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« 北越奇談 巻之三 玉石 其二十二(化石溪・海石) | トップページ | 岩波文庫ニ我ガ名ト此ノぶろぐノ名ノ記サレシ語(コト) »

2017/08/23

北越奇談 巻之三 玉石 其二十三(廬山石) / 巻之三~了

 

    其二十三

 

 与板(よいた)、三輪(みわ)氏(うじ)、富士石(ふじせき)を藏(ざう)す。甚だ絶品。真黑色(しんこくしよく)、半腹(はんふく)に白雲(はくうん)の形あり。床頭(しやうとう)の弄玩、可ㇾ知(しんぬべし)。長岡、原(はら)氏、陰陽(ゐんやう)二石(じせき)を藏す。男女根形(なんによこんぎやう)、誠に古今(こゝん)の絶品なり。水原(すいばら)の東(ひがし)、北高田村(きたたかたむら)に珠山(しゆざん)と云へる書画風流の人ありし。其家に亀石(きせき)を藏す。一塊(いつくはい)の石上(せきしやう)、自然に小龜(しようき)の形ありて、工(たくみ)が成せるがごとし。長岡、中村氏、烏帽子石(ゑぼしせき)を藏(おさ)む。黑石(こくせき)に白石(はくせき)の緣(へり)、甚だ奇なりしが、今は栃尾(とちを)某(それが)しの家に贈ると云へり。堀の内某(それがし)の家、一(いつ)奇石(きせき)を藏む。形、上下六面、皆、表(おもて)にして、床頭の弄玩、妙なりと雖も、今、其家の姓名を忘(わす)る。一年(ひとゝせ)駒ケ嶽に遊びて、深谷(しんこく)の間(あいだ)に一奇石を得(う)。真黑(しんこく)、光沢、形似廬山(ろさんににて)、大瀑布(だいばくふ)の勢(いきほひ)あり。故廬山石(ろさんせき)と名づく。左に図を表はす。

 

Rozanseki

 

[やぶちゃん注:「与板」既出既注。新潟県三島郡与板町(よいたまち)附近。現在の新潟県のほぼ中心に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「富士石」ご丁寧に中腹には白雲がかかったように見えるところの、富士山にそっくりなミニチュアの自然石。

「床頭(しやうとう)の弄玩、可ㇾ知(しんぬべし)」寝ようとしてその枕元(「床頭」(しょうとう))に置いてまでも賞玩するほどのものである。そのシミュラクラを推して知るべし、といった意味であろう。

「陰陽(ゐんやう)二石(じせき)」「男女根形(なんによこんぎやう)」、即ち、男女の陰部に似た形の石。男性の陰部に似るものを「陽石」、女性のそれを「陰石」とし、セットで祀ることも多い。豊饒神である。グーグル画像検索「陰陽石をリンクさせておく。

「水原(すいばら)の東(ひがし)、北高田村(きたたかたむら)」「水原」はその読みからも新潟県阿賀野市水原であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。「北高田」は見当たらないが、水原の東北に「高田」地区はある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「珠山(しゆざん)」不詳。

「亀石(きせき)」これは亀の化石ではなく、シミュラクラであろう。但し、「北越雪譜」の「二編二之卷」には「龜の化石」の条があり、その記述や附された図を見るに、これは真正の化石のようには見える。

「烏帽子石(ゑぼしせき)」烏帽子(恐らくは立(たち)烏帽子なら丈の低いもの、揉(もみ)烏帽子風のものかも知れぬ)に似た石。

「上下六面、皆、表(おもて)にして」「皆、表(おもて)にして」というのが今一つ分らないが、これは裏表がない、即ち、上下ともに全く同一形状の極めてシンメトリックな六角錐であることを言っているのであろう。六方晶系の結晶だとすると、これはアメジスト(amethyst)のような紫色の水晶ということになるが(但し、上下がかく成るには人為的な加工が疑われる)、叙述が不足していて、それと断定は出来ぬ。寧ろ、アメジストならその色と透明性をまず言い立てるはずだから、寧ろ、アメジストではないと考えた方がよいか。

「駒ケ嶽」既出既注。越後駒ヶ岳。新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る。標高二千三メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「廬山」中国江西省九江県の南方の廬山(ろざん)。仏教霊場であったと同時に、幽邃な景勝地として今も名高い。

大瀑布」廬山のそれは李白の詩がよく知られる。

 

 望廬山瀑布

日照香爐生紫煙

遙看瀑布挂前川

飛流直下三千尺

疑是銀河落九天

 

  廬山の瀑布を望む

日は香爐を照らし 紫煙生ず

遙かに看る 瀑布の前川に挂(か)くるを

飛流 直下 三千尺

疑ふらくは是れ 銀河の九天より落つるかと

 

 以下、上に示した「廬山石」の図が載るが、その石の図の右上から左上にかけて、以下の長いキャプションが小さな字で記されてある。それを、図の後に示す。野島出版版では、この部分が今までの条々と同じく、柱の「」(野島出版版が独自に附したもので、原典にはない)をつけて、恰も本文の続きであるかのように活字化されているのは、私には承服出来ないのである。これはあくまで〈「廬山石」のキャプション〉であるからして、私はキャプション扱いとして基本、原典画像通りに電子化した(但し、ベタで続け、一部の読みは省略したので、以下の早稲田大学の画像で確認されたい)。従って野島出版版のような頭の一字下げを行っていない。また、実はこの挿絵は何時もの通り、野島出版版のそれを用いたのであるが、早稲田大学古典データベースのこちらの画像で判るように、実はこの廬山石の挿絵は原典では見開きであって、石の中央やや左寄りで左右に分断されてしまっている。この野島出版版はそれを実に上手く合成させた図なのである。但し、白く抜けた箇所が甚だ哀れなので、一部を原典画像を見ながら、恣意的に黒く塗り潰した(その結果として立体感が損なわれたかもしれぬ)。まずは、上のリンク先の画像をご覧あれかし。野島出版版では殆んど消えてしまっている瀑布以外の白い筋が確認出来る。]

 

 廬山石

 

駒ヶ嶽は魚沼郡(うほぬまこほり)にあり、即(すなはち)、大湯栃尾俣の温泉は、嶽(たけ)の麓也。一年秋八月、此温泉に浴して、日々、溪流下り、奇石をさぐり求む。其意(こゝろ)に適するものを得ざること、十日、巳に歸らんとするに臨(のぞん)で、深谷の間(あいだ)にして、一(いつ)樵夫にあふ。夫の曰、「此路(このみち)可ㇾ迷(まよふべし)、とをく行べからず。君、何に依(よつ)てか爰(こゝ)に至る」と。曰、「奇石を求(もとめ)んと欲す」。樵夫云、「我、前日、黑石(こくせき)一塊(いつくわい)を得て、是を庚申塚(かうしんづか)のうしろにかくす。君(きみ)、意(こゝろ)あらば、得て去(さる)べし」と。玆(こゝ)に相伴(あいともな)つて其所(そのところ)に至り見るに、奇玩、如此。よつて、樵夫に錢(せん)を贈(おくつ)てかへる。

 

[やぶちゃん注:地名はさんざん注したので略す。

「とをく行べからず」「とほく」(遠く)が正しい。山中、遠くへは足を踏み入れてはいけない。

「庚申塚(かうしんづか)」先の「玉石 其七(光る石)」に既出既注。

「うしろにかくす」「後ろに隱す」。

「君(きみ)、意(こゝろ)あらば得て去(さる)べし」あなたにそうした切なる奇石への思いがあるとならば、それを拾って持ち帰られるがよい。

「如此」「かくのごとし」。

 以下、早稲田大学の画像で判る通り、この廬山石に添えた橘崑崙茂世の入手当時と推定される讃としての五律の漢詩が続く。原典は白文で連続しているが、かく改行した。]

 

 

 

山翁石賜

未得所名宜

三寸自然操

尺圍天質碕

虎溪無送客

鹿洞月來遲

凡上生平玩

心遊亦可奇

     崑崙茂世

 

[やぶちゃん注:野島出版版では、これに続いてオリジナルの訓読文がある。それを参考にしながらも、私も全く独自に訓読をしておく

 

山翁(さんをう) 石(いせき)を賜ふも

未だ名(な)の宜(よろ)しとする所を得ず

三寸(さんずん) 自然の瀑(ばく)

尺圍(せきゐ)  天質の碕(き)

虎溪(こけい)  客(かく)を送ること 無く

鹿洞(ろくどう) 月 來(きた)ること 遲し

几上(きじやう) 生平(せいへい)の玩(ぐわん)

心遊(しんいう) 亦 奇とすべし

 

 以下、我流の訓読に従って注を附す。

石」」は原典では「玉」ではなく「王」であるが、これは通字形であるから、「」とした野島出版版では本文で一気にこれを『醫』としてしまっている。従えない。しかも同脚注によれば、こんな字(「」の「玉」を「王」とした字)は『字典にはない』と断言し、『医は醫と同じであるが、医石では意味が不明である。医石瑩石の誤記であろう』(この『医石』及び『瑩石』には「」の傍点が附されてあるのを太字で示した。「瑩」は音「エイ」で「明らか・鮮やか・艶やか」で「玉石の美しい色」を指す語)とされるのであるが、私は野島出版の注釈者の安易なこの「瑩石」誤字見解には全く従えない」の字はあるのである。しかも」(中国音「イー」)には中文サイトの漢字辞典に「黑色的美石」・「黑玉」・「黑色的琥珀」の意であるとあるのである(引用はこちら)。これは黒い光沢を持った黒玉石(こくぎょくせき)の意である。

「三寸」凡そ九センチ一ミリ。

「尺圍(せきゐ)」野島出版版は『せきえ』とルビする。従えない。石全体の周囲の長さが一尺。であることを言う。三十センチ三ミリ。

「天質の碕(き)」野島出版版は『天質碕(き)なり』とする。前句と対句であるから私はかく訓じた。「碕」は「崎」の異体字で、河海の曲がった岸を指す。野島出版脚注には『石の白い線がまがって瀑』(たき)『の如くなっていることをいう』とある。挿絵と合わせて(まさにこの脚注の直上に「廬山石」の右手の「瀑布」が落ちているのである)言い得て妙の注である。

「虎溪(こけい)」廬山にある東林寺の前の渓谷。画題として好まれた「虎渓三笑」の故事で知られる。六朝東晋の時、この寺に慧遠(えおん 三三四年~四一六年)という学僧がおり、白蓮社(四〇二年に自らから創建した東林寺に於いて僧や知識人らからなる同志百二十三人とともに阿弥陀浄土への往生を誓願した念仏結社。名は寺の傍らの池に白い蓮を植えたことに由来する。彼の念仏行とは後世の「浄土三部経」に基づく称名念仏とは異なるもので、浄土教典の先駆的作品とされる「般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)」に基づいた禅観の修法であった)を結成、西方往生を期して三十年もの間、山を一歩も出なかった。ところが、ある日、陶淵明(三六五年~四二七年)と陸修静(四〇六年~四七七年 道士で道教教学の優れた学者であった)の両人が彼を訪ねて清談し、両人が帰る際して、慧遠は送りに出たが、それでも話が尽きず、いつもは結界として出なかった虎渓に架かる石橋を渡ってしまい、気づいた時には、虎渓を数百歩も過ぎていた。そこで三人ともに手を打って破顔大笑したという禅味に富んだ話である。しかし、淵明はいいとしても、陸修静は生年から無理がある。

「鹿洞(ろくどう)」廬山の麓にある中国四大書院の一つで宋代の学校であった白鹿洞書院のこと。五代十国(九〇七年~九六〇年)に正式な学校として建てられ,これを廬山国学(白鹿国学)と称した。一時衰退したが、南宋の一一七九年に朱熹が再興、明代には王陽明ら代表的な儒家学者がここで講学した。景勝地でもあったらしい。

「几上(きじやう)」机上。

「生平(せいへい)」「平生(へいぜい)」に同じい。

「心遊(しんいう)」野島出版脚注に『心の楽しみ』とある。

 以下、今度は漢詩人柏木如亭(かしわぎじょてい:後注する)の七絶が載る。原典は白文で連続しているが、かく改行した。]

 

 

 

 廬山石

 

崑崙隱士身邊石

几席寒生玉一堆

若不巫山々上得

會從星宿海中來

 

  如亭題 落款1 落款2

 

[やぶちゃん注:先と同様に野島出版の訓読を参考にしつつ、オリジナルに訓読する。

 

 廬山石(ろざんせき)

 

崑崙隱士 身邊(しんぺん)の石(せき)

几席(きせき) 寒(かん)生(しやう)ず 玉(ぎよく)一堆(いつたい)

若(も)し 巫山(ふざん)が山上に得ずんば

會(かなら)ず 星宿の海中より來らんを

 

  如亭 題す 落款1 落款2

 

 落款1は「昶印」。落款2は「永日印」か?

 作者柏木如亭(宝暦一三(一七六三)年~文政二(一八一九)年)は漢詩人。ウィキの「柏木如亭」によれば、初め、『名は謙、字は益夫、通称は門作といった。のち、名は昶、字は永日とあらためる。号は』当初、『舒亭と名乗り、後に如亭とする』。江戸生まれで、『家は幕府小普請方の大工の棟梁であった。市河寛斎の江湖詩社に参加し』、寛政五(一七九三)年に最初の詩集「木工集」を刊行して『新進詩人として知られるようになった。翌年、家督を一族のものに譲り、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになった』。『遊歴の詩人として生き』んと決した『如亭は、まず』、『信州中野(長野県中野市)に居を定め』、『晩晴堂と名づけ、晩晴吟社を』開いて近隣の人々とともに『詩作に励んだ。この間、越後を遊歴もしていた』(恐らくはこの時に崑崙(生年から見て彼は崑崙と同世代である)を訪ね、この七律をものしたものと思われる)。享和元(一八〇一)年に、江戸に戻って芝に住んだ。その後、文化四(一八〇七)年には今度は西に向かって遊歴し、京都を主として『備中庭瀬(岡山市)に滞在もした。京都では頼山陽や浦上春琴、小石元瑞らとの交友があり、また豊後竹田の田能村竹田とも交わった』。文化一一(一八一四)年に、再び、江戸に戻って『大窪詩仏のところに寄寓する。しかし、江戸の詩風は如亭に』合わず、再び『遊歴の旅に出ることになる。信越各地を』廻って、文化一五(一八一八)年に『京都に帰ってきたのであった。東山黒谷に紫雲山居を構え、いちおうの根拠地としたが、生活のためには、各地を巡歴し、潤筆料をかせぐこととなった。その間、年少の梁川星巌と交流をし、みずからの死後には遺稿の出版も頼んでいる』。『持病の水腫が悪化し』て『京都で没した』。死後に梁川の手で刊行された「詩本草」は私も所持するが、美食と旅と漢詩に生きた彼の優れた随筆である。

「几席(きせき)」野島出版脚注に『机のおいてある部屋』とある。

「寒(かん)生(しやう)ず」野島出版版では『寒は生(しよう)ず』と訓じている。脚注には『石がかたいので、見るからにさむざむとしている』と訳してある。確かにそう読みたくは確かになる。しかし、どうもに私は係助詞の「は」はしっくりこないので、かく訓じた。なお、「寒生(かんせい)」で「貧しい書生」の意から「自己の謙称」の意もあるが、それでは一句が名詞の連続となって固まった絵になってしまい、漢詩としては死んでしまうし、この幽玄に触れた冷感(霊感)によって引き出される転・結句も生きてこない。

「一堆(いつたい)」一塊(ひとかたま)り。

「巫山(ふざん)」重慶市巫山県と湖北省の境にある名山。ウィキの「巫山によれば、『長江が山中を貫流して、巫峡を形成する。山は重畳して天日を隠蔽するという。巫山十二峰と言われ、その中で代表的なものに神女峰がある』。『巫山は四川盆地の東半部に多数平行して走る褶曲山脈の中でも最も大きく最も東にある山脈で、四川盆地の北東の境界に北西から南東へ走る褶曲山脈の大巴山脈へと合わさってゆく。長さは』四十キロメートル余りにも及び、主峰の烏雲頂は海抜二千四百メートルにも達する。楚の宋玉『の「高唐賦」(『文選』所収)序に、楚の懐王が高唐(楚の雲夢沢』『にあった台館)に遊んだ際、疲れて昼寝していると、夢の中に「巫山の女(むすめ)」と名乗る女が現れて王の寵愛を受けた、という記述がある。彼女は立ち去る際、王に「私は巫山の南の、険しい峰の頂に住んでおります。朝は雲となり、夕べは雨となり(旦為朝雲、暮為行雨)、朝な夕な、この楼台のもとに参るでしょう」』『と告げた』。『この故事から、「巫山の雲雨」あるいは「朝雲暮雨」は、男女が夢の中で契りを結ぶこと、あるいは男女の情交を意味する故事成語として用いられるようになった』。『神女の素性について、『文選』所収の「高唐賦」では自ら単に「巫山之女」と名乗るだけであるが、『文選』所収の江淹「別賦」李善注に引く「高唐賦」、および江淹「雑体詩」李善注に引く『宋玉集』では、帝の季女(末娘)で、名を瑤姫といい、未婚のまま死去して巫山に祀られたと説明されている』。『また、李善の引用する『襄陽耆旧伝』では、瑤姫は赤帝(炎帝神農)』『の末娘とされている』。『後代の伝承であるが、後蜀の杜光庭の『墉城集仙録』では、雲華夫人こと』、『瑤姫は西王母の第』二十三『女で、禹の后となったとされる』。『中華民国の学者・聞一多は、この伝承を詳細に分析し、高唐神女は本来は楚の始祖女神であって、高唐神女、夏の始祖・女媧、禹の后・塗山氏』、『殷の始祖・簡狄は、もともと同一の伝承から分化したものではないか、と推測している』とある。

「星宿の海中」野島出版脚注に『星空の広い形容』とあり、この詩について、『珍しく立派な石なので、巫山の山中から出て来たものか、星空から降って来たものかと賞讃しているのである』としている。

 以下、儒者・経世家(政治経済学者)であった海保青陵(かいほせいりょう:後述)の識文「廬山石記」が載る。非常に長い白文である。原典の字はかなりクセのあるもので、やや判読に苦しむ字もあった。そこは野島出版版を参考にさせて戴いた。]

 

 

 

  廬山石記

 

長短相形高下相傾老君之言大矣哉物誠無定於髙下而人誠無分於長短從心目之所置留而變焉已故我置我心於萬丈之人而後五嶽小於指矣留我目於蠢尓之蟲貝臂毳巨於櫟社矣是之謂心遊也樂莫殷焉余遊越与崑崙橘君善矣君善畫最名干山水乃其閑則東逍西遙不名所之焉諮遠近於我眸詢當否於我脛曰是我爲厭足之道也帰則峙石繚沙以象其嶄淸冽曰是我救飢渇之術也其所最愛之曰廬山長六寸高半於長猶餘九分廣如髙而減四分重十二斤漆黒形類踞牛唯皦白纎絛自脊嶺出紆行囘流斜至膝巒岐爲二絛偃蹇拄頤欹臥望之宛然見廬瀑吹烟爲濃雲太息爲飄風當此時君意甚適其亦焉知我万丈之人乎將蠢尓之蟲乎貝亦焉論此石眞廬山乎將十二斤石乎貝亦焉辨今日文化之年乎將葛天無懷之世乎宜矣哉君之樂之不已

 乙丑之初夏武州府下之

 隱者靑陵道人鶴記  落款1 落款2

 

 

北越奇談卷之三終

[やぶちゃん注:前例に倣って、訓読して見るが、今回は野島出版版の訓読を大々的に参考にさせて戴いた(但し、歴史的仮名遣の誤りが多い)。但し、逆に従えない部分も幾つかありそこはオリジナルに変えてある。ここでは略字や異体字は正字に直した。

 

  廬山石記(ろざんせきき)

 

 長短、相(あひ)形づくり、高下(かうげ)、相傾(かたぶ)くと、老君の言(げん)、大(だい)なるか。物(もの)、誠に高下に定まること無く、人、誠に長短に分(わか)るること無く、心目(しんもく)の置留(ちりう)する所に從つて變ずるのみ。故に、我れ、我が心を萬丈の人に置きて、而して後、五嶽は指よりも小とす。我が目を蠢爾(しゆんじ)の蟲貝臂毳(ちうばいひせつ)に留(とど)めて、櫟社(れきしや)より巨(おほい)なりとす。是れを之れ、「心遊(しんいう)」と謂ふ。樂しみ、焉(これ)より殷(さかん)なるは莫(な)し。余、越に遊び、崑崙橘君と善(よ)くす。君(きみ)は畫(ぐわ)を善くし、最も山水に名(な)あり。乃ち、其れ、閑(かん)なれば、則ち、東逍西遙(とうしようせいよう)、之(ゆ)く所を名(い)はず。遠近を我が眸(ひとみ)に諮(はか)り、當否(たうひ)を我が脛(すね)に詢(と)ひて曰く、「是れ、我が厭足(えんそく)の道たるなり」と。歸れば、則ち、石を峙(そばだ)てて砂を繚(めぐ)らし、以つて、其の嶄(ざんしよう)淸冽(せいれつ)を象(つかさど)る。曰く、「是れ、我が飢渇(きかつ)を救ふの術なり」と。其の最も愛する所の石を廬山と曰(い)ふ。長さ六寸、高さは長さに半(なかば)にして、猶、九分(くぶ)を餘(あま)す。廣さは高さのごとくにして、四分(しぶ)を減(げん)ず。重さは十二斤(きん)にして漆黑。形、踞牛(きよぎゆう)に類(るい)す。唯、皦白(きようはく)の纎絛(せんたう)、自(おのづか)ら嶺(みね)を脊(せ)にして出で、紆行囘流(うかうくわいりゆう)、斜めに膝(ひざ)に至る。巒岐(らんき)、二絛(にたう)を爲(な)し、偃蹇(えんけん)、頤(おとがひ)を拄(ささ)へ、欹臥(きぐわ)して之れを望めば、宛然として廬瀑(ろばく)を見る。烟(けぶり)を吹きて濃雲(のううん)を爲(な)し、太息(たいそく)して飄風(へうふう)を爲(な)す。此の時に當たり、君が意、甚だ適(かな)ふ。其れ、亦、焉(いづく)んぞ、我が萬丈の人たるを知らんや。將(は)た、蠢爾(しゆんじ)の蟲(むし)たるか、貝(かひ)たるか、亦、焉んぞ、此の石、眞(まこと)の廬山たるかを論ぜんや。將(は)た十二斤の石たるか、貝たるか、亦、焉(いづく)んぞ辨ぜんや。今日、文化の年か、將(は)た葛天無壞(かつてむくわい)の世なるか。宜(うべ)なるかな、君(きみ)の之れを樂みて已まざること。

 乙丑(おつちゆう)の初夏 武州府下の隱者

 靑陵道人 鶴 記 落款1 落款2

 

 落款1は「皐之印」。落款2は私には判読出来ない。

 筆者儒者で経世家であった海保青陵(宝暦五(一七五五)年~文化一四(一八一七)年)についてはウィキの「海保青陵」を引く。『通称儀平(儀兵衛)または弘助、字は萬和。青陵は号である』。『別号に皐鶴。自著では「鶴」と称している』。『人生の過半を遊歴に費やし、各地で『論語』などの中国古典や漢文作成の文法を教えながら、一方で経済上の様々な相談や指導を行って家計や経営の立て直しに手腕を振い、現在の経営コンサルタントの先駆けとも評される』『人物である』。『丹後宮津藩青山家の家老・角田市左衛門(号・青渓、家禄は』五百『石)の長子として江戸で生まれる。青渓は荻生徂徠の系統を引く経世家でもあり、青陵の父と当時の藩主青山幸道は従兄弟に当たっていたため、父は藩の勝手掛という重職に就き藩財政の立て直しに努力していた。しかし、藩に内紛が起こったことで隠居せざるをえなくなり』、宝暦六(一七五六)年、未だ数え年二歳であった『にも拘わらず青陵が家督を相続する』。二年後、四歳『の時、藩主が美濃郡上藩に移封になると、一家は暇願いを出し浪人の身になる』。但し、『青陵の父は、彼が生きている限り』は『青山家から』二十人扶持で金百両ずつ、毎年、『送られることになっていたので、一家が困窮することはなかった。こうした幼いころの体験が、青陵が権力により果たすべき政策に大きな関心を持ちつつも、権力の中枢にたってそれを行使する気をもてなかった原因だろう』。『幼少時は父から、次いで』十『歳で父の師であった宇佐美灊水』(しんすい)『から儒学を学ぶ。灊水は荻生徂徠晩年の高弟で、徂徠学の公的な側面を受け継いだひとりである』。十六、七歳の頃、『蘭学医桂川甫三に住み込みで学び、ここから灊水の塾に通った。その子で父青渓の門人でもあった桂川甫周』(オランダの医学書「ターヘル・アナトミア」の翻訳「解体新書」に参加したことでとみに知られる外科医で蘭学者)『と兄弟同然に暮らした。青陵は秀才甫周を生涯』、『尊敬し、彼から西洋的な合理主義の思想を学んだという』。明和八(一七七一)年に『父青渓が尾張藩に出仕すると、青陵も後留書役に召され』たが、『学問中として辞して就かず』、安永五(一七七六)年には『弟を嫡子として角田家の家督を譲り』、『尾張藩に仕えさせ、自身は祖父の父の海保姓を名乗り、宮津藩青山公の儒者として家禄』百五十『石で奉公する。また、同年』、『日本橋檜物町に学塾を開く。このころから経世の問題に目を向ける様になった』。安永八(一七七九)年、禄を返上、さらに天明四(一七八四)年には青山家を脱藩、寛政元(一七八九)年、『経世家として身を立てるために上洛、江戸と京都を中心(しばしば木村兼葭堂を訪ねている)に大半を旅行に費やし、各地を遊学しつつ財政難に陥る大藩の高級武士や商人に経世策を説く一方、各地の産業や経済を身をもって見聞し、青陵自身の思想を深めていった』。一年間『逗留した武州川越で絹織物や煙草など産業改革案を進言したのは有名である』。享和元(一八〇一)年、『尾張藩の儒学者細井平洲が死去し』、『月並の講書が不足したため、青陵は再び尾張藩の藩儒とな』ったが、享和四(一八〇四)年には『大病を理由に辞』す。その後、金沢に二年弱逗留した(本記のクレジットは「文化乙丑」(きのとうし)でこれは文化二(一八〇五)年であるから、この金沢逗留時に越後に赴き、崑崙と逢ったものか?)後、文化三(一八〇六)年に『京都を終生の場と定め塾を開き、今までの旅でえた豊かな経験を元に『稽古談』『洪範談』『前識談』など数多くの著作に結晶させた。また、当時の文人のならいで』、『青陵は専門絵師の作品にしばしば着賛しているが、青陵自ら絵と賛をしたためた作品も残っている』。文化一四(一八一七)年に六十三歳で『京都に没す。法名は随応専順居士。生前の青陵は常々弟子たちに「私には親族はいないから、死んだら火葬し』、『骨を粉にして、大風の吹くにまかせよ」と語っていた』『が、実際には金戒光明寺の塔頭・西雲院に葬られ、「海保青陵先生之墓」が現存している』。『江戸時代後期における商業社会の拡大において、従来の封建的道徳観を否定し、智謀と打算によって富を得ようとすることを奨励した。青陵において旧来の道徳観念は活発な経済活動を抑圧する桎梏としてとらえられ、より感性的、道徳的に自由な経済観念を奨める。従来の儒者の奨める小仁(目先の上下関係に縛られ、大枠の合理性を見落としたもの)として批判し、よりマクロな視点での大仁を基に行動規範を模索した。この大仁とは、ある善行において翻って必ず悪行が付随するということを前提としたものである。経済的競争によって一方が得をし、他方が損をするという図式が、大枠においては全体的な福祉を増進するという考え方は近代的経済学との共通点を見せるとも言える。しかし一方で、旧世的な愚民観を脱却しきれず、一方的なエリート論に終始する点も見られた。こうした伝統的儒学を乗り越えようとする姿勢は、桂川甫山らの蘭学者の影響と考える者もいる。重商主義的考えに基づき藩を経営し』、『富国策を採用するよう勧めている』とある。生年から見て、崑崙より五つ六つ上であったかとも思われる。この記の書き方も親しい友とは言え、年上の相手に寄せたものではない

「長短、相(あひ)形づくり、高下(かうげ)、相傾(かたぶ)くと、老君の言(げん)、大(だい)なるか。物(もの)、誠に高下に定まること無く、人、誠に長短に分(わか)るること無く、心目(しんもく)の置留(ちりう)する所に從つて變ずるのみ」「老子」の「養身第二」に出る一節(下線太字部分)。

   *

天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。

(天下、皆、美の美たるを知る。斯(こ)れ、惡(あく)なるのみ。皆、善の善たるを知る。斯れ、不善なるのみ。故(まこと)に、有無、相ひ生じ、難易(なんい)、相ひ成し、長短、相ひ形(あら)はし、高下(かうげ)、相ひ傾(かたぶ)け、音聲(おんじやう)相ひ和し、前後、相ひ隨ふ。是(ここ)を以つて、聖人は、無爲の事に處(を)り、不言(ふげん)の教へを行なふ。萬物(ばんぶつ)作(つか)はれて、而(しか)も、辭せず、生(しやう)じて有(いう)せず、爲して、而も、恃(たの)まず、功、成つて、而も、居(を)らず。夫(そ)れ唯(ただ)、居らず、是(ここ)を以つて去らず。)

   *

これは冒頭で世の人間が「美」や「善」の認識を持つことによって、逆の「醜」や「悪」の概念が生まれてくるという相対観念を述べている。以下、個別の対立概念を挙げる中で出るのが、「長いものと短いものはそれぞれが互い互いを明らかにし合うものであり、高いものと低いものも互いに互いに勾配を持つことで限定し合って」最終的には調和している、というのが、この部分である。「老子」の以下は、だから聖人は徹底的に行動しないことことに拠り、無言を以って教えを伝える。だから、万物は、彼に使われて働かされても、労苦を厭わないし、彼が対象を育ててもそれを自分のものとはしないし、それを頼りとすることもせず、行為を成し遂げても、それへの敬意を求めもしない。ことさらに自分のしたことに敬意を求めないからこそ、彼はその到達した境地から追い払われることも永遠にないのである、と続いている。

「萬丈の人」野島出版補註に『心の広く大きい人』とある。

「五嶽」道教の聖地である五つの山の総称。陰陽五行説に基づき、木行(東)・火行(南)、土行(中央)・金行(西)・水行(北)の各方位に位置する五つの山が聖山とされ、東岳泰山(現在の山東省泰安市泰山区内)・南岳衡山(湖南省衡陽市南嶽区内)・中岳嵩山(河南省鄭州市登封市内)・西岳華山(陝西省渭南市華陰市内)・北岳恒山(山西省大同市渾源県内)がそれに当たる。中国神話では万物の元となった「盤古」が死んだ後に、その五体が分裂して五岳となったと伝えている。

「蠢爾(しゆんじ)」野島出版補註に『虫のうごめく形容』とある。

「蟲貝臂毳(ちうばいひせつ)」野島出版補註に『虫や貝や、やわらかい毛のある虫』とある。

「櫟社(れきしや)」野島出版補註に『櫟はくぬぎ、山野に自生する。櫟を神として祭った社。其の神木を』「轢社(れきしゃ)の樹(じゅ)」『という。荘子の人間世に出』る、とある。

「心遊(しんいう)」前の崑崙の詩の最後にもあった。心の楽しみ。

「殷(さかん)」「殷賑(いんしん)を極める」のそれ。活気があって賑やかなこと。繁華。

「善(よ)くす」親しく交友した。

「之(ゆ)く所を名(い)はず」行く所を選ばない。どこへなりとも自由自在に行く。目的地を遠近や難易などで好き嫌いで選ぶことをしないということであろう。

「遠近を我が眸(ひとみ)に諮(はか)り、當否(たうひ)を我が脛(すね)に詢(と)ひて」崑崙が、現場での実地検証と実見観察に基づいて、その当否を問うという、厳格な現実主義者であったことを指す。確かにその通り!!! 「詢」(慣用音「ジュン」)は「問う・諮(はか)る・問い訊ねる・相談する」の意。

「厭足(えんそく)」飽きて厭(いや)になるほどまで満ち足りること。即ち、ここは「満足」に同じい。

「石を峙(そばだ)てて砂を繚(めぐ)らし、以つて、其の嶄(ざんしよう)淸冽(せいれつ)を象(つかさど)る」「嶄」は山が嶮しく高く聳えたつことで、「淸冽」は深山の溪谷が冷たく澄み渡っていることを指し、現地調査でそうした峨々たる深山や谷川から自宅に戻ってくると、その実地調査をした場所を盆景の如くに縮小再現して、記録する際の視覚的参考に供したというのであろう。

「飢渇(きかつ)」ここは知的な意味での必然的要求を指す。

「長さ六寸、高さは長さに半(なかば)にして、猶、九分(くぶ)を餘(あま)す」「廬山石は」最大長軸で十八センチメートル、高さはその半分に「九分」(二・七センチメートル)を足したもので十二センチメートル弱。

「廣さは高さのごとくにして、四分(しぶ)を減(げん)ず」短軸を幅と見て「廣さ」と言っているか。「四分」(一・二センチメートル)を引くのだから、十センチ七ミリほどか。

「重さは十二斤(きん)」七キロ二百グラム。

「踞牛(きよぎゆう)」野島出版補註に『ひざをついてうずくまっている牛』とある。

「類(るい)す」シミュラクラであるが、言い得て妙。後の瀑布のような白い筋目が「斜めに膝(ひざ)に至る」「頤(おとがひ)を拄(ささ)へ」という「膝」「頤」(顎)がここに響いて非常に利いている。挿絵ともよく合致する。老婆心乍ら、挿絵の「廬山石」の正面手前を牛の蹲った頭部に見立てるのである。

「皦白(きようはく)」野島出版補註に『玉石の白色をいう』とある。

「纎絛(せんたう)」野島出版補註に『細い平うちの紐』とある。

「紆行囘流(うかうくわいりゆう)」野島出版補註に『まがって行き、わになって流れる』とある。

「巒岐(らんき)」野島出版補註に『山の峰のわかれている処』とある。

「偃蹇(えんけん)」野島出版版『いんけん』とルビするが、不審。物が延び広がったり、高く聳えたりしていること。

「欹臥(きぐわ)」寝転がって。石の平面位置まで視線を下げて、近づくことで遠近感を逆転させる幻視である。

「宛然として」まさにその通りに。さながら。

「廬瀑(ろばく)」廬山の瀑布。

「烟(けぶり)」瀧の落ちた水煙である。

「太息(たいそく)」これは私は観察者の溜息なんぞではなく、ミニチュアの廬山の大地の「大いなる気」が起こり、それが廬山の谷々を急に激しく吹く疾風(はやて)(「飄風(へうふう)」)となって吹き抜けるのを感じる、という比喩と読む。そうでないと、前の「烟(けぶり)を吹きて濃雲(のううん)を爲(な)し」と美しい対句にならぬからである。

「此の時に當たり、君が意、甚だ適(かな)ふ」この瞬間、君(橘崑崙)の幻想は美事に完成し、心が十全に満たされる。

「其れ、亦、焉(いづく)んぞ、我が萬丈の人たるを知らんや」年上の青陵にして、崑崙への最大の賛辞である。崑崙君は、まさに私にとっての拠り所とすべき、心の広く大きな人なのである、というのである。

「將(は)た、蠢爾(しゆんじ)の蟲(むし)たるか、貝(かひ)たるか、亦、焉んぞ、此の石、眞(まこと)の廬山たるかを論ぜんや。將(は)た十二斤の石たるか、貝たるか、亦、焉(いづく)んぞ辨ぜんや」この部分、野島出版版は訓読文が混乱してしまっていて参考にならない(意味自体が採れない)。しかし私の以上の読みも実は自信がない。識者の御教授を切に乞うものである。

「葛天無壞(かつてむくわい)」野島出版補註に『葛天は中国太古の帝王。無壊はくずるることのない時世。葛天の時代には無為にして化したという』とある。伝説上の帝王葛天氏(かってんし)。伏羲(ふっき)の号を継いで、その治世は治めずして治まったとされる。その名は葛(くず)の茎を煮て繊維を採り出し、三つの束を撚り合わせて糸や繩を創造したとされ、最初の衣服の創造神ともされる。

「武州府下の隱者」先の注の青陵の事蹟中で、私は、彼が金沢に二年弱逗留していた折りに越後に赴き、崑崙と逢ったのではないかと推理した(引用は省いたが、彼が越中高岡に訪ねたことはウィキの『名字「海保」の読み』の叙述から判明している)が、この時、彼はを見ると、尾張藩の藩儒を辞任しているから、一種の浪人であり、「武州府下の隱者」と限定した理由がやや解せない。或いは、これ以前、一年間ではあったが、武蔵国川越に滞在して絹織物や煙草など産業改革案を進言したと事蹟にあったから、或いは、この時の思い出が懐かしく蘇って、流浪の文化二(一八〇五)年の自分を、敢えてかく名指したのかも知れない。私には何となくそんな彼の気持ちが判るような気がするのである。]

 

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