも「我」を引き出す語として使われている。

「我あり顏」こうしてこの世に我も立派に生きているという貧しい民草のことか。

「こもじ」岩波文庫版で高田氏は、『不詳。割れ目をふさぐ木の薄皮をいうか』とされておられるが、それでは序詞的な「割御器」がまた生き返ってしまうことになり、私は採れない。私はこれは女房詞の「こ文字」(「こ」で始まる語の伏字的言い換え)で「乞食」の謂いではあるまいかと考えている(「日本国語大辞典」にその意味が出る)。それなら、「我あり顔の」乞食で腑に落ちるからである

「三年(みとせ)過てふころしもあへぬ」ここは原典のままに表記したが、実は底本では、

 

 三年過てふ頃しもあへぬ

 

となっており、それに対して、同じ高田氏編の岩波文庫版本文では、

 

 三年過てふ殺しもあへぬ

 

となっている。私はここはその両意をここは掛けているのではないかと思っている。則ち、「あへぬ」は「敢へぬ」ですっかり殺し切ることもせずの謂いで、『三年もの、とんでもない長い時間が過ぎたという「頃」になって、何とまあ、「殺し」きることもせずに柱に封じこめおいた』(ものを憐れにも思うことなく、庭へ投げたという残酷な仕打ち)の謂いと採るものである。大方の御叱正を俟つ。

「派手な小歌に破(やぶ)れ菅笠(すげがさ)、さらに着もせず捨てもせぬ、曲(くね)り心の生煮へ人」これも何か、江戸初期に始まった巷の流行歌である端唄(はうた)の一節をもとにしているようには思われる。ともかくも、たかが虱とはいえ、生きとし生けるものとしては同類であるものに対し、かくも生かすわけでも殺すわけでもない、殺生の覚悟もさらさらなく、どっちつかずの曖昧な態度に基づく、いやさ、遊び心で以って、その虱を柱に封じ込めるという行動をとった「生煮へ人」である武士、その行為はまさに武士という品格に反するところの、正反対の厭らしい姿が同居をした、とんでもない奴であったということを言いたいのであろうと私は読む。ここも大方の御叱正を俟つ。

「をとましく」「うとましく」で、厭な感じの意。]

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