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2017/08/16

北越奇談 巻之三 玉石 其五(靑石)

 

    其五

 

Kobunjisugi

 

[やぶちゃん注:橘崑崙茂世の自筆画。]

 

 蒲原郡(かんばらごほり)茨曽根村(いばらそねむら)、里見氏(さとみうぢ)の庭前(にてぜん)に、老(ふるき)杉十圍(かかへ)なるもの、あり。枝々(しゝ)、四隣(しりん)に茂り掩(おほ)ふて、庭中(ていちう)、常に陰(かげる)。主人、甚だ、是を憎む。一日、僕に命じて伐(きら)しむるに、中(うち)、少し朽ちて空(うつぼ)也。以(もつて)、板(いた)に挽分(ひきわく)るに、土際(つちぎは)八尺ほど上(あが)りて、鋸(のこぎり)の齒の缺損(かけそん)じ、切斷すること不ㇾ能(あたはざる)所、あり。終(つゐ)に斧(おの)を以つて打割(うちわ)り見たるに、大さ、鞠(まり)の如くなる靑石(あをいし)ありて、甚だ重し。僕の云(いふ)、

「是を火打石にせば、よからん。」

と。木挽(こびき)、即(すなはち)、大斧(たいふ)を以(もつて)是を碎(くだ)く。忽(たちまち)、金石(きんせき)の響きを成して兩斷となる。中(うち)、自然に丸(まる)く、空所ありて、清水、傾き出づ。人々、後悔すれども不ㇾ及(およばず)。

 可レ憐(あはれむべし)、卞和(べんわ)氏なきことを。是等のもの、良工に命じて琢磨せば、必(かならず)、明珠なるべきか。可惜(おしむべし)々々。

 今、はた、是に似たるものあり。言傳(いひつた)ふ、

「源平の昔、五十嵐小文治と云へる者、勇力(ゆうりき)の聞(きこ)へありて、即(すなはち)、三条五十嵐川の水上(みなかみ)、矢木峰(やぎがみね)、流(ながれ)に臨んで絶壁勝地あり。此流(ながれ)に續きて、五十嵐の神社、古木大杉(こぼくたいさん)、多し。一日、小文治、此所(このところ)に至り、『己(おのれ)が力量を試(こゝろみ)ん』と大石(たいせき)をもつて此杉に打付(うちつけ)たるが、石、即、杉の中腹に止(とゞま)りて、落ちず。今、猶、是を見るに、其杉、根本より一丈ばかり上にして、石の大、三尺(じやく)もあらんか、靑色(あをいろ)に長し。中々、人力(じんりき)の及ぶべきとは見へず。」トソ

 是、又、一奇と稱すべし。

[やぶちゃん注:トソ。」の部分は原典の「ず」の左下に小さく明らかに見える何かの文字のようなものをかく判じたものであって、野島出版版にはない。「とぞ」と読むと、きりがいいのである。或いは「ト云」(といふ)かも知れぬ。大方の御叱正を俟つ。

「蒲原郡(かんばらごほり)茨曽根村(いばらそねむら)」現在の新潟県新潟市南区茨曽根附近と考えてよい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「十圍(かかへ)」身体尺の比呂(ひろ:両腕幅)であるとすれば、約十五メートルであるが、ちょっと太過ぎる。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「卞和(べんわ)氏」春秋時代の楚(そ)の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが、信じて貰えず、逆に嘘をついたとして左足を切断される刑を受けた。次の武王のときにもやはり献じたが、ただの石だとされて、今度は右足を斬られてしまった。その後、文王が位に就いた折り、これを磨かせてみると、はたして確かに優れた宝玉であったことから、この玉を「和氏(かし)の璧(へき)」と称した。後に趙の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が欲しがり、十五の城と交換したいと言ったので、「連城の璧」とも称された。こうした故事から名品の宝玉を広く「卞和(べんか)氏の璧(へき/たま)」と呼ぶようになった。

「五十嵐小文治」野島出版脚注に『鎌倉時代源頼朝の臣。名は扶昌』(「もとまさ」と読むか)『封十一万石、山形県南村山郡西郷村高松』(現在は上山(かみのやま)市内)の館跡はその『遺跡で、自然石の古墳は発龍沢山の麓にある』とあるのだが、この注、地名が現在のものと照応せず、場所がよく判らぬ。或いは最後のそれは現在の山形県上山市川口にある龍沢山(りゅうたくざん)川口寺(かわぐちじ)のことか?(ここ(グーグル・マップ・データ)) さらに同注は「吾妻鏡」に『小豊治となって居る。建保元』(一二一三)年五月二日に『和田義盛』が『挙兵』して、『北條義時を攻[やぶちゃん注:底本「改」。誤植と断じて訂した。]めた時、その軍』(北条軍)と激『戦して討ち死にしたという』とあるのであるが、まず、この注の中の「小豊治」は「小豊次」の誤りである。「吾妻鏡」の建暦三年(後の同年十二月六日に建保に改元)五月小二日の朝夷名(あさいな)三郎義秀の奮戦を語る条の頭に(前後を略す。太字下線は私が附した。人名の読みは所持する貴志正造氏の「全譯 吾妻鏡」第三巻(昭和五二(一九七七)年新人物往来社刊)に拠った)、

   *

就中義秀振猛威。彰壯力。既以如神。敵于彼之軍士等無免死。所謂、五十嵐小豐次。葛貫三郎盛重。新野左近將監景直。禮羽蓮乘以下數輩被害。

   *

就中(なかんづく)に義秀、猛威を振ひ、壯力を彰(あら)はすこと、既に以つて神のごとし。彼に敵するの軍士等(ら)、死を免(まぬか)るること、無し。所謂、五十嵐小豊次(いがらしこぶんじ)、葛貫(くずぬき)三郎盛重、新野左近將監景直、禮羽蓮乘、以下の數輩、害せらる。

   *

彼の名はここと、五月六日の戦後の味方の討たれた名簿の中に出るだけである。

ところが、である!

現地新潟では、この人物伝説上のかなりの有名人らしいのである!

 まず、個人ブログ「地域神話の風景とフィールド」の五十嵐小文治の伝説:新潟編①をご覧戴きたい。それによれば、『五十嵐小文治は現在の三条市にある旧下田村を中心に活躍したと伝えられる豪族で、文献においては、鎌倉時代から戦国時代にかけて五十嵐川流域に勢力を持った、一族と考えられてい』るとあり、『その五十嵐小文治の誕生にまつわる伝承が、この地域では、まだ語られてい』るとして、以下の伝説が記されてある。

   《引用開始》

「五十嵐川の上流のある村に美しい娘がいた。両親は一人娘のことで目に入れても足りない程大事に育てていた。だんだん娘も年頃になって来たので、よい聟でも探そうと思っていると、いつからともなく娘に忍び寄った若い立派な男があった。男は夜になると必ず娘の処へ来て、暁方に出て行った。それを知った母親は大変心配して、ある日娘に向かって「毎晩お前を訪ねて来る男は何処の何という者だ」と聞いた。しかし娘もその男が何処の誰だかを少しも知っていなかった。それで母親は娘に向かって、今夜尋ねて来たら男の着物の小褄にそっと糸を付けた針を差してやってみよと教えた。娘はその夜、教えられた通りにした。明朝になって娘が糸をたどって行くと、その糸はいんないの淵で尽きていた。娘が不思議に思いながら淵の端に立っていると水の中から、その男の姿が現れて「お前の腹には俺の子供が宿っているから、形見と思って大事に育ててくれ」といって消えた。大蛇は針の毒に当たって命を落としたのである。娘が生み落とした子供は腋の下に三枚のうろこが着いていた。大きくなって五十嵐小文治と名乗って、四十五人力といふ無双の豪傑となり、当時越後の国を荒し廻った黒島兵衛という怪賊を平らげて、勇名を馳せた。小文治が力試しに投げた石が今でも五十嵐神社の杉の大木に挟まっている(上写真)[やぶちゃん注:リンク先にまさにその画像あり!]」(文野白駒『加無波良夜譚』玄久社、1932162163頁より)。

   《引用終了》

『この大蛇と地域の女性との間に生まれた子供が、地域を開発し支配した豪族である、との伝承は、典型的な神話の語り口で』あるとされる。ブログ主は実際に当地を訪問探査されて、まず「いんないの淵」を探され、『五十嵐川の上流に「院内」という集落があって、その淵であることが』判明(やはりリンク先に写真有り)、その他にも調べるうち、「八木山下の淵」という伝承があることが判り、これも「八木鼻」(以下で私が発見した)という場所であることが判ったとあるのである。

 次に、しばしばお世話になっているサイト「龍学」内にも五十嵐小文治を発見した。そこではみずうみ書房『日本伝説大系3』からの引用で、『昔、笠堀の村の村長甚右衛門の娘のもとに、若い男が訪ねて来て褄重ねをする。男は夜毎通うが、名を名乗らず、所も告げぬ。ある夜、娘は男が帰る時に男の裾に針を刺し、夜明けにその糸をたよりに尋ねて行く』。『八木山下の川の淵に着くと中から苦しそうな声がする。覗いて見ると大蛇がいる。大蛇がいうには、毎晩通っていたのはこの俺だが、昨夜思わずも針を刺され、今は死ぬほかはない。お前の家は末長く守る、といい残して大浪を立てて姿を消す』。『その後、村長の家には腋の下に三枚の鱗が生えた男の子が生まれて当主になる。南北朝時代の勤王家五十嵐小文治が、その子孫だという。(『日本伝説集』)』となっている(こちらの小文治は時代が少し下っている。リンク先の考証はより深くこの「龍」伝承をディグしているので、是非、読まれたい)。

 また、「新潟小学校校長会」公式サイト内にある、三条飯田小学校署名ってい「五十嵐」姓発祥の地 五十嵐神社には、この「五十嵐」という姓はまさに、この新潟県三条市飯田(旧下田村)の「五十嵐神社」がルーツであるとあり(『これほどルーツがはっきりしている姓は珍しいそう』だともある)、この神社は第十一代垂仁天皇の第八皇子五十日帯日子命(いかたらしひこのみこと)を祭神とし、五十日帯日子命は四世紀中頃に越の国の開拓を任されて治水・農耕の技術を広め、『飯田宮沢の地で生涯を閉じ、舞鶴の丘に葬られたと』され、『この人物が、五十嵐一族の始祖』であると記す(神社本殿右手には五十日帯日子命の陵墓が建つとある)。以下、

   《引用開始》

 「五十嵐」とは、「伊賀多良志(いからし)」「伊賀良志(いがらし)」とも記され、農民の理想と希う「五風十雨(ごふうじゅうう)の天候の好順」を表す意と伝えられ、地域一帯を潤して流れる清流の五十嵐川の名称もこれに由来しています。 その後、「五十嵐・伊賀良志」神社が建立され、約700年後の大化の改新によってお墨付きを与えられ、五十嵐一族が宮司となります。さらに、約400年後、鎌倉幕府の御家人となって、五十嵐氏が地頭としてこの地を治めることになります。

五十嵐小文治伝説

 神社の鳥居から拝殿までの間にある大杉木(おおすぎぼく)の幹に石がめり込んでいます。これは、豪勇・五十嵐小文治吉辰が投げたものと言い伝えられています。五十嵐小文治吉辰は、鎌倉幕府将軍源頼朝の御家人でした。五十嵐館から大石を投げたら400メートルも飛んで、杉木に当たり、めり込んだという言い伝えです。真偽はともかくとして、この石の効果で五十嵐神社は、安産祈願の神社にもなっています。 大杉木の反対側には、五十嵐小文治吉辰の墓があります。歴代当主が小文治を名乗ったらしいので、いつの時代に建立したのかは不明です。山形県上山市にも領主開祖として、五十嵐小文治の碑があります。1201 年に越後から移ったという記録が残されていますが、たくさんの小文治がいるため人物を特定することはできません。

   《引用終了》

とある。

 さて極め付けは、『五十嵐姓の由来・歴史について考えるサイト』と名打つ「Igarashi's origin」の五十嵐神社を巡るである。我々はそこでガラス越しながら、食い込を見ることが出来、五十嵐文治も拝めるのである。

「五十嵐川」以下の「五十嵐の神社」のグーグル・マップ・データの南西に流れる。

「矢木峰(やぎがみね)」五十嵐神社からかなりの東南(七キロメートル強)であるが、五十嵐川上流に「八木鼻」という景勝地があり、その東の「院内」地区には「八木神社」を見出せた((グーグル・マップ・データ))。これだッツ!! グーグル・ストリートビュの「鼻」よ!!!

「五十嵐の神社」現在の新潟県三条市飯田に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一丈」三メートル三センチ。

「三尺」約九十一センチ。]

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