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2017/10/12

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ヴレーフスカヤ夫人を記念して


Sinobite

   ヴレーフスカヤ夫人を記念して

 

 荒れ果てて見る影もないブルガリヤの一寒村。朽ち歪む納屋は急場を凌ぐ野戰病院と變り、その檐端の土にまみれて彼女は、チフスのために二週間あまりも、じめじめと惡臭のする藁を死の床としてゐた。

 已意識を失つた彼女に、義理にも眼を呉れる軍醫は一人も無かつた。彼女にまだ立上る氣力のあつた間、その苦しい内にも心からの看護を受けた病卒たちは、今に燒けつく彼女の唇を濕ほさうと瓶の破片(かけら)に數滴の水を受けては、代る代るに疫病の床を這ひ出た。

 若く美しい彼女の名は、上流の人々の間にも聞え、時めく大官の噂話にも上つてゐた。世の婦人は嫉み、男子は爭つてその裳を追つた。中に幾人かは、ひそかに深い戀情を寄せた。生は彼女に微笑みかけた。が、しかし、微笑は時として淚に如かぬ。

 優しい穩やかな心よ。しかもその裡には、何といふ力強さ、何といふ烈しい犧牲心の燃えてゐたことぞ。助を求める人々への合力。――そのほかには、何の幸福も知らなかつた。知りもせず、求めもしなかつた。ほかの幸福は一顧もせずに、久しい以前から唯これにのみ心を潜めてゐた。滅却しがたい信仰の火に全身全靈を燃やして、隣人への奉仕に自らの身を捧げた。

 その魂の深み、心の奥底に、そんな秘寶が秘められてゐたのか。唯一人それを窺ひ得たものはなく、また今となつては固より、窺ひ知る術もない。

 また、何で知ることが要らうか。犧牲は果され、業(わざ)は畢つた。

 それにせよ、その屍に向つてすら、何人の感謝も捧げられなかつたことを思ふとき、この胸は張裂ける。よし彼女が、感謝の言葉などは見向きもせずに、頰を染めて押返したであらうとも。……

 ねがはくは優しき幽魂、敢へて御身の奧津城に捧げなす遲ればせのこの花を、ふかく咎めたまふな。

             一八七八年九月

 

[やぶちゃん注:訳者註。〔 〕は一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」の注を参照して、私が脱字と断じ、挿入した。

   *

『ヴレーフスカヤ夫人をしのんで』 原稿には單に『ユ・ぺ・ヴェをしのんで』とあつて、發表の際にも遠慮して名は伏せられた儘であった。すなはちこの一篇は、男爵夫人ユリヤ・ペトローヴナ・ヴレーフスカヤ(J. P. Vrevskaja, 1841―1878)の思出に捧げられたもの。早く夫と死別した夫人は、一八七七年の夏折柄の露土戰爭に慈善看護婦を志願して戰地におもむき、翌七八年舊一月の末、ブルガリヤで病死した。トゥルゲーネフ〔は〕夫人と親しく、彼の氣持は次の手紙からも明らかである。――「お眼にかかってからといふもの、あなたが心から親しいお友達と思へてなりません。それに貴女と御一緒に暮したい氣持が、拂つても拂つても消えないのです。とは申せわたしのこの願ひは、思ひきつて貴女のお手を求めるほどに抑制のないものではありませんでしたし(さう、わたしももう若くはないし――)、その他にも色々なことが妨げになりました。そのうへ貴女が、フランス人の言ふ une passade(出來心)に心を許される方ではないことも、私はよくよく承知してゐましたから。」(一八七七年二月七日附)二人が最後に會つたのは、その年の夏にトゥルゲーネフが歸國した時で、すでに夫人が慈善看護婦を志願した後であつた。ちなみにこの作の日附も、從來四月と誤讀されてゐた。

   *

後の中山省三郎氏の註にも、『ツルゲーネフとは昵懇の間柄であつた。ツルゲーネフの郷里スパッスコエを訪れたり、互ひに文學を語つたりするほどであつた』とある。因みに、二人は、二十七歳違いで、この書簡の一八七七年当時で、ツルゲーネフは六十三、ヴレーフスカヤは三十六歳であった。

 

「濕ほさう」「うるほさう(うるおそう)」。]

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