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2017/10/05

老媼茶話巻之弐 伊藤が怨靈

 

     伊藤が怨靈

 

 奧州仙臺の浪人伊藤七十郎といふ者は大力の早走(ハヤハシリ)りなり。秋の日の短きにも、江戸より仙臺迄、八日路の行程、九拾五里、一日一夜に至る也。壱度に四、五升の米を食し、四、五日も食せず。仙臺騷動の節、首をきらるゝ。さい後に申けるは、

「士たるものをしばり、首を切る事、其科(とが)、何事ぞや。とても法外の掟(おきて)なれば、我は人と違(たが)ひ、我(わが)首、前へ落(おとさ)ずして後ろへ飛ばん。」

と云。太刀取の下臈(ゲラフ)申樣、

「むだごとをいはず、人並(ひとなみ)に念佛を申、死(しに)玉へ。」

ともふしければ、眼玉を見出し、

「きつ。」

と、ふり返り、白眼(ニラミ)付(つけ)、

「己(おのれ)、かやう成る下臈には何事もいはぬなり。さあ、切れ。」

とて、首、差延(さしのべ)、きらるゝ。

 案のごとく、切りし首、うしろへ飛び、はがみをなしければ、見物の貴賤、

「是は是は。」

と、あきれたり。

 死骸を穴にも埋めず、野原にすて置(おき)けれは、犬・烏も恐れて、死骸のあたりへ近寄らざりし、となり。

 七十郎亡靈、我をざんせしものども、悉く、とりころしける、と也。

 寛文九年のこと也。

 

[やぶちゃん注:かの「伊達騒動」で刑死した伊東重孝(後述)に纏わる怪奇譚。まずは、伊達騒動について小学館「日本大百科全書」を引く。寛文年間(一六六一年~一六七三年)に起きた仙台藩の騒動。万治三(一六六〇)年、第三代伊達藩藩主伊達綱宗は『不行跡のかどで幕府から逼塞(ひっそく)を命ぜられ』、二『歳の長男亀千代(かめちよ)(綱村)が家督相続、綱宗の叔父伊達兵部少輔宗勝(ひょうぶしょうゆうむねかつ)と綱宗の庶兄田村右京宗良(うきょうむねよし)が』六十二『万石のうちからそれぞれ』三『万石を給され』、『後見人に指名された。初めは家老』(奉行)『が藩政を担当していたが』、次第に『宗勝が実権を握り、反対勢力を多数』、『処分した。その間、幼君亀千代に対する』毒殺未遂『事件が起こるなど』、『藩内は動揺しだした。宗勝は腹心を登用し』て『要職につけ、家老の権限を弱め』、『専制体制をとった。だが、伝統と門閥を重んじる他の重臣はこれを嫌悪し、宗勝は孤立していった。こうしたなかで、一門の伊達安芸宗重(あきむねしげ)』と『伊達式部宗倫(しきぶむねとも)』『との間に知行』『地の境界紛争が生じ』、『この紛争に対する藩の裁定を不公正とする伊達安芸はこれを幕府に訴え、宗勝の政治に対する積年の不満を晴らそうとした。幕府の審理は』寛文一一(一六七一)年二月に『開始された』が、三月三十七日、『大老酒井忠清(ただきよ)邸での審理が終わったころ、家老原田甲斐宗輔(かいむねすけ)が突然安芸に斬(き)り付け』て『即死させ、甲斐もまた』、『斬られ』、『その夜』、『死亡した。兵部ら関係者は他家御預けなど処分を受け、甲斐一家も切腹を命ぜられ断絶した。綱村の伊達』六十二『万石は確認され』、『後見も解除された』とある。

「浪人伊藤七十郎」陸奥仙台藩士伊東重孝(寛永一〇(一六三三)年~寛文八(一六六八)年)。「浪人」は誤りウィキの「伊東重孝」より引く。『伊達氏家臣・伊東理蔵重村の二男として仙台にて誕生』。『伊東氏は工藤祐経の二男・祐長を祖とする。祐長は勲功により鎌倉幕府から奥州安積』四十五『郡(現在の福島県郡山市)を賜わる。代々奥州安積を領し』、永享一一(一四三九)年『に伊達持宗の麾下に属した。また、重孝の祖父・伊東重信は、戦国時代に伊達政宗に仕え』、天正一六(一五八八)年『の郡山合戦において』、『政宗の身代わりとなって戦死している武功ある家柄であった』。『重孝は、儒学を仙台藩の内藤閑斎(以貫)、京都にて陽明学を熊沢蕃山、江戸にて兵学を小櫃与五右衛門と山鹿素行にそれぞれ学ぶ。一方で深草にて日蓮宗の僧・日政(元政上人)に国学を学び、文学にも通じていた。また、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節をたっとぶ直情実践の士であった。熊沢蕃山に学んだ陽明の知行合一の学風をよく受け継いでいたといえる』。『伊達氏仙台藩の寛文事件(伊達騒動)において、重孝は伊達家の安泰のために対立する一関藩主・伊達宗勝を討つことを伊東采女重門と謀ったが、事前に計画が漏れて捕縛された。重孝は入牢の日より絶食し、処刑の日が近づいたのを知るや』、『「人心惟危、道心惟微、惟精惟一、誠厥執中。古語云、身をば危すべし、志をば奪べからず。又云、殺べくして、恥しめべからず。又云、内に省てやましからず、是予が志也。食ヲ断テ、卅三日目ニ書之也 罪人重孝」と書いて小人組万右衛門に与えた』(漢文はほぼ「中庸」の一節。「人心、惟(こ)れ、危うく、道心(だうしん)、惟れ、微(び)なり。惟れ、精、惟れ、一(いつ)、[「誠」は重孝の衍字か。]允(まこと)に厥(そ)の中(ちう)を執れ」で、「人心は物欲に迷わされやすい危うさを持ち、真の道を学ばんとする道心も、これ、また、物欲に迷わされ、実際に発現し得るのは、ごくわずかなものに過ぎない。一心に精誠の道を求め、それを以ってしてその核心を捉えよ」といった意味である)。『これを書いた』四日後の寛文八(一六六八)年四月二十八日、『死罪を申し渡され、誓願寺河原にて処刑された。また一族は、御預け・切腹・流罪・追放となった』。『重孝の死により、世間は伊達宗勝の権力のあり方に注目し、また江戸においては、文武に優れ』、『気骨ある武士と評判の人物・重孝の処刑が』、『たちまち』、『評判となった。そのため』、『伊達宗勝の権力は陰りを見せていった。そして』、三年後の寛文十一年二月二十八日、『涌谷領主伊達宗重の上訴により』、『伊達宗勝一派の藩政専断による宿弊、不正、悪政が明るみとなり、宗勝や原田宗輔たち兵部一派が処分され』、『伊達家の安泰に及び、重孝の忠烈が称えられた』。延宝元(一六七三)年三月十八日には、『重孝の兄・重頼の子である伊東重良兄弟』三『人が流罪を赦され』、延宝三年五月、』伊達綱村の御世に伊東家は旧禄に復し』、『再興された』。『遺骸は阿弥陀寺(宮城県仙台市若林区新寺)に葬られたと伝えられ、のちに伊東家の菩提所である栽松院(仙台市若林区連坊)に伊東七十郎重孝の墓として祀られている。法名は鉄叟全機居士。また、当時の人々が重孝の供養のため』に『建立した「縛り地蔵尊」(仙台市青葉区米ヶ袋)は「人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる」と信仰され、願かけに縄で縛る習わしがあり、現在も毎年』七月二十三日と二十四日に『縛り地蔵尊のお祭りが行われている。さらに』昭和五(一九三〇)年には、『桃生郡北村(宮城県石巻市北村)に、重孝神社が創建され』、『その霊が祀られている』。『江戸幕府老中・板倉重矩の家老である池田新兵衛とは同門の学友であり、その縁で重孝は重矩に招かれて軍学を講じ、仕官をすすめられたこともあった』。また、『師の熊沢蕃山が題を出して和歌を詠ぜしめた時、重孝は即座に「心外無物 ちちの花も心の内に咲くものを知らで外ぞと思ふはかなし」「知行合一 写絵に芳野の花ははかるとも 行かでにほいを如何で知るべき」と詠んだ。この和歌を見た蕃山は、わが意を得たりと喜び、真に学士であると誉めたたえたという』。『重孝は処刑の際に、処刑役の万右衛門に「やい万右衛門、よく聞け、われ報国の忠を抱いて、罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神霊ありと知れ。三年のうちに癘鬼となって必ず兵部殿(宗勝)を亡すべし」と言った。そのためか』、『万右衛門の太刀は重孝の首を半分しか斬れず、重孝は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧み』、『「あわてるな、心を鎮めて斬られよ」と叱咤した。気を取り直した万右衛門は』二『度目の太刀で重孝の首を斬り落としたが、同時に重孝の体が果たして天を仰いだという。後に万右衛門は、重孝が清廉潔白な忠臣の士であったことを知り、大いに悔いて』、『阿弥陀寺の山門前に地蔵堂を建てて、重孝の霊を祀ったともいわれている』とある(下線やぶちゃん)。こちらの最期の話の方が、本怪異譚より遙かに凄絶で、且つ、激しく胸を打つものがある。

「九拾五里」三百七十三キロメートル。

「はがみ」「齒嚙み」。

「ざんせし」「讒せし」。

「寛文九年」一六六九年。伊東七十郎重孝斬罪の翌年。誤りではなく、彼の亡霊が死後一年のうちに讒言した者どもを、ことごとく、とり殺した、と読んでおく。]

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