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2017/10/11

女誡扇綺譚 佐藤春夫 始動 / 一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址


女誡扇綺譚   佐藤春夫

 

[やぶちゃん注:「女誡扇綺譚」(ぢよかいせんきたん(じょかいせんきたん))は大正一四(一九二五)年『女性』に発表された、彼の怪奇小説中、傑作の呼び名高い一篇である。作者自身が、浪漫的作品の最後のものと評し、その自作中でも五指に入るであろうと言ったほど、愛着を示したいわくつきの幻想作品である。

 底本は昭和四(一九二九)年改造社刊の「日本探偵小説全集」の「第二十篇 佐藤春夫・芥川龍之介集」所収のものを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した(活字本を持っているはずなのだが、数ヶ月かけても見出せない。書庫の奈落で妖怪(あやかし)の餌食にでもなったものか?)。

 現在、私はある理由から、あらゆることに対し、実は全く積極的な意欲を失っている。それでも行っている毎日の幾つかの電子化注は、翻刻は、ある種の感情を抜き去った自動作用であり、注は、ともすれば鬱屈する感性を意識的に逸らすために、その作業の閉じられた密室の中で、現実を孤独に遮断して思念した結果として吐き出しているような代謝物に過ぎないと断じてもよい。しかし、そうした誤魔化しにも遂に疲れてきた。しかし、ここで停滞するわけにも行かぬ。それは再起動自体の困難が容易に予想されるからである。この電子化は、そういう意味で敢えて自分に課すものである。

 以上の心理状態から、原則、注は附さないこととする。附け出すと「あれもこれも」となるのが私の悪い癖だからである。但し、本文表記等への強い疑義があった場合、及び、私が不学なために意味が判らない語、私が強い興味があることについては、例外的に附すこととする。一度、附した読みは原則、繰り返したくないが、中国音のそれは、前出が大分前の場合は、再度、振る程度の、読者への最低限の配慮は忘れないつもりではある。万一、読めない箇所はリンク先の底本で確認されたい。注は当該語句の含まれる形式段落の末に附した。

 そう言っている傍からであるが、冒頭に出る「赤嵌城(シヤカムシヤ)址」は注が必要であろう。これは「赤崁楼(せきかんろう)」の別名で、「紅毛楼」とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡である。原名は「プロヴィンティア」(Provintia:普羅民遮城)と称し、一六五三年に、前年に起ったオランダ人と漢人の衝突事件である「郭懐一事件」後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、「プロヴィンティア」は「東都承天府」と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。佐藤は本文でこれを「TE CASTLE ZEELANDIA」(“TE”“THE”の脱字か?)と記しているが、これは厳密には別な城で、参照したウィキの「赤崁楼」によれば、一六二四年、『澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し』、『商館や砲台を築城した。台江西岸の一鯤沙洲』(いちこんしんさす)『(今の安平)には「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)が築城され、台湾統治の中心となり、城砦東側には「台湾街」(現在の延平街一帯)と「普羅民遮街」(現在の民権路)が建築された。前者は台湾で最も繁栄した商業地として「台湾第一街」と呼ばれるようになり、校舎は台湾で初めて計画されたヨーロッパ式都市計画であった』。『オランダ人による台湾統治では漢族移民や平埔族に対し』、『厳しい統治方式を採用した。そのため』、『漢人の不満が爆発』、『「郭懷一事件」が発生した。この事件は間もなく鎮圧されたが、オランダ人は事件の再発を防止するために「普羅民遮街」の北方』地区に新たな『「プロヴィンティア」を建築した。周囲約』百四十一メートル、城壁の高さ十・五メートルの『城砦には』、『水源が確保され、食料が備蓄されるなど、有事の際の防衛拠点都として準備され、漢人はこの城砦を赤崁楼或いは紅毛楼と称した』とあるように、「プロヴィンティア」の前にあった別な要塞が「THE CASTLE ZEELANDIA」(安平古堡)である。『オランダの投降後、鄭成功はゼーランディアを「安平鎮」と改称』、『鄭氏の居城とし、既に東都承天府と改名されたプロヴィンティアと共に、台湾の最高業機構を構成した。しかし半年後に鄭成功が病没すると、世子鄭経は』一六六四『年に東都を廃し、「東寧」と改称』、『「東寧国王」を自称するようになった。承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになった』。一七二一『年、朱一貴が清朝に対して反乱を起こすと、赤崁楼の鉄製門額が武器鋳造の材料とされた。その後も人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け』、『赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した』。十九『世紀後半、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤崁楼の跡地に再建され』、『昔日の様子を取り戻すようになった。日本統治時代には海神廟と文昌閣、五子祠は病院及び医学生の宿舎として利用されている』とある。その他、多数の現地の地名が出るが、注は省略する。ともかくも舞台は現在の中華民国台南市((グーグル・マップ・データ))である。ただ、どうも佐藤春夫のロケーション設定にはかなり問題があるらしい。それについては黒羽夏彦氏の「台湾史を知るためのブックガイド#21」が詳しいので、参照されたい。また、海王星氏のブログ記事「女誡扇綺譚に見る往時の台南」(全三回)も大いに参考になるので、必見。

 なお、底本は総ルビであるが、私が読め、読みにブレが生じないと思った箇所はすべて振らず、極めてストイックな部分だけに限定した。字配や記号等の配置は、概ね、ブログのブラウザに合わせたので、底本通りではない。踊り字「く」は正字化し、また、傍点「ヽ」は太字で示した。

 底本をPDFでダウン・ロードし、安物ソフトで読み取らせてもたものの、底本の文字の劣化が激しいこと、旧字であることに加えて、総ルビが災いし、殆んど読み取れず、結局、ほぼ一からタイピングせねばならない仕儀となった。かく、これは、全く気儘で迂遠な電子化である。悪しからず。【2017年10月11日始動 藪野直史】]

 

 

     女誡扇綺譚

 

 

    赤嵌城(シヤカムシヤ)址

 

 クツタウカン――字でかけば禿頭港。すべて禿頭(クツタウ)といふのは、面白い言葉だが物事の行きづまりを意味する俗語だから、禿頭港とはやがて安平港(アンピンカン)の最も奧の港といふことであるらしい。臺南(たいなん)市の西端れで安平の廢港に接するあたりではあるが、さうして名前だけの説明を聞けばなるほどと思ふかも知れないが、その場所を事實目前に見た人は、寧ろ却つてそんなところに港(カン)と名づけてゐるのを訝しく感ずるに違ひない。それはただ低い濕つぽい蘆荻(ろてき)の多い泥沼に沿うた貧民窟みたやうなところで、しかも海からは殆んど一里も距(へだた)つてゐる。沼を埋め立てた塵塚(ちりづか)の臭ひが暑さに蒸せ返つて鼻をつく厭な場末で、そんなところに土着の臺灣人のせせこましい家が、不行儀に、それもぎつしりと立竝んでゐる。土人街のなかでもここらは最も用もない邊(へん)なのだが、私はその日、友人の世外民(せいがいみん)に誘はれるがままに、安平港(アンピンカン)の廢市を見物に行つてのかへり路を、世外民が參考のために持つて來た臺灣府古圖の導くがままに、ひよつくりこんなところへ來てゐた。

 

 *     *     *     *

    *     *     *

 

 人はよく荒廢の美を説く。亦その概念だけなら私にもある。しかし私はまだそれを痛切に實感した事はなかつた。安平(アンピン)へ行つてみて私はやつとそれが判りかかつたやうな氣がした。そこにはさまで古くないとは言へ、さまざさの歷史がある。この島の主要な歷史と言へば、蘭人の壯圖(さうと)、鄭成功(ていせいこう)の雄志、新しくはまた劉永福(りうえいふく)の野望の末路も皆この一港市(かうし)に關聯してゐると言つても差支ないのだが、私はここでそれを説かうとも思はないし、また好古家で且(かつ)詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない。私が安平で荒廢の美に打たれたといふのは、又必ずしもその史的知識の爲めではないのである。だから誰でもいい、何も知らずにでもいい。ただ一度そこヘ足を踏み込んでみさへすれば、そこの衰頽した市街は直ぐに目に映る。さうして若し心ある人ならば、そのなかから悽然たる美を感じさうなものだと思ふのである。

[やぶちゃん注:「壯圖」規模が非常に大きくて立派な計画。

「また好古家で且詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない」文の繋がりが悪いが、ママ。「また好古家で」あり、「且」つ「詩人たる世外民なら知らないこと」などないから、「私には」うまくそれを説くことは「出來さうもない」といった意味であろう。]

 臺南から四十分ほどの間を、土か石かになつたつもりでトロツコで運ばれなければならない。坦坦たる殆んど一直線の道の兩側は、安平魚(アンピンヒイ)の養魚場なのだが、見た目には、田圃ともつかず沼ともつかぬ。海であつたものが埋まつてしまつた――といふより埋まりつつあるのだが、古圖によるともともと遠淺であつたものと見えて、名所圖繪式のこの地圖に水牛を曳かせた車の輞(は)が半分以上も水に漬かつてゐるのは、このあたりの方角でもあらう。しかし今はたとひ田圃のやうではあつても陸地には違ひない。さうしてそこの、變化もとりとめもない道をトロツコが滑走して行く熱國(ねつこく)のいつも靑靑として草いきれのする場所でありながら、荒野のやうな印象のせゐか、思ひ出すと、草が枯れてゐたやうな氣持さへする。これが安平の情調の序曲である。

[やぶちゃん注:「安平魚(アンピンヒイ)」条鰭綱ネズミギス目サバヒー亜目サバヒー科サバヒー属サバヒー Chanos chanosウィキの「サバヒー」によれば、『身がミルクのように白い色をしている』とあり、『台湾では大衆魚として古くから親しまれており』、『台南市の安平漁港周辺が有名な産地だったため』、「安平魚」と呼ばれた。『「サバヒー」とは「虱目魚」(白話字:Sat-ba̍k-hî)を閩南語』(びんなんご」閩南地方(現在の福建省南部)で話される言葉で、狭義には泉州・漳州・厦門など福建省南部で話されている言葉を指し、東南アジアでは「福建語」とも呼ばれる。広義には、狭義の言葉に加えて台湾・浙江省南部・広東省東部及び西部や海南省などで話される言語的に類似性の高い言葉の総称。ここはウィキの「閩南語」に拠った)『読みしたものである。名前の由来について、足立倫行著『アジア海道紀行』(文春文庫)の中では、この魚の両目が脂肪性の膜で覆われているためもともとは「塞目魚(サバヒー)」と呼びならわしていたものが、後に同じ音である「虱目魚」の字が当てられるようになったという説が紹介されている』。『サバヒーは産卵期になると、台湾の南部海岸一帯などに稚魚の群が大挙して押し寄せてくるため、その稚魚を捕獲して養殖することが古くから(鄭氏台湾の時代、つまり』十七『世紀頃から)行われてきた。日本統治時代の』二十『世紀初頭には養殖水産物の』実に八十五『%、終戦時から中華民国統治時代初期にあたる』一九四〇『年代後半には養殖魚の』六十『%近くをサバヒーが占めていたという記録も残っている』とある。『身は淡泊だが』、『ぱさぱさしており、小骨が多いといった特徴があるため、台湾では一般にサバヒー粥(虱目魚粥)やサバヒーの肉団子入りスープ(虱目魚丸)などの料理方法で供されることが多い。中でも台南地区のサバヒー粥は特に有名である』ともある。

「輞(は)」「は」は誤ったルビで、歴史的仮名遣で「わ」でよい。「輪」の訓を当てたもの。 「おほわ(おおわ=大輪)」とも訓ずる。厳密には昔の馬車や牛車や農耕車輛の大きな車輪の外周を包む箍(たが)の部分を指した。]

 トロツコの着いたところから、むかし和蘭人(オランダじん)が築いたといふ TE CASTLE ZEELANDIA 所謂土人の赤嵌城(シヤカムシヤ)を目あてに步いて行く道では、目につく家といふ家は悉く荒れ果てたままの無住である。あまりふるくない以前に外國人が經營してゐた製糖會社の社宅であるが、その會社が解散すると同時に空屋になつてしまつた。何れも立派な煉瓦づくりの相當な構への洋館で、ちよつとした前栽(ぜんさい)さへ型(かた)ばかりは殘つてゐる。しかし砂ばかりの土には雜草もあまり蔓(はびこ)つてはゐない。その竝び立つた空屋の窓といふ窓のガラスは、子供たちがいたづらに投げた石のためででもあらうか、破(わ)れて穴があいてないものはなく、その軒(のき)には巣でもつくつてゐるのか驚くほどたくさんな雀が、黑く集合して喋りつづけてゐる。

[やぶちゃん注:「蔓(はびこ)つてはゐない。」の末尾は行末で句点がないが、補った。]

 私たちは試みにその一軒のなかへ這入つてみた。内にはこなごなに散ばつて光つてゐるガラスの破片と壞れた窓枠とが塵埃に埋まつてゐるよりほかに何もなかつた。しかし二階で人の話聲がするので上(あが)つてみると、そこのベランダに乞食ではないかと思へるやうな裝ひをした老人が、これでも使へるのだらうかと思はれるぼろぼろになつた魚網をつくろつてゐる傍(かたはら)に、この爺(おやじ)の孫ででもあるか、五つ六つの男の子がしきりにひとり言を喋りながら、手であたりの埃(ごみ)を搔き集めて遊んでゐたらしいのが、我我の足音に驚いて闖入者を見上げた。老漁夫も我我を怖れてゐるやうな目つきをした。彼等はどこか近所の者であらうが、暑さをこの廢屋の二階に避けてゐたのであらう。ともかくもこれほど立派な廢屋が軒を連ねて立つてゐる市街は、私にとつては空想も出來なかつた事實である。(この二三年後に臺灣の行政制度が變つて臺南の官衙(くわんが)でも急に增員する必要が生じた時、これらの安平(アンピン)の廢屋を一時(じ)、官舍にしたらよからうといふ説があつたが尤もなことである)。

 赤嵌城址(シヤカムシヤし)に登つてみた。たゞ名ばかりが殘つてゐるので、コンクリートで築かれた古い礎(いしずゑ)のあとがあるといふけれども、どれがどれだかさすがの世外民もそれを知らなかつた。今は税關俱樂部(クラブ)の一部分になつてゐる小高い丘の上である。私の友、世外民はその丘の上で例の古圖を取(とり)ひろげながら、所謂安平(アンピン)港外の七鯤身(こんしん)のあとを指さし、又古書に見えてゐるといふ鬼工奇絶と評せられる赤嵌城の建築などに就て詳しく説明をしてくれたものであるが、私は生憎と皆忘れてしまつた。さうして私の驚いたことといふのは、むかし安平の内港と稱したところのものは、今は全く埋沒してしまつてゐるのだといふだけの事であつた――全くあまり單純すぎた話ではあるが事實、私は歷史なんてものにはてんで興味がないほど若かつた。さうしてもし世外民の影響がなかつたならば、安平などといふ愚にもつかないところへ來てみるやうな心掛さへなかつたらう。さういふ程度の私だから、同じやうな若い身空で世外民がしきりと過去を述べたてて咏嘆(えいたん)めいた口をきくのを、さすがに支那人の血をうけた詩人は違つたものだ位にしか思つてゐなかつたのである。そのやうな私ではあり、またいくら蘭人壯圖(さうと)の址(あと)と言つたところで、その古(いにしへ)を偲ぶよすがになるやうなものとても見當らないのだから一向仕方がなかつたけれども、それでもその丘の眺望そのものは人の情感を唆(そそ)らずにはゐないものであつた。單に景色としてみても私はあれほど荒凉たる自然がさう澤山あらうとは思はない。私にもし、エドガア・アラン・ポオの筆力があつたとしたら、私は恐らく、この景を描き出して、彼の「アツシヤ家の崩壞」の冒頭に對抗することが出來るだらうに。

[やぶちゃん注:「七鯤身(こんしん)」臺南市街の沖にあった島或いは大きな砂洲の総称。T氏のサイト「中国耽美紀行」の「億載金城」に、大きいものから順に「一鯤身」(いちこんしん Yī kūn shēn)から「六鯤身」乃至「七鯤身」と称された、とある。]

 私の目の前に廣がつたのは一面の泥の海であつた。黃ばんだ褐色をして、それがしかもせせつこましい波の穗を無數にあとからあとか飜して來る、十重(へ)二十重といふ言葉はあるが、あのやうに重ねがさねに打ち返す波を描く言葉は我我の語彙にはないであらう。その浪は水平線までつづいて、それがみな一樣に我我の立つてゐる方向へ押寄せて來るのである。昔は赤嵌城(シヤカムシヤ)の眞下まで海であつたといふが、今はこの丘からまだ二三町も海濱がある。その遠さの爲めに浪の音も聞えない程である。それほどに安平(アンピン)の外港も埋まつてしまつたけれども、しかしその無限に重なりつづく濁浪(だくらう)は生溫い風と極度の遠殘の砂に煽(あふ)られて、今にも丘の脚下まで押寄せて來るやうに感ぜられる。その濁り切つた浪の面(おもて)には、熱帶の正午に近い太陽さへ、その光を反射させることが出來ないと見える。光のないこの奇怪な海――といふよりも水の枯野原の眞中に、無邊際(むへんざい)に重(かさな)りつづく浪と間斷なく鬪ひながら一葉(えふ)の舢舨(サンパン)が、何を目的にか、ひたすらに沖へ沖へと急いでゐる。

[やぶちゃん注:「舢舨(サンパン)」「舢舨」は広東語。中国南部や東南アジアで使用される平底の木造船の一種。]

 白く灼(や)けた眞晝の下(もと)。光を全く吸ひ込んでしまつてゐる海。水平線まで重なり重なる小さな浪頭。洪水を思はせるその色。翩飜(へんぽん)と漂うてゐる小舟。激しい活動的な景色のなかに闃(げき)として何の物音もひびかない。時折にマラリヤ患者の息吹のやうに蒸れたのろい微風が動いて來る。それらすべてが一種内面的な風景を形成して、象徴めいて、惡夢のやうな不氣味さをさへ私に與へたのである。いや、形容だけではない、この景色に接してから後(のち)、私は亂醉の後の日などに、ここによく似た殺風景な海濱を惡夢に見て怯(おびや)かされたことが二三度あつた。――このやうな海を私がしばらく見入つてゐる間、世外民もまた私と同じやうな感銘を持つたかも知れない、――このよく喋る男もたうとう押默つてしまつてゐた。私は目を低く垂れて思はず溜息を洩らした。尤も多少は感慨のせゐもあつたかも知れないが、大部分は炎天の暑さに喘いだのである。今更だが、かういふ厚さは蝙蝠傘などのかげで防げるものではない。

[やぶちゃん注:「
闃(げき)」静まりかえったさま。ひっそりとして人気(ひとけ)のないこと。

「ウ、ウ、ウ、ウ――」

 不意に微かに、たとへばこの景色全體が呻くやうな音が響き渡つた、見ると、水平線の上に一隻の蒸汽船が黑く小さく、その煙筒(えんとう)や檣(ほばしら)などが僅かに見える程の遠さに浮んでゐた。沿岸航路の舟らしい。さうしてさつきから浪に搖れてゐる舢舨(サンパン)はそれの艀(はしけ)で、間もなく本船の來ることを豫想して急いでゐたものらしい。

「あの蒸汽はどこへ着くのだい」

 私が世外民に尋ねると、我我の案内について來たトロツコ運搬夫が代つて答へをした――

「もう着いてゐる。今の汽笛は着いた合圖です」

「あそこへか。――あんな遠くへか」

「さうです。あれより内へは來ません」

 私はもう一ぺん沖の方を念の爲めに見てから呟いた――

「フム、これが港か!」

「さうだ!」世外民は私の聲に應じた。「港だ。昔は、臺灣第一の港だ!」

「昔は……」私は思は無意味に繰返した。それが多少感動的でいやだつたと氣がついた時、私は輕く虛無的に言ひ直した。「昔は……か」

 丘を下りて我我の出たところは、もと來た路ではなかつた。ここは比較的舊い町筋であると見えて、一たいが古びてゐた。あたりの支那風の家屋はみんな貧しい漁夫などのものと見えて、あのヹランダのある二階建の堂堂たる空屋にくらべるまでもなく、小さくて哀れであつた。さうしてもともと所謂鯤身(こんしん)たる出島の一つであつたと見えて、地質は自(おのづ)から變つてゐた。砂ではなくもつと輕い、步く度(たび)に足もとからひどい塵が舞ひ立つ白茶けた土であつた。但(たゞし)、來たときと一向變らないことは、そのあたりで私は全く人間のかげを見かけなかつた事である。通筋の家家は必ずしも皆空屋でもないであらうのに、どこの門口(かどぐち)にも出入する人はなく、又話聲さへ洩れなかつた。私たちが町を一巡した間に逢つた人間といふのはただあの廢屋のヹランダにゐた漁夫と小兒とだけである。行人(かうじん)に出逢ふやうなことなどは一度もなかつた。深夜の街とてもこれほどに人氣(ひとけ)が絶えてゐることはないと言ひたい。しかも眩しい太陽が照りつけてゐるのだから、さびしさは一種別樣(べつやう)の深さを帶びてゐた。我我は默默と步いた。不意にあたりの家竝(やなみ)のどこかから、日ざかりのつれづれを慰めようとでもいふのか、絃(ヒエン)と呼ばれてゐる胡弓をならし出した者があつた。

「月下の吹笛(すゐてき)よりも更に悲しい」

 詩人世外民は、早くも耳にとめて私にさう言ふのであつた。月下の吹笛を聯想するところに彼の例のマンネリズムとセンチメンタリズムとがあるが、でも彼の感じ方には賛成していい。

 私たちは再び養魚場の土堤(どて)の路をトロツコで歸つたが、それの歸り着いたところ、臺南市の西郊が、私のこれから言はうとする禿頭港(クツタウカン)なのである.安平(アンピン)見物を完(まつた)うするためにこのあたりをも一巡しようと世外民が言ひ出した時、時刻が過ぎてしまつてひどく空服(くうふく)を覺えてゐながらも私が別に、もう澤山だと言はなかつたところを見ても、私がこの半日のうちに安平に對して多少の興味を持つやうになつてゐたことは判るだらう。

[やぶちゃん注:「空服」はママ。]

 しかしトロツコから下りて一町とは步かないうちに、私は禿頭港などは蛇足だつたと、思ひ始めたのである。ただ水溜(みづたまり)の多い、不潔な入組(いりく)んだ場末といふより外には、一向何の奇(き)もありさうには見えなかつた。

 

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