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2017/10/24

老媼茶話巻之四 大龜の怪

 

     大龜の怪

 

 結城宰相秀康公は御仁德の御大將にてましましける。其御子一伯忠直公は士民御哀みもなく、其御生れ、強勇血氣にして、御普代相傳の忠士といへども、少(すこし)にても御心に背き申(まうす)事あれば、御手打になされ、殊更、醉後亂狂にして、皆人(みなひと)、うとみ果(はて)たり。

 或時、「大むく」「小むく」と云(いふ)御愛妾を達御船遊びあり。御酒宴、長じて、甚御不機嫌にならせられ、御近習を始(はじめ)、御供の皆々、かたづを呑む。七に御なりなさるゝ鶴松樣と云(いふ)御愛子、一伯樣の御ひざ元におはしける。これは小むくがはらの若君なり。忠直公、手づから、御前のくわし、御取(おんとり)、鶴松君へ遣(つかは)せられ、

「いかに、鶴松。父や、かはゆき、母や、かはゆき。早くいふべし。」

と被仰(おほせらる)。

 鶴松君、御父上の御不きげんに御渡りなされしを、幼(イトケナ)き御心に御笑止にや思召(おぼしめし)けん、淚ぐみ、顏を赤く、暫く御挨拶なく、母の顏を御覽ぜられ、

「いかゞ被仰(おほせられ)よかるべき。」

と思召ける御氣色にて、泣(なき)顏に成(なり)おはしましける。

一伯、重(かさね)て、

「いかに答(こたへ)はせざる。」

と仰(おほせ)ける。

「父上こそ御いとおしく候。」

と漸(やうやう)被仰けるを、一伯、聞召(きこしめし)、

「おのれ、侍の大將軍共(とも)ならんもの、母の口元をまふり窺(うかがひ)、へつらいたる有樣(ありさま)、とても用には立(たつ)まじ。」

とて、壱尺五寸、切刃兼常の御脇差を拔(ぬき)、鶴松君樣の御脇つぼを、蛙を串にさしたる樣に、つば元迄、差通し、高く差上、大盃に酒を請(こひ)、呑(のみ)ほし給ふとひとしく、御脇差と共に鶴松樣を、はるかの海上へ、抛(なげ)すて玉へり。

 又、ある日、鷹がりに御出の節、御祕藏の御鷹、それて、ちどり山のふもと、「まんさいが沼」といふ大沼の向ひの岩ほに羽を休め居たり。

 鷹匠、急ぎ、沼へ入(いり)、水をおよぎ、半町斗(ばかり)およぎ出(いで)ける折、水(みな)そこより、馬の頭のごとくにて、眼光り渡り、眞黑なるもの、首を差出(さしいだ)し、鷹匠を横樣(よこざま)に引(ひき)くわへ、沼底へ引入(ひきいれ)ける。忠直、御覽被成(なられ)、御衣裳をぬぎ捨(すて)、丸はだかに成(なり)、「龍の髭」といふ三條の小鍛冶が打(うち)し九寸五分の小脇指を御下帶へ御(おん)さし、ぬき手を切(きり)、水の面半町餘りおよぎ出(いだ)し、水を分行(わくゆき)、底へ沈(しづみ)玉へり。

 御供の面々、水を知るも知らざるも、あわてゝ、皆々、裸になり、水へ入らんとする折、忠直、水底をくゞり、こなたの岸へあがらせ玉ふとひとしく、水面(みなも)、あけの血染(ちぞめ)になる。

 忠直、仰られけるは、

「水底をあまねくさがし見るに、いづくにも、あやしき事なし。但(ただし)、大きなるほら穴有(あり)。是(これ)へくゞり入(いり)、内を見るに、なましき死骸、かれたるほね有。其外何にも不思義成(ある)事なし。ほら穴より出(いで)んとするに、表てより扉の樣なるものにて、ほら口をふさぐ。おせども、すこしも動かず。なでゝ見るに、人はだなり。不思義におもひ、脇さしを拔(ぬき)、差通し、くりぬき、其穴より拔出(ぬけいで)たり。人を入(いれ)、さがし見よ。」

とのたまふ、御こと葉の下より、壱間(けん)斗(ばかり)の大龜、腹を甲ともにくりぬかれ、あをのけに成り、死(しし)て水面へ、うかみ出(いで)たり。

 かゝる血氣猛勇の御大將にておはしましける。

 劍術は小山田多門を師として新天流を御習被成(ならひなさ)るゝ。新天流極祕の太刀に、「雲あし萬字劍」といふ太刀有(あり)。是は多門に天狗の傳へたる太刀也といへり。一伯樣劍、上段、御得手物(おんえてもの)也。御力量強く御渡り候うへ、兵法(ひやうはう)の御相手を仕る者、上段受(うけ)はづせば、頭、みぢんに打碎(うちくだ)かれ、死す。

 御酒宴の上、御酒狂おこり、御心あらく御(おん)なり、とがもなき御近習の者、大けさに打放(うちはな)し、其(その)生ぎもを手づから拔取(ぬきとり)、大皿鉢入(いれ)、其(その)きものおどり動き、皿鉢のゆるぐを御覽せられ、御機嫌、直(なほ)る也。

 如此(かくのごとき)なれば、士民、腹(ふく)せずして、國中、悉く亂れ、御家代々忠功の侍共、國、引(ひき)はらひ、他國へ立退(たちの)ければ、

「忠直の御行末、いかゞあるべき。」

と、諸人、大きにあやしみおもひけると云(いへ)り。

 果して、元和九年五月、豐後國へ移され給ひ、津森の浦にて日根野(ひねの)織部正(をりべのしやう)高吉(たかよし)に預けられさせ給ひしとかや。

 結城中納言秀康公の御嫡男忠直公、幼名長吉丸。越前國福井の城主六拾七萬石。參議從三位宰相兼(けん)三河守忠直公。大猛勇の御大將にて、元和元年、大坂にて西の大手の一番乘(のり)をし玉ひ、大坂方隨一の軍將眞田左衞門尉幸村・御宿(みしゆく)越前守長則を始(はじめ)、首三千七百三級を打取(うちとり)玉ふ。大御所樣にも忠直公を「日本樊噲(はんくわい)」と被仰(おほせられ)しと也。寛永元年五月二日、豐後國萩原へ配流、御剃髮有(あり)て一伯と申(まうし)ける。其後、津森といふ所へ御移(おんうつり)、日根野織部正、警固、牧野傳藏、御目付なり。配所にまします事弐拾五年、慶安三年九月十日、津森にて御逝去。時に御年五拾六【法名、西岸院殿相譽蓮友大居士。】。

 

[やぶちゃん注:これは大亀が怪なのではなく、狂気のサディスト結城忠直こそが厭うべき忌まわしき真怪そのものである。

「結城宰相秀康」(天正二(一五七四)年~慶長一二(一六〇七)年)江戸初期の大名。越前北ノ庄(越前福井)藩(現在の福井県嶺北(福井県木ノ芽峠以北の呼称)中心部を領有した)初代藩主。徳川家康次男。母は側室「お万の方」。天正 一二(一五八四)年の「小牧・長久手の戦い」の講和に際し、豊臣秀吉の養子となり、さらに同 十九年には下総の名族結城晴朝(はるとも)の養子となった。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」に際しては、結城に留まって上杉景勝の西上を防いだ。その後、越前国と信濃・若狭の一部を合せて六十七万石を領し、越前北庄を居城とした。

「一伯忠直」結城秀康の長男で徳川家光や徳川光圀などの従兄に当たる、越前福井藩第二代藩主松平忠直(文禄四(一五九五)年~慶安三(一六五〇)年)。彼には「西巖院殿前越前太守源三位相公相譽蓮友大居士」と「西巖院殿相譽蓮友一伯大居士」(本文最後の割注のそれは「一伯」を省略している。因みに以下のウィキではここを『一泊』とするが、採らない)の二つの戒名(法名)があり、ここに出る「一伯」は後者のそれを採ったもの。ウィキの「松平忠によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『慶長八年(一六〇三年)、江戸参勤のおりに江戸幕府二代将軍・徳川秀忠に初対面。秀忠は大いに気に入り三河守と呼んで自らの脇に置いたという。慶長十二年(一六〇七年)、父・秀康の死に伴って越前七十五万石を相続し、慶長十六年(一六一一年)には秀忠の娘・勝姫を正室に迎える。元服の際には秀忠より偏諱を授かり忠直と名乗る』。『慶長十七年(一六一二年)冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者より』、『これを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。翌慶長十八年(一六一三年)六月、家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに富正が越前の国政を執ることとされ、加えて富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは騒動が重なるのは忠直が、まだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである(越前騒動)』。『慶長十九年(一六一四年)の大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げた。しかし、戦後の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていった。元和七年(一六二一年)、病を理由に江戸への参勤を怠り、また』、『翌元和八年(一六二二年)には』正室『勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった』。『元和九年(一六二三年)、将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母の説得もあって隠居に応じ、隠居後は出家して一伯と名乗った。五月十二日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。府内藩では領内の五千石を与えられ、初め海沿いの萩原に住まい、三年後に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという』(下線やぶちゃん)。享年五十六歳。

「大むく」「小むく」ともに不詳。

「御酒宴」原典は「御酒妾」。底本の訂正注に従った。

「鶴松」不詳。なお、忠直の次女(母は勝姫)に鶴姫がおり、彼女は長じて九条道房の正室となっている。

「くわし」「菓子」。

「御取(おんとり)」推定訓。

「まふり」「守り」。

「壱尺五寸」四十五・四五センチメートル。

「切刃」刀剣の刃の形の一つで、刃方の肉を表裏とも急な角度で落としたものを狭義には指すが、ここは単に「よく切れる刃」の意であろう。

「兼常」関兼常。鎌倉時代に大和国から移住してきた鍛冶七派の一つ。その時代に栄え、その時代に作られた小刀については中国の書に誉める記事が載るほどであったという。

「脇つぼ」脇の下の窪んだ所。腋窩(えきか)。

「ちどり山」不詳。

「まんさいが沼」不詳。

「半町」五十四メートル半。

「三條の小鍛冶」平安時代の刀工三条宗近(むねちか)。呼称は山城国京の三条に住んでいたことに由来する。ウィキの「三条宗近」によれば、古来、一条天皇の治世の永延(九八七年から九八九年まで)頃の刀工と伝えられ、『日本刀が直刀から反りのある湾刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが』、現存する作刀にはこの頃の『年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われて』おり、『実年代については、資料によって』十~十一世紀とするものや十二世紀などとするなど、『幅がある』。『現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」』とある。

「九寸五分」刃の部分の長さが約二十九センチメートルの短刀。「鎧通 し」とも呼ぶ。

「人はだ」「人肌」。人の肌のようであるというより、寧ろ、人の肌のような微かな温もりがあるという意味で私は採る。

「御こと葉の下より」お言葉の通り。

「壱間(けん)」一メートル八十二センチメートル弱。

「小山田多門」越前松平家家臣(後に会津松平家家臣・米沢藩主上杉家家臣)小山田多門家の始祖か。

「新天流」斎藤伝鬼房(天文一九(一五五〇)年~天正一五(一五八七)年)が開いた武術流派天流(てんりゅう)から分派した一流。

「雲あし萬字劍」不詳。

「上段」上段の構え。

「得手物(おんえてもの)」得意。

「あらく」「荒く」。

「とがもなき」「咎も無き」。

「津森の浦」不詳。先のウィキの引用には「津守」とあるが、引用自体に『内陸』とあるように、現行のこの一(グーグル・マップ・データ)は「浦」を有した海浜ではない。

「日根野織部正高吉」信濃諏訪藩(高島藩)の初代藩主日根野高吉(天文八(一五三九)年~慶長五(一六〇〇)年)であるが、高吉の生没年から見て、完全におかしく、これは先のウィキの引用にある通り、高吉の長男で豊後府内藩主日根野吉明(よしあき 天正一五(一五八七)年~明暦二(一六五六)年)の誤り。

「越前國福井の城主六拾七萬石」誤り。五十二万五千石。

「參議從三位宰相兼(けん)三河守忠」誤り。越前守。

「元和元年」正しくは慶長二十年。同年七月十三日に元和元年に改元で、「大坂夏の陣」の戦闘はその前、五月八日の大坂城落城で終わっている。

「樊噲(はんくわい)」(はんかい ?~紀元前一八九年)は漢初の武将。諡(おくりな)は武侯。従がった劉邦(後の漢の高祖)と同じ沛(はい:江蘇省)の出身で、元は犬の屠畜業を生業(なりわい)としていた。「鴻門之会」に於いて項羽により窮地に立たされた劉邦を救ったことは漢文の授業でよく知られる。漢の天下統一後も軍功を立て、舞陽侯に封ぜられた。

「寛永元年五月二日」誤り。先の引用に見る通り、元和九(一六二三)年である。寛永への改元は翌元和一〇(一六二四)年二月三十日である。

「豐後國萩原」大分県大分市萩原。 (グーグル・マップ・データ)。先に示した後の移転先の津守(本文の「津森」)の東北。現在は埋め立てによって内陸となっているが、元は海浜地区であるから、三坂はその辺りを、混同してしまっているものと思われる。

「牧野傳藏」近世の大名を輩出した三河牧野氏の一系統である今橋牧野家の系統の人物と思われる。この家系は「田蔵系」と称され、田三・田蔵・伝蔵の通称を持つ者が多い。

「御目付」幕府職のそれは若年寄に属し、旗本・御家人の監察などに当たった。また、諸藩にも置かれた。ここは後者であろう。

「配所にまします事弐拾五年」誤り。数えで二十八年、実年数でも二十七年である。

「西岸院殿相譽蓮友大居士」前の「一伯忠直」の注を参照されたい。]

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