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2017/08/05

北越奇談 巻之一 龍蛇ノ奇

 

[やぶちゃん注:読み易さを考え、本文の段落の冒頭は野島出版版に従い、一字空けた。冒頭の「挍合」は「校合」(けふがう(きょうごう))に同じい。

 

北越奇談巻之一

 

        北越 崑崙橘茂世述

 

        東都 柳亭種彦挍合

 

    龍蛇(りやうだ)ノ奇

 

Hokuetukidannryou

 

[やぶちゃん注:右の雲中に、

 

編者崑崙

 新寫にて

  龍巻に

   あふ

 

とある。しかし茂世の落款はどこにも見当たらないし、タッチから見ても、これは「北越奇談」刊行に当たって橘が新たに描いたものを北斎が描き直したものと思われる。本文第一篇の挿絵をわざわざ「新寫」したという事実から見て、本書刊行に当たって、橘が原稿だけでなく、挿絵の追加を望んだり、或いは最初に描いたものに橘本人がダメ出しをして書き直したことが実は刊行が何年も遅れた一因であるように思えてきた。]

 

 北越は水國なり。西北、海、廣(とを)く、東南・坤(うしとら)に環(めぐ)りて山勢、波濤のごとく聳(そびへ)て、其央(なかば)、只、香山(いやひこやま)・米嶽(よねやま)を置(おく)のみにして、餘地、盡(ことごと)く平田(へいでん)・邑里(ゆうり)、離坎(みなみきた)八十余里に連(つらな)り、横幅(わうふく)、尤(もつとも)地の厚薄(かうはく)に從がへ、或は八十、或は二十乃至三十余里に止(とゞまつ)て、川脈(せんみやく)縱横し、池澤(ちたく)、如ㇾ星、就ㇾ中、湛水(たんすい)の大なるもの鎧湖(よろひがた)と名づく。囘(めぐ)り十有余里、四時(しゐじ)、更に渺漫(びようまん)たり。商客(しやうかく)、常に揚帆(やうはん)して來徃(らいわう)す。『蚌珠照ㇾ暗』と南溪が「東遊記」に擧(あ)ぐるをもって略ㇾ之。福湖(ふくしまがた)次ㇾ之。囘り九里に餘り、冬夏、水、尚、不增減。蓮花如ㇾ錦漁舟織がごとし。謂ゆる靑蓮の生ずる所なり。塩津潟(しほつがた)は、過ぎし頃、只、一片の砂岸(しやがん)を穿つて數里(すり)の溜水(りうすい)、一時に歸海し、今、已に六十余村なり。佐潟(さがた)は山間(さんかん)にありて、其境(さかい)、挾(せば)けれども、水、甚(はなはだ)清麗にして、大鮒魚(たいふぎよ)を生ず。大潟(おほがた)・田潟・丸潟・蓮潟・浦潟・徳人(とくじん)潟・楊枝(やうじ)潟・岩關(いはせき)潟・岩舩(いはふね)潟・沼垂(ぬつたり)潟・鳥屋野(とやの)潟・圓上寺の潟、總て蒲原郡(かんばらごほり)に多くありて、鱸魚(ろぎよ)の美なるは、秋風(しうふう)に感をなし、蓴菜(じゆんさい)の無塩(ぶえん)は巳に古人の好對(こうつい)に入る。長峯(ちやうはう)の古城跡(こじやうせき)を巡りて、湖水、三つあり。其れ清徹(せいてつ)、いふばかりなし。爰(こゝ)に鯉魚(りぎよ)・鯰(なまづ)を産して、北國には、又、珍らしき所也。

 頸城郡の中に長池(ながいけ)・青柳の池あり。山の半(なかば)にして、清冷明徹、深きこと、幾許(いくばく)なることを知らず。謂ゆる潛龍(せんりやう)ありて、すこしも人語を高くすれば、忽(たちまち)、水、涌浪(わきなみ)たちて近付(ちかづく)べからず。一度見るも、恐怖せずといふことなし。上出(かみで)の池・鏡ケ池・蒲生ケ池、皆、次ㇾ之。又、五十嵐川の源流、蘓門山(そもんざん)の中嶺(ちうれい)【一に諏訪門ヶ嶽(すもんがたけ)】・吉ヶ平(よしがひら)といへる所、七つの池水(いけみづ)あり。其大なるもの馬追ヶ池と稱す。古木鬱々と覆ひ、山間に巡りて、清徹、鏡のごとく。一點の塵穢(ぢんゑ)なく、見る人、寒慄(かんりつ)せざるはなし。異郷の客(かく)、到れば、即(すなはち)、雲起り、風たちて、雷雨す。この水底、白螺(しろたにし)を生じて一奇とす。國中(こくちう)、旱(ひでり)する時は、行者みづから、此山に登り、かの白螺をとり來れば、即(すなはち)、大雨(たいう)す。田間(でんかん)、水足りて後(のち)、速(すみやか)に其所におくり返すとなり。若(もし)、誤(あやまつ)て、螺(たにし)、死する時は、洪水ありとぞ。大池・鰌ヶ池・河高ヶ池(かはだかがいけ)等は皆、次ㇾ之。河水(かはみづ)は名に應(おふ)、信川(しんせん)、其源(みなもと)、甲・飛・信の三州より出(いで)て、即(すなはち)、千曲川なり。魚沼川【一に大野川】をはじめ、万山(ばんざん)の諸流、盡(ことごと)く是に合(がつ)し、誠に千里の長流(てうりう)と云(いふ)べし。春夏秋冬のへだてなく、淼渺(ひやうびやう)両岸(りようがん)を浸せり。其幅、所によりて挾闊(きやうくはつ)があれども与板(よいた)より三条の間にいたりては、千數(す)百間(けん)に過ぎたる所、數里なり。それより三川に分かれて、湊近く合す。新潟より沼垂の裏、溜湛(りうたん)一里にあまりて水涯(すいがい)を見ず。渺漫、海潮(かいてう)に入會(にうくはい)する所なり。是より阿水(あがみづ)に續きて、通舩(つうせん)の新渠(しんかは)あり。二里の間、茶店(さてん)相連(つらな)る。阿賀川(あががは)といへるは、其源、日光山より出て奧州を歴(へ)、會津山中の溪流、一つに集りて、信川(しんせん)に劣らぬ大江(たいこう)なり。海邊(かいへん)近くなりては、松ヶ崎にわたる所、千二百間といふ。堺川・姫川は國の南にありて無双(ぶそう)の急流なり。靑海川・布(ぬの)川・古川・股川・大和川・早川・荒川・保倉川・近江川・鵜川・惡田(あくた)川・朝目川・小谷川・東川・島崎(しまさき)川・三島川・宮本川・清津川・赤川・中津川・大野川・佐梨川・阿古間川・大口(おほくち)川・刈谷田(かりやだ)川・貝喰川・五十嵐川・天神川・加茂川・古阿賀早出(こあがはやで)川・多屋野川・加治川・姫田(ひめだ)川・乙(きのと)川・黑川・絶名(たえな)川・荒川・淸川・瀨波川・大川等(とう)なり。其外、分流・溪流・大小、擧げていふべからず。

 誠(まこと)に北越は天下無双(ぶそう)の水國(すいこく)たるべし。かるがゆへに龍蛇(りやうだ)の化(くは)、無量にして、海より出(いで)て、山に入(いり)、山より來つて湖水に入(いる)。水を巻き、雲を起し、不時の風雨をなすこと、年ごとに人の見る所なり。

 兒(じ)たる時より是を聞(きゝ)ていまだ見ず。かの葉公(せつこう)の龍(りやう)を好める諭(たとへ)には異なれども、人の物語るに付(つき)て不審なる事ども、おほかりしが、去(いんぬる)寛政五癸丑(みづのとうし)年十一月廿日、さりがたき私用出來(いできた)りて、独(ひとり)、蓑笠に寒風をしのぎ、新潟の津(つ)にいたらんとす。此日、殊に雪しげく降りて、行(ゆき)かふ人もあらざりしが、木崎(きざき)なる茶店(さてん)に立寄(たちより)、便船(びんせん)やあると尋ねお求むるに、折節、雨雪(うせつ)をしのぐ笘(とま)だにもなき小舟(をぶね)ひとつ、流(ながれ)にまかせて漕來(こぎきた)りぬ。待(まち)もふけたることなれば、幸ひと、便(たより)をもとめ、舩中に簑うち敷きて坐するとおぼえし。忽(たちまち)、阿賀の大江を橫ぎり渡り、新渠(しんかは)いたりて茶店を望めば、此日の風雪激しきほどに、來徃の小舩、數十(すじつ)艘、岸に繫ぎて、何れに舟寄すべくもあらざれければ、舟子(ふなこ)の曰、

「旅人、今暫し、寒氣を忍び給ひ。」

とて、又、一里ばかり漕行(こぎゆき)ぬ時、いまだ七ツには過(すぎ)ざれども、風、いよいよ荒く、雪、空中に翻り、遠景、總て暮(くるゝ)がごとし。此所(このところ)、野守が笘屋一ツありて新潟へは一里なり。名に負ふ八千余流の港湊(ごうそう)する所、海と河水(かはみづ)と、只、一片の沙岸(しやがん)を隔つるのみ。白浪(しらなみ)、天に漲(みなぎり)、見るさへ、いとど物凄き折りなれば、は舟底に打臥し居けるに、舟子、忽(たちまち)、聲を上げ、慌て騷ぎて、

「すはや、龍卷の來るは。」

とて、舟底に轉(まろ)び臥しぬ。も思ひ寄らざることなれば、急立上(いそぎたちあが)りて是を見るに、海上、岸(きし)近く、一陣の黒雲(こくうん)、洑來(うづまききた)る。その疾(とき)事、矢のごとく、勢ひ、浪を捲(まき)、砂(いさご)を飛(とば)せ、舟をのぞんで突來(つききた)る、

コハかなはじ。」

と、我も舟中に轉び入(いり)しが、

「いやとよ、此勢ひ、舟に當らば、など、迯(のが)るる道あらん。聞傳(きゝつと)ふ、龍蛇は白刃(はくじん)を畏(おそ)ると云へり。とても迯れぬ命ならば。」

と、又、舟底(ふなぞこ)より立上がり、刀、拔き放して額(ひたゐ)に當て、舟の艗(へさき)に片坐するほどこそあれ、其間(そのあひだ)、三間ばかりあらんか、左の方(かた)を過ぐ勢ひ、雲百輪(ひやくりん)を捲くに似て、風一條につぐみ、鋭(とき)こと、劍(つるぎ)のごとく、川浪、忽(たちまち)二ツにさけて、舟、巳に覆へらんとせしが、橫さまに吹飛すこと、石飛礫(いしつぶて)を抛(なげうつ)に似て、おぼへず半丁ばかり、退(しりぞ)けらる。その常(つね)、龍(りやう)を画(ゑが)くごとに其眞(しん)を見ざることを恨み、古(いにしへ)より論ずる所、其説紛々たるを憂(うれふ)る折節なれば、恐ろしさもさることながら、心を付(つけ)て、雲中(うんちう)を見れども、更に其形は見へず、只、雲中、うごめきわたり、其頭(かしら)と思(おぼ)しき所、呼吸(こきう)のごとく、火光(くわくはう)ありて、風と共に後(しりへ)に打靡(うちなび)くこと、一息(いっそく)々々たり。黒雲(こくうん)とともに、其丈(たけ)、總て十丈は過ぎざるべし。其響(ひびき)、雷(らい)のごとく巽(たつみ)を指して、行過(ゆきすぐ)る所、木を拔き、枝を割(さき)、左右に吹飛(ふきば)すありさま、風に木の葉の亂るゝに異ならず。纔かに一瞬の間(ま)、夢のごとくに覺へ侍る。又、一奇(いつき)なるは、此日、新潟に渡り得ずして野守が軒に繫(つなぎ)たる米穀・大根なんど積(つみ)たる小舟十一艘、此怪風の當る所、僅かに二艘、繩(なは)引(ひき)千切り、水面遙かに吹放(ふきはな)たれたり。殘る九ツの舟は少しも動ぜず、ゆたかにして岸にあり。其疾(とき)をこと、如ㇾ此。扨、漸く舟底(ふなぞこ)より立上がり、かの野守が軒に漕(こぎ)寄せ、不思議に命(いのち)を全(まつとう)し、かの笘屋に宿(やど)請ふて入(いり)見れば、先達(さだつ)て十一人の舟子、皆、爐邊に取圍(とりかこみ)て相顧(あひかへりみる)隙(ひま)もあらねど、人々、少しづゝ坐を讓り、を介抱し得させぬ。其夜、纔かなる一間に、家内、六人あり。客(きやく)、三人なり。各(おのおの)枕を打交(うちまじへ)て臥すといへども、はかかることの得もなれざるに、寒風、肌(はだへ)を穿つて、夢結ぶべき隙(ひま)もなく、打咳(うちすはぶき)ければ、あるじの翁(おきな)、笑止にや思ひけん、頓(やが)て起上り、外面(とのも)に出(いで)、藁(わら)抔(など)多く持來(もちきた)りて、床下(ゆかした)に敷(しき)、左右にも積み、其中に枕を高ふして、上にも厚く打覆(うちおほ)ひければ、忽(たちまち)、寒(かん)を忘れ、暖(あたゝか)なること、云ふべからず。

「かの錦繡(きんしう)の夜のものにもやは、か劣らじ。」

とこそ覺侍(おぼえはんべ)る。誠に人世の生涯には、かゝる奇事にも遭ひぬるものかな。

 凡(およそ)、北越海邊(かいへん)の人家には屋上に鎌を立(たて)、田間(でんかん)には龍卷の節、必ず、百姓、大勢、集まり、手手(で)に鍬・鋤なんど振りまはして、其怪風を迯(のが)れ避(さく)ることなり。

 

[やぶちゃん注:前置きがやや長いが、巻頭であり、北越の地誌を漏らさず概観せんとする橘崑崙の強靱な筆勢が窺われて身が引き締まる。しかも、龍変(小舟二艘が吸引されて吹き上げられてしまうというかなり強く大きな竜巻現象)の体験は崑崙自身の実体験談というのが冒頭から凄いではないか!

「坤(うしとら)」ルビはママ「坤」ならば南西、「うしとら」ならば「艮(丑寅)」で東北である。越後山脈は東南から北東にかけて弧を描くようにあり、東北に奥羽三山脈を控えると言えるから、ここは「坤」ではなく「艮」とするのが自然で正しいと私は思う(本文の誤字でルビは正しいと判ずるということである)。因みに、野島出版版は「うしとふ」と判読してあるのがまず不審で、「坤」の注も『ひつじさる。西南の方角をいう』としてルビを全く無視しているのも重ねて不審である。

「香山(いやひこやま)」越後平野西部、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある弥彦山。標高六百三十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「米嶽(よねやま)」米山。前回冒頭で既出既注。

「邑里(ゆうり)」村里。

「離坎(みなみきた)」二字へのルビ。易で「離(リ)」は南を、「坎(カン)」は北を指す。

「横幅(わうふく)、尤(もつとも)地の厚薄(かうはく)に從がへ」国土としての越後の横幅(東西幅:この場合は山家の居住地を除いた最も居住に適した平野部やその山の辺縁部を指しているように読める)は、全く以って海岸線から山での厚さ・薄さ(によって形成される平地部分)という、自然の摂理に従っており。

「川脈(せんみやく)」川筋。大小の河川。

「如ㇾ星」「ほしのごとく」。以下、漢文脈部分は読み難くなるだけなので、注で歴史的仮名遣での読みを附すこととする。

「就ㇾ中」「なかんづく」。

「鎧湖(よろひがた)」総面積約九平方キロメートルに及ぶ新潟平野の中西部の信濃川下流左岸にかつて存在した潟。干拓によって現在は痕跡すら残らない。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に長岡藩によって干拓事業が開始され、明治末期までに半分が耕地となった。第二次世界大戦後には国営事業として干拓が続行、一九六七年に全面干拓された。現在の西蒲区巻(まき)町・潟東(かたひがし)村・西川(にしかわ)町に跨る水田地帯が跡地である。ここ(グーグル・マップ・データ)の中央付近に相当する。「新潟」の語源説の一つでもあるらしい。

「四時(しゐじ)」四季を通じて一年中の意。慣用読みで「しいじ」とも読むのでその歴史的仮名遣の誤りである。野島出版版の『しろじ』は判読の誤りである。

「渺漫(びようまん)たり」歴史的仮名遣は「べうまん」が正しい。果てしなく広がっているさま。「渺渺」に同じい。

「『蚌珠照ㇾ暗(ばうしゆやみをてらす)』と南溪が東遊記に擧(あ)ぐる」「蚌珠照ㇾ暗」は「ばうしゆやみをてらす」と訓じている。「蚌珠」は淡水産真珠のこと。この場合の「蚌」は斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata 及び同属の琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)と、イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)と、小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)の二種と考えてよい。カラスガイとドブガイとは、その貝の蝶番(縫合部)で識別が出来る。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は貝の縫合(蝶番)部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。ここで言っているのは医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年:本名、宮川春暉(はるあきら)。伊勢久居(現在の三重県津市久居)西鷹跡町に久居藤堂藩に勤仕する宮川氏(二百五十石)の五男として生まれた。明和八(一七七一)年一九歳の時、医学を志して京都に上り、天明六(一七八六)年には内膳司(天皇の食事を調達する役所)の史生となり、翌年には正七位下・石見介に任じられ、光格天皇の大嘗祭にも連なって医師として大成した。諸国遍歴を好み、また文もよくしたため、夥しい専門の医学書以外にも、この「東遊記」や「西遊記」(併せて「東西遊記」と称する)等の紀行類や名随筆「北窓瑣談」等で知られている。ここはウィキの「橘南谿」を参照した)の紀行「東遊記」(寛政七(一七九七)年に前編五巻を、同九年に続編五巻を板行)の後編の「卷之二」の「蚌珠(ぼうじゆ)」のことを指していると思われるが、当該章にはこの漢文脈の一節は出ないので、不審。一応、東洋文庫版で当該章全部を示しておく(気持ちの悪い新字新仮名)。読みは一部に留めた。

   *

 山から出ずるを玉といい、水に生ずるを珠という。唐土(もろこし)にはむかしより卞和(べんか)が玉、合浦の珠などいい伝えて、名高き玉ども数々聞こえ、限り無き世の宝ともてはやし、君子温潤の徳などにも比せり。我朝には、昔より格別に名高き玉を聞かず。神代(じんだい)に曲玉(まがたま)などいえど、今古塚(ふるつか)より掘出だせるを見るに、格別珍愛すべき物とも見えず。又、珠玉を産する山川をも聞及ばず。

 只越後に在りける頃、新潟の人の語りしは、此近きあたりに福島潟というかたあり。此潟に珠(たま)をふくめる貝あり。其大きさ三四尺わたりもあらん。月明らかなる夜は、折ふし其貝口を開くに、其珠大きさ拳の程もあらんと見えて、暁の明星の出でたるごとく、光明赫やくとして水面(すいめん)にきらめく。人是に近づく時は、忽ち口を閉じて水底(すいてい)に沈み、或は口を開きながら水上(すいしょう)を矢を射るごとくに去る。其貝出ずる所定まらず。何時(なんどき)見るにも其大きさ同じ程なれば、只一つの貝と思わる。折々見るものあれども、昔よりある貝にして殊に光あるものなれば、人恐れて取る事なし。又あまり程近く見る事なければ、何貝という事をしる事なし。唐土抔にていう所の蚌殊にやと沙汰するのみ也。

 此福島潟というは越後にて尤も大なる潟にて、竟(わたり)六七里に余りて江州の湖水を見るがごとし。其外にも鎌倉潟、白蓮潟、鳥屋野潟などいいて、越後には潟と名付くるもの甚だ多し、他国には無きもの也。此越後は唐土の江南の地に似て、広大なる国にて、しかも畳を敷きたるがごとく甚だ平坦なる土地なり。其中に大河流る。其土地甚だ平なる故に、川の流急ならず。所々にて河水両方へくぼみ入りて溜り水となる。是を彼地にては何方(なにがた)[やぶちゃん注:何潟。]々々という。皆甚だ大にして、二里三里四方、或は五六里四方なるものあり。他の国は地狭く、たとい広き所にても土地に高下(こうげ)あれば、川水急に流れて、左右へくぼみ入るのいとまなし。唐土なども、絵図を以て考うるに、洞庭湖、青草湖(せいそうこ)抔、すべて湖という者、則ち越後の潟と同じ趣也。此故に皆長江に傍(そい)て湖あり。北方の地は地面に高下ありて山多く嶮岨なるゆえに、黄河に湖ある事なし。日本にては、只越後のみ潟あり。其他には無し。但し出羽の八郎潟、常陸の霞浦抔、少し似たれども其実(じつ)は又異(こと)なり。

   *

底本に「卞和(べんか)が玉」について、『春秋時代、楚の卞和が山で発見した宝石。『韓非子』に、卞和が王にこの玉を献上しようとして両足を切られた説話が載る。連城(れんじょう)の玉とも』と不全な注が載る。「大辞泉」には(見出し「卞和(べんくわ(べんか))」。現代も一貫して読みならわしは「べんか」であって「べんわ」ではないので注意されたい)について、『中国、春秋時代の楚(そ)の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが』、信じて貰えずに『左足を切られ、次の武王のときにも献じたが、ただの石だとして右足を切られた。文王が位につき、これを磨かせると、はたして玉であったので、この玉を「和氏(かし)の璧(たま)」と称した。のち、趙(ちょう)の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が』十五『の城と交換したいと言ったので、「連城の璧」とも称された』とある。私が東洋文庫の注を不全と言った理由がお判り戴けよう。「合浦(がっぽ)の珠」には同じく『合浦は地名。その海に宝珠を産する』とするだけで、これではその位置も判らぬ。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、中国の華南地方の広西チワン族自治区の南部の北海特別市合浦(現代中国語音写:ホープー)県。北部湾に臨み、沿岸の海水は年間、摂氏二十六から三十度を保ち、塩分濃度やプランクトンの棲息状態が真珠母貝(ここは真珠を採取するウグイスガイ科に属する海産貝類を指す。アコヤガイ(斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ Pinctada fucata martensii)はその代表であるが,他にもアコヤガイ属シロチョウガイ Pinctada maxima など複数の種が含まれる)の成育に適するため、早くから真珠の産地として知られた、とある。海南島の北の対岸、ここ(グーグル・マップ・データ)である。

「略ㇾ之」「これをりやくす」。

「福湖(ふくしまがた)」本文表記はママ。「福島潟」のこと。前回に既出既注。

「次ㇾ之」「これにつぐ」。以下同じ箇所は注さない。

「不增減」「ぞうげんせず」。

「蓮花如ㇾ錦漁舟織」「れんげにしきのごとくぎよしうおる」。

「靑蓮」これが花の色を表わしているとすれば、これはスイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaea の一種(或いは品種)あって、 ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera ではない。仏教では「蓮」と「睡蓮」を一緒くたにしてしまうが、全く違う植物種であるので注意されたい。

「塩津潟(しほつがた)」現在の新潟県新発田市紫雲寺地区及び胎内市塩津地域に存在した潟。紫雲寺潟(しうんじがた)とも呼ばれた。長さ約六キロ、横約キロに及んだが、ここに出る通り、十八世紀前半には干拓により姿を消していた。この附近(グーグル・マップ・データ)。参照したウィキの「紫雲寺潟」によれば、九世紀末から十世紀『初頭(平安時代)、地震による地盤沈下で潟が形成されたと推定されている』。『江戸時代中期、潟には加治川、菅谷川など多数の川が流入し、周辺地域の水難防止のため遊水地にされていたが、潟縁地域の開発が進むにつれ水害が問題化する。このため新発田藩による排水工事や』、享保六(一七二一)年には『周辺村民らによる長者堀(現在の落堀川)の開削が行われたが』、『機能しなかった。その後、信州出身の竹前権兵衛、小八郎兄弟が自費での紫雲寺潟干拓を幕府に許可され』、享保十三年に工事着手し、『長者堀の再開削や流入河川の締め切りを行い』、享保一七(一七三二)年頃には干拓が完了、潟の跡には約二千町歩(約二千ヘクタール)の新田と四十二の『新しい村が誕生した。これは当時の日本で多く見られた町人請負新田のなかでも最大規模のものであった』とある。崑崙の村数「六十余」というのはその後に入植したりして増えた数であろう。

「佐潟(さがた)」新潟市西区赤塚に現存する砂丘湖佐潟(さかた)。ウィキの「佐潟」より引く。『新潟市の南西部に位置し、北東部の大きな本潟と南西部の小さな上潟から成り立っている。標高』五メートル、平均水深一メートル、総水域面積四十三・六ヘクタールで『湖底は船底型である。南北を砂丘に挟まれ』、『東西には低地が広がっており、流入する河川は無く湧水で維持されている。成立時期ははっきりしないものの、縄文時代以前に遡るとされる。また低地には潟の痕跡がある事から、過去においては現在よりも東西に広がっていたものと考えられる』。ここ(グーグル・マップ・データ)。「山間(さんかん)」という謂いはその南北を砂丘に挟まれていることと、西が海浜に向けて平地となっており、湧水によって椎が維持されているという点から納得出来ないでもないが、位置的には現在の地図や航空写真を見ても、今の佐潟を「山間」の潟とするのはかない奇異な表現に感じられるように私は思う。なお、以下、名数のように並ぶ「大潟」以降の潟や、池及び河川名や山岳名は調べるにきりがなく(私は新潟現地の現況情報に詳しくない)、労多くして誰も読まないと思われるので原則、注しないこととする。悪しからず。

「大鮒魚(たいふぎよ)」大きな鮒というのだから、全長が三十センチメートルにもなる条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属ギンブナ Carassius auratus langsdorfi であろう。

「沼垂(ぬつたり)潟」旧「沼垂」は現在の中央区東地区と東区山ノ下地区の区域に相当する。この中央付近(グーグル・マップ・データ)。新潟町と共に信濃川河口に位置し、港町として栄えていた。市街地の中心部を流れる栗ノ木川を挟んで東側の「東沼垂」には花街が形成され、芸妓がいたとされる。

「鱸魚(ろぎよ)」棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。各種魚類の目で最も多数を含み、一般に純然たる海水魚だと思われているが、春から秋にかけては内湾や河川や潟湖内へ回遊を行ない、驚くほど上流まで群れで進出する(私は柏尾川の戸塚駅付近で多数の彼ら(大型個体)を目撃したことがある)。

「蓴菜(じゆんさい)」スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。本邦では全土で普通種であったが、池沼開発や水質悪化によって急激に減少し、既に東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県・沖縄県で絶滅種に指定されており、新潟県も絶滅危惧II類に指定している。現在の日本一の産地は秋田県三種町で国内生産量の約九十%を占める(以上はウィキの「ジュンサイ」に拠った)。

「無塩(ぶえん)」新鮮な生ま物のこと。

「好對(こうつい)」珍味佳肴として二つ挙げろと言われたら必ず挙げられるもの、といった謂いか。

「長峯(ちやうはう)の古城跡(せき)」越後国頸城郡長峰(現在の新潟県上越市吉川区長峰付近)に中世から近世初頭にかけて存在した長峰城(平山城)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「湖水、三つあり」前のグーグル・マップ・データを見ると、直近に長峰池があり、北に小さな坂田池、南に朝日池・鵜ノ池があり、さらに小型の池が南方に三つ、計七つあるが、坂田を除いた三つか、或いは今の地図でも朝日池と鵜ノ池は見るからに以前は一つのものだったようにも思われるのでそこまでの三つを指すか。

「白螺(しろたにし)」腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae の殻色は白っぽい感じから淡褐色であって、大型個体になると、殻の表面が剥げてそこが有意に白っぽく見える個体も多い。但し、私は、ここで行者が雨乞いのために持ち下って帰すというのは、実はタニシの生体個体ではなく、鮮やかに白くなった山上の地層から出土する化石化したタニシではないかという疑惑を持っている

「淼渺(ひやうびやう)」正しくは「びやうびやう」。水が広く限りのないさま。

「挾闊(きやうくはつ)」狭い所と広い所。

「与板(よいた)」新潟県三島郡与板町(よいたまち)附近。現在の新潟県のほぼ中心に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「千數(す)百間(けん)」千三百間としても二・三六キロメートルである。現在の地図上で見る限りでは、与板と三条の間の信濃川の川幅は一キロメートルもないが、これは所謂、当時の治水の不全な状態の氾濫原を言っているとすれば、納得できない数値ではない。

「溜湛(りうたん)」野島出版脚注に『水が流れず、たまる処』とある。

「水涯(すいがい)」水際。岸。以下の叙述から、海からの海水流入や信濃川の河川浸食が激しく、川岸がはっきりと見えないことを言っているものと思われる。

「阿水(あがみづ)」阿賀野川。後の「阿賀川」も同じ。

「通舩(つうせん)の新渠(しんかは)あり」「新渠」は新しい川。以下に見るように、開鑿された人工運河である。現在も文字通り「通船川」として残る。ウィキの「通船川」によれば、『かつて阿賀野川の下流域は複雑な乱流と蛇行を繰り返し、たびたび洪水を起こして流路がたびたび変わるなど、新田開発もままならない状態であった。新発田藩第』六『代藩主・溝口直治は』享保一五(一七三〇)年、『信濃川に合流していた阿賀野川の河道を日本海へ直接流出させるため』、『松ヶ崎(現新潟市東区下山・北区松浜付近)に掘割(捷水路)を開削した。だが、この捷水路(松ヶ崎掘割)は翌』『年春の融雪洪水によって決壊し、阿賀野川は日本海へ直接注ぎ込むようになった』。『その後、この旧流路は「通船川」に改称』、その名は『両河川の下流域の水運に用いられていたこと』に由来する。その後、安永二(一七七三)年には同藩第八代藩主『溝口直養によって流路整備などの改修を受けた』とある。

「信川(しんせん)」信濃川。

「松ヶ崎」現在の阿賀野川河口付近の旧新潟県北蒲原郡松ヶ崎浜村(まつがさきはまむら)。

「千二百間」二・一八キロメートル。現在の河川改良された河口付近の最大川幅は約一キロメートルほどであるから、納得出来る数値である。

「かるがゆへに」「かかるが故(ゆゑ)に」。

「龍蛇(りやうだ)の化(くは)、無量にして」天候や水界を支配する龍蛇の化生(けしょう)とされる風水害の現象は限りなくあり。

「予兒(じ)たる時」橘崑崙の出生は宝暦一一(一七六一)年頃(第十一代将軍徳川家治の治世)と推定されている。

「かの葉公(せつこう)の龍(りやう)を好める諭(たとへ)」「せつこう」はママ。普通は「えふこう」。葉公は楚の国の葉村(ようそん)の長官のことで、春秋時代に編まれた逸話集の「新序儒書」等に基づく故事成句「葉公好龍」(葉公(ようこう)龍を好む)である。これは「見掛け倒しで本物ではないこと」の譬えで、「表裏が一致しない人」を揶揄するものであるから、崑崙は自虐的に言っていることが判る。原文は中文サイトから引いておくと、

   *

葉公子高好龍、鉤以寫龍、鑿以寫龍、屋室雕文以寫龍。於是天龍聞而下之、窺頭於牖、施尾於堂、葉公見之、棄而還走、失其魂魄、五色無主、是葉公非好龍也、好夫似龍而非龍者也。

   *

らしい。我流で書き下しておくと、

   *

「葉公子高、龍を好み、鉤(く)して以つて龍を寫し、鑿(さく)して以つて龍を寫し、屋室(をくしつ)、雕文(てうもん)して以つて龍を寫す。是に於いて、天龍一聞して、之れを下し、頭を牖(ゆう:窓。)に窺ひ、尾を堂に施せば、葉公、之れを見、棄てて還走し、其の魂魄を失(しつ)す。是れ、葉公、龍を好むにあらず、好むに、夫(そ)れ、龍に似るも龍に非らざる者を好むなり。

   *

でっつ氏のブログ「大連雑学事典」の葉公好龍によれば、『中国では、子供向けの絵本にも出てくるくらいポピュラーな成語』とあり、以下のように原話を解説されておられる。

   *

昔、葉公、名を高という龍が大好きな男がいた。

身に着けいている剣には龍の彫刻を刻み、杯の上にも龍を彫っていたし、壁や窓枠、梁、家の門にも大好きな龍を描いていた。

天にいた龍がこの話を聞き、天から降りて葉公の家を訪れた。

龍が寝室の窓から覗き込み、尻尾はダイニングの外側まで伸びていた。

葉公は、本物の龍を見て逃げ惑い、肝をつぶして顔色を失った。

本質的に、葉公は龍が好きなのではなく、龍に似た物品が好きなだけだったのだ。

   *

「寛政五癸丑(みづのとうし)年十一月廿日」グレゴリオ暦一七九三年十二月二十二日

「木崎(きざき)」現在の新潟県新潟市北区木崎であろう。(グーグル・マップ・データ)。ここは新潟の北、阿賀野川の右岸域で崑崙が三条にから新潟に向かったとすると位置はおかしいが、あとの叙述行路(「阿賀の大江を橫ぎり渡り、新渠(しんかは)いたりて)からは正しい。

「笘(とま)」菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作った大型のシート。船を覆って雨露を凌ぐのに用いた。

「旅人、今暫し、寒氣を忍び給ひ」「給ひ」はママ。

「七ツ」午後四時前後。

「野守」立ち入り禁止の猟地や禁猟の野を見張る番人。

「港湊(ごうそう)」ここは前の謂いから、無数の河川が海に流れ込む河口の謂いであろう。

「一片の沙岸(しやがん)」河口付近の僅かな砂州を指すか。

「艗(へさき)」舳(へさき)。

「片坐」片膝を立てるの謂いか。挿絵を見ると、崑崙は左足で舟に横に張った舟梁(ふなばり)に伸ばして踏ん張り、右足を強く曲げて左足の腿の下に足の裏を当てているのが判る(これを片坐と言っているか)。右足は恐らく膝の部分を舷側板に押し当てて、全身を必死に固定しているものと思われる。

「其間(そのあひだ)、三間ばかり」小舟と実体としての竜巻との距離が五メートル半ほどしかなかったというのである。

「つぐみ」野島出版脚注に『かがみ、うづくまる』とある。老婆心ながら、「風一條」が主語であるから、旋風となった風が極端に圧縮されて、水の表面へ屈み込む、しゃがみ込む、蹲(うずくま)るように吹いていることを表現しているらしい。前の「百輪」(竜巻の旋風が百の輪のように渦巻く)という表現とともに、北斎の挿絵ではそれが妖怪の頭のように描かれて素晴らしい。

「半丁ばかり」五十四メートル五十五センチほど。ここで船が水面をすっと抵抗なく送られたことが幸いしている。

「火光(くわくはう)ありて」雷電が発生している。竜巻は巨大積乱雲とともに発生するから、雷を伴って何ら、不思議ではない。

「十丈」三十メートル強。

「巽(たつみ)」東南。

「如ㇾ此」「かくのごとし」。

「打咳(うちすはぶき)ければ」「すわぶく」は「咳をする」。

「笑止」この場合は「気の毒に思うこと」の意。

「かの錦繡(きんしう)の夜のもの」分厚くしかも軽い高価な錦織の絹の蒲団。

「か劣らじ」「か」は語調を整え、強調する接頭辞。

「覺侍(おぼえはんべ)る」読みは原典に従った。野島出版版では「はんべる」は『はべる』となっているが、「はんべる」は中世以降、普通に見られる表記である。

誠に人世の生涯には、かゝる奇事にも遭ひぬるものかな。

「屋上に鎌を立(たて)、田間(でんかん)には龍卷の節、必ず、百姓、大勢、集まり、手ン手(で)に鍬・鋤なんど振りまはして、其怪風を迯(のが)れ避(さく)る」これも言わずもがなであるが、ここでの鎌や鍬や鋤は崑崙が船中で刀を抜き身にして額に押し当てたのと全く同じ、龍の暴威から身を守るための刃物としての呪具の代わりである。]

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