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2017/09/27

老媼茶話 釜渕川猿(荒源三郎元重、毛利元就の命に依り、川猿を素手にて成敗す)

 

    釜渕川猿

 

 毛利大江の元就の士、荒(あら)源三郎元重は藝州高田郡吉田に住す。

 天文三年八月、よし田の釜か渕より化生(けしやう)の者いてゝ、近邊の男女・わらんへを摑(つかみ)て渕へかけいり、民家・商家、門を閉(とぢ)て、よし田郡山の城下、往來、絶(たえ)たり。

 元就、是を聞(きき)たまひ、荒源三郎に下知し玉ふ。

 源三郎は本名井上にて、信濃源氏の末裔なり。其形容七尺に餘り、力量七拾人か力有(あり)、神道魔法を行へは、大蛇にても鬼神にてもたまるましと、萬民、雲霧のことくあつまり、見物、貴賤、市をなす。

 時に源三郎元重、はだかになり、下帶に、大(おほ)たち、十文字にさし、渕の淺みに立(たち)、大音(だいおん)にて訇(ののし)りける。

「いかに此渕の化生、慥(たしか)に聞。汝、人民を取喰(とりくらふ)。その科(とが)によつて、只今、殺害(せつがい)のため、荒源三郎、來りたり。出(いで)て勝負をせよ。」

と呼(よば)わりけれは、渕の底、とゝろき、逆浪(さかなみ)立(たつ)て、水、岸にあふれて流れ出(いで)て、元重か兩あしを水中より、

「ひし。」

と摑(つかみ)て引込(ひきこま)んとす。

 源三郎

「きつ。」

と見て、

「やさしや。」

と、足を取たる兩手を握りて、

「ゑい。」

と引(ひく)。

 化生、下へひく。

 互に引合(ひきあひ)、おとり出(いで)しか、化者(ばけもの)の力、百人力もあるへし、山のことくにして、うこかす。

 おもてを水中より差出したるをみれは、鬼にはあらす、渕猿也【俗に川太郎といふ者ならん。】。

 去(され)はこそ、『頭(かしら)、くほき處ありて、水あれは、力、つよく、水、なけれは、力、なし』と兼々聞(きき)およひけれは、頭を取(とら)んとするに、忽(たちまち)、すへりて取れすして押合(おしあひ)しか、終(つひ)に頭を摑て、さかしまになし、ふり𢌞しけれは、かしらの水、こほれて、渕猿、たちまち、力、おとろへけれは、提(さ)けて、岸にあかり、

「化物、取(とつ)たり。」

とよはわりけれは、見物の貴賤、

「取たりや、取たりや。」

と、一同におめき、暫く鳴りもしつまらす。

 かくて元重、件(くだん)のものを、なわにてしはり、提(さげ)て、城中へ歸り、

「釜か渕の化物、生(いけ)とり候。」

と訴(うつたへ)しかは、元なり、感悦し給ひて、

「誠に源三郎は大蛇鬼神にも增(まさ)りたり。」

とて、加恩五拾貫、來國行(らいくにゆき)の太刀を玉はりけれは、源三郎、請(うけ)すして、

「かゝる畜類をとり候得(さうらえ)はとて、御恩賞に預り候事、却(かへつ)て迷惑仕(つかまつ)るなり。」

とて打笑(うちわらひ)、たまはりける太刀かたな、御前に差置(さしおき)、我屋(わがや)にさしてかへりける。

 

[やぶちゃん注:「釜渕川猿」「渕」の字は底本が「淵」ではなく、敢えてこの字を用いている以上、原典がそうなっていると判断し、ママとした。さて、これは最早、これ以前の条々のように書名を指すものではないようである。実際、幾ら、ネット検索をしても、書名としての痕跡すら出てこない。さすれば、これは、所謂、妖怪伝承に於ける「釜渕」の「川猿」という通俗呼称を標題としたと考えてよく、出典を示さぬという点に於いて、それが純粋な語りの採録であったとしても、本条は、本「老媼茶話」に於ける記念すべき最初の三坂によるオリジナリティに富んだ怪奇談の濫觴であることを示すものと考えてよいであろう。「川猿」は、後の本文で「川太郎」と言い換えてあるように、「河童」と同義として用いている。形状を猿に似ていると捉えたもので、笹間良彦「図説 日本未確認動物事典」一九九四年興英文化社刊に拠れば、まさにこの安芸周辺の周防・伊予・土佐では河童をそのまま「えんこう(猿猴)」、伊予では縮めて「えんこ」とも呼んでいる。但し、伝承上は猿と河童は仲が悪いとすることが多いように思われるから、河童としては屈辱的な呼称ではあろうか

「毛利大江の元就」言わずもがな、安芸国の国人領主で後の戦国大名毛利元就(明応六(一四九七)年~元亀二(一五七一)年)。彼の本姓は大江氏で、毛利氏の家系はかの鎌倉幕府初期の公家フィクサー大江広元の四男毛利季光を祖とする血筋である。

「荒(あら)源三郎元重」「荒」は通称「源三郎」に冠した武将好みの「強さ」を示す「悪」や「鬼」などと同じ添え辞。この人物は毛利家家臣井上元重のことである。彼についての詳細は判らぬが、同じく毛利家家臣であった彼の兄の井上就澄(なりずみ ?~天文一九(一五五〇))のウィキによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『毛利氏の家臣で安芸井上氏当主である井上元兼の次男として生まれる。名前の「就」の字は毛利元就の偏諱とされる』。『安芸井上氏は元々は安芸国の国人であったが、就兼の祖父・光兼の代に毛利弘元に仕えて以後、毛利氏において重要な位置を占める一族となった。その後も安芸井上氏の権勢は増していき、就兼の父・元兼をはじめとして毛利興元の死後三十余年に渡って傍若無人な振る舞いをしていたと元就は述べており、安芸井上氏をそのままにしておくことは毛利氏の将来の禍根となると元就は考えていた』。『天文年間に安芸国と備後国の経略が着々と進行し、吉川元春と小早川隆景の吉川氏・小早川氏相続問題が概ね』、『解決したことで安芸井上氏粛清の好機であると元就は判断』、『毛利隆元に命じて大内氏家臣の小原隆言を通じて、予め』、『大内義隆の内諾を得た上で、密かに安芸井上氏粛清の準備を進めた』。天文十九年『七月十二日、井上元有が安芸国竹原において小早川隆景に殺害された事を皮切りに安芸井上氏の粛清が始まり、翌七月十三日、兄の就兼は元就の呼び出しを受けて吉田郡山城に来たところを、元就の命を受けた桂就延によって殺害された』。『就兼の殺害と同時に、福原貞俊と桂元澄が三百余騎を率いて井上元兼の屋敷を襲撃。元兼の屋敷は包囲され、屋敷にいた元兼と就澄は防戦したものの力尽きて自害した。さらに、井上元有の子の井上与四郎、元有の弟の井上元重、元重の子の井上就義らはそれぞれ各人の居宅で誅殺されており、最終的に安芸井上氏の一族のうち三十余名が粛清されることとなった』とあるからである(下線やぶちゃん)。本伝承で川猿を退治した荒源三郎元重がこの井上元重と同一人物であることは、例えば、ブログ「戦国緩緩~戦国武将の事をゆるゆると」の「河童と井上氏の顛末」に書かれてある。ある記事によると、柳田國男もこの伝承に言及しているともするが、今の所、見出せない。発見し次第、追記する。

「藝州高田郡吉田」かつての毛利元就の居城吉田郡山城の城下町として栄えた、旧広島県高田郡吉田町(よしだちょう)。現在の広島県安芸高田市吉田町吉田周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天文三年」一五三四年。

「よし田の釜か渕」位置は不詳だが、吉田と言っているから、中国地方最大の「江の川(ごうのかわ)」の城下町吉田周縁(南東から南西及び東北から南西)にあった同川の淵である(先のグーグル・マップ・データを参照されたい。広島県域では「可愛川(えのかわ)」とも呼ばれ、「中国太郎」の異名も持つ。

「わらんへ」「童」。

「かけいり」「驅け入り」。

「七尺に餘り」二メートル十二センチを有に越えていた。

「神道魔法を行へは」八百万の神に祈請した神力(しんりょく)や魔術の如き怪力を出してことに当たる時は。

「たまるまし」「堪(たま)るまじ」。堪えられまい。

「大(おほ)たち」「大太刀」。

「とゝろき」「轟き」。

「やさしや。」「弱っちいのう!」。

「おとり出(いで)しか」「躍り出でしが」。

「くほき」窪んだ。

「すへりて取れすして」「滑りて取れずして」。一般に河童に体表面は粘液で覆われており、滑り易いとする。

「おめき」「喚(おめ)き」。

「來國行(らいくにゆき)」生没年不詳の鎌倉中期の京の刀工。「来派」の事実上の祖であり、来太郎とも呼ばれる。来の由来は、最古の刀剣書「観智院本銘尽」によれば、先祖が高麗より移住したことから「雷」と称したとされる。現存する作品は太刀が多く、短刀も僅かにあるが、孰れも「國行」と二字に銘を彫(き)り、後の一門のように「來」の字を冠することはない。子の国俊に弘安元(一二七八)年銘の太刀があることから、その父の活躍年代がほぼ知られる。太刀は概して幅広で豪壮な風を持つ(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「請(うけ)すして」「請けずして」。

「太刀かたな」「たちがたな」。「來國行」銘の当該一振りを指す。

「我屋(わがや)にさして」「に」は「を」の意。「さして」は「指して」(方へと向かって)の意。]

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