フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 北越奇談 巻之三 玉石 其二(水昌石) | トップページ | 柴田宵曲 續妖異博物館 「牛になつた人」 »

2017/08/14

北越奇談 巻之三 玉石 其三(貝石)

 

    其三

 

 高田より、東三里、山に入(いる)事、二十余丁、横澄(よこすみ)川と云へる溪流在(あり)。此内、貝石(ばいせき)を出(いだ)すこと、甚(はなはだ)、夛(おほ)し。螄螺(にしほら)・螺蚶(あかゞひ)・蜆(しゞみ)・蛤(はまぐり)・蜊(あさり)の數品(すひん)、皆、自然に形文(けいぶん)麗(うるは)しく、弄玩(ろうぐはん)、愛すべし。是を碎くに、内(うち)、實(じつ)し、玉石のごとく透き通り、潤沢なるもあり。又、其大なるもの、是を打ち碎き見るに、内に小貝石(こばいせき)を含むこと、或は一、或は二、三。蛤石(がうせき)の螺(ら)石を含むあり。大螺(たいら)石・小蛤(しようごう)を含(ふくむ)もあり。皆、内(うち)、實(じつ)して、更に空所なし。たまたま、此貝石、自然に水を含むものを見る。是等の貝石、甚だ奇なり。密(ひそか)に按ずるに一ツとして口を開(ひらき)たるなし。皆よく合(がつ)す。然(しか)れば、生(いける)貝、土中に落入(おちいり)て、數(す)十年を歴(ふ)るに及んで石と成るもの、其肉も共に化(くは)して、石とならば、中(うち)、盡(ことごと)く實(じつ)するいはれ、なし。又、土を含んで、内(うち)、實(じつ)すると云はゞ、口、よく合(がつ)する理(り)なし。又、螺(ほら)の螺を含み、蛤(はまぐり)の蛤を含(ふくむ)ものは其(その)貝子(ばいし)共(とも)云(いふ)べし。他(た)の小貝(こがひ)を含むものは、是、又、不審なり。凡(およそ)北海所々(しよしよ)、山中に此類ありと雖も、其夛く出す所、横澄川に若(し)かず。古志郡(こしごほり)三宅村赤壁(せきへき)の岸(きし)、此砂土(しやど)一へん一へんにして海磯(かいぎ)のごとく、此一へんの間(あいだ)、貝石、數萬(すまん)を敷(しけ)り。香川啓益(かゞはけいゑき)は、『造化の然(しか)る所、此類(るい)多し』と云へ、が國、寺泊駅、丸山氏、「越後名寄(えちごなよせ)」に、『是は、只、山中自然の物なるべし。海中の貝殼、風雨に晒(さら)す時は、皆、化(け)して不ㇾ見(みえず)。然(しか)れば、石となる理(り)なし』と云へれど、其説、不明(あきらかなならざる)也。今、新に、海底の枯貝(こばい)、壳(こく)を以(もて)日に晒し、雨に濕(うるほ)さば、消(せう)するも理(ことわり)なり。山中(さんちう)にある所は、上古、土中(どちう)に落入(おちいり)たる貝壳(かいがら)なれば、風雨に晒すとは、格別なり。又、貝原(かひばら)先生、「大和本艸」に『混沌未分前世界のもの。可ㇾ見(みつべし)』と云へり。是、又、篤信(とくしん)の博識には方便に近き説と云ふべし。世界の變化、一へんして、子(ね)に、天、成り、丑(うし)に、地、成り、寅(とら)に人の生ずる、なんどは、其始(はじめ)を明らかにするの假説にして、何ぞ前世界と云ふの理(り)あらん。只、天地の變化は、此所(このところ)、山と成れば、彼所、落入て海と成り、何處(いづく)と云ふに定(さだめ)はなけれど、例へば、川の渕と成り、瀨と成るがごとし。只、上古、人智、明かなることなきが故に、歴代を不ㇾ記(きせず)。後人(こうじん)、その源(みなもと)を明らかにせんがために、天皇氏(てんくはうし)・地皇氏(ちくはうし)・天神(てんじん)・地神(ちしん)など、假(かり)に設(もふ)けたることなれば、只、上古は、人形(じんけい)にして鳥獸の意(い)に異(こと)なることなきものと覺(おぼ)ゆ。されば、三皇氏(さんくわうし)と雖も、又、久しきとするに足らず。一たび、人智、闢(ひらけ)しより此後(こののち)數千年に至るとも、何ぞ上古人(じようこのひと)に同じからん。天地の変は、只、何時(いつ)となく事替(ことかは)り、日(ひゞ)に新にして二十年を歴(ふ)れば、山川(さんせん)・道路に至るまで、盡(ことごと)く變はるものなり。ましてや、古代、名高き勝地旧跡、今、只、尋(たづぬ)る所なきがごとし。されば、是より後(のち)もまた、天地、長久無量なるべし。「桂海虞衡志(けいかいぐかうし)」に、『石蝦(せきか)・石蠶(せきさん)・石鼈(べつ)』を擧(あ)ぐ。此類(たぐひ)か。只し、が國の貝石は、皆、上古、海磯(かいぎ)の変ずる所と思ふのみ。大螺(たいら)の小蛤(しようがう)を含(ふくむ)の類(たぐひ)は、我が知らざる所也。

 

[やぶちゃん注:「貝石(ばいせき)」は「かいいし」とも読み、ここでの用法は海岸ではなく、陸地から出土する、古代の貝殻の化石となったものを指している。

「二十余丁」二十町は二キロ百八十二メートル。「余」を三町程ととると、二キロ半、前の「三里」を加えると、当時の高田市街からは十四キロメートル強となる。

「横澄(よこすみ)川」不詳。但し、現在の高田市街からほぼ東へ直線で二十キロほどの山間の地区に新潟県上越市安塚区須川という地域があり、新潟県土木部砂防課の公文書を読むと、この地区の中には澄川という地域が存在する。ここは須川川を挟んだ山間渓流添いの一帯であるから、まずはここ(リンク先は国土地理院地図。他の操作をせずに左端の拡大ボタンをひたすら押されたい)を比定の第一候補としたい。但し、「三里」が短か過ぎる気はする。これ以外に気になるのは、新潟県上越市三和区大という地区にある石山という名のピークである。この山は高田市街から真東に直線で十キロで、麓に渓流がある。この立地条件と距離と山名から最初に気にはなったので、ここ(グーグル・マップ・データ)を比定の第二候補としておく。但し、「横澄川」という名称との連関性は全く見出し得なかった。但し、ここに出る貝化石は、その形状や種(推定)や日本列島の形成過程から見て、中生代(約二億五千二百十七万年前から約六千六百万年前)以降、新生代(約六千五百万年前から始まり、現代もそこに含まれる)のものであろう。

「螄螺(にしほら)」「螄」も「螺」と同じく腹足類「にな」を意味するから、これは特定種ではなく、螺高の高い巻貝類(軟体動物門腹足綱 Gastropoda)を広汎に指していると考えてよかろう。以下、古代のそれらであることに注意されたい。現生種にそっくりであっても全くの別種の可能性もあるからである。以下、くだくだしいが、それを考えて注してある。

「螺蚶(あかゞひ)」狭義には斧足(二枚貝)綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ科アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii を指すが、有意な肋を持って良く似るフネガイ科リュウキュウサルボウ亜科サルボウガイ属サルボウガイ Scapharca kagoshimensis 及び同形状を示すフネガイ科 Arcidae の広汎な種を含むと考えてよい。

「蜆(しゞみ)」斧足綱異歯亜綱シジミ上科シジミ科 Cyrenidae のシジミ類或いはシジミ上科 Cyrenoidea に属する種群や形状の似た別種。

「蛤(はまぐり)」異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria 及び近縁種或いは形状の似た広汎なマルスダレガイ科 Veneridae 等の別種。

「蜊(あさり)」マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum及び近縁種或いは形状の似た広汎なマルスダレガイ科 Veneridae 等の別種。

「形文(けいぶん)」貝殻の外側の肋や紋様。

「内(うち)、實(じつ)し」殻の内部が完全に土砂や石礫で満ちていることを指す。

「玉石のごとく透き通り、潤沢なるもあり」私は幼少の頃、現在の家の近くの切通しで、こうした貝化石を多数採取するのが趣味の孤独な化石少年であった(現在でも造成地の土中に多く現認出来る)が、殻の内部全体がこのように変質したものはついぞ見たことはなかったこうしたものに変性するのは非常に古い中生代の化石類である。

「其大なるもの、是を打ち碎き見るに、内に小貝石(こばいせき)を含むこと、或は一、或は二、三。蛤石(がうせき)の螺(ら)石を含むあり。大螺(たいら)石・小蛤(しようごう)を含(ふくむ)もあり」これは単に貝化石群が造山運動の圧力によって圧縮され、多量の貝化石層を成しているのを一個の貝の内部に多数の貝が含まれていると誤認したものではなかろうか?

「たまたま、此貝石、自然に水を含むものを見る」これも山上の雨水や地下水が浸出した地層から出土した貝化石を太古から水を含んでいたものと誤認したに過ぎまい。

「一ツとして口を開(ひらき)たるなし。皆よく合(がつ)す」これも誤認で、そんなことはない。貝化石地層では粉砕した片々のそれをよく見かける。ただ、完品以外の片々は重なっていると圧による粉砕が早く、特に崖に露出していると、即座に風化されてしまうから、崑崙はそれらの粉砕された殼片を殻と見做さなかっただけであろう。

「數(す)十年」崑崙先生、それはないでしょ? 後の人為的な貝塚を形成した縄文人の時代でさえ約一万五千年も前ですぜ!

「其肉も共に化(くは)して、石とならば、中(うち)、盡(ことごと)く實(じつ)するいはれ、なし。又、土を含んで、内(うち)、實(じつ)すると云はゞ、口、よく合(がつ)する理(り)なし」言わずもがな乍ら、死貝が海底に沈み、内臓は速やかに腐敗し、それが海底の砂泥中に埋没すれば、隙間から砂泥が侵入し、それが海水の圧力をかけられるから、二枚貝が殻を合わせた形で、内部に土を含んで化石化することは何ら不思議ではありません。崑崙先生。

「螺(ほら)の螺を含み、蛤(はまぐり)の蛤を含(ふくむ)ものは其(その)貝子(ばいし)共(とも)云(いふ)べし」「貝子」とは貝の稚貝ということであろうが、通常の貝類はそのような生殖法を持たない。但し、淡水産の腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae のタニシ類は卵胎生で母体(雌雄異体)が稚貝を産む。しかし、これがタニシのそれであるとは私には思われない。やはり、貝化石層の圧縮されたそれを誤認したものであろう。いや、この後の「他(た)の小貝(こがひ)を含むもの」があるというのは、まさしくそうした誤認であることを図らずも証明しているものと言える(他の貝を捕食する肉食性の貝類はいるが、貝を貝そのままに摂餌してしかもその死貝を体内に保存するものなどは存在しない)。

「古志郡(こしごほり)三宅村赤壁(せきへき)」不詳。旧古志郡は現在の長岡市の一部・小千谷市の一部・見附市の一部に当たる。識者の御教授を乞う。

「此砂土(しやど)一へん一へんにして海磯(かいぎ)のごとく」非常にくっきりとした地層が有意に凹凸を以って積み重なって岩礁性海岸の海食崖の露頭地層のようになっているというのであろう。

「香川啓益(かゞはけいゑき)」これは江戸中期の医師で字(あざな)を「啓益」と称した香月牛山(かつきぎゅうざん 元文五(一七四〇)年~明暦二(一六五六)年)の誤りではなかろうか? 「朝日日本歴史人物事典」によれば、彼は豊前国出身で、後に筑前に移って貝原益軒に儒学を、鶴原玄益に医学を学んだ。中津藩(豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した)の医官として仕えたが、その後、辞して京都に出、二条で開業医となった。著書に「老人必要養草」「薬籠本草」「婦人寿草」「巻懐食鏡」などがある。ここの「造化の然(しか)る所、此類(るい)多し」(「貝のまるのままの化石というのは天然自然の造化の及ぼすところであって、こうした現象は多く見られる」という意味か)の出典は不明。識者の御教授を乞う。

『丸山氏』野島出版脚注に『「越後名寄」の著者。三島郡寺泊の人。元純』、また、『良陳と称す。其の祖某、長左ヱ門と称し、医を以て長岡牧野氏に仕へ、秩』(ちつ:俸禄。)『八十石を食んだ。其の子杢左ヱ門格勤能く其の職を奉じたが藩侯を諌めて其の怒に触れ、浪人となりて与板に移り、児童に教えて余生を送った。寺泊は諸国行旅の輻輳する所であるのみならず、国人の來往も頻繁であった土地なので』旧『記も多かった』ことから、『元純は書史を討究し或は歴訪捜索すること二十余年にして「越後名寄」三十巻』(三十一巻が正しい)『を著わした。宝暦八年』(一七五八年)、『七十二才で歿した』とある。なお、この人物の末裔が作家の丸山健二であるらしい(個人サイトのこちらに拠る)。「越後名寄」は越後の史料・口碑を蒐集した一種の百科全書。早稲田大学古典データベースのこちらで画像で全巻が読めるが、流石に厖大で捜す気になれない。悪しからず。見つかったら、どうかお教え下さい。お名前とともにリンクを張りたく存じます。

「山中自然の物なるべし」これは、「山中に自然に存在した陸生貝類であろう」と言っているようだ。有肺類の蝸牛の例はありますがね、ちょっとムリでっしょう、丸山先生!?!

「壳(こく)」原典は「売」の字であるが、かく、した。野島出版版は『殻』。意味は確かにそれである。

「貝原(かひばら)先生」江戸前・中期の儒者で本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。名は篤信。筑前福岡藩主黒田光之に仕え、後に京に遊学して寛文四(一六六四)年に帰藩した。陽明学から朱子学に転じたが、晩年には朱子学への疑問を纏めた「大疑錄」も著している。教育や医学の分野でも有意な業績を残している著書は以下の「大和本草」の他、「養生訓」「和俗童子訓」など、生涯、実に六十部二百七十余巻に及ぶ。

「大和本艸」益軒が編纂した本草書で宝永七(一七〇九)年刊。本編十六巻・付録二巻・図譜三巻で計二十一巻からなる大著。明治になって西洋の生物学・農学の教本が輸入されるまで、日本史上最高峰の生物学書・農学書であった。李時珍の「本草綱目」の分類法を基にしつつ、独自の分類を考案・編纂したもので、収載された品目は千三百六十二種に及ぶ。参照したウィキの「大和本草」によれば、『薬用植物(動物、鉱物も含)以外にも、農産物や無用の雑草も収載されている。また「大和本草」は古典に記載された物の実体を確定する名物学的側面も持っている。本来の本草学とは薬用植物を扱う学問であるが、この大和本草に於いて日本の本草学は博物学に拡大された。これらは益軒が本草学にとどまらず農学、儒学、和漢の古典など多数の学問に通じていたからこそ出来たことでもある』。『漢名の無い品目も多数収載されている。益軒以前の日本の本草学は「本草綱目」を分析する文献学であった。他の学者は漢名のない日本独自の物は無視して取り上げない、あるいは無理に当てはめるというようなことをしたが』、『益軒はそれをしなかった。また、図版を多く用いることで理解を助ける、仮名が多く使われていることも当時の学問書としては異例のことである。これは益軒が学問を真に世の人の役に立つものにしたいという思いの現れである』。『益軒は自ら観察・検証することを基本とした。この後日本の本草学は文献学から脱皮し、自らの足で歩き植物を発見・採取する本草学者が現れるようになった』とある。この「混沌未分前世界のもの。可ㇾ見(みつべし)」(天地開闢以前のあらゆる物質がカオス(混沌)状態未分化の太古の世界に存在したものの遺物である。よく観察するがよい)は同書のどこに出るのかは不詳。同書の「金玉土石」の部を縦覧したが、見当たらない。「介」部にはないと思う。発見し次第、追記する。因みに私は『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の電子化訳注も手掛けている

「篤信(とくしん)」先の注で述べた通り、貝原益軒の字(あざな)。

「博識には方便に近き説」博覧強記の益軒先生にしては、ちょっといなしただけの不十分極まりない説だというのである。崑崙、実に他の学者に対しては相当に辛口である。

「一へん」「一變」であろう。

「子(ね)に、天、成り、丑(うし)に、地、成り、寅(とら)に人の生ずる」十二支を宇宙の生成と消滅を、始め(子)と途中(丑・寅)及び終り(亥)に割り振ったもの。

「何ぞ前世界と云ふの理(り)あらん」宇宙の起源のカオスの世界など論理的にあろうはずがないと崑崙はいうのであるが、これは現在のビッグ・バン理論からすれば、益軒に軍配が挙がる。そもそも崑崙は自分の宇宙生成論をここで提示していないから、ダメである。しかしどうも、崑崙は鬼神を信じたが、私は実は「古事記」にあるかの神々による天地開闢神話は、これを、あまり信じていなかったようにも思われるのである何故か? だってそうでしょ? 「古事記」の冒頭の「くらげなすただよへる」時というそれは、文字通り、「混沌」(カオス)の「海」であり、この山の中の「貝」の化石が、まさにその原型(プロトタイプ)の大「海」に棲息していた貝であっても、これ、よいことになるだろうに、と私は考えるからである

「只、上古、人智、明かなることなきが故に、歴代を不ㇾ記(きせず)」上古、人間の智は十全なものでなかったがために、その歴史的事実を記すことが出来なかった。

「天皇氏(てんくはうし)・地皇氏(ちくはうし)中国の天地開闢神話の中に登場する伝説上の帝王の名の一つ(複数あるものの中の一説)で、通常は「三皇」と称し、「天皇」・「地皇」・「泰皇」(「人皇」とも)を挙げる。ウィキの「天皇」によれば、天皇は『天地創造の神である元始天王が太元聖母と気を通じることによって生まれたとされ』、「三才圖會」の想像図では、外観上、『ほぼ人間と同じ(髭を生やした顔)であるが、体は鱗で覆われており(首と手首にはない)』、「地皇」が『部分的に鳥の肉体を有し』、「人皇」に至っては、ほぼ、『蛇として描かれていることからも』、「天皇」は『三皇の中で最も人に近い姿として描かれている』とある。一方、ウィキの「地皇」によれば、地皇は『天皇から生まれ、地皇は人皇を生んだとされ』、同じく「三才圖會」では『顔は人だが』、『頭頂部にとさかを有し(左右には髪が生えている)、肩から胸にかけて羽毛を生やし、両腕は鳥類の脚となっており、人と鳥を掛け合わせた「鳥人」のような姿で描かれている』とある。西晉の皇甫謐の著になる、三皇から漢魏にいたる帝王の事蹟を記録した「帝王世紀」(散逸したため、諸書の引用から復元されたもの)に『「春秋緯」云、天皇・地皇・人皇、兄弟九人、分九州、長天下也』と出る。

「天神(てんじん)」ここは前に「天皇」「地皇」を並べる以上は中国古代思想に於ける天の神を指すととる。万物を創造し主宰するところの最高神としての天帝。道教では地上の人々の行為を監視し、その善悪の裁きを下す神とされ、或いは老子を神格化した「老君」とも同一視される。

「地神(ちしん)」前と同じようにとり、ここは中国古代思想の大地の神或いは有象無象の土地神としておく。

「假(かり)に設(もふ)けたることなれば、只、上古は、人形(じんけい)にして鳥獸の意(い)に異(こと)なることなきものと覺(おぼ)ゆ」これはまことに唯物的な主張である。私が崑崙は日本神話を信じていなかったとするのは、まさにこの断定に近い言辞によるのである。彼にとっては中国の神仏も日本の神仏も、辻褄合わせのために仮にでっち上げた児戯に等しい噴飯物でしかないとさえ思っているのではあるまいか? しかし、そうした立ち位置に居ながら「鬼神」の実在は疑いないとする、この男、いやはや、タダモノでは、やっぱり、ないわいな!

「人智、闢(ひらけ)しより此後(こののち)數千年に至る」この数字は正しいね。

「何ぞ上古人(じようこのひと)に同じからん」反語。

「されば、是より後(のち)もまた、天地、長久無量なるべし」この順接の接続詞「されば」は判り難い。寧ろ、逆接で繋げるべきであろう。「天地の変は、只、何時(いつ)となく事替(ことかは)り、日(ひゞ)に新にして二十年を歴(ふ)れば、山川(さんせん)・道路に至るまで、盡(ことごと)く變はるものなり。ましてや、古代、名高き勝地旧跡、今、只、尋(たづぬ)る所なきがごとし」というわけで、宇宙は千変万化にして無常迅速、桑田変じて滄海となるというわけだ「けれども」、大いなる自然としての「天地」は「長久無量」なのだと言ってよい、として初めて私はしっくりくるからである。

「桂海虞衡志(けいかいぐかうし)」南宋の范成大の著になる嶺南の山川・物産を記した地誌で、「巖洞」・「金石」・「香」・「酒」・「器」・「禽」・「獸」・「蟲魚」・「花」・「果」・「草木」(ここまで部の頭には「志」が附される)及び「雜志」と「蠻」に分類して記す。中文ウィキソースのこちらで全文が読める。

「石蝦(せきか)」同書の「志蟲魚」に『石蟹、生海南、形真似蟹。云是海所化、理不可詰。又有石蝦、亦其類』とある。これは甲の堅い蝦(えび)ともとれなくもないが、「石蟹」はどうも、蟹に酷似した石・蟹の化石のようにも読める。実は先の益軒の「大和本草」の「金玉土石」の部には明らかに蟹の化石と読めそうなものが項立てされてある。

「石蠶(せきさん)」同書には「石蠶」では載らない。「志果」に『地蠶、生土中、如小蠶、又似甘露子』となら、ある。因みに、やはり「大和本草」のまさに「石蟹」の次に「石蠶」が載り、そこには、

   *

石蠶 海濱ニアリヨク蠶ニ似タリ一ヅヽハナレテアリコレハ蠶ノ化シタルニハ非ス天然ニ生成セルナリ又石蠶ト云蟲アリ別ニ水蟲門ニノセタリ異類同名也

   *

とある。益軒の最後に言っているそれは、幸いにして既に「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 石蠶」として電子化訳注済である。そちらについて、私は「石蠶」昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera に属する昆虫類の幼虫(及びその砂礫を繫げた棲管)に同定している。ただ、ここで益軒の言っている海産の「石蠶」はよく判らぬ。当初、ナマコのアルビノ(白化個体)かとも考えたが、益軒は別に「海鼠」の項を設けており、そもそもぐにゃぐにゃのそれを石と取り違えることあり得ない。この益軒の言い方は「天然ニ生成セルナリ」とあって、「金玉土石」の部に入れる以上、益軒は石だと思ったほどに堅いことを意味している。とすると、可能性は二つと思う。軟体動物門腹足綱前鰓亜綱盤足目ムカデガイ科Serpulorbis属オオヘビガイSerpulorbis imbricatu か、或いは、死んだ珊瑚の骨格片である。しかし、彼が福岡藩士とは言え、福岡の海岸線にいつも珊瑚の骨格片がごろころ転がっていたとも思えない。取り敢えずはオオヘビガイとしておく

「石鼈(べつ)」同書には「石鼈」は載らない。不審。或いは先に示した「石蟹」の誤読ではあるまいか? 「鼈」は狭義にはスッポンを指すが、ここは亀の化石ととってよい。

「大螺(たいら)の小蛤(しようがう)を含(ふくむ)の類(たぐひ)」これは判るぞ。腹足類でも開口部の大きな大型の巻貝類なら、死貝のそこに、小型の二枚貝類の死貝群が多量に入り込んだ状態で化石化したに過ぎまい。どうってことないよ、崑崙先生。]

« 北越奇談 巻之三 玉石 其二(水昌石) | トップページ | 柴田宵曲 續妖異博物館 「牛になつた人」 »