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« 甲子夜話卷之四 18 乘邑、乘賢父子、御狩に從馬の優劣上意の事 | トップページ | 北越奇談 巻之六 人物 其六(孝女百合) »

2017/09/08

北越奇談 巻之六 人物 其五(力士)

 

    其五

 

Rikisigyoukouji

 

[やぶちゃん注:北斎画。キャプションは「行光寺の住僧 両牛の争ひを止む」。「止む」は「とどむ」と訓じていよう。]

 

 力士は【相撲(すまふ)の。】「越の海」・「鷲が濱」【新泻の人。】・「九紋龍(くもんりやう)」【今町(いままち)の人。】・「関の戸」【次第濱の人。】・其外、頸城郡「中野善右衞門」、立石村「長兵衞」、蒲原郡三條「三五右衞門」、皆、無双(ぶそう)の大力(だいりき)なり。今時(こんじ)、又、力士、夛(おほ)し。其内、鎧泻(よろひがた)の邊(へん)、横戸村(よことむら)「長徳寺」と云へるは、勇力(ゆうりき)の聞えありて、凡(およそ)何十人の力(りき)と云ふことを、知らず。

「生涯、只、三度、力を出(いだ)したり。」

と、常々、人に物談(ものがた)りぬ。

 其一(そのいち)、三條本願寺掛所(かけしよ)に詣ふでける時、堂上僧(どうしやうそう)、その強力(ごうりき)を試(こゝろみ)んことを請ふ。「長徳寺」、戲れに鐘(つりがね)【髙七尺三寸、徑(わたり)三尺一寸。】を両手に差し上げ、

「獨(ひとり)、是を懸(かけ)外(はづ)しするなんどは常にして、珍らしからず。」

とて、堂前に大なる石の手水鉢ありけるに、水を入(いれ)、是を兩手に輕々(かるがる)と提(さ)げ、遙かに、堂を巡り、奧庭に持行(もちゆき)きて、緣先に是を据(す)ゆるに、水、一点(いつてん)を不ㇾ落(おとさず)。

 其石鉢(いしばち)、今、見るに、高(たかさ)二尺余(よ)、長(ながさ)五尺ばかりもあらんか。

 三十余人、漸く是を吊り持(もち)て、本(もと)に送り返す。

 誠に項羽が鼎を上げし力(ちから)も、何ぞ、是に異ならん。

 弱冠の頃、かの寺に至り、其勇力を見んことを請ふ。

 時に老僧、年、巳に八十餘りて、尤(もつとも)、清壯(せいそう)、に對して曰(いはく)、

「老(おひ)、去(さつ)て、力も又、減じたれども、望(のぞみ)にまかせざらんも本意(ほんゐ)なし。」

とて、一銅銭(いつどうせん)【背(うしろ)に文(ぶん)の字あり。】を、左の片手【人食。】二本の指の背(せ)に乘せ、中指一本をもて、上より是を押すに、忽(たちまち)、其錢、ニツに折れて、地に落(おつ)。

 誠に驚歎する餘りあり。

「其力(ちから)、女子(じよし)に傳(つたへ)て、今、已に力僧(りきそう)、不ㇾ出(いでず)。」

と云へり。

 又、谷根村(たにねむら)「行光寺(ぎやうくわうじ)」と云へるは、怪力(くはゐりよく)の名ありて、

「生涯、其力の極(きはむ)る所を知らず。」

と常に是を恨(うらみ)とす。殊に步行(ほこう)、甚(はなはだ)速(すみやか)にして、日々に行(ゆく)事、三十五、六里なり。

 好(このん)で肉食(にくしよく)す。たまたま、魚肉、難ㇾ得(えがたき)時は、一簞(いつたん)を腰にし、履(げた)を付(はき)て出雲崎の海濱に至り、魚肉を求め、飯(はん)を喫(きつ)し、晝過(すぎ)る頃、濱を出(いで)て歸る。家に至る時、日、未ㇾ沒(おちず)、行程往還(ぎやうていわうくはん)、凡(およそ)二十四里なり。

 扨、ある日、松ノ山温泉に浴し、逗留の徒然(とぜん)、柏崎に行(ゆき)しが、一貫目の大魚肉(たいぎよにく)を食(くら)ひ盡くし、一斤(いつきん)の酒を、殘らず飮終(のみおはつ)て、快然と醉(よひ)に乘じ、一步は高く、一步は低く、獨(ひとり)山路(やまぢ)を過(すぎ)て歸るに、塩を負(お)ふせたる牛一ツ、先に立(たち)て行(ゆき)しが、又、向ふより、何か擔(にな)ふたる牛一ツ、行違(ゆきちがは)んとして、忽(たちまち)、兩牛(りやうぎう)、怒(いかり)を發し、互に額(ひたゐ)を合(あは)せ、角(つの)を絡みて戰ふありさま、龍虎(りやうこ)の勢(いきほひ)に異ならず。

 左右の牧人(うしかひ)、大(おほき)に驚き、声を勵まして引(ひく)と雖も、更に近寄るべくもあらず。其内、近き邊(あた)りの農夫・樵者(きこり)など集まりて、

「梯(はしご)よ、長木(ながき)よ。」

と騷動すれども、如何ともすることなし。

 爰(こゝ)に「行光寺」、つくづく見物して居(ゐ)たりけるが、不ㇾ思(おもはず)、一身の力(ちから)、現はれ出(いで)て、滿身、汗をなせり。

 此時、「行光寺」、つかつかと近付寄(ちかづきよ)り、兩牛の角を左右の手に、

「しつか。」

と握り、

エイヤ。」

と聲を出して押分(おしわけ)れば、流石(さすが)の猛牛(あらうし)、片手の怪力(くはいりよく)

に、たぢたぢと尻込(しりごみ)する所を、大勢、集り、長木なんどを入(いれ)て、角を結び付(つけ)、漸々(やうやう)に引分(ひきわけ)たりしが、人々、

「これぞ。天狗にておはすらん。」

とて恐敬(きやうけい)しける。

「此時、其力、盡(ことごと)く皮肉の間(あいだ)に高く、塊(かたまり)を成して、十日餘り、疼痛せし。」

とぞ。

 是、武松(ぶしよう)が一擧(いつきよ)に虎を打(うち)し勢(いきほひ)ありて、尤(もつとも)奇なり。

 密(ひそか)に思ふに、此兩力士をして一相撲(ひとすまふ)なさしめば、これ、又、一大快事ならん。

 

[やぶちゃん注:「越の海」野島出版補註に『頸城郡今町の人。身長五尺八寸余。宝暦、明和の頃、其の右に出ずる者なし』とある。宝暦から明和は一七五一年から一七七二年。橘崑崙は宝暦一一(一七六一)年頃の生まれであるから、知っていたとしても、幼少期の記憶である(本書の刊行は文化九(一八一二)年)。「今町」は現在の新潟県上越市住吉町附近の旧地名と思われる。この附近(グーグル・マップ・データ)。「五尺八寸百余」は百七十六センチメートルほど。

「鷲が濱」野島出版補註に『新潟新地の漁夫。身長六尺三寸。寛政二庚戌年三月吉辰の番付によれば、鷲が浜音右ヱ門は小結である。久留米侯のおかかえ力士となり、後』、『改めて、玉垣と云ったが、寛政年中江戸に歿した』とある。六尺三寸は二メートル四センチ。「寛政」は一七八九年から一八〇一年。

「九紋龍(くもんりやう)」野島出版補註に『同上番付によれば、九紋竜清吉は関脇に出ている。頸城郡荒井の人。身長六尺八寸、晩年郷里に帰り、寛政年中残した』とある。「六尺八寸」二メートル六センチ。前の「鷲が濱」とともに二メートル超えは凄い。

「関の戸」野島出版補註に『同上番付によれば、関の戸八郎治は前頭二枚目に出ている。荒井浜の人。身長六尺余、老いて郷里に帰り、乙村に住し、寛政年中に殺した』とある。「六尺余」百八十二センチ超え。「荒井浜」は現在の新潟県胎内市のここ(グーグル・マップ・データ)。

「次第濱」新潟県北蒲原郡聖籠町次第浜(じだいはま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中野善右衞門」野島出版補註に『不詳』とする。

「立石村」現在の新潟県三島郡出雲崎町立石か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長兵衞」不詳。

「三五右衞門」野島出版補註に『不詳』とする。

「鎧泻(よろひがた)」総面積約九平方キロメートルに及ぶ新潟平野の中西部の信濃川下流左岸にかつて存在した潟。干拓によって現在は痕跡すら残らない。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に長岡藩によって干拓事業が開始され、明治末期までに半分が耕地となった。第二次世界大戦後には国営事業として干拓が続行、一九六七年に全面干拓された。現在の西蒲区巻(まき)町・潟東(かたひがし)村・西川(にしかわ)町に跨る水田地帯が跡地である。ここ(グーグル・マップ・データ)の中央付近に相当する。「新潟」の語源説の一つでもあるらしい。

『横戸村(よことむら)、「長徳寺」』現在の新潟県新潟市西蒲区横戸(よこど)であるが、ここではそこの僧の四股名として記されてあるけれども、本文を読み進めると判る通り、実際の寺の名でもあり、同地区に現存する浄土真宗の寺院である(ここ(グーグル・マップ・データ))。この怪力の僧はこの寺の住持であった。野島出版補註に『西蒲原郡潟東村大字横戸長徳寺は真宗大谷派の寺院。力持ちの住職は同寺第五代目釈智恩、天明四年五月十九日死去行年七十一才と過去帳に記載されている。奇談の本文に「老僧年巳に八十あまりて尤清壮」とあるのは、少し過ぎた感がある。村里の伝説によると、「気にいらぬ事があると、隣寺の釣り鐘を独りではづした」という』とある。天明四年は一七八四年だから、生まれは正徳四年(一七一四)年となる。崑崙が二十歳の頃に逢ったとするならば、崑崙は宝暦一一(一七六一)年頃の生まれであるから、安永九(一七八〇)年前後となる。その頃の「長徳寺」は数えで六十七歳前後であるから、これは確かにおかしい。おかし過ぎる。或いは珍しく崑崙は脚色を加えたものか。確かに、八十の老僧の指一本の銅銭割りの方がインパクトはある。

「生涯、只、三度、力を出(いだ)したり」実在した真宗僧とはっきりしているだけに「其一」を出すだけで、後の二度が記されていないのは至極、残念。

「三條本願寺掛所(かけしよ)」「掛所」は以前にも注したが、浄土真宗の寺院で地方に設けられた別院。後には別院の支院を呼ぶようにもなった。これは現在の三条市本町二丁目にある、浄土真宗大谷派三条別院のこと。東本願寺十六世一如が宗義の紛争を統一するために元禄三(一六九〇)年に創建されたもので、現在は米山以北の大谷派寺院を統括している。ここ(グーグル・マップ・データ)。長徳寺からはほぼ南に直線で十六キロメートルほどの位置にある。

「七尺三寸」二メートル二十一センチメートル。

「徑(わたり)三尺一寸」約九十四センチメートル。

「高(たかさ)二尺余(よ)、長(かがさ)五尺ばかり」高さ六十一センチメートル余り、長さ一メートル五十二センチメートル弱。

「清壯(せいそう)」清々しい雰囲気で、しかも、力強さが漲っていること。

 

「老(おひ)、去(さつ)て、力も又、減じたれども、望(のぞみ)にまかせざらんも本意(ほんゐ)なし。」

「一銅銭(いつどうせん)【背(うしろ)に文(ぶん)の字あり。】」新寛永通宝(そこから通称も「文銭(ぶんせん)」)がそうだが、この銭は明治まで現役で使用されていたから、崑崙が知らないのはおかしいので、違う。古銭に詳しい方の御教授を乞う。

「左の片手【人食。】二本の指の背(せ)に乘せ、中指一本をもて、上より是を押すに、忽(たちまち)、其錢、ニツに折れて、地に落(おつ)」分かり難いが、「人食」は人指し指(「食」は「食指が動く」の「食」で「食指」は人差し指と同義であるから、これは左手の「二本」目の「人差し指」の背に銅銭を置き、同じ左手の中指を左からすり被せて中指と人差し指の二本だけを使って一瞬にして折り割ったと解釈する。

「其力(ちから)、女子(じよし)に傳(つたへ)て、今、已に力僧(りきそう)、不ㇾ出(いでず)。」彼は浄土真宗の僧であるから、江戸時代を通じて、唯一、妻帯が公儀から許されていたから、彼の子が女性で、その娘がこれまた、とんでもない怪力女であったということであろう。

「谷根村(たにねむら)」新潟県柏崎市谷根地区と思われるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、「行光寺(ぎやうくわうじ)」という寺は見当たらない。但し、野島出版脚注に『米山山中谷根村に在り。安永、天明年間の住僧某、膏力あり云々其の他、本文の如し(越後野志)』とあって、この地区は米山の東北直近に当たるから間違いない。廃寺となったか? ガッツリ肉食(にくじき)をしているから、この寺も浄土真宗である。

「常に是を恨(うらみ)とす」自分の持つ怪力やそのための暴飲暴食を自身の力で制御出来ないことが、却って悩みの種であったということであろう。

「三十五、六里なり」約百三十八~百四十一キロメートル。通常、強脚の者で一日に歩ける距離は五十キロメートルほど、走らずに二十四時間(間に休憩を挟んで)歩いても七十五~八十キロメートルが限界かと思われる。

「一簞(いつたん)」一つの瓢箪に水を入れたもの。

「二十四里」九十四キロメートル強。

「松ノ山温泉」現在の新潟県十日町市松之山にある松之山温泉。同地区は(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「松之山温泉によれば、『開湯伝説によれば、約』七百『年前の南北朝時代に鷹が温泉で傷を癒していたところを発見したとされ』、『上杉謙信の隠し湯とも言われている。江戸時代の諸国温泉功能鑑にも記されている』とある。

「柏崎」松之山温泉からは北へ直線で三十二キロメートルほどある。

「一貫目」三・七五キログラム。

「一斤」「斤」は重量単位で六百グラムであるから、酒はアルコール分が少ないので六百ミリリットルに換算してよい。一升瓶三分の一。

「一步は高く、一步は低く」千鳥足の形容であろう。

「梯(はしご)」時代劇の捕り手で判るように、それで追い込みや防禦のための柵として用いる。「長木(ながき)」も同様の制圧するための長い棒。北斎の絵では、生木らしいものが左手に竹製のそれが右手に描かれている。

「武松(ぶしよう)が一擧(いつきよ)に虎を打(うち)し」武松は「水滸伝」の登場人物。ウィキの「より引く。『天傷星の生まれ変わりで、序列は梁山泊第十四位の好漢。渾名は行者(ぎょうじゃ)で、修行者の姿をしていることに由来』。『鋭い目と太い眉をもつ精悍な大男で、無類の酒好き。拳法の使い手であり、行者姿になってからは』二『本の戎刀も用いた。実兄は武大。嫂(あによめ)は潘金蓮。宋江、張青、孫二娘、施恩とは義兄弟』。第二十三回から十回分に亙って主人公として活躍し、この十回は特に『「武十回」と呼ばれ、四大奇書の一つである『金瓶梅』は、この「武十回」をさらに詳しく描いた作品である。また、孟州到着までとその後で性格が変化していることから、元々は主人公も別の異なる話を組合わせて作られたとされ、『水滸伝』が様々な説話を集合させて作られたという説明の引き合いに出される事が多い』。『酒のため』、『誤って役人を殺したという理由で柴進の屋敷に身を寄せ隠れていた。そこで逃亡してきた宋江と出会い義兄弟の契りを結ぶ。その後、殺したと思っていた役人が実は失神しただけということが判明し、故郷の清河県へ帰る途中で、景陽岡の人食い虎を退治したことにより、陽穀県の都頭に取り立てられる。更にその街で働いていた兄・武大と再会したが、武大は武松が出張している間に嫂の潘金蓮とその情夫・西門慶によって毒殺される。兄の死に疑問を持った武松は奔走して確かな証拠を掴み、兄の四十九日に潘金蓮と西門慶を殺害して仇討ちを果たし、その足で県に自首し孟州に流罪となった』(下線やぶちゃん)。『護送中、立ち寄った酒屋(張青、孫二娘夫婦が経営)で振る舞われた酒に一服盛られるが、感づいてかかった振りをして倒れ、肉饅頭にしようとした張青夫婦を逆に懲らしめた。孟州に入ると、典獄の息子であり』、『盛り場の顔役であった施恩の世話となる。ところが、施恩と盛り場を巡り対立していた張団練配下の蒋門神(蒋忠)を叩きのめしたことにより恨みを買い、孟州に赴任した張団練の一族である総督の張蒙方に冤罪を着せられて再度流罪となった。さらに護送中に刺客に襲われたことにより激怒し、刺客や護送役人を返り討ちにし、蒋門神と張団練と張蒙方一家を皆殺しにすると、今度は自首せず逃亡』、『その途中、張青夫婦と再会し、魯智深や楊志がいる青州二竜山へとの入山を勧められ向かうこととなる。なお、その際に追手から逃れるため』『修行者に変装し、これが渾名の由来となった。二竜山へ入山後は、後に合流した施恩、曹正、張青、孫二娘らと共に青州で一大勢力を築く』。『梁山泊の攻略に失敗した呼延灼が青州で再起を図り桃花山を攻めた際に再登場し、青州三山と梁山泊合同軍での青州攻めに加わった後そのまま梁山泊へと入山。歩兵軍の頭領の一人として活躍したが、方臘討伐の際に敵の道士・包道乙と交戦中に片腕を失い、凱旋途中に駐屯した杭州六和寺で、中風で倒れた林冲の看病の為に残った。林冲は半年後に死去したが、武松はその後も寺男として留まり』八十『歳で天寿を全うした』とある。

「此兩力士」四股名「長徳寺」関と「行光寺」関の浄土真宗僧二人を指す。]

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