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2017/09/11

北條九代記 卷第十一 城介泰盛誅戮

 

      ○城介泰盛誅戮

 

同四月に、北條貞時を相模守に任ぜらる。父時宗の世に替らず、執權相勤め、道を正しく禮を專(もつぱら)とし、仁慈を以て惠(めぐみ)を施し、政理(せいり)を行ふに、私欲を省き給ひければ、諸方の貴賤、その德に歸し、靡かぬ草木もなく、世は淳厚(じゆごう)の風に隨ひ、人は正直の心を勵(はげま)す所に、秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛は、外祖の威を假(かつ)て、恣(ほしいまゝ)に勢(いきほひ)に誇り、榮耀(ええう)に飽盈(あきみ)ちて、奢(おごり)を極め、諸侍に向ひては、目銛(みぎら)を立て、百姓を責虐(せきぎやく)して、貪(むさぼり)を逞(たくまし)く、欲を深くして、「世の憤(いきどほり)、人の怨(うらみ)、誠に亂根(らんこん)の萠(きざし)なり」と、心ある輩は彈指(つまはじき)をしてぞ、疎(うと)みける。相模守貞時の御内(みうち)に、管領(くわんれい)平左衞門尉賴綱と云ふものあり。泰盛が行跡(ありさま)を目醒(めざま)しく思ひければ、その事とはなくして、中(なか)、不和に快らず、權(けん)を爭ひて、勢(いきほひ)に乘らんとす。泰盛が嫡子左衞門〔の〕尉宗景は、父に勝りて大に驕(おご)り、世を世とも思はぬ躰にて、山野、海上(かいしやう)、鵜・鷹・逍遙に法令を破り、式目に背き、我儘を振舞ふこと、諸人の目にも餘りけり。「今、見よ、世の中の大事は、この家よりぞ起らんずらめ」と、危き中にも惡(にく)まぬ人はなし。家運の傾(かたぶ)く習(ならひ)、非道の行(おこなひ)、重疊(ぢうでふ)して、あらぬ心も付く物にや、奢(おごり)の餘(あまり)に、「我が曾祖(そうそ)景盛は賴朝卿の緣(ゆかり)あり」とて、先祖より相續しける藤原の姓を改めて、源氏になり、家中の作法、偏(ひとへ)に執權の如し。馬・物具(もののぐ)の用意、既に分際に過ぎて多く拵へ、腕立(うでだて)・力量ある溢者(あぶれもの)共、數百人を招集(まねきあつ)め、軍事・兵法の稽古を致す事、日比に替りて聞えけり。左衞門尉賴綱は、泰盛父子が缺目(けぢめ)を伺ひ、「少の子細もあれかし」と、内々、工(たく)みける事なれば、此有樣を見聞くより、「究竟(くつきやう)の事こそあれ」と思ひ、潛(ひそか)に相模守に訴へけるやうは、「泰盛父子、逆心を企(くはだて)候事、粧(よそほひ)、色にあらはれ候。その故は、先祖數代相續せし藤原の姓を改めて、源氏になり候。是は偏(ひとへ)に鎌倉を傾(かたぶ)け、將軍に成(なり)て世を持(たも)たんとの結構なるべし。弓矢、馬、物具の用意夥しく、力量逞しく腕立を好む溢者共數百人を集め、非常の行跡(ふるまひ)、是、只事にあらず。諸人の取沙汰、世上の聞(きこえ)、皆、以て、雷同致し候。國家の大事、起(おこ)り立ち候はぬ中(うち)に、憚りながら、御思案も候へかし」とぞ申しける。貞時、熟々(つくづく)と打聞きて、「實(げ)にも」と思はれ、「その義ならば如何にも思案あるべき事ぞ」とて、同十一月八日、潛(ひそか)に人數を揃へて、殿中に隱置(かくしお)かれたり。泰盛父子は露計(つゆばかり)も思寄(おもひよ)らざる事なれば、出仕の威儀を刷(かいつくろ)うて、參られし所を、「ひしひし」と搦捕(からめと)りて、誅せらる。その館(たち)へは、また、人數を遣(つかは)し、家中悉く追捕(つゐふ)し、一味同類を聞出し、召捕(めしと)りて誅戮(ちうりく)せられけり。俄(にはか)の事にてはあり、女・童(わらは)・老いたる者共、周章慌忙(あはてふため)き、啼叫(なきさけ)びて、逃げ出でたりければ、傍(あたり)近き、地下(ぢげ)・町人ばら、「こは、そも、何事ぞ」とて、上を下に騷立(さはぎた)て、資財雜具(ざふぐ)を持運(もちはこ)びける程に、遠近(ゑんきん)、共(とも)に肝を消(け)し、魂(たましひ)を失(うしな)うて、騷動しけれども、事、故(ゆゑ)なく靜(しづま)りたり。是より、左衞門尉賴綱一人、愈(いよいよ)、威を振ひ、勢(いきほひ)高くなりけるが、「大名(たいめい)の下には久しく居るべからず」と云ふことを思ひけるにや、同十二月二十七日に剃髮して、法名果圓(くわゑん)とぞ號しける。北條修理亮兼時は、相模守時賴の六男宗賴の嫡子にて、今年、京都に上洛して、六波羅の南の方にぞ成られける。世の中、今は京都・鎌倉、物靜(しづか)なるやうにて、諸國の有樣(ありさま)は、政道、行足(ゆきた)らざる事あり。「堯・舜も猶、病めり」とは是等をや申すべき。

 

[やぶちゃん注:「同四月」弘安八(一二八五)年。前章准后貞子の九十の慶賀の式は弘安八年に行われており、第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年:北条時宗嫡男)は執権就任(弘安七(一二八四)年四月四日。未だ満十三歳であった)から一年後の弘安八年四月十八日に左馬権頭から相模守に遷任している。

「淳厚(じゆごう)」普通は「じゆんこう(じゅんこう)」。「醇厚」とも書く。人柄が素朴で人情にあついこと。

「秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八年十一月十七日(一二八五年十二月十四日))のこと。「秋田城介」(北辺鎮衛司令官の官職名)は彼の官位。安達義景の三男。彼は源頼朝の流人時代からの側近であった有力御家人の筆頭であった安達盛長の直系の曾孫である(これが後の「我が曾祖(そうそ)景盛は賴朝卿の緣(ゆかり)あり」の謂いとなる)。妻は北条重時の娘。邸宅は鎌倉の甘繩にあった。建長五(一二五三)年に引付衆、翌年に秋田城介を継ぎ、康元元(一二五六)年には引付頭人及び評定衆となって第五代執権北条時頼を補佐した。父義景の死の前年(建長四(一二五二)年)に産まれた異母妹(覚山尼)を猶子として養育して、彼女を弘長元(一二六一)年に時宗に嫁がせ(正室で潮音院殿とも呼び、貞時の母である)、北条得宗家との関係を強固なものとした(本文の「外祖」とはこれを指す。話柄内現在の執権貞時の外祖父(事実上は伯父)に当たる)。弘長三(一二六三)年に時頼が没すると、時宗が成人するまでの中継ぎとして執権となった北条政村や北条実時とともに得宗時宗を支え、幕政を主導する中枢の一人となっていった。文永元(一二六四)年から同四年までは新設の越訴(おっそ)方(訴訟担当機関)の主力を勤め、同九年以降の官位は没するまで肥後国守護であった。著名な「蒙古襲来絵詞」の中で竹崎季長の訴えを鎌倉の邸宅で聴くシーンは建治元(一二七五)年の恩賞奉行の時の姿(四十四歳)である(一部参照にしたウィキの「安達泰盛」にこの絵巻の部分画像が有る)。文永三年の将軍宗尊親王追放の合議に加わっており、弘安年間(一二七八年~一二八八年)にはそれまで北条氏が占有していた陸奥守にあったことから判る通り、幕府の中枢に位置していた。これとともに、安達一族が引付衆・評定衆に進出、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていったことが、後の「霜月騒動」の遠因とも言える。源家相伝の名剣を保持し、実朝の後室八条禅尼から京都西八条遍照心院の保護を委ねられるなど、実際、源家との繋がりが深かった。弓馬に優れ、御所昼番衆の番文を清書するなど、書も達者であり、世尊寺経朝から「心底抄」を伝授されたことは、鎌倉の書風が世尊寺流書道へと流れてゆくの契機となったとされる。宗教面では高野山の檀越の有力な一人として参詣道整備等を積極的に援助し、奥院に後嵯峨天皇供養の石碑を建立、高野版の開板事業も行っている。信仰面では弘安三年に甘縄無量寿院で法爾上人から伝法灌頂を受けて同七年に出家したが、対立する平頼綱(後注)の讒言により、同八年の霜月騒動で一族諸共、滅ぼされた。この霜月騒動により、鎌倉末期の得宗専制体制が固定して行くこととなる(以上はおもに主文を「朝日日本歴史人物事典」の記載に拠った)。「北條九代記」の筆者は狡猾な人物として叙述しているが、これはかなり悪辣な粉飾である。

「目銛(みぎら)を立て」不詳。底本(有朋堂文庫)頭書には『苛察なるをいふ』とある。「苛察」は「細かい点にまで立ち入って厳しく詮索すること」を指す語である。

「亂根(らんこん)」世が乱れるその種。

「御内(みうち)」御内人は北条得宗家に仕えた武士・被官・従者の通称。この頼綱の辺りから特に「内管領」(うちかんれい)とも呼ばれるようになる。但し得宗家の執事、得宗被官である御内人の筆頭という「得宗家の家政を司る長」の意であって、幕府の役職名ではない。鎌倉末期には概ねこの内管領が権勢を持ち(特に頼綱の一族である長崎高綱(円喜))、得宗家を凌駕するまでになるのである。

「平左衞門尉賴綱」(?~永仁元(一二九三)年)は北条泰時・時頼の侍所所司で得宗被官御内人であった盛綱或いは盛時孰れかの子とされる。得宗時宗の侍所所司で内管領として「天下の棟梁」(日蓮書状)と目され、幼い執権貞時の乳母の夫として勢力を得た。弘安八(一二八五)年、幕政の実権を握っていた安達泰盛の子宗景が謀反を企てていると讒言し、その一族を滅ぼした(霜月騒動)。幕政での優位を確立した得宗勢力を背景に、諸人が恐れおののく専制的な政治を行ったが、永仁元(一二九三)年、次男の飯沼資宗(助宗)を将軍にしようと企てている、と嫡男宗綱から密訴され、貞時が差し向けた討手に攻められて鎌倉経師谷(きょうじがやつ)の屋敷で一族諸共、自害した(平頼綱の乱)。密告した宗綱は佐渡に配流されたが、後に内管領に復帰し、その後、概ね、同族であった長崎氏が鎌倉末期まで内管領の地位を占有した(ここまでは同じく「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。ウィキの「霜月騒動」によれば、貞時が『執権となると、蒙古襲来以来、内外に諸問題が噴出する中で幕政運営を巡って』安達泰盛と平頼綱『両者の対立は激化する。貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は弘安徳政と呼ばれる幕政改革に着手し、新たな法令である「新御式目」を発布した。将軍を戴く御家人制度の立て直しを図る泰盛の改革は御家人層を拡大し、将軍権威の発揚して得宗権力と御内人の幕政への介入を抑制するもので』、『得宗被官である頼綱らに利害が及ぶものであった』とし、ウィキの「安達泰盛」によれば、ここに記されてあるように、頼綱は泰盛の子『宗景が源姓を称した事をもって将軍になる野心ありと執権・貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得』。弘安八年十一月十七日、『この日の午前中に松谷の別荘に居た泰盛は、周辺が騒がしくなった事に気付き、昼の』正午『頃、塔ノ辻にある出仕用の屋形に出向き、貞時邸に出仕した』ところ、そこで『待ち構えていた御内人らの襲撃を受け、死者』三十名、負傷者十名『に及んだ。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所は延焼』午後四時頃に『合戦は得宗方の先制攻撃を受けた安達方の敗北に帰し、泰盛とその一族』五百『名余りが自害して果てた。頼綱方の追撃は安達氏の基盤であった上野・武蔵の他、騒動は全国に波及して泰盛派の御家人の多くが殺害された』とある。

「泰盛が嫡子左衞門〔の〕尉宗景」(正元(一二五九)年~弘安八(一二八五)年)は安達泰盛嫡男。秋田城介を継いでいた。ウィキの「安達宗景」によれば、父泰盛二十九歳の時の子で、第八代執権『北条時宗より偏諱を受けて宗景と名乗』った。建治三(一二七七)年二月に検非違使に任官し、弘安四(一二八一)年に引付衆、翌年には『泰盛が陸奥守に任官するのを機に』二十四『歳の若さで評定衆とな』った。弘安六年に秋田城介に就いた。翌年四月に『執権北条時宗の死去に伴って泰盛が出家しているので、この時に宗景が家督を継承したと見られ、泰盛が長年務めた五番引付頭人も引き継いでいる』。同年五月に『高野山から幕府に宛てた報告書の宛名は宗景となっており、時宗の嫡子貞時が』七『月に執権職に就くまでの空白期に宗景が執権職を代行していた』ことが判るという。弘安八(一二八五)年の霜月騒動で死亡、享年二十七であった。「保暦間記」によれば、『霜月騒動の原因は、宗景が曾祖父の安達景盛が源頼朝の落胤であると称して源氏に改姓したところ、平頼綱が執権貞時に「宗景が謀反を企て将軍になろうとして源氏に改姓した」と讒言したためとしている』とある。

「山野、海上(かいしやう)、鵜・鷹」山野での狩猟及び海上での水魚類の漁獲及び鵜飼や鷹狩り。

「逍遙」物見遊山。

「法令を破り、式目に背き」殺生戒を無制限に破っていることを指す。

「あらぬ心も付く物にや」教育社の増淵勝一氏の訳では『とんでもない(謀反の)心が取つ付くものなのであろうか』とある。

「物具(もののぐ)」武具。

「缺目(けぢめ)」足をすくえるところの致命的な欠陥・誤りの意。

「少の子細もあれかし」「ちょっとでもよいから致命的な結果を招き得るしくじりをしてくれればよいぞ」の意。

「工(たく)みける」企んでいた。

「究竟(くつきやう)の事こそあれ」「すこぶる都合がよいことではないか!」。

「色」現実の行動・様態。

「諸人の取沙汰、世上の聞(きこえ)、皆、以て、雷同致し候」増淵氏の訳は『人々の取沙汰や世間の評判も皆(泰盛父子の行為を危ぶむ点で)一致しております』とある。

「その義ならば如何にも思案あるべき事ぞ」増淵氏の訳は『そういうわけなら』、『なんとか』、安達一族を滅ぼす『計画を練りたい』とある。

「追捕(つゐふ)」犯罪者と見做した者を追いかけて捕えること。

「地下」ここは下級官人の意。

「遠近(ゑんきん)」鎌倉御府内の周縁は勿論、それより有意に隔たった地域。

「魂(たましひ)を失(うしな)うて」非常に驚いて。

「事、故(ゆゑ)なく靜(しづま)りたり」騒動はあっという間に治まったのであった。

「大名(たいめい)」高名(こうみょう)。この前後の頼綱寄りのいい話は全く事実ではないウィキの「頼綱によれば、霜月騒動で安達一族を滅ぼした後の『頼綱は、泰盛が進めた御家人層の拡大などの弘安改革路線を撤回し、御家人保護の政策をとりながら、暫くは追加法を頻繁に出す等の手続きを重視した政治を行っていたが』、弘安一〇(一二八七)年に第七代『将軍源惟康が立親王して惟康親王となってからは恐怖政治を敷くようになる(この立親王は惟康を将軍職から退け京都へ追放するための準備であるという)。権力を握っていても、御内人はあくまでも北条氏の家人であり、将軍の家人である御家人とは依然として身分差があり、評定衆や引付衆となって幕政を主導する事ができない頼綱は、幕府の諸機構やそこに席をおく人々の上に監察者として望み、専制支配を行ったのである』とし、『頼綱は得宗権力が強化される施策を行ったが、それは頼綱の専権を強化するものであり、霜月騒動の一年後には』、『それまで重要政務の執事書状に必要であった得宗花押を押さない執事書状が発給されている。若年の主君貞時を擁する頼綱は公文所を意のままに運営し、得宗家の広大な所領と軍事力を背景として寄合衆をも支配し、騒動から』七『年余りに及んだその独裁的権力は「今は更に貞時は代に無きが如くに成て」という執権をも凌ぐものであった。頼綱の専制と恐怖による支配は幕府内部に不満を呼び起こすと共に貞時にも不安視され、ついに』正応六(一二九三)年四月、『鎌倉大地震の混乱に乗じて経師ヶ谷の自邸を貞時の軍勢に急襲され、頼綱は自害し、次男飯沼資宗ら一族は滅ぼされた。これを平禅門の乱という。 頼綱の専制政治は、都の貴族である正親町三条実躬が日記に「城入道(泰盛)誅せらるるののち、彼の仁(頼綱)一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なく候」と記しており』、『恐怖政治であったことを伝えている』。『晩年は次男資宗が得宗被官としては異例の検非違使、更に安房守となっており、頼綱は自家の家格の上昇に腐心していたようである。資宗の検非違使任官の頃、頼綱とその妻に対面した後深草院二条が記した』「とはずがたり」に拠れば、『将軍御所の粗末さに比べ、得宗家の屋形内に設けられた頼綱の宿所は、室内に金銀をちりばめ、人々は綾や錦を身にまとって目にまばゆいほどであった。大柄で美しく、豪華な唐織物をまとった妻に対し、小走りにやってきた頼綱は、白直垂の袖は短く、打ち解けて妻の側に座った様子に興ざめしたという』。『頼綱滅亡後、一族である長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となっている。鎌倉幕府最末期に権勢を誇ったことで知られる長崎円喜は光綱の子である』とある。因みに、『室町時代に禅僧の義堂周信』(正中二(一三二五)年~元中五年/嘉慶二(一三八八)年:土佐国高岡(現在の高知県高岡郡津野町)生まれの名僧。義堂は道号で、周信は法名。空華道人とも号した。当初は台密を学んだが、後に禅宗に改宗して上京、夢窓疎石の門弟となった。延文四(一三五九)年に室町幕府が関東の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏に招かれて鎌倉へ下向、康暦二(一三八〇)年まで滞在した。基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務め、公明正大にして厳正中立な人格者として賞讃された。その後に帰京して第三代将軍足利義満の庇護の下、相国寺建立を進言し、建仁寺や南禅寺の住職となり、等持寺住職も務めた。春屋妙葩や絶海中津と並ぶ中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧として知られる。ここはウィキの「義堂周信に拠った)『が、鎌倉からかつて北条氏の所領であった熱海の温泉を訪れた際に、地元の僧から聞いた話を次のように日記に記している。「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。ここには彼の邸があり、彼が殺されると建物は地中に沈んでいった。人々はみな、生きながら地獄に落ちていったのだと語り合い、それ故に今に至るまで平左衛門地獄と呼んでいます。」このように頼綱の死後』八十『年以上経っても、その恐怖政治の記憶が伝えられていた』のであった、と記す。この「北條九代記」の筆者の頼綱贔屓は歴史上の事実に全くそぐわず、特異的に極めて不快であると言っておく。

「北條修理亮兼時」(文永元(一二六四)年~永仁三(一二九五)年)は北条時宗異母弟北条宗頼の子。ウィキの「北条によれば、弘安三(一二八〇)年に『長門探題であった父の死に伴い』、『長門国守護となる。翌年には異国警固番役を任じられて播磨国に赴』き、弘安の役から三年後の弘安七(一二八四)年、『摂津国守護と六波羅探題南方に任じられた』(下線やぶちゃん)。正応六(一二九三)年一月に『探題職を辞して鎌倉に帰還したが、前年の外交使節到来で再び蒙古襲来の危機が高まったため、同年』三『月、執権北条貞時の命を受け、軍勢を引き連れて九州に下向した。兼時の九州下向をもって初代鎮西探題とする見方もある。兼時が九州博多に到着した直後に鎌倉では平禅門の乱が起こり』、五月三日『に事件を報ずる早馬が博多に到着し、九州の御家人達が博多につめかけ、兼時はその対応に追われた』。翌永仁二(一二九四)年三月、兼時は異国用心のために『筑前国と肥前国で九州の御家人達と』「とぶひ(狼煙)」『の訓練を行い、軍勢の注進、兵船の調達などを行って異国警固体制を強化した。しかし予想していた元軍の襲来はなく、兼時は』、永仁三(一二九五)年四月二十三日に『鎮西探題職を辞して』、『再び鎌倉に帰還した』(『翌年には北条実政が鎮西探題に派遣され』ている)。その後、『兼時は評定衆の一人に列せられて幕政に参与したが、鎌倉帰還の』五ヶ月後の九月十八日に死去した。享年三十二。

「今年、京都に上洛して」誤り。霜月騒動の前の弘安七年である。筆者の表現上の美味しい辻褄合わせが深く疑われる。その辺りがやはり、実作者を浅井了意と非常に深く疑わせる。

「物靜(しづか)なるやうにて」意味は最後は逆接。「なるやうなれども」。

「堯舜も猶、病めり」。増淵氏訳は、中国の天下を太平とさせたとする伝説上の『堯や舜のような偉大な聖帝もやはり広く天下の人々を救うことは困難としていた』とされる。]

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