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2017/09/12

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅴ) 多聞院 木曾塚 他 /「新編相模國風土記稿卷之九十八」~了

 

[やぶちゃん注:今回より、句読点は底本のものではなく(底本には句点はない)、読み易さを考え、私の判断で自由に変更・追加することとした。]

○多聞院 天衞山福壽寺と號す〔山之内村瓜ケ谷に、觀蓮寺屋舗と唱る白田あり、當寺の持とす。觀蓮は、蓋、當寺の舊號にや。〕。古義眞言宗〔手廣村靑蓮寺末。〕本尊毘沙門〔長三尺、弘法作。〕。

[やぶちゃん注:古義真言宗で現在は大覚寺派で、正式には天衛山(てんえいさん)福寿寺多聞院と称する。本尊毘沙門天。北方を守護する神将毘沙門天は多聞天とも称するので、寺名の由来はそれ。ウィキの「多聞院(鎌倉市)」では、寺伝によれば、『多聞院は鎌倉市山ノ内瓜ヶ谷にあった観蓮寺が前身で、永享の乱』(永享一〇(一四三八)年に鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、翌年、持氏は自害した)『で衰えた際に甘粕長俊』(玉繩北条氏家臣。後に出る「甘糟」氏と同じ。甘粕一族は相模平氏の出である)『が現位置に移転して名を改め、南介僧都を迎えて』天正七(一五七九)年に『創建したと伝えられている』。ここに記されているように、元は『鎌倉市手広の青蓮寺の末寺』であったが、昭和二五(一九五〇)年に『青蓮寺の前住職である草繋全宜』(くさなぎぜんぎ)『が京都大覚寺の門跡』(初代官長)『となったため、同寺の末寺となった』とある。東京堂出版の白井永二編「鎌倉事典」では、寺の創建以降の近世までの沿革は不分明であるとする。隣接する明治の神仏分離までは隣接する熊野神社の別当寺あった。この熊野社は前の『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅲ) 大船山 離山 他』に出ており、その冒頭に『村の鎭守なり。束帶の木像を安ず〔座像長八寸許。古は畫像を安ぜしと云ふ。其像は今舊家小三郎の家に預り藏す。〕。臺座に天正七年安置の事を記す〔曰、奉勸請天正七己卯四月吉日、甘糟太郎左衞門尉平長俊華押、長俊は、則、小三郎が祖なり。〕』とあるように、実はこの神社も、というかこの熊野社が先に永く甘粕家の篤い信仰を受けて栄え、それを管理する寺として多聞院が創建されたと考える方が自然なように思われる『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)』の「能勢靭負佐」の注で出したが、再掲しておくと、「神奈川県神社庁」公式サイトの熊野神社の由緒のところに、『又、甘槽土佐守清忠、甘槽備後守清長、甘槽佐渡守清俊などの武将および、長山弥三郎、能勢靱負佐、村上主殿、木原兵三郎、松平肥後守容衆、肥前守領衛などの主名門の諸家、厚い崇敬の誠をつくせり。古来画像を安ぜしを正親町天皇の御代天正七年七月、甘槽佐渡守平朝臣長俊、御座像を再興し奉る』(下線やぶちゃん)とある。

「白田」「はくでん」畑(はたけ)のこと。「白」は「水がなく乾いている」の意で、そもそもが「畠」という漢字は、この「白田」を合わせて合字として作られた国字である。]

○地藏堂 運慶の作佛を安ず〔長二尺餘。〕。村持。下同。

[やぶちゃん注:同寺には巣鴨(曹洞宗萬頂山高岩寺。本尊地蔵菩薩(延命地蔵))から移したとされる「とげぬき地蔵」木造地蔵菩薩立像が知られるが、造立は江戸時代であり、経緯から見ても、これではあるまい。他に木造地蔵菩薩半跏像と木造地蔵菩薩立像があるが孰れも江戸時代であるからこれも外れる(これらの仏像類のデータはウィキの「多聞院(鎌倉市)」に拠った)。これらとは別に木造地蔵菩薩立像(延命地蔵尊)があり、これは室町時代の造立と推定されているから、ここに示されたのはこれであろう。]

○不動堂 弘法の作佛を置〔長三尺餘。〕。

[やぶちゃん注:現在、多聞院には年代不詳の木造不動明王像と江戸時代の造立になる木造不動明王及び両脇侍立像(三体一組)がある。前者か。]

○觀音堂 十一面觀音を置。運慶の作なり〔長三尺。享保四年に記せる緣起に據に、染屋太郎太夫時忠の兒、三才の時、鷲に※搏せられ、其喰餘の骨を、此地に落せしかば、菩提のため、觀音を彫刻し、殘骨を御首中に納む。後、回祿に罹り、御首のみ燼餘に得しを、運慶、其模像を刻し、彼御首を胎中に納むとなり。是に鎌倉塔辻の故事に基き、作意せしなり。〕。祐天の名號一幅を藏す。

[やぶちゃん注:「※」「爴」の左右を逆転させた字。音「カク」で「摑(つか)む・攫(さら)う」の意。「搏」も「手で打って取る・対象に手を当てて素早く摑む」の意。「カクハク」と音読みしておく。なお、現在、同寺には木造十一面観音菩薩坐像及び木造十一面観音立像があるが、孰れも江戸時代の造立である。不審。

「據に」「よるに」。

「喰餘」「くひあまり」。或いは「くらひのこし」か。

「燼餘」「じんよ」。燃え残り。

「享保四年」一七一九年。縁起がこの年に書かれたものとすると、実はそれ以前(江戸初期)に造立されたものに縁起を合わせたとも考えられる(とすれば前の不審は解消するし、本書の作者も割注からそう考えていることが判る)。さすれば、前の疑問は解ける。但し、「かまくら子ども風土記」(平成二一(二〇〇九)年刊第十三版)の「多聞院」の項には、本尊毘沙門天の『脇には、山ノ内にあった岡野観音といわれる十一面観音があり、由井の長者の染屋太郎大夫時忠(そめやたろうたゆうときただ)の子の遺骨を納めたといわれてい』るとあり、岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳」の同寺の記載には、『由井の長者といわれた染屋時忠の娘が大きな鷲にさらわれ、その後、娘の残骨が六国見山の南で発見されたため、時忠は』、そ『の地に岡野観音堂を建立し、その菩提を葬ったと伝えられている』。『その堂に安置されていたのが胎内に娘の骨を埋めたという十一面観音』であったとし、『明治の神仏分離により多聞院に安置された』と移転経緯を記す。『染屋時忠の娘に関する伝説は』鎌倉の各地に散在し、来迎寺・魔の淵の地蔵(鎌倉宮参道の右側に現存。同サイト内の当該の地蔵の解説によれば、横を流れる川が嘗て「魔の淵」と呼ばれており、『青黒い水が流れ、多くの人がここに住む魔物の餌食になったため、杉本寺の住職の発願でここにお地蔵さまを安置したのだと』するが、別の『一説には、染谷時忠の娘が鷲にさらわれたとき、その血がしたたり落ちていた場所ともいわれている』ともある)・辻の薬師堂・妙法寺・六国見山及び塔ノ辻(本文にもこれを挙げるように、この場所が最も知られる染屋長者伝承地であると私は思っている)等『にも残されている』とある。

「染屋太郎大夫時忠」鎌倉の始祖的な人物として伝承される人物で、由比長者とも呼称され、藤原鎌足四代の子孫に当たるとされる。「新編鎌倉志卷之一」の「鎌倉大意」には、華厳宗の僧で東大寺開山の良弁(ろうべん 持統天皇三(六八九)年)~宝亀四(七七四)年)の父とあるが、現在伝えられるものの中には逆転して、染屋時忠「の父」が良弁とするものが多々見受けられる。何れにせよ、全国に散在する長者伝説の域を出ない。原鎌倉地方を支配していた豪族がモデルであろう。良弁は相模国の柒部(漆部)氏の出身とも、近江国の百済氏の出身とも言われるが、後者の伝承では、赤子の時、野良に出ていた母が目を離した隙に鷲に攫われ、奈良二月堂前の杉の木に引っかかっているのを、法相宗の高僧義淵に拾われて弟子として養育されたとも伝えられる。これは時忠と思しい由比長者の伝承の中に、子どもを鷹に攫われて殺され、その屍骸の落ちた鎌倉の複数の箇所に供養の塔を建てたという「塔の辻」伝承と結構が類似するから、そこから派生した類型伝承の派生連が認められるように思われる。

「祐天」(寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)浄土宗大本山増上寺第三十六世法主で、江戸のゴーストバスターとしても、とみに知られた人物。この寺、経緯や寺宝にいろいろな宗派が錯綜していて面白い。]

 

○木曾塚 義高の舊塚なり〔高さ二尺、周徑三尺餘。〕。上に五輪の頽碑あり。塚邊を木曾免と云を見れば、古は免田などありしならん。常樂寺の條、併見るべし〔此塚より少許を隔て、五輪の頽碑あり。由來を傳へず。〕。

[やぶちゃん注:常楽寺の裏山粟船山に残る木曾冠者義高の塚と伝えるもの。「五輪の頽碑」はかろうじて一部の残欠が残り、割注のある不詳の五輪塔もあるにはある。サイト「テキトーに鎌倉散歩」(名称で侮ってはいけない。どうして凡百有象無象の鎌倉案内サイトなどは足元にも及ばぬ非常に優れたサイトである)の「常楽寺」が勘所を押さえた画像も豊富にあって現状を確認するに最適である。必見。以下に注で示すように、ここは江戸時代につくられたもので、本当の義高の首塚ではない

「塚邊を木曾免と云を見れば、古は免田などありしならん」義高は政子によって逃がされたものの、入間川河原で捕えられて、首は鎌倉に送られ、常楽寺の南西三百メートルほどの位置にあった田圃の中の塚に葬られた。この経緯は私の「北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」に詳しい。是非、読まれたい。先に挙げた「かまくら子ども風土記」によれば、延宝八(一六八〇)年(徳川家綱が死去して綱吉が将軍となった年)に、『ある村人がこの塚』(元の塚の附近)『を掘ったところ、人骨の入った青磁(せいじ)の瓶(かめ)が出てきたので、常楽寺境内に塚を築き、これを納めた』と伝え、『これが現在の「木曾義高の墓」と呼ばれているもので』あるとし、『「木曾塚」と呼ばれた元の塚は周囲が』三メートル『ほどで、一本のエノキが植えられていたそうで』、『場所は大船中学校の東側にある栄町公園のあたりで』あったが、昭和一三(一九三八)年から翌年頃に『埋め立てられて、何も残ってい』ないとある。ここ(グーグル・マップ・データ。一画面に常楽寺と現在の木曾義高の墓が入るようにした)。]

 

○兒塚 六國見の南方山上にあり。上に石碑を建〔半は地中に陷入れり。面に悉曇の字、仄かに見ゆ。〕。染屋太郎大夫時忠が兒の墳なりと傳ふ。

[やぶちゃん注:宝篋印塔の基礎と笠だけの欠損した石塔が残る。

「陷入れり」「おちいれり」。

「悉曇の字」梵字の種字。]

 

○最藏坊塚 村北、白田間にあり。塚上に石人を置〔高四五尺。〕。鶴岡の職掌鈴木主馬が祖先の墓なりと云〔鈴木家傳を按ずるに、祖鈴木左近重安、治承中、鶴岡の職掌となり、戰國の間、永享中、當村に移住し、鶴岡社役を兼帶し、最藏坊と唱へ、村内熊野社神職を勤めし、となり。故に今も熊野社の神職を兼ぬ。〕。

[やぶちゃん注:現在は多聞院境内に石塔らしきものは移されている個人サイト「小さな旅のアルバム」のこちらで画像が見られるが、見るも無残な状態で、「石人」なるものも現認出来ない。

「鈴木左近重安」詳細不詳。

「治承」一一七七年~一一八一年。

「永享」一四二九年~一四四一年。]

 

○北條泰時亭跡 【東鑑】仁治二年十二月の條に泰時巨福禮の別居と載す〔曰、十二月三十日前武州渡御于山内巨福別居。〕。巨福禮は、卽、隣村小袋谷なり。されど、彼村内に其舊跡を傳へず。當村大船山上に平衍の地あり〔濶八段餘。〕、亭跡のさま、彷彿たり。又、其東方、小名、大明神の田間に古井あり、近きあたりに檜垣・御壺谷と云小名あれば、此二所の内、泰時の邸跡なるべし。

[やぶちゃん注:以上の「吾妻鏡」は仁治二(一二四一)年十二月三十日の条。

   *

卅日癸未。前武州、參右幕下・右京兆等法花堂給。又、獄囚及乞食之輩有施行等。三津藤二爲奉行。其後、渡御于山内巨福禮別居。秉燭以前令還給云々。

   *

卅日癸未(みづのとひつじ)。前武州、右幕下(うばくか)・右京兆等の法花堂へ參り給ふ。又、獄囚(ごくしう)及び乞匃(こつがい)の輩(ともがら)に施行(せぎやう)等、有り。三津藤二(みつのとうじ)、奉行たり。其の後、山内(やまのうち)巨福禮(こぶくれ)の別居に渡御、秉燭(へいしよく)以前に還らしめ給ふと云々。

   *

以上の「前武州」は北條泰時、「右幕下」は源頼朝、「右京兆」は北條義時のこと。「乞匃」は乞食。「秉燭以前に」灯を点すよりも前に。暗くなる前に。

「平衍」「へいえん」と読む。平らで有意に広いこと。

「濶八段餘」「ひろさ、はつたんあまり」。「段」は「反」に同じい。約七千九百三十四平方メートル以上。

「小名」「こな」で地名の小字(こあざ)のこと。

「大明神」位置も名も不詳。識者の御教授を乞う。

「檜垣」「ひがき」。檜の薄板を網代に編んで造った垣根で、これは普通の民間人の家には見られない高級なそれであるから挙げたものであろう。常楽寺の東方では御家人らの住居があったとも聞かない。同前。

「御壺谷」鎌倉であるから「おつぼがやつ」と読んでおく。「御壺」は通常、御所などの貴人の屋敷に設けられた中庭である。同前。]

 

○舊家小三郎 里正なり。甘糟を氏とす。先祖は上杉氏に仕へ、後、北條氏に屬せしと云へど、口碑のみにして、家系舊記等を傳へず。唯、家に舊き木牌を置けり。一は土佐守淸忠〔面に、道本禪門、背に、甘糟土佐守平朝臣淸忠、文明九丁酉天二月十一日と刻す。〕、一は備後守淸長〔面に月廣道順禪門、背に甘糟備後守平朝臣淸長、永正二乙巳天七月八日と刻す。按ずるに、【上杉家將士列傳】に、甘糟備後守淸長の名あれど、是は慶長の頃、在世たれば、時代、殊に違へり。同名別人なるべし。〕、一は佐渡守長俊〔面に、隨岫寶順禪定門、背に、甘糟佐渡守平朝臣長俊、天正十壬午天三月十三日と刻す。〕等なり。長俊、始、太郎左衞門と稱せり。卽、永祿十年、常樂寺文殊の像を修飾し〔像の胎中に收むる木牌に記す。〕、天正七年鎭守熊野社の神體を再興せしは此人なり〔神體の台座に記す。〕。是等、最古を徴するに足れり。又、玉繩岡本村に首塚、或は甘糟塚と唱ふるあり。此家の傳へに、大永六年十二月、北條氏綱が兵と、里見義弘、戸部川の邊に戰ひ、北條勢三十五人、討死す。かりて其首級を合せ堙し、榎を植て、標とす。此家の祖先某、其一にして、且、其魁たり。故に甘糟塚の名ありと云ふ。其名諱を傳へざれど、年代をもて推考するに、備後守淸長が男なるべし。又、天正十三年閏八月、圓覺寺廓架再興助力人の列に、甘糟外記の名あり。是も祖先のうちなりと云へど、系傳を失ひたれば、詳にし難し。古鞍一背を藏す。是、上杉氏授與の物と云ふ〔一通は天正九年、北條氏より、當村代官・百姓中に與へし物なり。全文は村名の條に註記す。其餘の數通は永仁・正和・應安・康曆・應永・永享等の文書、及、上杉氏・小田原北條氏等の文書を、多く鶴岡に關係するものなり。傳來の由來、詳ならず。〕。

[やぶちゃん注:古鞍の図が載る。以下は国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミングした。下部の居木(いぎ:鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)を繫ぐ部品)と思われるものの左端には「永祿五年三月日」(永禄五年は一五六二年)の記銘が視認出来る。輪(恐らく前輪)の山形の海の中央にある紋は笹とは見えるものの、「上杉笹」のようには見えない。現物が見たいものだ。「二寸四分」は七センチ強で、これは書かれた位置から、輪の中央の楕円状に繰り抜かれた部分(州浜或いは鰐口と呼ぶ)の下部の間隙(左右幅)を指していると思われる。中央右手にあるのは花押のように見えるが、その手の知識を持たないので誰のものか判読は出来ない。識者の御教授を乞う。なお、「甘糟」は「甘粕」とも書き、「あまがす」「あまかす」二様に読む資料があるので、これらは皆、同一である。

「里正」(りせい)本来は律令制下に於いて霊亀元(七一五)年に施行された郷里(ごうり)制の下に於ける「里」の長を指す(国・郡・郷・里の四段階に変更したが、天平一二(七四〇)年には里が廃されて郷制となった。近世には「里正」は庄屋や村長をかく称した)。孰れにせよ、「先祖は上杉氏に仕へ、後、北條氏」(無論、扇谷上杉氏及び後北条氏である)「に屬せし」とあるからには土着の有力豪族である。

「家」現在、「甘糟屋敷」が大船宮前地区にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。こちらに現在の訪問記が画像入りである。それに『甘糟家が大船に館を構えたのは、室町時代で当時上杉管領に仕えていた甘糟土佐守平朝臣清忠という人で、当時拝領した上杉家の家紋入りの鞍が保存されてい』るとあるから、ここに描かれた鞍は現存することが判る。『江戸時代には医者を輩出しており、江戸後期には大船村名主となり、当地では一番の資産家で駅へ行くのに他人の土地を通らずに行けたと云われて』おり、『現当主の小三郎氏は工学博士で甘糟株式会社社長を』務め、東京在住とある(平成一六(二〇〇四)年の記載)。この条の柱は「舊家小三郎」であるが、この現当主の名も「小三郎」である。

「文明九丁酉天二月十一日」一四七七年。「天」は日付の謂いであろう。この年は山内上杉氏の関東管領上杉顕定(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)が有力家臣であった長尾景春が古河公方と結んで離反、五十子(いらこ/いかご)の戦いで大敗退を喫し、古河から撤退せざるを得なくなった年である(道長尾景春の乱は文明一二(一四八〇)年に扇谷上杉家上杉定正の家宰であった名将太田道灌の活躍によって鎮圧され二年後の文明十四年には古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立し、三十年近くに及んだ享徳の乱が終息したが、山内家の上杉顕定の主導で進められたこの和睦に定正は不満があり、さらに道灌の名声が高まったことから忠臣であった彼に猜疑を抱くに至り、遂には主君定正によって道灌は暗殺されてしまう)。

「甘糟備後守平朝臣淸長」不詳。

「永正二」一五〇五年。

「甘糟備後守淸長の名あれど、是は慶長の頃、在世たれば、時代、殊に違へり。同名別人なるべし」これは越後上杉氏の家臣で越後上田衆の一人、甘糟景継(天文一九(一五五〇)年~慶長一六(一六一一)年)のことと思われる。彼は晩年に「清長」と改名しているからである。

「隨岫寶順禪定門」「ずいしゅうほうじゅんぜんじょうもん」(現代仮名遣)と読んでおく。

「甘糟佐渡守平朝臣長俊」先の「鎌倉手帳」の「高野の切通」に、『甘糟氏は玉縄北条氏に仕えた一族で、大船の鎮守熊野神社を勧請したのは甘糟家の祖先の甘糟長俊と伝えられている』とある。

「天正十壬午」一五八二年。

「永祿十年」一五六七年。

「常樂寺文殊の像を修飾し〔像の胎中に收むる木牌に記す。〕」ウィキの「常楽寺(鎌倉市)」に、『木造文殊菩薩坐像』とあり、『鎌倉時代の作で神奈川県の重要文化財に指定されている。秘仏として文殊堂に安置されており、毎年』一月二十五日『に行われる文殊祭の時以外は開帳されない』あって、その後に永禄十年に『甘粕長俊によって修理が施された』とある。

「天正七年、鎭守熊野社の神體を再興せしは此人なり〔神體の台座に記す。〕」冒頭注参照。

「是等、最古を徴するに足れり」これらの記載は最も古い時代の甘糟氏の事蹟を引き出しており、これらの事実の証拠とする足るものである。

「玉繩岡本村に首塚、或は甘糟塚と唱ふるあり」現在の岡本の戸部橋の近くの、六体の地蔵と古い五輪塔などが祀ってある「玉繩首塚」のこと。史跡碑文「玉縄首塚由來」を電子化して示す。こちらの画像を視認させて貰った。最後の二人の記名は判読出来ないので近いうちに、現場に行って確認した上で追記する。但し、この碑文、重大な複数の誤りがある(後述)

   *

今を距る四百四十餘歳 大永六年(一五二六)十一月十二日南總の武将里見義弘鎌倉を攻略せんと欲し鶴岡八幡宮に火を放ち 府内に亂入せるを知るや時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫) 豪士大船甘糟  渡内福原両氏と俱に里見の軍勢を此處戸部川畔に邀擊し合戰數合之を潰走せしめ鎌府を兵燹より護る この合戰に於て甘糟氏以下三十有五人は戰禍の華と散り 福原氏は傷を負ひ里見勢の死者その數を知らず  干戈收て後城主氏時彼我の首級を交易し之を葬り塚を築き塔を建て以て郷關死守の靈を慰め怨親平等の資養と為し玉縄首塚と呼称す 經云我觀一切普皆平等

   昭和四十二年八月 玉縄史跡顯彰會

   *

「距る」は「へだつる」或いは「へだてる」。「里見義弘」は父里見義堯(よしたか 永正四(一五〇七)年~天正二(一五七四)年)の誤り。嫡男義弘(享禄三(一五三〇)年~天正六(一五七八)年)は大永(たいえい)六(一五二六)年にはまだ生まれていない。義堯は安房の戦国大名で安房里見氏第五代当主。上杉謙信や佐竹義重等と結び、後北条氏と関東の覇権を巡って争い続けた。房総半島に全体に勢力を拡大し、里見氏の全盛期を築き上げた人物である。「北條氏時」(?~享禄四(一五三一)年)は早雲(伊勢盛時)の「孫」ではなく、子である。初代玉繩城主。ウィキの「北条氏時等によれば、享禄二(一五二九)年八月十九日附文書が残っており、それは『相模国東郡二伝寺(藤沢市)』(私の家のすぐ裏山である)『宛てのもので』、『この時には玉縄城主になっていたこと』が判るとある。大永六年十一月十二日(一五二六年十二月十五日)に『安房国の里見義豊』(義堯の兄。兄とともに参戦した。これは「鶴岡八幡宮の戦い」(或いは「大永鎌倉合戦」)と称するが、これは当初、里見軍が玉繩城を目標としたものの、まさにこの場所で激しい抵抗を受け、逆走して鎌倉に突入、その兵火が鶴岡八幡宮に燃え移って焼失したことに由来する)『が相模国鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃したとされて』おり、この戦闘の直後、両陣営は『首を交換し』(碑文の「交易」はそれ)、『それを埋め弔うために建てた供養塔(玉縄首塚)が残っており、供養は現在も「玉縄史蹟まつり」として毎年継承されている』とある。……こう、書かれてあるが、ごく直近の私の得た情報では(私は現在、植木町内会の役員をしている)「首塚まつり」の方は、実は実行委員会の内紛によって存続が風前の灯らしい……いやはや……首級の泣き声が聴こえるようだ…………。「渡内ノ福原」「氏」は有力な土豪。私の毎日のアリスとの散歩コースに当たる場所に現在も子孫の方々が沢山住んでおられる。「邀擊」「えうげき(ようげき)」と読む。迎え撃つこと。迎撃。「兵燹」「へいせん」と読む。「燹」は「野火」の意。戦争による火災。兵火。「干戈收て」「くわんかをさまりて(かんかおさまりて)」で「干」は「楯(たて)」と「戈」は「矛(ほこ)」の意で武器・武力から、転じて「戦争」の意。「郷關」郷里。「怨親平等」敵も味方も等しく同じく扱うこと。「資養」人が自分自身の心を養うこと。死者の供養という点では恩讐による差はあってはならないという捉え方。「經」法華経。「我觀一切普皆平等」「がくわんいつさいふかいびやうどう」。「妙法蓮華経薬草喩品第五」に出る。「我、一切を観ること、普(あまねく)く皆、平等なり」の意。

「かりて」ママ。別本も見たが、同じ。「かくて」の誤りではあるまいか?

「堙し」音「イン」。土を被せて見えなくする。

「榎」現在も大きなエノキが聳えている。

「標」「しるべ」。

「其一」「そのひとり」と訓じておく。

「其魁」「そのかしら」と当て訓しておく。頭領。

「名諱」「メイヰ」と音読みしておく。通称や俗名及び「諱(いみな)」死後の称号或いは戒名。

「備後守淸長が男」清長の子。

「天正十三年」一五八五年。

「廓架」境内を区切る外壁のことか。

「甘糟外記」不詳。この資料元も不詳。少なくとも「鎌倉市史」資料編の円覚寺関連文書を縦覧してみたが、見当たらなかった。

「百姓中」「中」は「うち」で等(ら)の意であろう。

「全文は村名の條に註記す」「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)の本文に出る。

「永仁」一二九三年~一二九八年。鎌倉時代。甘糟氏族の古さが判る。また「多く鶴岡に關係するもの」とあるから、甘糟氏が古くから鶴岡八幡宮寺と強い関係を持っていたことが推測される。

「正和」一三一二年~一三一七年。これも鎌倉時代。

「應安」一三六八年~一三七五年。南北朝の北朝の元号。

「康曆」一三七九年~一三八一年。これも北朝の元号。

「應永」一三九四年~一四二八年。室町時代。

「永享」一四二九年~一四四一年。

「上杉氏・小田原北條氏等の文書を、多く鶴岡に關係するものなり」「を」はママ。別本も同じ。しかしこの助詞は繋ぎが悪い。或いは「(ニ)シテ」の約物の判読の誤りではなかろうか?]

 

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新編相模國風土記稿〔卷之九十八〕終

 

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