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2017/10/02

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳)始動 / 訳者序文・「村」

 

[やぶちゃん注:底本は昭和二三(一九四八)年斎藤書店刊のそれを、国立国会図書館デジタルコレクションを視認して電子化する。これは残念なことに味わいのある例の挿絵一枚もが入っていないのであるが、それは先に私が全電子化注した中山省三郎譯「散文詩」のもの、或いは一九五八年岩波書店刊の神西清・池田健太郎版のものを附すこととした。

 底本の傍点「ヽ」は太字とした。訳者が本文末に附した注はそれぞれの詩篇の後に頭に附すこととし、それ以外に私が必要と思ったものもストイックに附すこととする。

孤独なタイピングであるので、ゆっくらと進めたい。【2017年10月2日始動 藪野直史】]

 

 

改  譯

トゥルゲーネフ

散 文 詩

神 西  淸 譯

 

[やぶちゃん注:扉表紙。底本では総て右から左書き。]

 

 

    改譯の序

 

 わたくしがこの『散文詩』の譯筆をとつたのはもともと岩波文庫の勸めに應じたものであつて、一九三三年のたしか夏のことであつたかと記憶する。ほとんど十五年の昔である。爾來それは同文庫の一册として世に行はれて來たわけであるが、その間に時代も目まぐるしい變遷をけみし、わたくし自身の観が鑑賞の態度ないし文體にしても、年齡とともに著しい推移を免れなかつた。時たま舊譯の頁をひるがへしてみるにつけても次第に飽き足らぬ氣持がつよまり、折にふれて一篇二篇と改譯をこころみもして來たのであるが、靑年の客氣にまかせた舊譯の頃とはちがつて、今となつてはこれはもとより容易なわざではなかつた。のみならず、その改譯の筆もやうやく半途を越えたあたりで空しく足踏みをしだした形で、今のところその先へ步をすすめられる見込みはちよつと附きさうもない。とはいへ、また一方から考へれば、そこを無理じひに押すことは原作の性質上あくまで避けなければならぬことであるし、とにかくこれを舊譯に比すれば幾分なりとも現在の心持に近づけ得たことは事實でありもするので、あたかも終戰にともなふ人心一新の時運に際會したのをしほに、岩波書店の好意ある諒解のもとに文庫版を一應絶版にしてもらひ、この改譯のこころみを齋藤書店に托して世に問ふことにした。思ふにこの小散文詩のやうな作品の飜譯は、譯者の年齡の步みとともに、少くも十年おきぐらゐには改譯されるのが至當でもあり自然でもあるであらう。そして、トゥルゲーネフがこれらの小散文詩を書きつけたのはほぼ六十歳以降のことであつてみれば、譯者の「心の季節」も亦いつかそのやうな秋に達するあかつきにこそ、はじめてしつくりと呼吸の飜譯が生まれ得るのでもあらう。これを普遍律として立てることはもちろん危險であるが、すくなくもこの小散文詩はそのやうな性格の作品であるやうだ。そして白狀するまでもなく、わたくしの心の年齡はまだまだその秋にはほど遠いのである。

   一九四七年晩春鎌倉にて 譯者しるす

 

[やぶちゃん注:以下、目次が続くが、省略する。]

 

 

   散 文 詩

 

 

   散 文 詩(SENILIA

 

[やぶちゃん注:SENILIA(セニリア)はラテン語由来と思わる。ラテン語のsenilisは形容詞で「老年の、年寄りの、古い」、名詞で「老人」の意で、中山省三郎氏は『老いらく』、米川正夫氏や池田健太郎氏は『老人の言葉』と訳しておられる。私は作者の感懐に照らして前者の方がよいと思っている。]

 

Inaka

 

   

 

 七月を終る日。みはるかす千里、母なるロシヤ。

 空に流す一面の藍。綿雲は消えまた浮び、風は無く、汗ばむ心地。空氣は搾りたての牛乳のやう。

 雲雀の歌、鳩の鳴聲。燕は音もなく翼をかへし、馬は鼻をならして飼葉を喰む。犬は吠えるのも忘れて、おとなしく尾をふる。

 草いきれ、煙の匂ひ、……それに少しばかりタールの匂ひ。鞣皮の匂ひもする。大麻(たいま)畑はよく伸びて、澱みがちの快い香をおくる。

 傾斜(なぞへ)なす谷の深まり。鉢のひらいて根元の裂けた柳が、兩側に列を作つてゐる。この谷間を小川が流れる。底にしづむ白い小石が、漣をとほして顫へる。

 はるか地と天の合はさるあたりに、靑々とか水脈(みを)をひく大河。

 小ぎれいな納屋や、戸を閉した小屋が谷の片側に並んでゐる。別の側には松丸太を組みあげた板葺の百姓家が五六軒。屋根ごとに椋鳥の鳥舍(とや)の竿が聳え、戸口の頂には馬頭をかたどつた鐡の棟が剛(こは)い鬣を立ててゐる。波うつ窓硝子は五彩に照りかへり、鎧戸ごとに花瓶と花が描いてある。戸口ごとに楚々とした緣臺か行儀よくならび、盛土のうへに猫は、透きとほる耳を立てて丸まる。高い閾の内には、土間が凉しげに影つてゐる。

 私は馬被を敷いて、谷の口に橫たはる。あたり一面に刈立ての乾草の堆が、心も疲れるばかりの香をたてる。目利きの主たちは、乾草を家の前に撒き散らしながら心に思ふ――もう少し日に當ててから、納屋に仕舞はう。さぞ好い寢心地だらう。

 どの乾草の堆(やま)にも、子供の縮れ髮が覗いてゐる。鷄は鷄冠を立てて乾草の中に蠅や甲蟲を漁り、鼻面の白い小犬は、乾草にじやれて遊ぶ。

 亞麻色の捲毛の若者たちは、淸らかな簡衣(ルバーハ)に腰紐を低目に結んで、邊取りのある長靴も重たげに、馬を外した荷馬車に凭れながら輕口を叩いては齒をむいて笑ふ。

 若い女房が一人、丸い顏を窓に覗かせて、若者の高話にとも、乾草に戲れ遊ぶ子供にともなく、ただ笑つてゐる。

 もう一人の女房は、健やかな兩の腕で、井戸の釣瓶を曳きあげる。釣瓶は繩の先でしきりに搖れ、きらめく水滴をはふり落す。

 年寄りの農婦が、格子縞の眞新しい下袴(スカート)に卸し立ての靴をはいて、私のへに佇む。

 どす黑い瘦せた頸には、お粒の硝子玉を三重に卷き、赤い斑(ふ)のある黃いろい頭布に、白髮の房を包んでゐる。頭布は、衰へた瞼のあたりに垂れかかる。

 しかしその眼は、愛想よくしばたたく。皺だらけの顏に微笑がひろがる。夙(とう)に六十の坂を越したと見える今なほ、昔の器量を偲ばせる。

 日に燒けた右手の指に支へる壺は、窖から出したばかりの、上皮もまだとらぬ冷乳に滿ちて、肌一面に凉しげな露を結んでゐる。左の掌には、まだ溫(ぬく)さうな麵包の塊をのせ、彼女はいふ――ひとつ食(あが)りなさいませ、旅の旦那。

 ふと雄鷄が鬨を作つて、慌しく羽搏く。小屋の犢が氣ながにもうと應じる。

 「こりやまあ、なんて燕麥」と、私の馭者の聲もする。

 ああ、ひろびろとしたロシヤ農村の豐けさ、はた安らかさ。その幸(さち)と平和よ。

 思ふ――ビザンチンの舊い都の、聖ソフィヤ寺の堂母に光る十字架をはじめ、われら都會の人皆のあくせくする事がみんな如何に空しいかを。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。『ビサンチンの……堂母に光る十字架 この句は、一八五三―五六年のクリミヤ戰爭、同七七・八根の露土戰爭などの誘因をなした、所謂『東方問題』に對する世人の關心を諷してゐる』。本詩篇は後に再改訳されている。それは(標題は「いなか」と変更されている)をどうぞ。また、そちらの注も参照されたい。

「鞣皮」「なめしがは」。実際に農夫が皮を鞣しているのか、それとも何かの匂いをかく形容しているのかはよく判らない。

「鬣」「たてがみ」。

「頭布」「ずきん」と読んでおく。

「窖」「あなぐら」。

「麵包」「パン」。]

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