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2017/08/26

北越奇談 巻之四 怪談 其八(崑崙の実体験怪談)

 

    其八

 

 世に幽㚑の怪談、甚だ多しと雖も、諸國・古今(こゝん)、皆、相類(あいるい)するの話のみにして、いまだ真(しん)とすべきの説を撰(ゑら)ばず。

 壯年の頃、池端(ちたん)に居(きよ)ありし時、田間(でんかん)十余町を隔(へだて)て圓福寺(えんふくじ)といへる禪院あり。

 五月半(なかば)の頃ならん、終日、爰(こゝ)に遊び、夜(よ)いたく更けて歸り來(きた)るに、連日の梅雨(ばいう)、小川の水、增(ま)さり、橋、已に落(おち)て、如何ともすべきやうなし。依(よつ)て、寺の後(うしろ)に戾り、橋と成して渡るべき物やあるや、と尋(たづぬ)るに、杉の森深く、古墳累々と、只、數十(すじう)の卒都婆(そとば)あるのみ。其中(そのうち)、大なる卒都婆に對して独言(ひとりごと)して曰(いわく)、

「亡者(ぼうじや)、我、今、此卒都婆を借り、橋と成し、渡らんとす。明日(めいじつ)、必ず、洗い淸めて、返すべきぞ。」

と、云終(いへおはり)て、遂に其卒都婆を拔き持ちて、先(さき)の小川に至り、是を打渡(うちわた)して、家に歸りぬ。

 扨、明くる日、乙地松原(おとちまつばら)と云へる本道より、かの寺に至り、終日、又、遊び暮らして、遂に卒都婆を返すことを忘れ居(い)たり。

 さて、水も引きたれば、其夜、人、靜まり、獨(ひとり)、かの裏道より歸り、小川のもとに至りたれば、忽(たちまち)、其卒都婆を見て、亡者に約せしことを思ひ出し、終(つい)に卒都婆を水に洗ひ淸め、是をかたげて、寺の後(うしろ)、杉林の中(うち)、墓所に至る時、提灯(てうちん)、已に消へて、咫尺(しせき)もあやなき暗夜(あんや)なれば、何處(いづく)を元の墓所とも辨(わきま)へがたく、だんだん、手探りに石碑(せきとう)・地藏の頭(あたま)なんど、撫囘(なでまは)し撫囘し、かの卒都婆の拔けたる跡を探し求(もとむ)れど、數百(すひやく)立並(たちなら)びたる墳墓なれば、更に其所(そのところ)に尋ね當たらず。已に時移り、心、倦(うみ)て、忙然(ぼうぜん)と立居(たちゐ)しが、獨り言に戲(たはむ)て曰(いわく)、

「亡者、卒塔婆を返す。受取給へ。」

と、其言葉、いまだ終はらざるに、其間(そのあいだ)、六尺あまりも先ならん、墓のうちより、陰火(ゐんくは)、忽然と燃上(もえあが)りて、卒塔婆を拔きたる跡、明かに見へ渡りぬ。

 驚き、かの卒塔婆を元のごとく立(たて)、合掌一拜すれば、陰火、消え失せて、又、うば玉の暗(やみ)とはなりけり。

 誠に無鬼論の説はあれども、遊魂の怪、如ㇾ此(かくのごとし)。

 

[やぶちゃん注:驚天動地! 筆者橘崑崙茂世自身の真正の怪異体験談である!

「池端(ちたん)に居(きよ)ありし時、田間(でんかん)十余町を隔(へだて)て圓福寺(えんふくじ)といへる禪院あり」遂に壮年期の彼の、池の端にあった家を地域限定出来る記載に辿り着いた。この寺は現在の新潟県長岡市寺泊上荒町一六一三に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)である。十三町は千四百十八メートルであるから、概ねこの寺の半径千五百メートル圏内に崑崙の寓居はあったと考えてよかろうこの寺は寺泊港の直近であるから、西北方向は海である。ここから一・五キロメートルの半円を描くと、東北方向は「寺泊磯町」、真東は地図上の「寺泊名子山」の地名の字の頭の位置、南西方向は「金山海水浴場」と「寺泊長峯」及び「寺泊金山」を頂点とした三角形の中央附近となる。この圏内には池塘と思しいものが地図上で現認出来るものだけでも十五以上存在する(なお、画面を航空写真に切り替えて現在の円福寺を拡大してみると(これ)、まさに寺の真後ろ(東北)が墓地となっていることが判る)。さて以上の条件に加えて、

①この寺から崑崙の池端の家に帰る際には、格好の近道があり、そのルートには卒塔婆を渡して渡れるぐらいの小川がある。

②近道をしないならば、その小川を通らずに(或いはその小川にしっかりした橋が架かっているのを渡って)円福寺に行ける行き来する「本道」ルートが存在する。

③その近道をしない「本道」ルートは当時、「乙地松原(おとちまつばら)」と呼ばれていた。

という事実を重ねれば、崑崙の住まいは限定出来る、と思ったのだが、そうは問屋(といや)は卸さなかった。まず、①がよく判らぬ。国土地理院の地図を見ると、円福寺の墓の北近くには川があることが判る(ここ)が、これと限定は出来ない。後で述べる寺泊松沢町で国道に合流する県道二二号の合流点の少し手前(円福寺方向)にも小川があるからである(ここ)。②・③の「乙地松原(おとちまつばら)」という「本道」ルートが、これまた分らぬ。現在の海岸線を走る北陸道(国道四〇二号)か、それに並行して内陸を走る街路がまず「松原」という名称から想起されるのであるが、寺泊松沢町で国道に合流する県道二二号も排除し難いからである。但し、これらを並べて考えてみると、崑崙の寓居は円福寺の東の県道二二号方向ではないのではないかという推理は出来る。何故なら、このルートでは現行の地図を見る限りでは、本道も近道なるものも、円福寺に向かっては、まず、距離に有意な差を認め得ないからである。そうして、改めて池を考えてみる。すると、俄然、南西方向よりも北東方向に目が行く。私は彼が近道としているのは、円福寺の裏手の東側の峰の下を東へ回り込むルートではないかと推理した。そうして崑崙の家は現在の寺泊上田町の東の内陸にある池(グーグル・マップ・データでは大きな二つと小さな一つの計三つがある。ここの近くではないか? という候補を立てたいのである。実はここは崑崙が本書でしばしば言及して来た旧「円上寺潟」の南西の比較的近くにも当たるからでもある。更に言い添えておくと、試みに実測してみると、この三つの池へ北陸道辺りを北上して東に折れるとなると二キロメートル強、私の考える近道を通ると、一・五キロメートルほどで着けそうだ。たいした近道ではないにしても、夜の夜中にはなるべく早く帰りたいことを考えれば、五百メートルは立派な「近道」である。大方の御叱正を俟つ。なお、この寺について、野島出版脚注には、『一寺泊に在り。医王山と号す。往昔天宗にて、今は曹洞宗なり。佐藤荘司が妻其の子兄弟の別を悲しみ、此の寺に來り、二子の石塔を立つ。老尼及兄弟の牌あり。老尼の戒名、宝鏡院玉泉栄妙照。嗣信の戒名、忠叟道信。元暦元年甲辰三月十一日。忠信の戒名、正応常信。文治二年丙午二月六日(越後野志)』とある【2017年8月31日追記】が、これは誤認である後述する新潟県新発田市下中ノ目の曹洞宗円福寺が正しい)。因みに、この「佐藤荘司」は佐藤基治(永久元(一一一三)年?/永久三(一一一五)年?~文治五(一一八九)年?)のこと。奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を持った武将で、源義経の従者として凄絶な死を遂げた佐藤継信(屋島の戦いで戦死)・忠信(潜伏していた京の中御門東洞院で自害。「狐忠信」のモデルとして知られる)兄弟の父。ウィキの「佐藤基治」によれば、『歴史学者の角田文衛によると、当時としては珍しい佐藤一族の義経に対する熾烈とも見える忠節は、君臣の関係だけでは説明がつきにくく、義経が平泉時代に迎えた妻は、佐藤基治の娘であったのではないかとする説を唱えている』。新潟県公式観光情報サイト「にいがた観光ナビ」の同寺の解説には、曹洞宗で延長六(九二八)年『開創、開基は観辨。境内には、源義経に伴い』、『平家討伐に従軍したわが子を慕って寺泊まで訪れてきた音羽の御前が、わが子の冥福を祈るため建てられた石塔』二『基がある。この時、埋葬した鏡、数珠、懐剣、外器は、町文化財に指定されており、同寺が所蔵している』。この「音羽の御前」は「乙和子姫」で、基治の継室(奥州藤原氏初代当主藤原清衡の四男で第二代当主藤原基衡の弟である藤原清綱の娘とされる)で継信・忠信兄弟の実母。【2017年8月31日追記】前の「巻之一 鬪龍」の「池端」の注追記で示した通り、H・T氏の考証により、私の位置認識が全く以って誤っており、これは新潟県新発田(しばた)市池ノ端(いけのはた)ここ(グーグル・マップ・データ))であることが判明した。H・T氏はさらにここでの私の見当違いについて、この「圓福寺(えんふくじ)」は寺泊のそれではなく、新潟県新発田市下中ノ目にある曹洞宗円福寺(ここ(グーグル・マップ・データ))であり、ここは、かの池之端陣屋のある池端から南西方向に一キロメートル程度である旨を御教授戴いた。

 そこで改めて、ここの地図上で①②③を検証してみることにした。まず、③の「本道」ルートが当時は「乙地松原(おとちまつばら)」と呼ばれていた事実に基づき、地図を調べてみると、俄然、目が止まった。

円福寺を実測八百メートルほど南に下ると、現在の国道四六〇号にぶつかるが、その交差点の名は「乙次」である。この交差点の南西を除く一帯は現在の新潟県新発田市乙次(おとじ)である。「乙地(おとち)」と似ている。

ここは現在の新潟県新発田市と同県柏崎市とを結ぶ道で、羽越本線とも並走しているから、当時のしっかりした地方街道と見て問題はなく、とすれば「松原」という名もしっくりくる

さて、池端のどこに崑崙の寓居があったかは定かでないが、仮に池之端陣屋があったと思われるこの中央附近(ヤフー地図)をそこに仮定するならば、現在の国道四六〇号の「池ノ端交差点」を経て円福寺に行くとなると、東南に下った後、現在の「池ノ端交差点」付近から大きく南西に下って、そこからさらに大きく北上せねばならない。その距離は凡そ三キロメートル弱にもなる。

しかし、円福寺から東北にそのまま直進すると、地図上では、この附近までは約一キロメートルである。この陣屋に崑崙の住居があったとするなら、当然、この近道を使いたくなるはずで、これは①に合致する。崑崙は寓居と円福寺の距離を「十余町」としている訳だが、これを「十町ほど」の意味でとるなら、一キロ九十メートルほどとなり、やはり一致するとも言える。しかもこの近道は現在の航空写真を見ても、まさに「田間」なのである(これ(グーグル・マップ・データ))。なお、現在の円福寺は裏手と横(東)に墓地がある(但し、裏手のそれは山を切り崩して新墓地として造成したようにも見えるが、或いは旧方丈の位置は異なっていて、現在の横手が裏であったのかも知れない)。

但し、その間には現行でも二本の小さな川が存在する(街道にも二本の川(一本は同じで、今一本はその二本の川の一つが合流した、より大きなもの)のがあるが、この二箇所は街道なら橋があったと想定してよいであろうから、②に合致すると言える)。

 以上、情報をお寄せ下さったH・T氏に改めて謝意を表するものである。]

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