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2017/11/04

柴田宵曲 續妖異博物館 「鰻」 附 小泉八雲“A Matter of Custom”原文及び田部隆次訳

 

 

 

 魚王行乞譚といふのは柳田國男氏の命名されたものであらう。見識らぬ人が來て殺生に關する異見をして歸る。途にその異見に從はず、釣りに出て獲た魚の腹を割くと、最前の客に供した食べ物が出て來たので、さてはこの魚が人に化けたのであつたかといふのが大體の型である。魚の種類は鰻が多いが、土地によつて岩魚になつてゐるのもあり、腹中から現れる食べ物も、蓼飯や采飯の外に團子などといふこともある。この人に化けた鰻なり岩魚なりは必ず大きなものなので、中には特にこれこれの大きな鰻があつたら殺すなと注意してゐるのもあるから、それを魚族の代表者と見て、魚王の名を與へられたものと思ふ。

[やぶちゃん注:「魚王行乞譚といふのは柳田國男氏の命名されたものであらう」柳田國男が昭和五(一九三〇)年一月に『改造』に発表した論文に「魚王行乞譚」がある。これは世年後の昭和九年六月小山書店から刊行した論集「一つ目小僧その他」に収録された。宵曲が柳田國男が本タイプの話群への「魚王行乞譚」の名付け親というのは、恐らくは正しいかと思われる。但し、「魚王行乞譚」は表題だけで、論文内にはこの名称は出ない。因みに「魚王行乞譚」について、平凡社の「世界大百科事典」では、魚が昔話や伝説の不可欠の構成要素とされているものに、助けた魚が女の姿となって女房になり幸運を与える(「魚女房」)、動物が尾で魚を釣ろうとして氷に閉じられしっぽを失う(「尻尾の釣り」)などがあり、魚を捕らえて帰る途中で怪しいことが起こり、復讐を受ける(「おとぼう淵」「よなたま」)といった「物言う魚」の伝説譚は、魚が水の霊の仮の姿であるという信仰があったことを物語っているとし、淵の魚をとりつくす毒流し漁を準備しているとき、それを戒める旅僧に食物を与えたところ、獲物の大魚の腹からその食物が現れ、漁に参加した者が祟りを受けたという話や、川魚どもの首領が人に姿を変えて現れて毒流しを準備する人々に中止を求めるも住民はそれを聴かず、食物を与えて帰す。いざ、毒流しで多くの魚を捕ってみると、その中の特に巨大な魚の腹から先に与えた食物が出てきたので、人々はこの行為を悔いたという話(毒のあることは知りながら、それを用いることを忌むために発生した説話と考えられる)などを特に「魚王行乞譚」と称し、以上のような水神=魚という古い信仰の流れの末に位置する説話である、とする。現在、私は「一つ目小僧その他」の電子化注行っているが、生憎、注に手間取るため、遅々として進まず、後、三章後である。当該部分の電子化注が終わったところで、改めて、ここにリンクを張る。]

 

 狂言の「釣狐」は伯父の白藏主(はくざうす)に化けて殺生を戒めに來る。狐はそのまゝ古家に歸らうとして、一應異見に從ふかに見えた甥の罠にかゝるのである。「釣狐」には饗應の食べ物がないから、後に腹を割いて確證を得るわけに往かず、罠にかゝつた狐を以て伯父に化けたものと斷定しがたいが、殺生を戒めに來た者が先づ捕はれる點は、ほゞ徑路を同じうしてゐる。もし狐族代表としてこの擧に出たものとすれば、「釣狐」の老狐が狐王といふことになるのであらう。

[やぶちゃん注:「釣狐」ウィキの「釣狐」より引く。『鷺流での名称は「吼噦(こんかい)」』で、『「猿に始まり、狐に終わる」という言葉があり、これは』「靭猿(うつぼざる)」(大名狂言。大名が太郎冠者を連れて狩りに出かける途中、猿引が連れている毛並みのよい猿を見て、「矢を携帯する靱(箙(えびら)に同じい)の皮にしたいから猿を譲れ」という。猿引が断ると、大名は弓矢で脅し、無理に承知させる。猿引が猿を殺そうと杖を振り上げると、無邪気な猿はその杖を取って、舟の櫓を漕ぐ真似をするので,憐れを催し、手が下(くだ)せない。大名も無心な猿の姿に心打たれ、命を助ける。猿引は喜んで猿歌を歌い、猿に舞わせる。大名も上機嫌で猿に戯れて舞う真似をし、扇・刀・衣服を褒美として与えるというストーリー。狂言師を目指す子弟は、この猿の役で、幼少時に初めて舞台に立つことで知られる)の『猿役で初舞台を踏んだ狂言師が』、この「釣狐」の『狐役を演じて初めて一人前として認められるという意味である』。『白蔵主の伝説』(原型の伝承では、南北朝の永徳元(一三八一)年に、和泉(現在の堺市堺区)にある(現存)臨済宗萬年山少林寺塔頭の、耕雲庵の住僧として実在した僧の法名とされる。ウィキの「白蔵主」を参照されたい)『を元に作られたとされており』、『多くの狂言師が、上演する際に白蔵主稲荷を祀る大阪府堺市の少林寺に參詣し、この稲荷の竹を頂いて小道具の杖として使っている』。シテが老狐、アドが猟師で、『猟師に一族をみな釣り取られた老狐が、猟師の伯父の白蔵主という僧に化けて猟師のもとへ行く。白蔵主は妖狐玉藻の前の伝説を用いて』、『狐の祟りの恐ろしさを説き、猟師に狐釣りをやめさせる。その帰路、猟師が捨てた狐釣りの罠の餌である鼠の油揚げを見つけ、遂にその誘惑に負けてしまい、化け衣装を脱ぎ身軽になって出直そうとする。それに気付いた猟師は罠を仕掛けて待ち受ける。本性を現して戻って来た狐が罠にかかるが、最後はなんとか罠を外して逃げていく』というストーリーである。]

 

「魚王行乞譚」に擧げられた話は「耳囊」が二つ、「想山著聞奇集」が二つ、「老媼茶話」が一つ、それに岩手縣に傳はつた話が「聽耳草紙」から一つ、すべて網羅されてゐるので、蛇足の加へやうがない。最後に支那の例として「廣古今五行記」及び「朝野僉載」の二話が「太平廣記」から引かれてゐるが、「廣古今五行記」のもう一つの例が洩れてゐる。似たやうなものではあるが、こゝに補足して置くことにしたい。

[やぶちゃん注:「魚王行乞譚」先の柳田國男の論文。

「耳囊」は私が古くに全電子化訳注を完遂している。「二つ」とあるが、これは「卷之八 鱣魚の怪の事」にカップリングしてあるものを指す。参照されたい。

「想山著聞奇集」も私が全電子化注を完遂している。これも「二つ」とあるが、こちらも「卷の參 イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」の最初の「イハナ坊主に化たる事」の中に書かれてある岩魚の変化(へんげ)の二例(後の鰻のケースではないので注意)を指す。参照されたい。

「老媼茶話」は現在、私が電子化注をしている最中であるが、幸いにも当該話は既に終わっている。「卷之弐 只見川毒流(どくながし)」である。参照されたい。

『「聽耳草紙」から一つ』「聽耳草紙」は柳田に師事し、「遠野物語」の提供者として知られる岩手遠野の、作家であり、在野の民俗学研究者でもあった佐々木喜善(実際には「遠野物語」は彼が採集したものを聴き取りしたのであって、柳田國男の作品とは言えないと私は考えている)の民話集。以下に引く。二話カップリングになっており、ここに後者もここに注するに相応しいので、丸ごと示す。底本はちくま文庫の同書を用いた。最後の丸括弧による佐々木氏の注は底本ではポイント落ちで、全体が一字下げである。

   *

 

   一〇二番 鰻の旅僧(その一)

 

 昔、滝沢と鵜飼との境に、底知れぬといわれた古沼があった。ある時この沼の近所の若 者達が七八人でカラカを作って、一生懸命に臼で搗いていると、そこへどこからか一人の汚い旅僧が来て、その木ノ皮の粉は何にするもんだと訊いた。若者達はこれは細谷地の沼へ持って行って、打ッて見る算段だが、そうしたら鯉だの鮒だの鰻だのが、なんぼう大漁だか、お前達[やぶちゃん注:「達」はママ。複数形ではなく、敬称であろう。]にも見せてやりたいほどだと言った。するとそのお坊様は悲しそうな顔して、そうか、だがその粉を揉れたら、沼の中の魚は大きいのも小さいのも有るも無いも皆死ぬべが、親魚だらともかく一寸下の小魚などでは膳の物にもなるまいし、また生物の命を取るということは、なんぼ罪深いことだか知れないから、早く思い止まりませと言って頼んだ。

 すると若者達は口を揃えて、何この乞食坊主が小言をぬかせや、今日は盆の十三日だ、赤飯をケルから[やぶちゃん注:「呉れてやるから」の意か。]、早くさっさと影の明るいうちにどこさでも行きやがれ。そして同じクタバル(死ぬ)なら俺が領分でおんのめるな。後片付けに迷惑するからと言った。すると旅僧も何も言わずにその小豆飯をもらって食って、そこを立ち去った。

 翌日若者達は、沼へ行ってカラカを揉んだ。するとあてにしていたように、しこたまの大漁であった。泥を搔き分けて行くと、最後にひどく大きな鰻を捕った。体が胡麻ぼろで[やぶちゃん注:胡麻を蒔いたように老成して表皮が転々と剥げて斑(まだら)になっていることか。]、まわりが一尺長さが六尺もあった。あんまり珍しいものだから仲間して人数割に、ズブギリ(輪切り)にして分配することにした。そして腹を割って見ると中から赤飯が出た。そこで初めて昨日の族僧がこの沼の主であったことが分った。

(岩手郡滝沢村字滝沢、細谷地の沼。カラカとは山村でよくやる山椒の木の皮を天日に干して、細かに切り、臼で搗いて粉にし、それに灰を交ぜて、川沼で揉み魚を捕るもの、地方によってはナメともいう。昭和二年十月十六日、大坊直治翁来翰その三。)[やぶちゃん注:「カラカ」は「辛皮」である。]

 

     (その二)

 

 この鰻の旅僧の話は他にもあった。和賀郡黒沢尻駅近くに見える和野という所の田圃の中に、こんもりとした森がある。これを浮島というのである。

 昔この和野に長老があった。極めて貪欲無道な人であって、財宝が家倉に積み余っているくせに多くの下男下女をこき使うことが甚しかった。雨降りの日などにはお前達は今日は働かないから、これでいいとて、アメた[やぶちゃん注:岩手方言で「腐った」の意。]飯や腐った魚肴を食わした。

 しかし長老は、館の前に、多くの金をかけて大きな池を造って、その他の四季の景色を眺めて楽しんでいた。ある時いつものように池を眺めていると、門前へ貧乏たらしい旅僧が訪れて来て、何か食物をクモれやと乞うた。長者はお前にはこれがちょうどよいと言って、猫の食い残しの汚飯を投げ与えた。

 しかしその旅僧は、そんな汚い飯をさもうまそうに食べおえてから、さてさて長老殿の家もあと一年の運だなアと嘆いて、すごすごとそこを立ち去った。

 果して一年たつと、門前の池の水が涸れて一滴もなくなった。その時不思議にも口中に飯粒を一杯入れた大きな鰻魚が死んでいた。それからというものは長者の家は災難続きで、だんだんと貧乏になり、ついに跡形なく滅びてしまった。

 今ある浮島の森は、その池の中にあったものだといわれている。

(村田幸之助氏の御報告の分。黒沢尻中学の二年生、高橋定吉氏の筆記摘要。)

   *

「廣古今五行記」唐の竇維(とうい)の撰になる志怪小説集。柳田國男が引いているのは、「太平廣記」の「水族六 水族爲人」の「廣古今五行記」を出典とする「晉安民」。

   *

晉安郡民斷溪取魚、忽有一人著白、黃練單衣、來詣之、即同飲饌。饌畢、語之曰、「明日取魚、當有大魚甚異、最在前、愼勿殺。」。明日、果有大魚、長七八丈。逕來衝網。其人卽賴殺之。破腹、見所食飯悉有。其人家死亡略盡。

   *

今一つは、

「朝野僉載」「ちょうやせんさい」(現代仮名遣)と読む。「遊仙窟」の作者として知られる唐の文人張鷟(ちょうさく)の伝奇小説集。同じく柳田國男が引いているのは、「太平廣記」の同じく「水族六 水族爲人」の「朝野僉載」を出典とする「萬頃陂(ばんけいは)」。

   *

唐齊州有萬頃陂。魚鼈水族。無所不有。咸亨中。忽一僧持鉢乞食。村人長者施以蔬供。食訖而去。於時漁人網得一魚。長六七尺、緝鱗鏤甲、錦質寶章、特異常魚。欲齎赴州餉遺、至村而死、遂共剖而分之。於腹中得長者所施蔬食、儼然並在。村人遂於陂中設齋過度、自是陂中無水族、至今猶然絶。

   *]

 

 隋の開皇の末の事である。大興城の西南に於て、村民が佛會を營んでゐるところへ一人の老人が現れた。晉安郡の民が魚を捕る場合に出た老人は「著白黃練單衣」とあつたが、大興城のは全くの白裝束で、食を求めて去る。誰も識つた者が居らぬので、ひそかに後をつけて行つたところ、二里ばかりにして見えなくなつた。たまたまそこに堤があり、水中に白魚が泳いでゐる。丈餘の白魚に從つて無數の小魚の泳ぐのを見、人爭つてこれを射る。中には弓が折れ弦の切れた者もあつたが、遂にその白魚を射て腹を割いて見たら、飯の出て來たことは「魚王行乞譚」の諸例と同じであつた。後數日にして洪水があり、魚を射た者の家は皆溺死したとある。

[やぶちゃん注:「隋の開皇の末」「開皇」は隋の初代皇帝文帝(楊堅)の治世に行われた年号。隋朝最初の年号で、五八一年から六〇〇年に相当する。

「大興城」隋の都。隋の文帝が、五八三年に旧長安城の東南に築いた。

「晉安郡の民が魚を捕る場合に出た老人」柳田國男の「魚王行乞譚」に「太平廣記」から紹介されたもので、谷川を堰き止めて漁をしようとしていた人の前に現われた魚の変じた老人のこと。前段の私の注の原典を参照。

「著白黃練單衣」前段の私の注の原典を参照。白い袷(あわせ)に、黄色の練り絹の単衣(ひとえ)を着ている。

「二里」隋代のそれなら、一里は五百三十一メートルであるが、これも実は「廣古今五行記」が元で(後掲)、同書は唐代の作品だから、一里は五百六十メートル弱で採らなくてはおかしい。従って一キロメートル強となる。

 以上は「太平廣記」の同じく「水族六 水族爲人」の「廣古今五行記」を出典とする「大興村」。

   *

隋開皇末、大興城西南村民設佛會、一老翁皓首白裙襦、求食而去。衆莫識。追而觀之。行二里許、遂不見。但有一陂。水中有白魚長丈餘。小而從者無數、人爭射之、或弓折弦斷、後竟中之。割其腹。復秔米飯。後數日、漕梁暴溢、射者家皆溺死。

   *

 

「太平廣記」に收められた三つの話のうち、晉安民の話だけが、明日魚を取らば、當(まさ)に大魚の甚だ異なる者があつて、最も前に在るだらう、愼みて殺すなかれ、と戒めてゐる。他は皆食を了つて去るだけであるが、晉安の民は一家ほゞ死亡し盡し、大興城の人は溺死する。萬頃陂の話にはかういふ祟りは見えぬが、その代り「これより陂中水族なし」といふことになつてゐる。日本の話はせいぜいその魚を食はなかつたとか、爾來鰻釣りを止めたとかいふ程度の結末が多い中に在つて、「老媼茶話」の一例だけが、慶長十六年七月に只見川の毒流しを行ひ、同年八月二十一日に大地震があつて山が崩れ、翌年五月十四日には毒流しの主謀着である蒲生秀行が亡くなつた。魚王の祟りも決して馬鹿にならぬ。たゞ日本の話は先づ命乞ひの人に逢ひ、忽ちにして魚腹の食べ物を見るので、魚群の最も先頭にゐたり、無數の小魚を從へたりするやうな、魚王の實を示す話はない。支那の話でも「萬頃陂」の中には魚王らしい一條が見えぬやうである。

[やぶちゃん注:「慶長十六年」一六一一年。以下の話については、既に「卷之弐 只見川毒流(どくながし)」の私の注で、細かく検証している。是非、参照されたい。]

 

 鰻は生きながら割いたのを燒いて食膳に供するせゐか、昔から種々の妖異譚が傳へられてゐる。馬琴が「兎園小説」に書いた話などは、いさゝか因緣纏綿し過ぎた嫌ひがあるが、鰻屋が仕入れて來た中に、すぐれて大きな鰻が二尾あつて、その一つを割かうとすると、主人が錐で怪我をする。代つて割かうとした甥も、手に卷き付かれたり、尾で打たれたりして弱つたが、因果を含めてどうにか割き了つた。併し折角苦心して割いた鰻も、客は判串食べただけで、氣持が惡いと云つて食はなかつたのみならず、その夜中に生簀(いけす)の方で何か大きな音がする。手燭を秉(と)つて生簀の蓋を取つて見た時、多くの鰻が一齊に頭をもたげて睨むやうにした。もう一尾殘つてゐた筈の大鰻は、いつの間にか姿を消してゐたさうである。この出來事に驚かされた鰻屋の甥は、次の日逐電してしまつたといふのであるが、筆者が筆者だけに草雙紙趣味が加はつてゐるやうな氣がする。尤も馬琴は天保三年十一月十三日の晩に、關係者の一人からこの話を聞いたので、「浮きたる事にはあらずかし」と力説してゐるから、事實とするより仕方があるまい。

[やぶちゃん注:以上は、「兎園小説餘錄」の「第二」にある「鰻鱧(バンレイ)の怪」(「鱧」はハモ(条鰭綱 Actinopterygii ウナギ目 Anguilliformes ハモ科 Muraenesocidae ハモ属ハモ Muraenesox cinereus)のことであるが、ここはこの二字で、ウナギ(ウナギ目 Anguilliformes ウナギ亜目 Anguilloidei ウナギ科 Anguillidae ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica)を指している。その逆に、これでハモだけを指す用法もある)である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は割注。適宜、句読点や記号を変更・追加し、直接話法は改行し、一部にオリジナルに読みを歴史的仮名遣で附した。なお、宵曲は作話性が臭うと批評しているが、私は「兎園小説」の中ではかなり好きな一話である

   *

   ○鰻鱧の怪

 吾友鈴木有年、名は秀實、俗字は一郎【東輪王寺の御家臣。】。叔父某乙は、沙翫[やぶちゃん注:左官。]の頭領【有年の實父は、伊勢の龜山侯の家臣にて、下谷の邸にあり。今玆七十二歳にて、十月廿四日に歿したり。有年は東台の儒臣鈴木翁の養嗣たり。件の叔父は則實父の弟也。】。

 わかゝりし時、放蕩なりしかば、浮萍(うきくさ)のごとく東西南北して、竟に沙翫になりしといふ。

 いまだ泥匠[やぶちゃん注:左官に同じ。]ならざりし時、某町なるうなぎ屋の養嗣になりて、しばらくその家に在りける程、養父とともに鰻鱧の買出しに千住へもゆき、日本橋なる小田原河岸へゆくこともしばしば也。凡(およそ)鰻鱧は一笊(ざる)の價、何ほどと定め、手をもて、ひとつひとつに引あげ見て、利の多少を推量(おしはか)ること也とぞ。

 かくて、あるあした、又、養父と共にかひ出しに赴きて、かたのごとく、うなぎを引あげ見つゝ、損益をはかりて、幾笊か買とりしを、輕子(かるこ)[やぶちゃん注:魚市場や船着き場などで荷物運搬を業(なりわい)とする人足。繩を編んで畚(もっこ)のようにつくった軽籠(かるこ)と呼ばれる運搬具を用い、これに荷物を載せて棒を通し、担いで運んだ。]に荷なはして、かへり來つ。

 しばらくして、養父なるもの、件(くだん)のうなぎを生簀箱(いけすばこ)に入けるに、特に大きなる鰻鱧、ふたつ、ありけり。養父、いぶかりて、有年の叔父なりける某乙に、

「かゝる大うなぎあり。今朝、買とる折には、かくまで大うなぎはなしと思ひしが、いかにぞ。」

といふに、某乙も亦、訝りて、

「宣ふごとく、こはおぼえず候へども、こはめづらしきものにこそ侯へ。折々來給ふ得意の何がしどのは、鰻鱧の大きなるを好み給へば、かこひ置(おき)て賣(うら)ばや。」

といふに、養父、うなづきて、

「寔(まこと)に。さる事あり。かの人にまゐらせなば、價を論ぜず、よろこばれん。かこひおくこそよかめれ。」

といひけり。

 かくて、その次の日、彼(かの)大うなぎを好む得意の町人、ひとりの友とともにうなぎを食(くは)んとて來にければ、あるじはしかじかと告知(つげし)らするに、その人、歡びて、

「こは。いとめづらかなるもの也。とく燒(やき)て出(いだ)せ。」

とて、友人とともに二階に登りたり。

 その時、あるじは、件の大鰻鱧を、ひとつ、生簀より引出して、裂(さか)んとしつるに、年來(としごろ)、手なれしわざなるに、いかにか、しけん。うなぎ錐(きり)にて手をしたゝかにつらぬきけり。

 既にいたみに堪(たへ)ざれば、有年の叔父某乙を呼びて、

「われは、かゝる怪我をしたり。汝、代りて裂くべし。」

とて、左手を抱へて退(の)きければ、某乙、やがて立代(たちかは)りて、例のごとく裂んとせしに、その大うなぎ、左の手へ、

「きりきり。」

と、からみ付(つき)て、締(しめ)ること甚しく、既にして動脈の得(え)かよはずなるまでに、麻癱(しび)るゝ痛みに堪ざれば、少し手をひかんとせしに、その大うなぎ、尾をそらして、腔(ひばら)[やぶちゃん注:脾腹。]を、

「ほた。」

と打(うち)たりける。是にぞ息も絶(たゆ)るばかりに、痛みをかさねて難儀しつれど、人を呼(よば)んはさすがにて、なほも押へて些(いささか)も緩めず、ひそかにうなぎに打向ひて、

「汝、われを惱すとても、助かるべき命にあらず。願ふは、首尾、克裂(かつれつ)[やぶちゃん注:鮮やかにしっかりと裂けること。]してくれよ。しからば、われはこの家を立去(たちさ)りて、後々まで、かゝる渡世をすべからず。思ひ給(たまへ)よ。」

と、しのびねにかきくどきたりければ、そのこゝろをうけひきけん、からみたる手をまきほぐして、やすらかに裂(さけ)にけり。

 扨、燒立(やきた)て、出(いだ)せしに、得意の客もその友も、

「心地、例ならず。」

とて、これをたうべす[やぶちゃん注:ママ。「食(たう)べず」。]。

 初(はじめ)、かの得意の客は、わづかに半串、たうべしに、

「死人の如きにほひして、胸わろし。」

とて、吐きにけり。

 かくて、その夜さり、丑三の頃、うなぎの生簀のほとりにて、おびたゞしき音のしてければ、家の内のもの、みな、驚き覺(さめ)て、

「何にかあらん。」

と訝る程に、某乙、はやく起出(おきいで)て、手燭を秉(とり)て生簀船(いけすぶね)を見つるに、夜さりは石を壓(おもし)におく。その石ももとのまゝにて、異(い)なる事のなけれども、

「さりとも。」

と思ひて、生簀船の蓋を開きて見ぬるとき、あまたのうなぎの、蛇の如くに、頭をもたげてにらむに似たり。

 只、この奇異のみならで、ひとつ殘りし大うなぎは、いづちゆきけん、あらずなりけり。某乙、ますます驚き怕(おそ)れて、次の日、養家を逐電しつゝ、上總の所、親がり[やぶちゃん注:実の親の元へと。]、赴きて、一年ばかり歷(ふ)るほどに、養父は去歳(さるとし)より大病にて、今はたのみなくなりぬ。

「とく、立かへり給へ。」

とて、飛脚到來してけるに、既に退身(たいしん)[やぶちゃん注:勝手に逐電して退去したことを指す。]したれども、いまだ離緣に及ばざれば、已むことを得ずかへり來て、養父の看病せんとしつるに、養母は密夫を引入(ひきい)れて、商賣にだも、身を入れず、病臥したる良人をば、奧なる三疊の間にうち措(おき)て、看(み)とるものもなかりしを、某乙、その怠りをたしなめて、病人を納戸に臥(ふせ)さしつ。藥をすゝめ、粥を薦(すすむ)るに、いさゝかも飮(のま)ず、くらはず、只、好みて水を飮む、のみ。

 ものいふことも得(え)ならずして、鰻鱧のごとく、頤(おとがひ)をふくよかにして、息をつくあさましき體(てい)たらく、又、いふべくもあらざりけり。

 かゝる業病(ごふびやう)也ければ、病むこと稍(やや)久しくして、竟(つゐ)に、むなしくなりし折、某乙は後の事など叮嚀にものしつゝ、扨、養母と養母の親族に身の暇(いとま)を乞ひ、離緣の後(のち)、料(はか)らず、泥匠のわざを習ふて、その世渡りになすよし也。

 こは天明年間[やぶちゃん注:一七八一年から一七八九年。「兎園小説餘錄」の馬琴の附記のクレジットは天保三(一八三二)年。]の事なりければ、さすがに叔父のうへながら、有年はかゝる事のありしともしらざりしに、今より五、七年以前に、家を作り替ぬる折、その壁一式を叔父にうちまかせしかば、叔父は弟子を日每に遣し、その身も、をりをり來つるにより、ある日の晝食に、鰻鱧の蒲燒を出せしに、叔父はいたく忌嫌(いみきら)ひて、

「われは、うなぎを見んとも思はず。とく退(の)けて給ひね。」

といふ事、頻(しきり)なりければ、有年夫婦、いぶかりて、よのつねなる職人ならぬ叔父なればこそ、心を用(もちひ)、ひとり[やぶちゃん注:特に別して。]よせたりける物なれども、嫌ひとあるに強(しひ)かねて、

「ほいなかりき。」

と呟きしを、叔父は、

「さこそ。」

と慰めて、

「わが、うなぎを忌嫌ふは、大かたのことならず。この儀は、和郎(わろ)[やぶちゃん注:二人称代名詞。男性に対して(ここは)親しみを込めて呼ぶ語。おまえ。]が未生(みしやう)以前の事なりければ、しらぬなるべし。懺悔(さんげ)の爲に説示(ときしめ)さん。その故は箇樣(かやう)々々。」

と、彼(かの)怪談に及びしとぞ。

 其叔父の名も養父の家名も、しるすに易き事なれども、よき祥(きざし)にしもあらざれば、あなぐりもせず[やぶちゃん注:敢えて探索してここに示すようなことはしない。]。有年の話せるまゝに錄するのみ。彼(かの)大うなぎは稀なるものにて、かの折、腕を三まき卷(まき)て、尾をもて、瞎[やぶちゃん注:「かため」(片目)と訓ずるか。しかし、先に鰻が打ったのは「腔(ひばら)」である。「瞎」と「腔」は草書で書くと間違え易いようにも思われるから、現行から活字に起こした際の誤りかも知れぬ。]を打(うち)たるにて、その長さを推量るべし。打れし迹はうち身になりて、今も寒暑の折は發(おこ)[やぶちゃん注:痛みが。]るといふ。うなぎ渡世をするものは、末よからずといふよしは、常に聞くことながら、こは正しき怪談也。浮(うき)たる事にはあらずかし【天保壬辰[やぶちゃん注:天保三(一八三二)年。]の冬閏十一月十三日の夜、關潢南に招れて、彼處に赴きし折、有年は、なほ、喪中ながら、はからずも來て、まとひに[やぶちゃん注:「圓居に」で、その集まりの場の車座の中に。]入りけり。その折、有年の、「かゝる事しもありけり」とて、話せられしを、こゝにしるすもの也。有年は關の親族也。】。

   *]

 

 佐藤成裕なども「中陵漫錄」の中に鰻の奇談を書いてゐるが、備中國玉嶋の鰻屋の者が一夜妙な夢を見た。村から仕入れた鰻の中に胡麻斑の大きなのがあつて、自分は人につかまつてこゝに來た、定めて近日割かれることであらうが、同じ死ぬのなら夫婦一緒に死にたい、お前にその氣があるなら、明日中につかまへて來てくれぬか、と語る夢なのである。鰻の女夫(めをと)心中などは正に黃表紙物であるが、そこが夢物語の夢物語たる所以であらう。翌朝起きて生簀を見ると、成程胡麻斑のやつがゐる。これは殺さぬことにして置いて、一二日したら仕入れた中に、やほり胡麻斑のがあつた。試みに一緒にして見るのに、殊の外よろこんで戲れる樣子である。よつて二尾ともに殺さず、もとの水中に放ち、ふつつり鰻屋家業をやめてしまつた。

[やぶちゃん注:以上と次段の話は「中陵漫錄」の「卷之九」の「鰻鱺(うなぎ)の奇話」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。前と同じ処理をした。

   *

  ○鰻鱺の奇話

 薩州の西に鰻鱺池[やぶちゃん注:「鰻池」のことであろう。私は一泊したことがある。]と云(いふ)あり。此池に生(うまる)るは、只、半片なり。昔、大なるを得て、半片(はんかた)、裂(さき)たるに踊走(をどりはしり)て地中に入(いり)て、皆、半片の鰻鱺となる。今俗に是を「片平鰻鱺」と云。土人、恐(おそれ)て取るものなし。

 又、肥前島原の北、直子村、大手川上に、大なるあり。其(その)大さ、臼のごとし。大旱(おほひでり)の時、民人、雨を祈る。果して應(こたふ)る事あり。是れに依(よつ)て、「雨守大明神」と敬號す。

 又、東都にて、尤(もつとも)、大なるもの、得て食す。狂氣して遂に死す。

 薩州にて大なるを食す。遂に病となる。

 又、江戸の麻布に鰻鱺を貨(う)るものあり。或日、狂亂して其板の上に臥し、庖丁にて咽の處に立て、腹より裂(さき)て自ら云く、

「我は鰻鱺也。」

とて死す。此時、皆人、云く、

「數十年の間、生物を裂きたる爲なり」と云。餘が少年の時に聞(きけ)り。

 又、備中の玉島に鰻鱺を貨るものあり。一日、村中より、多く持來(もちきた)る。中に大にして胡麻斑(ごまふ)なるあり。此夜、家内のもの、皆、夢に此鰻鱺、自(みづから)云く、

「夫婦(めをと)一處に居りたるに、我(われ)獨り、人の手に逢(あふ)て、こゝに來る。定(さだめ)て近き内に裂(さか)れて死すならん。何卒(なにとぞ)、一處に死したし。其意あらば、明日中に人の手に入(いれ)て來てくれまひか。」

と、其婦に語る、夢なり。明朝、起き、

「ふしぎなる。」

とて見れば、果して、胡麻斑のもの、あり。

「是れは。先(まづ)、殺さずおくべし。」

とて、一、二日、置きければ、又、村中より多く持來る中に、一樣なる胡麻斑のもの、あり。されば、

「一處に入(いれ)て見るべし。」

とて、一處に入(いる)れば、殊の外、相悦(あひよろこび)て互に戲る。

「扨、是れは、本(もと)の取りたる水中に放つべし。」

とて、本の處に返すと云(いふ)。是れより、此鰻鱺の家業を止むと云。

 又、近頃、聞く。鰻鱗を貨る處にて、夜半、頓(しきり)に噪動(さうどう)して、さわぐ事あり。果して、人、求(もとめ)に來(きた)ると云(いひ)、其人の來るをしつて、我も我もと下にもぐり入ると云。鰻鱺家の主人、自(みづから)、語れり。

   *]

 

「中陵漫錄」はこの話に續いて、こんな事を書いている。鰻屋で夜中に生簀の鰻が俄かに騷ぐ事があるが、さういふ時には必ず人が買ひに來る。人が來るのを知つて、我も我もと下へもぐり入るのだといふ。これは或鰻屋の主人の話ださうである。こゝに至つて吾々は小泉八雲の書いた「尋常の事」といふ一文を想ひ起さざるを得ぬ。或僧が若い修行時代に山寺へ行つて一宿を乞ふと、主僧は不在で七日間は歸らぬ、留守は老尼一人だから人を泊めることは出來ない、と云つて斷られた。倂し此方は非常に疲勞して居り、食物は要らぬ、眠る所さへあればよろしい、と切に賴んだので、老尼も同情して泊めてくれた。然るに夜中になつて、念佛の聲と木魚の音で目がさめた。寺の中は眞暗であるのに、誰が今頃そんなお勤めをするのかと不審に思ひながら、またぐつすり寢込んでしまつた。翌朝老尼に一宿の禮を述べて、御住持は昨夜お歸りになりましたね、と聞いて見たら、昨日申しました通り、七日間は歸りません、と云ふ。實は夜中に木魚の音と念佛の聲が聞えたので、御住持がお歸りになつたかと思つたのです、と云つたところ、あゝ、それなら住持ではありません、檀家です、檀家に死人がありました時は、その佛が木魚を敲いて念佛を唱へに參ります、と老尼は説明した。彼女は長い間に慣れてしまつて、何でもない事と思つてゐるやうな口ぶりであつた。そこで八雲はこの文章に「尋常の事」と題したのである。

[やぶちゃん注:『小泉八雲の書いた「尋常の事」これは小泉八雲の「骨董」(Kottō)の中の小品「A Matter of Custom」である。原文を引く。

   *

A Matter of Custom

 

THERE is a nice old priest of the Zen sect, — past-master in the craft of arranging flowers, and in other arts of the ancient time, — who comes occasionally to see me. He is loved by his congregation, though he preaches against many old-fashioned beliefs, and discourages all faith in omens and dreams, and tells people to believe only in the Law of the Buddha. Priests of the Zen persuasion are seldom thus sceptical. But the scepticism of my friend is not absolute; for the last time that we met we talked of the dead, and he told me something creepy.

 

“Stories of spirits or ghosts,” he said, “I always doubt. Sometimes a danka comes to tell me about having seen a ghost, or having dreamed a strange dream; but whenever I question such a person carefully, I find that the matter can be explained in a natural way.

“Only once in my life I had a queer experience which I could not easily explain. I was then in Kyūshū, — a young novice; and I was performing my gyō, — the pilgrimage that every novice has to make. One evening, while travelling through a mountain-district, I reached a little village where there was a temple of the Zen sect. I went there to ask for lodging, according to our rules; but I found that the priest had gone to attend a funeral at a village several miles away, leaving an old nun in charge of the temple. The nun said that she could not receive me during the absence of the priest, and that he would not come back for seven days. . . .  In that part of the country, a priest was required by custom to recite the sutras and to perform a Buddhist service, every day for seven days, in the house of a dead parishioner. . . .  I said that I did not want any food, but only a place to slpep : moreover I pleaded that I was very tired, and at last the old nun took pity on me. She spread some quilts for me in the temple, near the altar; and I fell asleep almost as soon as I lay down. In the middle of the night — a very cold night! — I was awakened by the tapping of a mokugyo and the voice of somebody chanting the Nembutsu, close to where I was lying. I opened my eyes ; but the temple was utterly dark, — so dark that if a man had seized me by the nose I could not have seen him [hana wo tsutnarété mo wakaranai] ; and I wondered that anybody should be tapping the mokugyo and chanting in such darkness. But, though the sounds seemed at first to be quite near me, they were somewhat faint ; and I tried to persuade myself that I must have been mistaken, — that the priest had come back and was performing a service in some other part of the temple. In spite of the tapping and chanting I fell asleep again, and slept until morning. Then, as soon as I had washed and dressed, I went to look for the old nun, and found her. After thanking her for her kindness, I ventured to remark, ‘So the priest came back last night ?’ ‘He did not,’she answered very crossly — ‘I told you that he would not come back for seven days more.’‘Please pardon me,’ I said ; ‘last night I heard somebody chanting the Nembutu, and beating the mokugyo, so I thought that the priest had come back.’‘Oh, that was not the priest!’ she exclaimed; ‘that was the danka.’‘Who ?’ I asked ; for I could not understand her. ‘'Why,’she replied, ‘the dead man, of course!’That always happens when a parishioner dies ; the hotoké comes to sound the mokugyo and to repeat the Nembutsu. . . . She spoke as if she had been so long accustomed to the hing that it did not seem to her worth while mentioning.”

 

   *

 次に、こちらにあるPDFの田部隆次氏の訳を電子化する。

   *

 

    尋常の事

 

 時々私をおとづれる禪宗の老僧、――生花その外古い藝術の名人――がある。色々の古風な信仰に反對の説教をして緣起や夢合などを信じないやうに説き、ただ佛の教をのみ信ずるやうに勸めて居るが、それでも檀家には評判がよい。禪宗の僧でこんなに懷疑的なのも少ない。しかしこの私の友人の懷疑も絶對ではない、先日遇つた時、話は死者の事に及んだが、何だか氣味の惡い事を聞かされた。

 

『幽靈だの、お化だのと云ふ事は愚僧は信じない』僧は云つた、『時々檀家の人が來て幽靈を見た、不思議な夢を見た、と云つて來る、しかし詳しく尋ねて見るとそれには相應の説明のつく事が分つて來る。

『ただ、愚僧は一生に一度中々説明のつかない妙な經驗をした事がある。その頃九州にゐて若い沙彌であつた、若い時にはだれもやらねばならぬ托鉢をやつてゐた。或晩山地を旅して居る間に禪寺のある村に着いた。きまり通りそこへ行つて宿を賴んだが、主僧は何里か離れた村へ葬式に出かけて、一人の老尼だけが留守に殘つてゐた。尼は主僧の留守中、人を入れる事はできない、それから主僧は七日間は歸るまいと云つた。……檀家に死人があれば、僧が行つて七日の間、毎日讀經して佛事を行ふ習慣となつてゐた。……愚僧は食物はいらない、ただ眠る所さへあれば結構と云つた。その上非常に疲勞して居る事を話して賴んだので、尼はたうとう氣の毒がつて、本堂の須彌壇の近くに蒲團を敷いてくれた。橫になると愚僧はすぐに眠つてしまつた。夜中に――大層寒い晩であつたが――愚僧の休んで居る近くの所で木魚をたたく音と、誰かが唱へる念佛の聲で眼がさめた。眼を開けたが、寺は眞暗で――鼻をつままれても分らない程の暗さであつた、それで愚僧は不思議に思つた。こんな暗がりのうちで木魚をたたいたり、讀經をしたりするのは一體誰だらう。しかし響きは初めは餘程近いやうだが、何だかかすかでもあつた、それでこれは自分の思ひちがひに相違ないとも考へて見た、――主僧が歸つて來て寺のどこかでお勤めをして居るのだとも考へて見た。木魚の音と讀經の聲に頓着なく、愚僧は又寢込んで、そのまま朝まて眠りつづけた。それから起きて顏を洗つて着物を整へるとすぐに老尼をさがしに行つた。それから昨晩の御禮を云つたあとで「昨夜あるじは御歸りになりましたね」と云つて見た。「歸りません」老尼の答は意地惡さうてあつた。「昨日申しました通り、もう七日間は歸りません」「ところで昨晩誰か、念佛を唱へて木魚をたたくのを聞いたのて、それで、あるじが御歸りになつた事と思ひました」と愚僧は云つた。「ああそれならあるじぢやありません、それは檀家てす」と老尼は叫んだ。愚僧は分らなかつたから「誰です」と尋ねた。「勿論死んだ人です。檀家の人が死ぬといつでもさう云ふ事がおります。そのほとけは木魚をたたいて念佛を唱へに來ます」……老尼はそんな事には長い間慣れて來たので、云ふまでもない事と思うて居るやうな口振で云つた』

            (田部隆次譯)

 A Matter of Custom.Kotto.

 

   *]

 

 この話の僧といふのは實在の人物で、丹羽雙明といふ牛込富久町道林寺の住職である。八雲はこの人からいろいろの話を聞いたらしい。雙明老師は幽靈やお化は信じないが、一生に一度だけ、説明の付かぬ妙な經驗をした、と云つた。それが今の話なのである。この説明が付かぬならば、人が買ひに來る前に生簀の鰻が騷ぐ話も容易にわからぬ。もし尋常の事であるならば、鰻の事も怪しむに足らぬであらう。人と鰻との相違はあつても、天から與へられた生命に變りはないからである。

[やぶちゃん注:「丹羽雙明」不詳。識者の御教授を乞う。

「牛込富久町道林寺」現在の新宿区富久町(とみひさちょう)小泉八雲の旧居があった町でもある((グーグル・マップ・データ))が、この名の禅寺は、周辺には現存しない模様である。]

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