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2017/10/31

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) あとがき 附 詩篇「誰と諍ふべきか」~全篇電子化完遂!

 

   あとがき

 

 本書は、謂はば傳統的ともいふべき『散文詩』Stikhotvoryeniye v proeye なる標題の下に、『散文詩』及ぴ『散文詩拾遺』の二つの部分を含ませたものである。この二つの部分の成り立ちに就いては、それぞれ異つた歷史がある。その第一部は、普通SENILIAと呼び慣はされてゐるもので、現在五十一篇を含んでゐる。これに、最近發見された第二部の三十一篇、また更に後段に述べる他の一篇を加へて、總計八十三篇が、現在知られてゐる「散文詩」の總数である。

[やぶちゃん注:Stikhotvoryeniye v proeye」本書の原題(ロシア語)「Стихотворение в прозе」のラテン文字転写。原語をカタカナ音写すると「シチハトヴァリエーニイ・フ・プロジェ」(прозеが「散文」の意)。]

 この SENILIA といふ別題の意味は「老いたる」、つまり「老いたる言葉」とも解すべきかと思ふが(事實、鷗外漁史は「月草」の中でこれに觸れて、「耄語」として居られる)[やぶちゃん注:「月草」は明二九(一八九六)年春陽堂刊の森鷗外の評論・随筆集であるが、この言及部分は現在、私には確認し得ない。当該書は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める。発見し次第、追記する。]、これはまた原稿發送の包紙の上に、作者がおそらくふとした自嘲、または嗟嘆の気持で記した文字であつて、果して彼がどこまでこの題名に執着があつたかは疑問である。ここではただ美しい傍題と解して置いた。「散文詩」といふ呼名こそトゥルダーネフがこの種の作品に冠すべく意圖したもので、明かにボードレールの Petits poèmes en prose あたりの暗示から来てゐるが、ロシヤ文學にも元來この傳統はあつたのである。その最も著名でもあり、同時にロシヤに於ける散文詩のプロトティプとも看倣されるのはゴーゴリが『死せる魂』の第一部の終段に持出した、あの象徴的な「ロシヤのトロイカ」の數行であらう。トゥルゲーネフの長短の小説になると、殊にこの種の象徴的な觀照を寓した個所が多かつた。例へば旱く一八五七年に書かれた短篇『森林地帶の旅』 Poezdka v Polesie [やぶちゃん注:原題「Поездка в Полесье」。但し、現行ではラテン文字転写は「Poezdka v Polesyeである。]の中で、ふと梢の先にとまつた蜻蛉を見る條に――

[やぶちゃん注:以下、引用は底本では全体が二字下げでポイント落ち。前後を一行空けた。これ以降も同じであるが、この注は略す。]

 

 ……長いあひだ、一時間あまりも、私は眼を離さずにそれを見つめてゐた。總身を日の光に透き徹らせ、蜻蛉はじつと動かずに、ただ時々首を左右に𢌞し、薄翅を上げて顫はせた。……それだけである。その姿を見てゐるうちに、私には急に自然界の生活の意味――少しの疑を挾む餘地もない程明瞭でありながら、多くの人々にはまだ隱されてゐる意味が、解るやうに思はれた。靜かに緩やかな生氣、感覺と生命力の悠々として逼らぬ營み、個々の生き物に籠る健康さの危ふげのない平衡感……これこそ、自然界の生活の礎をなすものなのだ。その不易の法則であり、その依つて立ち、且つ維持される基なのだ。……

 

 と言ひ、また『その前夜』 nakanune [やぶちゃん注:原題は「Накануне」。]――の終を結ぶところに、

 

 人生はなんと早く過ぎてしまつたのだ。死はなんと間近に迫つて來たのだ。死は、魚を捕へた網を暫く水の中に放つて置く漁夫に似てゐる。魚はまだ泳いでゐる。だが綱が既にその身を圍んでゐる。そして漁夫は、いりでも攫み出せるのだ。

 

 とある風な觀照は、彼の作の隨所に散見して、當時彼が祭り込まれてゐた所謂リアリズムなる稱號とは何かしら別な、時に瞑想的、時に優雅、時に田園詩風な趣を與へてゐたものである。ここに收錄された八十二の散文詩も形式の上から見るとき、亦このやうな觀照なり印象なりを個々に獨立させたものと見ることができる。その或るものは、後により展開させ發展させて、小説の題材乃至はその一節に使ふ氣持もあつたと思へるが(『めぐりあひ』の註參照)、身近に迫る死の意識が彼にこの意圖を抛棄させて、その形のままの發表を決心させたのでもあつたらう。從つてまた見逃せぬことは、そこに痛々しい老年の歌が盛られてゐることである。

[やぶちゃん注:「『めぐりあひ』の註」こちら。]

 いま「散文詩」に就いて語るとき、特に強調して置きたいのは、それが決して、作者の秩序ある詩想に貫かれら一卷の詩集ではないことである。上田博士の『みをつくし』以來、わが國の讀書界は殆ど自らの傳統のやうにして、この「散文詩」のすぐれた飜譯に豊富であつた一方には、或ひは小説家トゥルゲーネフの「すさび」として、その美しさや優しさなどが強調され、或ひは文書學の一種の軌範として珍重され、何かの意圖された統一が強ひられ、その故に不當の讚仰を呼び、また不當の貶黜や冷遇を招いて來はしなかつたか。何かそこにないものを幻想し、あるものからは知らず識らず眼を外らしがちではなかつたであらうか。……再び言ふ、ここに盛られてゐるのは、痛々しい老年の歌である。その歌聲は落着きある統一的なものとよりは、著しく分裂的である。その光は生命の中心に向つて聚一的であるとよりは、寧ろ深まりゆく生命の中心から逆に放射しがちである。そしてこの放射光のうちに、まざまざと私達の眼前に浮び上るものは、トゥルゲーネフの謂はば「裸にされた魂」の姿である。

[やぶちゃん注:「上田博士の『みをつくし』」明治三四(一九〇一)年文友館刊上田敏の訳詩集。ツルゲーネフの本「散文詩」中の「田舍世界」以下、「戰はむ哉」の全十篇の訳を収録する。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める。なお、上田は翌年の『明星』に「一僧」「あすは、明日は」「露西亞の言葉」三篇も訳出しており、現在、これらは岩波文庫の「上田敏全訳詩集」で読める。これら十三篇は近い将来、電子化する。]

 この意味から、『散文詩』は爭ひ難い明瞭な危機の産物であつて、決して澄みかへつた老成の心境が生んだものではない。だからこそこれは、その眞摯さ、率直さ、力強さに依つて、あの『獵人記』 Zapiski okhotnika と照應しつつトウルゲーネフの二つの代表作を形成するものと言へる。『獵人記』が正の方向への出發であつたとすれば、『散文詩』は明かに負の方向への出發であり動搖であつた。その響きは正しく悲劇的である。それを否定することはできないが、然しこれとて、屢〻謬られるやうに、絶望や締觀の響と見ることは到底できない。事實は寧ろ正反對であつて、そこに夥しい數を占めて、常々ある程度の貴族的な衿持を彼に見慣れて來た私達を驚かすのは、何より先づ苛立たしい刺笑(『好敵手』、「ふた兒』)ではあるまいか。これが更に一步を進めて、殆ど粗々しくまた子供つぽい毒舌(『阿房』、『スフインクス』)・となつて、衰へてゆく生命の激しい反撥の力を示す反面に、靜かな肯定的の沈潜を見せて母國の自然、その力に對する信念(『村』、『ロシヤ語』)ともなり、轉じて人間生活への溫い讚美の歌(『乞食』、『マーシャ』、『ほどこし』)に、更には愛に懸ける深い信賴(『雀』、『二兄弟』、『航海』)ともなる。その單調なあらはれを透しても、トゥルゲーネフの内心悲劇の複雜性、その單なる絶望諦觀の境との乖離の度合を彷徨し得るのであるが、更に致命的な悲劇は、生きようとする者の欲望を蹂躙り、その欲望が強けれぱ強いだけ執拗に身近に迫る肉體の死の氣配(『老婆』、『犬』、『砂時計』)、またそれに伴ふ精神の深いおびえ(『獨り居のとき』)にある。好んで『夢』の形式で物語られるこの最後の主題は、恐らく全篇を通じての最も印象強いものであり、更にこれは、意外なほどに生々しい血を滴らす老年の滿たされぬ愛の懺悔――苦澁な執着の告白(『薔薇』、『岩』、『めぐりあひ』)で彩られる。時に生の途に起き上らうとする老人の激發的な努力(『なほも闘ふ』)によつて、愈々研ぎ澄まされるこれらの悲劇は、その奥底に於いてなんの絶望的な要素をも擔つてはゐるものではない。寧ろ、絶望諦觀の境に堕し得ぬ、また堕する事を欲せぬ人の必死の苦鬪の、餘りにも歷々たる表出に過ぎない。

[やぶちゃん注:「『獵人記』「狩人日記」(Zapiski okhotnika私も「散文詩」とともに偏愛する作品。私はちらで中山中山省三郎氏の訳他(タイトル十二篇十五種)を公開している。]

 つまりトゥルゲーネフの『散文詩』は叙上の幾つかの主要な分光に自ら分裂しつつ、更にそれが内心外界の樣々な印象觀照を衝いて、無數の散光となつて相交錯する所に捉へられた生命の危機の歌であつて、決して死の歌ではないのだ。もし單に後者であつたとすれば、その刃發表後既に五十年を經た今日、果して幾何の命脈を保ち得たであらうか。事實、絶望乃至諦觀の歌と目すべきもの(『老人』、『私は憐れむ』)は、極めて小さい部分を占めてゐるに過ぎないのである。要約的に言へば彼の悲劇は、生命の深い力を内藏し、生きようとする嚴しい熱意と誠實に燃えながら感じ、觀照し、思想しつつ、しかも肉體の力に裏切られ、死の急湍に押流されてゆく所に胚胎してゐる。觀念の悲劇の前を肉體の悲劇がすり拔けて走つてゐる點に懸つてゐる。

[やぶちゃん注:以下、底本は一行空けであるが、引用の前後と区別するために二行空けた。]

 

 

 所謂“SENILIA”五十一篇が發表された契機は、頗る偶然的なものであつた。それは一八八二年の夏、彼の死の一年ほど前に、雜誌『ヨーロツパ報知』 Vestnik Europy[やぶちゃん注:原語「Вестника Европы」。]の主幹スタシュレーヴィチ(M.  M.  Stasjulevich)[やぶちゃん注:Стасюлевич Михаил Матвеевич(一八二六年~一九一一年)。がトゥルゲーネフを巴里に訪問した折、偶然その幾枚かの草稿が、「いはば畫家が大作に役立てる爲にするヱスキース、エチュードのやうなもの」といふ前置きつきで、彼の前に積み上げられたことを機緣としてゐる。しかし既に大作を企てる氣力のなかつた彼は、その死後の發表をスタシュレーヴィチに托さうとしたが、終にその熱心な勸めを容れて、五十篇を選んで發表を諾したものである。殘る一篇はすなはち『しきゐ』であつて、それの數奇な運命に就いては『註』に記して置いたから此處では言はない[やぶちゃん注:こちら。]。かうしてこれらの詩篇は、同年十二月の『ヨーロッパ報知』に、次のやうな編輯者の言を附して發表された。――

 イヴァン・セルゲーヴィチ・トゥルゲーネフは吾々の請を容れて、最近五ケ年間に於けるその個人的また社會的生活に得られたあれこれの印象のままを紙片に記しとどめられた折節の觀察、思念、心像などを、いま直ちに本誌の讀者に分たれることになつた。それは孰れも、他の數多の斷片と同じく、既に公にされた完成作中に收容されなかつたものであつて、別に一集を形作りてゐる。作者は今の所、その中から五十の斷片を選ばれた。

 原稿に添へて本誌に寄せられた書簡の末段に、トゥルゲーネフは次のことを述べてをられる。――

 

 『讀者よ、この散文詩を[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]、一息には讀み給ふな。一息に讀めば恐らくは退屈して、この書は空しく君の手を落ちよう。今日はこれ、明日はあれと、氣の向くままに讀み給へ。そのとき、中の何れかは、ふと君の心に觸れるかも知れぬ。……』

 原稿には題が附せられてゐない。作者は包紙の上に SENILIA――老人の語、と記されたが、吾々は作者が前掲の書簡の中にふと漏された『散文詩』なる言葉の法を選び取つて總題とした。吾々の見る所ではこの標題は、人生の諸問題に對する敏感と多樣さとを以て鳴る作者の魂に、この種の觀察を齎した源泉を十分に表現してゐると同時に、讀者の「心に觸れて」喚び起すべき感銘の豐富さをも、よく表出してゐるものと思はれる。(下略)

 

 すなはち、ここに明かに語られてゐる如く、それはトゥルゲネフが草稿として持つてゐた散文詩の全部ではないのであつて、五十篇の抄出に當つては「私生活に渉るものは嚴格に除外」(同年九月ポロンスキイ宛の手紙)された。また彼は、「私的なもの、自傳的なものは、私の日記と共に破毀さるべきものであるから、悉く除外した」(同年十二月グレゴローヴィチ宛の手紙)と言つてゐるが、除外された散文詩の運命がどんなものであつたか、又その幾つが破毀されずに、後に發見された三十一篇の中に殘つたかは、全く推測を許さない。とまれ、トゥルゲーネフと親しかつた女優サーヴィナM. G.  Savina)[やぶちゃん注:Ма́рья Гаври́ловна Са́вина (一八五四年~一九一五年)。]が、一八八一年の夏、彼の郷里スパスコエに客となつたたきの囘想などは、その幾篇かが燒却されたことを明かに物語つてゐる。以下はサーヴィナの囘想をベリャーエフといふ人が綴つたものである。――

 

 それは一八八一年に、サーヴィナか夏のあひだ客になつたスパスコエ・ルトヴィノヴォでのことである。暑い一日が終つて凉しくなると、トゥルゲーネフは自分の部屋からバルコンに出て來て、彼女に言ふのだつた、「さあ、懺悔を伺ひませう。」

 懺悔といふのは二人の間の通り言葉で、サーヴィナはその時になると、本當に坊さんの前で懺悔でもする樣子になつて、それが夜更けまで續くことも珍しくなかつた。暗い庭の後から大空に浮び出た三日月にも、池の方から吹寄せて來る濕氣にも、もう大分前から部屋にはいつて、しゆんしゆん鳴つてゐるサモワルに向ふべき時が來ていゐるのにも氣づかず、一心に語りつづけるこのロシヤ女優の物語に、トゥルゲーフは半ば眼を閉ぢて、變らぬ微笑を湛へながら聽入つた。

 或る晩、やはりこのやうな長い、心からの告白のあとで、トゥルゲーネフはひどく心を動かされた見え、急に立上るとサーヴィナの手を取つて言つた、『書齊へ行きませう。これまで誰の前でも讀んだことのないものを、貴女に讀んで上げたい。……』

 書齊にはいると、トゥルゲーネフは書卓の抽斗から一册の手帳を出して、サーヴィナを肘懸椅子に掛けさせて言つた、「これは私の散文詩です。ただ一つ、決して發表はしないことにしてゐるのを除けば、あとは皆スタシュレーヴィチに送つてやりました。(勿論これはサーヴィナの記憶の誤であるが)……』

 『散文詩つて、なんでせう』とサーヴィナは好奇の眼を上げた。

 『今それを讀んで上げます。本當は散文なんかぢやないのですよ。……これは本當の詩で、『彼女に』といふ題です。」

 さう言て、感動に顫へる聲で、彼はこの陰氣なエレジイ風の「人に寄せる歌」を讀み上げた。

 「今でも覺えてゐます」とサーヴィナは語る、「その詩には、思ひの通はぬ戀が描いてありました。一生のあひだの長い長い戀が。……『御身は私の花をみな摘み取つた』と書いてありました、『だのに私の墓を訪れもしない。』……」

 朗讀が濟むと、トゥルゲーネフは暫く默つてゐた。

 「この詩はどうなさるの」と、サーヴィナは堪らなくなつて聞いた。

 「燒いてしまふのです。……とても發表はできません。だつてこれは非難、墓場からの非難ですから。そんなことはできない。とてもできない。」

 

 これはただ一つの詩に關する運命ではなく、そのほかにも空しく火中へ投ぜられた詩篇は、或ひはかなりの數に上つてゐるであらう。このやうな運命とは別に、偶然に湮滅を免れた詩が一つあつて、もしこれを算入するなら、『散文詩』(SENILIA の部分)は五十二篇になる譯である。――

[やぶちゃん注:以下は全体が一字下げとなっているが、無視した。この後は一行空けとなっているので、前後を二行空けた。]

 

 

  誰と諍ふべきか

 

――自分よりも賢い人と諍へ。彼は君を負かすだらう。だが君の敗北から、君は自らの利益を抽き出せる。

――賢さの同じ人と諍へ。よし孰れが勝たうとも、君は少くも鬪ひの悦びを味ふ。

――賢さの劣れる人と諍へ。勝利をめあてでなしに諍へ。とにかく君は、彼の利益になつてやれる。

――愚人とさへも諍へ。名譽も利益も手にはいらぬが、人は時に、嬉戲すベきではないか。

――ただ、ヴラヂーミル・スターソフとだけは諍ふな。

             一八七八年六月

 

 

 これは一八八二年十月、スタシュレーヴィチ宛の私信の中に、「君の一笑を買はんがために」と前置きして記されたものであるが、其後一八八八年になつて、これがスターソフ自身の手で發表された所を見ると、或ひは彼の許にも送られてゐたのかも知れない。このスターソフV. V.  Stasov,  1824―1906)といふのは、美術音樂の著名な批評家で、トゥルゲーネフとは交友の殘からぬ人であつた。

[やぶちゃん注:「ヴラヂーミル・スターソフ」はロシアの芸術評論家ウラディーミル・ヴァシーリエヴィチ・スターソフВлади́мир Васи́льевич Ста́сов:ラテン文字転写:Vladimir Vasilievich Stasov)。ィキウラディーミル・スターソフによれば、存命中は、恐らくロシアで最も尊敬される批評家であったという。ツルゲーネフは一八一八年生まれであるから、彼より六歳年上であった。因みにツルゲーネフは一八八三年九月三日に六十四歳で没している。]

 『散文詩拾遺』と題した三十一篇は、巴里のヴィアルドオ家の書庫で最近見された草稿の中にあつた八十三篇の散文詩から、前述の五十二篇を引去つた殘りである。もともとトゥルゲーネフは、『ヨーロッパ報知』に第一囘分の五十篇を發表したのち、もし反響が好まましかつたなら、更に五十篇を選んで發表する豫定であつた。この素志は遂に果されなかつたが、新に發見された三十一篇は、二三の所謂「私的なもの」の混入してゐるのを除けば、殆どみな第二次の發表に充てらるべきものだつたことは疑ひを容れない。この部分はコレージュ・ド・フランスの André Mazon  教授の手で校訂され、『新散文詩』と題して  Charles Salomon  の佛譯とともに一九三〇年巴里で限定出版された。

 以上のやうな成立ちを有する「散文詩」は、従つて異本に富んでゐる。更にトゥルゲーネフ自身が發表の後に屢〻草稿に手を入れた個所を考へに入れると、いづれを正本とすべきかは、かなり迷はされる問題である。この譯者の底本にはレニンラード“ACADEMIA”版(一九三一年)を用ひた。

 

                  譯者

 

[やぶちゃん注:「ヴィアルドオ」既注であるが、再掲しておくと、ツルゲーネフのパトロンであった評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドー Louis Viardot(一八〇〇年~一八八三年)。彼の妻で、著名なオペラ歌手であり、そうして、実はツルゲーネフの「思い人」でもあったのが、ルイーズ・ポーリーヌ・マリー・ヘンリッテ=ヴィアルドー Louise Pauline Marie Héritte-Viardot(一八二一年~一九一〇年:ツルゲーネフより三歳歳下)であった。

「コレージュ・ド・フランス」(Collège de France)はフランスに於ける学問・教育の頂点に位置する国立の特別高等教育機関。

André Mazon」(一八八一年~一九六七年)はロシア語・ロシア文学者。

Charles Salomon」(一八六二年~一九三六年)。フランス語サイトを見る限りでは、本業は医師のようである。

 この後が奥附となるが、省略する。]

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