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2017/10/18

老媼茶話巻之三 如丹亡靈 / 老媼茶話巻之三~了

 

     如丹(じよたん)亡靈

 

 奧州會津大口(おほくち)村といふ所に大仙寺といふ山寺有(あり)。此寺に如丹(じよたん)といふ美僧、住居(すまゐ)せり。此僧、元、しら川の武士、男色のことにて人を打(うち)、十六の年、出家し、當年貳拾三に成(なる)と、いへり。

 其頃、曹洞宗の學僧多き中に、文志・愚學・如丹、此三僧也。文志は金山谷(かなやまだに)板(いた)おろし村龍谷寺に住し、愚學は五目組(ごめぐみ)慈現寺(じげんじ)の住呂(ヂウりよ)。如丹は此寺に住せり。

 此村に庄右衞門といふ百姓の娘に「まき」といふ美女あり。如丹、究(きはめ)て美僧なりしかば、まき、深く思ひ込(こみ)、人目を包(つつ)み、月日を送れり。

 大仙寺の庭に、梅・桃、多(おほく)植(うえ)て、數をつらね、花開落の後(のち)、實を結ぶ。

 夏の初(はじめ)より、まき、來り、寺の軒端に彳(たたずみ)て、もの思(おもふ)氣色(けしき)有(ある)に似たり。

 ある時、又、女、來り、礫(つぶて)を以て桃を落(おとす)。

 如丹、戸をひらき、女をしかりて、

「いとけなき童は桃を落すも是非なし、汝、いくつの年にて、いたづらをするぞ。桃も未(いまだ)、熟すまじ。重(かさね)て來たらんは、くせ事たるべし。」

といふ。女、笑(わらひ)て、

「桃に色々有(あり)、山桃・さ桃・姫桃。」

と云(いひ)て、目に情をよせ、戲(たまむれ)て、梅子(ばいし)をなげて如丹に打(うつ)。

 如丹、女のけしきをみて、心有(こころある)事を知り、戸をとぢて、取(とり)あわず。

 或(ある)五月雨(さみだれ)の夕(ゆふべ)、小夜更(さよふけ)て、如丹が寢屋の戸をたゝく。

「誰(たそ)。」

といへば、音なく答へねば、また、たゝく。

 如丹、止事(やむごと)なく、戸をひらけば、女、急ぎ、内いる。

 如丹、驚(おどろき)て、

「汝、何(なん)とて、夜、來(きた)る。」

女の曰(いはく)、

「日頃、御僧の我を匂引し玉ふ、其心有(そのこころある)を知(しり)て、今宵、爰(ここ)に來れり。」[やぶちゃん注:「匂引」は注で考証する。]

 如丹、女を押出(おしいだ)し、

「佛邪婬(ぶつじやいん)の、いましむ。汝、我(わが)爲の外道(げだう)なり。早々家に歸れ。」

女、聞(きき)て、

「我、爰に來る事、覺悟なきにあらず。僧、かたく情(なさけ)をいどまば、爰に死(しし)て、二度(ふたたび)、家に歸らじ。さのみ、こと葉(ば)をついやすべからず。もし、壱度(ひとたび)同床に枕をならべば、此(これ)已後、二度(ふたたび)情(なさけ)をしとふまじ。」

 如丹、是非なく、其夜は、かの心に隨ふ。

 女、悦(よろこび)て日頃の心ざしをとげ、曉、家に歸りぬ。

 是より、如丹、行義、大きに亂れて破戒の僧と成(なる)。

 此事、度重(たびかさなり)て、如丹が噂、村に沙汰有り。

 或時、秋の頃、時雨ふりける夕べ、村の若きものども、

「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、寺へ行(ゆき)、遊ぶべし。」

とて、打連(うちつれ)、行(ゆき)けるに、寺のはゐり口に、雨にぬれたる女足駄(をんなあしだ)有(あり)けるを、かたがたは、如丹が寢屋へ打込(うちこみ)、かたがたは手にさげ、持歸(もちかへ)り、女の親に見せけるに、まさか、父庄右衞門、是を見て、大きにいかり、娘を呼(よび)て強(つよく)いましめ、

「己(おのれ)、奸僧(かんそう)の爲にたぶらかされて、生涯をあやまる、と、きけり。以來、かたく愼(つつしみ)て、女の行義を亂すべからず。もし、又、心あらたむる事ならずは、此弐品を以て心の儘に死を定むべし。」

と云(いひ)て、細繩(ほそなは)壱筋・剃刀(かみそり)一刃(いちぢん)をあたへ、一室に押入(おしいれ)、外より堅く戸をとぢ、湯水を絶(たた)す事、一日、庄右衞門妻、是を見て、悲み泣(なき)て、

「我娘、終日食(シヨク)せず、きかつ、忍びかたかるべし。邪見の親、何(なん)とて斯(かく)情(なさけ)なき。是、皆、人の空言(そらごと)なり。何ぞ、さのみつらくあたるべきや。」

といふて、食事を調へ、扉を開き見るに、娘は、みづから、首を〆(しめ)て倒れ居(をり)たり。

 母、大きに驚き、聲を上(あげ)て、近所の者を呼立(よびたつ)る。

 皆人(みなひと)、集り來りて是を見るに、死(しし)て程經(ほどへ)たりとみへて、身體、ひえかへり、又、生(いく)べき能(よき)手立(てだて)なし。

 女、既に死して後、彌(いよいよ)此事止むべからずして、如丹が不義、上(かみ)へ聞(きこ)へ、此(この)故に、如丹、犯戒(ぼんかい)の掟(おきて)のがれずして、邪婬の罪、悉(ことごと)く禁札に書顯(かきあらは)し、如丹をいましめて、傳馬(てんま)にしばり付(つけ)、辻々町々、引晒(ひきさら)し、藥師川原にて、はつつけに懸(かけ)らるゝ。

 如丹、最後にいはく、

「我、壱度(ひとたび)釋門に入(いり)て三衣(さんえ)を着し、一寺の住呂と成(なり)、今、破戒の刑に行はるゝ。是、過去宿惡の報ひなり。大仙寺有らん限りは我(わが)惡名をそしるべし。是、我一念の留(とどま)る所也。」

と、いへり。

 誠に最期の忘念や、此寺に、とゞまりけん、此(これ)以後、大仙寺の住持、若(もし)、如丹が噂かたり出せば、必(かならず)、妖怪有(あり)、といへり。

 事を好む者有(あり)て、かの寺へ尋行(たづねゆき)、住寺に逢(あひ)て此よしを聞(きく)に、住寺、答(こたへ)て、

「此事、誠に在(あり)候。今宵、此寺に留(とどま)りて其怪敷(あやしき)を見給へ。」

といふ。

 既に日も暮過(くれすぎ)て、夜、三更に及(および)て佛壇の方に、若き男女の聲にて、かなしみ歎く音(こゑ)、有(あり)て、いつくしき僧の、年頃、廿四五斗(ばかり)成が、十六、七の、女の首を、いだき、此者の枕本(まくらもと)に來り、立居たり。

 程有(ほどあり)て、庭の方より、靑き玉の光、渡り、草村(くさむら)を、こけありき、首もなき女のむくろ、手に細引(ほそびき)をさげ、いづくともなく、走り來り。

 件(くだん)の男、此妖怪を見て、曉を待得(まちえ)ず、早々、我宿へにげ歸(かへり)ぬと、いへり。

 材木町秀長寺の卓門(たくもん)和尚、正德三年の秋九月の末、大仙寺無住の折、僧衆弐、三人、大仙寺尋行(たづねゆき)て、一夜(ひとよ)、とまりし。

 暮より、雨ふりいだし、いとゞだに住僧もなき古寺の淋しさに、各各(おのおの)いろりへ立寄(たちより)、柴(しば)折(おり)くべて、茶を煮て、如丹が噂物語せし折、佛壇のかたより、弐拾弐三のうつくしき僧、ぬり笠をかぶり、手にぬり鉢をさゝげ、杖をつき、暫く座中をあるき𢌞りて、消(きえ)ては、又、顯(あらは)れ、あらはれては消(きゆ)。終夜、迷ひあるきしを、卓門和尚、見たる、との物語なり。

 

 

老媼茶話三終

 

[やぶちゃん注:「奧州會津大口(おほくち)村」不詳。識者の御教授を乞う。底本に『おおくち』とルビする以上、編者は判っているものと思われるのだが。

「しら川」白河藩。陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した。

「大仙寺」不詳。識者の御教授を乞う。現存すれば、大口村の位置も判るのだが。

「如丹」不詳。並称された秀でた曹洞宗の学僧とする「文志」「愚學」も不詳。

「金山谷(かなやまだに)板(いた)おろし村」「金山谷」は現在の福島県大沼郡金山町であるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、「板おろし村」は不詳。金山町内に現在、「玉梨新板」という地名ならば、確認出来る。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「龍谷寺」不詳。現存しない模様。

「五目組(ごめぐみ)慈現寺(じげんじ)」現在の福島県喜多方市のこの中央付近一帯の広域地名と推定される(グーグル・マップ・データ)。根拠はこちら(陸奥国耶麻郡之十一の五目組地理図。但し、上が東なので注意)。現在の複数の地名・河川名がこの旧地図とよく一致する

「住呂(ヂウりよ)」「住侶」。但し、歴史的仮名遣「ぢゆうりよ」が正しい。

「人目を包(つつ)み」人目を避けて、というより、ここはまだ、如丹へのモーション以前であるから、彼に恋い焦がれていることをおくびにも出さず、人に察せられぬように気を遣って、の意。

「くせ事」道義にもちるゆゆしき事。

「桃」バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica

「山桃」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra

「さ桃」「早桃」で早生の桃の古名、或いは現行ではバラ科スモモ亜科スモモ属スモモ Prunus salicina の一品種の名ともなっているが、前者でよい。

「姫桃」矢張り、現行では早生の桃の名としてあるようである。「まき」は自分が山家の田舎娘で未だ男を知らぬこと、しかし、今、熟れかけている確かな女性(にょしょう)であることをこの三種の表現で示そうとしている。

「情」「じやう」或いは「おもひ」。

「匂引し玉ふ」「匂」はママ。牽強付会すれば、美僧の男性フェロモンが娘に影響して彼女の方から惹かれて彼のところにやってきたの意として、「にほひびき」とでもやってみたくはなるところだが、どうもそんな熟語も読みも知らぬ。これは思うに、「勾引」の誤字(或いは底本編者に失礼乍ら、誤判読)ではあるまいか? さすれば、その美貌のあたなが、あなたの意志とは無関係に、私の心を常日頃から無理矢理にあなたのtころへ連れ去らせる、「勾引(かどわか)し給ふ」と読めるからである。

「其心有(そのこころある)を知(しり)て」如丹もまんざらではない、私に惹かれていることを知って。無論、「まき」の思い切った誘惑(モーション)に過ぎないが、結局、効果を発揮することにはなる。

「いどまば」抗って拒否するというのであれば。

「しとふ」「慕ふ」。

「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、寺へ行(ゆき)、遊ぶべし。」底本では「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、」の部分を字の文とし、直接話法は『寺へ行遊ぶへし』のみ。従がえない。

「はゐり口」「入り口(ぐち)」。

「かたがたは」ある者たちは。

「手にさげ」女足駄を。

「きかつ」「飢渇」。

「邪見」ここは、厳しさを越えて惨たらしい点に於いて仏教的に正しくない考えの意。

「是、皆、人の空言(そらごと)なり」純真無垢の処女の少女であってほしいと思う母親の誤った悲しい好意的理解。

「傳馬」本来は逓送用の馬。江戸時代は主要幹線路の宿駅ごとに一定数を常備させて公用にあてた。公の仕置き(処罰)であるから、伝馬を使うのは腑に落ちる。

「藥師川原」既出既注

「三衣(さんえ)」「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に袈裟で、正規の僧(彼は一寺の住持となっている)として認められたことを指す。

「大仙寺有らん限りは我(わが)惡名をそしるべし。是、我一念の留(とどま)る所也」なかなか難しい。「大仙寺が続く限りは、我が悪名を常に謗るべき恥ずべきものとして、憎み、その穢(けが)れ故に、決して口に出すことなかれ! 我れのような破戒僧のあったことをおくびにも出すな! 何故なら、我れの堕地獄の恨みの一念は、この寺にずっと留まり続けるからである!」というの意味で採っておく。そうしないと、後の怪異を上手く説明出来ないからである。

「草村(くさむら)」「草叢」。

「こけありき」「轉(こ)け步き」。

「むくろ」「骸(むくろ)」。

「材木町」現在の福島県会津若松市材木町(ざいもくまち)内。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「材木町(会津若松市)によれば、『材木町は』慶長一五(一六一〇)年、『それまで集中して米代の西、城郭内にあった木材売買関連の商家が移って成立したとされる』。『河原町の西から南方向に続く町で、会津藩により治められていた江戸時代においては若松城下のうち城郭外西部に位置する』五『間の通りであった。また、当時の材木町周辺は、湯川などの洪水によりたびたび被害を被っており、家屋が流されることがあったほか、町割が改めて行われることもあったとされる』とある。

「秀長寺」曹洞宗龍雲山秀長寺。現存。(グーグル・マップ・データ)。

「卓門和尚」不詳。

「正德三年」一七一三年。第七代将軍徳川家継の治世。]

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