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2017/08/06

北越奇談 巻之一 登蛇 + 其二

 

    登蛇(とうだ)

 

Touda

 

[やぶちゃん注:遠近感と空間の厚みを美事に捉えた葛飾北斎の挿絵である。右の雲気の中に『聖教寺乃園中に小虵風雨を起して登天なす』とある。「虵」は「蛇」に同じい。見開きのそのままを画像化したが、左の歪みはママである。早稲田大学古典データベースの画像を見るとこんな歪みはないから、野島出版が挿絵を取り込む際に処理を誤ったものと思われる。【2017年9月3日削除・追記】今回、ダイナミックな北斎の画像をより正確に味わえるように、左右の画像を接近させて合成し、一部の枠を除去した。悪しからず。]

 

 

 頸城郡(くびきごほり)松の山村聖敬寺(せうけいじ)と云へるは、森々たる古木、晝暗く、庫裏(くり)は大沢(だいたく)に臨みて、淸水(せいすい)譚々と、夜(よ)、明らかなり。

 一トとせ、秋のすゑ、老僧客(らうそうかく)と相對し、間談止(やみ)て、暫く黙坐がする折節、沢の邊(ほとり)より、小蛇(しやうじや)の長(たけ)五、六寸ばかりなるが這出(はへいで)て、石上(せきしよう)に登り、其尾、纔かに、四、五分(ぶ)ばかり、石に付けて直立し、一声(いつせい)、細く、吟ず。

 客、怪しみて問(とふ)。僧の曰(いはく)、

「是は、正しく登天の蛇(だ)なるべし。油斷すべからず。」

とて人を呼び、

「干物(ほしもの)なんど、取納(とりおさめ)よ。窓、鎖(さ)せ。柴に笘(とま)覆(おほ)ひ。」

など云へる中(うち)、一点の奇雲、簷頭(せんとう)に現はれ、小蛇、忽ち、見へず。

 かゝるほどこそあれ、暴風、すさまじく吹起り、樹を倒し、山を動(うごか)して、蛟龍(こうりやう)、雲中(うんちう)に現じ、西に飛び、東に馳(はせ)、北に飜り、南に驅けりて、縱横すること、數(す)十度、大雨、いよいよ強く、石を穿ち、山を割(さき)て、洪水、沢に溢(あふ)れ、暗きこと闇夜(あんや)に異ならず。朝の五ツより暮の七ツに至るまで戸を閉(とぢ)て開くあたはず。只、今、天、傾(かたふ)き、地、陷(おちいる)かと、恐ろしなどいふばかりなし。

 然るに、忽(たちまち)、空中、一声の響(ひゞき)ありて、山林、動搖しけるが、風雨、程なく晴渡りて、何(いづ)くともなく、其(その)去りし所を知らず。

 然るに、三とせほど過(すぎ)て、初春の頃、木を刈(かる)者、深山に入(いり)、

「大蛇(だいじやの)枯骨(ここつ)、數丈(すじやう)なるを見たる」。

と云へり。

 是を按ずるに、登天の龍(りやう)、人の看(かん)に觸るゝときは、天帝、これを罰す、と云へり。もし、是等のことにもやあらんか。只し、此説も又、信ずべきにもあらず。

 

[やぶちゃん注:これも筆者の実見(というか、後半は実聴という方が正しい)になる実録小蛇と天変の怪異は確かに見聴きしたのにも拘わらず(後半で実見していない点で彼はこれを真正の龍蛇の怪異と見做すことを留保しているとも言える。何より次の「其二」で崑崙は最後に「予はいまだ、登蛇を見ず」と断言しているのである)、昇龍が人にしっかりと見られてしまった場合には天帝はその龍(蛇)を罰する、という説を「又、信ずべきにもあらず」と退けているところ辺り、崑崙の現実主義的考証家としての手堅い一面をはっきりと提示していると言える。

「頸城郡(くびきごほり)松の山村聖敬寺(せうけいじ)」旧新潟県東頸城郡松之山町(現在は十日町市松之山。ここ(グーグル・マップ・データ))のことかと思われるが、この周辺域に「聖教寺」という寺院は現存しない模様である。識者の御教授を乞う。

「間談(かんだん)」閑談で、とりとめのない(僧から見れば)下らない世間話ととっておく。

「五、六寸」十六~十八センチメートル。

「四、五分」一・三~一・五センチメートル。

「笘(とま)覆(おほ)ひ」「ひ」はママ。命令形「へ」が正しい。「笘」は既注であるが、再掲すると、菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作った大型のシート。対象物を覆って雨露を凌ぐのに用いた。

「簷頭(せんとう)」簷(ひさし)の突き出した縁側の先。

のに現はれ、小蛇、忽ち、見へず。

「かゝるほどこそあれ、」野島出版版はこの前の改行はない。また「あれ」の後は句点であるが、私は事態がありえないように急激に転変する感じを出すには、ここは改行し、しかも「こそ」已然形の逆接用法ととった方がより効果的と考えた。

「蛟龍(こうりやう)」ウィキの「蛟龍によれば、『中国の竜の一種、あるいは、姿が変態する竜種の幼生(成長の過程の幼齢期・未成期)だとされる』。『日本では、「漢籍や、漢学に由来する蛟〔コウ〕・蛟竜〔コウリュウ〕については、「みずち」の訓が当てられる。しかし、中国の別種の竜である虬竜〔キュウリュウ〕(旧字:虯竜)や螭竜〔チリュウ〕もまた「みずち」と訓じられるので、混同も生じる。このほか、そもそも日本でミズチと呼ばれていた、別個の存在もある』(ここで言う本邦での「みずち」(古訓は「みつち」)は水と関係があると見做される竜類或いは伝説上の蛇類又は水神の名である。「み」は「水」に通じ、「ち」は「大蛇(おろち)」の「ち」と同源であるともされ、また、「ち」は「霊」の意だとする説もある。「広辞苑」では「水の霊」とし、古くからの「川の神」と同一視する説もあるという)。『ことばの用法としては、「蛟竜」は、蛟と竜という別々の二種類を並称したものともされる。また、俗に「時運に合わずに実力を発揮できないでいる英雄」を「蛟竜」と呼ぶ。言い換えれば、伏竜、臥竜、蟠竜などの表現と同じく、雌伏して待ち、時機を狙う人の比喩とされる』。荀子勧学篇は、『単に鱗のある竜のことであると』し、述異記には『「水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で応竜となる」とある。水棲の虺』は、一説に蝮(まむし)の一種ともされる。「本草綱目」の「鱗部・龍類」によれば(以下、最後まで注記番号を省略した)、『その眉が交生するので「蛟」の名がつけられたとされている。長さ一丈余』(約三メートル)『だが、大きな個体だと太さ数囲(かかえ)にもなる。蛇体に四肢を有し、足は平べったく盾状である。胸は赤く、背には青い斑点があり、頚には白い嬰』(えい:白い輪模様或いは襞(ひだ)或いは瘤の謂いか?) 『がつき、体側は錦のように輝き、尾の先に瘤、あるいは肉環があるという』。但し、蛟は有角であるとする「本草綱目」に反して、「説文解字」の『段玉裁注本では蛟は「無角」であると補足』して一定しない。「説文解字」の小徐本系統の第十四篇によれば、「蛟竜屬なり、魚三千六百滿つ、すなわち、蛟、これの長たり、魚を率いて飛び去る」(南方熊楠の「十二支考 蛇に關する民俗と傳説」から私が改めて引用した)『とある。原文は「池魚滿三千六百』『」で、この箇所は、<池の魚数が』三千六百『匹に増えると、蛟竜がボス面をしてやってきて、子分の魚たちを連れ去ってしまう、だが「笱」』(コウ/ク:魚取り用の簗(やな)のこと)『を水中に仕掛けておけば、蛟竜はあきらめてゆく>という意』が記されてあるそうである。「山海経」にも『近似した記述があり、「淡水中にあって昇天の時を待っているとされ、池の魚が二千六百匹を数えると蛟が来て主となる」とある。これを防ぐには、蛟の嫌うスッポンを放しておくとよいとされるが、そのスッポンを蛟と別称することもあるのだという』。更に時珍は「本草綱目」で『蛟の属種に「蜃」がいるが、これは蛇状で大きく、竜のような角があり、鬣(たてがみ)は紅く、腰から下はすべて逆鱗となっており、「燕子」を食すとあるのだが、これは燕子〔つばくろ〕(ツバメ)詠むべきなのか、燕子花〔カキツバタ〕とすべきなのか。これが吐いた気は、楼のごとくして雨を生み「蜃楼」(すなわち蜃気楼)なのだという』。『また、卵も大きく、一二石を入れるべき甕のごと』きものである、とする。

「朝の五ツより暮の七ツ」午前八時前後から午後四時前後。

「數丈(すじやう)」約十八メートル前後。

「人の看(かん)に」人の眼に。]

 

 

 

    其二

 

 三条の古城跡、今なを殘れるものは、内堀半ば埋れたれども、泥深く、水淸く湛へて、囘(めぐ)りは盡く、人家、連(つらな)れり。

 過ぎし年、秋もやゝ枯れ芦(あし)の、そこ爰(こゝ)に苅殘(かりのこ)したる間(あいだ)より、尺ばかりなる靑蛇(せいじや)一ツ現はれ出(いで)、かの芦に登りつゝ、其尾ばかり、少し、枯葉の先に打纏ひ、頭高く仰(あふい)で、口を開き、大さ、豆ほどなる氣を吐(はき)けるが、忽(たちまち)、鞠(まり)のごとき怪雲となりて、かの小蛇を隱し、煙(けむり)のごとく、中空に立登る程こそあれ。

 大雲(たいうん)、俄(にはか)に渦捲き起り、暴風、樹上を押し、大雨、篠を突き、暮(くる)るも更に分たざりしが、かの登蛇は、遙かに北を指して飛去りぬと覺へけれど、夜に入りては、いよいよ、雷電、鳴(なり)はためき、三日のうちは猶、風雨、止(やま)ざりけり。

 凡(およそ)是に類すること甚(はなはだ)多し。皆、目(ま)の當り、人の見る所にして、さして疑ふべきにもあらねども、はいまだ、登蛇を見ず。

 

[やぶちゃん注:今までとは異なり、最後の一文から、この内容は伝聞過去の「けり」で怪異の話柄が終わっているように、総てが聞き書きであり、だからこそ最後のびしっと決めた断言が、龍蛇の存在への崑崙の中の強い疑義感を示していると言えるのである。

「三条の古城跡」現在の新潟県三条市にあった三条城の城跡。ウィキの「三条より引く。『最初に城が築かれた時期は不明だが、平安時代に三条左衛門が築き、前九年の役の後、安倍貞任の郎党、黒鳥兵衛が攻め落としたという』。『南北朝時代には南朝方の池氏の拠点となった』。『室町時代になると』、『守護代長尾邦景方の山吉久盛の拠点となり』、応永三〇(一四二三)年には『守護上杉房朝方の中条房資・黒川基実・加地氏・新発田氏に攻められるが、黒川基実・加地氏・新発田氏が寝返り』、『落城しなかった』。『戦国時代も代々山吉氏の居城となっていたが、山吉豊守が』天正五(一五七七)年『に死去すると、嗣子がなかったため』、『弟の山吉景長が山吉氏を嗣いだ』ものの、『領地は半減されて木場城に移され、三条城には神余親綱が入った』。『上杉謙信の急死により勃発した御館の乱で、神余親綱は栃尾城主の本庄秀綱と示し合わせて上杉景虎に与し、上杉景勝に対抗した。景虎死後も景勝に対抗していたが、山吉景長が城内の旧臣に呼びかけて内応を誘い』、天正八(一五八〇)年『に落城、親綱は自刃した』。その後、『景勝は三条城を応急普請し甘粕長重を城主に据え』、天正九(一五八一)年『に勃発した新発田重家の乱において中継拠点として度々利用された』。『上杉景勝の会津移封後は堀秀治の家老堀直政が城主となり、直政嫡男の堀直清が城代となった』。慶長五(一六〇〇)年の上杉遺民一揆の際には攻撃を受けたが、堅守、慶長一五(一六一〇)年に堀家が改易となると、三条城は一旦、廃城となった。江戸時代になると、元和二(一六一六)年に『市橋長勝が三条城主に任じられ、信濃川の対岸東側にあらたに築城したが、市橋氏は在城』五年にして『改易となり、稲垣重綱が入ったが』、寛永一九(一六四二)年、幕命によって廃城となっている、とある。新潟県三条市上須頃ろ)附近(グーグル・マップ・データ)にあったと推定されているようである。ここは現在、東が信濃川、西が信濃川分流の中ノ口川で、そこに挟まれた巨大な中洲のような地形を成している。如何にも、蘆が沢山生えていて、蛇もいっぱいいそうな場所ではある。]

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