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2017/10/02

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 老婆


Rouba

   老婆

 

 私は一人で、曠(ひろ)い野原を步いてゐた。

 すると不意に、幽(かす)かな忍び足の氣配がうしろに聞えた。誰かが、後をつけて來る。

 振返るつて見ると、灰色の襤褸に身を包んだ、腰の曲つた小さな老婆がゐた。露(あら)はに見えるのは、皺だらけの黃色い顏だけで、妙に鼻が尖つて、齒は一本も無い。

 私が步み寄ると、老婆は立止つた。

 「お前は誰だ。何が要るのだ、それともただの乞食で、施しが欲しいのか。」

 老婆は答へない、私はかがみ込んで、その兩眼が半透明の白つぽい薄皮(うすかは)、つまり鳥によくあるあの膜で、閉されてゐるのを見た。鳥はあの薄い膜で、眩しい光を避けるのである。しかし老婆の眼をとざしてゐる膜は、動きもせず、瞳を現はしもしない。そこで私は、この老婆は盲らなのだと思つた。

 「ほどこしが欲しいのかね」と私は重ねてたづねた、「なんだつて私について來るのだ。」

 老婆はやつぱり返事をしない。ただかすかに身をすくめただけである。

 私は身をひるがへして、再び步きはじめた。すると又もや、うしろで同じ忍び足が、幽かに、正しい間(ま)を置いて聞える。

 「また、あの女だ」私は思つた、「何だつてさうつきまとふのだらう。」

 しかしまた、かうも思つた、[これはきつと、眼が見えないので、道に迷つたのだ。だから私の跫音を賴りに、人里へ出ようとするのだ。さうだそれに違ひない。」

 ところがその内だんだん、私は妙に不安な氣持がして來た。その老婆は私の後(あと)について來るだけではなく、却つて私を導くのではあるまいか。その老婆が私を右へ左へ押しやつて、私は知らず識らず、それに從つてゐるのではあるまいか。

 しかし私は步み續けた。……そのとき不意に、何かしら穴の樣な影が、道の行手に黑々とひろがつた。

 「墓だ」――私の恟に、この言葉がひらめいた、「あの中へ、私を追ひ込む氣だつたのだな。」

 私はくるりとうしろを振返つた。そして又もや老婆と向ひ合つた。しかし、その眼は開(あ)いてゐるのだ。

 意地の惡い忌はしい眼を大きく見ひらいて、餌食を窺ふ猛禽のやうに、まじまじと私を見つめてゐる。……私はその顏を、その眼を覗き込んだ。すると又しても、ぼんやりと薄い膜が被さつて、もとの鈍い表情に返つてしまふ。

 「ああ」と私は心に思ふ、「この女は、私の運命なのだ。現身(うつそみ)には到底逃れるすべもない、あの運命なのだ。」

 「逃(のが)れられない、とてもだめだ!……いや、何を莫迦な。ひとつ、やつて見よう。」

 私は身をすり拔けて、別の方角へつき進んだ。

 私は走らんばかりに步いて行つた。けれどかすかな跫音は、矢張り背後にさや鳴り、愈〻間近かに迫つて來る、そして行……には、又もや暗い穴が口をあく。

 私はまた向きを變へる。でも矢張り同じさやめきは私に追ひすがり、怖しい物影が行手に現れる。

 追ひつめられた兎のやうに、何處を向いて走つても、やはり足音、やはり暗い穴。

 「侍てよ」と私は考へる、「ひとつ騙して見よう。もう此處を動くまい。」

 そして、そのまま私は、地べたに坐りこむ。

 老婆は我のうしろ、二あしほどの所に立つてゐる。耳には何の物音も聞えないが、そこに居ることだけは感じられる。

 とそのとき不意に、いままで遠くに見えてゐた黑い物影が、飄々と漂ひながら、こちらへ近づいて來る、這ひ寄つて來る。

 しまつた! 私はうしろを振返る。老婆は眞面(まとも)に私を見据ゑ、齒の無い口をゆがめて北叟笑んでゐる。

 「逃れつこはできないのだよ!」

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。『『老婆』 トゥルゲーネフの或る親友の言葉に依れば、この詩は彼が實際に見た夢を綴つたものとのことである。事實、夢を寫した詩はひとりこの『老婆』に限らず、全篇を通じてかなりの數に上ることは見逃せない』。中山省三郎氏の註によれば、『親友であったピッチは、ツルゲーネフが絶えずこのやうな夢に惱まされたこと、この「老婆」の内容を或る年の夏ベルリンで語つてくれた由を傳へてゐる』とある。人物といい、恐怖対象といい、精神医学の教科書に出てくるような典型的な追跡妄想のパターンである。]

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