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2017/09/29

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝦蟇(かへる)


Kaeru_2

かへる    

        【和名加閉流

         俗云加波須】

蝦蟇【遐麻】

       【雖遐之常慕

        而返故名之

        和名亦然】

ヒヤアヽ マアヽ

 

本綱蝦蟇在陂澤中背有黑點身小能跳接百蟲解作呷

呷聲擧動極急蝦蟇青鼃畏蛇而制蜈蚣此三物相値彼

此皆不能動【蛇螫人其牙入肉中痛不可堪者搗蝦蟇肝傅之立出】

周禮蟈氏掌去鼃黽焚牡菊以灰洒之則死【牡菊無花菊也】

―――――――――――――――――――――

黒虎 身小黑嘴脚小班

 前脚大後腿小班色有尾子一條

𧋷 遍身黃色腹下有臍帶長五七分住立處帶下有

 自然汁出

螻蟈 卽夜鳴腰細口大皮蒼黑色月令所謂孟夏螻蟈

鳴者是也【螻蛄同名】

△按蝦蟇種類甚多或時有蝦蟇合戰以爲不祥

 續日本紀云稱德帝時【神護景雲二年七月】肥之八代郡蝦蟇陳

 列廣可七丈南向去及日暮不知去處桓武帝時【延暦三年

 五月】蝦蟇二万許從攝州難波南行池列可三町入四天

 王寺内悉去 著聞集云後堀河帝【寛喜三年夏日】髙陽院殿

 南有堀蝦蟇數千爲群左右相構而戰或咬殺半死如

 此數日京師人争見之【其外蛙合戰古今不少】

 河州錦部郡天野近處有田名西行田限畔蛙不鳴【如此

 處亦間有之】 新古今折にあへは是もさすかに哀也小田のかはつの夕暮の聲 忠良

 


Kaeru

かへる    蟇〔(けいば)〕

        【和名、「加閉流」。

         俗に「加波須〔(かはず)〕」

         と云ふ。】

蝦蟇【遐麻〔(がま)〕。】

       【之れを遐(はるか)すと雖も、

        常に慕ひて返る。故に、之れ、

        名づく。和名も亦、然り。】

ヒヤアヽ マアヽ

 

「本綱」、蝦蟇〔(かへる)〕、陂〔(つつみ)〕・澤の中に在り。背に黑點、有り、身、小にして能く跳べり。百蟲〔(ひやくちゆう)〕に接〔(まぢ)〕はる。作「呷(カフ)呷」の聲を作〔(な)〕すと解す。擧-動(ふるまい)、極めて急なり。蝦蟇〔(かへる)〕・青鼃〔(あをがへる)〕、蛇を畏れて、而〔(しか)〕も蜈蚣〔(むかで)〕を制す。此の三つ物、相ひ値〔(あ)へば〕、彼此〔(かれこれ)〕皆、動くこと、能はず【蛇、人を螫〔(さ)〕して其の牙を肉中に入れて、痛み、堪ふべからざれば、蝦蟇〔(かへる)〕の肝〔(きも)〕を搗き、之れを傅〔(つ)〕くれば、立どころに出づ。】

「周禮」の、『蟈〔(かく)〕氏、鼃黽〔(あばう)〕を去ることを掌る。牡菊〔(ぼきく)〕を焚きて、灰を以つて之れに洒〔(そそ)〕ぐときは、則ち、死す【牡菊は、花、無き菊なり。】』〔と〕。

―――――――――――――――――――――

黒虎 身、小にして黑く、嘴〔(くちばし)〕・脚、小さく、班〔(まだら)〕なり。

黃〔(じゆんわう)〕 前脚、大にして、後ろの腿〔(もも)〕、小さく、班色〔(まだらいろ)〕、尾子〔(びし)〕、一條、有り。

𧋷〔(わうき)〕 遍身、黃色、腹の下に臍の帶〔(おび)〕、有り。長さ五、七分。住立〔(ぢゆうりつ)する〕處、帶の下に、自然、汁、出づること、有り。

螻蟈〔(らうかく)〕 卽ち、夜、鳴く。腰、細く、口、大きく、皮、蒼黑色。「月令〔(がつりやう)〕」に謂ふ所の、『孟夏に、螻蟈、鳴く』といふは、是れなり【「螻蛄(けら)」と、名、同じ。】

△按ずるに、蝦蟇〔(かへる)〕の種類、甚だ多し。或る時、蝦蟇、合戰すること有り、以つて不祥と爲す。

「續日本紀」に云はく、『稱德帝の時【神護景雲二年七月。】、肥の八代郡(〔(やつしろのこほ〕り)、蝦蟇〔(かへる)〕、陳列〔(のべつら)〕なる、廣さ七丈可(ばか)り、南に向ひて去る。日暮に及びて、去る處を知らず。』〔と〕。『桓武帝の時【延暦三年五月。】、蝦蟇二万許り、攝州難波の南より行く。池に列なる〔こと〕、三町可〔(ばか)〕り、四天王寺の内に入りて、悉く去る』〔と〕。「著聞集」に云はく、『後堀河帝【寛喜三年の夏日。】〔の時〕、髙陽院〔(かやのゐん)〕殿の南に堀有り。蝦蟇〔(かへる)〕數千、群〔(むれ)〕を爲し、左右〔(さう)〕に相ひ構へて戰ひ、或いは咬み殺し、半死す。此くのごとくすること、數日〔(すじつ)〕なり。京師の人、争ひて之れを見る。』〔と〕【其の外、蛙合戰、古今、少なからず。】。

河州錦部郡〔(にしごりのこほり)〕天野の近處〔(きんじよ)〕、田、有り、「西行田〔(さいぎやうだ)〕」と名づく。畔(あぜ)を限りて、蛙、鳴かず【此〔(か)〕くごとくなる處、亦、間〔まま〕、之れ、有り。】

「新古今」 折にあへば是もさすがに哀れ也(なり)小田のかはづの夕暮の聲 忠良

 

[やぶちゃん注:一応、良安の評言の冒頭は動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 両生綱 Amphibia 無尾目 Anura に属するカエル類の総論たらんとする書き出しであるが、その実、蛙合戦の記載によって前項無尾目アマガエル上科ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus(亜種ニホンヒキガエル Bufo japonicus japonicus・亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus)が確実に含まれてくるし、中国本草書から引っ張り出した個別記載は本邦に棲息しない種及び実在が疑問視されるような種(「黃𧋷」)もいる。はたまた、代表する挿絵は如何にもどっしりとしていて、無尾目カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科トノサマガエル属トノサマガエル Pelophylax nigromaculatus 然としているようにも見える。凡そ、総論性には欠くが、次の「蛙」が「あまがへる」と読みを振り、それ項内で「青蝦蟇」(あおがえる)・「赤蝦蟇」(あかがえる)などを挙げ、その後には「蝌斗(かへるこ)」でオタマジャクシを別項立てしているから、各論よければ総てよし、とすることとしよう。

 

「加波須〔(かはず)〕」この「須」に従うなら、「づ」ではないことになり、歴史的仮名遣の「かはづ」は誤りということになる。そもそも「かはづ」の語源ははっきりしないのであるが、主流は「川」に住む蛙或いはそれと田に住む蛙とを区別するためなどとされ、その場合は「川住」(かはずみ)の「蛙」であって「ず」が正しいことになるのである(別に「川集(かはつどふ)」の短縮説があり、これなら「づ」でよろしい)。しかし私はこれらのインキ臭いもっともらしい説はみな眉唾であると思う私が中学高校の六年を過ごした富山高岡の伏木(田舎と馬鹿にするでない。ここは大伴家持所縁の万葉の里である)では、蛙を「ぎゃわず」と呼んだ。これはまさに蛙の鳴き声のオノマトペイアそのものであり、リアルに対象を想起出来る語と考えている。私は「かわず・かはづ」もその消毒されたものと心得ている。大方の御叱正を俟つものではある。

「遐(はるか)すと雖も、常に慕ひて返る。故に、之れ、名づく」「遐」は「遠い・遠くかけ離れるさま」を指す。遠いところに捨てても、必ず、元いたところにたちまちのうちに帰ってくるから「かへる」というのだというのである。この安っぽい駄洒落CMのような説は、しかし、かなり古くから信じられてあるものである。例えば、私の「北越奇談 巻之四 怪談 其十三(蝦蟇怪)」を読まれたい。

 

「陂〔(つつみ)〕」堤。

「百蟲〔(ひやくちう)〕に接〔(まぢ)〕はる」これは、あらゆる虫類と生態系上の強い繋がりを持っている、という意味で解する。

「呷(カフ)呷」「こうこう」という鳴き声のオノマトペイア。

「青鼃〔(あをがへる)〕」カエル亜目アオガエル科アオガエル亜科アオガエル属 Rhacophorus のアオガエル類か、その近縁種。本邦では俗に言う「あおがえる」であるが、あれは日本固有種(本州・四国・九州とその周囲の島に分布。対馬には棲息せず)のシュレーゲルアオガエル Rhacophorus schlegelii である。

「蛇を畏れて、而〔(しか)〕も蜈蚣〔(むかで)〕を制す。此の三つ物、相ひ値〔(あ)へば〕、彼此〔(かれこれ)〕皆、動くこと、能はず」これはまさに「三竦み」の原型である。私は現行の「三竦み」に深い疑念を持っている。現行のその三者を蛇・蛞蝓(なめくじ)・蛙をそれに当て、私の聞いたものでは以下のように説明される。――蛇は蛙を捕食するから蛙には蛇が天敵である。――蛙は蛞蝓を容易に捕食するから、蛞蝓にとって蛙は天敵である。――ところが、蛞蝓には蛇の毒が効かず、逆にそのねばねばとした粘液でもって逆に蛇を溶かしてしまうから蛇にとって蛞蝓は天敵である――されば、三者が出逢うと、その相互の天敵の相克関係から三者とも身動きがとれずなって竦んでしまう――というのである。しかし、この中の蛞蝓と蛇の関係は、まことしやかにこれを説明するための俗説に過ぎず、そのような機序や能力は実際のナメクジには、当然、ないわけで、これは納得し難い。中国の古い誤った認識だから仕方がないだろうというのは、匙を投げたのと同じだ。私はこの「三竦み」を母から聴いた幼少の頃から、この「蛞蝓」は何か他の生物だったのではないか? と思い続けてきた。それは、「蛞蝓」という画数の多い字は書かれたものでは別な字を誤認し易いと私は思ったからである。そうして、『同じ虫偏並びで蛇と蛙に拘わりそうな強そうなものと言ったら――「蜈蚣」――だろ!』と考えた。ところが、である。その後、博物学に興味を持つようになって「本草綱目」を拾い読みするうち、ふと目が止まった記述があった。それは「蜈蚣」の項の『性、畏蛞蝓。不敢過所行之路。觸其身卽死』(性、蛞蝓を畏る。敢へて行く所の路(みち)を過ぎず。觸るれば、其の身、卽ち死す)であった。そこで私は、かく、考えた。『何故だか知らんが、蛞蝓が百足の天敵なら、こりゃ、蛞蝓でもええんかも知れんぞ!』と。しかし、それでも納得は行かなかった。生物学的に蛞蝓が百足を忌避するというのは説明出来ないからであり、百歩譲っても蟇蛙(ひきがえる)は百足を食うが、蛇だって百足を食うからである。このような疑惑は思いの外、執念深いものである。或いは人に児戯に類したものと揶揄されるであろうこういう空想は、我々の意識の倦怠の中で、外見上の年齡を越えて遙かに永く生き延びるものである。とっくに分別の出来た大人が、猶、熱心に『「三竦み」は納得出来ん!』と憤懣を持ち続けたのである(バレましたね、梶井基次郎の「愛撫」の拝借で御座る(リンク先は私の古い電子テクスト))。大学生の頃には、寧ろ、陰陽五行説にでも、この三者を当て嵌め、その相克説から解説するなら判るが、これでは馬鹿にされているようなもんだ、と独り憤慨していたものだった。教員になってからも、生徒に話して呆れられ、同僚の生物の教師に酒を飲んでは議論を吹っ掛けて迷惑がられたものだ。――ところが――この私の疑義と推論が正しかったと判る時が遂にやってきた! 一九九〇年平凡社刊の荒俣宏「世界大博物図鑑 3 両生・爬虫類」、その「カエル」の項の「三すくみ」である。以下、やや長いのであるが、私の永年の憂鬱を払拭するためであるので、荒俣氏もお許し戴けるものと思う。ピリオド・コンマは句読点に代えさせて貰ったことをお断りしておく。

   *

 カエルといえば、ヘビ、ナメクジと組み合わせて〈三すくみ〉とよばれる奇妙な寓意をあらわす小道具となる。

 しかし、日本的寓意といわれる〈三すくみ〉にも東洋的起源がもとめられると思われるので、まず東南アジアの民話から考えていく。

 インドネシアでは、カエルと人間との不思議な因果関係が相当にはっきり意識されてきた。スラウェシ東部に住むトラジャ族に伝わる〈ヘビとカエル〉という昔話に、その例が残っている。それによれば、年寄りのヘビがカエルに子どもたちの守りをしてやるとだまして、その子どもをみな食べてしまう。けれどもヘビは次に人に見つかって殺される。いっぼうカリマンタン西部に伝わる〈小鹿とカエル〉では、カエルが踊りの好きな小鹿をだまして、森の奥まで連れていく。クラン・クルン・クラン・クルンというカエルの太鼓にあわせて小鹿は踊る。ところが。気持ちが高ぶっていくうちに、小鹿は思わず狩人の仕掛けた罠にはまってしまう。すなわち人間はカエルの苦手なヘビを殺し、かわりにカエルは人間に小鹿という利益をもたらす、と考えられていたわけだ。

 これらの民話は、ヘビとカエルが出てくる点を考えあわせるとなおいっそう、日本の〈三すくみ〉の原型を思わせる。

 いっぽう、ベトナムでも、カエルは人間と利害関係をもつ動物だと考えられた。ベトナムの昔話のひとつに〈蛙女房〉というものがある。貧しい若者がカエルを嫁にもらう。そのカエルは皮を脱いで、人間の姿になることができた。ただし人前では皮を脱がない。料理も裁縫も得意で評判となるが、夫はまわりから〈君の奥さんは才能はあるが、きれいじゃない〉と揶揄(やゆ)される。そんなある日美人くらべが行なわれることになった。しかし美人くらぺの当日、カエルはついにみんなの前で皮を脱ぎ捨て、たいそう美しい女となってあらわれた。むろん競争は彼女の勝利に終わる。稲作のさかんな国であるところから、つねに稲のあいだにいるカエルが好意的にみられたのだろう。しかしカエルは人間にプラスを与えるのと同時に、マイナスをも与えるのである。〈蛙にされた上人〉という昔話によると、カエルは、その昔、色恋に迷った名高い上人が、観音様の怒りにふれ、姿を変えられたなれの果てである。そのため、カエルは自分が仏教の修業を積んだころの慣習を今でも忘れていない。たとえ首を切られても人が合掌し続けるように、前肢を合わせているのだ。べトナム人にとってカエルは、美しい女房でもあり。破戒僧でもあるということになる。どちらも、へたをすれば身を滅ぼす元凶となる。

 べトナムには、さらにカエルと人間との因果関係を語る話がある。〈カエルは天を裁判にかける〉という昔話がそのひとつである。昔。大干ばつがおこった。正義感の強いカエルはカニ、クマ、トラ、ハチ、キツネを引きつれ、天に昇って天帝をこらしめる。そしてついに天帝に雨を降らせることを承諾させた。天帝は言う、〈これからは下界で干ばつがおきたら、おまえは歯ぎしりをしてわたしに教えなさい〉と。そのときから、カエルが歯ぎしりをすると、かならず雨が降るようになったのだという。民間にはこういう歌が伝わっている。〈カエルは天の老人であり、カエルを打つものは天に罰される〉。

 人は雨を降らせるために、カエルを鳴かせる。しかしカエルを打てば、人は天に罰せられる。ベトナムでの雨乞いは、一種の自己撞着(どうちゃく)となる。

 ところで、東南アジアにある、カエルとヘビ、小鹿、人、天帝、女房などを組み合わせた〈三すくみ〉関係を、もっと絞りこんだのが、中国での考え方である。《書言字考節用集》によれば、中国ではカエル、ヘビ、ムカデが三すくみを形成するといわれてきた。ヘビはカエルをすくませて食い、いっぼうムカデはヘビを毒殺し、さらにカエルはそのムカデを平気でたいらげるからである。また陸佃《埤雅》[やぶちゃん注:「ひが」と読む。]によれば、ムカデ、ヘビ、ガマで三すくみをなす。ムカデはヘビの脳と目を食らい、ヘビはガマを食べ、ガマはムカデを餌とする。これが自然の法則というものだという。

 この中国版三すくみは、江戸時代初期に日本へ輸入されたらしい。雑俳集の《瀬とり舟》をみると、〈妻に逢夜若衆忍で蛙蝸蛇(さんすくみ)す〉とある。江戸の俳諧師が、ムカデをナメクジ(蝸)に置きかえたことがわかる。《俚言集覧(りげんしゅうらん)》は、はっきりと、三すくみを〈蛇、蛙、蛞蝓(なめくじ)〉と定義し、動きがとれないことの譬(たとえ)とだと説明している。《本草綱目》には、ムカデはナメクジに触れると死ぬ、とある。もしかすると、俳諧師たちはこの事実を知っていて、へどに勝つ動物を、ムカデから、より強いナメクジにかえた可能性もある。ナメクジはムカデ同様カエルに弱いだろうから、それでも三すくみは崩れないと思ったのかもしれない。[やぶちゃん注:この荒俣氏の推理はかなり的を射ていると思う。俳諧師は季の詞に敏感であるために、一種の博物学的素養を第一としており、本草書等もよく読んでいたからである。]

 ちなみに、江戸後期になると、三すくみをとりいれた〈虫拳(むしけん)〉という児戯が生まれる。親指がカエル、小指がナメクジ、人さし指がヘビである。

 いずれにせよ、この〈三すくみ〉は古来中国で〈蟲〉とよばれた生きものの3代表を組み合わせたもので、男、女、胎児(子)になぞらえた陰陽五行の相生相克理論と思われる。

   《引用終了》

この最後を読んで私は快哉を叫んだものだ。さらに言えば、荒俣氏の指示する通り、実は「三竦み」は「虫」を三つ合わせた正字の「蟲」にシンボライズされる強力なそのパワーの均衡チャートででもあったのであると、独り、膝を打ったものである。最後に再度、私の二十年余り(当該書の刊行は私が結婚した三十二歳の年であった)の憂鬱を解いて呉れた荒俣宏氏に謝意を表するものである。因みに、言い添えておくと、蛇は蛞蝓を食う。食うどころか、カタツムリやナメクジのみを主食とする蛇さえ、いる。本邦産では、南西諸島の石垣島と西表島にのみ棲息する日本固有種のヘビ亜目セダカヘビ科セダカヘビ属イワサキセダカヘビ Pareas iwasakii がそれ。松澤千鶴氏のブログ「図鑑.netブログ」の「三すくみ」は嘘だった? 蛇はナメクジも平気をご覧な!

「周禮」「しゆらい(しゅらい)」とも読む。「儀礼(ぎらい)」「礼記(らいき)」ともに「三礼(さんらい)」と呼称され、儒教で重んじられる経書(けいしょ)群である「十三経」の一つ。周公旦が書き残したものとされるものの、実際には後の戦国時代以降になって周王朝の理想的制度を仮想して書かれたものとされる。礼(れい)に関する書物の中では最も需要なものとされた。

「蟈〔(かく)〕氏」以下に見る通り、蛙を駆除することを掌る官の名。但し、後に見るように、「螻蟈」で青い蛙類(或いは広義の蛙類)を指す。他にこの「蟈」はずっと後に項立てされる、砂を口中に含んで人の影を射て死に至らせるという幻の怪虫「蜮(いさごむし)」や「蟈蟈」でキリギリスやクツワムシを指す漢字である。

「鼃黽〔(あばう)〕」蛙。

「黒虎」大陸産の蛙であろうが、両生類には詳しくなく、中文サイトでも同定不能。

「嘴〔(くちばし)〕」口吻部の先端部。

黃〔(じゆんわう)〕」不詳。中文サイトでも同定不能。

「尾子〔(びし)〕」この蛙は体部の後端が通常の蛙より、有意に突き出ている(オタマジャクシの時の尾部痕か)種らしい。或いはある種の変態途中の個体を差すか。

「黃𧋷〔(わうき)〕」東洋文庫版はこの「𧋷」を良安の誤りと断じ、「蛤」の字を横に補正注している。確かに、「本草綱目」の電子化されたものでは一部で確かに「黃蛤」となっているものもあるが、検索を掛けてグーグルブックスの刊行本画像で見ると、現行の中国語で印刷された活字翻刻本では「𧋷」とするものがかなりある国立国会図書館デジタルコレクションの画像で古い「本草綱目」の翻刻本を見ても「𧋷」である。私は、実はこの「𧋷」の方で正しいと思っている。中文サイトの字典の「𧋷」の例文にも、清の李元「蠕範 卷一 物匹第二」の「蛙」の条に「曰黃𧋷、身黃、腹下有臍帶、正月出不可食」という記載を見出せるからでもある。

「臍の帶」両生類ではあり得ない。特殊な種の何らかの器官(生殖?)か、或いは体外寄生虫か・脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)Gordioidea のハリガネムシ類の宿主がカエルに捕食されて体外に出るケースを考えたが、その事態自体が稀で、しかもその場合、消化されなかったとしても、糞と混じって出てくるものと思われ、ハリガネムシが蛙の腹部を食い破って出てくることは考え難いと私は思う。

「五、七分」一・六~二・一センチメートル。

「住立〔(ぢゆうりつ)する〕處、帶の下に」東洋文庫訳では「住立處帶」としてそのまま出し、割注で『(不明)』とする。しかし、こんな現代の学術用語みたような四字熟語は考えにくい。中文の「本草綱目」の現代の刊本をグーグルブックスで視認したところ、「住立處」の後に読点を打っているところから、独自にかく読んだ。但し、「住立」が意味不明な点は東洋文庫と同じである。

「螻蟈〔(らうかく)〕」中文サイトに古くは青蛙のことをかく呼んだと出るから、先に出したカエル亜目アオガエル科アオガエル亜科アオガエル属 Rhacophorus のアオガエル類か、その近縁種としておく。

『「螻蛄(けら)」と、名、同じ』同じってことはさ、結構、今までもいろいろ誤認されてきたのを見た通り、実はやっぱ、これもさ、螻蛄(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類)の鳴き声の誤認でないの?

「蝦蟇、合戰すること有り、以つて不祥と爲す」冒頭に注した通り、通常は大型であるナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus の繁殖行動を指す。これは本種が、多数個体が一定の水場に数日から一週間という極めて短かい期間に集まって繁殖行動をとるからで、古来、「がま合戦」「かわず合戦」と称された。本種の繁殖期のは動く物を何でも抱接しようとし、逃げられないように強い力で絞めるため、を絞め殺してしまうこともある。これを不吉とするのは、良安が挙げる以下の具体例が示しているようで、前掲の荒俣氏の「世界大博物図鑑 3 両生・爬虫類」の「カエル」の項の「ガマ合戦」の条は、そのくんずほぐれつの生態行動ではなく、まさにその吉兆を証左する形で書かれている。例えば、良安の挙げる「桓武帝の時」(延暦三(七八四)年五月のそれについて、後の歴史書「水鏡」(作者未詳。鎌倉初期の成立か)では、これを解釈して、この時の「がま合戦」は平城京から長岡京への『遷都の前兆であり』、『その年のうちに遷都があたふたと行われた』が、『長岡京では不祥事ばかりおこり』、僅か十年『後に平安京へ遷都されたことを思いあわせると』、『なるほど凶兆であったといえる』とされ、また「百練抄」(編者未詳。鎌倉後期の十三世紀末頃の成立と推定される、公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書)には、『源平合戦の時代には』、『ガマ合戦やヘビとカエルの争いがしばしば見られたらしい』と記しておられる。

「稱德帝」第四十六代孝謙天皇が淡路廃帝(あわじはいたい)淳仁天皇(在位は僅か二ヶ月)の後、第四十八代天皇として重祚した際の称。

「肥」肥後。

「七丈」「廣さ」とあるが、ここは長さで採ってよかろう。二十一メートル強。

「三町」三百二十七・二七メートル。

「著聞集」「古今著聞集」。以下は、「巻第二十 魚虫禽獣」の載る「寛喜三年夏高陽院の南大路にして蝦(がま)合戰の事」。以下に示す。

   *

寛喜三年夏の比(ころ)、高陽院殿(かやのゐんどの)の南の大路に堀あり。蝦(がま)、數千(すせん)あつまりて、方(かた)きりて[やぶちゃん注:敵味方に分かれて。]、くひあひけり。ひとつがひ、くひあひて、或いはくひ殺され、或いはかたいきして[やぶちゃん注:虫の息になって。]、はらじろになりてありけり[やぶちゃん注:ひっくり返って仰向けになり、白い腹を見せている有様であった。]。またも、またも、おほく集まること、かぎりなし。あるもの、心見に[やぶちゃん注:試しに。]、くちなは[やぶちゃん注:蛇。]を一つもとめて、その中へなげいれたりけるに、すこしもをそるゝ事なし。くちなはも、また、のまんともせず、にげさりにけり。京中のもの、市をなして見物しけり。ふるくも蝦のたゝかひはありけるとかや。

   *

「寛喜三年」一二三一年。

「髙陽院〔(かやのゐん)〕殿」新潮古典集成の頭注によれば、『中御門大路から大炊御門大路に及ぶ南北二町、西洞院大路から堀川小路に及ぶ東西二町の地を占める邸第』とあり、その「南の大路」とは『大炊御門大路をさす』とある。大内裏の東方の南寄りで、内裏から大路二本隔てた位置。現在中央付近(グーグル・マップ・データ)に当たる。

「其の外、蛙合戰、古今、少なからず」この割注、一応、良安の添えたものと見て、引用の外に出したが、前の「古今著聞集」の原典を見ても判る通り、これは原典の末尾を小手先で書き換えて、添えたに過ぎないことが判る。

「河州」河内国。

「錦部郡〔(にしごりのこほり)〕天野」現在の大阪府河内長野市天野町。(グーグル・マップ・データ)。

「西行田〔(さいぎやうだ)〕」現存しない。「JR西日本」の「Blue Signal」の西行を辿る|西行を慕い、妻子が暮らした天野の里によれば、『西行出家後、家に残した妻は西行が高野山にいることを知り、尼となって天野の里へと移ってきた。養女に出されていた娘も成人して出家し、京から母の元へと移ってきた。母娘は天野で睦まじく暮らしこの地で生涯を終えたと伝わる。高野山と都とを頻繁に行き来していた西行だから、道中、妻子の元に立ち寄り、幾度となく家族団らんの時を過ごしたにちがいない』。『雑木林のなかに、西行妻娘の墓とされる小さな石塔が、花を供されて仲良く並んで立っている。昔から里人が誰ともなく花を供え、手を合わせるのだそうだ。西行堂はその石塔の近くにあるが、後年、西行を慕って里人が建てたものを再建したものである。西行が耕作したと伝えられる「西行田」(狭間田)も今では痕跡もない』とある。

「畔(あぜ)を限りて、蛙、鳴かず」その田だけ、畔を境として、他の田では蛙が鳴くのに、その「西行田」だけは蛙が鳴かない。何か謂れ(伝承)があったのだろうが、知り得なかった。識者の御教授を乞う。

「折にあへば是もさすがに哀れ也(なり)小田のかはづの夕暮の聲」「新古今和歌集」の「巻第十六 雑歌上」の前大納言忠良(粟田口(藤原)忠良(あわたぐちただよし 長寛二(一一六四)年~嘉禄元(一二二五)年:摂政近衛基実次男。粟田口家始祖。政務より歌人としての活動が主で、「古今著聞集」では、長期間、ろくに出仕しなかったために危うく大納言の地位を剥奪されそうになり、その心境を和歌を通じて兄の基通と語り合う逸話が収録されているとウィキの「粟田口忠良にある)の一首(一四七七番歌)。

 

   百首歌たてまつりし時

 をりにあへばこれもさすがにあはれなり小田(おだ)の蛙(かはづ)の夕暮の聲

 

 

この「さすがに」であるが、新日本古典文学大系の注によれば、『旧注に「古今の序には鶯に対して蛙の歌を書けり。されども世間にそれほどもてはやす物にあらず。されば「さすがに」とよめり』『とある通りであろう』とある。]

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