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2017/09/27

老媼茶話 武將感狀記 船越、大蛇を殺す

 

     武將感狀記 船越殺大蛇

 

 淡路周本(スモト)の城主、船こし五郎左衞門と云(いふ)大力の強弓引(つよゆみひき)あり。

 同こく、しとりの池に大蛇住(すみ)、人民を呑喰(のみくらふ)と聞く。

「大蛇を退治せん。」

とて弓矢を持(もち)、馬に乘(のり)、しとりの池へ行(ゆき)、馬を池の汀(みぎは)にのりとゝめ、大音(だいおん)上(あげ)、

「此池に大蛇住(すむ)と聞(きく)。出)いで)て勝負をせよ。」

とよははりけれは、俄(にはか)に、雨、一通りして、雷光、隙(ひま)なく、池の波、逆卷(さかまき)て、大蛇、あらはれ、紅(くれなゐ)の舌をいたし、船越に、むかふ。

 船越、大の雁俣(かりまた)を以て大蛇の口の中へ射込(いこみ)けれは、さかしまにかへるかとみへしか、また、立上(たちあが)り、船越を追ふ。

 船越、馬にむちを打(うち)、はせ歸る。

 大蛇、是を追(おひ)かけ、草木の上を走る音、疾(シツ)風のことし。

 しとりの池より、すもとまて、壹里半の處なり。

 其道に「あま」といふ所あり。其所、楠の森あり。

 此森陰に馬をのり入けれは、大蛇、ふなこしをみうしなひ、森の木梢にのほり、下を見おろす所を、船越、振返り、二の矢を射る。其矢大蛇の咽(のど)にあたり、大蛇、大きによはりて、急に、追(おふ)事、ならす。

 船越、いそき、城に至り、馬を乘入(のりい)、門をとつる時、大蛇、追來り、門の上を乘越(のりこえ)、うちへいらんとする時、船越か將のふ地それかし、立向(たちむかひ)、長刀を以て、大蛇の首を切落す。

 其時、大蛇は納地(ノフチ)それかしに息を吹(ふき)かくる。身に熱湯をあひるかことく、納地、毒氣を觸(フ)れて甚(はなはだ)煩熱(はんねつ)し、其日の暮方に死(しす)。船越か乘(のり)たる馬もたち所に死(し)ゝ、船越も四、五日過(すぎ)て、皮膚、あかく爛(タヽ)れて死(しに)たり。

 大蛇のかしら、今に於て、船越の子孫、持(もち)つたへたりといへり。

 「深祕錄」には「船越三郎四郎殿」とあり。

 

[やぶちゃん注:「武將感狀記」ウィキの「武将感状記」によれば、『熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって』正徳六(一七一六)年『に刊行された、戦国時代から江戸時代初期までの武人について著された行状記で』「砕玉話」とも称する。『戦国時代には戦地で功績のあった者に、主君が感状を与えるのが慣わしであった。家臣に対する賞賛を書状に認め』、『勲記としたり、または褒賞の目録的な意味合いをなすものでもあった。しかし、本著は実際にそうした感状の類を集成したものではなく、著者が見聞した評伝を、独自の価値判断のもとに好んで採録した逸話集である。その内容は戦国時代や安土桃山時代、かつ江戸時代初期の逸話が中心となることから、封建道徳に即した武士特有の倫理観によって評価された物語と考えられる』。『採録された逸話は必ずしも戦闘に関するものだけではない。石田三成と豊臣秀吉の出会いとして有名な「三杯の茶(三献茶)」の逸話が記されているのは本著である』。『一般的にいわれてきたこととして、著者の熊沢猪太郎は肥前国平戸藩の藩士で、諱は正興、号を淡庵、または砕玉軒ともいい、備前国岡山藩の藩士であった陽明学者の熊沢蕃山の弟子とされている。そのため本著に採録された逸話は、肥前平戸藩と備前岡山藩関係のものが、他藩のものと比較して多数を占めることも道理とされていた』。『しかし東京大学史料編纂所の進士慶幹が、平戸の旧藩主・松浦家へ照会したところ、著者に該当するような人物は見当たらず、また熊沢家への問合せでも、そのような人物は先祖にいないということだった』。『これには進士も、奇怪で収拾がつかないという。結論として、現時点では著者の正体は不明と言わざるを得ない』。『逸話集という性質、並びに記事の年代と刊行年の隔たりから、史料的価値は高くないと考えられている。本著にしか採録されていない逸話もあるが、著者の出自が不明なことなどから記事の裏付けがとれず、これも信憑性に欠ける点とされている。ただ、刊行年頃の武士の価値観を推し量る材料としては有用との評価がある。小説の材料としても重宝されている』とある。「船越殺大蛇」(船越、大蛇を殺す)は同書の「巻之八」にある「舟越五郎左衞門大蛇を射る事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「淡路周本(スモト)の城」淡路国津名(つな)郡、現在の兵庫県洲本市、淡路島東部中央にあった洲本城のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「洲本城」によれば、大永六(一五二六)年に三好氏の重臣安宅(あたぎ)治興が築城し、治興の後は養子安宅冬康(三好長慶の弟)が城主となり、彼の死後は彼の長男信康・二男清康と受け継がれが、天正九(一五八一)年の淡路討伐の際に総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられている(その後、脇坂安治に移り、江戸時代になって姫路城主池田輝政三男忠雄が領主になった際、一時、廃城となったが、寛永八(一六三一)年から同十二年にかけて復活している)。

「船こし五郎左衞門」不詳。しかし、先の「武将感状記」の当該章を見ると、三坂が省略した実録風部分が冒頭にあって、そこでこの人物は、阿波・土佐・淡路三州を支配した『三好が三男にて淡路の洲本に在城し、年々播磨紀伊と戰』った武将と紹介されている。私は戦国時代に冥いのであるが、これと前注を重ねて見ると、この人物は阿波国の武将で細川晴元に仕えた三好元長の三男であった安宅冬康(享禄元(一五二八)年?~永禄七(一五六四)年)をモデルとしているのではないかと私は思っている。ウィキの「安宅冬康」によれば、三好氏家臣『安宅氏へ養子に入り』、『淡路水軍を統率し』、『三好政権を支えたが、兄・三好長慶によって殺害された。経緯・理由については様々な見解があり』、『不明な部分が多い』とし、『安宅氏は淡路国の水軍衆で』、『長兄の長慶は当時、細川氏などによって畿内を追われ』、『淡路島にいた。長慶は冬康をこの安宅氏の当主・安宅治興の養子にして家督を継承させた。穏やかで優しい仁慈の将であり、人望が高かったという』。『以降、三好家は長兄の長慶が摂津国・河内国・和泉国の兵を、次兄・三好実休が阿波国衆を、冬康が淡路衆を、弟・十河一存が讃岐国衆を率いるという体制で各地を転戦した。冬康は大阪湾の制圧や』永禄元(一五五八)年『の北白川の戦い』や永禄五年三月の『畠山高政との戦い(久米田の戦い)に従軍、特に畠山高政との戦いでは次兄の実休が敗死すると冬康は阿波に撤退して再起を図り』、同年六月には、再び、『高政と河内で戦い勝利している(教興寺の戦い)』。『その後、弟・一存や次兄・実休、甥で長慶の嫡男・三好義興が相次いで死去すると、三好一族の生き残りとして長慶をよく補佐したが』、『長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて自害させられ』ている。享年三十七と伝える。『冬康の殺害に関する経緯・理由については諸説あ』り、『山科言継は自身の日記『言継卿記』にて、冬康に逆心があったゆえに殺されたようだ(「逆心悪行」)、と、伝聞の形で書き記している』が、『多くの民衆は』当時の長慶の寵臣であった『松永久秀の策動が背景にあったことを信じて疑わなかった』という。『例えば『続応仁後記』『三好別記』などの史料には、冬康の死因は確実に久秀の讒訴が原因による謀殺であると記されており、久秀は「逆心の聞こえあり」「謀反の野心あり」と長慶に讒訴したという』。『実際に久秀には十河一存・三好実休・義興といった長慶の兄弟、嫡子が相次いで死去して三好家中で同等かそれを凌駕する実力を保有する者で残っていたのは冬康だけであり、これを除く事で主家を乗っ取ろうと考えても不思議では無かった』。『一方で、『足利季世記』や『細川両家記』にも、冬康が讒訴によって殺されたと書かれており、これらの史料の記述も、冬康が久秀の讒訴で殺されたとする根拠とされているが、この』二史料に『関しては、「何者かの讒訴によって、冬康は長慶に殺害された」としか書かれておらず』、『久秀が関与したとは一言も書かれていない』とある。『長慶が自らの意思で冬康を殺害したという見解もある。弟の十河一存、実休、嫡男の義興に相次いで先立たれ、長慶の親族の有力者は冬康一人になっていた。思慮深い性格もあって、冬康への人望は一層のこと強くなっていった』。『そのこともあって、後継者の義継を巡り軋轢・疎隔が生じたのではないかとも指摘されている』。『冬康本人が、義継への家督継承を不服としていた可能性もあると指摘される』。『天野忠幸は冬康殺害の理由について断言はしていないが、冬康が義継の家督継承に不服を抱いていた可能性もなきにしもあらず、と解説した上で』、『「例え冬康が無辜であっても、自分の死後、義継の地盤が盤石になるためには、冬康を殺す必要があったのではないか』『と指摘している。長江正一は、長慶は義継の将来のためにも冬康の処遇について考慮しなければならなかったと指摘する』。『また、長慶はこの頃、重い病によって判断力が低下していたと考えられる』。『殺害後に冬康が無実であること知った長慶は相当に後悔したといわれている』。『その後、長慶は精神を病み(うつ病であったといわれる)、そのまま後を追うように』七『月に病死している』。『この晩年の長慶が鬱病に罹患したという観点から冬康謀殺を考察する見解もある。三好長慶の研究もしている介護士の諏訪雅信は、「鬱病の末期症状による被害妄想を原因とした殺害」「集団自殺・心中」という』二『つの見解を提示している』。『「被害妄想を原因とする殺害」は、長慶の病状が悪化するにつれ、兄弟の中で唯一の生存者となっており、人格者として慕われていた冬康に人々の人望が集まり、それが長慶には「冬康が家臣達を糾合して自分を殺そうとしている」ように映った、というものである』。『もう一つの「集団自殺・心中」説は、鬱病と自殺に強い因果関係があり、また鬱病による自殺は時々心中の形となって現れ、その犠牲になるのは多くは身内である、ということに着目した見解であり』、『三好家の惣領として、天下人として自分の無力さに絶望を感じた長慶が、冬康を道連れにして殺害し、自らも食を絶って餓死した、というものである』。但し、『提唱者である諏訪自身は、これら』二『つの見解は自分自身のこじつけによる解釈だと注意書きして』はいるという。『長江正一は、最終的に粛清という結末になってしまった結果も鑑み、長慶と冬康の関係・及び両者の地位は源頼朝と源範頼、足利尊氏と足利直義、豊臣秀吉と豊臣秀次のそれに似ていると指摘する』。また、『今谷明は、冬康が粛清される直前の三好政権末期における両者の関係を、悪い表現と前置きした上で、「文化大革命の末期における、毛沢東と周恩来のよう」と評した』。『天野忠幸は長江や今谷のように長慶と冬康の関係を他の歴史上の兄弟と直接比較はしていないが、織田信長の死後、織田信雄、織田信孝、織田秀信(三法師)、並びに彼らを後援する柴田勝家、豊臣秀吉らの間で内紛が起こった事例を例え、このような事態が起こることを防ぐ為に長慶は冬康を粛清したのではないか、という見解を出している』とある。『冬康は平素は穏健かつ心優しい性格で、血気に逸って戦で殺戮を繰り返し傲慢になっていた兄・長慶に対し鈴虫を贈り、「夏虫でもよく飼えば冬まで生きる(または鈴虫でさえ大事に育てれば長生きする)。まして人間はなおさらである」と無用な殺生を諌めたという逸話が残っている』。『『南海治乱記』には、「三好長慶は智謀勇才を兼て天下を制すべき器なり、豊前入道実休は国家を謀るべき謀将なり、十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将なり、安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり」と記されている』。『冬康は和歌に優れ』、「安宅冬康句集」「冬康長慶宗養三吟何人百韻」「冬康独吟何路百韻」「冬康賦何船連歌百韻付考証」などの『数々の歌集を残し、「歌道の達者」の異名を持った』。『中でも代表的な歌は』、

 古へを記せる文の後もうしさらずばくだる世ともしらじを

『である。この歌には冬康の温和な性格がよく現れている。歌の師は里村紹巴、宗養、長慶であ』った。『なお、細川幽斎は著書『耳底記』の中で、安宅冬康の歌を「ぐつとあちらへつきとほすやうな歌」と評している』とある。長々と引いた理由は、民を苦しめる大蛇を倒すも、部下の武将納地某ともども落命したとする、この英雄を、私はこの悲劇の歌人武将安宅冬康に比定したい欲求を抑えられないからであり、そうした彼をこうした悲劇のヒーローとして説話化して伝承することは、如何にも日本人好みであると思うたからである。但し、安宅冬康の別姓や通称に「船越」や「五郎左衛門」は見当たらない私の比定はとんでもない誤りかも知れぬ。大方の御叱正を俟つものである。

「しとりの池」原典を確認すると「しどりの池」であるが、不詳。但し、淡路島は非常に多くの溜池があるから、未だ現存するかも知れない。識者の御教授を乞う。洲本城まで一里半の距離にある池で、その間に「あま」という地名がある。よろしく。

「よははりけれは」「呼ばはりければ」。

「雁俣(かりまた)」先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常の大きさのものでは、飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いるが、ここでは「大の」とあるから、不足はない。

「さかしまにかへるかとみへしか」鎌首を向こう側に仰向けにして、倒れるかと見えたが。

「大蛇、是を追(おひ)かけ、草木の上を走る音、疾(シツ)風のことし」この音響効果が上手い。

「のふ地」「納地(ノフチ)」不詳。但し、原典では大蛇が出現する直前に『納(をさ)氏(し)』と『加治(かぢ)氏』が駆けつたとあり、毒気に触れた部分でも『納(をさむ)も加治(かぢ)も毒氣に觸れ』て死んだとする。この納(或いは納地)・加治或いはそれに近い姓の人物は三好氏の有力家臣団の中に見出せない

「深祕錄」作者不詳の江戸初期に成立した戦国大名諸家に関する記述を集めた「諸家深秘録」か。「国文学研究資料館」のデータベースに同書の全画像があるが、以前に述べた通り、私のパソコンでは画像表示が異様にかかるので、探索は諦めた。悪しからず。

「船越三郎四郎」不詳。但し、検索をかけるうち、グーグルブックスの伊藤龍平の「ツチノコの民俗学 妖怪から未確認動物へ」ので、別に宝暦九(一七五九)年刊の河田正矩なる人物の著になる「金集談」に、まさにこの船越五郎衛門或いは船越三郎四郎(異伝の記載)による淡路での「しどり池」大蛇退治の話が載っていることを見出せた。守備範囲でない戦国期の注に少し疲れた。これにて失礼仕る。悪しからず。]

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