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2017/09/10

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(6) 対立する神々の祟り

 

 此例はまだいくらもある。中でも珍しいのは日次記事の三月の條に、京都の西の松尾の人は紀州の熊野へ參らず、熊野の人も松尾明神には參詣してはならぬ。此禁を破れば必ず祟があるとある。畏多いことであるが、伊勢の大廟にも、在原姓の者は參宮をしなかつたと云ふ話がある。其は先祖の業平が伊勢物語にある如く神聖たる齋の宮に懸想をした爲であつた。京都粟田口明神社の坊官鳥居小路氏の如きは卽ち其家で、參宮が成らぬ故に別に此宮を建てたと粟田地誌漫錄に見え、上州群馬郡の和田山極樂院の院主も、先祖の長野右京亮が在五中將の末であつた爲に、今に至るまで伊勢大神宮に參詣かなはずと山吹日記と云ふ紀行にある。此外守屋氏の人は物部連守屋の子孫らしき爲に信濃の善光寺に詣ずれば災あり、佐野氏の人は田原藤太の後と云ふことで神田明神の祭に逢ふと惡いと云ふ話が、松屋筆記卷五十に出て居り、その平將門の子孫と傳ふる今の相馬子爵の先祖が、奧州から江戸へ參覲する道で、常陸の土浦を通る日は必ず風雨又は怪異があつたのは、將門に殺された叔父國香の墓が此町に在つて、國香明神と祭られて居たからだと新治郡案内にあるが如き、或は東京西郊の柏木村の人は、鎧大明神の氏子で其神は將門の鎧を御神體とすると傳ふる故に、敵の田原藤太秀郷の護持佛だつたと云ふ成田の不動へは參らなかつたと山中共古翁の日錄にあるが如き、何れも謎の如く又下手(へた)な歷史の試驗問題のやうであるが、實は皆此系統の話である。此頃出來た奈良縣高市郡志料に、此郡眞菅村の宗我神社は蘇我氏の祖神を祀つたかと思はれるが、俗には入鹿宮と稱して氏子等は今尚多武峯に參らぬ者が多いとある。是は多武峯には藤原鎌足の廟が有る爲であるが、更に注意すべきは此山から五六里も東、大和と伊勢の國境の高見山に、蘇我入鹿の首が飛んで來て神に祭つたと云ふ言傳へのあることである。此山の神を信心する者は多武峯に參ることの成らぬは勿論、卽事考と云ふ書の卷一には、鎌を持つて登つてさへ、必ず怪我をするか又は山が鳴るとある。是などは明白に山の爭が神の爭となつた一つの證據で、此近邊で秀でゝ居るのは此の二つの山のみである所から、多武峯の競爭者なら高見山は入鹿と云ふことになつたのであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「日次記事」「ひなみきじ」と読む。江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書。十二巻。儒学者で医師であった黒川道祐(くろかわどうゆう)の編で、延宝四(一六七六)年の林鵞峰(はやしがほう)の序がある。月ごとに日を追って、節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て、行事の由来や現況を解説してある。

「松尾」「松尾明神」現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社。ここに記された禁忌に就いて柳田は子供向けに書かれた「日本の傳説」の「神いくさ」の中で以下のように、その禁忌の意味を分かり易く記している。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

[やぶちゃん注:前略。]昔の人は氏神といつて、殊に自分の土地の神樣を大切にしてをりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お參りをするやうになつても、信心をする神佛(かみほとけ)は土地によつて定まり、どこへ行つて拜んでもよいといふわけには行かなかったやうであります。同じ一つの神樣であつても、一方では榮え他(ほか)の一方では衰へることがあつたのは、つまりは拜む人たちの競爭であります。京都では鞍馬の毘沙門樣へ參る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があつて、もとはこれを福惜(ふくを)しみの毘沙門などといつてをりました。せつかく鞍馬に詣(まゐ)つて授かつて來た福を、惜しんで奪ひ返されるといつて、鞍馬參詣の人はこの堂を拜まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るやうにしてゐたといひます。同じ福の神でも祀つてある場所がちがふと、もう兩方へ詣ることは出來なかつたのを見ると、仲の善くないのは神樣ではなくて、やはり山と山との背競(せくら)べのやうに、土地を愛する人たちの負け嫌ひが元でありました。松尾のお社(やしろ)なども境内に熊野石があつて、こゝに熊野の神樣がお降(くだ)りなされたといふ話があり、以前はそのお祭りをしてゐたかと思ふにも拘らず、こゝの氏子は紀州の熊野へ參つてはならぬといふことになつてゐました。それから熊野の人もけつして松尾へは參つて來なかつたさうで、このいましめを破ると必ずたゝりがありました。これなども多分双方の信仰が似てゐたために、かへつて二心(ふたごころ)を憎まれることになつたものであらうと思ひます。(都名所圖會拾遺。日次記事)

   *

「其は先祖の業平が伊勢物語にある如く神聖たる齋の宮に懸想をした爲であつた」「伊勢物語」の第六十九段に、「齋宮(いつきのみや)なりける人」という呼称で登場し、業平らしき男と禁断の悲恋をする女性は、実在した第三十一代伊勢斎宮となった恬子内親王(てんし/やすらけいこ/やすこ 嘉祥元(八四八)年)頃?~延喜一三(九一三)年:父は文徳天皇で同母兄弟に惟喬親王がいる)。彼女は貞観元(八五九)年に清和天皇の即位に伴って斎宮に卜定され、貞観三(八六一)年に伊勢に下った。貞観八(八六六)年二月、母親の静子が亡くなったが、斎宮退下(たいげ)の宣勅は下らず、十年後の同十八年に清和天皇が陽成天皇に譲位したことによって、ようやく退下している。ここはウィキの「恬子内親王」を参照した。リンク先には「伊勢物語」のその箇所の梗概も載る。

「京都粟田口明神社」現在の京都市東山区粟田口鍛冶にある粟田神社(ここ(グーグル・マップ・データ))の末社である大神宮のこと。「粟田神社」公式サイト内の「神社案内」によれば、『大神宮は元々、青蓮院の坊官である鳥居小路家の旧宅地の鎮護神でしたが、勧請された時期は不明です。鳥居小路家の先祖は高階師尚と云い、師尚の母が伊勢の斎宮であったときに在原業平と密通してできた子供でした。この為お伊勢さんのお怒りに触れてその子孫が伊勢に参宮しようとしても、途中で病気になったり、災難にあったりして参宮することができませんでした。そこで大神宮を宅地内に奉斎して参詣するようになったとのことです。その後、明治になって当社の境内に遷座されました』とあるから、旧来の鎮座位置は恐らく、南西直近の青蓮院門跡の近くであったと考えられる。なお、この『高階師尚』については、先のウィキの「恬子内親王」に、「伊勢物語」では、「狩の使」(内親王の従姉(紀有常女)の夫であり、平城天皇の孫でもあった在原業平と考えられている)の男『と「斎宮なりける人」はついに逢瀬を遂げることは出来なかったことになっている。が、「斎宮なりける人」を恬子内親王とみて、この一夜の契りにより』、『内親王が懐妊、前代未聞の不祥事が発覚することを恐れた斎宮寮が、生まれた子供を伊勢権守で斎宮頭だった高階峯緒の子、茂範の養子とし、それが後の高階師尚であるということが、古来流布されており、後の藤原行成の』「権記」『によると、行成は一条天皇から立太子について、定子皇后腹の敦康親王と彰子中宮腹の敦成親王(後の後一条天皇)のどちらにすべきかについて意見を聞かれた時、「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」と定子皇后の母が高階家出身ということを理由に敦成親王を立太子すべきと奏上したとある。事実かどうかは別として、その後の尊卑分脈にもそのように記されている』とある。

「粟田地誌漫錄」不詳。

「上州群馬郡の和田山極樂院」現在の高崎市箕郷町にあった修験道の寺院で明治初めに廃寺となったが、それまでは時の権力者から「上野国年行事職」(上野国で寺院を統括する役職)に任命されるほど、上野国の中心的な寺院であった。「群馬県立文書館」のこちらの資料(PDF)に拠った。

「在五中將」業平の別称。在原氏の五男(彼は天長三(八二六)年、平城天皇第一皇子父阿保親王の上表によって臣籍降下して兄行平らとともに在原朝臣姓を名乗った)であったことに由来する。

「山吹日記」幕臣で塙保己一門の国学者奈佐勝皐(なさ かつたか 延享二(一七四五)年~寛政一一(一七九九)年:国学研究の拠点として塙が幕府に建議して作った和学講談所の初代会頭)が天明六(一七八七)年四月十六日に江戸を出発、五月二十三日まで武蔵・上野・下野の三国を旅し、名所旧跡の見学・探訪・調査を記した日記。

「守屋氏の人は物部連守屋の子孫らしき爲に信濃の善光寺に詣ずれば災あり」奈良県大和郡山市番条町にある「中谷酒造」の公式サイト内の「第23 物部氏と善光寺 【アラカン社長の徒然草vol.31】」によれば、物部氏は丁未(ていび)の乱(五八七年)で蘇我氏に滅ぼされるが、その最後の当主が物部守屋であった。この守屋の霊魂は祟ったらしく、鎮魂のために特別な施設が必要とされて、善光寺が建てられたという説があるとする。『本堂一番奥の内々陣と呼ばれる祭壇の中心は守屋の霊魂が宿る守屋柱で』『その左側に本尊、右側に本田善光家族像があ』るが、『現代の参拝者の多くはその事実を知らず、ただ阿弥陀如来の御利益を求めているのが実態で』あると記す。これは善光寺公式サイトウィキの「善光寺」にも記されていないが、柳田のこの一節はそれをよく補完するものと読める。秘かに成された怨霊封じの寺にその封じられた人物の末裔が参っては、トンデモないことが出来(しゅったい)することは明らかであろう。これを読まれた守屋姓の方、ゆめゆめ善光寺をお参りすることなかれ。

「佐野氏の人は田原藤太の後と云ふことで神田明神の祭に逢ふと惡い」神田明神は承平五(九三五)年に乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られ、この社の近くに葬られたことから、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受け、嘉元年間(十四世紀初頭)に疫病が流行した際、これが将門の祟りであるとされて供養が行われ、延慶二(一三〇九)年には当社の相殿神「平将門命」として祀られて現在に至っている。「田原藤太」秀郷は将門追討軍の将であった。

「松屋筆記」江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)が文化末年(一八一八年)から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に亙り、古今の書物の記事を抜き書きして考証・論評などを加えたもの。著江戸後期の随筆。元は全百二十巻であったが、現存は八十四巻。

「相馬子爵」本書「一目小僧その他」は昭和九(一九三四)年六月刊であるが、本稿「橋姫」の初出は大正七(一九一八)年一月発行の『女学雑誌』であるから、これは旧陸奥相馬中村藩(陸奥国標葉(しめは)郡から宇多郡まで(現在の福島県浜通り北部相当)を治めた藩で、藩庁は中村城(相馬市。ここ(グーグル・マップ・データ))主で、当時、子爵家となっていた相馬家。初出当時の当主は旧相馬(陸奥)中村藩藩主相馬充胤の四男で、相馬家第三十代当主相馬順胤(ありたね 文久三(一八六三)年~大正八(一九一九)年二月一三日)。彼は精神疾患を患った中村藩の末代(第十三代)藩主であった異母兄相馬誠胤を不当に監禁したとして(病死後の再告発では毒殺したとする)、旧相馬中村藩士錦織剛清(にしごりたけきよ)により告発された精神病患者の扱いの問題を含んだスキャンダラスな「相馬事件」の当事者(順胤は錦織を逆に誣告罪で訴えた)でもあった。詳しくはウィキの「相馬事件」を参照されたい。ウィキの「相馬氏」によれば、相馬氏初代の相馬師常は鎌倉初期の名将『千葉常胤の次男で、師常が父常胤より相馬郡相馬御厨(現在の千葉県北西部で、松戸から我孫子にかけての一帯)を相続されたことに始まる』が、『師常は常胤の子でありながら、「胤」の字を継承していない。伝承によると』、『師常は平将門の子孫である信田師国の養子で、将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする』。『しかし、将門の本拠地はもっと北の岩井で、支配圏は豊田郡・猿島郡であり、相馬郡はその周縁部でしかない』と疑義を呈している。ただ、相馬氏は家紋として「九曜紋」の他に「繋ぎ馬紋」も持っており、『この繋ぎ馬紋は今日でも築土神社や神田明神など、平将門を祀る諸社で社殿の装飾などに用いられている』ものである(下線やぶちゃん)。

「參覲」「さんきん」。参勤交代。

「國香」平安中期の武将平国香(たいらのくにか ?~承平五(九三五)年)。。桓武天皇の孫(或いは曾孫)平高望の長男で常陸平氏(越後平氏)や伊勢平氏の祖。別名(初名か)は平良望(よしもち)。ウィキの「平国香」によれば、寛平元(八八九)年、宇多天皇の勅命により、姓を賜与され、『臣籍降下し、上総介に任じられ父の高望とともに昌泰元』(八九八)年『に坂東に下向、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田(現・茨城県筑西市)』(ここ(グーグル・マップ・データ))『を本拠地とした。源護』(みなもとのまもる 生没年未詳:ウィキの「源護」によれば、『常陸国筑波山西麓に広大な私営田を有する勢力を持っていたといわれ、真壁を本拠にしていたと伝わる。この領地と接していた平真樹と境界線をめぐ』って『度々争って』おり、『真樹はこの争いの調停を平将門に頼み』、『将門はこれを受ける。一説によるとこの調停の為に常陸に向かっていた将門を』、護の息子扶(たすく)らが『野本にて待ち伏せて襲撃したと言われて』おり、『この戦いが平将門の乱の中の最初の合戦であり始まりであるといえる』とある)『の娘を妻とし、前任の常陸大掾である護より』、『その地位を受け継ぎ』、『坂東平氏の勢力を拡大、その後』、『各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた』。『舅である護の子扶に要撃された甥の平将門』(国香の弟(平良望三男)良将が将門の父)が、承平五年二月四日に反撃に出た際、居館石田館を焼かれて死亡した。京都で左馬允在任中にこの報せを聞いた子の貞盛は休暇を申請して急遽帰国、一時は旧怨を水に流し』、『将門との和平路線を取ろうとするも、叔父の良兼』(平良望の次男。国香の弟で良将の次兄)『に批判・説得されて将門に敵対する事となり、承平天慶の乱の発端となった』とある。

「常陸の土浦」茨城県土浦市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「國香明神」個人ブログ「将門ブログ」のこちらに、『【八幡神社(平国香の墓)】土浦市田中町』とあって、亀城公園から西四百メートルのところに「八幡神社」があり、『かつてここに「国香明神社」があり、そこにあった小五輪塔が平国香の墓といわれてい』たとし、『現在は、「八幡神社」の社殿内に一対の石造燈籠(外から拝見できます)があり、これが平国香の墓だと』されているという記載がある。恐らくここ(グーグル・マップ・データ)。

「新治郡案内」茨城県新治(にいはり)郡協賛会編明四四(一九一一)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で当該記載を視認出来る。

「柏木村」「鎧大明神」東京都新宿区北新宿にある鎧神社(よろいじんじゃ)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。この地区には広く「柏木」の地名が残ることがリンク先の地図から判る。新宿は江戸時代は江戸の西の果てであったから、ここは「東京西郊」と言ってもおかしくはない。同神社は醍醐帝の治世(八九八年~九二九年)に円照寺という寺が創建され、寺の鬼門鎮護の神祀として鎧大明神創建されたと推定され、天暦(元年は九四七年)の初めに平将門の鎧を埋めたという伝承があるとウィキの「鎧神社」にある。

「山中共古翁の日錄」「共古日錄」既出既注であるが、再掲する。山中共古(嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年 本名・笑(えむ))の日記。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した。日記「共古日録」は正続六十六冊に及ぶ彼の蒐集資料集ともいうべきものである。(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「奈良縣高市郡志料」奈良県高市郡編・大正四(一九一五)年奈良県高市郡刊。当該記載を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る。

 

「眞菅村」「ますがむら」と読む。文庫版全集にもルビはないが、これはルビ無しでは誤読する。

「宗我神社」「宗我」は「そが」と読む。現在の奈良県橿原市曽我町にある、正しくは宗我坐宗我都比古(そがにますそがつひこ/そがにいますそがつひこ/そがのそがつひこ)神社。通称を今も「入鹿宮(いるかのみや)」と称し、古代豪族の蘇我氏に関係する神社として知られ、祭神も曾我都比古神(そがつひこのかみ/宗我都比古神)・曾我都比売神(そがつひめのかみ/宗我都比売神)である。ウィキの「宗我坐宗我都比古神社」によれば、『創建は不詳』であるが、「五郡神社記」では『推古天皇』(在位:五九三年~六二八年)『の時に、蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀る神殿を蘇我村に創建したとする』。『一方で社伝では、持統天皇』(在位:六九〇~六九七年)『が蘇我氏の滅亡をあわれみ、蘇我倉山田石川麻呂の次男である徳永内供には紀氏を継がせるとともに、内供の子の永末には祖神を祀るための土地を与えて社務・耕作を行わせたことをもって創建とする』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「多武峯には藤原鎌足の廟が有る」多武峰(とうのみね)は現在の奈良県桜井市南部にある山とそれに付随して一帯に嘗て存在した寺院群を指す。その山頂は御破裂山(ごはれつざん)と称し、標高は六百十九メートルウィキの「多武峰によれば、「日本書紀」には、『飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が』、『「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」と』あり、また「日本三代実録」には天安二(八五八)年『「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている』とある。また、ここにある談山(たんざん)神社の祭神は中臣鎌足(談山大明神・談山権現)である(明治の神仏分離より前はここは寺で多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)と称した)。参照したウィキの「談山神社によれば、『鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇』七(六七八)年、『長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇』九(六八〇)年『に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した』。大宝元(七〇一)年には『十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が』、大化元(六四五)年五月に『大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる』とある。言わずもがなであるが、大化の改新で蘇我入鹿が暗殺され、蝦夷が自殺したことによって、蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家は滅亡した(蘇我氏が亡ぼされたわけではないので注意)。

「高見山」奈良県吉野郡東吉野村と三重県松阪市(旧飯南郡飯高町)との境界にある標高千二百四十八・四メートルの山(グーグル・マップ・データ。中央付近に談山神社を位置させた)。三重県側の麓の松阪市飯高(いいだか)町舟戸(ふなと)には、入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔も存在するTetsuda氏のブログ「どっぷり!奈良漬」の入鹿の首はどこまで飛んだ?(産経新聞「なら再発見」第105回)で五輪塔の画像も見られる。筆者露木基勝氏の記事が全文引用されてあるが、入鹿の首が飛んだ場所として、まず、先の宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社が挙げられており、昭和八(一九三三)年『発行の「大和の伝説」には、「昔、鎌足に打たれた入鹿の首は、現在の曾我の東端“首落橋”の附近にある家のあたりに落ちた。それで、その家を“おつて家”と呼ぶ」と記されている。地元の方の話では、曽我町の伊勢街道沿いに今もある民家の屋号が「おつて屋」で、かつてはその横を小川が流れ、「首落ち橋」と呼ばれた橋があったという』と記した後、ここの『すぐ隣の小綱(しょうこ)町には、入鹿神社がある。入鹿神社のあたりに幼少時の入鹿の住まいがあったとの伝承があり、昔から入鹿びいきの土地柄である。小綱町の住民が、鎌足を祀(まつ)る談山(たんざん)神社へ行くと腹痛がおこるとの言い伝えが残っている』というまさにここの柳田好みの例が記されてある(下線やぶちゃん。以下同じ)。『入鹿の首が飛んだ場所は、県内にとどまらない。奈良県と三重県の県境にある高見山の三重県側の麓、松阪市飯高(いいだか)町舟戸(ふなと)には、入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がある。一説には、高見山まで飛んできた入鹿の首が力尽きて落ちてきたのを祀ったのが、その五輪塔だという』。『地元には面白い伝承が残っている。高見山に登る時には「鎌足を思い出すから」と鎌を持って登ることは戒められており、もし戒めを破って鎌を持っていくと必ずけがをする―とか。また、「五輪塔に詣(もう)でると頭痛が治る」などといわれたようだ(柳田が「即事考」から引用したものと同じ)。『五輪塔の場所から、少し高見山側に登っていくと、能化庵(のうげあん)と書かれた案内板が立っている。入鹿の妻と娘が入鹿を供養し首塚を守るため、尼となって住んでいた寺院跡だという』。『飯高町郷土史は、「この五輪塔が蘇我入鹿の怨霊を鎮めるためのものなのか、あるいは全く無関係なものなのかは不明」としながらも、「“火の気のない所に煙は立たない”のことわざ通り、蘇我氏とは何らかの因縁をもつ土地であったのだろう。怨霊が再び都へ舞い戻らぬためにも、高見山の裏側の舟戸の地へ鎮魂することは考えられなくもない」と記している』とある。

「卽事考」竹尾善筑の文政四( 一八二一)年の随筆。同記載は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る。]

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