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2017/09/04

北越奇談 巻之六 人物 (緒言)

 

北越奇談巻之六

 

        北越 崑崙橘茂世述

        東都 柳亭種彦挍合

 

    人物

 

 古今の名將、忠信勇武の士は、諸軍談に審(つまびらか)なれば略ㇾ之(これをりやくす)。

 只、上杉家の實事は「長上正言記(てうしようせいげんき)」に委(くは)し。

 板額女(はんがくじよ)は加治明神山(かぢみやうじんやま)の城主、長(おさの)太郎・越後守祐森(すけもり)が室、古志郡(こしごほり)の産なり。勇力(ゆうりき)武巧の名、世に知る所なり。

 

[やぶちゃん注:最終巻。改行は原典のママ。野島出版版は総て繋げて、一段落となっている。

「長上正言記(てうしようせいげんき)」不詳。上杉氏関連の歴代名将実記の誤記であろうかと思い、似たような書名を調べて見たが、見当らない。不審。野島出版脚注にも『不詳』とするのみ。

「板額女(はんがくじよ)」時に巴午前と並称される平安末から鎌倉初期を生きた、百発百中の射芸を持った実在した剛腕の、私の好きな女傑。越後の豪族武将城(じょうの)資国の娘。兄であった城長茂(ながもち ?~建仁元(一二〇一)年:後鳥羽上皇に源頼家追討の宣旨を請うたが、聞き入れられず、幕府軍に吉野で誅伐された)の反乱に呼応して、正治三(一二〇一)年に甥の城資盛とともに挙兵、幕府軍と戦った。奮戦したが、捕らえられ、後に甲斐源氏浅利与一の妻となった。「坂額」とも書き、敬称の「御前」を附すことも多い。私の「北條九代記 卷第三 改元 付 城四郎長茂狼藉 付 城資盛滅亡 竝 坂額女房武勇」及び「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」の本文及び私の注も参照されたい。ここではウィキの「板額御前より引いておく。その名は「吾妻鏡」(『現存する、当該人物が登場するおそらく唯一の一次資料』)『では「坂額」とされていたが、のちに古浄瑠璃などの文学作品で「板額」と表記され、現代では辞書も含めほぼすべてでこれに準じている』。ほかに飯角とも。城資国の娘。兄弟に城資永、城長茂らがいる。日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前とともに女傑の代名詞として「巴板額」(ともえ はんがく)と知られてきた』。『城氏は越後国の有力な平家方の豪族であったが、治承・寿永の乱を経て没落、一族は潜伏を余儀なくされる』。「吾妻鏡」の建仁元(一二〇一)年には、『越後国において板額の甥に当たる城資盛(資永の子)の挙兵が見える(建仁の乱)。これは板額の兄の長茂(資茂とも)の鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、長茂自身は程なく京において討ち取られるが、資盛は要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせた』。『板額は、反乱軍の一方の将として奮戦し』、「吾妻鏡」では『「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。 中たるの者死なずと云うこと莫し」と書かれている』(ここは私の「北條九代記 卷第三 改元 付 城四郎長茂狼藉 付 城資盛滅亡 竝 坂額女房武勇」の私の注で原文と訓読を示してあるので是非お読み頂きたい)。しかし、『最終的には藤沢清親の放った矢が両脚に当たり捕虜となり、それとともに反乱軍は崩壊する。板額は鎌倉に送られ』、二『代将軍・源頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の一族で山梨県中央市浅利を本拠とした浅利義遠(義成)は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾された』(ここも私の「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」の注で「吾妻鏡」の原文と訓読を示してあるので是非お読み頂きたい)。『板額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において生涯を過ごしたと伝えられている。義遠が本拠とした山梨県中央市浅利に近い笛吹市境川町小黒坂には板額御前の墓所と伝わる板額塚がある』。「吾妻鏡」では『「但し顔色に於いては、ほとほと陵園の妾に配すべし(但於顏色殆可配陵薗妾』〔「陵園の妾」とは『古代中国において懲罰のため』に監禁され、『帝の墓陵に奉仕』した『官女。白居易の漢詩を下地とした表現で(囚われの身の/哀れな)美女が就く』とされた)『)」「件の女の面貌宜しきに似たりと雖(いえど)も心の武(たけ)きを思えば」、すなわち美人の範疇に入ると表現されているが、『大日本史』など後世に描かれた書物では不美人扱いしているものもある。これは、美貌と武勇豪腕(弓)とのアンバランスを表現したものが誤解されたためと解釈される』。一説には身長六尺二寸(約百八十八センチメートル)の大女とされ、『のちに浄瑠璃・歌舞伎上の人物となった。また、江戸時代以降、醜女』(しこめ)『の蔑称ともなった』(ここも私の「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」の注を是非読まれたい)。

「加治明神山(かぢみやうじんやま)」不詳。新潟県魚沼市に同名の山(標高七百六十メートル)はあるが、城塞跡は調べ得なかった。寧ろ「加治明神」に着目するなら、新潟県新発田市東宮内(ここ(グーグル・マップ・データ))に藤戸神社があるが、ここは古くは加治明神と称したこと、ここは平安末期、後に城資盛・板額御前の反乱制圧を命じられることとなる幕府御家人佐々木盛綱が加治荘の地頭職となって、文治五(一一八九)年に東に聳える要害山に築城した際にここに祖先を祀ったのを創祀とするとサイト「玄松子の記録」の「藤戸社」にあるのを考えると、崑崙はあろうことか、彼らを征伐した佐々木盛綱(加治盛綱とも名乗った)の城と間違えているのではあるまいか? なお、板額とともに反乱を起こした甥の資盛が拠ったのは現在の新潟県胎内市にあった鳥坂城(とっさかじょう)であるが、ここは「加治」とか「明神山」とは無縁で比定出来ない。筆者或いは伝承の混乱があるとするとどうにもならぬが、取り敢えず、識者の御教授を乞うものである。

「長(おさの)ノ太郎・越後守祐森(すけもり)が室」不詳。そもそも板額御前が幕府に反旗を翻した際に、夫を持っていたとは「吾妻鏡」には記されていないから、これは崑崙の錯誤か、後代にデッチ上げられた偽説に基づくか。しかしそれより、『「長(おさ)」の』は一字姓という特異点であること、音読みすれば「ちようの(ちょうの)」で「城(じやうの(じょうの))」に発音がかなり似ていること、「太郎」はその族長の嫡男の通称であること、「越後守」を位として持って名乗れる越後第一の有力豪族であること、「祐森(すけもり)」が板額の長兄資永の子の、鎌倉幕府に反旗を翻した甥「城資盛」(すけもり)と同音であること等からみて、この「祐森が室」は板額の父「資國が女(むすめ)」の誤伝か崑崙の誤りか(資国は城氏の後述するように棟梁であるから、「太郎」「越後守」も自然である)、或いは「長(おさの)ノ太郎・越後守」は総て無効とした上で「資盛(すけもり)が姨」(板額は資盛の叔母に当たる)の誤伝か崑崙の誤りかと私は思っている。なお、城氏は、サイト「風雲戦国史」の「越後 城氏」によれば、桓武平氏の一流で、平安中期の武将平維茂の『子繁成が出羽(秋田)城介であったことから、その子の貞成以降』、『城氏を称した』、とある。『城氏が越後に勢力を伸ばした事情は明かではないが』、文久五(一一一七)年五月の『検非違使庁下文に「越後住人平永基」と見え、ほぼ』十一『世紀末には越後に入っていたと』推定され、『その後、奥山太郎・豊田二郎・加地三郎など、当時、北越後にあった荘園の名称を通称とした一族がいるので』、十二『世紀半ばには北越後に勢力を拡大していたものと考えられる。嫡流は、永基の』後にこの九郎資国が継いでいる、とある。]

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