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2017/09/02

北越奇談 巻之五 怪談 其十一(貧福論)

 

    其十一

 

Sinjin_2

 

[やぶちゃん注:北斎画。キャプションは「假設氏 大樹の下に やどりて 神人の物語を 聞」。]

 

 神(かみ)は人の敬するによつて、其威力を益(ます)と云へり。

 實(げ)にさも在(あら)んか、爰(こゝ)に假設齋(かせつさい)と云へる豪富の人あり。數世(すせい)の後(のち)、家勢、次第に衰微して、産業、正に乱(みだれ)んとす。爰に於て、假設齋、過(すぎ)し頃、當國一ノ宮伊夜日子明神に、百日參籠して、家勢を中興せんことを祈るに、百日の祈願、已に滿(みち)なんとする夜(よ)、夢ともなく、幻ともなく、環鬢(くわんびん)、端正(たんせう)の童子一人、枕の上(ほとり)に立(たち)て、かの假設齋に告(つげ)て曰(いはく)、

「汝、丹精を拔きんで、家事をわれに祈ること、尤(もつとも)愛惽(あいみん)する所なり。然りと雖も、『禍福、有ㇾ門(もんあり)、人の招く所に至る』と。われ、又、是を如何ともすること、なし。汝が家、從來、耕田(かうでん)、百余石、蒼頭(さうとう)奴碑(ぬひ)、百余人、貢納(くなう)の小民、一千余家、依然として、皆、食すべし。然るに、近世の風俗、上(かみ)の好(このむ)所、下(しも)、必(かならず)、是を學ぶの倣(なら)ひ、衣服・器財の華美、飮食の珍味、異國山海(いこくさんかい)を盡して求(もとむ)る所、なきがごとし。其主(しゆ)、已に酒食に耽り、遊興に荒(すさ)む。是、又、汝が衰(すい)の一なり。家僕、又、是に效(なら)ひ、間(かん)を偸(ぬす)み、勤(つとめ)を省(はぶ)きて、給ふ所の扶持(ふち)、半年(はんねん)の費(つゐい)に不ㇾ滿(みたず)。是、又、汝が衰の二なり。地を借り、耕すの小民、自然に、又、其奢(おごり)を學んで、自(みづか)ら耘(くさぎり)耕(たがやす)ことなく、僕(ぼく)を抱(かゝ)へ、人を雇ふて、是を扶(たす)く故、得る所、少(すくな)し。貢納(くなう)の時に至(いたつ)て、又、是を減少するに、年の災異(さいい)を名(な)とす。是、又、汝が衰の三なり。故に、上(かみ)、費(つゐい)多く、下(しも)、收(おさむ)ること、少(すくなき)を以(もつて)、上(かみ)は下(しも)を責(せめ)、掠(かす)め、下は上を僞(いつは)り、恨む。今、此三ノ衰事(すいじ)、又、改むるによしなし。われ、又、如何ともすること、なし。只、汝が不徳を恨(うら)め。只、世の盛衰を恨むべし。只、其吉凶はあざなへる繩のごとし。禍福、必(かならず)、双連(そうれん)す。」

と言竟(いひおはつ)て、夢、忽(たちまち)、覺(さめ)ぬ。

 こゝに、假設齋、感淚止(とゞ)め難く、すごすごと神殿を立出(たちいで)、家に歸らんとするに、夜(よ)、いまだ明(あけ)ず。足にまかせて行くほどに、山路(やまぢ)を失(しつ)し、深林に分入(わけいり)、何處(いづく)ともなく辿(たど)りけるに、忽然と、大樹下(たいじゆか)に一小社(ほこら)あるを見る。

 假設齋、思ひらく、

「此ところにやすらひ、天明(よあけ)て歸るべし。」

と、即(すなはち)、小社を拜し、大樹の後ろに到りて、暫く佇(たゝず)み、息(いこ)ふ。

 折節、忽(たちまち)、表の方(かた)に、淸麗(せいれい)なる轡(くつわ)の音して、馬(むま)に乘(のり)、來(きた)る者あり。

 假設齋、竊(ひそか)に是を窺ひ見れば、白衣(はくい)髙冠(かうくはん)の神人(しんじん)、已に小社(ほこら)の前に至(いたり)て、馬より下(おり)、即(すなはち)、呼(よん)で曰(いはく)、

「愚神(ぐしん)、内(うち)に在(あ)りや。」

と。

 爰に、又、小社の中より松姿(しようし)鶴髮(かくはつ)麁服(そふく)葛巾(かつきん)の神人(しんじん)、立出(たちいで)て、大樹の南に坐(ざ)す。白衣の神人も、即、樹下の北坐せり。

 葛巾の神(しん)、問(とふ)て曰、

「公(こう)、今、何(いづ)くより來(きた)れるや。」

白衣の神、答(こたへ)て曰(いはく)、

「吾、今夜、一ノ宮内殿勤番に相當(あいあたり)て、今、正(まさ)に歸(かへら)んとす。」

葛巾の曰、

「何の珍事かある。」

白衣の曰、

「假設氏(し)、産業の衰(すい)を以つて中興せんことを祈る。然(しか)りと雖も、世の盛衰、神力(しんりよく)の及難(およびがた)きことを示し給ふなり。」

葛巾の曰、

「公等(ら)、何ぞ告(つぐ)るに齊家(せいか)の術を以つてし給はざる。」

白衣、笑(わらつ)て曰、

「治國齊家は、上古の聖賢だも、皆、難(かた)しとす。況(いはん)や、汝が貧愚、何の説(とく)所あつてか、此言(げん)をなすや。」

葛巾、慷然(かうぜん)として荅(こた)へて曰、

「公、不ㇾ聞(きかず)や、『麟駒(りんく)は、瘦(やせ)たるを以(もつて)、馬師(ばし)、是を謬(あやま)り、名士は、其貧なるを以つて、吏部郎(しふらう)、是を誤る』[やぶちゃん注:「吏部郎(しふらう)」はママ。]と云へり。我、今、其一二を述(のべ)ん。只、齊家の術、其時により、其所により、其風俗よりて、以(もつて)計(はかりごと)を施すべし。上古は地に画(ゑがき)て、民(たみ)、服し、琴(こと)を調(しら)べて、國、治(おさま)る。蕭何(しようか)は刑を三章に省(はぶ)き、諸葛(しよかつ)は刑を六條に增(ます)。是、皆、其世と時と風俗なり。我、今、假設氏(し)が爲に是を計(はか)らんに、只、富(とみ)を用ゆべし。即(すなはち)、是、近世の風俗に據(よ)ればなり。」

と。

 白衣、又、大に笑(わらつ)て曰、

「汝、今、富を云へども、其富、得べくんば、假設氏、万石(まんこく)の田(でん)、數(す)十の僕(ぼく)、一千の小民、以(もつて)、富を難(かた)しとせんや。富、實(じつ)に得難し。汝、是を如何(いかん)がせん。」

葛巾の曰、

「富、甚だ妥(やす)しと雖も、其道を以つてせずんば強(しゆ)る共、豈(あに)及(およば)んや。古人、云へることあり。『農は不ㇾ如ㇾ工(こうにしかず)、工は不ㇾ如ㇾ商(しようにしかず)』と。其れ、陶朱公(とうしゆこう)・白圭(はくけい)・子貢(しこう)が富、其道を得たるなり。其余(そのよ)、古今數千(ここんすせん)の商(しよう)、其道を得る者、少(まれ)なり。一度(たび)、其道を得ば、家勢、忽(たちまち)、盛(さかん)にして、恩沢、奴僕(ぬぼく)までに及ぶ時は、小民も又、貢(みつぎ)の責(せめ)を免(まぬ)かるゝことを得て、郡縣、已に豐かなるべし。郡邑(ぐんゆう)豐かなる則(とき)は、小民、自(おのづか)ら上(かみ)を尊(たつと)ぶ。爰に於て、上下、和(くはす)也。故に不謂(いはず)や、『人、富(とん)で、仁義、足(た)る』と。」

白衣、又、勃然として怒(いかつ)て曰、

「汝、しかも其富を致すの術あらば、何ぞ如ㇾ此(かくのごとき)一小社(いつせうしや)の中(うち)に寓(ぐう)して、人の是を祭ることなく、祈(いのる)に驗(しるし)あることなきは、なんぞや。」

葛巾の曰く、

「韓信、漂母(ひようぼ)に食を求めし時は愚(ぐ)にして、元帥となるに至(いたつ)て智あるにあらず。呂商(りよしよう)は、年(とし)八旬に滿(みち)て、一鄙妾(いつひしよう)が愚(ぐ)を教(おし)ゆること能(あた)はずと雖も、其(その)用(もちゆ)る所に及んでは、天下、只、一智(いつち)なり。是、皆、用る人なきと、其智の施す所あらざるを以つてなり。神力(しんりよく)は、只、人の敬するに據(よ)る。吾は、いまだ、その敬する人を不ㇾ得。假設氏、又、其人を不ㇾ得。」

と云ふて、忽(たちまち)、小社(ほこら)の中(うち)に入ると見えしが、二神(じしん)、あとなく、飛去(とびさり)て、林風(りんふう)、只、蕭颯(しようさつ)たるを聞くのみ

 

 誠に此(この)一事、小児の昔物語を聞(きく)がごとしといへ共、神國(しんこく)の奇、今、猶、㚑詫(れいたく)の明かなること、如ㇾ此(かくのごとし)。

 是を以(もつて)按ずるに、富は、それ、難く(かた)して、又、安きか。

 先年、平賀源内と云へる奇才あること、皆人(みなひと)の知る所なれども、平賀、常々、人に對して、万(よろづ)のこと、分別の知を用(もちふ)るに、只、者を致すこと、尤(もつとも)、安しと云へるを聞(きけ)り。さも在(あら)んか。然りと雖も、人、各(おのおの)、其分量あつて、百錢(せん)の力(ちから)は百錢の音をなすに不ㇾ過(すぎず)、千錢(せんせん)の力は千錢の富をなすに不ㇾ過。

 弱冠の頃、相法(そうほう)を少し學び得て、今、是を按ずるに、下賤(かせん)の奴僕(ぬぼく)、たまたま貴相あることありと雖も、是、則(すなはち)、奴僕中(ちう)にして其貴(き)を得るのみ。又、貧困乞食(こつじき)の輩(ともがら)、まれに福相あることあり。是、又、貧中(ひんちう)の福を得る者にして、所謂(いはゆる)、駑馬(どば)に麒麟の一毛(もう)なる物なり。是、皆、其分量ある所にして、百錢の分量、豈(あに)、よく千金の富をなすことを得んや。

 平賀氏(うぢ)、初め、家、貧にして胸中の智を盡くすこと、不ㇾ能(あたはず)。一日、東武に遊(あそん)で富家(ふか)に身を賣(うら)んことを求む。其給銀(きうぎん)、凡(およそ)十八貫目、三年を限(かぎり)す。諸家、皆、不ㇾ肯(うけがはず)。依ㇾ之(これによつて)、京師(けいし)に出(いづ)ると雖も、如ㇾ始(はじめのごとし)。終(つゐ)に去(さつ)て浪華(らうくは)に出。即(すなはち)、始めのことを以(もつて)、諸家に申す。爰に某(それがし)の豪富、其詞(ことば)の奇なるを以(もつて)、是を赦(ゆる)し、即(すなはち)、給銀十八貫目を與(あた)ふ時に、平賀氏、これを得て、隨意(こゝろまゝ)に遊行漫興(ゆうかうまんきやう)して、更に家事を勤(つとめ)ざること、二年、一日、忽(たちまち)、來つて、主人に告(つげ)て曰、

「君が知遇の恩、今、正(かさ)に報ぜんとす。」

。爰に於て商(あきなひ)ものす。忽、其利、三千金、以、主人に呈して去(さる)と云へり。

 これ、誠に平賀氏(うぢ)の一大奇智なり、以、因(ちなみ)に擧ぐ。

 

[やぶちゃん注:後半の崑崙の評言部の前を恣意的に一行空けた。これは最早、怪談ではなく、役者に神を演じさせて登場させた崑崙の考える貧富論である。そもそもが家の再興を願う主人の名の「假設齊」(仮設斉)は如何もヘンな雅号である。「仮に設けた」ところの名、誰でもよい、あんたかも知れぬ、いやいや、この読者みんな(「齊」は「等しく皆」の意がある)だ、という見え見えの「設」定なわけだ。

「一ノ宮伊夜日子明神」既出既注。現在の新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦(やひこ)にある彌彦(いやひこ)神社。

「環鬢(くわんびん)」野島出版脚注に『環鬢は上代男子十七、八才以上の髮型、全髮を頭上の中央より左右に分け、各一束にして兩束邊に垂』らして輪のようにしたもの、とある。

「端正(たんせう)の童子」後に出る当番の神は成人である。それでは視覚的にしょぼいので童子に変じて出現したものであろう。この辺りから以下の二人の神のキャラクターや衣装から見て、私は崑崙はこれらをかなり意識的にアイロニックに描出しているように思う。以前にも述べたが、彼は必ずしも神道を尊んでいない人物であったのではないかと私は思うのである。

「愛惽(あいみん)」「惽」は「愍」(「憐憫」の「憫」に同じい)と同義。いつくしみ憐れむこと。

「禍福、有ㇾ門(もんあり)、人の招く所に至る」「春秋左氏伝」の「襄公二十三年」にある以下の一節を引こうとして崑崙が誤まったもの

   *

禍福無門。唯人所召。

(禍福は、門、無し。唯、人の召く所たり。)

   *

野島出版脚注もここを引いて、『災福は、人が、自ら招くので』あって、『その来る所に一定の門戸はない』『という意味』とあり、さらに崑崙が「有」『としたのは記憶ちがいであろう』と記す。

「蒼頭(さうとう)」原義は、昔、中国で兵卒が青い頭巾を被ったところから「兵卒・雑兵(ぞうひょう)」の意であるが、転じて、「僕(しもべ)・下男」の意ともなった。ここは、無論、後者。

「奴碑(ぬひ)」下男と下女。召使。

「貢納(くなう)の小民」年貢を納める義務を担った小作人等。

「上(かみ)の好(このむ)所、下(しも)、必(かならず)、是を學ぶの倣(なら)ひ」野島出版脚注に、「孟子」の「勝文公篇」に『「上、好む者あれば、下、必これより甚だしきものあり」とある』とあり、「淮南子」にも『「上の好む所、下尤も甚し」などの句がある』とある。

「異國山海(いこくさんかい)」他国(ここは日本国内の自国以外のところの意。ロケーションに即すなら越後国以外の他国に当たる)の山海の珍味や景勝地。

「扶持(ふち)」例えば、江戸時代の武士の給与の最少単位とされた正規の「一人扶持」は、一人一日当たり五合の飯米の支給であった。野島出版脚注ではここに注して、大抵は『四合だったと云う』とあり、ここは民間人の平均を述べているのであるから、四合の方がより正確であろう。

「費(つゐい)」読みはママ。

「年の災異(さいい)を名(な)とす」その年の天候(旱魃や水害)のせいにする、かこつけて弁解する。

「吉凶はあざなへる繩のごとし」「禍福は糾(あざな)へる繩の如し」で、「史記」や「漢書」などに基づく故事成句。「糾(あざな)ふ」は「糸を縒り合わせる・縄を綯(な)う」を幸福と不幸は表裏一体のものであり、より合わせて作った繩の目のように、代わる代わるやって来るもの、人智を以ってしても量り難いほどに目まぐるしく変化するものであるという譬え。「人間万事塞翁が馬」の如く、不幸だと思ったことが福に転じたり、幸せだと思っていたことが禍いに転じたりすることをも指す。

「一小社(ほこら)」原典は三文字にルビするように見える。野島出版版は「小社」のみにルビする。原典は本文の数字には一般に読みを振っていない。

「松姿(しようし)」野島出版脚注に、松の木が長寿で経年や寒暑『にも色を変えざるところから松姿は老人』を指すとある。

「鶴髮(かくはつ)」鶴の羽のような白髪。

「麁服(そふく)」粗末な衣服。

「葛巾(かつきん)」葛布(くずふ:葛の茎の繊維を緯(よこ)糸に用いて織った布。水に強く丈夫である)の頭巾(ずきん)。

「白衣の神人も、即、樹下の北坐せり」言わずもがな、「君子、南面す」で彼が遙かに地位が高いことを示す。彼に冒頭から「愚神」と屈辱的に呼ばれた神が坐した「南」(北面)は君臣の位置に当たる。

「吾、今夜、一ノ宮内殿勤番に相當(あいあたり)て、今、正(まさ)に歸(かへら)んとす」彌彦(いやひこ)神社では複数の上級神が輪番制で「神」業務に従事していたという設定が小気味よく面白いではないか。因みに同神社の祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)である。神武天皇の大和国平定後、勅命を受けて越国を平定、開拓に従事してここで没した人物と伝える。但し、祭神大彦命(第八代孝元天皇の第一皇子で第十一代垂仁天皇の外祖父)等とする説もある。

「齊家(せいか)」野島出版脚注に『家庭をよくととのえおさめる』とある。

「治國齊家」野島出版脚注に『「大学」に、「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先づ其の國を治む。其の國を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉』(ととの)『う。其の家を斉えんと欲する者は先づ其の身を修む」云々の言葉がある』とある。

「況(いはん)や、汝が貧愚、何の説(とく)所あつてか、此言(げん)をなすや」「そもそもがだ! お前さんのような貧しく愚かな低級神が、何の拠るところのあって、そんな偉そうなことを我らと対等に話そうとするんじゃ!」。

「慷然(かうぜん)として」威厳を持った感じで。厳(おごそ)かで犯し難い様子で。野島出版脚注に『いきどおりなげく。』とするが、採らない。それでは「憤然」である。

「麟駒(りんく)」「麟」は想魚上の神獣である麒麟のことだが、ここは特別な比喩用法で、馬(後を参照)の中でも稀な優れた個体を指していよう。「駒」は野島出版脚注によれば、『馬の少壯なるもの』を指し、『五尺以上は駒といい、六尺以上は馬ともいう』とある。

「馬師(ばし)」馬の調教師にして鑑定家。

「吏部郎(しふらう)」原典のルビは「し」であるが、漢字は明らかに「吏」である。吏部郎(りぶらう(りぶろう))が正しい。中国に於ける官吏登用の際の担当官を指す。人の才能を見出して登用する人事担当の官職のこと。野島出版版は本文を「史部郎」としてしまい、脚注も『書物を分類して之を司る役人』としてしまっている。これでは前の名馬の馬師の対句にならず、そもそもが意味が通らない。

「地に画(ゑがき)て」野島出版脚注に『境界を立てる。土地を分ける』とある。聖王がさっとただ地面に境界の線を引いただけで、総ての民はそれに従い、誰も文句を言わず、争いも起こらず、天下は治まったというのである。

「琴(こと)を調(しら)べて、國、治(おさま)る」前と同様で、聖王がただ美し琴を弾き鳴らした、その演奏が聴こえてくるだけで、民は世の太平を心から楽しんだというのである。所謂、「鼓腹撃壌」(聖王尭(ぎょう)の時代に一老人が腹鼓(はらつづみ)を打ちつつ大地を踏み鳴らして、太平の世への満足の気持ちを歌ったという「十八史略」などに見える故事)である。

「蕭何(しようか)」(?~紀元前一九三年)は秦末から前漢初期にかけての政治家で、劉邦の天下統一を輔けた漢の三傑(他は張良と後に出る韓信)の一人。

「刑を三章に省(はぶ)き」これは漢の高祖劉邦が秦を滅ぼした直後(紀元前二〇六年)に定めた規約「法三章」のこと。「世界大百科事典」などによれば、①人を殺す者は死刑、②人を傷つける者、及び、③盗む者はそれぞれ重罰に処するとしただけで、他の秦の煩瑣な法律は総て廃止して人心を鎮静させたという。但し、これは反秦の将軍劉邦が旧秦の首都圏に当たる関中の人々に対して発布した応急の約束、軍令の類いであって、これのみでは姦悪な行為を防止出来ず、国家統治の法律としては十分でなかったことから、漢初にこの蕭何は秦の法の中から時勢にかなったものを選んで、「九章律」を策定したと言われる、とある。

「諸葛」字(あざな)の孔明で知られる三国時代の蜀漢の丞相であった諸葛亮(一八一年~二三四年)。劉備に仕え、赤壁の戦いで魏の曹操を破った。劉備の没後、その子劉禅を補佐、「出師(すいし)の表」を奉って漢中に出陣、五丈原で魏軍と対陣中、没した。

は刑を六條に增(ます)。是、皆、其世と時と風俗なり。我、今、假設氏(し)が爲に是を計(はか)らんに、只、富(とみ)を用ゆべし。即(すなはち)、是、近世の風俗に據(よ)ればなり。」

「汝、今、富を云へども、其富、得べくんば、假設氏、万石(まんこく)の田(でん)、數(す)十の僕(ぼく)、一千の小民、以(もつて)、富を難(かた)しとせんや。富、實(じつ)に得難し。汝、是を如何(いかん)がせん」やや分かり難い発言であるが、ここで仮設斉に元来持っていた「万石の田」と「數十の僕」及び「一千の小民」を結果的に得られるようにしたとならば、彼は果たして、その嘗てと等量のそれを「富」としてしみじみ感じ、「富とはまっこと得ることの難しいものなのだなあ」と心底、改心し、嘗てのような奢侈に耽らないだろう? いか、きっとそんな風に感ずることは微塵もなく、元の木阿弥に違いなかろうよ、と言うのであろう。

「富、甚だ妥(やす)しと雖も、其道を以つてせずんば強(しゆ)る共、豈(あに)及(およば)んや」これも分かり難い(私には)。「確かに、そのようにしたら、仮設斉は富を得ることはた易いことだと感ずるでしょうが、結果的に富を与える形の処方を彼にとってやらず、現在のまま、急速に零落するばかりの状態に強いて置かせるよりは、遙かにマシでしょうに?!」の意で採っておく。

「陶朱公(とうしゆこう)」春秋時代の越の政治家・軍人である范蠡(はんれい 生没年不詳)が自ら後半生で称した名。越王勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者とされる。ウィキの「范蠡」によれば、『范蠡は』、勾践が『夫差の軍に』、『一旦』、敗れた時、『夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り』、『夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた』(范蠡は同僚の信頼していた勾践の家臣『文種への手紙の中で「私は『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)と聞いています』。『越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の人は苦難を共にできても、歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と述べた』という)。『越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は』「名が上がり過ぎるのは不幸の元だ」と言って、『財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(山東省陶県)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。このことについては』、「史記」の「貨殖列伝」に描かれているとある(下線やぶちゃん)。

「白圭(はくけい)」(生没年未詳 紀元前四〇〇年前後か)はやはり「史記」の「貨殖列伝」に紹介されている戦国時代の周の商人で、中国史の中で商業の祖師ともされる。参照した「名古屋E&J法律事務所」ブログのこちらの記事によれば、彼について、司馬遷は『「飲み食いはそまつにして、欲望をこらえ、衣服も質素にして、はたらく下男たちと苦しみも楽しみも同じにし、時期をにがさぬことは、猛獣やはやぶさが飛びかかるようにする」と書いて』おり、『こんなことを言っているらしい』として、『「私が商売をするのは、伊尹(いいん)や呂尚の政略、孫子、呉子のいくさのかけひき、商鞅(しょうおう)の厳罰政治と同じことだ。そういうわけで時勢の変化をみぬく知力の足らぬもの、決断する勇気が足りぬもの、取ったり与えたりする仁徳に欠けるもの、きめたことをやりとおす意思の力の欠けたもの、そういうひとたちには、私のやりかたを学びたいと思っても、決して教えないのだ。」』とある(下線やぶちゃん)。

「子貢(しこう)」(紀元前五二〇年~紀元前四四六年)は孔門十哲の一人。孔子より三十一歳年少であった。。ウィキの「子貢」によれば、『弁舌に優れ衛、魯でその外交手腕を発揮する。また、司馬遷の』「史記」によれば、『子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる』。『商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。孔子死後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担った』とある。孔子の有力な資金援助上でのパトロンでもあった。『春秋左氏伝には、国難に際して子貢が呉、斉などへ、外交官として使わされていることが散見している。(春秋左氏伝では子贛とも表記されている。同一人物とされる)また、魯の大臣が外交の場で失敗して、子贛がいれば失敗しなかったのに、と残念がっている表現や、斉国から成という城市を取り戻していること、答えに窮した正使を助けていることなどの言動から、かなり有能であったことがわかるし、孔子にも勝る』、『と一部で評価されるのも理解できる』。また、「史記」の『記述によれば、魯を救うために越、呉、斉、晋に使いし後の縦横家顔負けの弁舌をふるって魯を救い、呉を滅ぼし、越を覇者たらしめ、斉を弱めて晋を守ったとされ』、『このような功績から、魯衛の宰相になったといわれる』。その上、彼は「史記」の「貨殖列伝」に載る『ほどの人物で、その伝には、子貢は魯と曹の国で物資を売り買いして莫大な富を築いたとされる。また各国諸侯とも交際し、孔子の名が広まったのは子貢が弟子にいたからだ、と書かれている』。『子貢の商才を讃えて、後世、財界に大成のあった方への贈る言葉として、「端木遺風」は使われていたという』(子貢の本名は端木賜(たんぼくし))。『一部の言い伝えでは、子貢は財神(ざいじん。金運を高め、財運を呼び込む強力な力を持つ神様)として尊崇されている』。但し、『孔子は彼の能力の使い方に難色を示していた。しかし彼の才気煥発さを愛し、厳しく反省を促しながらも時に励まし、愛情のこもった指導をしている』ともある(下線やぶちゃん)。

「勃然として」怒った表情を表わして。如何にもムッとした様子で。

「韓信」(?~前一九六年)漢初の武将。当初は項羽に従ったが、後に劉邦 の将に寝返り、華北を平定、斉王次いで楚王に封ぜられたが、後、淮陰侯に左遷され、最後は反逆の疑いで劉邦の后呂后りょこう)に処刑された。

「漂母(ひようぼ)に食を求めし時」「漂母」晒しや洗濯などを生業(なりわい)としている婦人の意。野島出版脚注に『水中で綿を打つ老母が』、遊侠無頼の生活を送って放浪していた若き日の『韓信の職に乏しきを憐んで食を与えたことが「蒙求」』(もうぎゅう)『に出ている』とある。なお、この故事から「漂母」は広く慈悲心から「他者に食を恵む老女」の意で用いられるようになった。

「呂商(りよしよう)」太公望呂尚(りょしょう)の誤りであろう。紀元前十一世紀頃の周の軍師。後に斉の始祖となった。

「年(とし)八旬」八十歳。呂の生没年は未詳だが、例の周の文王が釣りをしている彼にに逢った時には既に彼は八十であったとするものが多い。

「一鄙妾(いつひしよう)が愚(ぐ)を教(おし)ゆること能(あた)はず」一人の田舎女の愚かなことを諭し教えることも出来なかった、という意味らしいが、その内容は私は知らない。或いはこれ、呂が周に仕官する前、ある女と結婚していたが、呂は仕事もせず、本ばかり読んでいたために離縁された。ところが、いざ、呂が斉に封ぜられると、元妻は彼に復縁を申し出た。そこで呂は水の入った盆(小さな木製の鉢型食器)を持ってきて、その水を床にみな溢(こぼ)した上、「この水を元の盆の上に戻してみよ。」と言った。女はやってみたが、当然出来なかった。太公望はそれを見て、「一度こぼれた水は二度と盆の上に戻ることはない。それと同じように、私とお前との間も元に戻ることはありえないのだ。」と復縁を断ったという話(後秦の王嘉が編した「拾遺記」に収録されている説話で「覆水盆に返らず」の語源)と関係があるか。とすれば、呂のその譬えは彼女に通じなかったということになるのだが?

 

「其(その)用(もちゆ)る所に及んでは、天下、只、一智(いつち)なり。是、皆、用る人なきと、其智の施す所あらざるを以つてなり」この言葉もよく判らぬ。「その処方を用いるべき場面に対峙したとならば、それに有効な正しい処方はたった一つであり、それは正統なただ一つの智によって導き出されたものなのである。ところが、そうなって然るべきなのに、そうならないというのは、これ、みな、そうした正しい唯一の処方を用いることの出来る人がこの世に存在しないからであると同時に、その唯一正統なる智を施すべき大切な対象がこの世に現存在しないからに他ならないのだ。」という意味で私は採る。これは強烈な面前の上級神の能力や処置(ここでは仮設斉への)に対する指弾であると言ってよい。その神の論争が頂点に達したからこそ、ここで突如、話柄は截ち切れるとも言えるのではなかろうか?

「蕭颯(しようさつ)」もの淋しく秋風が吹くさま。

「平賀源内」(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)は江戸中期の本草家で戯作者。本姓は白石。元は讃岐高松藩の蔵番であったが、江戸で田村藍水に学び、藍水とともに日本初の物産会を開いた。「火浣布」(かかんぷ:石綿製の耐火布)・寒暖計・摩擦起電器「エレキテル」の製作や鉱山開発などに従事し、また、戯作などの著作物でも才能を発揮した。博物学書「物類品隲(ひんしつ)」(全六巻・宝暦一三(一七六三)年刊)は優れた薬剤書である。誤って人を殺(あや)め、その入牢中に病死(破傷風とされる)したとされる(詳細事蹟は後注参照)。幕府密偵説や死亡報知は嘘で後にまで生存したという説もあるが、本書刊行(文化九(一八一二)年)は死亡したとされる年から三十二年後であるから、崑崙が本章を執筆した当時は既に死んでいたと考えてよいが、崑崙の謂い方は、まるで生きている人間のことを書いているようにも感じられるのが面白い。

「万(よろづ)のこと、分別の知を用(もちふ)るに、只、者を致すこと、尤(もつとも)、安し」出典は不詳であるが、これは物の道理を窮め、知的判断力を高める意で、理想的な政治を行うための基本的条件ともされた古代中国における思想史上の術語「格物致知(かくぶつちち)」の考え方であろう。以下の崑崙の主張は物理的な現実主義と相対性を考慮した厳密な意味での対象把握にあることが判る。

「弱冠」数え二十歳。

「相法(そうほう)」。人相・家相・地相などを見て、その吉凶・運命などを判断する方法。観相法。ここは特に人相見。

「駑馬(どば)」脚ののろい馬。比喩的に才能の鈍い人の意でも用いる。

「麒麟の一毛(もう)なる物なり」伝説上の聖獣麒麟を思わせるような名馬の閃きを思わせるような一瞬が、その短い生涯の中には一瞬間はあるような類いのことに過ぎない。

「百錢の分量、豈(あに)、よく千金の富をなすことを得んや」反語。百銭の金の分量で、どうして、よく千両と全く相同の「富」の持つ有意に持続する感覚、エクスタシーを感ずることが出来ようか、いや、出来ない相談だ。

「平賀氏(うぢ)、初め、家、貧にして胸中の智を盡くすこと、不ㇾ能。……」以下は何に基づいて書いた事蹟か不明。識者の御教授を乞う(特に大坂の富豪の最後の一件)。ウィキの「平賀源内によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門(良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文五(一五三六)年十一月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされる。後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めている』。『幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で十三歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元(一七四八)年に父の死により後役として藩の蔵番となる。宝暦二(一七五二)年頃に一年間』、『長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する』。『大坂、京都で学び、さらに宝暦六(一七五六)年には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。二回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦一一(一七六一)年には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。宝暦九(一七五九)年には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦一一(一七六一)年に江戸に戻るため再び辞職する』。この時、『「仕官お構い」(奉公構)となり、以後、幕臣への登用を含め』、『他家への仕官が不可能となる。宝暦一二(一七六二)年には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する』。『宝暦一三(一七六三)年には「物類品隲」を刊行、オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和三(一七六六)年から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永二(一七七三)年には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える』。『安永五(一七七六)年には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する』。『安永八(一七七九)年夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁二人を殺傷したため、十一月二十一日に投獄され、十二月十八日に破傷風により獄死した。獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。享年五十二。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次』乃至は『故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない』とある。

「十八貫目」六十七・五キログラム。江戸中期の銀のこの重量では、現在の二千四百万円相当となる

「三千金」当時の三千両は現在の金額に換算すると、実に豪商が先払いした二千四百万円とぴったり一致する。確かにこれは正しく「一大奇智」と言えるであろう。]

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