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2017/11/30

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)  猪・鹿・狸

 

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十二月六日発行の『東京日日新聞』の「ブックレヴィュー」欄に掲載された。「猪・鹿・狸」は画家から民俗学者となった早川孝太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)が大正一五(一九二六)年十一月に郷土研究社から刊行した表題の三種の動物に纏わる、早川の郷里である愛知県の旧南設楽郡横山村(後注参照)を中心とした民譚集で、本篇はその書評である。底本は岩波旧全集を用いた。但し、元は総ルビであるが、読みが振れると私が判断したもののみのパラ・ルビとした。傍点「ヽ」は太字とした。簡単な注を後に附した。因みに、私はこの早川孝太郎の「猪・鹿・狸」を、いつか、全篇、電子化注したいと思っている。【2017年11月30日 藪野直史】]

 

 猪・鹿・狸

 

 僕の養母の話によれば、幕末には銀座界隈にも狸の怪のあつたといふことである。酒に醉つた經師屋(けうじや)の職人が一人(或は親方だつたかも知れない)折か何かぶらさげながら、布袋屋(ほていや)の橫町へさしかゝると、犬が一匹道ばたに寢てゐた。犬は職人が通りかゝるが早いか、突然尾でも踏まれたやうにきやんと途方もない大聲を出した。職人は勿論びつくりした。するといつか下げてゐた折も足もとの犬も見えなくなつてゐた。これは狸が折を盜むために職人を化したとかいふ噂だつた。……

 今日(こんにち)の銀座界隈に狸のゐないことは勿論である。いや、早川孝太郎さんの「猪・鹿・狸」(郷土研究社出版)の教へるところによれば、遠江の國橫山にさへ狸の人を化すことはだんだん稀になつて行くらしい。しかしその話だけは未(いま)だに澤山殘つてゐる。のみならずそれは人跡の少ない山澤(さんたく)の氣(き)を帶びてゐるだけに經師屋の職人の話よりも底氣味(そこきみ)の惡いものを含んでゐる。

         *

 ──或男が日暮方(ひぐれがた)に通りかゝると、道の脇の石に腰をかけてゐる人があつた。かたはらへ寄つて見たら、それが男だか女だか、又前向きだか後向きだか薩張(さつぱ)り分らなんださうである。──

 かういふ話は、世間に多い怪談より餘程無氣味である。尤も「猪・鹿・狸」はその標題の示す樣に狸の話ばかり書いたものではない。同時に又前に擧げたやうに氣味の惡い話ばかり書いたものでもない。僕はこの本を讀んでゐるうちに、時々如何にも橫山じみた美しい光景にも遭遇した。

         *

 ──又自分の村の山口某(ぼう)は山中の杣小屋(そまごや)へ、村から飛脚に立つた時途中の金床平(かなとこだひら)の高原で夥しい鹿を見たというた。(中略)金床平へ掛かつた時は、八月十五夜の滿月が晝のやうに明るかつたさうである。見渡す限り廣々とした草生(くさふ)へ掛かつて、初めて鹿の群(むれ)を見た時は、びつくりしたといふ。丸で放牧の馬のやうに、何十とかず知れぬ鹿が月の光を浴びて一面に散らかつてゐたさうである。人間の行くのも知らぬ氣に平氣で遊んでゐたのは恐ろしくもあつたが、見物(みもの)でもあつた。中には道の中央に立ふさがつたり、脇から後を見送つてゐるのもあつた。──

 かういふ鹿の大群の話に、フロオベエルの「サン・ジユリアン」の狩(かり)の一節を思ひ出すものは僕ばかりではないかも知れない。「猪・鹿・狸」は民俗學の上にも定めし貢獻する所の多い本であらう。しかし僕の如き素人にもその無氣味さや美しさは少からず魅力のある本である。僕は實際近頃にこのくらゐ愉快に讀んだ本はなかつた。卽ち「オピアム・エツクス」をのむ合ひ間にちよつとこの紹介を草することにした。若し僕の未知の著者も僕の「おせつかい」をとがめずにくれれば仕合せであると思つてゐる。(一五・一一・二七)

 

[やぶちゃん注:「僕の養母」芥川龍之介の実母フクの兄で養父となった道章の妻トモ(儔)。

「經師屋」書画の幅(ふく)や屏風・襖(ふすま)・御経などを表装する職人。表具師。

「布袋屋」銀座(当時は尾張町)にあった呉服店の屋号。

「遠江の國橫山」現在の静岡県浜松市天竜区横山町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「自分の村の山口某(ぼう)は……」これは「猪・鹿・狸」の「鹿」のパートの「十九 木地屋と鹿の頭」の掉尾にある話で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像 で視認出来る。

「金床平」恐らくは愛知県新城(しんしろ)市黄柳野金床(つげのかなどこ)であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「フロオベエル」フランスの小説家ギュスターヴ・フローベールGustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)。

『「サン・ジユリアン」の狩(かり)の一節』一八七七年に刊行されたフロベールの短編小説集「三つの物語」(Trois Contes)の中の、聖人を題材にした「聖ジュリアン伝」(La Légende de Saint Julien l'Hospitalier)の第一節の後半、ジュリアンが狩りに出、擂鉢状の谷に無数の鹿が群れているのを発見し、残らず射殺すシークエンスを指す(ここは筑摩書房全集類聚版芥川龍之介全集の注記に拠った)。

「オピアム・エツクス」opium extract か。ケシから抽出された阿片エキス。アヘン末をエタノールに浸出させたもの。この頃、芥川龍之介は痛み止め(主に悪化していた痔疾に由来する痛み)や睡眠薬(神経衰弱)として齋藤茂吉から本剤を処方して貰っていたことが書簡(本脱稿の六日前の齋藤茂吉宛同年十一月二十一日附〔旧全集書簡番号一五二九(『アヘンエキス』送付懇請)・一五三〇(「オピウム」受領御礼)〕・同宛同年十二月四日附〔旧全集書簡番号一五三六(『オピウム每日服用致し居り』)〕・同宛同年十二月十三日〔旧全集書簡番号一五四一・『鴉片丸乏しくなり心細く』〕(総て鵠沼から)によって確認出来る。鴉片エキスの他、ホミカ・下剤・ベロナール・痔の座薬等、まさに薬漬けの痛ましい毎日であったことが知れる。

(一五・一一・二七)」脱稿日。大正一五(一九二六)年十一月二十七日。この凡そ一ヶ月後の十二月二十五日に昭和に改元。自死のほぼ八ヶ月前。因みに本篇の発表された十二月六日の三日後の十二月九日は師夏目漱石の祥月命日で、盟友小穴隆一によれば、芥川龍之介はこの日に自殺を決行しようと考えていた時もあったとしている。私の『小穴隆一 「二つの繪」(12) 「漱石の命日」』を参照されたい。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介全作品事典」で本篇を担当した中島和也氏は『満月の光を浴びて高原に群なす鹿の姿を記した』早川の本文の『引用から「フロオベエルの「サン・ジユリアン」の狩の一節を思ひ出す」芥川の眼は、近代の日本が駆逐した幻想性の魅力に注がれる。そして、「僕は実際近頃にこのくらゐ愉快に読んだ本はなかつた」と率直に評しながら、一方で「オピアム・エツクス」を(麻酔薬)を飲む合間の仕事と』、『日常の薄暗さをシニカルに垣間みせる。当時の芥川の苦悶さえ窺わせる書評である』と評しておられるのには激しく同感するものである。満身創痍の龍之介の、たかが書評、されど、である。

柴田宵曲 俳諧博物誌(14) 狸 三

 

       

 

 『新花摘』の狸は蕪村を驚かしたことは慥であるにせよ、連夜雨戸を叩いたり、闇中で足に触れたり、胸の上に磐石の如くのしかかったりする程度で、畢竟悪戯の範囲を出ない。見性寺の話に狸沙弥の仕業とある通り、大して邪気のない悪戯である。蕪村が一応びっくりさせられながら、悪戯の主を憎むに至らぬのもそのためで、もし彼らの仕業がもっと邪気を帯びていたら、句中に取入れるだけの余裕を持たなかったであろう。しかし天下の狸族をして常に必ずこの矩(のり)を踰(こ)えしめぬことは困難である。露川が北国行脚の時、或(ある)山の傍を通りかかると、人が五三人集っているので、立寄って見たところ、大きさ四、五尺とも見える狸が、三本の大竹で磔(はりつけ)にかけられていた。近くの畑主に男女二人の子を持った者があって、六つになる兄の方が去年の秋、この辺で行方不明になつた。その妹もまた十日ほど前、この畑に摘草(つみくさ)に来たまま、遂に帰って来ない。親大(おおい)に悲しんでその辺を見廻したら畔(ほとり)に大きな穴があり、その穴の口に女の子の草履(ぞうり)が片足見える。さてはというので土地の人を語らい、岩をはね掘崩(ほりくず)すと中から狸が駈出(かけだ)した。直に打殺してその奥を捜せば、娘に著(き)せた単衣(ひとえ)が血に染って出て来た。最早疑なしとして件(くだん)の狸を磔にかけたというのである。露川は「今迚(とて)もかゝる山中には妖怪も有けるよと矢立(やたて)を出して記し侍る。一歩に千里の迷ひとは此山道なるべし」といって、

 

 渡唐(とたう)して來たか幾山いく茂り 露川

 

の一句をとどめている。

[やぶちゃん注:「露川」は名古屋蕉門の一人、藤屋露川(寛文元(一六六一)年~寛保三(一七四三)年)本姓は澤、通称、藤屋市郎右衛門。伊賀上野出身で、若いと時に名古屋に出て、渡辺家の婿養子となり、数珠商として財をなした。北村季吟の門下であったが、元禄四(一六九一)年、熱田で芭蕉に対面し、蕉門に入ったか。芭蕉の死後、宝永三(一七〇六)年初冬に剃髪し、諸国行脚を始め、蕉門拡大に腐心した。以上の話、是非、原文い当りたく思ったが、原本が何かも判らぬ。識者の御教授を是非とも乞うものである。]

 この話は筆者の見た狸談の中で、最も不愉快な部類に属する。それが俳人の紀行に出て来るのは、いささか意外の感がないでもない。「渡唐して来たか」はその狸の劫を経た曲者たることを示すもので、幼児を誘うに当っては得意の幻術を用いるのであろう。この手合に比すれば、大入道や普賢菩薩に化ける連中の方が遥に罪が浅い。かちかち山の狸の末孫が黄表紙以外に存在していて、斯の如く憎むべき所行に出るのかも知れぬ。愛すべき天下の狸群のために、こんな同類の悪を掲げずに置いた方がいいかと思うが、狸運拙くして露川の目に留った以上、醜を後世にさらすのもやむをえまいと思う。

 早川孝太郎の『猪・鹿・狸』は、大正十五年にはじめて出版された当時、芥川龍之介氏をして「近頃にこのくらい愉快に読んだ本はなかった」と評せしめた書物で、狸に関しても多くの興趣ある話を載せているが、殊に緋(ひ)の衣を纏った狸の一条は、「狸の磔」を連想せしめる点で看過しがたい。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎の『猪・鹿・狸』」画家から民俗学者となった早川孝太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)が大正一五(一九二六)年十一月に郷土研究社から刊行した表題の三種の動物に纏わる、早川の郷里である愛知県の旧南設楽郡横山村(現在の静岡県浜松市天竜区横山町。ここ(グーグル・マップ・データ))を中心とした民譚集。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る。以下の話は同書の狸パートの「十六 緋の衣を纒つた狸」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像ではから読める。

『芥川龍之介氏をして「近頃にこのくらい愉快に読んだ本はなかった」と評せしめた』大正一五(一九二六)年十二月六日発行の『東京日日新聞』の「ブックレヴィュー」欄に掲載された「猪・鹿・狸」を指す。今日、この注のためにブログで電子化注した。]

 伊良湖岬(いらござき)第一の高山である御津(みつ)の大山の大久保の谷というところに、昔から悪い狸が棲(す)んでいて、山越の者がしばしば行方不明になる。或時その一人の身につけていた手拭(てぬぐい)が、血に染って木の枝に掛っていたところから、遂に山狩をすることになって、一隊が山深く入込むと大きな狸の穴があった。その手前にまた行方不明者の履物(はきもの)が片方落ちていたので、いよいよ怪しいと見極めをつけ、周囲に竹矢来を結(ゆ)って穴を掘りにかかった。恐しく深い穴で、三日目に漸く最後の穴に掘り当てると、広さ八畳敷ほどもある奥に一段高い処があって、緋の衣を纏った大狸が、人々の騒ぐのを尻目にかけて端然と坐っていた。狸はここで尋常(じんじょう)に殺されたが、傍には行方不明になった人の衣類や骨が堆(うずたか)く積んであった。件(くだん)の緋の衣は葬式帰りの和尚のものを失敬したのだというのである。この話は慥(たしか)に露川の見た狸に似ている。彼を人里に出没する鼠賊(そぞく)の輩(やから)とすれば、これは山寨(さんさい)を構える賊魁(ぞっかい)の徒に相違ない。

[やぶちゃん注:「大久保の谷」恐らくは現在の愛知県田原市大久保町附近である。(グーグル・マップ・データ)。

「鼠賊」小さな盗みをする泥棒、「こそどろ」のこと。

 この際なので「猪・鹿・狸」の当該部を総て、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認して電子化しておくこととする。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 

     十六 緋の衣を纏つた狸

 

 三河の伊良胡岬の丁度中央頃、田原の町からは南に當つて聳えて居る山を、御津(おつと)の大山(おほやま)と謂うて、岬中では第一の高山であつた。此山の大久保の谷には、昔から惡い狸がすんで居るとは專ら言傳へて居た。未だ古い出來事ではないと聞いたが、山の南方に當る福江村の者が、朝早く山を越して仕事に出ると、定つて行衞が判らなくなる。それが村の者だけではない、旅商人などで日を暮らして通りかゝつた者が皆目知れなくなった事もある。或時は葬式歸りの和尚と小坊主二人が、日暮れに山に掛つた儘知れなくなつた。それが或時、行衞の判らなくなつた者の、身に附けて居た手拭が、血に染つて山の途中の木の枝に引掛つて居た事から、何か山の怪の禍かも知れぬと言事になつた。それで村中評議の上山狩りをする事になつて、その中の一隊が、大久保の山深く入込むと、一ヶ所未だ誰も知らぬ岩窟があつて、その奧に大きな狸の穴を發見した。然もその手前に、甞て行衞を失つた者の履物が片方落ちて居た。愈々此穴が怪しいとなちて、穴の周圍に矢來を結つて置いて掘りにかゝつた。おそろしく深い穴で、三日續けて、掘つて、やつと最後の穴の奧へ掘り當てたと言ふ。中は廣さ八疊敷程もあつて、その奧に更に一段高い處がある。見ると緋の衣を纏つた大狸が、人々の立騷ぐのを尻目にかけて、端然と坐つて居たさうである。村の者も一度は驚いたが、此奴遁すものかと、何れも寄つて集つて撲殺した。然し狸は觀念した樣子で、些しも荒れ狂ふ事は無かつたと謂ふ。傍にはそれ迄狸の餌食になつた人々の、衣類や骨の類が堆く積んであつた。其時狸の着けて居た緋の衣は、葬式歸りの和尚のものであったと言ふが、それ以來大久保の山には、なんの禍も無くなつたと謂ふ。此話は豐橋の町の或婆さんから聽いたが、本人は土地の者から直接聞いたと言うて居た。

 緋の衣は着て居なかつたが、狸が人を殺して食つた話は、未だ他にも聞いた事がある。自分等が子供の頃など、狐と狸と何れが恐ろしいかなどと比較論をやつて、狸は人を殺して食ふから恐ろしい、狐は只化したり憑くだけだなどゝ言うたものである。その時分聞いた話で、八名郡鳥原(とりはら)の山でも、狸の餌食になつた者があつたと專ら噂した。

 狸が人を取り喰らつた話の一方には、女を誘拐して女房にして居た話がある。寶飯郡八幡村千兩(ちぎり)の出來事であつた。娘が家出して行衞が知れなくて、方々搜して居ると、近所の病人に狸が憑いて、俺が連れて行つて女房にして居ると言ふ。場所はこれこれと、村の西北に聳えて居る本宮山の裏山に在る事を漏したので、初めて、山探しをして見ると、果してえらい險しい岩の陰に居たさうである。其處は雨風など自然に防ぐやうに、出來て居る場所だつたと言ふ。後になつて娘によ樣子を問ひ訊すと、狸だか何だか知らぬが、山の木の實や果物の類を、時折運んで來て食はして呉れたと語つたさうである。その娘は平生から、少し足りぬやうな樣子があつたと謂ふ。此話は自分が十二三の頃、隣村の木挽から聽いた話である。

   *]

 建部綾足が『折々草』の中に大高子葉に関する挿話を書いた「ふたつ竹」という俳書がある。子葉に頼まれた汀砂という男が、京都へ行ったり江戸へ戻ったり、何もわからずにまごまごしている様子は、いささか狸に致されたようだが、実際は別に交渉があるわけではない。狸が顔を出すのはかえって俳書「ふたつ竹」そのものの中である。

[やぶちゃん注:「建部綾足が『折々草』の中に大高子葉(彼はかの赤穂浪士四十七士の一人である大高源五(吾)(おおたかげんご)忠雄(ただお 寛文一二(一六七二)年~元禄一六(一七〇三)年二月四日(グレゴリオ暦三月二十日))のことである)に関する挿話を書いた「ふたつ竹」という俳書がある」この一文は誤解される虞れのある不完全な文章である。確かにそこ(「折々草」の「冬の部」の「大高子葉俳人汀砂をつかふ條」)には「子葉に頼まれた汀砂という男が、京都へ行ったり江戸へ戻ったり、何もわからずにまごまごしている様子」が描かれてはいるが、狸とは没交渉な話である。ここは要するに、「建部綾足が『折々草』の中に大高子葉に関する挿話を書い」ているが、その中に出てくる実在する「ふたつ竹」「という俳書があ」り、その最後に狸が顔を出している、という意味で、寧ろ、この建部綾足の「折々草」を出す必要は私はないと断ずるものである。

「ふたつ竹」「二ツ乃竹」が正しい。俳諧撰集。赤穂藩士大高忠雄(子葉)編著。赤穂浪士による吉良邸討ち入り直前の、元禄一五(一七〇二)年九月に刊行されている。参照したウィキの「によれば、『この時期、大高は吉良義央を討つために江戸下向をする直前である。まさに大高にとって俳人としての集大成の遺作とするために刊行した俳諧集で』、『大高忠雄と親交のあった含歓堂沾徳、宝井其角、中尾我黒、上島鬼貫など著名な俳人達が句をよせている。また』、『大高と同じ浅野家中の神崎則休(竹平)、富森正因(春帆)、岡野包秀(放水)、萱野重実(涓泉)の句も載っている』とある。大高源五は大石内蔵助の嫡男大石良金(主税(ちから))らとともに芝三田の松平定直の中屋敷へお預けとなり、そこで切腹している。辞世は、

 

 梅で吞む茶屋もあるべし死出の山

 

であった。]

 「ふたつ竹」の終のところに「古狸引導」「古狸追悼」という短い文章が二つ出て来る。前者は「里右醉書」後者は「子葉戯言」とあって、大高源吾も一役勤めてはいるが、その狸の正体はというと、俳文一流の変幻を尽していて、容易に捕捉することが出来ない。両者を綜合して脈絡を辿って見れば、日本大霊験所という額のある霊地に出没して、あるいは小坊主となり、あるいは女の童となって人に戯れた古狸が、終(つい)に里人の棒を喫して往生を遂げた。子葉の文に「腹鼓打(うち)ては夜番をいぢり、尾をはさみては夜發(やほつ)をつる」とあるのも、その芸能の一斑らしい。彼が「木のもとの落葉」となったのは、どうやら「富人の別墅(べつしよ)」に逃入ってからのようでもある。こういう閲歴を有する狸のために、里右は

 

 七化(ななばけ)のしらけ仕舞や後の月 里右

 

と詠み、子葉は

 

 露の世や六十棒のめつたうち      子葉

 

の句を手向(たむ)けた。しかも里右は「古狸古狸、我汝が愚なるを憐んで是(この)我も釈氏の徒に化たりと笑て引導す」と狸に負けぬ手際を見せ、子葉も「聞、飯沼の弘經寺は所化の形に化して螢雪のひかりをもとめし其筆跡什物となりてありとかや」などといっているあたり、自(おのずか)ら狸味横溢するものがあるといわなければならぬ。この古狸が活躍したのは何処(どこ)か、飯沼の弘経寺の狸談というのはどんなものか、さっぱり見当がつかぬが、子葉が本懐を遂げるに先(さきだ)って古狸追悼の一文を草しているのは事実である。これは狸のみならず、義徒の一人たる大高源吾のためにも伝えてしかるべき逸事のような気がする。

[やぶちゃん注:「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の写本画像で「ふたつ竹」の終りにある、その「古狸引導」「古狸追悼」を読むことが出来る。ネット時代の冥利に尽きる思いが狸さえもするであろう。]

 なお『折々草』の中には連歌を詠む男が狸に証かされた話もあるが、あまり調子に乗って書いていると、此方も狸に致され気味だから、ここらで話を回転することにしよう。

[やぶちゃん注:宵曲が言っているいるのは「折々草」の「冬の部」の「連歌よむを聞て狸の笑ひしをいう條」である。]

柴田宵曲 俳諧博物誌(13) 狸 二

 

       

 

 俳諧と狸との交渉について閑却すべからざるものは、蕪村の『新花摘』であろう。今更蕪村の狐狸妖怪趣味でもあるまいが、この好材料を顧みぬのは古人のいわゆる「腹ふくるるわざ」である。腹はふくれた方が狸にふさわしいなどと混ぜ返してはいけない。

[やぶちゃん注:「蕪村の『新花摘』」与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)著になる寛政九(一七九七)年刊になる俳書。蕪村は安永六(一七七七)年夏、其角の「花摘」に倣って、恐らくは亡き母の追善のため、一日十句を創る夏行 (げぎょう) を思い立ち、十六日間百二十八句まで実行したが、あとは所労のため、七句を追加しただけで中絶した。その後、これに京都定住以前の回想談(其角の「五元集」に関する話・骨董論・五篇の狐狸談・其角の手紙の話など)を加えたものとして完成させたものが本書である。蕪村没後の天明四(一七八四)年、冊子であった自筆草稿を巻子本(かんすぼん)にする際、月渓の挿絵(私は個人的にはこの挿絵が好きではない)と跋文を加え、さらにその十三年後には原本が模刻出版されている。発句と俳文とが調和した蕪村の傑作とされる。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「腹ふくるるわざ」思ったことを言わずにいると、腹が張ってくるような不快な気持ちになる、の意。「徒然草」の第十九段、季節の変化の興趣を語った秋の箇所に出る表現。長いので、当該箇所だけを引く。

    *

 七夕(たなばた)祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒(よさむ)になるほど、雁(かり)鳴きてくる頃、萩の下葉(したば)色づくほど、早田(わさだ)刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古(ふ)りにたれど、同じことは、いまさらに言はじとにもあらず。思ふこと言はぬは、腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破(や)り捨(す)つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。

    *]

 蕪村の書いた狸談の一は丈羽なる者の別荘の話である。老翁一人に番をさせて、市中ながらも樹おいかさみ草しげりて世塵(せじん)をさくる便(たよ)りよしという場所であったから、蕪村も暫くそこに泊っていた。老翁は洒掃(さいそう)の外に仕事もないので、孤灯の下に夜長の珠数(じゅず)をつまぐり、蕪村は奥の一間で句を錬り詩をうめいていたが、やがて布団を被って寝ようとすると、広縁の雨戸をどしどしと二、三十ばかり連打する者がある。起出して戸をあけて見ても何もいない。また寝ようとすると前のような音がする。恐しくなって老翁に相談したら、それは狸の仕業です、今度来たら直ぐ戸をあけて逐(おい)かけて下さい、私は背戸の方から廻って、くね垣の下で隠れて待ちましょう、という。蕪村が心得て狸寝入をするほどにまたやって来た。そらといって戸をあける。老翁も声をかけて出合ったが、遂に何も見えぬ。斯くすること五日に及んだので、蕪村も睡眠不足になって疲れて来た。ところへ丈羽の家から人が来て、もう狸は今夜から参りますまい、今日の明方藪下というところで、年取った狸を撃った者があります、夜ごとの悪戯は其奴(そいつ)の仕業でしょうから、今夜は御安眠が出来ましょう、という話であった。なるほどその夜から音なくなったが、蕪村は「此ほど旅のわび寢のさびしきをとひよりたるかれが心」を憐み、善空坊という道心坊を語らい、一夜念仏してその菩提を弔ったというのである。

[やぶちゃん注:原文は後で示す。

「洒掃(さいそう)」「洒」は「水を注ぐこと」、「掃」は「塵を掃(は)くこと」で、洗濯と掃除の意。]

 蕪村はこの話に「狸ノ戸ニオトヅルヽハ尾ヲモテ扣(たた)クト人云メレド、左(さ)ニハアラズ、戸ニ背ヲ打ツクル音ナリ」という註を加えている。これは狸学者の研究範囲に属する問題であろうが、この一条を結んだ

 

 秋のくれ佛に化る狸かな      蕪村

 

の句は、少しく離れ過ぎた感がある。そうかといって

 

 戸を敲(たた)く狸も秋を惜みけり 蕪村

 

を持って来たのでは即(つ)き過ぎるであろう。不即不離はなかなかむずかしいらしい。

[やぶちゃん注:後に原文を示す。新潮日本古典文学集成を参考に漢字を恣意的に正字化して示し、句読点や改行も追加した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

「秋のくれ佛に化る狸かな」かの狸は今度は仏に化けたのだと思うこととしよう、というニュアンスであろう。

「戸を敲(たた)く狸も秋を惜みけり」底本は「戸を敲(たた)く狸と秋を惜みけり」となっているが、新潮日本古典集成の「与謝蕪村集」(昭和五四(一九七九)年刊)の清水孝之氏の注に従って訂した。前の句には別案があり、「戸を敲く狸も秋を惜みけり」は「落日庵」及び遺稿稿本に載るもの。他に「平安二十歌仙」「落日庵」には「秋をしむ戸に音づるゝ狸かな」がある。

   *

 結城の丈羽(ぢやうう)、別業(べつげふ)をかまへて、ひとりの老翁をしてつねに守らせけり。市中(しちゆう)ながらも、樹、おひかさみ、草しげりて、いさゝか、世塵をさくる便りよければ、余もしばらく其所に、やどりしにけり。

 翁(おきな)は酒掃(しやさう)のほか、なすわざもなければ、孤燈のもとに念珠(ねんじゆ)つまぐりて秋の夜の長きをかこち、余は奥の一間にありて句をねり、詩をうめきゐけるが、やがてこうじにたれば[やぶちゃん注:「困じにたれば」で「疲れたので」の意。]、ふとん引かふてとろとろと睡(ねぶら)んとするほどに、廣緣(ひろえん)のかたの雨戸をどしどしどしどしとたゝく。約(やく)するに[やぶちゃん注:おおよそ。]二、三十ばかりつらねうつ音す。いとあやしく胸とゞめきけれど、むくと起出て、やをら、戸を開き見るに、目にさへぎるものなし。又ふしどに入りてねぶらんとするに、はじめのごとくどしどしとたゝく。又起出見るに、もの影だになし。いといとおどろおどろしければ、翁に告ゲて、

「いかゞはせん。」

など、はかりけるに、翁曰(いはく)、

「こざめれ[やぶちゃん注:「こそあるらめ」の略である「ござんめれ」の転訛した語。手ぐすね引いて待つさまを指す。「よし! 来た!」。]、狸の所爲(しよゐ)なり。又、來りうつ時、そこ[やぶちゃん注:「足下」と傍書有り。]はすみやかに戸を開(ひらき)て逐(お)うつべし。翁は背戸のかたより𢌞(めぐ)りて、くね垣[やぶちゃん注:垣根のこと。]のもとにかくれ居て待(まつ)べし。」

と、しもと[やぶちゃん注:「笞(しもと)」。鞭(むち)。]ひきそばめつゝ、うかゞひゐたり。余も狸寢いりして待(まつ)ほどに、又、どしどしと、たゝく。

「あはや。」

と戸を開(ひら)ケバ、翁も、

「やゝ。」

と聲かけて出合(いであひ)けるに、すべてものなければ、おきなうちはらだちて、くまぐま、のこるかたなく、かりもとむるに[やぶちゃん注:こと細かに探し求めたのであったが。]、影だに見えず。

 かくすること、連夜五日ばかりに及びければ、こゝろつかれて今は住(すま)うべくもあらず覺えけるに、丈羽が家のおとな[やぶちゃん注:「長」と傍書有り。その地区の奴婢(ぬひ)の元締め。]ゝるもの來りて云(いふ)、

「そのもの、今宵(こよひ)はまゐるべからず、此あかつき、籔下(やぶし)タといふところにて、里人(りじん)狸の老(おい)たるをうち得たり。おもふに、此ほどあしくおどろかし奉りたるは、うたがふべくもなくシヤツ[やぶちゃん注:「其奴(そやつ)」の転訛した語。]が所爲也。こよひは、いをやすく[やぶちゃん注:「寢(い)を安く」。]おはせ。」

など、かたる。

 はたして、その夜より音なく成(なり)けり。

 にくしとこそおもへ、此ほど旅のわび寢のさびしきをとひよりたる[やぶちゃん注:慰めんとしてでも「訪(と)ひ寄り」呉れた。]、かれが心のいとあはれに、かりそめならぬちぎりにやなど、うちなげかる。されば、善空坊といへる道心者(だうしんもの)をかたらひ、布施とらせつ、ひと夜、念佛して、かれがぼだいを、とぶらひ侍りぬ。

 

 秋のくれ佛に化(ばけ)る狸かな

 

 狸ノ戸ニオトヅルヽハ、尾ヲモテ扣(たた)ク

 ト、人、云(いふ)メレド、左(さ)ニハアラ

 ズ、戸ニ背(せ)ヲ打(うち)ツクル音ナリ。

   *]

 

 もう一つの話は丹後宮津の見性寺(けんしょうじ)に三年余も滞在した時の事である。一夜厠(かわや)へ行こうとして「何やらんむくむくと毛のおひたるもの」に踏み当った。驚いて足を引きそばめ、闇中(あんちゅう)を窺(うかが)ったが、何の音もない。ここと思うあたりをはたと蹴(けつ)ても、一向障(さわ)るものがないので、俄(にわか)に恐しくなった。法師、下部(しもべ)らを呼起し、灯火を照して奥の間へ来て見たが、襖障子は常の如く寂然としている。あなたの神経でしょう、ということになつて臥牀(ねどこ)に入ると、今度は胸の上に磐石(ばんじゃく)でも乗せられたような気がして、夢中に呻(うめ)き声を立てる。竹渓という和尚がそれを聞いて起してくれた。それは狸沙弥(しゃみ)の仕業だというので、妻戸を押開いて見ると、縁から簀(す)の子(こ)の下まで梅の花のような足跡が続いている。前に蕪村の言を信じなかった人々も、これを見ては「さなん有りけり」といわざるを得なかった。

[やぶちゃん注:前の引用に続くもの。先の要領で原文を後に示す。

「見性寺」天の橋立の近く、京都府宮津市小川にある浄土宗一心山見性寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。寛永二(一六二五)年に建立された。

   *

 むかし、丹後宮津の見性寺(けんしやうじ)といへるに、三とせあまり、やどりゐにけり。秋のはじめより、あつぶるひ[やぶちゃん注:「熱震ひ」。概ね、マラリヤを指す。]のためにくるしむこと、五十日ばかり、奧の一間は、いといとひろき座しきにて、つねにさうじ[やぶちゃん注:障子。]、ひしと戸ざして、風の通ふひまだに、あらず。其(その)次の一間に病床をかまへ、へだてのふすまをたてきりて有(あり)けり。ある夜、四更[やぶちゃん注:午前二時頃。]ばかりなるに、やまひ、やゝひまありければ[やぶちゃん注:小康状態になっていたので。]、かはやにゆかんとおもひて、ふらめき起(おき)たり。

 かはやは奧の間のくれえん[やぶちゃん注:「榑緣」。細長い板を敷居と平行に並べて張った縁側のこと。]をめぐりて、いぬゐ[やぶちゃん注:北西。]の隅にあり。ともしびもきえて、いたう、くらきに、へだてのふすま、おし明(あけ)て、まづ、右(みぎ)り[やぶちゃん注:普通の右の意。「左(ひだ)り」の対語となるように作った語。]の足を一步さし入(いれ)ければ、何やらん、

「むくむく。」

と毛のおひたる[やぶちゃん注:「生いたる」。生えた。]ものを、ふみ當(あて)たり。

 おどろおどろしければ、やがて足をひきそばめて[やぶちゃん注:すっと引き縮めて。]、うかゞひゐたりけるに、ものゝ音もせず。

 あやしくおどろおどろしけれど、むねうち、こゝろさだめて、此たびは左りの足をもて、こゝなん、と思ひて、

「はた。」

と蹴(け)たり。

 されど、露(つゆ)さはるもの、なし。

 いよゝ、こゝろえず、みのけだちければ、わなゝくわなゝく、庫裡(くり)なるかたへ立(たち)こえ[やぶちゃん注:行って。]、法師・しもべなどの、いたく寢ごちたるを[やぶちゃん注:ぐっすりと寝込んでいる。]うちおどろかして、

「かくかく。」

と、かたれば、みな起出(おきいで)つ。

 ともし火、あまたてらして、奧の間にゆきて見るに、ふすま・さうじはつねのごとく戸ざしありて、のがるべきひまなく、もとよりあやしきものゝ影だに見えず。

 みな云ふ、

「わどの[やぶちゃん注:「和殿・吾殿」対等の二人称。]、やまひにをかされて、まさなく[やぶちゃん注:正気でないので。]、そゞろごと[やぶちゃん注:「漫言(そぞろごと)」とりとめもない訳の分からぬこと。]いふなめり。」

と、いかり、はらだちつゝ、みな、ふしたり。

 中中(なかなか)に[やぶちゃん注:なまじっか。]あらぬこといひ出けるよと、おもなくて[やぶちゃん注:面目なく思って。]、我もふしどにいりぬ。やがて眠らんとする頃、むねのうへばんしやく[やぶちゃん注:盤石。大きな重い石。]をのせたらんやうにおぼえて、たゞうめきに、うめきける。

 其聲のもれ聞えけるにや、住侶[やぶちゃん注:住持。]竹溪師、いりおはして、

「あな、あさまし。こは何ぞ。」

と、たすけおこしたり。

 やゝ人ごゝちつきて、かくとかたりければ、

「さることこそあなれ[やぶちゃん注:そういうことは実際、確かにあることに違いない。]、かの狸沙彌が所爲なり。」

とて、妻戸おしひらき見るに、夜、しらじらと明(あ)ケて、あからさまに見認(みとめ)けるに、椽(えん)より簀の子のしたにつゞきて、梅の花のうちちりたるやうに、跡、付(つき)たり。

 扨(さて)ぞ、先キにそゞろごと云(いひ)たりとて、のゝしりたるものども、

「さなん有けり。」[やぶちゃん注:「そういうことであったのか!」。]

とて、あさみあへり[やぶちゃん注:驚き呆れたのであった。]。

   *

「竹溪師」触誉芳雲(正徳五(一七一五)年~安永八(一七七九)年)見性寺第九世。見性寺公式サイト内の「与謝蕪村と見性寺」を是非、見られたい。]

 蕪村はこの一条に続いて、竹渓和尚の不思議な様子を描いている。林若樹(はやしわかき)氏がかつて『読売新聞』に「狸の睾丸人畳敷」の考証を書かれた時も、『新花摘』の本文を引用して、蕪村は竹渓師を狸の化生(けしょう)ではないかと怪しんでいるといわれたように記憶する。狸の化けたのでないにしたところが、狸味横溢していたことは明(あきらか)で、竹渓師うちわらいて「秋ふるや楠(くす)八疊の金閣寺」という結びの一句も何となく薄気味が悪い。もし世の中に狸笑というものが存在するとしたら、この竹渓和尚の笑の如きが正にそれであろう。

[やぶちゃん注:同じく、前の引用に続くもの。先の要領で原文を後に示す。

「林若樹」既出既注以下の『読売新聞』に載ったという「狸の睾丸八畳敷」は不詳。この宵曲の書き方では、あたかも本執筆(「俳諧博物誌」は昭和五六(一九八一)年刊)のさほど遠くない近過去のように読まれてしまう虞れがあるが、林は昭和一三(一九三八)年に亡くなっているから、四十数年以上も前、戦前のことである。

   *

 竹渓師は、

「あはや。」

といそぎ起出(おきいで)給ひけるにや、おびも結(ゆ)ひあえず、ころもうち披(ひら)きつゝ、ふくらかなる睾丸(かうぐわん)の、米囊(べいのう)のごときに、白き毛、種々(しようしよう[やぶちゃん注:読みはママ。ふさふさと。])とおひかぶさりて、まめやかもの[やぶちゃん注:本来そこにあるべき主なる物。男根のこと。]はありとも見えず。わかきより痒(かゆが)りのやまひ[やぶちゃん注:いんきんたむし。主に陰部に白癬菌が感染することで起こる。「股部白癬」。]ありとて、たゞ睾丸を引(ひき)のばしつゝ、ひねりかきて、おはす。其(その)有(あり)さま、いとあやしく、かの朱鶴(しゆかく)長老の聖經(しやうぎやう)にうみたるにやと、いとどおそろしくこゝろおかれければ、竹渓師、うちわらひて、

 

 秋ふるや楠八疊の金閣寺   竹溪

 

   *

最後の部分の、「朱鶴(しゆかく)長老」は群馬県館林市にある曹洞宗青竜山茂林寺(もりんじ)の寺僧朱鶴のことで、同寺に文福茶釜をもたらしたことで知られ、彼の正体は狸であったとされる。茂林寺公式サイト内の「分福茶釜と茂林寺」を参照されたい。「聖經」は仏聖の書いた有り難い経典。「いとどおそろしくこゝろおかれければ」は「(そんなふうな比喩をあからさまに言うことは、たいそうまずかろうと遠慮して黙っていたところ、の意。

新潮日本古典集成の「与謝蕪村集」の清水孝之氏の注によれば、最後の句は『〈秋もたけた今日この頃、古雅な金閣寺の楠造りの八畳の間に楠がよく』匂う『よ〉』が表の意味であるが、『裏の意は「ふる」に「古る」「振る」を掛け、「楠八畳」に「狸の睾丸(きんだま)八畳敷」を匂わし、「金閣」に「きんだま」を利かせ、「わしがそんなに』(狸なのではなかろうかとまで)臭う『かな」とおどけてみせた』滑稽句である、とある。]

 『蕪村句集』中に狐の句は多いが、狸の句はあまり見えぬ。右に挙げた秋の暮の二句は、この種の狸文学の圧巻たるべきものである。「國中往々怪を描くものあり、これ予が癖にして實に東洋民族の癖なり」といった小川芋銭氏も、一番多く描いたのが河童で、その次は狐だろうということだから、狐の方が狸より画になり詩になりやすい要素を多く有するのかも知れない。「仏に化る狸」は『宇治拾遺』中の話を連想せしめる。愛宕山に住む高僧が白象に乗った普賢菩薩を拝む。その話を開かされた猟師が、自分の目にも同じく普賢菩薩が見えるのを怪しみ、殺生を業とする自分などに仏が拝めるはずはない、これは化物の所為であろうとして妄に射倒す。果してそれは狸であったという話である。明治に至って小泉八雲は「常識」なる題下にこの話を書き、「博学にして信心深い人であったが、僧は狸に容易にだまされていた。しかし猟師は無信心ではあったが、強い常識を生れながらもっていた。この生れながらもっていた常識だけで直に危険な迷を看破し、かつそれを退治することができた」という解釈を与えている。

[やぶちゃん注:「宇治拾遺物語」のそれは、私が幼少時より、後に出る小泉八雲のそれを皮切りとしてひどく偏愛してきた話で、「宇治拾遺物語」の第百四話「獵師、佛を射る事」である。総ては私の柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲“Common Sense”原文+田部隆次譯 / 「佛と魔」~了の私の注を参照されたい。]

 

 若葉山ほとけと見しは古狸   曉

 

多分同じ材料によるものと思われる。

 こういう狸を捉えたものは、他の俳句に類例がないのみならず、日本文学としても乏しい部類に属するであろう。狸に戸を敵かれた蕪村は気味悪くもあり、恐しくもあったに相違ないが、その底には狸に対して或(ある)親しみを感ずる所がある。蕪村には「秋をしむ戸に音づるゝ狸かな」という句もあるが、「音づるゝ」では狸の真面目を発揮し得ない。ここはどうしても「戸を敲く」でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「秋をしむ戸に音づるゝ狸かな」既注済み。]

 蕪村の描いた竹渓和尚の正体は姑(しばら)く別問題として、狸の化け方は巧妙な点で狐に及ばぬにせよ、坊主に化ける一段に至っては狸の方が適役らしい。殊にあの便々(べんべん)たる腹は狸和尚の風采に欠くべからざるものである。

[やぶちゃん注:「姑(しばら)く」この字をかく訓ずること自体は、文学好きなら、まずは常識として知ってはいる。が、では、何故「姑(しゅうとめ)」の意の漢字をかく訓ずるかについては知らぬ方が多かろうと思う。実は私も知らなかった。本当かどうかは確認出来なかったが、あるQ&Aサイトの答えに、年配女性である姑は一般的に「保守的になりがちで、現状をそのままにしておこうとする傾向が強い」ことから「暫く」という意味になったとあった。但し、この「しばらく」の意は「詩経」に既に出ているから、非常に古いことだけは確かである。

「便々(べんべん)たる」太って腹の出ているさま。]

 狸が坊主に化けて諸国を巡歴したという話は方々に伝わつている。本当に化け了(おお)せていれば、誰にもわかるはずはないが、人の目よりも犬の目の方が欺きにくいと見えて、偶然の機会から狸脚を露(あらわ)す例が多い。

 

 狸かもしらず夏野を行(ゆく)坊主 千畦(せんけい)

 あの坊子(ぼうず)狸にもせよひがんかな

                  秋光

 

という句は、這間(しゃかん)の消息を洩している点で注目に値する。一見何でもないようなものの、どこかに怪しい節(ふし)があって、狸ではないかというような評判が立つ。あるいはそうかも知れぬという程度の話で、疑われる者が常に僧形であるのは、狸との因縁浅からざる所以を証するものであろう。句としては格別妙でもないが、作者が一概に狸とも断ぜず、全然疑(うたがい)なきにも非ずという点から、この坊主に臨んでいるのがちょっと面白い。

 

 弘法(こうばう)を狸にしたる蚊遣(かやり)かな

                  支考

 

の句に至ると、巡歴の僧を弘法大師として、その側に蚊遣が焚いてあるのを、狸を松葉燻(いぶ)しにする体と見立てたものの如く、一応は解せられる。狸の化けた弘法ならば、蚊遣に燻し立てられて正体を露すであろうが、さてこの句の真意はとなると、言葉の難解でない割に捕捉しにくい点がある。「四日市宿」という前書に子細でもあるかと思って『蓮二吟集(れんじぎんしゅう)』をしらべて見たら、「四日市と云處に宿す。西條といへる柹の名所也。此里に我名を知りたる男有(あり)て來りて風雅の事いひていにけるを主の聞て我に物書(かき)て得させよと云。我を尊き者とおもふにこそと心の程おかしければ」という長い前書がついていた。是(これ)に依って之(これ)を見るに、狸にされた弘法とは即ち支考自身の事であるらしい。危く引掛るところであった。もし支考が自ら蕉門の狸を以て任じ、その尻尾を出したものとすれば、一の愛敬であるが、比擬もこうなっては畢(つい)に厭味(いやみ)を免れぬ。

老媼茶話巻之六 血氣の勇

 

     血氣の勇

 

 もろこしに血氣の勇者、有(あり)。或夜の夢に、人、有て、彼(かの)ものゝつらへ、つばきをはきかけ、散々に訇(ののし)り、惡口す。

 夢さめて、口をしさ、限りなし。

「夢に似たる人あらば、其者を打(うち)ころし、夢の恥辱をすゝがむ。」

と目をいからし、こぶしを握り、市中を、曉より日暮るゝ迄、尋(たづね)ありきけれども、夢に似たる人、なかりければ、是非なく、宿へ歸りけるが、いかりの氣、猶、やまず、怒悶(フンモン)のあまり、終(つゐ)に、みづから、首を刎(はね)、しゝたりけんとなん。

 

[やぶちゃん注:何だか、伝奇か志怪小説で確かに読んだ記憶はあるのだが、原典不詳。識者の御教授を乞う。

「怒悶(フンモン)」漢字も読みも原典のママ。]

老媼茶話巻之六 五勇ヲ分ツ

 

    分(ワカツ)五勇

 

 夫(それ)、長劍を帶し、榛荊(シンケイ)に分入(いり)、兕豹(ケイヒヤウ)をたゝき、虎熊(コユウ)を打(うち)おそれざる。是、獵者の勇也。

 劍を負(おひ)て深渕(シンエン)に潛(カヅキ)入(いり)、蚊龍(コウリヤウ)を取(とり)ひしぎ、黿鰐(ゲンガク)をうつは、是、漁者の勇也。

 高くあやうき屋上(ヲクじやう)に登り、四方鵠立(コウリヤウ)して顏色へんぜず、もゝふるはず。是、工匠の勇也。

 剽(キツ)ては必ず刺(サシ)、視(ミ)ては必(かならず)、殺す。是、典刑の勇也。

 君父の爲に、其身、粉骨碎身(フンコツサイシン)せらるゝに、志(こころざし)、くつせず、變ぜざる。是、仁義の勇也。

 

[やぶちゃん注:「榛荊(シンケイ)」単漢字では「榛」はブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を、「荊」はバラ類(バラ目バラ科 Rosaceae)・カラタチ(ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata)等の有意な棘(とげ)のある低木の総称であるが、これはそれらを主とした、いらいらと肌を刺す藪や鋭い棘を持った茨(いばら)類の茂る雑木林などの謂い。「荊榛」(けいしん)とも書く。

「兕豹(ケイヒヤウ)」「兕」は中国の想像上の水牛に似た一角獣であるが、それの角として輸入されたのはサイの角であり、後、この漢字は雌の犀を意味する字となった。しかしここはまあ、獰猛な獣や豹(ひょう)の意で採ればよかろう。問題は読みで、「兕」は呉音が「ジ」、漢音が「シ」であって「ケイ」という音はなく、「豹」も「ヒョウ」の歴史的仮名遣は「ヘウ」であるから、おかしい

「深渕」底本が敢えてこの字を用いているので、原典がこれであろうと推理し、そのまま使った。

「黿鰐(ゲンガク)」「黿」は現現代国で、爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科 Trionychinae のスッポンでも大型種で吸着力もハンパないマルスッポン属マルスッポン Pelochelys cantorii を指す。顎の力が強く、嘴も鋭いため、噛まれると、かなりひどい怪我を負うこともある。されば、ここは大すっぽんと鰐(わに)と採ってよかろう。わざわざ本邦の「わに」=鮫の意に読み換える必要は私はないと思う。ここで語られていることは、使用されている漢字からも、多分に大陸的な本草学に基づくものであるからである。

「鵠立(コウリヤウ)」大きな体の白鳥が首をすっくと立てて、四方を泰然自若として見廻すように、大工が高い屋根の上でも平然と立って仕事ができることを比喩していよう。但し、読みが矢張りやや問題で、正規の音は「鵠」が呉音で「コク・ゴク」、漢音で「コク」であること(但し、本邦では慣用音として「コウ」の音もあるにはある)、「立」は呉音・漢音ともに「リユウ」で慣用音も「リツ」であるから、この読みはやはりおかしい。どうも、ある種の確信犯で、わざと前条の「蚊龍(コウリヤウ)」と対(つい)にして、かく読んだのではないかと疑いたくなる仕儀である。

「剽(キツ)て」この字は音は基本「ヘウ(ヒョウ)」であるものの、「脅かす・刺す・斬る」の意であるから、ここは「斬(き)つて」の当て読みをしていると採る後が極悪の罪を犯した者を非難して「凝っと見つめる」だけでなく、実際に「死刑に処する」というニュアンスのそれであるのに対して、同じく「脅す」だけでなく、実際に「刺し」て処罰すると採るべきかも知れぬが、それでは「キツ」の音が説明不能となる。]

2017/11/29

今日はお祝いで店仕舞い

今日はこれから、先日、めでたく公務員保育士に採用された、11年前に担任した元女生徒をお祝いするために久しぶりに下界に降りる。

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 飛ぶ島(ラピュタ)(5) 「四章 發明屋敷」(2)

 

 この學士院は〔、〕全體が一つの建物になつてゐるのではなく、往來の兩側に並んだ建物がずつと並んでゐました。

 私〔が訪ねて行くと、〕院長は大變喜んでくれました。私は何日も何日も〔、〕學士院へ出かけて行きました。どの部屋にも〔、〕企劃士が〔一人以上二人〕ゐました。私が見た部屋は五百〔は凡そ五百ぐらい〕の部屋を見て步きました。

[やぶちゃん注:「企劃士が」はママ。現行版では『発明家が』となっている。]

 最初に會つた男は〔、〕手も顏も煤だらけで、髮は蓬々と伸び、それに〔、〕ところどころ燒〔け〕焦げがありました。〔そして〕服もシヤツも〔、〕皮膚と同じ色でした〔なのです。〕

 彼は〔なんでももう八年間〕〔、〕胡瓜から〔、〕日光を引き出す計畫を〔、〕やつてゐるのださうです。なんでも〔、も〕う八年間このことばかり考へてゐるのださうです。それは、つまり〔、〕この胡瓜からひきだした日光を壜づめにしておいて、夏のじめじめする日に、空気を暖めるために使はうといふのです。

「もうあと八年もすれば、〔これは〕きつとうまくできるでせう」と彼は私に云ひました。

 「しかし〔〕困るのは、胡瓜の値段が今たいへん〔非常に〕高いことです。どうか〔一つこの〕發明をたすけるために〔いくらか〕寄附して頂けないでせうか。」

 と彼は手を差出しました。私はいくらか彼に〔お金を〕やりました。學士院では見物人を見るとすぐ物をねだるくせがあると、私は太公からきいて〔知つて〕ゐましたので

 次の部屋に入ると、悪臭がむんと鼻をつきました。〔びつくりして〕私は飛出したのですが、案内者がひきとめました。〔て、〕小声でかう云ひました。

 「〔どうか〕向の〔先方の〕気を損ねるやうなこと〔を〕しないで下さい。ひどく腹を立てますから。」

 それで〔、〕私は鼻をつまむことも〔わけに〕も行かないのです。この室の企劃士は〔、〕顏も鬚も黄色〔に〕なり、手や着物は汚れた色がついてゐます。彼の研究といふのは、人間の排泄したものを、〔もう一度〕もとの食物になほすことでした。

[やぶちゃん注:「それで〔、〕私は鼻をつまむことも〔わけに〕も行かないのです。」現行版は『それで、私は鼻をつまむわけにもゆかず困ってしまいました。』となっている。]

 それから〔、〕別の部屋に入ると、氷を燒いて火藥にすることを〔、〕工夫してゐる男がゐました。

 それから〔、〕非常に器用な建築家もゐました。彼が思ひついた新しい考へによると、〔家を建てるには〕『一番はじめに屋根をつくり、そしてだんだん下の方を作つて行くのがいいといふのです。その証〔こ〕には、蜂や蟻〔など〕こんな〔れと〕同じやり方でやつてゐる〔ではないか〕と〔、〕彼は云ひます。

[やぶちゃん注:二重鍵括弧の閉じるがないのはママ。現行版は二重鍵括弧はない。]

 〔ある部屋には、〕生れながらの盲人が、盲人〔の〕弟子〔を〕使つてゐました。彼等の仕事は〔畫家のために〕繪具を混ぜることでした。この先生は、指と鼻で色が見わけられるといふのです。しかし私が訪ねた時は、先生は殆ど間違つてばかりゐました。

 また別の部屋には、鋤や家畜のかはりに、豚を使つて土地を耕す〔ことを〕發見したといふ企劃士〔男〕がゐました。

 それはかうするのです、まづ一エーカーの土地に六吋おきに八吋の深さに、どんぐり、なつめ、やし、栗その他、豚の好きさうなものを澤山うめておきます。それから、六百頭あまりの豚を〔、〕そこへ追ひこむのです。すると二三日もすれば、豚どもは食物を探して〔、〕隅から隅まで掘りかへすし、それに〔、〕豚の糞が肥料になるので、あとは〔もう〕種を蒔まけばいいばかりになります〔です。〕もつとも、これも實際にをやるには〕やるには〔お金と人〕手がかかるばかりで、作物は殆どとれなかつたといふことです。

[やぶちゃん注:「一エーカー」四千六十四平方メートル。

「六吋」六インチは約十五センチメートル。

「八吋」約二十センチメートル。]

 〔さて、〕その次の部屋に行つてみる〔く〕と、壁から天井から〔、〕蜘蛛の巣だらけでした〔、〕〔やつと〕人一人が出入りできるだけの狹い路がついてゐました。私が入つて行くと、

 「くもの巣を破つては駄目だ。」

と、いきなり大声で怒鳴られました。それから相手は私に〔こんなことを〕話してくれました。

 「そもそも蜘蛛〔といふ→といふもの〕蠶などよりずつと立派な昆蟲なのです。〔だよ■→なのだ。〕蜘蛛は糸〔を〕紡ぎ方〔ぐだけでなく〕織り方までちやんと心得てゐる。だから、蠶のかはりに蜘蛛を使えば、絹を染める手數が省けることになる」

 さういつて彼は、非常に美しい蠅を澤山取出して見せてくれました。つまり、蜘蛛にこの〔美しい〕蠅を食べさせると、くもの糸にその色がつくのださうです。それに彼はいろんな色の蠅を飼つてゐましたが、もしこの蠅の餌〔として〕、何か糸を強くさすものが■→ないかしら→見つからないか〔を〕硏究してゐるのでした。

 それから私は、もう一人、有名な人を見ました。〔この人は、もう三十年間といふものは、人類の生活を改良さすことばかり考へつづけてゐるのです。〕彼の部屋は奇妙な品物で一ぱいでしたが、五十人の男たちが、彼の指図で働いてゐます〔ました。〕

 ある者は〔、〕空氣を乾して塊りにすることを硏究してゐました。また、ある者は、石をゴムのやうに〔軟〕かにして枕〔を〕こしらへようとしてゐました。生きた馬の蹄のところを石に〔す〕ることを考へてゐる者もいました。

 それから、〔これは〕私にはどうもよく分らないのですが、〔この有名な人は〔學者は〕畑に籾殻を蒔まくことと、羊に毛の生えない藥を塗ることを〔目下〕、しき→しきりに〕研究してゐるのでした〔るのださうです〕。

[やぶちゃん注:次に一行空けの記号があるが、現行版には行空きはない。]

柴田宵曲 俳諧博物誌(12) 狸 一

 

      

 

       一

 

 狸は「かちかち山」以来久しい御馴染であるが、実際には甚だ疎遠の間柄で、瀬戸物屋の店頭の外、正真の狸に面と向った記憶は殆どない。先年志村の火薬工場に柴葉子(さいようし)をたずねた際、一隅に獣が飼ってあって、これは貉(むじな)だと教えられた。どういう順序で捕獲されたのであったか、もう忘れてしまったけれども、狸と貉の差別が新聞紙上を賑(にぎわ)していた時分だったので、一種妙な気持でその獣を眺めたおぼえがある。狸と貉の差別については、動物学者以外に久米邦武博士なども「狸貉(りかく)同異の弁」という説を述べている。今そういうものを援用して、道草を食っているわけにも往かぬが、狸族に御目にかかったのはそれが最近であり、はっきり意識しているのもこの時以外にないのだから、どこから手を著けていいか、相手が人を化すことを心得ているだけに、此方(こっち)もいささか迷わざるを得ぬ。

[やぶちゃん注:「志村」現在の東京都板橋区志村か。この北直近の板橋区中台に昭和二四(一九四九)年に八社共同火薬庫が存在し、この年の九月に爆発事故を起こしている。

「柴葉子」不詳。

「狸と貉の差別」動物界 Animalia脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata哺乳綱 Mammalia食肉(ネコ)目 Carnivoraイヌ科 Canidaeタヌキ属 Nyctereutesタヌキ Nyctereutes procyonoides は元来、極東(日本・朝鮮半島・中国・ロシア東部など)にのみに偏在して棲息していた分布域が非常に珍しい動物である。一九二八年に毛皮採取の目的でソ連に移入された亜種ビンエツタヌキ Nyctereutes procyonoides procyonoides が野生化し、ポーランド・東ドイツを経て、現在はフィンランドやドイツ、及びフランスやイタリアへと分布を広げている。本邦には本州・四国・九州に亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus が、北海道に亜種エゾタヌキ Nyctereutes procyonides albus の二亜種が棲息する。「貉(むじな)」は通常、食肉目 Carnivoraイヌ型亜目 Caniformiaクマ下目 Arctoideaイタチ小目 Mustelidaイタチ上科 Musteroideaイタチ科 Mustelidaeアナグマ属 Melesニホンアナグマ Meles anakuma に比定される全くの別種である(ニホンアナグマはアナグマ Meles meles の亜種とされていたが、二〇〇二年に陰茎骨の形状の相違から独立種とする説が提唱されているのに従った)。両者は雑食性であること、夜行性であること、擬死をすることなど、生態も外観(特にタヌキの冬毛が抜けて捺毛になった状態)も類似していることなどから混同されることも多いが、アナグマは耳が小さく、脚もタヌキより短くて爪が鋭いなど、素人でもよく観察すれば区別は可能である。ややこしいのは寧ろ、人間の側の古来からの呼称の方で、両者をともに「貉(むじな)」と呼ぶ地方や、「狸」を「むじな」と呼ぶ地方もあり、さらに面倒なことに、それ以外のアナグマと同じイタチ科のテン(イタチ科イタチ亜科テン属テン Martes melampus)やジャコウネコ科のハクビシン(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシンPaguma larvata)をも含めて十把一絡げに「むじな」とする地域もあり、これが混同される大きな一因となっている。昔話の「かちかち山」のタヌキはアナグマであるというかなり信じられている説があるが、これは生物学的な検証に基づくものとは私には思われない。その説が載るウィキの「ニホンアナグマ」には、『タヌキと本種は混同されることがあるが、その理由の一つとして、同じ巣穴に住んでいる、ということがあるのではないかと推察される。本種は大規模な巣穴を全部使用しているのではなく、使用していない部分をタヌキが使用することもある』。『昔の猟師は本種の巣穴の出入口を』一『ヶ所だけ開けておき、残りのすべての出入口をふさぎ、煙で燻して本種が外に出てくるところを待ち伏せして銃で狩猟した。そのときに本種の巣穴の一部を利用していたタヌキも出てきたことも考えられ、このことがタヌキと本種を混同する原因の一つになったと思われる』とある。そうした錯誤が裁判にまで発展したケースがあるので、ウィキの「たぬき・むじな事件」から引いておく。これは大正一三(一九二四)年に『栃木県で発生した狩猟法違反の事件』で、『刑事裁判が行われ、翌年』『に大審院において被告人に無罪判決』『が下され』ている。日本の刑法の第三十八条の「事実の錯誤」(一般には「故意」と呼ばれる条文。『第三八条 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。』『2 重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。』『3 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。』という条文である)『に関する判例として』、『現在でもよく引用される』事件・判決である。被告人は同年二月二十九日、『猟犬を連れ』、認可を受けている『村田銃を携えて狩りに向かい、その日のうちにムジナ』二『匹を洞窟の中に追い込んで大石をもって洞窟唯一の出入口である洞穴を塞いだが、被告人はさらに奥地に向かうために直ちにムジナを仕留めずに一旦その場を立ち去った。その後』、三月三日『に改めて洞穴を開いて捕らえられていたムジナを猟犬と村田銃を用いて狩った』。『警察はこの行為が』当時、三月一日『以後にタヌキを捕獲することを禁じた狩猟法に違反するとして被告人を逮捕した』(現行の同法施工規則では猟期は十一月十五日から翌年の二月十五日となっている)『下級審では、「動物学においてタヌキとムジナは同一とされている」こと、「実際の捕獲日を』三月一日『以後である」と判断したことにより被告人を有罪とした。だが被告人は、自らの住む地域を始めとして昔からタヌキとムジナは別の生物であると考えられてきたこと(つまり狩猟法の規制の対象外であると考えていたこと)』二月二十九日『の段階でムジナを逃げ出せないように確保しているので』、『この日が捕獲日にあたると主張して大審院まで争った』。『大審院判決では、タヌキとムジナの動物学的な同一性は認めながらも、その事実は広く(当時の)国民一般に定着した認識ではなく、逆に、タヌキとムジナを別種の生物とする認識は被告人だけに留まるものではないために「事実の錯誤」として故意責任阻却が妥当であること、またこれをタヌキだとしても、タヌキの占有のために実際の行動を開始した』二月二十九日『の段階において被告人による先占が成立しており、同日をもって捕獲日と認定(つまり狩猟法がタヌキを捕獲を認めている期限内の行為と)するのが適切であるとして被告人を無罪とした』というものである。 リンク先の『判決文から一部抜粋』も引いておく。『狸、貉(むじな)の名称は古来併存し、我国の習俗此の二者を区別し毫(いささか)も怪まざる所なるを以て、狩猟法中に於て狸なる名称中には貉をも包含することを明(あきらか)にし、国民をして適帰(てつき)する所を知らしむるの注意を取るを当然とすべく、単に狸なる名称を掲げて其の内に当然貉を包含せしめ、我国古来の習俗上の観念に従い貉を以て狸と別物なりと思惟(しい)し之を捕獲したる者に対し刑罰の制裁を以て臨むが如きは、決して其の当を得たるものと謂(い)うを得ず』。

「久米邦武」(天保一〇(一八三九)年~昭和六(一九三一)年)は元佐賀藩士で歴史学者。近代日本の歴史学における先駆者とされる。

「狸貉同異の弁」久米が大正七(一九一八)年十二月発行の戸川残花編「たぬき」(発行所は三進堂・清和堂と二者が奥付にある)に発表したものらしい(データは個人サイト「大当り狸御殿」の「狸本・狸あれこれ・タイガース・ETCに拠った)。私は未見。以下に出る「たぬき」と同一書。編者戸川残花は本名戸川安宅(とがわやすいえ 安政二(一八五五)年~大正一三(一九二四)年)は元旗本で、文学者及びプロテスタント系の「日本基督教会」の牧師の雅号。]

 そこで河童の場合、『山嶋民譚集』を唯一のたよりにしたように、何かないかと思って書架を点検したら、『たぬき』という妙な本が見つかった。柳田国男氏の「狸とデモノロジー」という所説も中に見えるから、この辺を後楯(うしろだて)にして句中の狸を物色することにしよう。

[やぶちゃん注:『柳田国男氏の「狸とデモノロジー」』ちくま文庫版全集の同随筆の末尾には『(『たぬき』大正七年九月)』とある。先の引用元には同年十二発行とあるのとは齟齬するが、まず、同一書と考えてよかろう。「デモノロジー」は「Demonology」で一般にはヨーロッパでかつて流行した悪魔学・悪魔術・悪魔研究」の意であるが、柳田は人を化かす妖怪・妖獣の意を中心とした広義の「オカルティズム」(occultism:神秘学)の意で用いている。]

 子供の時読んだ御伽噺に、狸が汽車に化ける話があった。いつも腹鼓ばかり打って暢気だとお月様に笑われた狸が、実は汽車を開業しようと思っていますという。翌晩同じ野原を照していると、向うから俄(にわか)に汽笛が聞えて、汽車が進んで来る。それが狸の仕業だったのには、さすがのお月様もびっくりした。爾来狸は図に乗って、本当の汽車に向って突進する。機関士が慌てて汽車を止めるのが面白いので、何度も同じ悪戯を繰返しているうちに、とうとう狸の所為であることがわかって、汽車は構わず走って来る。衝突すると同時に狸は轢殺(ひきころ)されるという筋であった。これはその作者の創意に成る話と思っていたところ、後年に及んで全国到る処に同様の話があり、明治の新事物に村して狸が大袈裟な化け方をしたものだということを知った。「狸とデモノロジー」にもその事が挙げてあり、一体に狸は好んで音の真似をする、即ち人の耳を欺く方だと書いてある。汽車に化けるなどは少し新し過ぎるが、この特徴は慥に看過すべからざるものであろう。明治の俳人は逸早(いちはや)く句中のものにしている。

 

 枯野原汽車に化けたる狸あり   漱石

 

[やぶちゃん注:この話、私が好んで授業でやった大塚英志「少女民俗学」(光文社一九八九年刊)の中の「〈噂話〉〈怪談〉
――「霊界」からのメッセージ」を思い出される教え子諸君も多かろう。そこでこの汽車に化けて果ては轢死した狸を私は「文化に抹殺された古典的お化け古河市の例」と板書したね。私も懐かしいよ。これは「偽汽車」などと呼ばれる近代妖怪譚の掉尾を飾るもので、松谷みよ子「現代民話考3 偽汽車・船・自動車の笑いと怪談」(一九八五年立風書房刊)で冒頭の第一章を飾っている。類型採話群はそちらをお読みあれ。なお、表記の漱石の句は明治二九(一八九六)年の作である。

『「狸とデモノロジー」にもその事が挙げてあり、一体に狸は好んで音の真似をする、即ち人の耳を欺く方だと書いてある』同随筆の最終章「四」にごく短く書かれてある。]

 

 同じく音の世界である狸の腹鼓は何時(いつ)頃まで遡るか、『夫木和歌集』には「人すまで鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓うちけれ」という寂蓮の歌を載せている。狸の腹鼓なるものは果してどんな音かわからぬが、音の真似をして人の耳を欺く一例であるに相違ない。

 

 鉢(はち)たゝききくや狸の腹つづみ  許六

 鼓うつ狸が宿も宿も時雨(しぐれ)けり 冥々

 すゞしさの月に狸が鼓かな       星府

 麥まきやその夜狸のつゞみうつ     成美

 鼓うつ狸かへれば千どりかな      沾艸(せんさう)

   古寺無人迹(あと)

 狸ども鼓ころばす涼みかな       柴雫(さいだ)

  狸の腹鼓打贊

 秋ゆたか狸のつづみ聞(きく)夜かな  素丸

   狸の腹鼓の畫に

 うち落せ秋の夜雨(よさめ)のふる瓦(かはら)

                    抱一

 

 これらの句は春以外の各季にわたっている。狸の音楽は春に不似合なのかと思うと、

 

 行春や狸もすなる夜の宴        几董

 

という句がある。いやしくも狸が宴を開く以上、腹鼓の奏楽を伴わぬはずがないから、裏面に音が含まれているものと見てよかろう。

 本所の七不思議の一である狸囃子(たぬきばやし)は、泉鏡花氏をして「狸囃子」(陽炎座(かげろうざ))一篇を成さしめた。鏡花氏には別に「狸囃子」という随筆があって、深夜しばしば太鼓の音を耳にすることを記しているが、妖怪好(ずき)の作者はこれを怪しと思うより出発して「酒なく美人なき夜は、机の上に頰杖して、狸的(たぬこう)がまたやつてるぜ、と人知れずこそ微笑まるれ」という域に進んでいるのである。しかるに江戸時代の名随筆家として知られた鈴木桃野(とうや)は「番町の化物太鼓」なるものを解釈して、毎夜囃子の稽古をするのに、近所への聞えを憚って、土蔵や穴蔵の中で催すようにする、其方(そっち)かと思えば此方(こっち)に聞え、風につれて遠のくようにもなるのはそのためだ、といっている。鏡花氏の文中に「本所には限らずと覺ゆ。大塚を越して、今の榎町(えのきちやう)にても、同じく聞ゆ」とあるのは、かえって番町の方に近いようであるが、いくら番町ほど囃子の好(すき)なところはないといっても、桃野の頃から明治まで土蔵、穴蔵の囃子が行われていることもあるまい。煤煙濛々たる今の本所に七不思議の迹を尋ぬべくもないのと同じことである。

[やぶちゃん注:以上に就いて、同じ内容のことを柴田宵曲はこれより十八年も前の、昭和三八(一九六三)年に青蛙房から刊行した妖異博物館」の「狸囃子」で既に記しており、私は以上を既に電子化注している。そちらを参照されたい。こういうダブりは私にとっては面白くもなんともない。もう少し、新味を以って書いてほしいもんでござんす、宵曲先生!]

 

 柳田氏は「狸とデモノロジー」の中で、目を欺くのと耳を欺くのとを比較し、化け方としては目の方が優れている、目の認識力は耳の認識力よりもっと強いからで、それだけ目を欺くは耳を欺くよりも遥(はるか)に難い、狐はそれを欺くが、狸は力及ばぬらしい、と説いている。但(ただし)狸が耳を欺くに巧であるのは慥で、「耳の錯覺は目よりは起りやすい。往來を駈くる自動車の響に、空際を仰いで飛行機かと誤り得るが如きがこれを證する」というのである。何かの汽笛を警報かと思い誤るような場合は、現在といえども絶無ではないから、時節柄物数寄(ものずき)な狸が出て、大規模な新手の擬音などを試みないのは、われわれに取って幸福であるとしなければなるまい。

[やぶちゃん注:以上は前と同じく同随筆の最終章「四」にごく短く書かれてある。引用はちくま文庫版全集で補正し、漢字を恣意的に正字化した。]

 

 古狸工夫して見ん花火かな   素丸

 

 この工夫は音にあるか、形にあるか、狸の本領からいえばやはり前者であろう。昔あった芝居小屋の三味や義太夫を聞きおぼえて、小屋の跡が醬油庫と化した後まで、その真似をするほど優秀な狸なら、花火の音の如きは朝飯前の仕事に相違ない。尤も花火も音だけとしたら、古狸の工夫には単純過ぎるから、空に五彩を散し火龍を現ずる壮観までを要望したのかも知れぬ。その成否は第二の問題として、狸が油断なく新事物の研究につとめ、何らかの工夫に出でんとする傾向は、この句によっても卜(ぼく)することが出来る。

[やぶちゃん注:ほらほら! 宵曲先生! 前に書いたものを援用するから、読者に判らないこと、言っちまってますぜ! 「醬油庫」なんてどこに書いてあるでげすか?! そりゃあ、先生、妖異博物館」の「狸囃子」で書かれたことですぜ! そんな先生に「新事物の研究につとめ、何らかの工夫に出でん」なんどと言われた日にゃ、狸も釜に化けて臍で茶を沸かしやすぜ!!!]

老媼茶話巻之六 尾關忠吉

 

     尾關忠吉

 

 出羽國最上の御城主鳥井左京亮忠政、寛永五年辰九月五日、御年六拾弐歳にて卒去。御子鳥居伊賀守忠恆【左京亮と申す。】御代に尾關忠吉といふ者、有(あり)。此者、早業・はやばしりの大力也。坂東道三百里一日一夜に往來する。又、空飛(そらとぶ)つばめを出口にて技打(ぬきうち)に打(うつ)に、十に七八(やつ)は切落(きりおと)せり。

 當國岡山の八幡宮の御神前の手水鉢(ちやうずばち)は長谷堂山麓より人夫百人斗(ばかり)にて漸(やうやう)引來(ひききた)りすへけるが、ひずみたるまゝにて、すへ置(おき)ける。忠吉、或時、岡山へ詣でける折、此手水鉢のひずみたるを見て、件(くだん)の石鉢へ兩手をかけ、引直(ひきなほ)しけるに、さのみ、力を出(いだ)す樣にも見へず。

 忠吉、殺生に出(いづ)るに、黑金(くろがね)の筋がね渡したる八尺餘りの棒を振(ふり)かたげ、深山幽谷分入(わけいり)、しゝ・荒熊を追出(おひいだ)し、いか成(なる)嚴石岩山をも、すあしにて追懸(おひかけ)、壱、二町が程にて追詰(おひつめ)、うちひしぐ。

 同家中に難波長門といふもの有。奧州寺泊りと云所より黑の駒の、ふとくたくましき、長(たけ)七寸(しちき)斗(ばかり)成(なる)一物(いつぶつ)の早走(はやばし)りの馬をもとめたり。飛(とぶ)事、追風(おひかぜ)の如し。しかも、くらの上、靜(しづか)にて、只(ただ)座せるがごとし。

 難波長門は此馬に乘(のり)て、すはだなり。尾關忠吉は黑皮おどしの大鎧をかけ、草摺(くさずり)、長(なが)に着下(きくだ)し、冥官の甲(かぶと)・うは面(つら)の頰當(ほほあて)、かけ、紺地(こんぢ)に晒(サレ)かうべ付(つけ)たる大差物・四尺八寸の大太刀・三尺五寸の打刀(うちがたな)・九寸五分の鎧通し・七寸五分の右ざし・三物四物、取付(とりつけ)、三間柄(え)の六寸𢌞りの大身のやりを打(うち)かつぎ、天童が原に出(いで)て走りくらをするに、兩方、互に、

「さは。」

と聲を合(あは)せ、長門は諸鐙(もろあぶみ)を合せ、むちを打(うち)、ひた一さんに懸(かけ)をのる。

 馬、しらあわをかみ、息をきりはせ、倒るゝに、忠吉は馬に先立(さきだつ)事、一町餘りなり。

 加樣(かやう)にたぐひすくなき勇士たりといへども、大勇血氣のくせとして、人を人ともおもわず。狼戾(ラウレイ)にして禮義を知らず、我まゝ無道にして上をかろしめ、國法にかゝはらず、辻切(つじぎり)・強盜・ばくちを好み、大酒婬亂にして疎狂(そきやう)也。百魔居士といふ者を師として、

「魔利支天(まりしてん)の法を行ふ。」

と云(いひ)て山深く分入(わけいり)、百日餘り、法を修(しゆ)す。誠は魔術を行ふ。平地に波をみなぎらせ、大龍・蚊(ミヅチ)をうかべ、午時(コジ)、暗夜(アンヤ)となし、人の目をくらまし、樣々の不思義をなす。

 家中の若侍、大勢打寄(うちより)て雜談の砌(みぎり)、古今の軍(いくさ)物語をなし、勇士の噂・功の淺深・忠不忠・弓馬・鎗法・劍術の咄しをなし、おのおの其師をもてならひまなぶ處の藝能の勝劣を論ず。

 忠吉、傍(かたはら)に有(あり)て空(そら)うそぶき、嘲笑(あざわら)ひ、進み出(いで)て申樣(まうすやう)、

「面々の學ぶ處、皆、是、兎兵法(ウサギへいはう)・畑水(はたすい)れんとて、まさかの時、用に立(たつ)ものにあらず。我(われ)いふ處、誠か僞りか、我(われ)、無刀・すはだにて、汝等は長刀・鎗・太刀得たる所の眞劍にて立合(たちあひ)、勝負をせよ。手とらまへにして、見すべし。」

といふなれども、誰(たれ)、たちあはんと云(いふ)者、なし。

 依之(これによつて)、若きものども、忠吉を甚(はなはだ)にくみ、難波長門・早水大學・渡部源七・黑河内平七・香西助惣、五人のものども、頭取として、各々ひそかに談合し、

「渡部源七が宅へ忠吉を夜噺(よばな)しに招き、酒を進め、醉ふさしめ、殺さん。」

と、たくみ、源七方(かた)へ忠吉を、まねく。

 忠吉、兼てかのもの共(ども)のたくみ、合點ながら、空知(そらし)らぬふりにもてなし、

「忝(かたじめな)し。」

と返事して源七方へ來(きた)る。

 四人の者共、相伴(しやうばん)にて嘉肴(かかう)・美酒を以て進め、さまざま饗應、忠吉、あくまでのみくらい、嘲笑(あざけわらひ)、

「扨、今夕、召寄(めしよ)せられ、色々の御丁寧の御馳走に預り候。御深志(ごしんし)は、我に酒をしひのませ、醉(ゑひ)ふしたる處を殺さん、との御獻立(ごこんだて)にて候べし。然共(しかれども)それは大きなる御了簡違ひに候半(さふらはん)。隨分、御馳走にて、いたく、酒に醉(ゑひ)候。もはや、御暇(おいとま)申候。重(かさね)て御禮可申(おんれいまうすべし)。過分、過分。」

と立樣(たちざま)に首のあたりをなで𢌞し、

「およそ、此尾關忠吉兼宗が首を切らむもの、日本には覺へなし。十辨慶、百朝比奈が來(きた)る共(とも)、忠吉がくびは御免、御免。」

といふて、宿へ歸る。日頃の手並を知る故、みなみな、ふしめになり、一言の返答いふものもなく、おめおめとぞ、かへしける。

 其後、又、早水大學かたへ、夜更、人靜りて、五人の者ども、忍びやかに打寄(うちより)、長門、申樣、

「さるにても、先夕、源七方にて忠吉を殺すべきを、何ものか、忠吉には知らせけん。不思義さよ。」

と、とりどり詮義をなし、長門、申樣、

「來る廿四日は岡野の大淨寺の夜鳴ぢぞうの緣日にて、近國より大勢角力(すまひ)の寄(よる)なれば、忠吉も、必(かならず)、見物に來(きた)るべし。其歸るさは夜に入(いる)べし。我等五人、甲(カブト)明神の杉森に待受(まちうけ)、忠吉を切殺し、面の皮をはぎ取(とり)、捨置(すておか)ば、定(さだめ)て犬狼(けんらう)のゑじきとなり、誰(たれ)知るものもあるまじ。此義、いかゞ。」

といへば、皆々、

「尤(もつとも)。然るべし。」

と一同す。

 時に、いづくより來(きた)る共(とも)なく、片隅に立(たて)し屛風の影より、忠吉、

「先(せん)より是(これ)に罷在(まかりあり)。」

と、屛風、おしのけ、座の眞中へおどり出(いで)、手をたゝき、

「からから。」

と打笑(うちわらひ)、

「當家にて齒金(はがね)をならす骨切(ほねきり)の士達、每日每晩、御寄合(おんよりあひ)、をく床敷(ゆかしく)ぞんぜしに、忠吉壱人討(うた)んとて、げふげふしの御くわだて。角力見(すまひみ)の歸り迄も候はず、御望(おのぞみ)にて候はゞ、只今にても御勝負候へかし。此(この)忠吉は各々の小腕に及(および)候まじ。鬼と餓鬼とのすねをし、猫と鼠のこはされ成るべし。必ず、無用、無用。」

と嘲(あざけり)、居合(ゐあひ)の出口をはずしなから、後樣(ウシロざま)に六尺屛風はね越(こし)、行方なく成(なり)たり。

「門戸はきびしくしめさせ、戸障子、かたくさしたるに、いづくより來りけるぞ。」

と五人のものども、肝をつぶし、としてもかくしても、忠吉、討(うつ)べき樣(やう)なかりければ、五人の者を始(はじめ)其外に指をりの若侍、弐拾五人連判(れんぱん)一身して、神水(じんずい)を吞(のみ)、

「尾關忠吉、御家(おんけ)に召(めし)おかれば、弐拾五人の者ども、永代(えいだい)、御暇(おいとま)下さるべし。」

と強訴(がうそ)をする。

 家老の各々、急に打寄(うちより)、密談し、

「勿論、弐拾五人のものども、恣態成(ほしいままなる)申(まうし)狀、上を恐(おそれ)ざる段、甚(はなはだ)不屆(ふとどき)千萬なりといへども、忠吉、おのれが大力強勇に高(かう)まんして、人を人とも思わず、上を輕しめ、國法を用(もちひ)ず、我儘無道也。依之(これによつて)加樣(かやう)に國の騷動となれり。弐拾五人の者共は御家代々御普代父祖忠功の者共の子弟也。忠吉壱人に弐拾五人の者ども、かへ難し。」

と、難波長門・早水大學兩人を召寄(めしよせ)られ、忠吉を討物(うちもの)に被仰付(おほせつけらる)。

 兩人、承り當惑の體(てい)にみへて、暫く、御請不申有(うけまうさずあり)けるが、やゝ有(あり)て家老奧田七郎右衞門に向ひ、

「御意(ぎよい)の趣、奉畏(おそれたてまつり)候。御前、宜敷被仰上可被下(よろしくおほせあげられくださるべし)。扨、御自分樣へ申述(まうしのべ)候。忠吉事、近國にかくれなき大力強勇の荒者(あらもの)に候。我等、隨分、精入可申(せいいれまうすべく)候得共、萬一の爲に候まゝ、佐藤次郎左衞門、後見に被仰付被下候得(おほせつけられくだされさふらえ)。」

と望みける。

 七郎右衞門、右の趣、申上(まうしあげ)、則(すなはち)、次郎左衞門、後見に被仰付ける。

 次郎左衞門、御請申上(おんうけまうしあげ)、私宅へ歸り、いそぎ、難波・早水を呼(よび)て申けるは、

「此度(このたび)、御兩所、忠吉討手(うつて)に被仰付候段、若き人には似合(ひあひ)たる義と申(まうせ)、御家代々、武功場數(ばかず)覺へ有る人多きうち、兩人御ゑらみに預(あづか)る段、御手がらにて候。かの忠吉が男ぶりは、むかしの畑(はた)六郎左衞門時能(ときよし)と申(まうす)とも、及(およぶ)まじく候。早走の大力、大太刀つかひの名人、御兩所、懸合(かけあひ)の勝負、如何(いかが)と存(ぞんじ)候。我等、存候には、忠吉、此義、知らざる内に、某(それがし)宅へ忠吉を呼(よび)よせ申(まうす)べし。定(さだめ)て各(おのおの)も御存知も候半(さふらはん)、我等、祕藏仕(つかまつ)る「あらし山」と名付(なづけ)し黑の駒、長(たけ)八寸(やき)に餘り、人をも馬をも喰伏(くひふ)せ、踏(ふみ)ありき候へて、中中(なかなか)あたりへより候こともならず候。忠吉、此黑馬、達(たつ)て望(のぞみ)候。此馬の事にかこつけ、明曉(みやうげう)、忠吉を呼(よび)申べし。其節、御兩所、待請(まちうけ)、御打有(おうちある)べく申(まうす)。」

と、能々(よくよく)、難波・早水兩人としめし合(あひ)、其(その)明(あく)る朝、忠吉かたへ、手紙、遣わす。其手紙に、

「兼々御望み黑の大長馬(おほたけむま)、貴殿へ進(しん)じ可申(まうすべく)候。只今、御出(おいで)、ひとくら御乘被成(おのりならる)べし。朝飯(てうはん)、此方(こなた)にて申付(まうしつけ)候。」

と、いゝ遣(つかは)す。

 忠吉、手紙をみて、大きに悦び、使(つかひ)とうちつれ、來(きた)る。

 折ふし、五月雨(さみだれ)ふり出(いだ)しければ、袴のもゝ立(だち)高く取(とり)、からかさをさし、なわをの下駄をはき、大太刀、十文字にさし、供をもつれず、只、壱人、次郎左衞門かたへ來り、ものもふを乞(こひ)、案内をいゝ入るゝ。

 取次のもの、立出(たちいで)、玄關の戸をひらき、

「御はゐり候へ。」

といふ。

 忠吉、玄關の雨落(あまおち)へ、からかさをしぼり、柱に立(たて)かけ、座敷へ上(あが)る。

 此時、難波長門・早水大學兩人は、よそより來(きた)る若黨使(づかひ)のふりをして、すげ笠をかぶり、紙合羽(かみがつぱ)を着、後ろ向(むき)に立居(たちゐ)たりけるば、忠吉、内へ入(いる)を見て、兩人、すげ笠・合羽をぬき捨(すて)、刀を拔(ぬき)、

「上意ぞ。」

とこと葉をかけ、切(きつ)て懸る。

 忠吉、

「きつ。」

と振(ふり)かへり、

「心得たり。」

と四尺弐寸の大刀・はゞ弐寸五分・重ね八分有る、高木彦四郎貞宗が打(うち)し鐵棒の樣成(やうなる)大太刀、稻づまのごとく引(ひき)ぬいて、眞先(まつさき)に進みし難波長門を、天窓(あたま)くだし拜打(おがみうち)に打付(うちつけ)たるに、長門も首を綴(チヾメ)、太刀をあわせ、請(うけ)はして、請(うけ)たれども、太刀つば、元より打(うち)おられ、頭より鼻ばしら・おとがひ・胴腹迄、眞二、から竹割(たけわり)に切(きり)わられ、餘る太刀にて、脇差の柄を、つばもとより、打(うち)をる。

 長門は二に成(なり)て弓手(ゆんで)妻手(めて)へ、さばけたり。

 大學、是を見て、すこしひるむ處に、忠吉、刀、取直(とりなほ)し、橫なぐりに腰のつがひを胴切(どうぎり)に切(きり)ければ、首より上は前へ倒れ、腰は後ろへころびける。

 次郎左衞門、玄關に立出(たちいで)、是を見て、

「忠吉、骨折(ほねをり)也。一息つゐて、我と勝負をせよ。其方を討物(うちもの)に被仰付(おほせつけ)たる本人は、我也。」

と名乘懸(なのりかか)る。

 忠吉、是を聞(きき)て、しゝ・熊の荒(あれ)たるごとく、表もふらず、大太刀、雷光のごとくひらめかし、眞一文字に切(きつ)てかゝる。

 次郎左衞門は齋藤傳鬼入道が劍術を習ひ得て、小太刀の上手也。

 弐尺五寸の刀、淸眼(せいがん)に取(とり)て、わざと忠吉を座敷の内へおびきいるゝ。

 忠吉、血氣にまかせ、無二無三に切入(きりいり)、次郎左衞門と火花をちらし、切合(きりあひ)ける。

 忠吉は六尺ゆたかの大男、四尺弐寸の大太刀にて座敷の内にて振(ふり)まわし、不自由なり。

 忠吉、いらつて、しやにかまへし太刀、一足、後(うしろ)へ引(ひき)けん、上段に取(とつ)てのび上り、力まかせに次郎左衞門を、

「只、壱打(ひとうち)。」

と大聲あげ、打付(うちつく)る。

其太刀、鴨居にしたゝかに切込(きりこみ)、ぬかんぬかんとする隙(ひま)に、次郎左衞門、刀を振上(ふりあげ)、橫ざまに身をひらき、忠苦が頭(かしら)を面(めん)なりに切(きり)おとす。むくろは、つか、手を取(とり)はなし、四、五間、たゞ走り、金剛仁王をたをしたる樣(やう)に、大手をひろげ、足を踏み延ばし、座の眞中へ、うつふしに、

「どう。」

と倒れたり。

 次郎左衞門、此時、五拾六歳の老兵(らうひやう)也。

「さしも鬼神のごとくなる忠吉、仁義の勇を知らず、血氣にまかせ、我儘無道をふるひ、犬死をせしこそ、無慙(むざん)なれ。」

と、皆人、おしみけると也。

 

[やぶちゃん注:「尾關忠吉」ネット検索を掛けると、確かに真言密教の秘法「摩利支天秘密一印隠行(おんぎょう)大法」(本来のそれは悪魔・外道などの目から自身の身を隠すことが出来る呪法とされる)という魔法を体得していた妖しい武士「尾関忠吉兼家」(本文で本人が「尾關忠吉兼宗」と称しているのと有意に似ている。「家」と「宗」は書写し誤りし易い字である)という名で一部ではかなり知られた怪人物のようである(私は未読であるが、菊池寛の歴史随筆などにも出るようだ)。本篇に語られる異様な足の速さや、相手に気づかれることなく室内にどこからともなく侵入し、瞬時に姿を消す辺りは、外道の邪法でイヅナ(くだぎつね)と呼ばれる妖獣を使役して奇体な法術を成す「飯綱(いづな)の法」辺りも心得ているように推察した。

「鳥井左京亮忠政」既出既注

「寛永五年」一六二八年。

「御年六拾弐歳にて卒去」享年六十三。

「鳥居伊賀守忠恆【左京亮と申す。】」(慶長九(一六〇四)年~寛永一三(一六三六)年)出羽山形藩の第二代藩主。ウィキの「鳥居忠恒」によれば、初代藩主鳥居忠政の長男で父の死によって家督を継いだが、生来の病弱で、幕府の任は殆んど勤めることが出来なかった。寛永九(一六三二)年、徳川忠長の改易に伴い、その御附家老で忠恒の従兄弟であった鳥居忠房のお預かりを命ぜられている程度である。しかも、正室との間に嗣子がなく、異母弟の忠春とその生母とは『仲が悪かったことから、臨終の際に忠春を養子とせず、新庄藩に養嗣子として入っていた同母弟の戸沢定盛に家督を譲るという遺言を残した。しかしこれは、幕府の定めた末期養子の禁令に触れており、さらに病に臨んで後のことを考慮しなかったとして幕府の嫌疑を招いた』。『この事態に関して大政参与の井伊直孝が「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」とした上で「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」としたため、幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)として、所領没収となった』。『もっとも、忠政と井伊直勝(直孝の兄)の代に正室の処遇をめぐって対立した両家の旧怨を知る直孝によって、鳥居家は改易に追い込まれたという説もある』。但し、『祖父元忠の功績を考慮され、新知として信濃高遠藩』三『万石を与えられた忠春が家名存続を許され』ている。

「はやばしり」早走り。

「坂東道三百里」「坂東道」は、現在の一里と同じ「大道(おおみち)」(「京道」「西国道」「上道」などとも称した)に対し、六町(約六百五十五メートル)を一里とする東国で使用された距離単位。「小道」「東道」「田舎道」とも呼ぶ。約百九十六キロメートル半。

「當國岡山の八幡宮」不詳。以下に「長谷堂山麓」との関係から考えると、現在の山形県山形市長谷堂にある八幡神社か。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは平地であるが、ここから南西部へ長谷堂地区は広がっておりそこは丘陵地ではある。

「すへけるが、ひずみたるまゝにて、すへ置(おき)ける」「据へけるが、歪みたる儘にて、据へ置きける」バランスがゆがんだままに据えられて(恐らくは手水鉢であるのに、水平でないために、水が零れ落ちて、あまり貯まらないような状態であったのであろう)、あまりに重いために、そのまま沈み込んで、動かせなくなっていたのである。

「すあし」「素足」。

「うちひしぐ」「打ち拉ぐ」。摑んで完全に押し押さえてしまう。

「難波長門」不詳。以下、人名は一応、検索するが、実在が確認できなければ、注自体を略す。

「奧州寺泊り」現在の新潟県長岡市寺泊。しかし、寺泊は越後で奥州というのはおかしい

「長(たけ)七寸(しちき)」既注であるが、再掲しておく。地面から馬の首の付け根までの高さを「寸(き)」と言った。「七寸」は約一メートル四十二センチメートルを指す語。これは当時の馬の標準が「四尺」(約一メートル二十センチメートル)が標準で、それより寸刻みで、寸だけを言って、それを「き」と別称したものである。「八寸(やき)」以上の表現はなく、超弩級に大きな「大馬」は「八寸に余る」と呼んだ。後半、佐藤次郎左衛門の持ち馬の黒馬「あらし山」(嵐山か)が「「八寸に餘り」と出るのが、それである。

「一物(いつぶつ)」「逸物」(いちもつ)の意を含むと採ってかく訓じておいた。

の早走(はやばし)りの馬をもとめたり。飛(とぶ)事、追風(おひかぜ)の如し。しかも、くらの上、靜(しづか)にて、只(ただ)座せるがごとし。

「冥官」地獄の裁判官。閻魔を初めとする十王を指す。敵を威圧するための兜(かぶと)の鍬形の装飾。

「かけ」底本はこの「かけ」を下の「紺地(こんぢ)」と一語で採っているが、従わず、頰当てを「掛け」で読んだ。「かけ紺地」の意味が判らなかったからである。大方の御叱正を俟つ。

「晒(サレ)かうべ」「髑髏(しやれかうべ)」。これはもう、同じく威圧のデザイン。

「大差物」旗指物。幟(のぼり)。

「四尺八寸」刃渡り一メートル四十七センチメートル弱もある、物干し竿のような超弩級に長い(同時に太くなければ簡単に折れてしまう)大太刀である

「三尺五寸」一メートル六センチメートル

「打刀(うちがたな)」主に馬上合戦用の太刀とは違い、主に徒戦(かちいくさ)徒歩で行う戦闘、白兵戦用に作られた太刀に比して短く軽く振り回しやすい刀を指す。それでも「三尺五寸」は異様に長い。これは江戸初期であるが、江戸時代の武士が好んだ刀の平均長は二尺三寸前後で、六十九・六九センチメートルであった。この忠吉に長刀好み(長けりゃ絶対勝てるという馬鹿げた盲信)が彼の墓穴を掘ることとなるのである。

「九寸五分」二十八センチメートル弱。

「鎧通し」白兵戦で組打ちとなった際に相手を刺すための、厚く鋭い刀身を持った小刀。概ね三十センチメートルほどであったから、この刃渡りは標準的である。

「七寸五分」二十三センチメートル弱。

「右ざし」予備装備として右に差した鎧通しであろう。

「三物」鎧の胴・袖・兜の総称。

「四物」武士の七つ道具は具足・刀・太刀・矢・弓・母衣・兜を指すから、ここは騎馬武将のフル装備のうちのアクティヴな武器の謂いであろうから、刀・太刀・矢・弓と採っておく。

「三間」五メートル四十五センチメートル。実は「槍」と書いた場合は片刃で長さ七尺ほどのものを指し、「鑓」と書いた場合は両刃で二間以上ある「槍よ」りも長いものを指す。ここはまさに異様に長く太い奇体な鑓(やり)なのである。

「六寸」十九センチメートル弱。

「天童が原」現在の山形県天童市(山形市北部に隣接)附近か。

「走りくら」「走り較(くら)」べの謂いか。

「諸鐙(もろあぶみ)を合せ」「諸鐙を合わす」で、馬を速く駆けさせるため、左右の鐙で同時に馬の腹を強く蹴り打つことを言う。

「懸(かけ)をのる」不詳。「驅けを乘る」で、「速駆け」をさせた馬に「乗」って走ることか。

「しらあわをかみ」「白泡(しらあは)を嚼(か)み」。

「息をきりはせ」「息を切り馳せ」。

「一町」百九メートル。

「狼戾(ラウレイ)」欲深く、道理にもとること。

「疎狂」落ち着きがなく、常識外れなこと。

「午時(コジ)、暗夜(アンヤ)となし」真昼であっても、その魔術で以って、一瞬にして暗黒の闇夜のようにしてしまい。

「兎兵法(ウサギへいはう)」本当の兵法を知らずに下手な策略を廻らした結果、却って失敗すること。兎は「因幡の白兎」の故事に基づいたもの。生兵法(なまびょうほう)に同じ。

「畑水(はたすい)れん」「畑水練」畑の中で水泳の練習をするように、実際の役には全く立たない無駄な訓練を指す。「畳水練」とも言う。

「無刀・すはだ」刀を持たず、素肌、ここはまあ、普段の着衣以外には具足を装着せず、という謂いであろう。

「手とらまへ」武具や道具を一切用いずに、お前らを全部、素手で押さえつけてやる、というのである。一種の居合道も身につけている感じである。

「頭取」読みは「とうどり」でよかろう。首謀者(複数)。

「もてなし」応対し。

「十辨慶、百朝比奈」十人の武蔵坊弁慶でも、百人の朝比奈三郎義秀でも俺の相手にゃ、不足だわ! と言い放っているのである。実にイヤな奴ではある。因みに弁慶は流石に注はいらんだろうが、朝比奈三郎義秀(安元二(一一七六)年~?)は知らぬ人もおろうほどなればこそ言っておくと、和田義盛の子にして和田一族の超人ハルクである(鎌倉と六浦を繫ぐ朝比奈切通は彼が一夜にして作ったとするのは無論、伝承上の大嘘であるが、そう信じられるほどには怪力無双であった)。知らん御仁は私の「新編鎌倉志卷之七」の「小坪村」の条や、「鎌倉攬勝考卷之一」の同じ「小坪」の条(こちらは義秀がらみの挿絵二枚がある)、或いは和田合戦での彼の奮闘ぶりを描いた、やはり私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉」を読まれたい。

「ふしめ」「伏し目」。

「岡野の大淨寺」不詳。

「夜鳴ぢぞう」「夜泣き地藏」。

「甲(カブト)明神」不詳。

「香西助惣」無論、不詳だが、読みは「かさいすけそう」と読んでおく。

「時に、いづくより來(きた)る共(とも)なく、片隅に立(たて)し屛風の影より、忠吉」「先(せん)より是(これ)に罷在(まかりあり)」「と、屛風、おしのけ、座の眞中へおどり出(いで)、手をたゝき」「からから」「と打笑」ふのは、この実録物の中で最も怪奇の高まりを見せるところで、ここまでのリアルな描写も細かく、非常に成功している。三坂春編、タダモノでは、ない

「齒金(はがね)をならす骨切(ほねきり)の士達」「齒金(はがね)を」鳴「らす」のは彼(忠吉)が怖ろしくて歯の根も合わず、がちがちと震えている臆病侍の皮肉であることは判るが、「骨切り」が判らぬ。無駄な「お骨折り、ご苦労様」という皮肉か。だったら、「骨折」でないとおかしいだろうし、よく言う「肉を切らせて骨を截つ」に引っ掛けたというにしても台詞として上手くは私には解せない。識者の御教授を乞う。

「をく床敷(ゆかしく)ぞんぜしに」「奥床しく存ぜしに」。貴殿らの心奥(しんおう)に潜むものに強く心が惹かれ、さらによく知りたく思うておったところが、なんとまあ。

「げふげふし」「仰々(ぎやうぎやう)し」。

「各々の小腕に及(および)候まじ」貴殿らの弱っちい細腕なんどの手にて捕え得るようなものにては御座るまいぞ。

「鬼と餓鬼とのすねをし」「鬼と餓鬼と(同じ「鬼」がついていても怪力の「鬼」神と餓鬼道の下劣な糞のような存在である餓「鬼」)が脛(すね)をちょいと押し合うのと同じで、あっと言う間に貴殿らはぺしゃんこにされよう、といった謂いであろう。

「猫と鼠のこはされ成るべし」「こはされ」が判らぬが、意味は前と対句だから、おおよその見当はつく。「こはされが」「こは、され」などではないとすれば(それでは意味が私には採れぬ)、「壞(毀)され」か? さすれば、「猫が鼠を食う気もなく玩弄しては結局はその傷がもととなって鼠は死んでしまうように、貴殿らも犬死ならぬ猫死にでもない鼠死にということになろうぞ」というのであろう。――ああ、思い出すね、ルナールの「博物誌」の「猫」――『私のは鼠(ねずみ)を食わない。そんなことをするのがいやなのだ。つかまえても、それを玩具(おもちゃ)にするだけである。』『遊び飽きると、命だけは助けてやる。それからどこかへ行って、尻尾(しっぽ)で輪を作ってその中に坐(すわ)り、拳固(げんこ)のように格好よく引き締まった頭で、余念なく夢想に耽(ふけ)る。』『しかし、爪傷(つめきず)がもとで、鼠は死んでしまう。』(岸田国士訳・博物誌 ルナール 岸田国士訳(附原文+やぶちゃん補注版)参照)――あれだよ。

「無用」無益。

「居合(ゐあひ)の出口をはずしなから」意味不詳。早水や長門がすかさず居合いざまに刀を抜き打った、それの突き出されたそれ(「出口」(いでぐち)、刃の切っ先)を、ひょひょいと軽快にかわしながら、の謂いか?

「としてもかくしても」どうしようと、こうしようと、いっかな。

「連判(れんぱん)一身」「連判一味」。

「神水(じんずい)を吞(のみ)」読みは底本に従ったが、「しんずい」「しんすい」でも構わない。神前で誓いのしるしとして飲む水のこと。

「討物(うちもの)」主君より許された討伐の対象者という意味で、かく訓じた(底本にはルビはない)。そのような用法があるかないかは確認できなかったが、一般表現としての「うつもの」(行為として討ち亡ぼすべき者として公的に認可するということ)という読みならば、以下の助詞は「に」ではなく「と」が相応しいと考えたからである。

「佐藤次郎左衞門」無論、不詳であるが、その場にいないからには、家老レベルの者ではない。しかし、恐らくは剣術手練れの老家臣として知られ、長門や早水のような若き家士からも普段から一目置かれ、尊敬もされていた人物であったと読める。時代劇には欠かせない設定である。

「畑六郎左衞門時能」畑時能(はたときよし ?~興国二/暦応四(一三四一)年)は南北朝前期の武将。「太平記」巻二十二によれば,元は武蔵国住人であったが、後、信濃国に移住したといい、武芸全般に優れ、山野河海に漁猟したという、所謂、典型的な〈悪党〉(鎌倉後期から南北朝期にかけて、夜討・強盗・山賊・海賊などの悪行を理由に支配階級から禁圧の対象とされた武装集団。山伏や非人の服装であった柿色の帷子(かたびら)を着、笠を被って顏を覆い、特有の武具を駆使して博奕や盗みをこととし、荘園などの紛争がおこると、賄賂をとって一方に荷担しつつ、状況によっては平然と寝返るなどの奔放卑劣な活動を展開した)であった。北陸越前において、新田義貞の敗死後、南朝方の武将として一井(いちのい)氏政らとともに鷹巣城(現在の福井市高須町にあった)に拠って、守護斯波高経の軍と戦い、敗死した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「御兩所、懸合(かけあひ)の勝負、如何(いかが)と存(ぞんじ)候」佐藤次郎左衛門の実に冷静な推察が素晴らしい。真っ向から勝負を正式に告げて、斬り合いに及んだ場合は長門と早水の二人がかりでも、勝負は見えていると踏んでいることがはっきりと判る(事実、そうなる)。

「喰伏(くひふ)せ」噛みついて地に伏せさせ。

「袴のもゝ立(だち)高く取(とり)」既出既注であるが、再掲する。「股立ち」は袴の左右両脇の開きの縫止めの部分をいう。そこを摘んで腰紐や帯にはさみ,袴の裾をたくし上げることを「股立を取る」と称し、機敏な活動をする仕度の一つとされた。

「からかさをさし」「唐傘を差し」。

「なわをの下駄をはき」「繩緒(なはを)の下駄を履き」。

「ものもふを乞(こひ)」「物申(ものまうし)を乞ひ」か。訪問の挨拶をし。

「案内をいゝ」屋敷の建物内へ立ち入ることの許諾伺いの確認し。

「入るゝ」門内へ入った。

「雨落(あまおち)」「雨落(あまお)ち石(いし)」(「雨垂れ石」とも呼ぶ)のところ。雨垂れで地面が窪んでしまうのを防ぐために軒下に石を置き並べた箇所。

「四尺弐寸の大刀・はゞ弐寸五分」刃渡り一メートル二十七センチ、刃幅七センチメートル。

「重ね八分」「重(かさ)ね」(刀を棟(むね)の方から見た厚み)が約二センチメートル。因みに、刀を平らにして刃文を見る状態にした棟から刃先までの幅は「身幅」と称する。

「高木彦四郎貞宗」(?~元応元(一三一九)年?/貞和五(一三四九)年?)は鎌倉末期或いは南北朝初めまでの相模国の刀工。正宗の子或いは養子と伝えられる、相州伝の代表的刀匠(但し、現存する在銘刀はない)。

「天窓(あたま)くだし拜打(おがみうち)」これで太刀の振り斬り方を示したソリッドな表現と採った。刀の柄を両手で握って頭上に高く構え、相手の頭部頭頂に真っ向から一気に振り下ろす斬り方。

「請(うけ)はして、請(うけ)たれども」意味不明。前の箇所は全体が衍字か。それとも「忠吉が振り下ろした太刀を辛うじて受けはした、受けはしたけれども」の畳みかけた表現か。

「つば」「鍔」。

「おとがひ」「頤」。顎。

「から竹割(たけわり)」「唐竹割り」。

「餘る太刀にて、脇差の柄を、つばもとより、打(うち)をる」二の手を避けるためであろうが、唐竹割にした以上(それは比喩ではなく事実、「長門は二に成(なり)て弓手(ゆんで)妻手(めて)へ、さばけたり」なんだ! 体幹で左右に縦割りにされて、左右に半身が倒れたんだぜ!)、これはやらずもがなの実にイヤらしい無駄な仕儀である。

「腰のつがひ」「腰の番(つがい)」。背と腰との間、腰骨(大腿部の上)の所。

「首より上は」「首」はおかしい。「腰」では後と重なるから「腹」「胸」「臍」などの誤りであろう。

「其方を討物(うちもの)に被仰付(おほせつけ)たる本人は、我也」長門らは「上意」と告げており、事実、鳥居忠恒の許諾を受けている正真正銘の上意による誅伐であるわけだが、佐藤は上手い。こう言って、私怨のごとくに言い放ち、忠吉をわざと怒らせて冷静な判断力を減衰させているのである。

と名乘懸(なのりかか)る。

「しゝ・熊」「猪(しし)・熊」と採っておく。

「表」「面」。顔。

「齋藤傳鬼入道」戦国から安土桃山にかけての剣豪で天流剣術の創始者である斎藤伝鬼房(でんきぼう 天文一九(一五五〇)年~天正一五(一五八七)年)。ウィキの「斎藤伝鬼房」によれば、俗名は斎藤勝秀、或いは、忠秀。常陸国真壁郡新井手村(現在の茨城県筑西市明野)に生まれた。父が北条氏康に仕え、『小番衆(近習)であったことから、相模国の出身とされることもある』。『幼年より刀槍の術を好み、塚原卜伝に弟子入りして新当流を学んだ。一説には、卜伝の養父・塚原安幹(土佐守)の実子で早世した塚原安義(新右衛門)の門人であったが、破門されたともいう』。『通説では』、天正九(一五八一)年十一月のこと、『鎌倉の鶴岡八幡宮で参籠中に修験者と出会い、ともに術について語り合い、実際に試合して吟味などするうちに一夜が明けた。伝鬼が修験者の刀術、流名を尋ねると、修験者は黙って太陽を指さして立ち去った。このことから、覚えた秘剣に「天流」と名付けたという』。『諸国を修行しながら京に上ると、伝鬼の刀術が評判となり、朝廷から参内を命じられて紫宸殿において三礼の太刀を披露、判官の叙任を受けた。この』後、『入道して井手判官入道伝鬼房と称した。伝鬼房は羽毛で織った衣服を好んで着用し、その姿は天狗のようであったという。真壁に帰ると、下妻城主・多賀谷重経に教授したのをはじめとして、大名諸士の入門者が多かった』。この頃、『神道流の達人として知られ霞流』『を称した桜井霞之助の挑戦を受けて立ち合い、死闘の末に霞之助の惨死で決着した』が、『恨みに思った霞流の門人たちによって暗殺された』という。享年三十八。その最期は、『伝鬼房が弟子ひとりを連れた道中で霞流の門人数十人の待ち伏せにあった。囲まれたと悟った伝鬼房は、師匠を一人おいて去ることを拒む弟子を無理に逃がし、路傍の不動堂に隠れた。堂の四方から矢を射かけられ、伝鬼房は堂を飛び出して手にした鎌槍で矢を払ったが、防ぎきれず』、『全身に矢が突き刺さった。余力を奮い起こして戦ったものの、衆寡敵せず死亡したという』。『のち、この地に伝鬼房の怒気が残って奇怪事が起こったとされ、土地の人々が小社を建て』、『伝鬼房の霊を祀り、「判官の社」と呼ばれた。場所は真壁町(現桜川市)白井とされるが、社は現存しない』とある。

「小太刀」主に太刀の一種で刃長が二尺(約六十センチメートル)前後の刀(これを脇差と同義とする説もあり、以下の解説はそうしたものとなっている。ウィキの「小太刀」を参照されたい)を使用した剣術。但し、ウィキの「小太刀術」によれば、「小太刀術」と呼ばれるものの、『これは小太刀を用いる意味ではなく、打刀の長さより短い刀を用いることから、剣術を意味する「太刀」に小をつけたことに由来する語である。小太刀術の成立は脇差が用いられていた時代のため、具体的には脇差を用いる術である』とある。『稽古に使用する木刀の寸法は各流派により異なり、流派成立の際の脇差などの小刀の大きさが影響しているようである』『(小刀の長さは戦国時代は長かったが短小化していった』)。『小太刀術のみを専門にする剣術流派は少なく、通常は剣術の中に付属しているが、全ての流派にあるわけではない。 その多くは入り身を主体とし、柔術的な技法を含む場合も多い』。『中条流や、それより生まれた富田流の小太刀術が有名』とある。

「弐尺五寸」七十五・七五センチメートル。忠吉の太刀は「四尺弐寸」(百二十七センチメートル)であるから、十分の六弱しかない。

「淸眼(せいがん)」「正眼」。に取(とり)て、わざと忠吉を座敷の内へ

「おびきいるゝ」「誘き入るる」。

「六尺ゆたか」一メートル八十二センチの身長で、筋骨隆々。

「いらつて」「苛つて」。いらだって。

「しやにかまへし」「斜に構へし」。

「面(めん)なりに」体勢から見ても「真横(面)に」という意味であろう。

「むくろは、つか、手を取(とり)はなし、四、五間、たゞ走り、金剛仁王をたをしたる樣(やう)に、大手をひろげ、足を踏み延ばし、座の眞中へ、うつふしに」「どう」「と倒れたり」ここも怪異のクライマックス。「四、五間」は七・二八~九メートル強。

「次郎左衞門、此時、五拾六歳の老兵(らうひやう)也」藩主である鳥居忠恒の藩主就任(一六二八年)、彼の死(一六三六年)、佐藤次郎左衛門の小太刀の師斎藤伝鬼房の没年(一五八七年)に、この数え五十六歳を重ね合わせると、この話柄が事実とするならば、忠恒が藩主になった直後ぐらいの時代設定としないと無理がある。]

2017/11/28

柴田宵曲 俳諧博物誌(11) 河童

  

     河童

 

 ここで河童を登場させたら、河童という動物が果してあるのか、という質問が出るかも知れない。その点は甚だ不慥(ふたしか)である。しかし河童という動物は、過去において存在を認められていた。現在においても小川芋銭(おがわうせん)氏の画幅や、芥川龍之介氏の小説の中にちゃんと控えている。『俳諧博物誌』は動物学者の参考資料ではないのだから、何が飛出したところで、そう驚く必要もあるまい。

[やぶちゃん注:「小川芋銭」(慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は私の好きな日本画家。私はよく知っているが、知らない方のためにウィキの「小川芋銭」から引いておく。本名は茂吉。生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』(下線やぶちゃん)。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。

「芥川龍之介氏の小説」昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表された「河童」。私のサイトには正字正仮名版「河童 附草稿」及び、それに合わせてオリジナルに作成した『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』の他、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認してオリジナルに作成した芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史』(これにはHTML縦書版及びブログ分割版もある)がある。]

 尤われわれの河童に関する知識は、『山嶋民譚集(さんとうみんたんしゅう)』の範囲を一歩も出ぬものである。その点は「河郎之舍」の印を蔵し、好んで河童を自家の文学に取入れようとした芥川氏が「河童の考證は柳田國男氏の山島民譚集に盡してゐる」といった通り、何人(なんぴと)もあの研究の上に何物かを加えることは困難であろう。『甲寅叢書(こういんそうしょ)』が次第に市に乏しく、たまに逢著しても恐るべき高価を呼ぶようになった結果、もう一度読直してかかる便宜に乏しくなったが、柳田氏自身「『山嶋民譚集』を珍本と呼ぶことは、著者においても異存がない」というに至り、日本文化名著選という肩書の下に再び世に現れたのは、われわれに取っても頗る好都合だといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「山嶋民譚集」柳田國男の「山島民譚集」(大正三(一九一四)年甲寅叢書刊行所刊)のこと。

『「河郎之舍」の印』これ。

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上記画像は中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の再版(昭和五三(一九七八)年)の小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」に載る朱判の「河郎之舍」(「かはらうのいへ」と読む。言わずもがな、「河郎」とは河童の異名)の印影である。なお、篆刻者である芥川龍之介の最年長の友人で俳人で篆刻家であった小澤碧童は昭和一六(一九四一)年没であるから、彼の作品もパブリック・ドメインである。

『芥川氏が「河童の考證は柳田國男氏の山島民譚集に盡してゐる」といった』大正九(一九二〇)年に雑誌『人間』に発表した「雜筆」の中の「水怪」中の一節。底本では「河童の考証は柳田国男氏の『山嶋民譚集』に尽している」となっているが、ここは原文に則して底本の表記を訂正した。なお、「水怪」の全文は私の「雜筆 芥川龍之介 附やぶちゃん注」を参照されたい。

「日本文化名著選」創元社が刊行した叢書名。「山島民譚集」は初刊から二十八年後の昭和一七(一九四二)年にその「日本文化名著選」の第二巻として「再版序」を附して刊行された。但し、本「俳諧博物誌」は昭和五六(一九八一)年刊で、この刊行時には既に筑摩書房から刊行された「定本柳田國男集」によって容易に読むことが出来た。]

 芥川氏は晩年「河童」一篇を公にしたけれども、あれは「グァリヴアの旅行記式」といい、「僕のライネッケフックス」という自評が最も適切なように、日本産の水虎とはあまり交渉のない産物である。大正十年頃の『新小説』にちょっと断片を出して、インフルエンザを理由に引込んだなり、遂に未完に終った「河童」の方は、晩年の「河童」とは全然別の意図のものだったらしく思われる。全集にして三頁しかないあの「河童」は、「河童の話の一部分、否、その序の一部分なり」と断ってあるが、もしインフルエンザに罹らなかったら、どういう風に進むつもりであったか、妄(みだり)に臆測を逞しゅうするわけには往かぬ。ただあの文章の終にある数行は、河童の如何なるものかを要約した点で、一顧の価値がありそうである。

[やぶちゃん注:「グァリヴアの旅行記式」これは芥川龍之介の昭和二(一九二七)年二月二日附齋藤茂吉宛書簡(田端発信)中の一節である。底本では「ア」が「ァ」となっているが、書簡原本の表記に訂した(校合は岩波版旧全集に拠った。旧全集書簡番号は「一五六七」である)。

「僕のライネッケフックス」これは同年同二月十一日附佐佐木茂索宛書簡(田端発信・旧全集書簡番号一五七七)。その冒頭で「河童」に言及して(以下に見る通り、唐突な書き方で、この書簡は或いは前部が欠損しているのかもしれぬ)、

   *

常談言つちやいけない。六十枚位のものをやつと三十枚ばかり書い所だ。「河童」は僕のライネッケフックスだ。

   *

(「書い所」はママ)と書いているのを引いたものである。「ライネッケフックス」Reineke Fuchsとはかのゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九~一八三二)の書いた一七九三年に刊行された叙事詩(小説)の題名で「ライネケ狐」などと邦訳されている。奸謀術数の悪玉狐ライネケに封建社会の風刺をこめた寓意文学である。個人のHP「サロン・ド・ソークラテース」の主幹氏による「世界文学渉猟」の中のゲーテのページに、以下のようにある。『これはゲーテの創作ではなく、古くは』十三『世紀迄遡ることが出来る寓話である。ゲーテは韻律を改作するに止まり、物語に殆ど手を加へてゐない。数々の危機を弁舌と狡智で切り抜ける狐のライネケ。その手口は常に相手の欲望を引き出し、旨い話にまんまと目を眩ませるもの。欲望の前に理性を失ふ輩を嘲笑する如くライネケはかく語りき。「つねに不満を訴へる心は、多くの物を失ふのが当然。強欲の精神は、ただ不安のうちに生きるのみ、誰にも満足は与へられぬ。」』。ともかくも、この正に「河童」擱筆(脱稿は二月十三日)直前の佐佐木茂索宛書簡の言葉は只物ではないという気が私はする。

『大正十年頃の『新小説』にちょっと断片を出して、インフルエンザを理由に引込んだなり、遂に未完に終った「河童」』言っとくが、私は芥川龍之介に関してはそんじょそこらに転がっている芥川龍之介フリークとはわけが違う。これもちゃんと「河童(やぶちゃんによる芥川龍之介真原稿恣意的推定版) 附やぶちゃん注(又は やぶちゃん恣意的副題――どうかPrototype“Kappa”と讀んで下さい――)」として電子化注している宵曲のうろ覚えは誤りで、小説「河童」が執筆される五年前の、大正一一(一九二二)年五月一日発行の雑誌『新小説』に掲載されたものである。末尾に、

   *

以上は河童の話の一部分、否、その序の一部分なり、但し目下インフルエンザの爲、如何にするも稿を次ぐ能はず。讀者並びに編輯者の諒恕を乞はんとする所以なり。作者識。

   *

とあるものの、続編は遂に書かれなかった。私も、この続篇が読みたかった一人である。

「インフルエンザを理由に引込んだなり」確かに芥川龍之介は以上の通り、「目下インフルエンザの爲、如何にするも稿を次ぐ能はず」と述べてはいるのであるが、実は宵曲を始め読者は騙されているのである。先の「河童(やぶちゃんによる芥川龍之介真原稿恣意的推定版) 附やぶちゃん注」の最後の私の注で推理した通り、大正一一(一九二二)年四月中旬以降(推定)の脱稿前、芥川龍之介が、臥せって執筆不能に陥るようなインフルエンザに罹患しているという記載は如何なる年譜にもないからである。それどころか、芥川は元気ピンピンである。四月一日頃から八日頃までの伯母フキとの京都奈良旅行、十三日の英国皇太子来日記念英文学講演会での「ロビン・ホツド」講義を経て――この間にインフルエンザに罹患したとしても――二十五日には溌剌と二度目の長崎に旅立ち、月末には京都で豪遊、帰京したのは実にこの後の六月一日だからである。――これは実は原稿が書けない、書きたくない、遊びたい嘘だったのだ――と、私は思っている。]

 なお、以下、宵曲はそこから最後の部分を引用をしている(底本では全体が二字下げであるが、無視した。宵曲は前後にある鍵括弧を略しているが、再現した)が、ここでは前後を一行空けにして、原文からの引用に変えた(例によって宵曲の引用は完全ではなく、一部記号に誤りがある)

 

「河童は水中に棲息する動物なり。但し動物學上の分類は、未だこれを詳らかにせず。その特色三あり。(一)周圍の變化により、皮膚の色彩も變化する事、カメレオンと異る所なし。(二)人語を發する鸚鵡に似たれども、人語を解するは鸚鵡よりも巧みなり。(三)四肢を切斷せらるるも、切斷せられたる四肢を得れば、直ちに癒着せしむる力あり。産地は日本に限られたれども、大約六十年以前より、漸次滅亡し去りしものの如し。

 

 已に斯の如きものである以上、ルナアルの『博物誌』やセルボーンの『博物誌』をいくら捜しても、出て来ないにきまっている。その代り日本人の著作を読んでいると、意外なところにひょっくり顔を出すことがある。

[やぶちゃん注:「ルナアルの『博物誌』」「俳諧博物誌」冒頭の「はしがき」で既出既注であるが、再掲する。私の偏愛するフランスの作家ジュール・ルナール(Jules Renard  一八六四年~一九一〇年)が一八九六年に発表したアフォリズム風随想Histoires naturelles。私が如何に偏愛しているかは、私の古い電子テクスト「博物誌 ルナール 岸田国士訳(附原文+やぶちゃん補注版)」(ナビ派(Les Nabis:ヘブライ語「預言者」)のピエール・ボナール(Pierre Bonnard 一八六七~一九四七年)の挿絵全添付)をご覧になればお判り戴けるものと存ずる。

「セルボーンの『博物誌』」やはり私の愛読書である、十八世紀イギリスの牧師で博物学者でもあったギルバート・ホワイト(Gilbert White 一七二〇年~一七九三年:ロンドンの南西約八十キロに位置するハンプシャーの小村セルボーン(Selborneここ(グーグル・マップ・データ))に生まれ、オックスフォードのオリオル・カレッジに進学、一七四六年に執事の命を受けて以降、ハンプシャー(セルボーンも含む)とウィルトシャーで助任司祭を務めた。一七五八年に父が亡くなってからはセルボーンに戻り、ウェイクス荘に定住。一七六三年に正式に相続し、一七八四年には第四代のセルボーン副牧師に任命されて、その職を全うした。生涯、独身を通した。ここはウィキの「ギルバート・ホワイト」に拠った)が著わした鳥類・植物・昆虫等の生態や自然景観をフィールドで直に観察しつつ、それに民俗学(フォークロア)的観点をも加味して記された優れた博物誌The Natural History and Antiquities of Selborne(セルボーンの自然史と古代)。正確には彼の友人であった二人の博物学者ペナント(Thomas Pennant)とバリントン(Daines Barrington)へ二十年にも亙って送られ続けた書簡の内容を纏めて、一七八九年にたまたま博物学書の出版を手掛けていたギルバートの弟ベンジャミン(Benjamin White)の手によって出版されたのが本書である。]

 伊沢蘭軒が雨夜に若党を連れて、蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)の堂に近い某街を歩いていたら、背後から筍笠(たけのこがさ)を被かぶった童子が来て、蘭軒と並んで歩きながら「小父さん。こはくはないかい」と反復して問うた。蘭軒は何とも答えなかったが、顧みて童子の顔を見た若党は、一声叫んで傘と提灯を投出した。その小僧の額の真中に大きい目が一つあった、河童が化けて出たのだ、閻魔堂の前の川には河童がいる、というのである。この事は蘭軒近視の話に関して伝えられているのであるが、鷗外博士は科学者だけに「河童が存在するか。又假に存在するとして、それが化けるか。此等は評論すべき限で無い。額の正中に一目を開いてゐる畸形は胎生学上に有りやうがない」と附加えている。しかしこの話は柳田氏の研究題目たる河童と一目小僧とを一身に兼ねている点で、われわれには特別の興味があるのである。

[やぶちゃん注:以上は森鷗外の史伝「伊沢蘭軒」(全篇の初出は『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』(大正五(一九一六)年六月から翌年九月まで)の「その百九十」に基づく。されば、引用部は底本に従わず、原本によって表記を訂した。新字正仮名なら「青空文庫」のこちらで読めるが、やはり、新字では迫真力がまるでない。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像での視認を強くお勧めする。

「伊沢蘭軒」(安永六(一七七七)年~文政一二(一八二九)年)は江戸後期の考証派(江戸後期に興隆し、幕末まで続いた医学の一派。儒学との折衷派の影響を受け、古方派と後世派を折衷する立場を採る流れから生まれた。中でも多紀元簡らは古文献学及び書誌学的考証を行い、そのお蔭で散逸を免れて後世に伝えられた医書も少くない)に属した医師。福山藩医。名は信恬(のぶさだ)で、蘭軒は号。

「蒟蒻閻魔」現在の東京都文京区小石川二丁目にある浄土宗の寺院常光山源覚寺の別称。ウィキの「源覚寺(文京区)によれば、寛永元(一六二四)年に『に定誉随波上人(後に増上寺第』十八『世)によって創建された。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に』天保一五(一八四八)年の『大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。再建は明治時代になったが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた』とある。この閻魔像は『鎌倉時代の作といわれ』、寛文一二(一六七二)年に『修復された記録がある』一『メートルほどの木造の閻魔大王の坐像である。文京区指定有形文化財にもなっており、文京区内にある仏像でも古いものに属する。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴でこれは、宝暦年間』(一七五一年~一七六四年)『に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に備え続けたといわれている言い伝えによるものである。以来この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、当閻魔像にこんにゃくを供える人が多い』とある。何より、この「蒟蒻閻魔」は行ったことがないのに私には異様に懐かしい。だって、かの漱石の「こゝろ」の中の重要なランドマークだからである。私のブログ初出電子化注版(サイト一括版はこちら「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」を参照されたい。

「筍笠」竹の皮を裂いて編んだ粗末な被り笠。「竹の皮笠」「法性寺(ほっしょうじ)笠」とも呼ぶ。因みに、「伊沢蘭軒」原文では「篛笠」で、所持する岩波の新書版選集では『たけのかはがさ』とルビしてある。

「額の正中に一目を開いてゐる畸形は胎生学上に有りやうがない」額の中央という位置にやや問題はあるが、先天性奇形の一つで必ずしも稀ではない「単眼症」(cyclopia:サイクロピア)はこれに明らかに相当する。殆んどは出生直後に死亡し、生存率は頗る低いものの、「胎生學上に有りやうがない」という鷗外医師の言葉は誤りである。

「柳田氏の研究題目たる河童と一目小僧」柳田國男の河童の民俗学的研究は、例えば、既出既注の「山島民譚集」があり、後者は昭和九(一九三四)年六月に小山書院より刊行された「一目小僧その他」がある。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で「一目小僧その他」の電子化注を進行中であるが、「一目小僧」についてのパートは既に完遂している。かなりマニアックな注附きであるが、よろしければお読み戴きたい。]

 蘭軒の子の柏軒(はくけん)にも同じような逸話が伝えられている。浜町(はまちょう)の山伏(やまぶし)井戸の畔(ほとり)で道連になった男が「檀那。今夜はなんだか薄気味の悪い晩じゃありませんか」という。柏軒がその男を顧みたまま徐(おもむろ)に歩を移すと、男は少焉(しばらく)して去ってしまう。翌晩も同じように現れて、同じ問を発した。男は獺(かわうそ)の怪で、来かかる人にこの問を発しては怖るべき面貌を示したのであるが、柏軒は近視のために見えなかった。そのせいか三晩目にはもう出なかったというのである。蘭軒はその子に近視を遺伝すると共に、怪を見て怖れざる功徳をも併せ伝えた。獺は水怪の一として、河童の仕業をこれに帰する人もあるのれども、『山嶋民譚集』は竟(つい)に獺には触れていないように思う。

[やぶちゃん注:以上も同じく鷗外の「伊沢蘭軒」の「その三百二十五」に基づく。同前注の理由から国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここからの視認を推奨する。

「柏軒」伊沢柏軒(文化七(一八一〇)年~文久三(一八六三)年)は伊沢蘭軒の次男。名は信重。考証学者として知られた狩谷棭齋(かりやえきさい)に経学を、父に医学を学んだ。妻は、棭齋の娘俊子。幕府の奥詰医。老中首座であった阿部正弘(備後福山藩第七代藩主)の治療を担当したが、死亡(安政四年)したため、一度、奥医から表医に移されたが、安政六(一八五九)年には再び奥詰医となっている。

「浜町(はまちょう)の山伏(やまぶし)井戸」日本橋久松町九(ここ(グーグル・マップ・データ))に存在した井戸(定位置は不明)。山伏が飲用したことに由来するという。ここは「人形町商店組合」公式サイトのこちらに拠った。

「獺の怪」哺乳綱食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon(但し、絶滅種)は、日本や中国の伝承では狐や狸と同様に人を化かす妖怪と信じられていた。ウィキの「カワウソ」の「伝承の中のカワウソ」を参照されたい。]

 『山嶋民譚集』によると、河童に関する記録は近世の二、三百年に偏っていて、古いところには見当らぬそうである。その点俳諧の歴史と共通点がないでもない。北は奥羽から南は九州まで、諸国に散在している模様もまた俳人の分布とほぼ趣を同じゅうするにかかわらず、河童の俳句は極めて乏しい。

 

 すべりてや河童流るゝ瓜の皮      風流

 河童(かはらう)がちからおとしや厚氷 和丈

 

 この二句はいずれも芭蕉以前、談林時代の産物である。『山嶋民譚集』にはカッパソウ(カッパノシリヌグイ)という植物は出て来るが、瓜との交渉は書いてない。「わたしゃ葛西(かさい)の源兵衛堀(げんべえぼり)、源兵衛さんの隣の河童でござる、河童に御馳走なさるなら……」というのは、われわれが文字以外に耳からおぼえた河童資料の最も古いものであるが、制作年代は勿論不明である。由来胡瓜(しゅうり)と尻子玉(しりこだま)は河童につきもののような気がしていたのに、『山嶋民譚集』を一読するに及んで、いわゆる河童伝説は両者とあまり縁のないことがわかった。しかし延宝度の俳諧が夙(つと)に「瓜の皮」を扱っているのを見れば、必ずしも後世の附会ではなかったのであろう。河童が瓜の皮に辷(すべ)るというのは、あるいは人間が西瓜(すいか)の皮などに辷ることから思いついたのかも知れぬ。芋銭氏の「水草絵巻」というものの中にも、瘦せこけた河童の相撲を取っている傍に胡瓜が三本ころげており、他の河童がこれを指しているところが画いてあった。河童に瓜はいささか常套的であるにせよ、また看過すべからざる配合であろう。

[やぶちゃん注:「カッパソウ(カッパノシリヌグイ)」ナデシコ目タデ科イヌタデ属アキノウナギツカミ Persicaria sieboldi の秋田県の一部での方言異名。「山島民譚集」には「河童藥法」(河童が人に伝えたとされる万病処方の条)に続く、というよりもその続きで「河童草」として出、『扛板歸(コウハンキ)、和名ヲ「イシミカワ」一名「カツパサウ」、又ハ「カツパノシリヌグヒ」ナドト稱スル植物ナリ〔雪之出羽路十二〕。忠陵漫錄卷十三ニ曰ク、萬病回春ニ扛板歸アリ。和名ハ「イシミカハ」ト云フ草ニ當ツ。今時藥肆ニモ此草ヲ賣ル。能ク折傷ヲ治スルコト妙ナリト云フ』と出るものを指す。岡山理科大学生物地球学部生物地球学科「植物生態研究室(波田研)」のサイトのこちらの記載によれば、『アキノウナギツカミは北海道から九州、朝鮮・中国・シベリアなどに分布する』一『年草。沼沢地、湖岸、放棄水田などの水湿地に生育する。茎はよく伸びて葉と葉の間が離れる。茎から葉柄、中脈の下半分にかけては鋭い曲がった棘があり、他の植物に引っかかって生育する。葉は細長い長被針形で基部はやじり形となり、茎を抱く。花は茎の先端あるいは葉腋から枝分かれした枝の先端に付き、いくつかの花序をつける。花は上部が淡紅色を帯びる。花期は』七月から十月とあって、画像も載る。

「わたしゃ葛西(かさい)の源兵衛堀(げんべえぼり)、源兵衛さんの隣の河童でござる、河童に御馳走なさるなら……」宵曲同様、この唄の濫觴は見出せなかったが、岡本綺堂の「半七捕物帳」の「海坊主」(初出は『新青年』の大正一三(一九二四)年一と二月発行号への連載で、初出時の題名は「潮干狩」)の「三」に、

   *

 この頃、顔やからだを真っ黒に塗って、なまの胡瓜をかじりながら、「わたしゃ葛西の源兵衛堀、かっぱの伜でござります」と、唄ってくる一種の乞食があった。したがって河童といえば生の胡瓜を食うもの、河童の棲家すみかといえば源兵衛堀にあるというように、一般の人から冗談半分に伝えられて、中にはほんとうにそれを信じている者もあったらしい。

   *

と出る(引用は「青空文庫」版「海坊主」から)。

「源兵衛堀」現在の東京都を流れる北十間川(きたじっけんがわ)の一部の旧呼称。ウィキの「北十間川」によれば、北十間川は総延長三・二四キロメートルの『荒川水系の一級河川であり、江戸時代初期に開削された運河である。西に隅田川、東に旧中川と接続する。横十間川との合流点より西は墨田区内を通り、東は墨田区と江東区の区界となっている』。『名称は、本所の「北」を流れる、川幅が』十間(十八・一八メートル)『の川であることに由来する。以前は大横川の分流点より西を源森川(別名源兵衛堀)、東を北十間川といった』とあるから、現在の東京スカイツリーを中心としたこの流域であろう(グーグル・マップ・データ)。

「延宝」一六七三年から一六八一年。

『芋銭氏の「水草絵巻」』大正七(一九一八)年の第四回珊瑚会展出品。「茨城県近代美術館 所蔵作品検索システム」のこちら(三枚目。拡大されたい)で当該画像が見られる。]

 森羅亭万象の黄表紙『面向不背御年玉(めんこうふはいのおとしだま)』(天明七年刊)は「海士(あま)」の謡をもじったものであるが、河童が両国の夕納涼(ゆうすずみ)で、ぽんと上る花火の玉を面向不背の玉と心得て、うろうろ船の落した真桑瓜(まくわうり)を攫(つか)み帰り、龍王の不興を蒙(こうむ)ることが書いてある。ここでは明(あきらか)に真桑瓜とあって、胡瓜ではないが、山東京伝の洒落本『仕懸(しかけ)文庫』(寛政三年刊)になると、

  「ここにむきずな胡瓜がながれ付ついている。

  「そりゃア河童へやるといってながしたのさ。

という会話があり、胡瓜と限定されるのみならず、河童のために胡瓜を流すという事実が現れて来る。河童と瓜との交渉は、更にいろいろな材料によって傍証さるべきものと考える。

[やぶちゃん注:「面向不背御年玉(めんこうふはいのおとしだま)」ペンネーム森羅亭万象の作。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。短い作品である。

「天明七年」一七八七年。

「山東京伝の洒落本『仕懸(しかけ)文庫』」国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認で視認出来るが、崩し字で当該箇所は捜すのが面倒。ご自身で探されたい。悪しからず。

「寛政三年」一七九一年。]

 河童は季題としては取扱われてはいないが、これを詠んだ句は殆ど夏ばかりである。和丈の句は冬の河童である点が異彩を放っている。厚い氷が張っていたのでは、寒中水泳という新手に出るわけにも往くまい。紀州の河童は冬は山に入ってカシャンボとなり、九州の河童も同じく山に入ってヤマワロとなると『山嶋民譚集』にある。九州南部の河童のように敢て改名せぬ者といえども、冬季は山に入って猟師の側(そば)に現れたりするらしいから、厚氷に遭って力を落すが如きは、よくよく初心の徒に相違ない。

[やぶちゃん注:以上の「山島民譚集」の原記載は以下。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認した。

   *

紀州熊野ニテハ、河童ハ冬ハ山ニ入ツテ「カシャンボ」ト云フ物ニナルト云フ。「カシャンボ」ハ六七歳ホドノ小兒ノ形、頭ハ芥子坊主ニシテ靑キ衣ヲ着ス。姿ハ愛ラシケレドモ中々惡事ヲ爲ス。同國東牟婁郡高田村ニ高田權頭(ゴンノカミ)・檜杖(ヒヅヱノ)冠者ナド云フ舊家アリ。此ノ中ノ或ル家へ每年ノ秋河童新宮川ヲ上リテ挨拶ニ來ル。姿ハ見エザレドモ一疋來ル每ニ小石ヲ投ゲ込ミテ著到ヲ報ジ、ソレヨリ愈山林ニ入リテ「カシャンボ」ト成ルトイエリ〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」牛馬ノ害ヲ爲スコト多シ。或ハ木ヲ伐リニ山ニ入リシ者、樹ニ繫ギ置キタル馬ヲ取リ隱サレ、漸クニシテ之ヲ見出デタレドモ、馬苦惱スルコト甚シク、大日堂ノ護摩札ヲ請ヒ受ケテ、僅カニ助ケ得タルコトアリ。或ハ水邊ヨリ出デ來タリテ夜々牛小屋ヲ襲ヒ、涎ノ如キ物ヲ吐キテ牛ノ身ニ塗リ附ケ之ヲ苦シム。試ミニ小屋ノ戸口ニ灰ヲ撒キ置ケバ水鳥ノ如キ足趾一面ニ其ノ上ニ殘レリ〔同上〕。「カシャンボ」ハ火車ヨリ轉ジタル名稱カト南方(ミナカタ)氏ハ言ハルレドモ未ダ確證ヲ知ラズ。兎ニ角夏ノ間里川ノ水ニ棲ム者ヲモ同ジク「カシャンボ」トモ呼ブト見エタリ。

   *

ああ、この「山島民譚集」の河童の部分は近い将来、電子化したくなってきた。]

 

   足駄(あしだ)行人

 暑き日も水こそ絶ね河童(かわわつぱ) 腹松

 

 前書の意味は十分にわからぬが、「水こそ絶ね」というのは、例の頭の皿に溜たまるやつであろう。この窪みに水が溜っている間は、彼の力は人に数十倍する。馬を水に引摺り込もうとした河童が、あべこべに厩(うまや)まで引摺って来られることがあるのは、馬の跳躍によって皿の水をこぼされたためである。これを厩の柱に繫いで置いたところ、傍に洗濯していた母親が大に罵って盥(たらい)の水を打掛けたため、蛟龍(こうりょう)の雲を得たるが如く忽(たちまち)に力を生じ、綱を引切って逃れ去ったという話を『山嶋民譚集』は伝えている。仮令(たとい)如何なる炎暑に際しても、頭の皿の水を絶やすまじきことは、河童として当然の心掛でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「山島民譚集」の当該箇所は以下。

   *

曾テ肥前佐賀郡ノ三溝(ミツミゾ)ト云フ地ニ於テ、農民其ノ馬ヲ樹ニ繫ギ置キシニ、河童水ヨリ出デ其ノ綱ヲ解キテ身ニ絆(マト)ヒ之ヲ水際マデ引キ行キケレバ、馬驚キテ大イニ跳ネ、乃チ河童ノ皿ノ水ヲ覆(コボ)ス。河童忽チ力弱リ却ツテ馬ニ引キ摺ラレテ厩ニ至ル。主之ヲ厩ノ柱ニ繫ギ其ノ由ヲ母ニ語ル。母ハ洗濯ヲシテアリシガ、大イニ罵リテ盥ノ水ヲ河童ニ打チ掛ケタレバ、其ノ水少シク皿ノ中ニ入リ、河童力ヲ復シテ馬ノ綱ヲ引切リテ逸シ去リ、終ニ片手ヲ失ウニモ及バズ、又詫狀モシクハ藥ノ祕傳ノ沙汰ニモ立チ至ラズ〔水虎考略後篇三〕。従ッテ此ノ地方ニハ河童ノ侵害後世ニ至ルマデ中々多カリキ。

   *]

 腹松の句はただ水とのみあるが、同じく元禄度の俳諧に明(あきらか)に頭の水となっているのがある。

 

 油煙藏(ゆえんぐら)鳥も覗かぬ寒の内 浮生(ふせい)

   頭の水をこぼす河童(かわわつぱ) 兎株

 何ものか鉦(かね)太鼓にて泣ないて行(ゆく)

                    風水

 

 この河童の状態もあまり明瞭でない。寒の内という前の句を受けたためか、後の鉦太鼓を鳴らして行くのも、どうやら冬の夜の趣らしく感ぜられる。冬の天地に抛り出された河童が、頭の水をこぼしてしまっては、全く活動の余地はなさそうである。

[やぶちゃん注:「寒の内」。二十四節気の第二十三に当たる「小寒」(旧暦十一月後半から十二月前半。現在の一月六日から一月十九日相当)から「立春」の前日(節分)までの約三十日間。「大寒」の日がほぼ中間となる。]

 河童の対人交渉の中で最も多いのは、悪戯(いたずら)をしかけるか、あるいは馬を引摺り込もうとした結果、大事の腕を失って、羅生門の鬼の如く取返し手段を講ずる話であろう。偶〻(たまたま)九州の河童のように、華美な犢鼻褌(ふんどし)をひけらかして闊歩し、人に相撲を挑む輩(はい)もないではないが、概して河童の打つ手は単調である。その中にあって、

 

 河童(かはたろ)の戀する宿や夏の月  蕪村

 

の句は那辺(なへん)より著想し来ったものが、常套を脱して一脈の妖気を漂わせている点を珍とすべきであろう。夏の月夜に人を恋う水虎先生は、水郷怪談の一齣(ひとこま)として何人かの作中に入るべきものだが、下手に作為を加えたら、この蕪村の句が持つだけの雰囲気もぶち壊してしまうかも知れぬ。

 明治以後の河童の句にはどんなものがあるか、いまだ子細しさいに点検する遑(いとま)がない。

 

 浮草に河童恐るゝ泳ぎかな   子規

 泳ぎ上り河童驚く暑さかな   漱石

 

 共に泳(およぎ)を題材にしているが、前者は河童を恐れるというまでで、実際は人の上にとどまっている。陸(おか)に上って暑さに驚く河童も、奇想のようで人間世界を脱却し得ぬ憾(うらみ)がある。

 

 夕立に瓜流るゝを河童かな    句一念(くいちねん)

 子等らのいふ河童の昼寐時分かな 鹿語

 

 河童と瓜は珍しくもないが、夕立に流れる瓜を追駈けて行くところとすれば、そこに多少の動きがあって、従来の句に見られぬ特色を具えている。「河童晝寐時分」は、しずまり返った日盛(ひざかり)の空気を連想せしめるが、それも河童の棲息するような、水辺を背景としている点に注意する必要がある。

 

 獺を河童思ふや秋の水   月斗

 

 これは蕪村の句に現れたような河童の恋であるか、単に水郷仲間の獺を思いやるというのであろうか、いずれにしても秋の水だけに一種のさびしみがある。

 

 子河童を捕りし祟(たたり)や秋出水(でみづ) へき生(せい)

 

 水辺の者が河童の子を捕えた、それが彼らの恨(うらみ)を買って、秋になってから雨が降り続き、遂に一面の出水となる。子河童を捕えた者の家は固(もと)より浸水を免れぬであろう。この句には妖気というほどではないが、今までの句と違った匂においがする。子河童事件を眼前に描こうとせず、現在の秋出水を以てその祟とした、時間的経過を含んでいることが、この句の特色なのであろう。

 

   韓街所見

 親河童子河童喰ふや真桑瓜   月斗

 

 これは瓜を食いつつある親子を、河童に見立てたまでの句と思われる。一句に現れたところだけでは、その光景を髣髴することが出来ないが、もし瓜の因縁のみを以て河童に見立てたものとすれば、浅薄の嫌(きらい)を免れぬ。韓街所見という以外、何か意味を補うところがないと、この河童は躍動することにならぬのかも知れない。

[やぶちゃん注:この句、差別視線が強く、厭な句である。戦後の本篇にこれを引いた柴田宵曲の品格の低さが露呈している。]

 俳諧における河童は好題目のように見えて、その実真の妙味を発揮したものが見当らぬようである。われわれが河童の姿に愛すべき俳味を感ずるのは、芋銭氏の画に親しんだためかもわからぬ。山魈(さんしょう)といわず、木魅(ぼくみ)といわず、芋銭氏によって新あらたに生命を吹込まれたものは少くないが、その最も著しいのは河童であろう。芋銭氏が河童の自画に「誰識古人画龍心」の七字を題したのは、決して偶然ではない。

[やぶちゃん注:「山魈」中国古代の山中に棲む一本足の妖怪の名。「山精」「山𤢖(さんそう)」「やまわろ」などと同一視される。狭義には一本足で、足首の附き方が人間とは反対に後ろ前になっており、手足の指は三本ずつとする。男は「山公」、女は「山姑」と称し、人間に会うと山公は銭を、山姑は紅・白粉を要求する。嶺南山中の大木の枝の上に住み、木で作った囲いに食料を貯え、虎を操り、要求物を呉れた人間は虎が襲わないようにしたりするという。「ウィキの「山わろ」によれば、中国の古書「神異経」には、『西方の深い山の中に住んでおり、身長は約』一『丈余り、エビやカニを捕らえて焼いて食べ、爆竹などの大きな音を嫌うとある。また、これを害した者は病気にかかるという。食習慣や、殺めた人間が病気になるといった特徴は、同じく中国の山精(さんせい)にも見られる』とあり、そのウィキの「山精」を見ると、『中国河北省に伝わる妖怪』『山鬼(さんき)とも』称し、「和漢三才図会』」では『中国の文献が引用した解説が載っている。それによると、安国県(現在の中国の安国市)に山精はおり、身長は』一尺或いは三~四尺で、一本だけ『生えている足は』、『かかとの向きが前後逆についており』(本書の次条「廣異記」を参照)、『山で働く人々から塩を盗んだり、カニやカエルをよく食べたりする。夜に現れて人を犯すが、「魃」(ばつ)の名を呼ぶと彼らは人を犯すことが出来なくなるという』(本話の最後に語られる内容を逆手にとった人間の方から先に「言上げ」することによる絶対的な神怪の退治法)。また、『人の方が山精を犯すと、その人は病気になったり、家が火事に遭ったりするという。また』、「和漢三才図会」に於いては『「山精」という字には「片足のやまおに」という訓がつけられている』とし、再び、ウィキの「山わろ」に戻ると、やはり「和漢三才図会」には『山𤢖(さんそう)に対して「やまわろ」の訓が当てられている。「やまわろ」という日本語は「山の子供」という意味で「山童」(やまわろ)と同じ意味であり、同一の存在であると見られていた』とある。その辺りは、どうぞ、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖(やまわろ)」及び「山精(かたあしのやまおに)」等をじっくりとお読み戴きたいし、本邦の「やまわろ」や「山男」についても、本「怪奇談集」の「想山著聞奇集 卷の貮 山𤢖が事」等々で散々っぱら電子化注してきたので、これくらいにしておく。因みに、現代中国語の「山魈」は実在する生物種、かの哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科マンドリル属マンドリル Mandrillus sphinx の漢名である。

「木魅」一般には前のそれと合わせて「山魈木魅(さんせうぼくみ)」で、山中の妖怪・精霊である「魑魅魍魎」の一群の別称とされる。「木魅」は所謂、「木霊(こだま)」の妖怪化と捉えてよいと私は考えている。]

2017/11/27

柴田宵曲 俳諧博物誌(10) 鯛 二 / 鯛~了

  

       

 

 『荘子』の「秋水」の篇に「子は魚に非ず、安(いづくん)ぞ魚の樂しきを知らん」「子は我に非ず、安んぞ我が魚の樂しきを知らざるを知らん」という問答があるが、魚族とわれわれとの間には水と陸との隔りがある。ひとり魚の楽しきを知らぬばかりでなく、生きた魚と相見ることも、限られた種類の外は困難である。鯛の如きはわれわれの面前に現れる場合、己に幽明境を異にしていることが多い。生きて尾鰭を振る鯛を観察するには、鯛の浦に舟を泛べるか、あるいは水族館のガラス越に片影を窺うより仕方があるまい。古来の俳句を通覧して、生きた鯛を詠んだものが少いのはそのためである。

[やぶちゃん注:冒頭の「荘子(そうじ)」「秋水篇」の話は一般に「知魚楽」などという通称で知られる。原話は私が頗る愛するもので、教員時代には漢文でしばしば教材として用いたので、記憶している教え子諸君も多いであろう。

   *

莊子與惠子、遊於濠梁之上。莊子曰、「鯈魚出遊、從容。是魚樂也。」。惠子曰、「子非魚。安知魚之樂。」。莊子曰、「子非我。安知我不知魚之樂。」。惠子曰、「我非子。固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之樂、全。」。莊子曰、「請、循其本。子曰、『女、安知魚樂』云者、既已、知吾知之而問我。我、知之濠上也。」。

○やぶちゃんの書き下し文

 莊子、惠子と濠梁(がうりやう)の上(ほと)りに遊ぶ。

 莊子曰く、

「鯈魚(いうぎよ)出でて遊び、從容(しようよう)たり。是れ、魚(うを)の樂しむなり。」

と。

 惠子曰く、

「子は魚に非ず。安(いづく)んぞ魚の樂しむを知らん。

」と。

 莊子曰く、

「子は我に非ず。安んぞ我の魚の樂しむを知らざるを知らん。」

と。

 惠子曰く、

「我は子に非ず。固(もと)より子を知らず。子は固より魚に非ざるなり。子の魚の樂しむを知らざるは、全(まった)し。」

と。

 莊子曰く、

「請ふ、其の本(もと)に循(したが)はん。子曰はく、『女(なんぢ)、安んぞ魚の樂しむを知らん』と云ふは、既已(すでにすで)に、吾の之(これ)を知れるを知りて我に問ひしなり。我、之を濠の上りに知れり。」

と。

   *

私の「橋上 萩原朔太郎」の注で、上記原文・訓読に加えてオリジナルの語注と私の現代語訳を掲げてあるので是非、参照されたい。

「鯛の浦」老婆心乍ら、千葉県鴨川市小湊の内浦湾(狭義には同湾東部にある小湊港奥の史跡観光呼称)及び同湾の南東に伸び出る入道ヶ崎にかけての沿岸部の一部海域の通称広称名で、正式な広域の海辺域呼称は「妙の浦」。ここ(グーグル・マップ・データ)。小湊は日蓮の生誕地(実際の誕生地である片海(かたうみ)は近世の二度の大地震による陥没によって海中に没している)で、小湊港奥直近には日蓮宗大本山小湊山誕生寺(建治二(一二七六)年に日家が生家跡に建立、後に現在地に移転)がある。日蓮が誕生した折り(貞応元(一二二二)年二月十六日)、海面に大小の鯛が群れ集(つど)ったという伝承から、この海域を「鯛の浦」と名づけ、漁を禁じたことに由来するとされ、他にも、立宗後の日蓮が、両親の供養に小舟で訪れた際、海に題目を唱えたところ、海面に題目の文字が現われ、そこに現れた鯛の群れがその題目を食べ尽くしたという話が伝わる、日蓮宗のメッカである。但し、現在の史跡としての鯛の浦は元禄地震(元禄十六年十一月二十三日(一七〇三年十二月三十一日)の際の陥没、激しく複雑な海岸地形の変形によって、当時の誕生寺前庭は海中に没したほか、現在の鯛の浦もその時に現出したとされ、各種の超自然の奇瑞譚もその後に場所と照合的に形成されたものであろうと思われる。私は遠い五十三年の昔、七つの時、父の祖母(同時に母の叔母。私の両親は従兄妹である)と父母と一度だけ訪れたことがある。船端を叩くと、綺麗なマダイが海中を舞い踊りながら、何匹も上っては投げた餌を食べ、潜って行った。小学校二年生の私はそれをまことに不思議な思いで見た。今でもその瞬間を、昨日のことのように動画で鮮やかに出せるのである。亡き母との楽しかった旅の思い出として私の忘れ得ぬ思い出である。因みに、鯛の浦でマダイが群れる理由は現在でも科学的に解明されていないことも言い添えておこう。]

 

 鯛はねて難波(なには)の冬のあたゝかさ 一禮

 

という句の場合は、慥(たしか)に生きているに相違ないが、この鯛は沙上のものになつているので、人間の眼に快く感ぜられるほど、清澄に跳ねている次第ではない。

 

   遠浦の獵船押送りして此橋の下に入(いる)

 帆をかぶる鯛のさわぎや薰(かほ)る風  其角

 

 この句は已に市井に近づいているにかかわらず、頗る珍しい場合を捉えたもので、遠い浦々から活きたまま鯛を船で運んで来る、橋のところへ来て帆を倒すと、舟底の鯛どもは一斉に驚き騒ぐ、というような意であろう。こういう特別な世界を描くことは余人の追随を許さぬ、正に其角の擅場(せんじょう)である。折からの薫風と相俟(あいま)って、舟底の鯛とは思われぬ爽快の趣を具えている。

[やぶちゃん注:「擅場」「擅」(セン:漢音)は「恣(ほしいま)ま独り占めにする。勝手気儘にするの意で、その人だけが思うままに振る舞うことが出来る場所・場面・世界。一人舞台の意の「独擅場(どくせんじょう)」に同じい。言わずもがなであるが、「どくだんじょう」は「擅」を「壇」に見誤った誤った慣用読み。]

 

   あまの子共の魚ぬすむを

 ふところに小鯛つめたし網子(あご)の聲 龜翁

   春眠不覺曉

 春の泊鯛呼(よぶ)聲や濱のかた     几董

 

 いまだ市人の手に落ちぬ、海浜の鯛を描いた点で、これらも異色ある句の中に算えられなければなるまい。

 交通機関の発達せぬ時代にあっては、活きた鯛の姿が見られぬどころの話でない。新しい鯛を口にし得ぬ地方も少くなかったであろう。塩鯛の句の多いことはこれを証する。

 

 鹽鯛や餘花の膳部の一はづみ       車庸

 紙鹽(かみしほ)の鯛や今朝(けさ)吹(ふく)秋の風

                     汀蘆

 鹽鯛の天窓(あたま)ならべてとし暮(くれ)ぬ

                     芙蓉花

 鹿聞(しかきき)の炙るや鯛の一夜鹽   嘯山

 鹽鯛の鹽ぬけてよりきくの花       成美

 鹽鯛もむかしの沖津五月雨(さつきあめ) 星山

 鹽鯛の味も香もなし氷餠         流沙

   伊勢の便を得て

 鹽鯛よ二見の浦のしぐるゝか       口遊

 

 この中で嘯山の句だけは、山家へ鹿の声を聞きに行くに当り、臨時に鯛を一塩にして携帯するのだから別である。他は句を通して見ても、更に食欲を刺激するものがない。

[やぶちゃん注:「紙鹽」「かみじほ(かみじお)」とも読む。魚や貝の身を和紙に挟んで、塩を載せ、それに水を振りかけて、軽く塩味をつける調味法を指す。

「鹿聞」鹿の啼き声を聞く風流の物見遊山。あまり聞き慣れないが、「鹿」は秋の季語であるから、これも同格。]

 人間の手に落ちた鯛は先ず市店に現れ、次いで庖厨(ほうちゅう)のものとなる。

 

   粟ケ崎の漁家にて

 わすれめや胡葱(ひげねぎ)膾(なます)浦小鯛

                     牧笛

 

の如きは、市店を経ずして食膳に上る場合で、先ず番外と見なければならぬ。

[やぶちゃん注:「粟ケ崎」いろいろの情報を管見から、河北潟の南、現在の石川県河北郡内灘町向粟崎(むかいあわがさき)の海浜方面にある内灘海岸(現在の住所は内灘町千鳥台)附近と推定しておく。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 齒朶(しだ)の葉に見よ包尾(つつみを)の鯛のそり

                     耕雪

 春雨や小桶(こをけ)にかつぐかす小鯛  白雄

 包尾の鯛のどかなる都かな        輦之(れんし)

 市にふる鯛の尾かれて秋の風       曉臺

   天滿宮にまうでの道あさ市にたつ人の聲

   いそがしくをのがさまざま求めていぬ、

   あのつともそのいをにや

 買はれ行(ゆく)鯛は何處(いづこ)のとしわすれ

                     園女

 

 朝市に買う園女の鯛が最も新鮮なような感じがする。

 庖厨の作業としては、

 

 鯛を切(きる)鈍きはものや桃の宿   几董

 我櫻鯛裂く枇杷の廣葉かな       秋風

 

の如き、いずれも市中の趣を遠ざかっているが、鯛を料理する場合に著しいものは鱗である。

[やぶちゃん注:秋風の句は読みと意味が判らぬ。初句の切れからから考えると「わがさくら」であるが、それでは切れが致命的で桜と桜色の鯛の二景としても下の続きようが致命的にぎこちなく、「さく」を「咲く」の洒落として掛けているとしても凡そ下びて不快以外のなにものでもない。それでは「櫻鯛」という名詞(桜の花盛りの頃に産卵のため、内湾の浅瀬に群集する鯛を、特に瀬戸内海沿岸地方で称する語で、「花見鯛」とも言い、春の季語ではある)で採るなら「われさくら/だひ(たひ)さくびはの//ひろはかな」では如何にも句切れが気持ち悪い。他の読みや解釈があるなら、御教授願いたい。]

 

 咲く花を眞向(まつかう)にこくや鯛の鱗(こけ)

                    三枝

 茸狩(きのこがり)や鯛の鱗にかたつぶり

                    嘯山

 散(ちる)時は鯛もさくらも鱗かな   箕十(きじふ)

   酒店

 簾戸(すだれど)に鯛のこけちる春日かな

                    白雄

 

 嘯山はまた一ひねりひねって、茸狩の人のこぼす鯛の鱗に、蝸牛が寄るという奇抜な趣を持出した。この句は内容において、前に引いた「鹿聞」の句と共通するものを持っている。

[やぶちゃん注:「こく」「扱く」。強く擦(こす)る。]

 食膳の消息は

 

 きくのかや鯛はにごさぬ椀(わん)の内 涼菟

 古(ふる)されし鯛の目覺す花柚(はなゆ)かな

                    許國

 鯛の汁喰うて出たれば月かすむ     成美

 

位のもので、特筆に値せぬが、この外に

 

 梅が香にはづんで反(そる)や折の鯛  臥高

 重箱に鯛おしまげて花見かな      成美

 

の如き場合のあることを一顧する必要がある。

[やぶちゃん注:「花柚(はなゆ)」私の注で既出既注であるが、再掲しておく。ユズ(ムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos)の一種で実は小さい。香りがよく、花や皮を酒や吸い物に入れて用いる。僅かに紫色を帯びた白い五弁花を初夏に咲かせ、俳諧では夏(陰暦四月)の季語とする。

 要するに鯛は

 

 櫻さく伊勢路は鯛もさかりかな     作者不知

 寺の男鯛喰(くひ)に出る櫻かな    竹戸

 世はさくら門は鯛賣(うる)日和かな  白雄

 初雪やおもひもよらぬ鯛を買(かひ)  三屋(さんをく)

 初雪やみそ漬の鯛もちたるぞ      晩得

 

 花にも雪にも欠くべからざる肴ではあるが、特に鯛のために挙げなければならぬのは恵比須講(えびすこう)であろう。恵比須講に鯛を用いるのは、恵比須様との因縁以外に何があるか、歳時記には別に記されていない。

[やぶちゃん注:「恵比須講」「恵比須」(表記は「夷」「戎」「胡」「蛭子」「蝦夷」「恵比寿」「恵美須」など多様で、読みも「えびっさん」「えべっさん」「おべっさん」などとも呼称される)は純粋な日本古来の神で、現在では七福神(他六神は外来移入神)の一神として殆んど唯一の福の神として信仰される神であり、同時に古くから漁業の神でもあり、後に「留守神(るすがみ)」(出雲に神が集う十月に留守番をする神)や商売の神ともされるようになった。「えびす」神は複数存在するが、その主たる起源は、伊耶那岐(いさなき)・伊耶那美(いさなみ)の最初の子で奇形児であった蛭子(ひるこ)か、或いは、本来の国神である大国主(大黒)の子である事代主(ことしろぬし)とされることが多い。他にも大国主の国産み神話で協力をする矮小の智神(私は蛭子と全く同一の神と考えている)少彦名(すくなびこな)や、木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)の産んだ火の神の末子彦火火出見(ひこほほでみ)とすることもある(一説にはこれも外来の神とする説もある。それは当てた漢字の「戎」や「夷」が「異邦の輩」を意味する語であることによるが、これは本末転倒の妄説だと私は思う。ここまでは一部でウィキの「えびす」を参考にした)。以下、小学館「日本大百科全書」から引く。『夷講、恵比須講、恵美須講などと書く。えびす神を祭る行事であるが、えびす神の信仰を受け入れるにあたって、商家においては、同業集団の組織と結び付いてえびす講中をつくり、一方農村では、地域集団の祭祀』『組織に結び付いたものと、年中行事的な各戸の行事として受け止めた所とがあり、それらが相互に混在し重複している。期日は旧暦』十月二十日が『一般である。旧暦』十『月は神無月』『といわれ、全国の神々が出雲』『へ集合するという伝承が、広く行き渡っている。したがってその期間は神々が不在になるはずで、神祭りも行われない。そこで』十月二十日の『えびす神の祭りを正当化するために、「夷様の中通(なかがよ)い」などといって、えびす講の前後だけ出雲から帰ってくるのだと』言『ったり、えびす様と金毘羅』様(祭日は十月十日)だけは留守神だから、『出雲へ行かないのだと説明している。えびす講を』十一月二十日に『する例もあり、年の市(いち)と結び付いて』十二月二十日に『する所もある。農村では』、十月と一月の二十日を『対置させてともに祝い、えびす様が稼ぎに行く日と帰る日だなどと説明する所が多い。えびす講の日は、神棚に一升枡(ます)をあげ、中に銭や財布を入れて福運を願い、あるいは東北から中部にかけての広い地域では、フナなどの生きた魚を水鉢に入れてえびす神に供えたり、またこの魚を井戸の中に放したりする』とある。]

 

 まづ鯛と筆を立けり惠美須講      史邦(ふみくに)

 めで鯛の古いで持や惠美須講      白雪

 鯛の跡へ亭主の出るや惠比須講     孟遠

 夜をこめて鯛のそらねや夷講(ゑびすかう)

                    米翁

 鯛喰ふて我も肥(こえ)けり戎講(ゑびすかう)

蘆錐

 

 「めで鯛」という洒落が元禄からあるのは少々意外であった。「夜をこめて」の句は恵比須講に際して、鯛の値の騰(あが)ることを示している。「夜をこめてとりのそらねははかるとも」という清少納言の歌を利かしているのはいうまでもないが、鳴雪翁は更にそれから脱化して「夜をこめて柿のそら価や本門寺」と御会式の世界に持って行った。こういう句も、こういう脱化の興味も、今や全く地を払おうとしている。

[やぶちゃん注:「夜をこめてとりのそらねははかるとも」清少納言の「百人一首」の第六十二番歌で知られる「後拾遺和歌集」の「巻十六」の雑に載る(九四〇番歌)、

 

 夜をこめて鳥の空音(そらね)は謀(はか)るともよに逢坂(あふさか)の關は許さじ

 

を指す。

「鳴雪」内藤鳴雪(めいせつ 弘化四(一八四七)年~大正一五(一九二六)年)は元伊予松山藩藩士、後に明治政府の官吏で俳人。本名は師克(もろかつ)、後に素行(もとゆき)と改名した。俳号鳴雪は訓の「なりゆき」で「何事も成行きに任す」の当て字という。ウィキの「内藤鳴雪によれば、『伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十(やそ)の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれ』、八『歳のときから父に漢籍を教わり、また、草双紙類を好み、寄席や義太夫も知った。なお、同時期に小使として出仕していた原田左之助(後の新撰組幹部で十番隊隊長。当時』十五、六歳)『と会っており、遊んで貰った事もあった』。安政四(一八五七)年、『父の転勤で一家の故郷松山に移り、藩校明教館で漢学を学び、また、剣術も習ったが』、「武」より「文」に優れたという。文久三(一八六三)年十七歳の時、『元服して師克を名乗り、幹部の卵として明教館に寄宿し、大原武右衛門(正岡子規の母方の祖父)に漢詩を学んだ』。翌年、『藩主の嗣子松平定昭の小姓となり、翌年の第二次長州征伐に従っ』ている。慶応三(一八六七)年、『隠居した前藩主松平勝成の側付とな』り『(春日)チカを娶』る。同年、命ぜられて『京都の水本保太郎の塾に学び、翌年』、『水本の転勤に従って東京の昌平坂学問所へ入寮した』明治元(一八六九)年、『松山に戻り、翌年から権少参事として明教館の学則改革に携わった』。明治一三(一八八〇)年三十三歳の時、『文部省へ転じ』、『累進して』『書記官・往復課長』・寄宿舎舎監(東京に学ぶ松山の子弟のための常磐会という寄宿寮)・『参事官兼普通学務局勤務』を勤め、明治二四(一八九一)年に退官したが、寄宿舎監督は続けた。『寄宿生の、正岡子規・竹村黄塔・その弟の河東碧梧桐・五百木瓢亭・勝田主計らに、漢詩の添削をしてやった』りしたが、翌明治二五(一八九二)年四十五歳の時、二十一も年下の子規の俳句の弟子となった

「本門寺」「御会式」東京都大田区池上にある日蓮宗大本山長栄山池上本門寺で、日蓮の命日陰暦十月十三日にあわせて行われる法要。]

 

 人麻呂に鯛もあれかし若惠比壽   巢兆

 

というのは正月の一句で、恵比須講に直接関係はないが、序を以てここに挙げて置く。

 

 鯛ねがふ坊主に見せな葱の花    句空

 

これは「醬酢爾蒜都伎合而鯛願吾爾勿所見水葱乃煮物」という『万葉』十六の歌から脱化している。「鯛願」は文字通り「タイネガウ」と訓んだ書物もあったと記憶する。但ここに肉食を許されぬ坊主を点出し、葱の花で春の季にしたのは例の俳語手段である。

[やぶちゃん注:「醬酢爾蒜都伎合而鯛願吾爾勿所見水葱乃煮物」は底本にルビで訓じられてあるが、訓読文で以下に示す。「万葉集」の「巻第十六」の「由緣ある雜歌(ざふか)」の中の一首。

 

   酢・醬(ひしほ)・蒜(ひる)・鯛・水葱(なぎ)を詠める歌

 醬(ひしほ)酢に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛願ふ我れにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)

 

「醬」は小麦と大豆を煎った麹(こうじ)に塩水を加えて作った調味料。醬油の醪(もろみ)のような製品。「蒜」は野蒜(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科 Allieae連ネギ属ノビル Allium macrostemon)。末句で禁じているのは、そこまで述べた調理法による美食に対し、下賤な水葱(水葵(単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ属ミズアオイ Monochoria korsakowii。「万葉集」では求愛の歌に詠み込まれるなど、親しまれ、青紫色の花を染料に利用したほか、若芽や若葉を塩茹でにして流水によく晒し、汁物・煮物・和え物に用いた。))の熱い吸い物を「見せるな、忌まわしい」という意である。なお、底本では「鯛願」を「たいもが」と訓じていて、それで宵曲は本文でかく言っているのである。]

 

   嵐梅亭より鮮肴(せんかう)をおくられけるに

 魚は鯛すみ家はさぞなむめの花   野坡

 

 鯛の讃美者はなかなか多い。「腐っても鯛」という諺を取入れた句すらある。

 

 くさつても鯛で見しらす祭かな   寄芬(きふん)

 腐つても鯛遲うても櫻かな     嘯山

 

 しかしその一面には

 

 河豚汁(ふくとじる)鯛は凡にてましましける

                  召波

   貪閑

 何よけん鯛はいや也(なり)春の雨 几董

 

の如く、鯛を軽んずる風をも生じている。

[やぶちゃん注:「貪閑」は「どんかん」と読むか。私は見たことがない語である。「閑寂清貧を貪る」の謂いか。]

 

 芭蕉忌や鯛喰(くひ)あきし人の果 晩得

 

などというのは、いずれ贅沢を尽した人の末路であろうから、一般の例にはならぬが、他の魚と比較して鯛を蔑視した句も多少はある。

[やぶちゃん注:「芭蕉忌」芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)に没した。死の直接の主因は劇症型の下痢症状であったが、詳しい死因(推定)に興味のある方は私が四年前に書いた記事旅に病んで夢は枯野をかけ𢌞る 芭蕉 ――本日期日限定の膽(キモ)のブログ記事――319年前の明日未明に詠まれたあの句――を参照されたい。そこにも記してあるが、芭蕉はそれ以前から内臓の不調を訴えており、大坂で饗応される食べ慣れない山海珍味を食し過ぎ、さらに状態を悪化させたことは確かであるから、この句の「鯛喰(くひ)あきし人の果」とは芭蕉も含まれるとは言える。ただ寧ろ、徳川家康が大の鯛好きであったこと、身の硬い鯛のつけ揚げ(てんぷら)の食い過ぎで家康が死んだ事実は江戸時代、広く知られていたから、晩得は或いは、江戸の権現様家康に芭蕉を重ねて匂わせたものかも知れぬ。]

 

 行く春や鰺にうつろふ鯛の味   大江丸

 ゆふぐれは鯛にかちたる小鰺かな 蓼太

 幸替(さちかひ)や鯛はすがれて先ヅ鰹

                 東水

 

 これらは魚の種類よりも旬(しゅん)を重ずる、味覚本位の取捨であるらしい。「鯛の味あれて牡丹のさかりかな」の句の条に一言したように、鯛の味は暮春には已にうつろうので、

 

 葛西(かさい)へも鯛落ぶれて行(ゆく)春ぞ

                 素丸(そまる)

 鯛の目にほこりかゝりて春は行  砂文

 

ということになつている。夏は

 

 下下(しもじも)も鯛やく朝ぞ更衣(ころもがへ)

                 常雪

 

から、

 

 あつき日の都や鯛の恥さらし   几董

 

に至って下落の極に達する。秋は最も鯛に因縁の乏しい季節だから、冬の声を聞いてはじめて

 

 十月や鯛もさくらも歸華(かへりばな) 昇角

 

という順序になるのであろう。

[やぶちゃん注:「葛西」武蔵国葛飾郡の江戸湾湾奥の臨海地帯を指していよう。だいたい現在の隅田川河口の右岸辺りから、荒川河口を経て、江戸川左岸域までと考えてよかろう。現在の東京湾の最奥部に当たる。
 
幸替」互いに獲物や獲物を獲る道具を交換すること。

 鯛の句はまだいろいろあるが、あまり久しく市井の間を徘徊したから、もう一度海に還って終ることにしたい。

 

 初神や鯛うき上る沖のそら       雲五

 春の海鯛の腸(はらわた)ながしけり  笙洲

 鳴門さす鯛もあらうぞ春の月      晴江

 苦汐(にがしほ)に鯛も浮木や秋の海  大町

 名月や水のこがねの籞鯛(いけすだひ) 完二

 短夜(みじかよ)を籞の鯛の命かな   月巢

 

 「初神」は初雪の意であろう。この方は生死に関係あるまいと思うが、苦汐の襲来は致命的である。春の海に腸を流すのは、舟の上で料理する場合に相違ない。「籞」はイケスである。人に囚われた生簀の中に残喘(ざんぜん)を保っているのも、はかないといえばはかないが、一寸の命のある間はなお一寸の世界がある。人のこの世にあるのもほぼ同じものだなどと、余計な理窟は列べない方がよかろう。

[やぶちゃん注:「初神」全く知らぬが(小学館の「日本国語大辞典」にも載らない)、宵曲の意で腑に落ちる。

「苦汐」赤潮のこと。極端に酸素量の少ない貧酸素水塊が海面に浮上して生ずる現象。機序には多くの原因や複雑な生成過程があるが、基本的には富栄養化した海で大量のプランクトンが発生して死滅すると、その死骸が海底に堆積、それが短時間で分解される際に水中の酸素が激しく消費されることで生じ、それが一気に浮上することで認知されることが多い。水が赤く染まることが多いことからかく呼称されるが、水の色は原因となるプランクトンの色素によってかなり異なるが、赤潮の発生主因の起原プランクトン類の多くが色素として、クロロフィルの他に種々の赤色系色素としてのカロテノイドを持つ場合が多いことに拠る。有意な大きさのこれが出現すると、BODBiochemical oxygen demand:生物化学的酸素要求量)が極端に低下し、魚介類や海藻の棲息や繁殖を妨げ、しばしば致命的な限定的生態系破壊を引き起こす。

「人に囚われた生簀の中に残喘(ざんぜん)を保っているのも、はかないといえばはかないが、一寸の命のある間はなお一寸の世界がある。人のこの世にあるのもほぼ同じものだなどと、余計な理窟は列べない方がよかろう」こういう禅語染みた言わずもがなのことを言いたてておいて、最後に謂わぬが「よかろう」と敢えて言い立てる悪趣味は、私が最も生理的に嫌悪するものであることを言わずもがな乍ら、言い添えておく。]

2017/11/26

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 飛ぶ島(ラピュタ)(4) 「四章 發明屋敷」(1)

 

四章 發明屋敷

 

 私はこの國で〔、〕別にいぢめられたのではなかつたの〔わけではないの〕です。が、どうも〔、〕なんだか〔、〕みんなから馬鹿にされてたやうな気がしま〔した〕。〔この國では、〕王も人民も〔、〕數學と音樂のことのほかは〔、〕何〔一つ〕知らうとしないのでした。〔す。〕だから私なんか〔、〕〔どうも〕馬鹿にされるのでてのしかたがない→るので〕した。

[やぶちゃん注:現行版の「発明屋敷」は柱番号は「二」である。]

 ところが〔、〕私の方でも、この島の珍しいものを見物してしまうと、もう〔、〕ここの人間たちには、あきあきしました。早く去りたくなりました。ました。ました。→てしまいました。〕早く去りたい気持になりました。彼等は數學と音樂にかけてはすぐれてゐましたが〔いつも〔、〕何か我を忘れて〔ぼんやり〕考へ〔ごとに〕耽けつてゐましたがや〔るのです。〕交際ふ相手として〔、〕〔こんな→これほど〕不愉快な人間は〔見たことが〕〔この囗〕ありません。私の話相手〔で、私はいつも〕いつも女、女や、商人や、たたき役、侍童などとばかり話をしました。それかまた彼等にはそれがまた彼等にはそれがまた私を馬それがまた上品な人たちかだが、ものを〔云〕つて、筋の通つた返答をしてくれるのは、かういふ連中だけでした。

[やぶちゃん注:「交際ふ」は現行版では『附き合う』となっている。]

 私は勉強したので〔、〕彼等の言葉は大分出來るやうにな〔つてゐ〕ました。で、私はかうして〔、〕殆ど相手に〔も〕してもらへないやうな〔國〕に〔、〕ぢつとしてゐるのが〔、〕〔たま〕らなくなつたのです。一日も早くこの國を去らうと決心しました。

 私は陛下に賴んで、この國から出られるやうにしてもらいました。ました。→二月十〕六日に王と宮廷に別れを告げました。丁度その時、島は首府から二哩ばかり郊外の山の上を飛んでゐましたので、私は一番下の通路から、鎖を吊下げてもらつて地上に下りました。

[やぶちゃん注:「二哩」三千二百十九メートル弱。]

 

 その大陸は〔、〕飛島の〔囗〕王に属してゐて、バルニバービと云はれてます。首府はラガードーと呼ばれてゐます。

 私は地上に降ろされて、とにかく滿足でした。服裝は國人この飛島の〕と同じだし、彼等と話も出來〔の言葉も私〕はよく〔分〕つてゐ〔る〕ので、何の心配〔気がかり〕もなく〔、〕町の方へ步いて行きました。私は飛島の人から紹介狀をもらつてゐましたので、それを持つて、〔ある〕〔貴族〕の家を訪ねて行きました。すると、この太公は■■私に〔その貴族は〕彼の邸やしきの一室を〔、〕私に貸してくれ、非常に〔厚〕くもてなしてくれました。

 翌朝、彼は〔、〕私を馬車に乘せて〔、〕市内見物に連れて行つてくれました。その國→町〕はロンドンの半分ぐらゐですが、家の建て方が〔、〕ひどく奇妙で、そして、殆ど荒れ放題になつてゐるのです。〔街〕を通る人はみな急ぎ足で、妙に物凄い顏つきで、大概ボロボロの服を着ています。

 それから〔私たちは〕城門を出て、三哩ばかり〔、〕郊外を步いてみました。ここでは〔、〕沢山の農夫が〔、〕いろいろの道具で〔〕地面を掘り返してゐましたが、どうも〔、〕何をしてゐるのやら〔、〕さつぱりわからないのです。土はいい〔よく〕肥えてゐるのに、穀物など一向に生えてゐ〔さうな樣子は〕ないのでした→す〕。私には

 私は〔こんなふうに〕町も田舍も〔町もどうも〕実に奇妙なので、私は驚いてしまひました。

 「これは一たいどうした譯なのでせう、町にも畑にも〔、〕あんなに澤山の人人が〔、〕〔とても〕忙しさうに動き廻つてゐるのに、ちよつとも、よくな〔〕いやうですね。私は私はまだ、どうも、私はまだ、〔こ〕んな出鱈目〔に〕耕した、〔された畑や、〕こんな無茶な荒れ放題の家や〔、〕〔あんなみじめな人間いふもの〔の姿を〕〔まだ〕見たことがないのです。」と、私は案内役の太公〔貴族〕に訊ねてみました。

 すると太公→彼〕は次のやうな話をしてくれました。

 今からおよそ四十年ばかり前に、数人の男がラピュタへ上つて行つたのです。五ヶ月程して帰つて來ましたが、飛島で覺えて來たのは數學のはしくれと、〔でした。〕〔そして→しかし彼等は、〕あの〔空の〕國の〔氣紛〕〕のやり方〔に〕ひどく氣に入つ〔かぶれ〕てしまつたのです〔てゐたのです〕。帰ると、早速、〔この〕地上のやり方を厭がり憎み→厭がり〕はじめ〔、〕藝術も學問も機械も〔、〕何もかも、みんな〔、〕新しくやり直さうといふ計劃を〔ことにし〕ました。

 それで〔、〕彼等は王に願つて、ラガードに學士院をつくるこ〔りまし〕た。ところが、これが〔ついに〕國中〔全囗〕の流行となつて、今では〔、〕どこの町にも學士院ができて〔あるの〕です。

 この學士院では〔、〕先生たちが〔、〕農業や建築の新しいやり方とか、商工業に使ふ新式の道具を〔、〕考へださうすことに〕さうとしてゐます。先生たちは〔よく〕かう云ひます。

「〔もし〕こ〔の道具〕を使へば、今まで十人でした仕事が〔、〕たつた一人で出來上がり、〔るし、〕宮殿はたつた一週間で建つ。その上〔れに〔、〕〕一度建てたらもう修繕することがいらない、〔。〕果物は〔、〕何時でも好きなときに熟させることができ、今までの百倍位澤山とれるやうになる。」と、その他いろいろ結構なことばかり云ふのです。

 ただ殘念なのは、これらの計畫が〔、〕まだ今はどれちつ〔も、〕ほんとに出來上つてはゐないことです。だからそれが出來上るまでは、國中ぢうが荒れ放題になり、家は破れ、人民は不自由をつづけます。がそれでも〔、〕彼等は元氣〔は〕失はず、希望に燃え、時に■半分絶望しながら、五十倍の勇気を振つて、この計畫をなしとげようとするのです。

[やぶちゃん注:「半分絶望しながら」は現行版では『半分やけくそになりながら』(太字は傍点「ヽ」)となっている。]

 太公〔彼〕はこんな説明をして〔、〕くれましたが、〔ことを私に説明してくれたました。そして、〕

 「是非一つあなたにも〔、〕その學士院を御案内しませう。」と約束し云ひました。つけ加へました。それからこんなこともも話してくれました。〔以前〕彼は山の中腹に〔、〕大変便利な水車を一つ持つ

 〔それから數日して、〕〔私は太公〔彼〕の友人に案内されて〔、〕學士院を見物に行きました。〕

[やぶちゃん注:ここで原稿は終わって、次に「五章」とあって、「一行アキ」の広西記号が入る。現行版は章立ても空行もなく、次の学士院訪問に繋がっている。]

老媼茶話巻之六 水野十郎左衞門

 

     水野十郎左衞門

 

 いつの頃にや、御旗本に水野十郎左衞門といふ人、有(あり)。男立(をとこだて)のあばれ者にて、樣々の惡事をなす、諸人もてあましもの也。

 其頃、町の男立に幡隨長兵衞(ばんずいゐんちやうべゑ)といふ者、有。此者、水野が我儘を聞(きき)て、

「いつぞ、大きに手をとらせ、男立を止(やめ)させん。」

と、ねめ居(ゐ)たる。

 或時、吉原の土手道にて、長兵衞、水野と出合(であひ)、わざと口論を仕懸(しかけ)、散々に、水野、をしつけ、深田へ踏(ふみ)こかし、大きに恥辱をあたふ。

 其後、亦、上野の花盛(はなざかり)、江戸中の貴賤老若、群集(ぐんじゆ)する折ふし、長兵衞も花見に來りけるが、水野、異風成(なる)出立(いでたち)にて不遠慮に花見のまくを覗廻(ノゾキまは)り傍若無人の體(てい)にて我儘をする。

 長兵衞、此時も水野をとらへ、數奇人(すきびと)の見る前にて、したゝかに、こめをする。

 去間(さるあひだ)、水野、幡隨(ばんずい)を見かけては、影(カゲ)を隱し、脇道をし、身をすくめ通る。おのづから、男立も、すたる。

 水野、此事を深くいきどをり、

「兎角、幡隨を殺すべし。」

と工夫し、長兵衞かたへ使(つかひ)を立(たて)て、

「明日、明後日、兩日の内、晝より可被參(まゐらるべし)。緩々(ゆるゆる)得御意(ぎよいをえ)、御咄可申(おはなしまうすべし)。御出あらば、そばを可申付(まうしつくべし)。」

といひ送りしかば、長兵衞、合點し、

「是は水野、我に深く恥辱をあたへられたれば、ころすべきたくみなるべし。行(ゆか)すば、をく病也と、わらはるべし。行(いか)で叶わぬ所なり。」

とて、

「明日、參り御禮可申(おんれいまうすべし)。」

と返事をする。

 扨、水野が支度には、

「明日、長兵衞、來らば、玄關に力強き者、四、五人揃へて、はかまきせ、取次の樣に見せ置(おき)、幡隨、座敷へ入る處を、左右前後より取(とり)すくめ、手ごめにせむ。」

と、なり。

「是にても取(とり)あまさば、幡隨、座敷へ入(いり)、水野に禮をいふ時、必(かならず)、手をつひて頭をさぐへし。其節、十郎左衞門、自(みづから)、切殺すべし。此(この)圖もはづすなら、酒をしひ吞(のま)せ、酒に醉(ゑひ)たる處を、大勢にて手ごめにせん。」

との、たくみなり。

 あくる日にもなりしかば、幡隨長兵衞、黑小袖に袴羽織を着、常の出立にて、二尺八寸大脇差をさして、水野が方へ行(ゆき)、玄關に趣き、あんないを云(いひ)、入(いり)けるに、用有(ようあり)げなる大男、四、五人、兩方へ立別ありけるをみて、

「扨こそ。」

とおもひ、眼にかどを立(たて)、左右をねめつけるに、かの者ども、威にのまれ、うつぶしに成(なり)て、こゞみ居たり。

 長兵衞、座につけば、水野、立出(たちいで)、

「能(よく)こそ被參(まゐられ)たれ。」

と挨拶なり。

 幡隨、其時、座を立(たち)、水野とひざをくみ合(あは)せ、

「今日、其(その)思召寄(おぼしめしより)忝(かたじけなく)存ずる。」

と水野が面(おもて)を白眼(にらみ)少しも動かず、

『つかみひしがん。』

と思ひ詰(つめ)たる顏色なれば、水野も、すべき樣、なし。

 扨、調膳(てうぜん)出(いで)て、樣々の馳走ありて、十六、七のすみ前髮の美男、肴を持出(もちいで)る。

「いかに長兵衞。是は我等甥、水野主税(ちから)と云(いふ)者也。見知りくれ候へ。」

といふ。

 幡隨、主税を見て、

「扨、よき美童の若き人かな。御知る人に罷成(まかりなる)しるしに、持合(もちあひ)たる盃、慮外仕(りよぐわいつかまつ)るべし。」

とて、大盃にいつぱい引請(いきうけ)、のみほして、主税に、さす。

 主税、盃をいたゞき、

「御盃に候得ば、下戸なれども壱給へ可申。」

とて、酒、たぶたぶと引受(ひきうけ)、のみほして、長兵衞に盃を返しける。

 幡隨、見て、

「いさぎよく御まいり候。今壱吞(のみ)て、さし被成候得(なされさふらえ)。」

とて、肴に出(いで)し雉子の燒もゝを、はさみける。

 主税、手を出(いだ)し、肴をうくるふりをなし、長兵衞がうで首を取(とつ)てつめたり。

 ばん隨、

「いや、こはざれするわつぱしめ。」

といふて、うでをぬかんとするに少しも動かず。

 左の腕を差延(さしのべ)、主税が首筋つかまんとするを、主税、あざ笑ひ、幡隨が左の腕をもひとつに取(とり)、握りすくめ、二、三歳の小兒をなす樣に橫さまに倒し、兩足をも取(とつ)て一所に摑(ツカ)み添(そへ)、さしもの大男を、兎などをさげたる樣に中(ちゆう)にさげ、水野が方を見やり、

「是、如何(いかが)仕るべし。」

と云。

 水野、是をみて、

「いかに幡隨、意趣はいはずと覺有(おぼえあ)るべし。今日、始(はじめ)て御出候得ども、させる御馳走もなく殘念に存(ぞんず)るまゝ、後段には備前福岡一文字定則が打(うち)し三尺手切二胴の刀にて御自分の胴中(どうなか)御ふるまひ可申。つまり、肴の水の物、ひやひやと一盃きこしめし候得。」

とて、障子をひらけば、廣庭へ土段(どたん)をしかけ、立杭(たてぐひ)・挾竹(はさみだけ)迄、取揃(とりそろ)へ、袴の股立(ももだち)取りし若黨ども、弐、三人、なまり鍔(つば)に切柄(きりづか)までしこみたる刀を持(もち)て立居(たちゐ)たり。其外、賤敷(いやしき)者ども、五、六人、なわ・たすき懸(かけ)て畏(かしこま)り居たり。

 主税、幡隨を引(ひつ)さげ、庭へおりければ、待請(まちう)しもの共、大勢集り、手取(てとり)、足取、衣裳をはぎ、裸になし、五體すこしも働せず、幡隨を土段に引上(ひきあげ)、杭、丈夫に打(うち)て、手足、引(ひき)のべ、したゝかにしめ付(つけ)、胴中を挾竹にてしめ合(あひ)、生胴(いきどう)にしかけける。

 幡隨、身をもみ、もだへ、いかれども、はたらく物は兩眼(まなこ)斗(ばかり)也。

 幡隨、血眼に也(なり)、申樣、

「水野十郎左衞門、犬侍の大腰ぬけ。己(ヲノレ)めは糞尿(フンメウ)をのみくろふ、『しつそ』といふ『くそ蟲』におとりたり。己が手に叶はぬ故、たばかりよせて、手ごめにし、生(いき)ながら、ためしものにせらるゝ事、此恨(うらみ)、骨髓に、てつし、忘ㇾ難(わすれがた)し。惡靈と成(なり)、七代迄取り殺ろさん。」

と頭上より、けぶりを立(たて)、血のなみだを流し、齒がみをなす。

 水野、聞(きき)て、あざ笑ひ、

「己、長袖の分際にて、いらざる腕立(うでたて)を好み、侍に對し、度々、慮外をなしけるゆへ、天報を受(うけ)て、今、ためし物にせらるゝ也。最期、血に迷ひ、むだごとを吐出(はきいだ)す。惡靈にならんとは片腹いたし。汝を胴切して、しかばね、骨(コツ)原へ捨(すて)ん。犬烏(イヌカラス)のゑじきと成(なり)、其後、『靑ばい』になれ。」

と、あざむきて、一文字定則の道具にて生胴(いきどう)をためし、しかばねを、ひそかに片影に埋(うづめ)ける。

 然共(しかれども)、天眼、常にねふらず、此事、かくれなかりしかば、長兵衞兄、神田山新知恩寺幡隨院覺山上人、此旨を聞(きき)、大きにいきどをり、水野が惡逆、訴出(うつたへいで)けるまゝ御詮義の上にて、水野に切腹被仰付(おほせつけらる)。

 切腹の體(てい)、見事成りし、と也。

 水野がたぐひの勇は、「血氣偏勇」とて「士のすてもの」なり。

 

[やぶちゃん注:「水野十郎左衞門」江戸前期の旗本水野成之(なりゆき 寛永七(一六三〇)年~寛文四(一六六四)年)。「十郎左衞門」は通称。旗本奴(はたもとやっこ:江戸前期の江戸を闊歩した旗本の青年武士やその奉公人及びその「かぶき者」、一種のギャング・グループ。派手な異装をして徒党を組み、無頼を働く不良・暴力集団。主要な悪党組織が六つあったことから「六方組(ろっぽうぐみ)」と呼び、旗本奴自体を「六方」も呼んだ。先の「大鳥一平」の主人公のモデルとなった大鳥居逸兵衛(大鳥逸平:天正一六(一五八八)年~慶長一七(一六一二)年)を首魁とする「大鳥組」(中間・小者といった下級の武家奉公人を集めて徒党を組み、殊更に異装・異風で男伊達を気取って無頼な行動をとった)はこの「旗本奴」の先駆とされる。同時期に起こったここに出る幡随長兵衛のような町人出身の「かぶき」者・侠客を「町奴」と呼んだ)の代表格ウィキの「旗本奴」によれば、彼の組織した集団は彼によって「大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)」と名付けられたらしい。以下、ウィキの「水野成之」から引く。寛永七(一六三〇)年)、旗本『水野成貞の長男として生まれる。父の成貞は備後福山藩主・水野勝成の三男で、成之は勝成の孫にあたる』。慶安三(一六五〇)年、三千石で『小普請組に列した。旗本きっての家柄であり』、もっと上の『しかるべき役に就ける』地位であったが、『お役入りを辞退して自ら』、『小普請入りを願った』という。慶安四(一六五一)年には第四代将軍徳川家綱に拝謁している。父成貞も「かぶき者」で『初期の旗本奴であったが、成之もまた、江戸市中で旗本奴』として『大小神祇組を組織、家臣』四『人を四天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用人頭(家老)を保昌独武者』(「保昌」は藤原保昌(やすまさ 天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)のこと。武勇に秀で、藤原道長の四天王(他は源頼信・平維衡・平致頼)の一人と称された人物。和泉式部の夫)『と名づけ、江戸市中を異装で闊歩し、悪行・粗暴の限りを尽くした。旗本のなかでも特に暴れ者を仲間にし、中には大名』で武蔵国高坂藩初代藩主加賀爪直澄(かがつめなおずみ)や『大身旗本の坂部三十郎広利などの大物も混じっていた。旗本という江戸幕府施政者側の子息といった大身であったため、誰も彼らには手出しできず、行状はエスカレートしていった。そのため、同じく男伊達を競いあっていた町奴とは激しく対立した』。『そのような中』、明暦三(一六五七)年七月十八日『成之は町奴の大物・幡随院長兵衛を殺害した』。但し、本文のあるのとは異なり『成之はこの件に関してお咎めなしであった』とある。その七年後、『行跡怠慢で』寛文四(一六六四)年三月二十六日に『母・正徳院の実家・蜂須賀家にお預けとなった』翌二十七日、『評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜であるとして即日に切腹となった。享年』三十五。二『歳の嫡子・百助も誅されて家名断絶となった。なお、反骨心の強さから切腹の際ですら』、『正式な作法に従わず、膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから』、『腹を切って果てたという。旗本奴への復讐心に息巻いていた町奴たちに』は『十郎左衛門の即日切腹の沙汰が知らされ、旗本奴と町奴の大規模な衝突は回避された』とある。『なお、母と共に蜂須賀家へ預けられた弟の水野忠丘』(ただおか)が、元禄元(一六八八)年に赦され、元禄一四(一七〇一)年には旗本となったことによって、『家名は存続した』とある(下線太字やぶちゃん)。彼の辞世は「落とすなら地獄の釜を突(つ)ん拔いて阿呆羅刹(あはうらさつ)に損をさすべ」だそうである。三坂は「切腹の體(てい)、見事成りし」という伝聞を添えているが、莫迦は死ななきゃ治らねえクラスのトンデモ不良である。

「幡隨長兵衞」(元和八(一六二二)年)~明暦三(一六五七)年/但し、墓誌によると、慶安三(一六五〇)年とも)は江戸前期の町人(生まれもそうであったかどうかは不詳)で町奴(前注参照)の頭領。本名は塚本伊太郎(いたろう)。日本の侠客の元祖ともされる。ウィキの「幡随長兵衛」によれば、江戸も中期以降、悪玉である水野とともに『歌舞伎や講談の題材となった』。『妻は口入れ屋の娘・きん』。唐津藩の武士・塚本伊織の一子とされているが』、『諸説あり、滅亡した波多氏の旧家臣の子であるとする説』『や、幡随院(京都の知恩院の末寺)の住職・向導の実弟または幡随院の門守の子という説』『もある』。『父の死後、向導を頼って江戸に来て、浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたとされる。旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)に呼び出され』、『殺害されたという』。河竹黙阿弥(かわたけもくあみ 文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)の歌舞伎「極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ」(通称「湯殿の長兵衛」。明治一四(一八八一)年東京春木座初演)の『筋書きでは、長兵衛はこれが罠であることを勘づいていたが、引きとめる周囲の者たちを「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」の啖呵を切って振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込む。果たして酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で裸でいるところを水野に襲われ殺されたとしている』とある(下線太字やぶちゃん)。両者の生年が正しければ、不良武士の水野の方が八つも年下である。

「ねめ居(ゐ)たる」「ねめ」は「睨(ね)め」で、しっかり目をつけていたの謂いであろう。

「をしつけ」「押しつけ」。サイドから体当たりを食らわしたか。

「深田へ踏(ふみ)こかし」足を掛けてこけさせた上、蹴り転がして、汁田(しるた)へ突き落とし。

「數奇人(すきびと)」花見の御大尽。

「こめ」底本は「こ」に横に『籠』と漢字を振る。それならば、動けないように押さえつけてひしぎ籠めるの謂いだろうが、私は「懲(こ)め」で、散々に打擲して「懲らしめること」の意で読んだ

「男立も、すたる」水野自身の好き勝手放題の乱暴狼藉が出来なくなってしまった。

「いきどをり」「憤(いきどほ)り」。

「そば」「蕎麥」。もてなし物として蕎麦の出前を頼み申そう、というのである。蕎麦は食事でも酒の肴となることを匂わせている。

「ころすべきたくみなるべし」「殺すべき企みなるべし」。

「をく病」「臆病(おくびやう)」。

「はかまきせ」「袴着せ」。正規の奉公人のように見せかけるため。

「取(とり)すくめ」「とり竦め」捕り押さえつけて動けないようにし。

「手ごめ」「手籠め」。人を力ずくで押さえつけたりして自由を奪い、全く動けないようにすること。「手込め」とも書く。

「是にても取(とり)あまさば」それでも万一、それが何かの都合で、全く実行出来なかった場合には。行動に移ってしまった場合は、とてものことに次の以下のような平穏な段階には行けないのでそのように私は採る。事実、屈強な奴らが全然ダメになってしまうそうからでもある。

「此(この)圖」この企図。企(たくら)み。

「はづすなら」「外すなら」。何らかの想定外の事態によって、我らが全く実行に移せなかったなら。前と同じ理由で、かく訳を補塡しないと日本語の会話としては今一つ通じないと私は思うのである。事実、やっぱり、そうなるしね。

「しひ吞む(のま)せ」「強い吞ませ」。

「二尺八寸」刃渡り八十四・八四センチメートル。脇差としては破格の長さで、刀としても長い。

「用有(ようあり)げなる」訳あり顏で、如何にも何か仕掛けようとする感じが見え見えの。

「眼にかどを立(たて)、左右をねめつけるに、かの者ども、威にのまれ、うつぶしに成(なり)て、こゞみ居たり」一睨みで大の屈強の男ども四、五人が揃ってかくなってしまうという眼力は、これ、相当なもんだわ。

「つかみひしがん」「摑み拉(ひし)がん」。「摑みかかって押し潰してやる!」。間違ってはいけませんよ! そういう雰囲気を発散しているのは長兵衛の方ですよ!

「調膳(てうぜん)」万事、料理を調え飾った食膳。

「肴」追加の酒肴であろう。無論、酒と一緒にである。

「水野主税」不詳。水野成之の弟忠丘(寛永一八(一六四一)年~宝永四(一七〇七)年)がいるが、明暦三(一六五七)年当時は十六だから、子はあり得ない。二人の姉が(賀嶋政玄室と稲田稙春室。ウィキの「水野成之」から)いるから、彼らの子か。或いは、甥というのは真っ赤な嘘かも知れぬ。

「御知る人に罷成(まかりなる)しるしに」お互いにお近づきとなりましたそのお記しとして。

「持合(もちあひ)たる盃、慮外仕(りよぐわいつかまつ)るべし」今、持ち合せたこの盃で、誠に不躾ながら御返杯申し上げよう。

「燒もゝ」雉子の腿肉を焼いたもの。

「はさみける」長兵衛が手に取って、主税に勧めたのである。

「つめたり」ギュッと摑んで握り締めた。

「いや、こはざれするわつぱしめ。」「いや」は感動詞「何とまあ」、「こは」は「これは」、「ざれ」は「戲(ざ)れ」で「悪戯(いたずら)・悪い冗談」、「わつは」は「童(わつぱ)」、「し」は強意の副助詞、「め」は接尾語「奴(め)」で相手を罵る語。「何と! こりゃあ、つまらねえ冗談をする小童がッツ!」。

「備前福岡一文字定則」福備前の刀工一文字派のうちで福岡の地に興った福岡一文字派。古備前派正恒系の刀工であった定則の子・則宗を祖とするという。鎌倉初期に興ったとされる。

「三尺手切」「手切(てぎり)」は「籠手切(こてぎり)」で脇差の銘によく用いられているから、脇差の別称のように思われる。ほぼ九十一センチメートルであるから異様に長い脇差である。

「二胴」人体を二つ重ねて一刀両断に出来る刀の意。

「肴の水の物、ひやひやと一盃きこしめし候得」「水も漏らさぬ強靱の氷の刃、そのお腹に直接、一佩、お召しになられるがよかろう。」。実に厭らしい謂いである。

「土段(どたん)」底本、「段」の右に編者が『壇』を添漢字している。刑罰としての「生き胴」(金澤藩やその他で行われた死刑の一種。刑場に土を盛って「土段場(土壇場)」というものを作り、そこに目隠しをした罪人を俯せに横たえて、二名の斬手が同時に頸と胴を斬り放すものである。少なくとも、延宝八(一六八〇)年と元治年間(一八六四年~一八六五年)にこの刑に処せられた者が実際にあっし、金沢藩では十八世紀後半まで重罪人に対してこの刑が執行されていたとウィキの「生き胴」にある)では、盛り上がった土段の周囲の地面に木や竹の杭を数本打ち立て(左右の手と足を固定するため)、その間に手足を挟んだり縛ったりして動かないように固定した

「袴の股立(ももだち)取りし」「股立ち」は袴の左右両脇の開きの縫止めの部分をいう。そこを摘んで腰紐や帯にはさみ,袴の裾をたくし上げることを「股立を取る」と称し、機敏な活動をする仕度の一つとされた。

「なまり鍔(つば)」不詳。鉛なんぞの軟らかいもので鍔は作るまい。普通は鉄或いは胴製である。思うに、この「な」は原典の「あ」の誤記で、「あまり」、即ち「若黨ども、二、三人餘り」で切れ、「鍔に切柄(きりづか)までしこみたる」なのではあるまいか? 「切柄」は小柄(こづか)のことであろう。日本刀に付属する小刀で刀の鞘の内側の溝に装着する。通常、本来の用途としては木を削ったりするものであるが、時には武器として投げ打つこともあった。小型の単刀式手裏剣である。

「なわ・たすき」「繩・襷」。

「糞尿(フンメウ)をのみくろふ」「糞尿(ふんにやう)を吞み喰(くろ)ふ」。尿は呉音が「ネウ(ニョウ)」、漢音でも「デウ(ジョウ)」で「メウ」というのは不審。或いは「ネ」「テ」(原典には濁点が殆んどない清音表記である)の原本を写本する際に誤まって「メ」としたものではなかろうか?

「『しつそ』といふ『くそ蟲』」「しつそ」は不詳であるが、「そ」は恐らく「糞蟲」から考えて「蛆」(音「ソ」)であろう。問題は「しつ」だが、これは或いは大きな蛆虫状のもので「蛭」(漢音では「シツ」がある)ではあるまいか? 私は既に「和漢三才圖會」の「蟲類」の電子化注を終えているが、そこで痛感したのは、和漢を問わず、近世までは蛆虫状の諸動物(昆虫類だけに限らぬ)の幼虫類を十把一絡げに「蛆」と言っていたし、真正の蛭(ヒル:環形動物門ヒル綱 Hirudinea)でなくても、笄蛭(コウガイビル:扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目陸生三岐腸(コウガイビル)亜目コウガイビル科コウガイビル属 Bipalium)や肝蛭(カンテツ:扁形動物門吸虫綱 二生亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫上科蛭状吸虫科(カンテツ)科蛭状吸虫亜科カンテツ属カンテツ Fasciola hepatica)とか、蛭に似て全く非なる動物をそのように呼んでいる例は幾らもあるから「蛭蛆」で「シツソ」、充分、有り得ると思うんだがなぁ? 如何?

「てつし」「徹し」。

「長袖」「古くは、武士が袖括りして鎧を着るのに対して、常に長袖の衣服を着ていることから、武士でない公家・医師・神主・僧侶・学者などを、武士階級の者が軽蔑して呼んだのがこれであったから、ここはそれを拡大した「町人」を指している。

「腕立(うでたて)」力の強いことを自慢し、それを頼んでしきりに人と争うことを指す。

「血に迷ひ」血が頭に昇って気が変になり。

「骨(コツ)原」「小塚原(こつかはら)」。所謂、「こづかっぱら」、小塚原刑場。千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)に創設(慶安四(一六五一)年)された。ウィキの「小塚原刑場」によれば、『江戸の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、西に大和田刑場(八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があり、三大刑場といわれた。刑場の広さは間口』六十間(約百八メートル)、奥行三十間余り(約五十四メートル)程で、『小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が執行され』、『腑分けも行われた』『(腑分けが行われたのは小伝馬町牢屋敷(日本橋小伝馬町)と小塚原刑場であったという)』。『死体は丁寧に埋葬せず』、『申し訳程度に土を被せるのみで、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったという』(だから、ここでの水野の謂いには、そこにこっそり損壊遺体を投げ捨てておけば、殺人事件としては発覚しにくいというようなニュアンスもあるように思われる)。『また、使われる刀剣の試験場(当時は「おためし場」といった)で』もあった。現在の東京都荒川区南千住二丁目に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「靑ばい」「靑蠅」。双翅(ハエ)目ヒツジバエ上科クロバエ科Calliphoridaeのうち、緑色や青色のハエの俗称。

「ひそかに片影に埋(うづめ)ける」実際には敷地内の片隅に埋めて、一定期間、腐敗が進んだところでそれこそ小塚原刑場へ持って行って遺棄し、事件を隠蔽しようとしたのかも知れぬ。

「ねふらず」「眠らず」。

「神田山新知恩寺幡隨院」現在は東京都小金井市前原町にある浄土宗神田山新知恩寺幡随院(ばんずいいん)。本尊阿弥陀如来。ウィキの「幡隨院」によれば、慶長八(一六〇三)年に『帰依していた徳川家康が江戸開幕にあたって、『浄土宗知恩寺』三十三『世住持・幡随意を開山として招聘し、江戸神田の台(現・東京都千代田区神田駿河台)に創建した寺である。家康はこの際に白銀』十『貫目および嫡男・秀忠も米』三百『俵を寄進して堂宇を整えるとともに』、『神田山新知恩院の寺号を与え、徳川家祈願所と定めた』。慶長一五(一六一〇)年には』『浄土宗の檀林が置かれ、後には浄土宗の関東十八檀林の一つとして同宗派の高僧を輩出したとされる』。翌慶長十六年に『幡随意は古希になったのを機に随意巖上人を同寺の』二『世住持法嗣に定めて伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)の草庵に引退した』。元和三(一六一七)年、『神田の台における堀割(神田川)の開削工事が決まったために同地から下谷池之端(現在の台東区上野』二『丁目付近)に移り、』十八間(三十二・七二メートル)『四方あったという壮大な本堂と』四十『あまりの学寮を備えて檀林としての偉容を整えた。しかし』、明暦三(一六五七)年の「振り袖火事」に『類焼して堂宇を全て焼失してしまった』(本時制明暦三(一六五七)年当時はここにあったことになる下線やぶちゃん)。『このため』、万治二(一六五九)年に『浅草神吉町(現在の台東区東上野』五『丁目』『辺り、上野学園敷地を含む近接地)に移って再建、本堂・開山堂および学寮』四十『余を建立し、その新境内地は広さは』八千二百五十九『坪ほどあったとされる』。その後も度重なる焼失と再建が繰り返され、昭和一二(一九三七)年に『自火焼失、ついに江戸時代以来の旧地を離れて』昭和十五年に『現在の小金井市に移転』したとある。長兵衛は父の遺命で幡随院の住職向導に親交(命を助けられたともある)があったことから、「幡随院」を名乗ったと伝えるだけで、ここに出る幡随院の住職「覺山上人」という人物も調べ得なかった。識者の御教授を乞うものではある。

「士のすてもの」武「士の捨て者」。武士の風上にも置けない非道者。]

柴田宵曲 俳諧博物誌(9) 鯛 一

 

柴田宵曲 俳諧博物誌 鯛

 

     

 

       

 

 真夏に際して

 

 水無月や鯛はあれども塩くじら   芭蕉

 

と詠んだ芭蕉は、冬季において

 

 ふぐ汁や鯛もあるのに無分別    芭蕉

 

の句を遺している。この二句は鯛を正面から扱わず、引合(ひきあい)に出した点で揆(き)を一(いつ)にしているが、引合に出された鯛の立場は必ずしも同じではない。腐っても鯛といわれる代物にしても、炎暑の際は危険だから安全な塩鯨を択(えら)むというのが前者で、鯛という安全なしかも上等な肴(さかな)があるのに、殊更に中(あた)る虞(おそれ)のある河豚(ふぐ)を食う者を戒めたのが後者である。芭蕉は自ら世に処するに当り、常にこの種の用心を忘れなかったであろう。ただこの用心は如何なる道学先生をも首肯せしむべき性質のものなるが故に、俳句になって見ると一向面白くない。少くとも珍夕(ちんせき)が酒落堂(しゃれどう)の戒旛(かいばん)に「分別の門内に入(いる)ことをゆるさず」と書いたのを賞(ほ)めて、「かの宗鑑(そうかん)が客にをしふるざれ歌に一等くはへてをかし」といった芭蕉の作としては、いささか分別臭過ぎる憾(うらみ)がある。

[やぶちゃん注:「鯛」宵曲の扱いから見て、代表種としての動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata 条鰭綱 Actinopterygii スズキ目 Perciformes タイ科 Sparidae マダイ亜科 Pagrinae マダイ属 Pagrus マダイ Pagrus major を挙げておけばよかろう。

「水無月や鯛はあれども塩くじら」底本は『塩鯨』とするが、諸本から、かく平仮名にした。「蕉翁句集」では元禄五(一六九二)年(死の二年前)の作とする。

「ふぐ汁や鯛もあるのに無分別」この句は現在、芭蕉の句ではなく、誤伝と推定されている。中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波文庫刊)では「みつがしら」所収の「花百韻」の賀子の付句「世の中に鯛有(あり)ながら無分別」を誤ったものか、とする

「揆(き)を一(いつ)にしている」「軌を一にする」は「軌」は「車輪の跡・轍(わだち)」で、「車輪の通った後を同じくする」の意から、「同じ轍を辿る」という意であるが、「揆」は「方法・やり方」という意であるから、こう書いても誤りとはならない。反して「機」とすると、「時を同じくする」の意となるので誤用となる。

「珍夕(ちんせき)が酒落堂(しゃれどう)の戒旛(かいばん)」芭蕉が元祿三年三月(四十七歳)の時、膳所に滞在していた際、近江蕉門の一人で医師であった浜田珍夕(後に洒堂と改名した)の琵琶湖畔の邸宅「洒楽堂」の脱俗と風雅を讃美した一文「洒樂堂(しやらくだう)の記」を指す。「戒幡」とは禅宗の山門にある「葷酒(くんしゅ:臭いの強い物と酒。不浄なる食物とされた)山門を入るを許さず」の類いの刻記された標語を指し、芭蕉はそれを珍夕の風流なる「洒樂堂」には「分別の門内に入ることを許さず」は確かに相応しいと「樂」しく「洒」落たのである。以下に全文を示す。

   *

 山は靜かにして性(せい)を養ひ、水は動いて情を慰(ゐ)す。靜・動二つの間にして、住みかを得る者あり。濱田氏珍夕といへり。目に佳境を盡し、口に風雅を唱へて、濁りを澄まし、塵を洗ふがゆゑに、洒樂堂といふ。門に戒幡(かいばん)を掛けて、「分別の門内に入ることを許さず」と書けり。かの宗鑑が客に教ゆる戲(ざ)れ歌に、一等加へて、をかし。且つそれ、簡にして、方丈なるもの二間(ふたま)、休(きう)・紹(ぜう)二子の侘びを次ぎて、しかもその矩(のり)を見ず。木を植ゑ、石を並べて、かりのたはぶれとなす。そもそも、おものの浦は、瀨田・唐崎(からさき)を左右の袖のごとくし、湖(うみ)をいだきて三上山(みかみやま)に向ふ。湖は琵琶の形に似たれば、松のひびき、波をしらぶ。比叡(ひえ)の山・比良(ひら)の高根をななめに見て、音羽(おとは)・石山(いしやま)を肩のあたりになむ置けり。長等(ながら)の花を髮にかざして、鏡山(かがみやま)は月を粧(よそ)ふ。淡粧濃抹(たんしやうのうまつ)の日々に變れるがごとし。心匠(しんしやう)の風雲も、またこれに習ふなるべし。

                 ばせを

 

 四方より花吹き入れて鳰(にほ)の波

 

   *

文中の「宗鑑が客に教ゆる戲(ざ)れ歌」とは京西郊の山崎に隠棲した山崎宗鑑(生没年未詳(一説に天文二二(一五五三)年没とも):室町後期の連歌師。近江の生まれ。名は範重、通称は弥三郎。始め、将軍足利義尚に仕え、後に出家して一休宗純に師事した。当初は宗祇らと連歌を作ったが、次第に滑稽機知の句風へと向かい、俳諧撰集「犬筑波集」を編して宗長や荒木田守武らと交わり、彼らとともに俳諧の創始者の一人となった)が、庵の入口に掲げたと伝えられる俳諧歌「上は來ず中は來て居ぬ(着座はしない)下は止まる二夜泊る二夜泊るは下下の下の客」を指し、「休」は千利休、「紹」は利休の侘茶の師であった紹鷗(しょうおう)を指す。「おものの浦」膳所の古名であると同時に、貴人の食膳の意もあり、それを掛けている。「長等」は園城寺の裏にある山で桜の名所。「鏡山」は前に出た近江冨士の異名をとる「三上山」の東の山で歌枕であると同時に月の名所として知られた。「淡粧濃抹」「奥の細道」の「象潟」でも用いられた蘇東坡の詩「西湖」に用いられている一句。「心匠」心情を句にする技。]

 けれども芭蕉は何時も右の如き観念を以て、鯛に臨んだわけではない。

 

 鹽鯛の齒ぐきも寒し魚の店(たな)   芭蕉

 

などという光景は、前人のいまだ捉え得なかった、枯淡なる芭蕉世界の一として、直(じか)にわれわれに迫るものを持っている。これは単なる観念の産物でなしに、芭蕉の眼を通して見た実感の現れである。もし余りに枯淡に過ぎて、鯛のみずみずしい華かさを欠いているという人があるならば、眼を転じて

 

 小鯛さす柳すゞしや海士(あま)が軒   芭蕉

 

を挙ぐべきであろう。この句は可憐な小鯛と柳の緑との調和が美しい上に、「すゞし」の一語によって夏らしいみずみずしさを添えている。芭蕉にして「鯛はあれども塩鯨」の観念を固守するとしたら、夏の鯛の上にこうした美しさを発見することは、所詮不可能であるに相違ない。

[やぶちゃん注:「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)」底本は「店」を「棚」とするが、これに換えた。「棚」と表記する諸本(露川編「流川集(ながれがわしゅう)」・編者不詳「古蔵集(ふるくらしゅう)」・炭翁著「俳諧染糸」)もあるが、私は採らない。元禄五(一六九二)年十月の作で、其角の句「聲かれて猿の歯白し峯の月」に想を得て作られたことが知られている。土芳自筆の「赤草紙草稿」では「鹽鯛の齒ぐきは寒し魚の店」とし、「此句、句兄弟に出る。白船にハ齒ぐきもと有」と注する。「句兄弟」は元禄七年(芭蕉没年)其角編(後で注する)。以上は先に示した中村氏の岩波文庫「芭蕉俳句集」の脚注に拠った。漢字表記は明治期の諸本に従った。

「小鯛さす柳すゞしや海士(あま)が軒」元禄二年の「奥の細道」の旅での詠句である(但し、「奥の細道」には載らない)。「曾良書留」には「西濱」の前書で「小鯛さす柳涼しや海士(あま)がつま」の句形で出るが、その「西濱」という地は決定的に比定はなされていない。但し、金沢の俳人らが表六句を付けているので、この句が金沢で披露されたことは確かである。山本健吉「芭蕉全発句」(二〇一二年講談社学術文庫刊)によれば、「曾良書留」の記載では本句は夏の句の間に挟まって記されており、「西濱」については、荻原井泉水は象潟と外海とを隔てる地峡の西側の浜を比定地とし、金沢在の殿田良作は直江津以西の海岸説を主張し、簑笠庵(さりゅうあん)(高梨)梨一(りいち)(芭蕉よりも七十年後の正徳四(一七一四)年生まれ)の精緻な注釈書「奥細道菅菰(すがごも)抄附録」では金沢の西海岸の宮腰とするが、山本は六月二十八日・二十九日の越後村上(新潟県村上市の海浜)での作と推定している(私もそれを支持する)。宵曲の示した「海士が軒」の句形は蝶夢編「芭蕉翁発句集」・仏兮・湖中編「俳諧一葉集」の句形であるが、「白雄夜話」はこれ(「軒」)を初案とする。他に「小鯛さす柳涼しや海士が家」(曾良編「雪満呂気(ゆきまろげ)」)の句形もあるが、私は「つま」(妻)が断然よいと思う。正直、宵曲が「軒」なんぞを選んだ理由が解せないくらいである。なお、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 55 村上 小鯛さす柳涼しや海士が妻』(二〇一四年八月十四日記事)も是非、参照されたい。]

 

 六月は空鮭をがめ鯛よりも   支考

 

の句は明(あきらか)に「塩鯨」の伝統を引いたものであるが、あらゆる意味からいって、殆ど芭蕉の句から一歩も出ておらぬ。空鮭はカラザケと読むので、乾鮭のことであろう。盛夏の安全なる食料品として塩鯨を乾鮭に替えただけでは、そこに何の新味をも発見し得ぬのである。

 

 鯛の味あれて牡丹のさかりかな   壺中

 

 鯛は春季を以て最も美味とする。桜鯛の称はこの時において妍麗(けんれい)なる桜色を呈するからだともいい、桜花の季節だからともいう。いずれにせよ、桜から牡丹に移れば、鯛の味はいささか落ちることになる。牡丹は桜に次ぐ花として、季節の移りかわりを現したものであろうが、「鯛の味あれて」の一語にこまかな味覚の消息を伝えているのを看過しがたい。

[やぶちゃん注:「妍麗」艶(あで)やかで美しいこと。娟麗とも書く。]

 

 あやめふく屋根から鯛をねぎりけり 南里

 

 これは瑣末な事柄のスケッチと見られる。端午の菖蒲を葺きに屋根へ上った男が、折から来た肴屋の荷を見下して、屋根を下りもせずに鯛を値切るという、ややはしたない動作を描いたのであろう。あやめ葺く五月になれば鯛の盛(さかり)を過ぎるので、そのために値切ったものと解すると、理窟は合う代りに重苦しくなる。あやめ葺く業と、鯛を値切ることと、二つの所行を同時に一人に兼ねさせて、不調和の調和を見出したところに、この句の主眼はあるらしい。

 

   宮嶋の船中

 鯛網の太鼓もちかし雲の峯     摘山

 

 今までの鯛の世界は、この句に至って豁然(かつぜん)と展ける。「鯛網の太鼓」というのは、網を引く際の合図か何かに打つ太鼓であろう。海上にはその太鼓の音をはね返すように、白い雲の峯が聳えている。自然の背景が大きくなるだけ、鯛そのものの影はむしろ稀薄であるが、夏の鯛の句としては異彩を放つに足るものといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「豁然」原義は「ぱっと開けること。広々としたさま」で、転じて「疑いや迷いや瑣末な事柄が瞬時に消え去るさま」をも言う。]

 芭蕉の鯛の句と或点で対照をなすものは其角の鯛である。『句兄弟』にある

 

 鯛は花は江戸に生れて今日の月   其角

 

の如きは、西鶴の「鯛は花は見ぬ里もあり今日の月」から生れたもので、其角の独造と見るべき点はないが、この江戸意識は別に、

 

   一食千金とかや

 津國(つのくに)の何五兩せんさくら鯛 其角

 

の句をなさしめた。江戸はどう考えても鯛を以て誇り得べき地ではない。しかるに本場の関西に対して「津國の何五兩せん」の一語を著(つ)け来るところ、其角の面目躍如たるものがある。

[やぶちゃん注:「句兄弟」宝井其角編元禄七(一六九四)刊。立命館大学アート・リサーチセンター「ArtWikiの「兄弟」によれば、『上中下三巻きのうち、上巻は三十九番の句合を載せる。古人から当時に及ぶ三十八人の句を兄として、其角自身が「反転の一躰をたてて」弟句を詠み、句合ごとに解かれる判詞には弟句の当代性や機知を提示する。最後の三十九番のみ其角の句を兄、芭蕉の句を弟としている。中巻以降は紀行句、其門人や当代俳人諸家の句を、健・新・清・偉・麗・豪の六格に分類して収める』とある。]
 
「鯛は花は見ぬ里もあり今日の月」この句は西鶴の延宝八(一六八〇)年刊の「阿蘭陀丸二番船」所収で、其角の句の載る「句兄弟」はその十四年後の元禄七(一六九四)年刊。西鶴はその前年に元禄六(一六九三)年に没している

「独造」ママ。独創。]

 

 墨染に鯛彼(かの)櫻いつかこちけん  其角

 紀國(きのくに)の鯛釣つれて汐干かな 同

 

 前の句は好んで奇を弄した延宝度の作だから、多くいうに足らぬ。紀国の鯛釣を汐干に拉(らつ)し来るに至っては、全く余人の窺うを許さぬ世界である。この句はわかったようで十分にわからぬが、如何に鯛釣の名人といえども、汐干潟では策の施しようがあるまい。但「津國」といい、「紀國」といい、共に関西の国名を挙げたのは、鯛の本場の那辺に存するかを示す結果になっている。

[やぶちゃん注:「かこちけん」「かこち」は「託(かこ)つ」「喞(かこ)つ」で「嘆いて言う・不平を言う」の意。

「延宝」一六七三年から一六八一年。]

 この句に直接関係はないけれども、紀国の鯛は西鶴も『永代蔵』の材料に用いている。大湊(おおみなと)泰地の鯨突(くじらつき)源内なる者が、舟枕(ふなまくら)の御夢想に恵比須(えびす)様の示現(じげん)を得て、生船(なまぶね)の鯛を殺さずに遠方まで送る方法を発明する。「弱し鯛の腹に針の立所(たつところ)尾さきより三寸ほど前をとがりし竹にて突(つく)といなや生(いき)て働く」というのが秘伝で、大(おおい)に利を博する話である。この源内の御夢想談はあるいは西鶴の創作かも知れぬが、鯛の療治の一段は、其角も俳話中に取入れているから面白い。

[やぶちゃん注:「永代蔵」正しくは「日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)」。井原西鶴作の浮世草子で、町人物の代表作の一つ。貞享五(一六八八)年刊。以上は「巻之二」の「天狗は家名(いへな)の風車」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。引用部はその末尾(リンク先の次頁)であるが、宵曲のそれとはリンク先のその表記はやや異なるので示す。「弱(よはり)し鯛の腹に針の立處(たてところ)尾さきより三寸程前をとがりし竹にて突(つく)といなや、生(いき)て働(はたら)く」。]

 

  あらめの茵(しとね)辛螺(しんら)を枕(まくらす)と

              揚水

 心地やむ鯛に針さす生小船 其角

  まれに尾だきを出(だし)し山老(さんらう)

              才丸(さいまる)

 

 延宝年中のものだから、『永代蔵』より早いわけである。こういう興味において、西鶴と其角とは慥(たしか)に一脈相通ずるところがあったろうと思われる。

[やぶちゃん注:「あらめ」不等毛植物門褐藻綱コンブ目レッソニア科アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis

「辛螺(しんら)」狭義には食用にする巻貝の内で、外套腔から出す粘液に独特の辛味を感ずる種群、例えば、軟体動物門腹足綱前鰓亜綱新生腹足上目吸腔目アクキガイ(悪鬼貝)超科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus、新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アクキガイ上科アクキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシ(疣辛螺・疣螺)Thais clavigera(以上の二種はかなり辛い)、アクキガイ超科アクキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa、アクキガイ超科テングニシ科(カンムリボラ)テングニシ属テングニシ Hemifusus ternatanus などが挙げられるが、広義にはそれらの近縁種やそれらの独特のごつごつした形状に似た全く辛くない全くの別種をもかく呼ぶ傾向がある。]

 鯛の腹を突いて肚裏(とり)の浮袋を破り、生かしたまま遠方へ送る方法は、現在でも行われているらしい。暁台の「針刺(ささ)ば涼しき鯛の眼(まなこ)かな」という句なども、これだけでははっきりわからぬが、恐らく同様の手段を講ずる場合であろう。鯛の涼しい眼に留意するあたり、俳句としては単なる事柄以上に歩を進め得た点もある。

[やぶちゃん注:以上に書かれた浮き袋に対する手法は現在でも重要な処置として生きている。多様な状態の鯛に種々の処方がある。サイト「豊後水道 佳丸」の「漁師の常識」のページの「フク」とある(まさに鯛のケースが書かれてある)条々を参照されたい。]

 鯛の名所として地方的季題になりそうなのは安芸(あき)の浮鯛(うきだい)であろう。『大言海』にも「安藝國、豐田郡、味潟(あぢかた)ノ海ニ、每年春夏ノ交、數日ノ間、鯛、水面ニ群リ浮ブコトノ称。古ヘハ、櫻鯛ト云ヒシトゾ」と出ている。『詞花集』の「春來ればあぢ潟の浦一潟に浮くてふ魚の名こそ惜しけれ」という歌も引いてあるが、これは花を惜しむ心を桜鯛に寄せたので、実感は極めて乏しい。俳人の作るところも多くはその範疇を出ぬようである。

[やぶちゃん注:「大言海」のそれは正字化した。

「味潟」現在の広島県三原市幸崎能地(のうじ)地区の海浜の古称。同所のここ(グーグル・マップ・データ)に浮鯛神社がある。「株式会社ナッツカンパニー」製作のサイト「kusudama」の「海に漂う鯛と人」に『かつて瀬戸内海に面した広島県三原市能地の沖合では浮鯛という現象がありました』。三『月中旬から』五『月初めの満潮時に、鯛を主とした魚類が腹を上にして大量に浮ぶのだそうです。漁師は待ち構えてこれを網ですくうというのですから、まさに天のお恵みです。理由は定かでありませんが、強い潮流のためとか、水温変化のためとかいわれています。この現象は古くからあったらしく、『日本書紀』には、功神皇后(仲哀天皇室)が渟田門(ぬたみなと)に停泊し食事していると、鯛が船に群がってきたので海に酒を注いだ。するとみな酔って浮んだので漁師は歓喜してこれを捕り、以来』、六『月になると鯛が浮ぶようになったとあります。季節はずれますが』、『浮鯛現象のことでしょう。渟田門の比定地は若狭・出雲・安芸説がありますが、安芸には沼田(ぬた)郡があり、同郡能地で浮鯛現象が起きていることからして安芸が妥当と思います。能地は、陸地に家を持たず家船に住み、漁業や水夫として生計をたてていた海人(あま)と呼ばれる人々の拠点でした。いわゆる漂泊の民です。かれらは功神皇后に鯛を捧げたのは自分たちの先祖で、以来、菅原道真・平清盛・源義経・足利尊氏といった歴史上の有名人に浮鯛を献上してきたのだという伝承を伝えています。これはただの自慢話ではなく、こういう歴史があるから自分たちには浮鯛を捕る権利・由緒があるのだ、という主張につながります。またそれは、自分たちはなぜ漂泊しているのか、自分たちの水夫・漁民としての技能がなにに由来するのか、そうした疑問に対する漂泊の民の自己確認でもあるでしょう』とある。民俗学的にも第一級の解説である。脱帽した。]

 

 おぼろ月浪のうき鯛よるさヘや     曉臺

   宮嶋奉納

 いき鯛や是も神代の一雫(ひとしづく) 乙由

   藝州能地の浮鯛は多く古哥(こか)

   にもよめる所なり、その里人浮鯛

   の發句あつめらるゝよしきこへ侍

   りければつかはす

 浮鯛よ何所(どこ)で夢見て花はちる  除風

   能地の浦

 浮鯛の名やさくら散(ちる)三四月   支考

 

 諸人から集めた浮鯛の句は、果して上木(じょうぼく)の機を得たかどうか。除風の句はその需(もとめ)に応じたまでのものであるが、支考のは全然それとは別で、旅行の途次能地の浦に遊んだ際の句である。それにしては句も振わず、『梟日記(ふくろうにっき)』の本文にも浮鯛の実感を伝えたものがないのを憾(うらみ)とする。

[やぶちゃん注:「上木」書物を印刷するために版木に彫ることから転じて、書物を出版すること。板行(はんぎょう)。上梓。

「梟日記」各務支考が師芭蕉没後四年目、初めて職業俳諧師としての自覚を持って行った元禄一一(一六九八)年の筑紫への俳諧行脚の旅日記。芭蕉が予定していながら、ついに果たせなかった西国行脚の夢の実現でもあった。尾花沢市歴史文化専門員の梅津保一氏の「西国行脚の夢」に詳しい。必読。]

 以上の句はいずれも鯛を詠んだものには相違ないが、鯛そのものの姿はあまり明瞭に浮んで来ない。

 

 山吹の底は鯛なりさかな籠   文鳥

 

という句になると、山吹に蔽われているにかかわらず、その下の鯛が生々とわれわれの感覚に触れて来る。あるいはこの句境は必ずしも鯛に限らぬ、他の魚にも流通するという人があるかも知れない。しかし山吹の花の底に肴籠の鯛が赤くほのめいているのは、如何にも豊な感じで、棄て難いように思う。

 

 紅(あk)ン頰(づら)の鯛はカヂケズ雪の濱

                     句空

 

 「カヂケズ」というのは妙な字が書いてあるけれども、普通の活字にはなさそうだから、印刷所に敬意を表して仮名に換えた。雪の浜に赤鯛の投出されているところは、美しい眺であるに相違ない。但(ただし)紅白の対照がやや殊更めいて、山吹の底にほのめく鯛の自然なるに如かぬのである。

[やぶちゃん注:「カヂケズ」歴史的仮名遣は「かじけず」で「悴けず」と漢字もある。古くは「かしく」と清音で、無論、今も用いる「かじける」で、「手足などが凍えて自由に動かなくなる」こと、「かじかむ」ことである。]

 

 生鯛のすきとほりけり朝の月   恕風(じよふう)

 

 この鯛はどういう場所に置かれているのかわからぬが、鯛そのものの美しさを詠じた句としては、先ずこれらを挙げなければなるまい。朝の月も単なる配合でなしに、透き通るような鯛の美しさを大に助けている。こういう魚の美しさを浮上るように描いた句は、鯛以外の場合にもあまり見当らぬようである。

 

 花の雨鯛に鹽するゆふべかな   仙化

 

 この句は厨(くりや)の中の光景で、鯛の美しさを描いていないことはないが、その美しさは連想に俟(ま)つところが多く、「すきとほりけり」というほど、直接眼前に浮んで来ない。朝月の下に透き通る鯛は、鮮(あざやか)な色彩の上に或光を帯びているように感ぜられる。

 

 二の膳やさくら吹込む鯛の鼻   子珊(しさん)

 

 ここに至り鯛は遂に俎上を飛び越えて膳上のものとなった。二の膳に幅を利かす先生は、いずれ大鯛に相違ない。小さな鯛では特に「鯛の鼻」というのも工合が悪いからである。花見の宴ででもあるか、一陣の風が膳部の上に桜を吹込む趣は、画よりも更に美しい。鯛を点じたのは膳上の印象を強からしむる効果があるが、「鼻」とまでは少々いい過ぎであろう。真に落花を吹込むほどの鼻とすれば、その鯛の大きさも思いやられて、ちょっと箸を執る勇気が出にくくなる。二の膳の鯛の上に桜が散りかかるというだけでは、作者は満足出来ぬのであろうか。

 

 鯛の骨打つたゝいつ春くれぬ   利牛

 

 焼かれた鯛の運命は型の如く骨となる。その上に打ったり叩いたりされては、あまりありがたい仕合(しあわせ)ではない。但この骨は鳥の場合のように、スープの役を勤めるのでもなさそうである。子規居士の『仰臥漫録』に「サツマ四ワン」という記載があり、括弧して「コレハ小鯛ノ骨ヲ善ク燒キテ善ク叩キテ粉ニシテ味噌ニ和シテヌク飯ニカケテ食フナリ、尤(もつとも)鯛ノ肉ハ生(なま)ニテ味噌ニ混ジアルナリ」と註してある。利牛の句の鯛の骨も多分そんな目的の下に打ったり叩いたりするのであろう。そこに暮春の情と何か相通ずるものがあるから面白い。

[やぶちゃん注:老婆心ながら、利牛の句の中七は「うつつたたいつ」(うっつたたいつ)と読む。

「仰臥漫録」の引用は明治三四(一九〇一)年九月二十七日の条の夕食のリストの冒頭の「サツマ四ワン」の下にある割注風の記載。子規が没するのは翌明治三十五年九月十九日である。無論、ルビは原典にはない。この「サツマ」とは魚を用いた混ぜご飯である「薩州飯(さつすいはん)」のことである。そのレシピは、私の愛読書である、江戸後期の漢詩人柏木如亭(かしわぎじょてい 宝暦一三(一七六三)年~文政二(一八一九)年)の遺稿として文政一五(一八二二)年に刊行された、日本漢文で書かれた世界に冠たるグルメ本「詩本草」に載る。柏亭は魚を用いた種々の炊き込みご飯や汁かけ飯などを総称して「魚飯(ぎよはん)」と称して二条に渡って述べているのであるが(如何に彼がそれが好きだったかを如実に物語っている)、その「魚飯」の冒頭で、如亭が第一の絶品とするのが、他ならぬ「薩州目飯」なのである。「詩本草」の原文及び訓読文を示す。底本は揖斐(いび)高校注「詩本草」二〇〇六年岩波文庫刊)を参考に用いたが、漢字は恣意的に正字化し、訓読文は読み易くするために私が一部に手を加えた。

   *

魚飯之法、先斫鯛魚作二三寸肉片、揀其骨最軟者、火烘爲抹、團赤味噌煆投淸水、以作冷羹、而埋肉片干熱飯内、撤抹及紅椒白葱細切者干羹中、澆飯食之。飯不覺熟、肉不覺冷、奇不可言。名薩州飯。魚飯數十法中此爲第一。

   *

魚飯(ぎよはん)の方は先づ鯛魚(てうぎよ[やぶちゃん注:タイ。])を斫(き)りて二三寸の肉片と作(な)し、その骨の最も軟かき者を揀(えら)び、火烘(くわこう)[やぶちゃん注:炙ること。]して抹(まつ)と爲(な)し、赤味噌を團(まる)めて煆(や[やぶちゃん注:=燒。])きて淸水に投じ、以つて冷羹(れいかう[やぶちゃん注:冷たい味噌汁。])を作り、而して肉片を熱飯内に埋(うづ)め、抹及び紅椒(こうせう[やぶちゃん注:唐辛子。])、白葱(はくそう)の細かに切る者を羹中に撤(さん)し、飯に澆(そそ)ぎて、これを食らふ。飯は熱きを覺えず、肉は冷たきを覺えず、奇なること言ふべからず。「薩州飯(さつしうはん)」と名づく。魚飯數十法の中、此を第一と爲す。

   *]

 也有は『百魚譜』の冒頭において「人は武士、柱は檜(ひ)の木、魚は鯛とよみ置ける、世の人の口にをける、をのがさまざまなる物ずきはあれど、此(この)魚をもて調味の最上とせむに咎(とが)あるべからず」といった。鯛は百魚の王とも呼ばれるようであるが、これを以て首(はじめ)とするに異論はないと見える。

[やぶちゃん注:「百魚譜」これまた私の愛読書である俳人横井也有(元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年):尾張出身。名は時般(ときつら)。尾張藩の重臣で武芸・詩歌・絵画・音曲など各方面に優れ、多芸多能で知られた)の有名な俳文集「鶉衣(うずらごろも)」の中の「百魚譜(ひゃくぎょのふ)」の冒頭部。寛延二(一七四九)年、四十八歳の時のもの。「衆魚賦」の別称もある。サイト「俳句森」で読める。以下に出る引用もこの引用のすぐ近くである。リンク先で確認されたい。]

 

 諸佛あれど魚にして鯛籃(かご)の花 支考

 

の句も、鯛を重んずる一証に算(かぞ)うべきである。

 也有はまた「しかるをもろこしにては、いかにしてかことに賞翫の沙汰も聞へず、是(これ)に乘(のり)ける仙人もなし」ともいっている。仙人を持出したのは、鯉に乗った琴高(きんこう)があるためであろうが、日本人が特に鯛を重んじ、漢土の人がこれを顧みぬとすれば、そこに国民性の掩うべからざるものがある。「人は武士、柱は檜の木、魚は鯛」も、日本精神に結びつけて説くべきものかも知れぬ。左の一句は古人にもそういう気持のあったことを、明示しているものの如くである。

 

 日の本や鯛を喰(くら)ふてさくら狩  沙月

 

[やぶちゃん注:「琴高」周代の趙の仙人。仙術を得意とする琴の名手で、二百年気儘に暮らした後、河の龍を捕えると称して水中に去り、約した時日に鯉に乗ってそれを巧みに馭して水中から現われ、人々を驚かせた。一説に八百年を生きたともされる。琴高仙人図は本邦でも室町以降に故事人物画の画題として好んで取り上げられた。]

2017/11/25

和漢三才圖會第四十一 水禽類 味鳬(あぢがも)〔トモエガモ〕


Ajigamo

あちかも 【名義未詳】

味鳬

 

△按味鳬似鳬而小大於鸍頭青緑帶黄赤其觜脚共黑

 翅灰色胸黄赤色有小黑點腹明白背灰白有赤黑毛

 數百群飛肉味類鸍雌者頭灰色全體灰白有小黑點

  夫木 をちそむる氷をいかにいとふらん

     あちむら渡るすはの入り海西行

[やぶちゃん注:「をち」は原典のママ。訓読では訂した。]

 

 

あぢがも 【名義、未だ詳らかならず。】

味鳬

 

△按ずるに、味鳬、鳬〔(かも)〕に似て、小さく、鸍〔(こがも)〕より大〔なり〕。頭、青緑に黄赤を帶ぶ。其の觜・脚、共に黑し。翅、灰色。胸、黄赤色〔にして〕、小さき黑點、有り。腹、明白。背、灰白にして赤黑き毛、有り。數百、群飛〔する〕なり。肉味、鸍〔(こがも)〕に類す。雌は、頭、灰色、全體、灰白〔にして〕、小さき黑點、有り。

 「夫木」とちそむる氷をいかにいとふらん

      あぢむら渡るすはの入り海

                 西行

 

[やぶちゃん注:これは私が先行するカモ総論と言える「鳧(かも)〔カモ類〕」で、「蘆鳧(あし〔がも〕)」に類推比定したマガモ属トモエガモ Anas formosa のことではないか? 再掲すると、ウィキの「トモエガモ」によれば、日本へは越冬のために渡りをし、『体上面の羽衣は褐色』で、『嘴の色彩は黒い』。『オスの繁殖羽は頭部に黒、緑、黄色、白の巴状の斑紋が入り』、『和名の由来になっている』。種小名 formosa は「美しい」の意』でもある。『オスの非繁殖羽(エクリプス)は全身の羽衣が褐色で、眼から頬にかけ不明瞭な黒い筋模様が入る』。『メスは全身の羽衣が褐色で』、『黒褐色の斑紋が入』り、『嘴基部に』は『白い斑紋が入』って『喉が白い』とある。何より、良安は「肉味、鸍〔(こがも)〕に類す」と言っているが、何より、先の「鸍」で彼は「其の肉、美味〔なるは〕眞鳬〔(まがも)〕に減〔(おと)〕らず」と言っており、本種は『食用とされることもあった。またカモ類の中では最も美味であるとされる。そのため』、『古くはアジガモ(味鴨)や単にアジと呼称されることもあった』とあることとも一致するのである。なお、『アジガモが転じて鴨が多く越冬する滋賀県塩津あたりのことを指す枕詞「あじかま」が出来た』とあるから、この「あじがも」の呼称は存外、古いことが知れるのである(太字下線やぶちゃん)。

 

「とちそむる氷をいかにいとふらんあぢむら渡るすはの入り海」初句は「夫木和歌抄」の表記に訂した。「巻廿三 雑五」に西行の歌として載る。これは岩波文庫版「山家集」の「補遺」に「夫木抄」所載として、

 

 とぢそむる氷をいかにいとふらむあぢ群渡る諏訪のみづうみ

 

で出、諸注はこの「あぢ」をトモエガモに比定している。]

不思議に哀しい夢

昨日の深夜、こんな夢を見た…………

私はアイルランドのトリニティ・カレッジ(ダブリン大学)で幻想文学の講義をしている。日本語で喋っているので、多くの学生たちは飽きてしまい、出て行ってしまうが、私はそれに構わず続けるのであった――

その後、同大学の文学教授と哲学教授と話し合うのだが、そこで私は私がアラン島で体験した不思議な事実を語り出す――

それは一人の真っ裸の少年と少女が断崖から転げ落ちて、血だらけになっては這い上り、再び肉体が再生しては、また、断崖から転げ落ちることを繰り返すのであった(そこにその映像がフラッシュ・バックする)。
そうして私はそれを眺めながら、少年はギルガメッシュであり、少女はエンキドゥであるという確信を持つのであった…………

私はアイルランドに旅行した際、トリニティ・カレッジを散策し、アラン島にも行った。また「心朽窩新館」では私は、姉崎正見訳「アラン島」の電子化注も手掛けている。

この不思議な夢の意味は私にはよく判らないのだが、何か、ひどく哀しい気がして目が覚めた。午前一時半であった。

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸍(こがも/たかべ)〔コガモ〕


Kogamo

こがも      沈鳬 

たかべ

【音施】

         【和名多加閉】

 

△按鸍似鳬而小雄者頭頸紫色眼後有青色背蒼帶赤

 有花文兩脇碧有白條胸黄有赤黑點腹淡蒼兩腰白

 翅蒼交綠白黑羽觜脚黑帶赤雌者淡黄淡赤雜黑色

 頭深灰色大抵其種類雌相似而雄異也先鳬來後鳬

 歸晨成群高飛性能食泥及水草根其肉美味不減於

 眞鳬

――――――――――――――――――――――

阿伊佐 似鸍而頭背灰色腹正白觜赤而尖脚亦赤

美古鳬 似鸍而全體白色頭有碧黑冠毛觜脚共黑

鈴鳬【一名黄黑鳥】 似鸍而全體黑色目邊黄稍青而兩脇淡白觜

 碧脚黑帶黄其鳴聲似鈴音

 

 

こがも      沈鳬〔(ちんふ)〕

たかべ      〔(りき/りよく)〕

【音、「施」。】

         【和名。「多加閉」。】

 

△按ずるに、鸍〔(こがも)〕は鳬〔(かも)〕に似て、小さし。雄は頭・頸、紫色。眼の後に、青色、有り。背、蒼〔にして〕赤を帶びて、花〔の〕文、有り。兩脇、碧(みどり)にして、白き條(すぢ)有り。胸、黄にして赤黑〔き〕點、有り。腹、淡蒼。兩腰、白く、翅、蒼くして綠・白・黑の羽を交〔(まぢ)〕へ、觜・脚、黑くして赤を帶ぶ。雌は淡黄・淡赤〔に〕黑色を雜〔(まぢ)〕へ、頭は深灰色。大抵、其種類の雌は相ひ似て、雄は異なり。鳬〔(かも)〕に先だつて來たり、鳬に後〔(おく)れ〕て歸る。晨〔(あした)〕に群れを成し、高く飛ぶ。性、能く泥及び水草の根を食ふ。其の肉、美味〔なるは〕眞鳬〔(まがも)〕に減〔(おと)〕らず。

――――――――――――――――――――――

阿伊佐〔(あいさ)〕 鸍〔(こがも)〕に似て、頭・背、灰色。腹、正白。觜、赤くして尖り、脚も亦、赤し。

美古鳬(みこがも) 鸍〔(こがも)〕に似て、全體、白色。頭に碧黑〔(へきこく)〕の冠毛(さか〔げ〕)有り。觜・脚、共に黑し。

鈴鳬(すゞがも)【一名、「黄黑鳥〔(きぐろがも)〕」。】 鸍〔(こがも)〕に似て、全體、黑色。目の邊り、黄にして、稍〔(やや)〕青く、兩脇、淡白。觜、碧。脚、黑にして黄を帶ぶ。其の鳴き聲、鈴の音に似たり。

 

[やぶちゃん注:カモ目 Anseriformes カモ科 Anatidae カモ亜科 Anatinae マガモ属コガモ Anas crecca亜種コガモ(小鴨)Anas crecca creccaウィキの「コガモ」によれば、『ユーラシア中部・北部および北米大陸中部・北部で繁殖する。冬季はヨーロッパ南部、北アフリカ、中近東、南アジア、東アジア、北アメリカ中部から南部へ渡り越冬する』。『日本では、冬鳥として全国に飛来する。全国で普通に見られ、市街地の河川や公園の池などでも観察される。中部地方以北の高原や北海道の湿原では、ごく少数が繁殖している』。『カモ類の中では冬の渡りが早く、また春の渡りが遅めである。越冬中は群れで生活し、関東地方では』九『月頃から』四『月頃にかけて見ることができる』。体長三十四〜三十八センチメートル、翼開長五十八~六十四センチメートル。『雄の方がやや大きい。ドバトより一回り大きい程度で、日本産カモ類の中では最小種のひとつ』である。『雄は頭が栗色で、目の周りから後頸にかけてが暗緑色、身体は灰色で、側面に横方向の白線が入る。下尾筒は黒く、両側に黄色い三角の斑がある。翼は暗褐色だが、翼鏡は緑色。嘴と足は黒い』。『雌は全体に褐色で、黒褐色の斑がある。下尾筒の両脇は白い。雄と同様に緑色の翼鏡が見られる』。『非繁殖期には、湖沼、池、河川、干潟などに生息する。淡水域に多い。越冬の終盤である』二月末から三月にかけて『つがいを形成し、繁殖地へ渡る。つがいを形成する前の』十一月から一月『頃には、オスはメスに対して盛んにディスプレイ行為を見せる。繁殖期には、河川や湿地の周辺の草地などに生息する』。『食性は植物食で、河川や湖沼などの水面から届く範囲の藻や水草などを食べる。夜間に採食することが多い』。『雄は「ピリピリッ」、雌は「クゥェックゥェッ」などと鳴く』。『メスは草地の地上に巣を作り』、四月下旬から七月上旬にかけて平均八個を産卵』し、『卵は抱卵開始から』二十一から二十三日で『孵化する。他の多くのカモ類と同様に、抱卵・育雛はメスのみで行う。雛は』二十六から三十日『程度で親から独立する』。『マガモ同様に食用にされる。味はマガモに勝るとも劣らないと言われるほど優れているが、体の大きさがマガモよりずっと小さく、取れる肉の量が同種の』四分の一程度しかなく、『それゆえに狩猟の獲物として狙われる機会も少な』く、『マガモやカルガモと比べ』ると『警戒心も強く、人の姿を察知するとすぐに逃げ出す』傾向も強い、とある。

 

「たかべ」コガモの古称。「万葉集」の「巻第三」の「雑歌」の「鴨君足人(かものきみのたりひと)の香具山の歌一首」に付帯する二首の反歌の第一首目に(二五八番歌)、

 

人漕がずあらくも著(しる)し潛(かづ)きする鴦(をし)と高部(たかべ)と船の上(へ)に住む

 

と出、また同「巻第十一」の「物に寄せて思ひを陳べたる歌」の一首(二八〇四番歌)に、

 

高山に高部(たかべ)さ渡り高高(たかたか)に我が待つ君を待ち出でむかも

 

と出るのが、それ。

「鳬〔(かも)〕」前項「鳧(かも)〔カモ類〕」の私の冒頭注以下を参照のこと。

「阿伊佐〔(あいさ)〕」カモ科カモ亜科アイサ(秋沙)族 Mergini(アイサ亜科 Merginae とされることもあり)が広義にあるが、ここには前に出たクロガモ等も含まれ、限定が難しくなるので、中でも、和名に「アイサ」を含む類と敢えて限定してみたい。ウィキの「アイサ族」によれば、殆んどの『種は繁殖期以外は海に生息する。これらの種は塩類腺を発達させているが、幼鳥には備わっていない。また』、『海よりも川を好む種もある』。二『種を除くと全てが極北に生息している』。『魚を食べる種は、魚を捕まえるためにくちばしが鋸歯状になっている。海産の軟体動物や甲殻類を食べる種もいる』とある。先に和名限定したもので本邦に飛来(或いは繁殖)する種で、良安が視認可能なものは、アイサ(ウミアイサ)属ウミアイサ Mergus serrator・アイサ(ウミアイサ)属カワアイサ Mergus merganser 辺りに絞られる。両者は孰れも九州以北に飛来し、よく似ており(誤認もされる)、ここに記された特徴ともよく一致する。ウミアイサ」カワアイサのウィキをリンクしておくので、本文と比較されたい。

「美古鳬(みこがも)」前のアイサ族に含まれるアイサ属ミコアイサ(巫女秋沙)Mergus albellusウィキの「ミコアイサ」によれば、『繁殖期のオスは全身の羽衣が白い』。・『和名ミコはオスの羽衣が巫女の白装束のように見えることに由来する』。『眼の周囲や後頭には黒い斑紋が入り、胸部側面には』二『本の黒い筋模様が入る』。『背の羽衣は黒い』。『非繁殖期のオスやメスは頭部から後頸にかけての羽衣が褐色、喉から頸部側面にかけての羽衣が白い』とある。但し、良安の「碧黑〔(へきこく)〕の冠毛(さか〔げ〕)」という色は不審。これはの背に入る黒い有意な条線を指すのではなかろうか? それとも別種なのか?

「鈴鳬(すゞがも)」「黄黑鳥〔(きぐろがも)〕」カモ科ハジロ属スズガモ Aythya marilaウィキの「スズガモによれば、全長はオスが約四十六 センチメートル、メスが約四十三センチメートル、翼開長は七十四~八十センチメートル。『小型の潜水ガモ(海ガモ)類であり、成鳥はくちばしは灰青色で目は黄色。オスは黒い頭で緑の光沢がある。メスは全体的に褐色。嘴の基部に白い斑がある。キンクロハジロと配色が似ている』。『名前の由来は、飛ぶときの羽音が金属質で鈴の音に似ていることから』。『繁殖地は北アメリカ大陸北部、ユーラシア大陸北部である。冬季はヨーロッパ北部、カスピ海、中国東部、北アメリカ西部及び東部に渡り越冬する。アリューシャン列島では、留鳥として周年見られる』。『日本では冬鳥として、亜種スズガモが海岸に多数渡来する』。『日本に渡来する海ガモ類では、最も渡来数が多い種とされる』。『東京湾、藤前干潟などでは毎冬大群が見られる。北海道東部では夏でも観察される』。『越冬期には、主に内湾など波の静かな海に大群で生息する。但し、『少数の群れで海や海に近い湖沼等にも分布する。多くの場合、カモ類は同じ場所に生息するため、本種を含めた色々な群が見られる』。『主に潜水して採食する。頭から水中に』一『分近く潜ることもある』。『アサリを始めとする貝類などを食べるが、水草を食べることも希にある。昼間のみならず、夜間も採食する。貝類を採食する時は、貝殻ごと丸呑みにし砂嚢(砂肝)で消化する』。『このため、体内に強力で大きな砂嚢を持っている』。『繁殖地は湖や沼、湿地である。巣は水辺の草むらや藪の中、岩の間に作り、しばしばコロニー状に営巣する。また、カモメやアジサシ類のコロニー内に営巣することもある。一腹で八~十個の『卵を産』み、『抱卵期間は二十四~二十八日である』とある。]

柴田宵曲 俳諧博物誌(8) 龍 四 / 龍~了

  

       

 

 これからいよいよ龍の本文に入る順序である。といったところで、十七字詩の世界には、それほど驚くべき話も出て来ないが、第一は龍の天上する句である。西鶴の『諸国はなし』に古い茶碓(ちゃうす)の心木の穴から七寸ばかりの細い蛇が出て、花柚(はなゆ)の枝をずんずん上るように見えたが、忽ち雲に隠れて行方がわからなくなった、この時その家から龍が上ったのだという話が書いてある。

[やぶちゃん注:ここに語られているのは井原西鶴の「西鶴諸国ばなし」の中の「卷三の六」にある「八疊敷の蓮の葉」の一節(メイン・テーマではない)に基づく。その梗概の一部を記すと(引用原文は平成四(一九九二)年明治書院刊の「決定版 対訳西鶴全集 五」を参考に用いたが、一部の漢字は正字化し、踊り字「〱」は正字化した。読みはオリジナルに歴史的仮名遣で附しである)。訳は私のオリジナルで底本の訳は参照していない)、

   *

 吉野は奥千本にあった西行所縁の庵に住まう一道心があった。五月雨の降るある日、いつもの如く土地の者どもがこの庵にうち寄り、茶呑み話を致いておったところ、庵の板縁の片端に『ふるき茶碓(ちやうす)のありしが、其しん木の穴より』(「茶碓」は茶葉を挽いて抹茶を作る臼のこと。「しん木」(心木・芯木)は臼の芯棒のこと。臼の下石の中央にある芯棒を上石に差し込んで使用するが、ここはその上石の方にある「穴」を指す)、長さ二十一センチメートル余りの、『細蛇(ほそくちなは)の一筋(すぢ)出(いで)て』、間もなく近くにあった『花柚(はなゆ)』の木の枝に飛び移り(「花柚」ユズの一種で実は小さい。香りがよく、花や皮を酒や吸い物に入れて用いる。僅かに紫色を帯びた白い五弁花を初夏に咲かせ、俳諧では夏(陰暦四月)の季語とする)、上へ上へと、するする登って行き、その枝の天辺から、鎌首をもたげ、あたかも、空を窺うかと見えておったが、折からの雲霧に紛れたのか、ふっと姿が見えなくなった。と、庵へ麓の里から、人が大勢駆けつけて来て、「只今此庭から、十丈あまりの竜(たつ)が天上(てんじやう)した」と注進に来た(「十丈」は凡そ三十メートル)。この「聲におどろき、外へ出て見るに、門前に大木の、榎(ゑ)の木ありしが」、一番太い枝がぱっくりと裂け、その下の地面は抉(えぐ)れて、池のように水が溜まっていた。「さてもさても大(おほ)きなる事や」と、人々が騒いだが、この道心、平然として一笑すると、「おのおの廣き世界を見ぬゆへ也。我(われ)、筑前にありし時、さし荷(にな)ひの大蕪(おほかむな)あり。又、雲州松江川に、橫はゞ一尺弐寸づゝ鮒あり。近江の長柄山より、九間ある山の芋、ほり出せし事も有(あり)。竹が嶋の竹は、其まゝ手桶に切(きり)ぬ。熊野に油壺を引(ひく)蟻あり。松前に一里半つゞきたるこんぶあり。つしまの嶋山(しまやま)に、髭(ひげ)一丈のばしたる、老人あり。遠國を見ねば合点のゆかぬ物ぞかし。」と諭した(「さし荷ひ」は天秤を刺して縛り、前後二人で抱えなければならないことを言う。「松江川」は現在の松江の中心部を流れる大橋川のことか。「橫はゞ一尺弐寸づゝ鮒」体幅が三十六センチメートルのフナ。ちょっとした「マグロ並みの大鮒」ということになる。「近江の長柄山」現在の滋賀県大津市西部にある山で、歌枕として知られる。「九間ある山の芋」十九メートル弱のナガイモというのは、縦に掘り出したんでは、山が崩れてなくなりそうである。「竹が嶋」鹿児島県佐多岬の南西五十キロメートルの海上に浮かぶ竹島のこと。イネ科メダケ属タイミンチク(台明竹)Pleioblastus gramineus の産地として知られる。但し、タイミンチクは大きくなっても高さ七~八メートル止まりで、ネット上の写真で確認してみても太さも通常の竹と変わらず、切ってそのまま手桶に出来るほどには太くはないように見える。「油壺」油を貯蔵保存する大甕(おおがめ)。「松前」狭義には渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた松前藩を指すが、ここは広義の蝦夷地(北海道)の謂いか。「一里半つゞきたるこんぶ」全長五キロ七百メートルの昆布となると、ヤンキーのジャイアント・ケルプも真っ青である。「つしまの嶋山」現在の長崎県対馬市美津島町島山島。これは山というより、対馬の丁度中央部、浅茅(あそう)湾に浮かぶ島の名である。現在は美津島町と橋で繋がっている。なお、実はこの後も道心の話が続き、そこで戦国時代の高僧策彦(さくげん)和尚と信長のエピソードが披露され、その中で策彦が本篇題名にある、インドの霊鷲山(りょうじゅせん)にある一枚が八畳程もあるという巨大ハスの話をするのであるが、この部分、やや捩れてしまっていて、私はあまり成功した話柄になっていないと思うこと、ここの龍の俳諧博物誌とは無関係なので梗概を割愛した。なお、この道心の説教染みた謂いは、実はこの「西鶴諸國ばなし」の「序」でも重複する素材を挙げて、同じようなことを述べているので、御興味のある方は、「序」もお読みになることをお薦めする。冒頭、「世間の廣き事、國國を見めぐりて、はなしの種をもとめぬ。熊野の奥には、湯の中にひれふる魚、有(あり)。筑前の國にはひとつをさし荷ひの大蕪(おほかぶら)有」と始まって、掉尾を「都の嵯峨に四十一迄大振袖の女あり。是をおもふに、人はばけもの、世にないものはなし」と締めている。なお、この話、芥川龍之介が、ほとんど知られていない短い随想風の「河童」(かの奇作「河童」のプロトタイプとも目される)で言及しており、以上の注も私が、その「河童(やぶちゃんによる芥川龍之介真原稿恣意的推定版) 附やぶちゃん注 (又は やぶちゃん恣意的副題――どうかPrototypeKappaと讀んで下さい――)」で注したものに手を加えたものである。よろしければ、そちらもお読みになられんことをお薦めする。]

 

 凌霄(りようせう)や龍の上つた手水鉢 麥水

 さみだれに龍も登るか軒の雲      湖雀

 

 これらは『諸国はなし』とほぼ似たような世界に属する。古人は深淵大沢以外にも龍の蟄伏(ちつぶく)することを信じていた。漢土は殊に龍の本場だけあって、仏殿の柱の下から出たり、井戸の中から昇ったり、石に化して人に拾われたり、真に端倪(たんげい)すべからざるものがある。手水鉢から昇天した麦水の龍も、いずれ小蛇の形か何かになって蟄伏していた末の事であろう。湖雀の句はどこから昇るともいってないが、軒端を鎖(とざ)す真黒な雲に対して「龍も登るか」という以上、いずれその家の近くに昇天する龍がなければならぬ。龍と雲とは古来不可分の間柄であり、劉禹錫(りゅううしゃく)の見た龍の話なども、大雨の後の杏の木に雲気散せずというところからはじまっている。龍を詠んだ句に存外小さな配合物が出て来るのは、古人が随所に龍の蟄することを認めた結果で、必ずしも詩形の小さいためではない。

[やぶちゃん注:「凌霄(りようせう)」歴史的仮名遣は「りょうしょう」。「凌霄花(のうぜんかずら」のこと。シソ目ノウゼンカズラ科タチノウゼン連ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ Campsis grandiflora落葉性蔓性木本で、葉は卵形の小葉からなる羽状複葉で、夏から秋にかけて橙色或いは赤色の大きな漏斗状で先が五裂した美しい花をつけ、盛んに気根を出して、樹木や壁面などの他物に付着し、蔓を伸ばす。中国原産であるが、平安時代には日本に渡来していたと考えられている。夏の季語。

「端倪すべからざる」「端」は「物事の始め」で「倪」はその「終り」の意で、専ら、「始めから終わりまでを安易に推し量るべきでない」というような重要或いは深淵な対象を表現する場合に用いる。「凡そ推測が及に得ない」「いっかな計り知れぬ」といった驚愕的ニュアンスをも含む。

「劉禹錫(りゅううしゃく)の見た龍の話」「詩豪」と称せられた中唐の名詩人にして政治家劉禹錫(七七二年~八四二年)の目撃談は「太平廣記」の「龍五」に「集異記」殻として載せる「劉禹錫」。

   *

唐連州刺史劉禹錫、貞元中、寓居滎澤。首夏獨坐林亭、忽然間大雨、天地昏黑、久方開霽。獨亭中杏樹、雲氣不散。禹錫就視樹下、有一物形如龜鱉、腥穢頗甚、大五斗釜。禹錫因以瓦礫投之。其物即緩緩登堦。止于簷柱。禹錫乃退立於牀下。支策以觀之。其物仰視柱杪、款以前趾、抉去半柱。因大震一聲、屋瓦飛紛亂下、亭東壁、上下罅裂丈許。先是亭東紫花苜蓿數畝、禹錫時於裂處、分明遙見。雷既收聲、其物亦失、而東壁之裂、亦已自吻合矣。禹錫亟視之、苜蓿如故、壁曾無動處。

   *

個人ブログ「志怪を気まぐれに紹介するブログ」の「劉禹錫が龍に遭遇する話」に訳が載る。]

 

 秋の霜三尺の龍やこもりぬる    曉臺

 潛(ひそま)りし龍は内にか紙幟(かみのぼり)

                  沾德(せんとく)

 釜に立(たつ)龍をつらつら雲の峯

                  野坡

 

 暁台の句には「あたり近き市川にまねかれ社司蘆南子(ろなんし)のもとにむかし新羅三郎(しんらさぶらう)より給りのゆへよし正しくありて天國の劍を重寶す、謹(つつしみ)て拜見す」という前書がついている。三尺は勿論剣の長さから来ているが、剣を龍に見立てたのでなしに、中に龍が籠っているというのがこの句の眼目であり、また剣の神威ある所以でもある。

[やぶちゃん注:漫然と読んでいた私はこの「市川」を千葉県の市川だと思い込んでいたが、違った。個人ブログである「北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室」の『暁臺句集「日本俳書大系」甲斐関係抜粋 五味可都里訪問 暁臺句集「日本俳書大系」甲斐関係抜粋(五味可都里(ごみかつり 寛保三(一七四三)年~文化一四(一八一七)年)は甲斐の俳人。通称は宗蔵・益雄。加藤暁台・高桑闌更に学び、天明八(一七八八)年の「農おとこ」、寛政一〇(一七九八)年の「なゝしとり」などを編集した)に(一部の改行を繫げ、漢字を恣意的に正字化させて貰った)、

   *

信濃の道くだり、甲斐の國に步みを引ちがへて行ほど、藤田の可都里(五味)は年頃文してしれる好人なれば尋ぬ。其の夜ごろにこもあれば、月を見せばやなどわりなくとゞめられ、望の夜もここに邁遊ぶ。士峯(富士山)の北面まぢかくひたひにかゝるやうなり。

   高根はれて裏行月のひかり哉

今管[やぶちゃん注:ママ。意味不明。「只管」の誤字か?]空の淸らなる、十とせにだもえこそこ覺れなど、誰かれと共に夜更けるまで興す。

   堪ずしも薄雲出るけふの月

あたり近き市川へまねかれ、社司蘆南子[やぶちゃん注:引用元の表記は『芦南子』。後も同じ。]のもとに、むかし新羅三郞より給わり[やぶちゃん注:ママ。]の、ゆへよし正しくありて天國の劔を重寶す。謹て拜見す。

   秋の霜三尺の龍やこもりぬる

其餘にも巨勢大納言の畫は、賴朝公の賜のよし。今千歳の家名をかたぶけす、國にめで度譽れなりけり。

酒折の神社は甲府の東はつかに去て、山の邊にたたせ給ふ。こは日頃もうで侍る我國熱田のおはん神と一體におはしませば、歸旅のうへたもともぬるゝばかり、へたりともねるゝばかり、猶有がたう覺えてぬさ奉る。

   小墾(おわり)田のをはりの初穗かくもあれ

客中

   我きけばをはり田をさす雁ならし

甲斐の國市川なる蘆南子がもとにやどれる夜は、しくしく雨の降出つ。空は月の出づるかも、うすあかりみたるに、雨いよいよふりつのる。夜座尚しづかにおもふ所惑あり。

   雨くらき夜のしら根を鴈わたる

甲斐の國道くだり、いぶぜき山中にやどりて

   いつの世はとありとしのぶふる里を

   *

とあり、これからではよく判らないものの、「藤田」と「新羅三郎」から推測して調べて見たところ、可能性の一つとして、現在の山梨県南アルプス市藤田(とうだ)にある「藤田八幡神社」が気になった(ここ(グーグル・マップ・データ))。但し、ここの新羅三郎の剣があるという情報は見出せなかった。郷土史家の御教授を乞うものである。なお、「新羅三郎」は言わずもがな、河内源氏二代目棟梁源頼義の三男で源八幡太郎義家の弟であった源義光(寛徳二(一〇四五)年~大治二(一一二七)年)のこと、近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから「新羅三郎」と称した。]

 鯉と龍との間には一脈の繫(つなが)りがあった。沾徳の句の紙幟が鯉であるとすれば、内に龍の潜むことも首肯し得るが、鯉幟の出来た時代が新しく、この句に当嵌らぬとなると、潜龍の始末はどうつけたらいいか、俄(にわか)に解釈を下すことはむずかしい。

[やぶちゃん注:水間沾徳(みずませんとく 寛文二(一六六二)年~享保一一(一七二六)年)は松尾芭蕉・宝井其角と同時代の俳人で、二人の没後の享保期に江戸俳壇の中心となった)の生きた時代と鯉幟りの関係を調べてみると、今でも定かでないようである。但し、「鯉のぼり」は江戸中期頃に江戸の庶民の間で発生し、江戸でのみ見られた風習であり、泳いでいたのは概ね黒一色のマゴイであったことが(以下のリンク先に、知られた歌川広重の「名所江戸百景 水道橋駿河台」の絵がある)、マツイイチロウ氏のブログ「江戸ガイド」のこちらの記載にある。さらに、そこには『当初、「端午の節句」の飾りの主役といえば鯉のぼりでは』なく、その『主役は、幟(のぼり)』で、『旗のようなもので』あるとして、勝川春章の真っ赤な「鍾馗(しょうき)」の描かれたそれと、その向うに典型的な幟旗が立つ絵が見れる。沾徳の生きた時代は江戸前期末からせいぜい江戸中期初めとしか言えず、彼が詠んだものも宵曲には悪いが、鯉の形をしたものではなく、普通の幟旗であった可能性が極めて高いと思われる。ただ、それが捩じれて波打っていれば、あたかも昇り龍のようには見えたであろう。しかし、都合よく、よろしく、鯉から龍という登龍門伝承との視覚上の一致は私は無理であるように私には思われる。]

 野坡の句にもまた前書がある。「松風を寢覺(ねざめ)に聞(きき)水無月(みなづき)に時雨(しぐれ)を愛するは茶を好(このめ)る人也、風雅は百越と號して苑に一本の竹をうへて千とせの節を流行(はや)すべしとともに一器の茶に遊びよろしく薰龍舍と名づけ侍る」というのだから、この釜は茶釜である。茶釜の湯気から龍を連想するのは少し力が弱いようであるが、そこは薫龍舎の号がよほど利いているのであろう。湯気立って天に上り、更に凝って雲の峯になるとすれば、一概に馬鹿にするわけにも往かぬ。

 

 立山の雪白龍ののたりかな 樗良(ちよら)

   卯辰山(うたつやま)にて

 薄雲の花にぞ龍の籠るらめ 秋之坊

 

 樗良の句は立山の雪を白龍に見立てたのである。「のたり」という言葉は、後に説く熊の中にもあるが、それとは意味が違うらしい。『長塚節歌集』に「車の上にても暑さはげしきに、つくばの山にはノタリといふ雲のかゝりたるを見てちかく雨のふるならむと、少し腹に力もつきたることなれば身も心もいさましく」という前書があって、「筑波嶺(つくばね)のノタリはまこと雨ふらばもろこし黍(きび)の葉も裂くと降れ」という歌が出ている。山同士の事ではあるし、雲は龍と因縁が深いから、立山にもこんな言葉があるのかとも考えたが、まだはつきりした解釈を見出し得ない。もし普通の辞書にあるように、「のたうつ」とか「のたくる」とかいう意味に近い言葉であるとしたら、龍の威厳を損ずること夥(おびただ)しいといわなければならぬ。雲を得ざる龍は深淵に潜むのを定石とする。のたくつたり、のたうったりした姿を人に見せるのは、先ず傷ついた場合の外にないからである。

 薄雲の花に籠る龍も珍しいことは珍しいが、どうもわれわれの感じに乗りにくい。雲とまがう花の中にしろ、山を掩う雲にしろ、その中に籠るというのは、今まで挙げて来たどの龍にも当嵌らぬような気がする。卯辰山の辰が利かせてあるとすれば固(もと)より論外である。

[やぶちゃん注:「後に説く熊」「俳諧博物誌 熊」は五つ後に出る。

「卯辰山」石川県金沢市にある標高百四十一・一五メートルの山。名は金沢城から見て東(卯辰の方角)に位置することに由る。ここ(グーグル・マップ・データ)。秋之坊は金沢の蕉門の俳人。「奥の細道」で芭蕉が金沢を訪れた折りに対面し、即座に現地で入門した。前田藩藩士であったが、後に武士を捨てて剃髪して「秋之坊」と号して蓮昌寺境内に隠棲した。]

 

   昇龍の讚

 万倍に龍の雫(しづく)の靑田かな 蓼太

 

 画讃の句であろう。龍が雲を起して天上する。その際の雨に霑(うるお)った青田に、万倍の稲の稔りを祈念する。先ずめでたい御趣意である。昇龍の画からこれだけの事を想い浮べたとすれば、その龍は大に働いているものと見てよかろうと思う。

 ところで一旦昇天した龍はどうするか。大空を飛ぶ悠々たる白雲も、時に雨となって地上に降らなければならぬ運命を持っている。龍ばかりは永久に天界を己が栖として、ただ後進を地上より誘うのが仕事かと思うと、やはり落下の運命を免れないらしい。

 

 龍の落ちし畑見に行くや雲の峯 几董

 落ちかゝる龍の鱗や雲の峯   長

 

 この二句は不思議に現実的な色彩を帯びている。幽霊はかき消すように失せ、龍は雲に駕して天涯に姿を没するのが得意の舞台なのに、畑の中に落ちたりしては、近頃の飛行機と同じく残骸をさらさざるを得ない。物見高い人間どもが見に出かけるのは当然である。あるいはこれは龍巻の句で、龍の尾の下ったと思われる地点に何らかの痕跡をとどめている、それを見に行くというのであろうか。「落ちかゝる龍の鱗」に至っては、更に話がこまかくしかもはつきりしているだけに、かえつて解釈がつけにくい。

 明(あきらか)に龍巻と思われるのは左の一句である。

 

 氷室守(ひむろもり)龍に卷れしはなしかな 曉臺

 

 アンデルセンは『即興詩人』の中に龍巻に巻かれる話を書いている。龍巻そのものの描写は比較的短く、一たび昏絶した主人公が徐(おもむろ)に知覚を取戻す夢幻境の一段が長くかつ委(くわ)しいのであるが、暁台の句はこれと同じように、かつて龍巻に巻かれたことのある男が後に氷室守となり、自分の体験を誰かに話すというのであろうか。そうすれば大分小説的である。氷室のある山中にかつて龍巻があって、人が巻上げられたという事実を、他人の立場で話したにとどまるのであろうか。それなら龍巻はエピソォドの域を出でぬことになる。われわれはこの句を氷室守自身龍巻に巻かれた意味に解し、極めて異色ある句と見たいのである。この表現からいってそう解釈することは決して無理でないと信ずる。

[やぶちゃん注:「即興詩人」(デンマーク語:Improvisatoren)は、専ら童話で知られるデンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年:デンマーク語のカタカナ音写:ハンス・クレステャン・アナスン)の出世作となった最初の長編小説で、イタリア各地を舞台としたロマンチックな恋愛小説。一八三五年刊行。森鷗外訳「卽興詩人」(明治二五(一八九二)年から明治三四(一九〇一)年にかけて断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表した。ドイツ語訳からの重訳。単行本の初版は明治三五(一九〇二)年に春陽堂から上下巻で刊行されている)で知られる。宵曲が想起したのも鷗外訳と考えてよかろう。「卽興詩人」は岩波文庫版を所持しているのだが、どうしても見当たらないので、「青空文庫」版(正字正仮名)で確認されたい。「たつまき」と「夢幻境」の章がそれである。

 暁台にはもう一つ

 

 けふの月雲井の龍よ心あれ   曉臺

 

という句があるが、この方は前に挙げた「芋糊や龍を封じてけふの月」などの如く、良夜の月に対して龍を敵役とし、雲を起すことを戒めたに過ぎぬ。氷室守の句に遠く及ばぬのみならず、剣を詠じた「三尺の龍」の句ほどの力もない。

 

 夢龍(たつ)の都路(みやこぢ)や經む舟涼し

                麥水

 書を干(ほし)て龍と添寢(そひね)の鼾(いびき)かな

                沾德

 足入(いれ)て龍の夢見る淸水かな

                其角

   夢想

 京の町で龍がのぼるや時鳥(ほととぎす)

                鬼貫

 

 この数句はいずれも夢の龍を扱っている。麦水の句は舟で海上を行く場合、その夢は龍宮に遊ぶであろうというだけで、むしろ平凡であるが、他はいずれも特色がある。沾徳の句は虫干の際、あたりに書物を取散してうたたねをする。「龍と添寝」というその龍は、無論書巻の中にあるので、虫干をしながら偶然あけたところに龍の画を見出したのかも知れぬ。子供の時読んだ竹久夢二氏の童謡に「魔性の蜘蛛(くも)の糸(い)に卷かれ、白縫姫(しらぬひひめ)と添臥(そひぶ)しの、風は白帆の夢をのせ、いつかうとうとねたそうな」という一節があった。これは虫干でなしに、土蔵に入れられた少年が泣き草臥(くたび)れて、そこにある草双紙を見ながら夢に入るのである。書中の或者が夢に現れるという複雑な事柄を、古人が「添寝」の三和を以て易々(やすやす)と十七字中に現しているのは瞠目に値する。

[やぶちゃん注:竹久夢二氏の童謡は「どんたく 絵入小唄集」(大正二(一九一三)年実業之日本社刊)に収録された、「禁制の果實」。

   *

 

   禁制の果實

 白壁へ

 戲繪をかきし科(とが)として

 くらき土藏へいれられぬ。

 よべどさけべど誰ひとり

 鳥をすくふものもなし。

 泣きくたぶれて長持の

 蓋をひらけばみもそめぬ

 「未知の世界」の夢の香に

 ちいさき靈(たま)は身にそはず。

 

 窓より夏の日がさせば

 國貞ゑがく繪草紙の

 「偐紫(にせむらさき)」の桐の花

 光の君の袖にちる。

 

 摩耶(まや)の谷間にほろほろと

 頻迦(びんが)の鳥の聲きけば

 悉多太子(しつたたいし)も泣きたまふ。

 

 魔性の蜘蛛の絲(い)にまかれ

 白縫姫と添臥しの

 風は白帆(しらほ)の夢をのせ

 いつかうとうとねたさうな。

 

 藏の二階の金網に

 赤い夕日がかっとてり

 さむれば母の膝まくら。

 

   *]

 其角の句は清水に足を浸して涼んでいる間についうとうとした。その短い間の夢に龍が出て来るというのだから、いささかきわどいようだけれども、それだけにまた人を驚かすものがある。龍を夢みるについては、いずれ清水のある場所が人寰(じんかん)を離れた幽邃(ゆうすい)な条件を具えているのであろう。「切られたる夢はまことか蚤の跡」の作者に取っては家常茶飯事かも知れぬが、到底庸人(ようじん)の企て及ぶ世界ではない。

[やぶちゃん注:「人寰(じんかん)」人間(じんかん)人間の住んでいる世界。世の中。世間。

「幽邃(ゆうすい)」景色が奥深く静かなこと。

「庸人(ようじん)」凡庸な人間。凡人。]

 鬼貫の一句は夢中にこの句を得たという前書なので、龍の夢を見たとも断定出来ぬところがある。即ち「京の町で龍がのぼる」というのは夢の中で逢著(ほうちゃく)した事実なのか、夢中に斯(かく)の如き奇想を案じ得たまでか、その点が明瞭でない。時鳥は単なる添物のようでもあり、句としてどこかピントの合わぬ感じもする。夢想の二字は一句の成った所以を説明する断り書のようにも見える。

 夢中の龍は奇抜過ぎるから、夢に托した窮手段と解する人があるかも知れぬ。しかし明治の子規居士ですら、病牀の日記に「昨夜の夢に緋鯉の半ば龍に化したるを見て恐しと思ふ」と記しているのを見れば、古人夢龍の一事はさのみ怪しむに足らぬであろう。そこに何者にも拘束されぬ夢の天地があるのである。

 寓目した龍の句は以上で大体挙げおわった。更に多くの俳書を点検したら、まだいくらも出て来るであろうが、巨龍の片鱗を示すものとしては、これだけでも差支あるまい。

 

 龍のすくあたりをけふの汐干かな    起來

 たはら藻(も)や龍宮ならば掃き捨てむ 麥水

 嶋原も龍の都か霧の海         有闇

 秋の夜や湖(うみ)もふけゆく龍の笛  素古

   中尊寺

 虹吹てぬけたか涼し龍の牙       桃鄰

 

 これらは前に挙ぐべくして挙げなかったものである。起来以下の四句は龍宮界の中に入るべきものであるが、「嶋原」の句は見立に過ぎず、「秋の夜」の句はたまたま琵琶湖畔の深夜に笛の音を聞いて、龍宮に吹鳴らすものとしたのであろう。「虹吹て」の句は『陸奥鵆(むつちどり)』の本文にもんじゆいつさいきようこんしこんでいいくたまがしひでひら

「經堂、本尊文殊。一切經二通紺帋(こんし)金泥。寶物、水晶ノ生玉(いくたま)、龍ノ牙齒(がし)、秀衡(ひでひら)太刀、義経切腹九(く)寸五分」と見えている。一見した宝物の龍の牙歯から「虹吹てぬけたか」という想像をめぐらし、「涼し」の語によって夏の季に定めたのである。

[やぶちゃん注:「たはら藻」お馴染みの、不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum のこと。私は大好物である。あの痛快なシャキシャキ感は他の海藻類では絶対に味わえない。]

 長々と書続けて見たものの、雲を呼び空を翔る龍の如き名案は生れそうもないから、この辺で打切ることにしたい。龍頭蛇尾は古今の通則である。特にこの一篇において弁解を事とするに及ぶまいと思う。

2017/11/24

柴田宵曲 俳諧博物誌(7) 龍 三

 

       

 

 今度は少し目を転じて美術工芸方面の龍を覗いて見る。龍を用いた代表的なものは鐘の龍頭であるが、鐘の句が非常に多いにかかわらず、龍頭(りゅうず)を詠んだものはあまり見当らぬ。

 

 龍頭まで雨にしほるや梨のはな    浪化

 冴(さ)ゆる夜や龍頭に落つる曉の月 玄何

 あけの鐘の龍頭や辰の年始      武次(たけつぐ)

 晩(い)り鐘(がね)の龍頭や濡(ぬら)す袖の秋

                   似船

 

 「梨花一枝春帶雨」という「長恨歌」の句があるせいか、梨の花には一面雨の連想がある。「龍頭まで雨にしほる」というところを見ると、この降は相当強そうである。桜のように集団的な花で、鐘楼まで咲き埋めるような場合ならば、花の雫(しずく)に鐘も濡れ渡ることになるであろうが、梨の花ではそんな感じも起らない。雨は鐘に降りまた梨の花に降る。鐘のほとりにある梨の白い花は、何だかうすら寒い感じがする。

[やぶちゃん注:知られた白居易の「長恨歌」の「梨花一枝春帶雨」は底本では総ルビであるが、ここで訓読して代える。方士が楊貴妃の魂を探して仙山に至ったシークエンスの中の彼女の形容部に現われる一句である。「梨花 一枝 春 雨を帶ぶ」。涙を流す彼女の姿を梨の花の一枝が春の雨にうたれているようだとする、何とも可憐にして哀しい、読む者の涙をも誘うワン・シーンである。]

 玄何の句は落ち方に近い暁の月がほのかに鐘楼を照す、龍頭が寒い光を放っている、といったような趣であろう。暁の月の凄涼な趣は四季いずれも同じであるが、冬の明方は特に骨に沁む想(おもい)がある。この句は単に鐘を照すといわずに、龍頭という焦点を定めたところが頗る利いているように思う。

 武次の句は現在鐘を撞く場合か、その音を聞いている場合か、その点がいささか明瞭でない。要するにその鐘には御定(おさだま)りの龍頭がついているから、それを辰の年に持って来たのである。辰の年の始で龍頭だというほど、手の込んだ趣向でもあるまい。横道に入るようだけれども、辰年を詠んだ旬は存外少い。この句の外には、

 

 あけぼのや岩戸に名のる辰の年 不磔(ふたく)

 

というのが目に入ったに過ぎぬ。これは龍の句の中に挙げるには躊躇すべき性質のものである。武次の暁鐘に対して似船は晩鐘を持出した。この鐘を撞くのは何者かわからぬが、胸に無限の哀愁を湛えつつある。「濡す袖の秋」の語はその涙を十分に伝えている。もしこの句に「龍頭」がなかったならば、晩鐘を聞いて涙を流すところとも解せられるが、龍頭を点ずる以上、その人は鐘の近くにいなければならぬ。鐘の近くにいるとしたら、撞く場合と解するのが妥当であろう。これは前の武次の句も同様のわけであるが、あの句には殆ど光景と目すべきものがない。似船の方はとにかく秋の暮に調和すべき情趣を持っている。

 金工方面の材料にはもう一つ

 

 雨龍(あまりやう)の筆架にちゞむ暑さかな 太無(たいむ)

 

という句がある。雨龍は龍の属ではあるが、角がなくて尾が長いものだという。そうとすれば牡鹿に対する牝鹿の如く、甚だ風采の揚らぬものに相違ない。この筆架が雨龍の形であることはいうまでもないが、特に「ちゞむ」という語を用いたのは、雨龍そのものが小さくちぢこまって筆架になつた、という風に見ているのではあるまいか。ちぢこまるには冬の方が適当であるにしても、大暑の候はまた大暑の候で、あらゆる水分を蒸発せしめずには置かぬ。水を欲する龍の属が乾固(ひかたま)って小さくなったと解せられるのはそのためで、またそう解せなければ「暑さ」と「ちゞむ」とが旨(うま)く繫(つなが)らないように思われる。

 この暑さと少しく趣を異にするのが、

 

   西陣

 龍虎織(りゆうこをり)手もあらそうて暑さかな 蓼太

 

であろう。この句の龍は独立していない。敵役の虎と同居の形である。しかし西陣織の模様だから、それに費される糸も華麗なものであろう。織子(おりこ)は大暑に喘(あえ)ぎながら、孜々(しし)としてこの華麗な模様を織りつつある。誰の目にも龍虎とわかるほど完成に近づいて、織子の手はいよいよ速度を加えつつある。京の夏の暑さはその織物が華麗なだけに、特に西陣の世界に集っているように感ぜられる。もしこれが花鳥その他の模様であったら、この句ほど暑さは強くないかも知れぬ。龍虎のような、美しい中にも重苦しい感じを伴うものなるが故に、無限の暑さとなって現れる。変った場合を見つけたものであり、織物の龍虎を描く上からいっても慥(たしか)に成功した句である。

[やぶちゃん注:「孜々(しし)」]熱心に努め励むこと。]

 絵画の龍は多かるべくしてあまり見当らぬ。

 

   待乳山(まつちやま)の社頭に雨をしのぎて

 空は墨に畫龍のぞきぬ郭公(ほととぎす) 嵐雪

   龍宮圖

 八大龍王涼しさうにて小淋しき      乙二(おつに)

 

 待乳山聖天(しょうてん)の別当は金龍山本龍院とある位だから、ここに画龍のあるのは偶然でない。明治四十年の博覧会の時、橋本雅邦の八方睨(はっぽうにらみ)の龍が美術館の天井に掲げられた。あれは雅邦晩年の大作ではなかったかと思う。待乳山の画龍はどんなものか知らぬが、この句は場合が面白い。空は墨を流したようになって雨が降りつつある。社頭に雨を凌ぎながら仰ぎ見る時、画龍は一段と精彩を加え、今にも雲に乗って昇天しそうな気がする。ほととぎすは実景でもあったろうが、これによって季節を現すことにもなっている。ほととぎすの一、二声を耳にし得る以上、仮令(たとい)空は墨のようになっていたにしろ、雷雨や豪雨ではないものと想像する。

[やぶちゃん注:「待乳山(まつちやま)」「待乳山聖天」東京都台東区浅草にある浅草寺の子院の一つである聖観音宗の待乳山本龍院(本尊は歓喜天(聖天)及び十一面観音。「待乳山聖天(しょうでん)」とも称され、浅草名所七福神のうちの毘沙門天も祀られている)及び、それが立地する隅田川べりの小高い丘待乳山を指す。参照したウィキの「本龍院によれば、この丘は推古天皇三年(機械的換算で五九五年)九月『に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと伝えられる』。六年後の推古天皇九年、『この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられる。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れている』、江戸の名所として知られた。

「明治四十年」一九〇七年。

「博覧会」同年三月に上野で開催された第三回目の東京勧業博覧会。明治政府が殖産興業政策の一つとして開いた国内の物産や美術・工芸品の展示博覧会である。

「橋本雅邦」(はしもとがほう 天保六(一八三五)年~明治四一(一九〇八)年)は日本画家。父橋本養邦(おさくに)は武蔵国川越藩の御用絵師で、江戸木挽町の狩野家当主晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)の高弟として同家の邸内に一家を構えており、雅邦そこで生まれた。ウィキの「橋本雅邦によれば、五『歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け』、十二歳の時に『正式に父と同じく養信に入門する。ただし』、『養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である勝川院雅信(しょうせんいん』『ただのぶ)を師としたと見てよい。この時』、『同日に狩野芳崖も入門しており』、七『歳年上で穏和な人柄の雅邦と激情家の芳崖と性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となる。両者は早くも頭角をあらわし』、安政四(一八五七)年に二十三歳で『塾頭となる。芳崖、狩野勝玉、木村立嶽と共に勝川院門下の四天王と称され、特に芳崖とは「勝川院の二神足」と呼ばれ、塾内の絵合わせでは共に源平の組頭を務めた』。安政七(一八六〇)年、『雅邦の号をもらって』、『絵師として独立を許され、池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。しかし当時』、『既に絵画の需要は少なく、また明治維新の動乱に際しては』、『一時』、『藩主のいる川越に避難』した。さらに明治三(一八七〇)年には『木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた』。『転機となったのはアーネスト・フェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようにな』り、明治一五(一八八二)年に行われた『第一回内国絵画共進会では』「琴棋書画図」『が銀印主席を取り、同じく』、出品した「竹に鳩」が『宮内省の御用となっている』。明治一七(一八八四)年に『フェノロサが鑑画会を発足すると』、『早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになった』。明治十九年には『海軍兵学校を辞し、文部省の絵画取調所に出仕するようになった。こうしてフェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした』明治二二(一八八九)年に『芳崖は死去、その絶筆である』「悲母観音」の『仕上げを任された。このため、明治二三(一八九〇)年の『東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると』、『第一次のメンバーに選ばれ』、『これにより』、『名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた』。『東京美術学校では下村観山や横山大観、菱田春草、西郷孤月、川合玉堂、寺崎広業、橋本静水らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい』しかし、明治三一(一八九八)年には『天心が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し』、『日本美術院の創立に参加した』。『以後、雅邦は在野でありながらも』、『画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている』。『雅邦は同門の狩野芳崖ともに、日本画の「近世」と「近代」を橋渡しする位置にいる画家で、芳崖と共に狩野派の描法を基礎としつつも』、『洋画の遠近法等の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した』とある。

「八方睨(はっぽうにらみ)の龍」不詳。識者の御教授を乞う。

「雅邦晩年の大作」雅邦はその発表から凡そ十か月後の、明治四一(一九〇八)年一月十三日に胃癌のために没している。]

 乙二の句は龍宮の中に加えてもよかったのであるが、特に図とあるのでここに挙げた。この涼しさは勿論龍宮の海底にある事から来ている。古来幾多の龍宮文学の中で、龍王に「小淋しさ」を認めたのはあるいはこの句だけかも知れぬ。俳人の観察は往々にして意外の辺に及ぶことがある。

 

 狂ひ龍その風のこす扇かな   龜玉

 

 これは扇の画様をいったものかどうか、はつきりわからない。狂い龍の起した風が現在扇に残っているという意味らしいが、もし扇の面に龍がいないとすると、両者がどこで繫るのかわからなくなって来る。解釈する上からいえば、龍が扇に画いてあった方が便利である。一種の奇想ではあるが、少しひねり過ぎた嫌(きらい)がないでもない。

 

 寒垢離(かんごり)の背中に龍の披露かな 一茶

 

 文身(ほりもの)は美術品の中に入りそうもないが、画には相違ないからここに挙げて置く。御祭の趣向に龍の文身を思いついて、何人かずらりと列ぶと大きな龍を形成するという話があった。文身の持主はとかく得意になつてひけらかす傾があるから、水を浴びる寒垢離の背中に龍の姿を認めて、やや冷かし気味に「披露かな」といったのであろう。一茶一流の滑稽味はあるが、この龍はあまり働いていない。寒の水を浴せられたのでは、背中の龍も小さくなってちぢこまらざるを得ぬ。寒中に水を浴びてまで背中の龍を披露する、御苦労様、というようなところが眼目だとすれば、その程度の句として適当に評価すべきである。これに比べると、同じ背中の龍でも、

 

 駕舁(かごかき)が脊の龍や雲の峯    靑々

 

という明治の句の方が大分面白い。雲の峯は前に支考の拄杖の句があったが、駕舁の黒い背中に施された文身の龍も、遥(はるか)なる雲の峯に呼応して昇天すべき勢を持っている。

[やぶちゃん注:「脊」は「せなか」と読んでいよう。

「靑々」俳人松瀬青々(まつせせいせい 明治二(一八六九)年~昭和一二(一九三七)年)。大阪出身。本名は弥三郎。正岡子規に認められ、明治三二(一八九九)年に上京して『ホトトギス』編集員となった。翌年、大阪朝日新聞社に勤め、同新聞の「俳句欄」の選者を担当し、また、二年後の明治三十四年には俳誌『宝船』(後に『倦鳥(けんちょう』と改題)を創刊して主宰した。]

 明治の句には更に

 

 羅(うすぎぬ)に文身の龍躍りけり 五丈原

 

という句があり、作者がしばしばこれを揮毫するというので有名であった。龍の文身としてはこの方が一茶の句より景気がいいようである。羅に透いて見える龍の姿は雲中飛騰の趣がある、などと余計な解釈を加えないでも、この句を誦(しょう)すれば慥に颯爽たるものが感ぜられる。

[やぶちゃん注:「文身」「いれずみ」。刺青。

「五丈原」弁護士で俳人の宮島五丈原(みやじまごじょうげん 明治八(一八七五)年~昭和七(一九三二)年)か。新潟県生まれで、東京帝国大学仏法科卒。東京で弁護士を開業したが、学生時代より俳句に親しみ、早くから法曹界の俳人として知られた。「黒龍会」に関係し、雑誌『黒龍』の「俳句欄」を担当、また「筑波会」に加入して句作し、『人民新聞』『文芸界』『実業界』などで俳句の選評も行った。明治四二(一九〇九)年には朝鮮で「一進会」が日韓合邦の請願を行った当時、合邦運動を支持して各地で遊説、日韓合邦の機運を高め、後、対支聯合にも参加している策士でもある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]

 

 春の水龍頭鷁首(りようとうげきしゆ)うかびたり 几董

 

 龍頭鷁首の船は好材料たるを失わぬが、これだけしか見当らなかった。明治になってからでも、子規居士の「不忍(しのばず)に鷁首の船や春の風」の如き光景があった位だから、古人はこれを句にする機会が少くなかったろうと思われるのに、存外閑却されているのは遺憾である。あの華かな船を描くには、春の世界を措(お)いて他にない。几董が春水に泛(うか)べ、子規居士が春風に配したあたり、期せずして古今趣を同じゅうするものがある。

[やぶちゃん注:「龍頭鷁首」船首に、それぞれ竜の頭と鷁(中国の想像上の水鳥。白い大形の鳥で風によく耐えて大空を飛ぶとされた)の首とを彫刻した二隻一対の船。平安時代に貴族が池や泉水などに浮かべ、管弦の遊びなどをするのに用いた。]

 

 陽炎や銀貨の龍の天上す   瓊音

 

などという句も明治の人間なら直(すぐ)にわかったのであるが、今日では銀貨の裏面の龍について多少の説明を要する。時代の変遷で如何ともすることが出来ない。

[やぶちゃん注:「銀貨の龍」明治初期の銀貨(明治三(一八七〇)年の旧一圓銀貨幣が最初か)には裏に龍の絵が刻印されていた(参照したウィキの「日本の銀貨で画像で確認できる)が、明治三九(一九〇六)年に龍図を日章に変更する改正が行われ、この時点では、既に、金貨や青銅貨の龍図は姿を消しており、旭日のデザインとなっていたことから、日本の貨幣の龍図は、この時を以って、完全に姿を消した。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕


Kamo

かも   野鴨 野鶩

【音】

     【和名

      加毛】

フウ

 

本綱鳧狀似鴨而小雜青白色背上有文短喙長尾卑脚

紅掌水鳥之謹愿者肥而耐寒數百爲羣晨夜蔽天而飛

聲如風雨所至稻梁一空其肉甘凉九月以後立春以前

卽食之益病人綠頭者爲上尾尖者爲次不可合胡桃木

耳豆豉同食

 新古今吉野なるなつみの川の河よとに

    かもそ鳴なる山陰にして  湯原王

△按鳧種類太多矣頭頸深紅喉下白胸紫有黑點腹毛

 灰白帶淡紫色有黑小斑背灰色有黑斑翅蒼黑翮正

 黑翮上小羽深綠交白蒼觜短啄紅掌卑脚者眞鳬也

 其雌者淡黄赤色交蒼黑毛而作斑翅翮蒼黑色蒼觜

 短啄紅掌卑脚也諸鳬畿内之産爲上九州之産次之

――――――――――――――――――――――

輕鳧 全體黑色頸後帶青有光眼上有淡白條觜黑而

 啄端淡赤腹淡赤白色而有黑縱紋一條脚掌俱赤其

 味亦佳

尾長鳧【一名佐木加毛】 頭頸淡紫色眼邊至腹白色背灰色帶

 碧而黑毛脇有淡赤白條觜黑而兩邊青白色尾二枚

 長二三寸許脚掌共黑其味亦佳

羽白鳬 全體黑而兩脇白頭上有黑長毛如冠翅羽灰

 白色觜碧脚黑其味稍佳本草所謂冠鳬是乎

大明鳬 似羽白鳬而大灰色翅微白頭赤嘴脚共黑

赤頭鳬 俗稱緋鳥頭赤額有淡赤條背碧色帶赤兩脇

 白至腰觜碧脚蒼其味稍好

葦鳧 頭背深灰色腹淡白翅間交青羽脚黃赤

蘆鳧 頭灰色帶赤眼上有小黑條小白條項上亦有胸

 間赤黑腹灰白背灰碧有白條赤黑條黑毛翅交青羽

 觜脚俱黑其味最佳次眞鳧

口鳧 頭頸青黑頸有白環紋背上至尾一條黑色翅有

 緑羽赤羽相雜兩脇赤腰白觜黑脚赤能出没于水數

 百成群相從𢌞泳轉泛故又名車鳧其味與羽白赤頭同

黑鳧 狀類鳬而大其頭觜背共黑胸腹淡黑而鼻有瘤

 脚脛赤蹊翮本白末黑雌者全體灰色鼻瘤小羽脚色

 與雄同肉味有臭氣不佳

 

 

かも   野鴨〔(やあふ)〕 野鶩〔(やぼく)〕

【音、[やぶちゃん注:欠字。]】

     【和名、「加毛」。】

フウ

 

「本綱」、鳧〔(かも)〕は狀、鴨(あひる)に似て、小さく、雜青白色。背の上、文〔(もん)〕有り。短き喙〔(はし)〕、長き尾、卑(ひき)ゝ脚、紅き掌〔(しやう)〕。水鳥の謹愿〔(きんぐゑん)〕なる者〔なり〕。肥えて寒さに耐ふ。數百、羣れを爲し、晨夜〔(しんや)〕には、天を蔽ひて飛ぶ聲、風雨のごとし。至る所の稻梁〔(たうりやう)〕、一〔(いつ)〕に空〔(むな)〕し。其の肉、甘、凉。九月以後、立春以前、卽ち、之れを食〔へば〕、病人に益あり。綠頭(あをくび)の者、上と爲し、尾の尖れる者を次と爲す。胡桃(くるみ)・木耳(くらげ)・豆豉(なつたう)に合はして同食すべからず。

 「新古今」

   吉野なるなつみの川の河よどに

    かもぞ鳴くなる山陰にして  湯原王

△按ずるに、鳧の種類、太〔(はなは)〕だ多し。頭・頸、深紅、喉の下、白く、胸、紫にして、黑き點、有り。腹の毛、灰白、淡紫色を帶び、黑き小斑、有り。背、灰色、黑斑有り。翅、蒼黑、翮〔(はねもと)〕、正黑。翮〔(はねもと)〕の上の小羽、深綠、白を交へ、蒼き觜〔(はし)〕、短き啄〔(はし)〕、紅き掌、卑〔(ひき)〕き脚なり者、「眞鳬(まがも)」なり。其の雌なる者、淡黄赤色、蒼黑の毛を交へ、斑〔(まだら)〕を作〔(な)〕す。翅翮〔(うかく)〕、蒼黑色、蒼き觜、短き啄、紅き掌、卑き脚なり。諸々の鳬〔(かも)〕、畿内の産、上と爲し、九州の産、之れに次ぐ。

――――――――――――――――――――――

輕鳧(かるがも) 全體、黑色、頸の後、青を帶び、光り、有り。眼の上、淡白の條、有り。觜、黑くして、啄の端、淡く赤く、腹、淡赤白色にして、黑き縱(たて)の紋、一條(すぢ)有り。脚・掌、俱に赤し。味、亦、佳なり。

尾長鳧〔(おながかも)〕【一名、「佐木加毛〔(さぎかも)〕」。】 頭・頸、淡紫色、眼の邊り〔より〕腹に至るまで、白色。背、灰色、碧を帶びて黑毛、脇に淡赤白の條、有り。觜、黑くして、兩邊、青白色。尾、二枚、長さ、二、三寸許り。脚掌、共に黑し。其の味、亦、佳し。

羽白鳬(はじろがも) 全體、黑くして、兩脇、白し。頭の上に黑き長毛有りて、冠〔(かんむり)〕のごとし。翅羽〔(はね)〕、灰白色。觜、碧りに、脚、黑く、其の味、稍〔(やや)〕佳なり。「本草」に所謂〔(いはゆる)〕、「冠鳬〔(くわんふ)〕」は是れか。

大明鳬(〔だい〕みやう〔がも〕) 羽、「白鳬〔(しろがも)〕」に似て、大きく、灰色。翅、微〔(かす)かに〕白く、頭、赤し。嘴・脚、共に黑し。

赤頭鳬(あかがしら〔がも〕) 俗に「緋鳥(ひどり)」と稱す。頭、赤く、額に淡赤の條〔(すぢ)〕、有り。背、碧色、赤を帶ぶ。兩脇、白くして、腰に至る。觜、碧。脚、蒼。其の味、稍〔(やや)〕好し。

葦鳧(よしがも) 頭・背、深灰色。腹、淡白。翅の間、青き羽を交ぢふ。脚、黃赤。

蘆鳧(あし〔がも〕) 頭、灰色、赤を帶ぶ。眼の上に小さき黑き條〔(すぢ)〕有り。小さき白き條、項の上にも亦、有り。胸の間、赤黑。腹、灰白。背、灰碧〔に〕、白き條、赤黑き條、黑毛、有り。翅、青羽を交ぢへ、觜・脚、俱に黑し。其の味、最も佳〔にして〕、「眞鳧〔(まがも)〕」に次ぐ。

口鳧〔(くちがも)〕 頭・頸、青黑。頸に白き環紋、有り。背の上、尾に至るまで、一條〔(ひとすぢ)〕の黑色の翅〔(はね)ありて〕、緑羽・赤羽、有り、相ひ雜〔(まぢ)〕はり、兩脇、赤く、腰、白し。觜、黑く、脚、赤し。能く水に出没し、數百、群れを成すなり。相ひ從ひて𢌞〔(めぐ)〕り泳ぎ、轉〔(ころ)〕び、泛〔(うか)〕ぶ。故に又、「車鳧〔(くるまがも)〕」と名づく。其の味、「羽白」・「赤頭」に同じ。

黑鳧〔(くろがも)〕 狀、鳬〔(あひる)〕に類して、大きく、其の頭・觜・背、共に黑く、胸・腹、淡黑にして、鼻に瘤(こぶ)有り。脚・脛〔(はぎ)〕、赤き蹊[やぶちゃん注:恐らくは「距」の誤りで、「蹴爪(けづめ)」のことと思われる。この推定注は東洋文庫の割注に拠った。]。翮本〔(はねもと)〕、白く、末、黑し。雌は、全體、灰色、鼻の瘤(こぶ)、小さく、羽・脚の色は雄と同じ。肉の味、臭(くさ)き氣〔(かざ)〕有りて佳ならず。

 

[やぶちゃん注:既注であるが、独立項なので繰り返す。「鴨(かも)」である。但し、本邦に於ける「かも・カモ」自体は鳥類の分類学上の纏まった群ではない鳥綱 Aves カモ目 Anseriformesカモ科 Anatidae の鳥類のうち、雁(これも通称総称で、カモ目カモ科ガン亜科 Anserinaeのマガモ属 Anas よりも大型で、カモ科 Anserinae 亜科に属するハクチョウ類よりも小さいものを指す)に比べて体が小さく、首があまり長くなく、冬羽(繁殖羽)はで色彩が異なるものを指すが、カルガモ(マガモ属カルガモ Anas zonorhyncha)のように雌雄で殆んど差がないものもいるので決定的な弁別属性とは言えない。また、「本草綱目」も良安も、「鴨」の意で「鳧」「鳬」の字を混用しているのであるが、本書では特に注さない限り、「鳧」も「鳬」も「鴨」の異体字であり、総て上記の広義な「鴨・かも・カモ」を指している。しかし乍ら、何より困るのは、この字を「かも」と和訓せず、「けり」と読んだ場合は、現行の和名では、全く異なる種である、チドリ目 Charadriiformes チドリ亜目 Charadrii チドリ科 Charadriidae タゲリ(田鳧・田計里)属 Vanellusケリ Vanellus cinereus を指すので非常に注意が必要である。荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「カモ」の項に和名の「かも」の語源について、『古来より伝わる方言らしいが』、『その語源は不明』とされながらも、但し、『一説によれば』、『古くはカモドリと呼ばれ』、『浮かぶ鳥の意とする』とあり、また、別の古い呼称である「アイサ」は「万葉集」に「秋沙」と出、これは『秋は訳にあらわれる』鳥である『ことを称したものである』とある。しかしこれでは先の注の繰り返しに終わってしまうので、本文に出る「眞鳬(まがも)」、現在のカモ科のタイプ種である鳥綱カモ目カモ科カモ亜科 Anas 属マガモ Anas platyrhynchos を掲げておこう。以下、ウィキの「マガモ」より引く。『北半球の冷帯から温帯に広く分布し、北方で繁殖するものは冬季は南方への渡りを』行い、『越冬する』。『日本では、亜種マガモが冬鳥として北海道から南西諸島まで全国的に渡来する。北海道と本州中部の山地では少数が繁殖する。 本州中部以南で、本種が繁殖したとの記録がたまに見受けられるが、これはアヒル・アイガモが繁殖した可能性が高い。アヒル・アイガモとマガモは生物学的には同じ種であり、識別のしがたい場合もある』。体長は五〇~六五センチメートル、翼開長は七五センチメートルから一メートルに達する。『繁殖期のオスは黄色のくちばし、緑色の頭、白い首輪、灰白色と黒褐色の胴体とあざやかな体色をしている。メスはくちばしが橙と黒で、ほぼ全身が黒褐色の地に黄褐色のふちどりがある羽毛におおわれる。非繁殖期のオスはメスとよく似た羽色(エクリプス)』(eclipse:鳥類学用語。カモ類のは派手な体色をするものが多いが、繁殖期を過ぎた後に一時的にのような地味な羽色になる個体があり、その状態をかく呼ぶ(エクリプス羽:eclipse plumage)。言わずもがなであるが、この語は「日食・月食」などの「食」を意味する単語である)『になるが、くちばしの黄色が残るので区別できる。幼鳥は、くちばしに褐色みがある』。『非繁殖期は、湖沼、河川、海岸に生息する。群れを形成して生活する。越冬中の』十月末から十二月にかけて『つがいを形成し、春には雄雌が連れ立って繁殖地へ渡る。繁殖期は湖沼、池、湿地の周辺の草地などに生息する』。『食性は植物食が主の雑食』で、『水草の葉や茎、植物の種子、貝などを食べる。水面を泳ぐのは上手だが』完全に潜ることは出来ず、『水中に首を突っ込んだり』、『逆立ちしたりしてえさをとる様子がよく見られる』。『繁殖形態は卵生。繁殖期は』四~八月『で、水辺に近い草地の地上に座って首で引き寄せられる範囲の草をあつめ』、『浅い皿状の巣を作り』、一~十三個(平均十一個)を産む。卵は白色。『他のカモ類と同様、抱卵・育雛はメスのみで行う。卵は抱卵開始から』二十八~二十九日『で孵化し、雛は』四十二~六十日『で飛べるようになる』。『食用として古来から狩猟がおこなわれてきた』種で、『日本においては、鳥獣保護法により狩猟鳥に指定されている種の多くがカモ科であるが、各種カモ肉の中でも本種の肉は質、量ともに最高位とされる。本種の肉には』幾つかの他の種にある『臭みがなく、その点も評価されるポイントになっている』。『狩猟対象としての本種は、オスの特徴である緑色の頭部にちなんだアオクビという呼び方をされることが多い』。また、『古来より』、『人の手で家禽としても飼いならされてきた。アヒルの先祖はこのマガモであり、アヒルとマガモのかけあわせがアイガモ』(マガモ品種アイガモ Anas platyrhynchos var.domesticus)『である。もともと人になつきやすく、都市部の池などではよく餌付けされる。また、建物や街路樹の木のうろに営巣する例もあるという』。『近年になって、アイガモ農法などでアイガモが野飼いされるようになり、それに伴ってアイガモとも本種とも見分けのつかない個体が出現するようになった。そういった兆候を捉えて、アイガモやアヒルと野生の本種の間で遺伝子汚染がかなり進んでいるといった懸念をする研究者もいる』とある。因みに、カモ科Anatidaeはガンカモ科とも言い、五亜科五十八属百七十二種もいる。ウィキの「カモ科によれば、リュウキュウガモ亜科 Dendrocygninae(二属九種)・ゴマフガモ亜科 Stictonettinae(一属一種・ゴマフガモ Stictonetta naevosa。本邦には棲息しない)・ツメバガン亜科 Plectropterinae 一属一種:ツメバガン Plectropterus gambensis。本邦には棲息しない)・ガン亜科 Anserinae(十四属三十七種)・カモ亜科 Anatinae(三十八属百二十二種)に分かれるとある。

 

「野鶩〔(やぼく)〕」「鶩」は前項のアヒル(鳥綱 Aves カモ目 Anseriformes カモ科 Anatidae カモ亜科 Anatinae マガモ属 Anas マガモ Anas platyrhynchos 品種アヒルAnas platyrhynchos var.domesticus)を指す。

「雜青白色」青色と白色が入り混じったような色。

「喙〔(はし)〕」良安は自分の記載でもクチバシを「觜」「嘴」「喙」「咮」、或いは、誤用として「喙」の(つくりの)上部を落してしまった「啄」(何となく判るので訂正注をしていない)という複数の漢字を以って「はし」或いは「くちばし」の意で使用している。「本草綱目」では或いは限定的な別な意味を与えているの可能性もないわけではないかも知れぬが、少なくとも良安の記載では、これらを総て「くちばし」の意として同義で使っていると読むしかない。「クチバシ全体」とか「クチバシの端の部分」とかの意味を与えて差別化して解読しようとも試みたが、どうもそうした厳密な使い分けを彼はしていないことが本項の記載からも窺えるのである。

「掌」部位名として盛んに出てくるが、無論、後肢の甲の部分を指している。

「水鳥の謹愿〔(きんぐゑん)〕なる者〔なり〕」「謹愿」の「愿」も「つつしむ」で畳語。「慎み深いこと」。東洋文庫訳は『謹しみ深く誠実な水鳥である』

「晨夜〔(しんや)〕」朝と夜。

「聲」音。

「稻梁〔(たうりやう)〕」稲と粟( イネ目イネ科エノコログサ属アワ Setaria italica)。

「一〔(いつ)〕に空〔(むな)〕し」一瞬にして皆食い尽くしてしまう。大袈裟で、穀類の害鳥ではないけれども、主なカモ類は事実、好んで穀物を食べる。

「豆豉(なつたう)」ルビは「納豆」。以下に見るように製造法や納豆の紀元ではあるから、この良安の斬新なルビは誤ってはいないとは言える。現行では中華料理食材としての「トウチ」(正確な中国語のカタカナ音写は「トウシ」「ズシ」「ヅシ」)で読め、それで正しく対象を理解出来る人が多くなった。黒大豆に塩を加えて発酵させた上で水分を減じた食品・香味料である。ウィキの「豆豉」によれば、『作り方としては、黒大豆を水で戻してから、蒸し、塩、麹と酵母の混ざったものを加え、発酵させた後、露天で水分を減らして仕上げる』。『現代の日本の浜納豆』『や大徳寺納豆などの寺納豆によく似ており、これらは中国の豆豉が奈良時代に日本に伝わったものとされている』『産地によって、麹カビの作用が強いものと、酵母菌の作用が強いものなどの違いがあり、風味も異なる』。『塩辛く風味が強いが、アミノ酸などのうまみ成分を多く含み、まろやかなコクとふくよかな香りもあわせ持つため、料理の味に奥行きを持たせることができる。刻んだものを回鍋肉や魚介類の炒め物などに用い、また、素材と合わせて蒸し、味と香りを付けるのにも用いられる。広東料理、四川料理、湖南料理などの調味料として多用される』とある。

「吉野なるなつみの川の河よどにかもぞ鳴くなる山陰にして」「新古今和歌集」「巻第六 冬歌」の中の「題知らず」の前書を持つ湯原王(生没年不詳:奈良時代の皇族で歌人。天智天皇の孫で志貴皇子の子。無官位であったらしく、政治面での足跡は残っていない一方、「万葉集」には天平年間初期(七三〇年頃以降)に詠まれたと推定される和歌が十九首も採録されており、万葉後期の代表的な歌人の一人)の一首(六五四番歌)。整序(「万葉集」の「巻第三」の「雑歌」(三七五番歌)の原歌に概ね基づいて補正)をして示すと、

 

 吉野なる夏實(なつみ)の河(かは)の川淀(かはよど)に鴨(かも)ぞ鳴くなる山影にして

 

最後の「山影」は諸本は「山陰」とするが、どうもこの「陰」の字を私は好まぬ。「山蔭」としたいがそれでは諸本に反するので、「万葉集」の原文のそれを用いるという裏技で示した。「夏實の河」は吉野宮滝の上流の地名で、奈良県吉野町菜摘。ここ(グーグル・マップ・データ)。湯原王は鴨を見てはいない。向うの山蔭に淀みがあってそこで鳴いているのを聴いている(「なる」は伝聞推定の助動詞)のである。

「卑〔(ひき)〕き」「低き」に同じい。短い。

「翅翮〔(うかく)〕」既出既注。鳥の翼全体のことを指しているようである。

「輕鳧(かるがも)」マガモ属カルガモ Anas zonorhynchaウィキの「カルガモ」によれば、旧分類・旧呼称では本邦のそれは亜種カルガモ Anas poecilorhyncha zonorhyncha とされた(二〇一二年九月に日本鳥学会から発行された「日本鳥類目録改訂第七版」より種小名はzonorhyncha に変更された)。同亜種は日本・ロシア東部・中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国に分布し、『日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)する』。『和名は「軽の池」(奈良県橿原市大軽周辺とする説もあり)で夏季も含めて見られたカモであったことに由来すると考えられている』。翼長はで二五・四~二七・六センチメートル、はそれよりやや小型。『次列風切の光沢は青紫色で、次列風切や三列風切羽縁の白色部が小型で不明瞭』。『少なくとも』、『亜種カルガモはオスの腹部の羽衣が濃褐色で、羽毛外縁(羽縁)の淡色部が小型になり』、『胸部との差異が明瞭』で、『尾羽基部を被う羽毛(上尾筒、下尾筒)が光沢のある黒』を呈する。『メスは胸部と腹部の羽衣の差異が不明瞭で、上尾筒や下尾筒が黒褐色で羽縁が淡色だったり』、『淡色の斑紋が入る』とある。メディアが一列に並んで引っ越しをするカルガモ親子を盛んに採り上げて、可愛いイメージばかりが先行しているが、古来、『イネなどを食害する害鳥とみなされ』てきた。『本種は雑食性の性質が強く、植物質のエサ以外にタニシなども好んで食べ肉に臭みが出るので』、『日本ではマガモのように賞味される機会は少ないものの、マガモより食味が極端に落ちるようなことはなく、植物食の傾向が強い時期の肉は、マガモと並んでうまいとされる』。『日本のカルガモはアヒルとの種間雑種が存在しているとされる』。『アヒルの原種はマガモで』、三『代も野生で放置されると』、『飛翔するほどになるが、日本のカルガモもアヒルと交雑することで、元々は狩猟の対象であり、ヒトを恐れていたはずのカルガモも前述のようなヒトを恐れない行動をとるようになっていったと考えられ、都市部のカルガモの多くがアヒルとの雑種であり、遺伝子汚染が進行している。照明の多い都市部では夜間に飛翔する個体もある』。『外形に関する遺伝形質はカルガモの方が強いため、見た目はカルガモでも』、『性格はアヒルに近いものが現れたと分析され』ているともある。

「尾長鳧〔(おながかも)〕」マガモ属オナガガモ Anas acutaウィキの「オナガガモ」から引く。『ユーラシア大陸の北部と北アメリカ北部の寒帯から亜寒帯にかけての地域で繁殖し、冬季はユーラシアおよび北アメリカの温帯から熱帯地域やアフリカ北部に渡り越冬する。カモ類の中ではマガモ、コガモ』(マガモ属コガモ Anas crecca)、『ハシビロガモ』(マガモ属ハシビロガモ Anas clypeata)『に並んで分布域が広い。アジア極東部で繁殖するものは、同じ個体が年によって日本などのアジア地域や北アメリカと異なった地域で越冬することが、足環を使った標識調査で確認されている』。『日本では全国に冬鳥として多数』、『渡来する』。全長はで六一~七五センチメートル、で五一~五七センチメートル、翼開長は八〇~九五センチメートル。『マガモよりもわずかに大きい。他のカモより比較的首と尾羽が長くスマートな体型をしている。オスの方が大きいのは、もともとオスの方が大きいのに加え、尾羽の中央』の二枚が十センチメートル『ほども細長く伸びることによる』。『オス成鳥は頭部が黒褐色、首から胸、腹まで白色で、その境界では白い帯が首の側面から後頭部に切れこむ。体は黒い横しま模様が細かく走る。背中に蓑のような黒い肩羽があり、翼と尾も黒いが、腰に黄白色の太い帯が入る。また、くちばしは中央が黒くて側面が青灰色をしている。メスは頭部は褐色、その他の部分は黒褐色に淡褐色の縁取りがある羽毛に覆われ、全体的に黒褐色と淡褐色のまだら模様に見える。くちばしは全体が黒い』。『なお』、『非繁殖期のオスはメスによく似たエクリプスに変化するが、くちばし側面の青灰色が残るので区別できる』。『その他』、『メスが雄化した個体や、他のカモ類との雑種(同属のマガモ・コガモ』『などとの)もまれに記録される』。『越冬地では湖沼、河川、海岸などに生息する。群れを形成する。日本では、各地のハクチョウ渡来地において、ハクチョウ類の周囲に多数群がっているのが観察される』。『食性は雑食性で、植物の種子や水草、貝類などを食べる。昼間は休息をとり、夜間に餌場に移動して採餌するが、餌付けされている地域では日中も活動する。ハクチョウ渡来地ではハクチョウの餌付けの際に殺到する様が見られる。また、北アメリカでは多数飛来するオナガガモに作物を食害されないように、ムギなど穀物の一部をわざと収穫せずに畑に残し、オナガガモに食べさせている』。『繁殖期は』五月から七月『で、抱卵・育雛はメスが行う』。『オスはコガモのような高い鳴き声の他「ピル、ピル」などいくつかの違った声で鳴く。メスの鳴き声はマガモのように「ガーガー」である』。良安は「其の味、亦、佳し」と言っているが、『マガモ同様、肉が食用として賞味されるが、その味はマガモに較べて水っぽく、劣っているとされる』とある。

「佐木加毛〔(さぎかも)〕」「鷺鴨」。金沢美術工芸大学の公式サイト内のこちらの「梅嶺百鳥畫譜續篇」の図よって「尾長鴨」の別称であることが判る。左の図の添書きに『長尾鳬』(「長」は略字体)とあって、その下に割注で、やや見えにくいが、『サギガモ』と記されていあるからである。

「羽白鳬(はじろがも)」代表的な潜水採餌行動を採り、翼に白色帯が出ることからこう呼称されるカモ科ハジロ属 Aythya のハジロガモ類のこと、海湾河口・大きな湖沼に棲息する。潜水に適応して足が有意に体の後方に附いている。スズガモAythya marila(本邦では冬鳥として(亜種スズガモとも)が海岸に多数渡来し、日本に渡りする海性のカモ類では、最も渡来数が多い種とされる。東京湾や愛知県名古屋市港区と海部郡飛島村に跨る藤前干潟などでは毎冬、大群が見られる。北海道東部では夏でも観察されている)・キンクロハジロ Aythya fuligula(本邦では冬季に九州以北に越冬のために飛来し、北海道では少数が繁殖する)・ホシハジロAythya ferina(本邦では冬季に越冬のため飛来し、北海道では少数が繁殖する)など、多様な種が含まれるが、ここで良安は「頭の上に黑き長毛有りて、冠〔(かんむり)〕のごとし」と言っているのは明らかにキンクロハジロ Aythya fuligula を指している。同種に繁殖期のは後頭の羽毛が著しく伸長して特に「冠羽」と呼ばれ、英名でも“Tufted duck”tufted:総(ふさ)のある)であるからである。グーグル画像検索「Aythya fuligulaの画像を見られたい。

「大明鳬(〔だい〕みやう〔がも〕)」この解説中の「白鳬〔(しろがも)〕」を前の「羽白鳬」のことと読み換えて、ハジロ属と考えるなら、一部に疑問はあるが、「頭、赤し」というところで、私は前に掲げたホシハジロAythya ferina ではあるまいかと考えたグーグル画像検索「Aythya ferinaを見られたい。同種のは繁殖期には頭部から頸部の羽衣がかなり鮮やかな赤褐色を呈するからである。

「赤頭鳬(あかがしら〔がも〕)「緋鳥(ひどり)」この二種の名で呼ばれているのは、マガモ属ヒドリガモ((緋鳥鴨)Anas penelope である。ウィキの「ヒドリガモによれば、『日本で最も普通に見られるカモ類で』、『淡水型カモの一種で』あるが、『他の淡水型カモよりも海上に出る傾向がある』。『ユーラシア大陸』北部『の寒帯地域やアイスランドで繁殖し、冬季はヨーロッパ、アフリカ北部、インド北部、中国南部、朝鮮半島、日本などに渡り越冬する』。『日本では冬鳥として全国に渡』ってくるが、『北海道では厳冬期には少なく、春と秋によく見られる』。全長はで約五十三センチメートル、で約四十三センチメートル、翼開長は六十八から八十四センチメートルで、『オスの成鳥は額から頭頂がクリーム色』を呈し、『顔から頸が茶褐色、胸は薄い茶色である』。『体の上面は灰色で』、『黒い細かい斑が密にある。下尾筒は黒い。メスは全体に褐色、他のカモ類と比較して赤褐色みが強く、腹は白い』。『オスのエクリプスはメスと似ているが、雨覆羽』(あまおおいばね:翼の前面を数列に並んで覆っている羽毛。単に「雨覆」とも言う。風切羽の基部を覆い、前方からの空気の流れを滑らかにする役割がある。後列のものは大きく、「大雨覆」と呼んで区別するほか、上面のものを「上雨覆」、下面のものを「下雨覆」、前面を「前縁雨覆」などとも呼称する)『が白く全体に赤みが強い』。『くちばしはやや短めで』、『雌雄とも青灰色で先端が黒い』。『体の下面は白い。次列風切羽には白黒緑の模様がある』。『脚は灰黒色』。『頭部の形状は』『他のカモ類と異なり』、『台形に近い形状であること』を特徴とする、とある。良安はやはり「其の味、稍〔(やや)〕好し」と言っているが、『日本では鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律により、狩猟鳥として狩猟鳥獣対象の一種に指定されて』おり、『肉が食用に賞味されるが』、『臭みがあるのであまり好まれない。また』、『マガモなどと比較して小さく、得られる肉量が少ないことも手伝って狩猟される機会は少ない』。『養殖場の海苔』『や、栽培している大麦を食害することがあるため』、『害鳥として嫌われることがある』ともある。

「葦鳧(よしがも)」マガモ属ヨシガモ Anas falcata。日本へは冬季に越冬のために渡りをし、北海道では少数が繁殖する。繁殖期のは額から後頭・眼先・頬の羽衣が赤紫を呈し、眼から後頭の羽衣は緑色となる。詳しくはウィキの「ヨシガモを参照されたい。

「蘆鳧(あし〔がも〕)」この名称は広義の鴨と同義でも用いられるが(カモ類がアシの生えている所に群生するから)、私はこれは「あしがも」ではなくて「あじがも」なのではないか? とすれば、色彩上、やや不審はあるものの、マガモ属トモエガモ Anas formosa のことではないか? と推理したウィキの「トモエガモによれば、日本へは越冬のために渡りをし、『体上面の羽衣は褐色』で、『嘴の色彩は黒い』。『オスの繁殖羽は頭部に黒、緑、黄色、白の巴状の斑紋が入り』、『和名の由来になっている』。種小名formosaは「美しい」の意』でもある。『オスの非繁殖羽(エクリプス)は全身の羽衣が褐色で、眼から頬にかけ不明瞭な黒い筋模様が入る』。『メスは全身の羽衣が褐色で』、『黒褐色の斑紋が入』り、『嘴基部に』は『白い斑紋が入』って『喉が白い』とある。何より、良安が「其の味、最も佳〔にして〕」と言っているように、本種は『食用とされることもあった。またカモ類の中では最も美味であるとされる。そのため』、『古くはアジガモ(味鴨)や単にアジと呼称されることもあった』。『アジガモが転じて鴨が多く越冬する滋賀県塩津あたりのことを指す枕詞「あじかま」が出来た』とあるから、この「あじがも」の呼称は存外、古いことが知れるのである(太字下線やぶちゃん)。

「口鳧〔(くちがも)〕」マガモ属ハシビロガモ Anas clypeata の異名。本邦へは冬季に越冬のために渡りをし、北海道で少数が繁殖する。詳細はウィキの「ハシビロガモを読まれたいが、『嘴は幅広く、和名の由来になって』おり、辞書類にもクチガモは同種の異名として載っている。『英名shovelerもシャベル型の嘴に由来する』。『後肢は橙色』で、『オスは雨覆が青灰色』であるが、『繁殖期のオスは頭部が光沢のある暗緑色』となり、『胸部や腹部側面の羽衣、尾羽は白い』。『体側面から腹部の羽衣は赤褐色で』、『尾羽基部を被う羽毛(上尾筒、下尾筒)は黒』く『嘴は黒い』。『メスは雨覆が灰色で』、『非繁殖期のオス(エクリプス)やメスは全身の羽衣が褐色で、黒褐色の斑紋が入る』。『嘴は褐色で、外縁が橙色』を呈し、『嘴には黒い斑点が入る』。『繁殖地では開けた草原に生息し、越冬地では河川、湖沼、池などに生息』し、『越冬地では数羽から十数羽の群れを形成するが、数十羽の群れを形成することもある』。『食性は植物食傾向の強い雑食で、種子、プランクトン、昆虫、軟体動物、魚類などを食べ』、『属内では動物食傾向が強く、カイアシ類、ワムシなどの動物食を食べる比率が』三十%を超えることもあるとする。『水面に嘴をつけて』、『水ごと』、『食物を吸い込み、嘴で食物だけを濾し取り』、『水だけを吐き出して』摂餌するとある辺り(下線やぶちゃん)、良安の謂う、「能く水に出没し、數百、群れを成すなり。相ひ從ひて𢌞〔(めぐ)〕り泳ぎ、轉〔(ころ)〕び、泛〔(うか)〕ぶ。故に又、「車鳧〔(くるまがも)〕」と名づく」というのとよく一致するように思われるが、如何?

「黑鳧〔(くろがも)〕」カモ科クロガモ属クロガモ Melanitta nigraマガモ属でないので注意! ウィキの「クロガモによれば、本邦へは南下して渡ってきて、『越冬する。北海道では幼鳥が観察されたことがあり、繁殖している可能性もある』。全長四十四~五十四センチメートル、翼開長は七十九~九十センチメートルで、体重は六百グラムから一・四キログラムで、『種小名nigraは「黒い」の意で、和名と同義』である。『嘴の色彩は黒』く、『後肢の色彩は黒や黒褐色』で、『オスの成鳥は全身の羽衣が黒い』が、『メスや幼鳥は全身の羽衣が黒褐色』を呈し、『メスには頬や喉に汚白色や淡灰色の明色斑が入』り、『オスの幼鳥は上嘴に黄色部があ』って、オスの『上嘴基部は黄色く隆起する』とある。]

2017/11/23

老媼茶話巻之六 大鳥一平

 

老媼茶話卷之六

 

     大鳥一平

 

 出羽の國最上の御城主鳥井左京亮忠政へ仕へける、木田小兵衞盛秀といふ者、有(あり)。稻冨(いなとみ)流の鐵炮に能(ヨク)熟し、百發百中也。忠政の御舍弟久五郎盛次、甚(はなはだ)鐵砲の術を好み給(たまひ)、是に依(よつ)て小兵衞、盛次へ進仕(しんし)せり。

 或時、盛次、緣へ立出(たちいで)玉ひ、鳶の天に舞(まふ)を見て、小兵衞を召(めし)て、是をうたしむ。

 小兵衞、鐵炮の筒先を空をむけ、鳶の翩羽(ヘンハ)に隨ひて鐵砲を付𢌞(つきまは)し、終(つゐ)に是を打(うち)おとせり。

 小兵衞、南隣の水野何某の境に、大きなる檜(ひのき)の木、有。此木(コノキ)のふし穴へ、年每に、すゞめ、巣をくひて、子母(シボ)、相哺(アヒホシ)て、たのしむ。

 ある春、烏(からす)一羽とび來り、かの雀の巣をくひしふし穴を覗き懸り、數度、啄(タク)すといへども、穴、ちいさくして、烏の口ばし、底へとゞかず。母雀、

「ちうちう。」

と飛(とび)かけり、鳴(なき)もだへ、かなしむ。

 水野が小娘、是をみて、垣ごしに小兵衞をよび、

「此烏、追(おひ)のけ玉はれ。」

といふ。

 盛秀、三匁(もんめ)の鐵炮を以て、あひだ弐拾間斗(ばかり)にして、よくねらひ、からすの頭をあぐる處を打(うつ)に、口ばしを打切(うちきり)、烏、地に落(おち)たり。

 當り、こまかなる事、如斯(かくのごとし)。

 其頃、最上に大鳥一平と云(いふ)溢(アブ)れ者ありて、樣々の惡事をなす。

 或時、淨土寺の松原にて藤山源八といふ士を切殺(きりころ)し、つらの皮を裂(ハギ)、衣、淸水へ抛入置(なげいれおき)たり。

 此御詮義、強くして、

「大鳥組(ぐみ)の溢れものゝ所爲(しよゐ)たり。」

と明白に知れければ、足輕に被仰付(おほせつけられ)、

「一平を始(はじめ)手下のあぶれもの、見かけ次第、切(きり)とめにも生捕(いけどり)にもせよ。」

となり。

 其年の春の最中、峯寺の觀音の開帳あり。折ふし、山はさくらの盛(さかり)にて、貴賤群集(ぐんじゆ)するをり、大鳥一平、手下の溢れもの弐人召(めし)つれ、土手下を通りけるを、一平打手(うつて)の足輕ども、是を見付(みつけ)、相圖の拍子木打(うち)て、十四、五人、集まり、一平を押(おし)つゝむ。

 一平、是を見て、

「ものものしや。蠅蟲めら。」

と云(いひ)て、先進みし足輕を、立(たて)けさに割居(わりす)へ、左へ𢌞る男、

「とつた。」

といゝてだき付(つく)を、

「何を、とつた。」

と、いゝしまに、立首(たてくび)、かい摑み、ふり上(あげ)て打付(うちつけ)たるに、蛙(かはづ)を踏(ふみ)ひしぎたるやうに、手足をひろげ、半死半生になる。

 此折も、足輕、弐、三人、切殺され、大勢手負けれども、一平組のあぶれもの壱人も打不取(うちとらず)。

 それより、一平、跡をくらまし、いづくへ行(ゆき)さりけん、行方なし。

 此故に、

「家中の若きものども、一平、手がら次第に切(きり)とゞむべき。」

由、被仰付、一平におとらぬ荒もの共、家中に多かりしかば、我ましに心懸(こころがけ)ける。

 或時、小兵衞、下人壱人、召(めし)つれ、近山鳥打(とりうち)に行(ゆき)けるが、谷川をへだてゝ、大鳥一平、只、ひとり來(きた)る。

 下人、是をみて、小兵衞に、

「かく。」

といふ。

 小兵衞、

「幸(さひはひ)。」

と、よろこび、片原の杉の森に稻荷の小社有(あり)ける木陰に隱れ、弐玉をこめ、待居(まちゐ)たる。

 かくとも知らず、一平も、すそをまくり上(あげ)、谷川のなかば、越來(こえきた)りける折、小兵衞、杉森より出向ひ、

「いかに、一平。おのれ、大惡事をなしながら、いづくへ逃隱(にげかく)るゝぞ。天命、只今がかぎり也。最後のねんぶつ、申せ。」

と、鐵砲の筒先をおしむけ、頰付(ほほづけ)にしてふたを拂(はらふ)。

 一平、大の眼(まなこ)を見ひらき、

「ひきやうなやつ。鐵砲を捨(すて)、太刀にて勝負せよ。」

と、小兵衞を目がけ、一文字に川をわたり來(く)る。

 間(あひだ)拾間斗(ばかり)にて、鐵砲を打(うち)はなす。

 あやまたず、一平が胸板を後ろへ打拔(うちぬき)、すでに倒れんとせしが、齒がみをなし、立直(たちなほ)し、川岸へおどり上り、太刀を拔(ぬき)て切懸(きりかか)る。

 小兵衞も鐵砲をすて、刀を拔合(ぬきあは)せ、立(たち)むかい、散々に切(きり)むすぶ。

 一平、さしもの荒ものなれども、鐵砲の痛手によはり、血を吐(はき)てうつぶしにたをれけるを、おこしもたてず、首を切(きる)。

 此時、一平がさしける刀、岩木の國安三尺壱寸、無類の大ものきれ也。

 是より、大鳥が惡靈、小兵衞子孫迄、崇りけると言傳へけり。

 

[やぶちゃん注:最後の一文のみが怪談の実録武辺物。

「大鳥一平」鳳(おおとり)一平とも言うらしい。実在した人物で、豊臣秀吉の死から徳川幕府ができるまでの混乱期に京都を中心に暴れ回った「バサラ」の棟梁らしい。三田村鳶魚の「江戸ッ子」(但し、グーグルブックスでの視認)によれば、武蔵国大鳥の生まれの非武士であったが、本多百助なる旗本の徒士(かち)となって武士階級に入り込み、後には大久保石見森の目付大久保信濃なる人物の中小姓となった後、三田村曰く、『武家奉公人連盟とでも』いうような、武家使用人らの裏社会的仮想集団の首魁を気取って、乱暴狼藉を働き、果ては、江戸幕府(初期)から指名手配されて、捕縛・処刑されてしまったらしいウィキの「旗本によれば、決定的なモデルは大鳥居逸兵衛(大鳥逸平:天正一六(一五八八)年~慶長一七(一六一二)年)を首魁とする「大鳥組」(中間・小者といった下級の武家奉公人を集めて徒党を組み、殊更に異装・異風で男伊達を気取って無頼な行動をとった)で、彼らがその後の不良武士暴力集団としての「旗本奴」の先駆とされるようである。但し、ここはそうした「ばさら一平」の伝承譚の地方での一つとして読めばよかろう。

「出羽の國最上の御城主鳥井左京亮忠政」徳川家家臣で下総国矢作藩主・陸奥国磐城平藩主・出羽国山形藩主・壬生藩鳥居家初代である鳥居忠政(永禄九(一五六六)年~寛永五(一六二八)年)。ウィキの「鳥居忠政」によれば、三河国渡村(現在の愛知県岡崎市)出身。天正一四(一五八六)年に家康に従って上洛、従五位下左京亮に叙任されている。慶長五(一六〇〇)年、『父の元忠が伏見城攻防戦で討死し、長兄の康忠は早世していたので家督を継ぎ、下総矢作藩主となる』。『忠政は家康の命令で関ヶ原の戦いの時は江戸城留守居役を勤めてい』るが、『戦後に父の戦功によって陸奥磐城平に』十『万石を与えられ、亡父元忠のために長源寺を建て』、『家康から香花料として』百『石を賜っている』。『両度の大坂の陣では江戸城の留守居役を務めた』。元和八(一六二二)年に最上氏が改易された後を受け、出羽山形二十二万石に加増移封され、『妹婿で新庄藩主戸沢政盛、娘婿で鶴岡藩主酒井忠勝、従弟で上山藩主松平重忠らと共に』『徳川氏の譜代大名として伊達政宗などの東北諸大名の監視を命じられた』。享年六十三で山形で死去している。従って、話柄内時制は元和八(一六二二)年から寛永五(一六二八)年となるが、大鳥一平はどうもそれよりずっと以前に亡くなっている感じである。なお、磐城平藩の藩庁磐城平城は現在のいわき市平。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「木田小兵衞盛秀」不詳。「きだこひょうえもりひで」(現代仮名遣)と読んでおく。

「稻冨(いなとみ)流の鐵炮」戦国から江戸初期にかけての武将で砲術家、丹後国弓木城主であった稲富祐直(いなとみすけなお 天文二一(一五五二)年~慶長一六(一六一一)年)が創始した流砲術の流派。ウィキの「稲富祐直」によれば、『祖父・稲富祐秀から砲術を学び、それを発展させて稲富流砲術を創始したといわれている。合戦の際に具足を』二『枚重ねて着ていたため「二領具足」の異名を持つ』。始めは『丹後一色氏に仕え、弓木城で織田勢との激戦を繰り広げ、少数ながらこれを撃退し続けた。しかし、主家の当主である一色義定が滅ぶと』、『織田方の細川忠興に仕えた』、慶長二(一五九七)年の『慶長の役では蔚山倭城』(ウルサンじょう:現在の大韓民国蔚山広域市に日本人が築いた日本式の城)』『に籠もって活躍したという』。慶長五年の『関ヶ原の戦いにおいては、細川氏の大坂屋敷に居て、忠興の妻である細川ガラシャの警護をしていたが、ガラシャが石田三成の人質作戦に巻き込まれて死去すると、自身は砲術の弟子に助けられて屋敷から逃亡したという。そのため』、『戦後に忠興から恨まれて殺されそうになったが、徳川家康にその砲術の腕と知識を惜しまれて助命され』ている。『その後は、松平忠吉や徳川義直に仕えたという。後に剃髪して一夢、理斎と号した。井伊直政や黒田長政、浅野幸長なども指南を受けた』とある。

「忠政の御舍弟久五郎盛次」不詳。

「翩羽(ヘンハ)」ここは羽ばたいて飛び交うことを言っていよう。

「相哺(アヒホシ)て」餌を与えて養って。

「三匁(もんめ)」口径(弾丸直径)十二・三ミリメートル相当。

「弐拾間」三十六メートル三十六センチ。

「淨土寺」福島県いわき市大久町大久字中ノ内に真言宗の浄土寺があるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、藩庁磐城からえらい離れた位置にあるので、ここかどうかは判らぬ。

「藤山源八」不詳。

「大鳥組(ぐみ)」大鳥一平を首魁とした不良暴力集団。

「切(きり)とめ」その場で斬り殺すことであろう。

「峯寺の觀音」現在の福島県石川郡玉川村大字岩法寺にある白華山巌峯寺(はっかざんがんぽうじ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。源頼義・義家父子らの前九年の役出兵の途次に始まるという古刹で、観音山があった。そもそもがこの寺の奥の院はその観音山の頂上付近にあって、修行の聖地であったらしいが、現在は福島空港建設構想によって霊場であった観音山は徹底的に削られてしまい、同寺の奥の院も低地に移築されてしまった。以上は特別栽培米を作っている「FARM 巌峯寺」の公式サイト内のこちらに拠った。

「蠅蟲」個人的にはこれで「うじむし」と読みたくなる

「立(たて)けさ」「縱袈裟」か。「袈裟懸け」は通常、刀で相手を肩から斜めに切りおろすことであるが、ここは肩から真っ直ぐに斬り、人体を左右に観音開きに斬ることを言っているか。、

「立首(たてくび)」首から上の部分の謂いか。

「手がら次第に」功名そのままに。手柄として十分に許すによって。

「切(きり)とゞむべき」問答無用に斬り捨ててしまえ、斬り捨てて構わぬ、の謂いか。

「我ましに」読みも意味も不明。「我(われ)先にと」の謂いか?

「近山」不詳。或いは「近き山」のことで固有名詞ではないのかも知れぬ。

「片原の」「傍らの」。

玉」弾丸を二つ重ねて貫通力を強めたか。

をこめ、待居(まちゐ)たる。

「ねんぶつ」「念佛」。

「ふた」火蓋(ひぶた)。火繩銃の「火皿を覆う蓋」のこと。一般にはよく使う「火蓋を切る」で、弾を撃つためには、この火蓋を開いて、火繩の火を火薬に点火する。その「切る」「開く」「外す」をここでは「拂(はらふ)」と言っているのである。

「ひきやう」「卑怯」。

なやつ。鐵砲を捨(すて)、太刀にて勝負せよ。」

「拾間」十八メートル十八センチ。

「立直(たちなほ)し」立ち直り。ターミネーターみたようなやっちゃな。

川岸へおどり上り、太刀を拔(ぬき)て切懸(きりかか)る。

「おこしもたてず」ちゃんと起して、改めて斬首するのではなく、地面に俯せになっている大鳥の首を鉈斬りか鋸挽きに切断したものであろう。想像してみても、おぞましく格好悪いし、極悪人とは言え、泥だらけの顏のままに、挽き斬られたのでは、ちょっと大鳥も可哀想な気がしてくる。さればこそ、最後の唐突な「是より、大鳥が惡靈、小兵衞子孫迄、崇りける」が読者に、案外、腑に落ちるのかも知れぬ。少なくとも私は初読時、そうだった。

「岩木の國安」刀工の名らしいが、不詳。

「三尺壱寸」刀身だけで九十六・九六センチメートル。異様に長い。

「無類の大ものきれ也」無双の大名物の名大刀であった。]

柴田宵曲 俳諧博物誌(6) 龍 二

 

       

 

 龍というものはしばしば植物の形容に用いられる。その代表的なものは梅で、臥龍梅(がりょうばい)は江戸以来の名所として知られていた。『江戸名所図会』の亀戸(かめいど)の条を見ると、「同所淸香庵(せいかうあん)にあり。俗間(ぞくかん)、梅屋敷と称す。其(その)花一品(いつひん)にして重辨(ちやうへん)潔白なり。薰香(くんかう)至(いたつ)て深く、形狀宛(あたか)も龍(りやう)の蟠(わだかま)り臥(ふす)が如し。園中四方數十丈が間に蔓(はびこり)て、梢(こずゑ)高からず。枝每(ごと)に半(なかば)は地中に入(いり)、地中を出(いで)て、枝莖(ゑけい)を生じ、何(いづれ)を幹(みき)ともわきてしりがたし。しかも屈曲ありて、自(おのづから)其勢(いきほひ)を彰(あらは)す。仍(よつて)「臥龍(ぐわりう)」の號(な)ありといへり。梅譜(ばいふ)に『臥梅(ぐわばい)』『梅龍(ばいりう)』抔(など)いへるにかなへり」という委しい説明が出ているが、何時頃からあったものとも書いてない。しかし元禄の俳人に、

 

   臥龍梅

 白雲の龍をつゝむや梅の花   嵐雪

 

の句があるのだから、その頃から已に龍の括り臥すが如き形状を具えていたのであろう。

 

   臥龍梅

 世にひゞく梅や榮螺(さざゑ)の奥座敷

             五百武(いほだけ)

 

というのも同じ梅を詠んだものであるが、少しひねり過ぎて嵐雪の句ほど明瞭でない。

[やぶちゃん注:「江戸名所図会」の引用(「卷之七 搖光之部」の「福聚山普門院」(現在の江東区亀戸(ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、この臥龍梅があったのはこの寺の東北位置で、元は「浅草」(「本所埋堀」とも)の伊勢屋彦右衛門の別荘であった。後で宵曲も述べているが、現在は建物も梅も全く存在せず、「梅屋敷跡」として位置だけが確認出来るが(ここ(グーグル・マップ・データ))、ゴッホも惚れ込んだ、かの歌川広重の「名所江戸百景」の中の有名な一枚「亀戸梅屋敷」もここで描いたものである。ここの情報は夢見る獏(バク)氏のブログ「気ままに江戸  散歩・味・読書の記録」の「梅屋敷跡(亀戸散歩 大江戸散歩)」を参考させて戴いた)にある真言宗寺院で「亀戸七福神」の内の「毘沙門天」を祀る)に続いて出る)は、所持する「ちくま学芸文庫版」と照合したところ、宵曲のそれは正確でないことが判明したので、国立国会図書館デジタルコレクションの明治二六(一八九三)年博文館刊の同書の当該ページの画像を視認して、全面的に書き換えた。但し、読みは一部に限り、一部では私の判断で濁音を附し、記号も追加した。なお、原典は本文にも出る通り、「臥龍梅」に「がりうはい」のルビを振っており、底本のような「がりょうばい」ではなく、「がりゅうばい」と読んでいることをここに明らかにしておく。ちくま学芸文庫版でも「がりゅうばい」となっている。なお、同条は末尾に、

   *

梅譜 曰  去都城二十里有臥梅偃蹇十餘丈相傳唐物也 謂之梅竜好事者載酒遊之

(「梅譜」に曰く、都城を去ること、二十里、臥梅あり、偃蹇(えんけん)として[やぶちゃん注:高く聳えるさま。]十餘丈、相ひ傳ふ、「唐物なり」と。これを「梅龍」と謂ひ、好事の者、酒を載せて之れに遊ぶと云々)

   *

と続く(訓読は私のオリジナル)。

「梅譜」通常、こう言うと、和書ではない中国のものを指し、しかも、特定の一書を指すのではなく、梅の歴史・技法に関する論述や図譜・画梅を得意とした画家の評伝などを集成した書籍類の通総称である。北宋後期の禅宗画僧仲仁撰とされる「華光梅譜」(全一巻)、南宋の宋伯仁撰の「梅花喜神譜」(全二卷)、元の呉太素撰の「松斎梅譜」(全十五巻)などが知られ、特に最後の「松斎梅譜」は数種の抄本が日本に伝存するのみで、梅譜としては完備した体裁を備え、牧谿(もっけい:南宋末元初の禅僧で画家)や若芬(じゃくふん)玉澗(ぎょくかん:南宋末の画僧。牧谿と並称された。同時代には玉澗と名乗る画家が他に二人いるので注意)らの基本的伝記資料を収めている点でも価値が高い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、「江戸名所図会」の本文のそれは以上でよいが、最後の引用は明らかに亀戸梅屋敷のそれを語っており、「唐物」とある以上、明らかに特定の和書であるが、国立国会図書館デジタルコレクションで幾つかの和書の梅譜を縦覧してみたものの、特定できなかった。識者の御教授を乞うものである。

「榮螺」蟠龍の形状に加えて龍宮を見立てたものであるが、面白くない。]

 

 年寄て龍も齒錆(はさび)や梅の花 素丸(そまる)

 

 この句は臥龍梅かどうかわからぬけれども、老いたる梅の幹を龍に見立てた点で、五百武の句よりも臥龍らしいところを描いている。臥龍梅を詠んだ子規居士の歌に「梅園に老い行く年を臥す龍の爪もあらはに花まばらなり」とあるのが、大体趣を同じゅうするようである。子規居士にはこの外にもまだ「龜井戸のやしろを出でて野の道を左に曲る臥龍梅の園」などという歌もあり、臥龍は年と共に老い朽ちながら江東に名を馳せていたが、明治四十三年の大洪水を境として木も亡び名所もなくなってしまった。

[やぶちゃん注:「明治四十三年」一九一〇年。]

 梅の句の中にはもう一つ、

 

   ある御館(みたち)へ出けるに

 梅が香にねぢ忘れけり龍の口   五明(ごめい)

 

というのがある。これは龍の形に遣り水を吐出さしむる所の謂(いい)で、龍の字は用いてあっても、臥龍などとは全くかけ離れた句である。

 

 亢龍(こうりやう)の梅をさとるか藤の花 五秀

 枯枝に麗龍見たり蔦紅葉(つたもみぢ)  蕪村

 若竹や龍這(はひ)のぼる藪からし    巢兆

 龍の玉つかむ牡丹の莟(つぼみ)かな   五明

   曾根の松

 陽炎(かげろふ)に龍こそうねれ曾根の松 露川

 

 藤の太い幹のうねくった様子は、龍の形容にふさわしくないことはない。ただ「亢龍の梅」という言葉が成語として人に訴える所が多いために、藤そのものを眼前に髣髴しにくい憾(うらみ)がある。即ち高く登りつめることを避けて地上にうねくっているという智的な分子が主になって、龍の如き藤の幹はこの成語に掩(おお)われやすいのである。蕪村の使った「麗龍」という言葉は、他にあまり例がないかも知れぬ。しかし枯枝にからみついた蔦の葉を龍の鱗に見立て、その真赤に紅葉したところを麗龍の語で現したのは、一読して直に感じ得る趣である。「亢龍有悔(くいあり)」というような特別な意味がないだけ、詩としての効果はかえって多いかと思う。巣兆の「藪からし」も同じような見立であるが、若竹なるものが細くもあり、丈が低くもあるので、如何に藪からしが景気よく這いのぼったにしても、龍の形容に当るかどうか、そこにいささか疑問がある。蔦の葉の生いった形が鱗らしいのに比べて、藪からしの見劣りすることはいうまでもない。

 五明の句は牡丹の莟を龍の摑む珠に見立てたのである。従って龍はこの場合全く姿を現していない。龍と牡丹とを二つ並べて見たら、共に漢土で幅を利かせているには相違ないが、両者の間に調和する点を認めにくいかも知れぬ。しかるに一たび龍の姿を隠して、彼(か)の爪に摑む珠だけを点出すると、牡丹の莟の上に意外な調和が生れて来る。ここに作者の働きがあるのである。曾根の松の巨幹を龍と形容するのは、最も平凡な著眼であろう。しかし龍鱗は松の形容になっているし、奇でない代りに趣はよく発揮されている。ゆらゆらと立つ春の陽炎も、妖気というほどではないにしろ、或雰囲気を描き得ていることは慥(たしか)である。

[やぶちゃん注:「亢龍(こうりやう)」龍が天を目指して行くのを「飛龍」と称し、その先、天高く昇りつめた龍を「亢龍」と称する。後で宵曲が言っている「亢龍有悔」、「亢龍(こうりょう)悔い有り」というのは既に出たが、「昇り過ぎた龍は後悔することになる」、「只管(ひたすら)進むことのみを成して退く機を知らずに強気で押し通し過ぎて周囲から浮いてしまう」こと、或いは、もっと致命的に「栄華を極めたものは結果して衰滅するしかない」の謂いである。中国ではしばしば使われるものの、日本ではあまり成句として使われることはないようである。「亢」の字が一般的でないからであろう。

の梅をさとるか藤の花 五秀

「枯枝に麗龍見たり蔦紅葉(つたもみぢ)」この句は「句集拾遺」に載るもので、蕪村の句としてはあまり知られたものではない。

「藪からし」「藪枯らし」は別名を「貧乏葛(びんぼうかづら)」とも言う蔓性植物。ブドウ目ブドウ科ヤブガラシ属ヤブガラシ Cayratia japonica。和名は鬱蒼とした藪をも覆って枯らしてしまうほどに成長力が旺盛であることに由来する。私の家の斜面もこやつと葛が蟠り蔓延っている。

「曾根の松」兵庫県高砂市曽根町((グーグル・マップ・データ))にある曽根天満宮にあった松。ウィキの「曽根天満宮によれば、『この神社の創建年代については不詳であるが、社伝では延喜元年』(九〇一年)『菅原道真が大宰府に左遷される途上に伊保の港から上陸し、「我に罪なくば栄えよ」と松を手植えした。後に播磨国に流罪となった子の菅原淳茂が創建したものと伝えている。江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた』。『道真が手植えしたとされる松は霊松「曽根の松」と称された。初代は』寛政一〇(一七九八)年に『枯死したとされ』、一七〇〇『年代初期に地元の庄屋が作らせた』約十分の一の『模型が保存されており、往時の様子を知ることができる。天明年間に手植えの松から実生した二代目の松は』大正一三(一九二四)年に『国の天然記念物に指定されたが』、昭和二七(一九五二)年に枯死し』、『現在は五代目である。枯死した松の幹が霊松殿に保存されている』とある。]

 その他植物以外にも龍を用いた句はいろいろある。

 

 龍の手につかみはづすや鳰(にほ)の月 魯九

 雲起す龍かと飛鳧(ひふ)の勢(きほ)ひかな

                    角上

 松明(たいまつ)の龍にはたらく鵜川(うかは)かな

                    景賢

 海老臥龍餅をうがつに玉あらん     北鯤(ほつこん)

   餞別の吟

 其杖も龍にやならん雲の岑(みね)   支考

 

 魯九の句は月を珠に見立てたので、牡丹の莟ほど奇なところはない。子規居士もかつて月夜の雲について「雲、長く斜にして、月、一端に在り、老龍玉を吐くが如し。雲分れて二片となる、月、中間に在り、双龍、玉を爭ふが如し」と述べたことがある。皎々(こうこう)と澄み渡った月でなしに、若干の雲ある場合、この種の連想を起しやすいのであろう。「鳩の月」は琵琶湖の月である。田原藤太を導いて三上山の百足(むかで)を射させた龍王は、この湖の底に棲んでいたはずだから、鳩の月に対して龍を思い浮べるのは偶然でないかも知れぬ。

 角上の句はどういう意味かよくわからない。飛鳧の勢を以て雲を起す龍に比するというのは、どう考えても倫を失しているようである。後漢の王喬が毎月朔日(ついたち)、葉県より参内するのに、いまだかつて車馬にも乗らず、従者を伴うでもない。ただ彼が朝廷へ来る頃になると、必ず二羽の鳧(かも)が東南の方より来って宮門の前に止る。或時試に網を張ってその鳧を捕えて見たら、一双の履であったという話がある。殊更に飛鳥というような語を用いる以上、何か漢土の故事にあてはま基づくものと思われるが、果してこれに当嵌(あてはま)るかどうか疑問である。もっと適切な故事か、隠れた意味かがあって、雲を起す龍を連想せしむるのでなければなるまいと思う。

 景賢の句の「龍にはたらく」は俳諧独得の用語であろう。其角の「雞(にはとり)の獅子(しし)にはたらく逆毛かな」なども、獅子の如くに働くの意で、闘雞の場合に逆毛を立てる様子を、獅子の鬣(たてがみ)に見立てたのである。鵜川の闇(やみ)にかざす松明の焰(ほのお)なり煙なりを龍に擬するのは、誇張に失するという人があるかも知れぬ。その筆法で往けば、雞の逆毛を獅子に擬するのも無論誇張である。この種の形容はむしろ誇大なところに或面白味を生ずるのであるが、景賢は其角の獅子に倣(なら)って「龍にはたらく」の語を用いたような気がせぬでもない。

 伊勢海老には長い二本の角がある。固い殻にとげとげしたところもある。それだけの理由を以て龍らしい顔をするのは僭越だけれども、小さな海馬(かいば)ですら龍の落し子と称しているのだから、海老を龍族に加えるのも新春の一興であろう。この時代の句は「餠(もち)の嶋(しま)ごまめの白蛇眠りけり 洗口(せんこう)」などという調子に、思いもよらぬ奇抜な見立をして人を驚かす傾向があった。鏡餅が嶋であるとすれば、ごまめが白蛇になり、伊勢海老が臥龍に出世しても別に不思議はないのである。

 費長房(ひちょうぼう)が仙人のところから跨(またが)って帰った青竹は、そのまま龍になって昇天したという話がある。それ以来かどうかわからぬが、杖にはとかく龍の連想があるらしい。大徹和尚の提唱を聞いた人の話に、拄杖(しゆじょう)を座中へぽうんと抛(ほう)り出したかと思うと、「拄杖化して龍となる、見えたりや見えたりや」といって、澄して引込んでしまったことがあるそうである。支考の句は行脚(あんぎゃ)の杖だから、それほど凄じいものでもあるまいが、どこかそういう匂がする。半天に聳え立つ雲の峯に対し、「龍にやならん」という杖が薄気味悪く感ぜられるのは、さすがにこの作者の技倆であろう。

[やぶちゃん注:「鳰(にほ)の月」鳰(にお)は鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis のことであるが、琵琶湖は古くから本種や同じカイツブリ目を構成する種が多かったことから「鳰(にほ)の海」の別称を持ち、ここでも鳥の「鳰」ではなく、湖としての琵琶湖に浮かぶ月影をかく言ったのである。

「飛鳧(ひふ)」後で宵曲が解説しているように、飛ぶ鴨(かも)のこと。但し、「鴨」自体が鳥類の分類学上の纏まった群ではなく、カモ目カモ科Anserinae の鳥類のうち、雁(かり/がん:これも通称総称で、カモ目カモ科ガン亜科 Anserinaeのマガモ属 Anas よりも大型で、カモ亜科 Anatinae に属するハクチョウ類よりも小さいものを指す)に比べて体が小さく、首があまり長くなく、冬羽(繁殖羽)はで色彩が異なるものを指すが、カルガモ(マガモ属カルガモ Anas zonorhyncha)のように雌雄で殆んど差がないものもいるので決定的な弁別属性とは言えない。また、この「鳧」という字は「鳬」とも書き、「けり」とも読み、その場合、現行の和名では全く異なる種である、チドリ目 Charadriiformes チドリ亜目 Charadrii チドリ科 Charadriidae タゲリ属ケリ Vanellus cinereus を指すので注意が必要である。

「鵜川(うかは)」宵曲が解説しているが、夜の鵜飼漁をしている川の景のこと。

「雲、長く斜にして、月、一端に在り、老龍玉を吐くが如し。雲分れて二片となる、月、中間に在り、双龍玉を爭ふが如し」『ほととぎす』(明治三一(一八九八)年十一月発行・第二巻第二号)初出の「雲」という短い随想。電子テクスト・サイト「里実文庫」ので全文が読める(但し新字体)。そのデータと校合して、底本にはない「双龍」の後の読点を補った

「皎々(こうこう)と」明るく光り輝くさま。

「後漢の王喬が毎月朔日(ついたち)、葉県より参内するのに……」美術記者金井紫雲(明治二〇(一八八七)年~昭和二九(一九五四)年)の「東洋畫題綜覽」(昭和十六(一九四一)年から昭和十八年にかけて刊行)に『王喬は支那の仙人、漢の明帝頃の人、その履が鴨となつて、これに騎り、早旦に出仕する、帝がその出仕の早いのを怪しんで之を探らしめるといふ面白い事跡がある』とし、「列仙全傳」に、

   *

王喬河東人、漢明帝時、爲尚書郎、出爲葉令、漢法畿内長吏節朔還朝、喬毎月朔旦自縣來、朝帝怪其來數而見車騎、密令太史伺望之、言其臨至、輒有雙鳧從東南飛來、於是候鳧至擧羅張之得二鳥焉、乃所賜尚書官屬履也、毎當朝時、葉縣門外鼓不撃自鳴聞于京師、從天下玉棺於堂前、吏人推排終不移動喬曰、母乃天帝召我耶、乃沐浴服飾寢其中蓋便立覆勿于城東自成墳、其夕縣中牛皆流汗乏而人無知者、百姓爲之立廟號葉君祠、祈禱輒應。

   *

とあると記す。

「独得」ママ。

「費長房(ひちょうぼう)」)は後漢の方士(生没年未詳)。ィキの「費長房(後漢)」より引く。『汝南郡(現中華人民共和国河南省平輿県一帯)の出身で』『当初はとある市場の監視役人を務めていたが、市場の監視楼上から市中で売薬店を構える謫仙の壺公(ここう)』『が日没時に店先に吊した壺に跳び入る姿を目撃した事から壺公の許を訪れたところ、自分の秘密を目にし得た費に感心した壺公に連れられて壺中に入り、そこに建つ荘厳な御殿で美酒佳肴の饗応を受ける。その後、壺公から流謫も終わって人間界を去る事を聞かされると、自分も仙道を学びたいと思い、壺公の教唆に依って青竹を自身の身代わりに仕立て、縊死を装う事で家族の許を去り』、『壺公に就いて深山に入り修行する。修行は初め虎の群中に留め置かれ、次いで今にも千切れんとする縄に吊された大石の下に身を横たえるといった内容で、共に成果を修めるも最後に』三匹の虫が蠢く臭穢な糞を食うように求められて出来ず、『遂に上仙を断念し、壺公から地上の鬼神を支配出来る』一『巻の護符を授かって帰郷』した。しかし、山中での修行は僅か十日程であったのであるが、地上は実に十年以上が経っていたという。『帰郷後は治病に従事したり』、『壺公から授かった護符を使って東海地方(現山東省東南の海岸部)の水神である東海君や、人間に化けた鼈や狸を懲らしめる等、社公(地示)やあらゆる鬼神を使役懲罰し、また地脈の伸縮を自在に操る能力を有して』、『瞬時に宛(えん。現河南省南陽市)に赴いて鮓(さ。魚類の糟漬け)を買ったり』、一日で数千里(六百キロメートル弱)を『隔たる複数処を往来したりしたが、後に護符を失った為に鬼神に殺された。晋代の葛洪は竹を自身の屍体に見せかけた費を尸解仙』(一旦、死んだ後に蟬が殻から脱け出るようにして仙人になること)『の例に挙げている』とある。柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(1)も参照されたい。

「大徹和尚」江戸後期の臨済宗の僧。大徳寺(現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派大本山。山号は龍宝山(りゅうほうざん))四百三十世。宗斗は諱。四百七世大順宗慎の法を嗣ぐ。後に尼ヶ崎栖賢寺・知般若寺に住した。文政一一 (一八二八) 年寂。享年六十四歳。

「拄杖(しゆじょう)」禅僧が行脚の際に用いる杖(つえ)。「ちゅうじょう」とも読む。]

 

   上杉謙信はいつも二陣に有(あり)て

   我旗本の勝を以て勝利とし前後不顧

 野分(のわき)哉(かな)一目龍のまる備へ

                龜洞(きとう)

 

 この句は前書の示す通り詠史の句である。疾風迅雷の如き謙信の行動を、「野分哉」の上五字で現したことだけは想像出来るが、「一目龍のまる備へ」に至っては全くわからない。何かそういう軍学上の術語があるのか、単なる譬喩(ひゆ)か、その辺も一切不明である。龍の句として一風変ったものであるに相違ないが、龍そのものの因縁は存外稀薄なのかも知れぬ。わからぬままを掲げて、識者の垂教を待つことにした。

[やぶちゃん注:句意は私も判らぬ。]

2017/11/22

老媼茶話巻之五 久津(クツ)村の死女 / 老媼茶話巻之五~了

 

     久津(クツ)村の死女

 

 奧州岩城の城主内藤能登守領分、窟(クツ)村の百姓庄三郎女房たつといふ女、きわめてけんどんじやけんなり。

 人のよきをそねみ、あしきをよろこぶ。

 いかり腹立(はらたつ)事ある時は、眼(まなこ)さかつり、口、廣くなり、髮の毛、さかさまになりて、さながら、鬼女のごとし。

 人をのろひころす事、弐拾人にあまり、かゝる猛惡のものたりといへども、天命、定(さだま)りありて、のがるゝ事なく、三拾七にて、身まかりぬ。

 死ぬる時は、さまざま惡相あらはし、一生作りしつみとがを、みづから口走り、くるひじにゝ死す。

 死骸を窟村の菩提所善性寺といふへ送りぬ。善性寺住僧、京學に登り、留守也。跡の事をば、走り熊の福性寺といふ淨土寺にて取行(とりおこな)ふ間、福性寺より坊主壱人來りて、かの亡者を剃刀(カウソリ)をせんとて、つふりをもみ、剃刀をあて、戒をさづくるに、死人(しびと)、手をあげ、つふりをかゝえ、すらせず。

 坊主、興をさまし、剃刀をとれば、死人も手をおろす、かくする事、數度なり。

 暫(しばらく)有(あり)て、亡者の眼(まな)ざしかはり、口、廣くなり、額の髮の毛を分(わけ)て、こぶの樣にならびて、角弐生出(おひいで)たり。

 坊主、大きにおどろき、亡者の一類をよび、

「此(この)死人(しびと)、野送りの節、あやしき事あるべし。用心せよ。」

とて棺(くわん)の蓋(ふた)をも丈夫に打(うち)つけ、船繩(ふななは)とて、ふときなわにて能々(よくよく)からげ、其暮(そのくれ)、窟(いは)むらの後(うしろ)の山へ送り行(ゆく)に、晴(はれ)たる空、俄(にはか)に曇り、雲、發(おこ)りて、雨、ふり出(いだ)し、大風・らいでん、おびたゞしく、稻光り、しきりにして、黑雲、棺の上へおゝひ懸(かか)る。

 是を見て、送りの者、棺を山下に打捨(うちすて)、我先(われさき)にと、逃歸(にげかへ)りぬ。

 夜明(よあけ)て、皆々行(ゆき)て見るに、棺、みぢんに破れ碎(くだけ)て死人(しびと)、行方なし。

 元文四年二月五日夜五時分の事なり。

 岩城(いはき)よりじやうどの館(がたて)成願寺(じやうぐわんじ)へ來りし老僧の、もの語りなり。

 

 

老媼茶話卷之五終

 

[やぶちゃん注:「久津(クツ)村」「窟(クツ)村」不詳。識者の御教授を乞う。わざわざ「領分」と言っているところを見ると、他藩の飛び地かとも思った。実際には福島県二本松市内であることが後に判明した。後の「善性寺」の注を参照されたい。

「奧州岩城の城主内藤能登守」「奧州岩城の城」は陸奥国磐前郡磐城平(現在の福島県いわき市平)にあった磐城平藩の藩庁たる磐城平城(いわきたいらじょう)。「能登守」とあるので、これは第四代藩主内藤義孝(寛文九(一六六九)年~正徳二(一七一三)年)ということになるのであるが、それでは最後の事件の時制である「元文四年」(一七三九年)と齟齬する。クレジットが正しいとすれば、これはその二代後の第六代藩主内藤備後守政樹(宝永三(一七〇六)年~明和三(一七六六)年)の治世となる。彼は日向国延岡藩の初代藩主として移封されているが、それは延享四(一七四七)年のことであるから、問題ない

「けんどんじやけん」「慳貪邪慳」。

「つみとが」「罪科」。

「くるひじに」「狂ひ死」。

「善性寺」現在の福島県二本松市内には三つの同名の寺があるが、この内、浄土宗は福島県二本松市根崎のそれ(読みは「ぜんしょうじ」)のみである。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここでこの寺が「久津」「窟」村の菩提寺とあるから、この附近がロケーションであることが判明することとなった。

「熊の福性寺」「淨土寺」不詳。識者の御教授を乞う。

「船繩(ふななは)」舫(もや)い用の水分を含んでも、耐性の劣化しない極太の繩のことであろう。

「ふときなわ」ママ。「太き繩(なは)」。

「からげ」「絡げ」「紮げ」。繩を結び結わえる。括(くく)り。

「窟(いは)むら」先の村名。

「らいでん」「雷電」。

「みぢん」「微塵」。

「元文四年二月五日」グレゴリ暦一七三九年三月十三日。

「夜五」午後十時頃。問題はこれが、どのシチュエーションを指しているかで、恐らくは、福性寺での髪を剃る時間へ、立ち戻っていると考えるのが穏当とは思われる。

「じやうどの館(がたて)」「允殿館」で、既出既注の、現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)であろう。

「成願寺」前にも出たが、現在、この名の寺は存在しない。]

老媼茶話巻之五 奇病

 

     奇病

 

 寛永年中、相馬(さうま)の者なりとて年四拾ばかりの男、天寧寺來り、雜湯(ゾウユ)に入(いる)。

 常に股引(ももひき)・脚半(きやはん)にて湯に入。

 皆人(みなひと)、ふしんをなしければ、彼(かの)男、申樣(まうすやう)、

「某(それがし)、如何成(いかなる)因果にて候(さふらふ)やらん。加樣(かやう)に怪敷(あやしき)煩(わづらひ)いたし候。」

とて、股引をぬぎ、脚半をはつづし、見せければ、股より下、向臑(むかふズネ)迄、蛇の頭(かしら)ひしと、弐、三寸斗(ばかり)ぬけ出(いで)、五、六拾斗(ばかり)有(あり)。

 其蛇の頭、目をひらき、口をあき、舌を出し、又、目をふさぎ、頭をたれ、口をとぢ、眠居(ねぶりゐ)たるも有(あり)。

 人を見て、目をいらゝべ、頭を上舌を出し、すざましき氣色也。

 見るに、身の毛、立(たち)けり。

 氣づよき者有(あり)て、件(くだん)の男に申樣、

「一筋に思切(おもひきり)、かみそりを、とぎすまし、蛇の頭、不殘(のこらず)そぎ落し見玉へ。もし、夫(それ)にて死(しに)玉はゞ、是非もなし。生(いき)玉へば、幸(さひはひ)の事也。」

と云(いふ)。

 件(くだん)の男、聞(きき)て、

「此(この)奇病、初(はじめ)は蛇の頭、壱股の邊(あたり)に出(いで)、はれ痛み候(さふら)へしが、次第次第にふへ申候まゝ、某(それがし)も、餘り、やるかたなく、いく度か、刀を以(もつて)そぎ見申(みまうし)候に、そぎ不申(まうさず)。以前は蛇の頭、小さく候得しが、そき落候得(おちさふらえ)ば、其度々(そのたびた)に、蛇の頭一倍大きく成(なり)、亦、數も一倍ふへ申候。樣々、佛神にいのり、御子(みこ)・山伏を賴み、祈願を仕(つかまつり)、あらゆる願立(ぐわんだて)・療治を致候得共、佛神三寶のかごもなく、藥力(やくりき)の功も立(たた)ず、かく斗(ばかり)くるしみ申候。國々の名湯共(ども)、湯治致し見候に、最上(もがみ)の高湯と、此所(ここ)の雜湯入候得ば、心神、心よく、足のいたみも少し快罷成(こころよくまかりな)り、蛇の頭も、たゞれ腐落(くされおち)候も有(あり)て候へども、程過(ほどすぎ)候へば、亦々、生出申(おひいでまうし)候。最早、此煩(わづらひ)にて命とられ可申(まうすべし)。」

と欺きけるが、其後(そののち)、いかゞ成(なり)けん、知(しら)ず。

 世には、さまざま、不思義なる煩(わづらひ)もある物也。

 御山(おやま)村といふ處の百姓の女房、頭の毛、つよくいたみけるが、髮の毛、ちゞみあがり、一束(ひとたば)になり、つぶり卷立(まきたち)、強く苦しみ、せんかたなく、夫(ヲツト)、剃刀(かみそり)にて髮の毛をそり落しけるに、其髮の毛、生(いき)たるごとく、のびつ、ちゞみつして、のたを打(うち)、終(つゐ)に一かたまりに成(なり)たり、といへり。

 また、一鷗宗閑(イチヲウさうかん)といふ醫師、筑紫罷(まかり)けるに、ある所にて宿を取(とり)けるに、婦人、出合(いであひ)て、

「主人の病、見せん。」

といふ。宗閑、入(いり)て見るに、壱人の男、有(あり)、耳・目・鼻もなくして、もくもくとして座せり。女、なくなく、申樣、

「是、則(すなはち)、我(わが)男也。」

といふ。

 宗閑、をどろき、くわしくとへば、かの婦人、

「いか成(なる)前世の因果にて候やらん、かゝる人とちぎりけるぞや。みづから、ゐん食をあたふれば、手に取(とり)て頭の上へ置(おき)、いたゞきに、口、有(あり)て、ものをば喰(くら)ふ。」

と、いへり。

 無住法師の「沙石集」に、『山中に野づちといふもの有(あり)、目・鼻・耳もなく、口斗(ばかり)有(あり)て人を取(とり)くらふ』と書(かき)給ひし。此類(たぐひ)の人を喰たるものなるべし。

 

[やぶちゃん注:前半の奇病は「人面疽(じんめんそ)」ならぬ「蛇頭疽(じゃとうそ)」とも言うべき奇怪な病いである。恐らくは、疣(いぼ)ならば、一般に膝(及び関節)に発生し、自己流で切除したりすると、より拡大して増えてしまうところの、ウイルス性の疣(無論、他人へも感染する)、「ヒト乳糖腫ウイルス(ヒトパピローマウイルス(第一群(Group I)の二本鎖DNA群の目未帰属であるパピローマウイルス科 Papillomaviridae パピローマウイルス属 Papillomavirus)」を病原とする「良性疣贅(ゆうぜい)」であろうと思われるが、この人物が湯に入るのにも猿股と脚絆を着用しているのは、却って擦れることで悪化するし、周辺部への感染も広がるので、よろしくない(他者への感染を考えると、単独でない限りは、入湯は望ましくない)。この疣は発症初期は半透明で小さく盛り上がっているが、それがだんだん大きくなり、表面もザラついてくると、皮膚科のサイトに書かれてあるので、小さな蛇の頭のようにも見えようものと私は思う。他に、「軟性線維腫(なんせいせんいしゅ)」という蛋白質の一種であるコラーゲン繊維や皮膚に包まれた血管などから形成された、腋窩・鼠径部などによく見られる、かなり大きな茸(きのこ)状の良性腫瘍があるが、これは単発で発生することが多いのを特徴とするので、この症状には当てはまらないように思われる。

 また、後半に出る耳・目・鼻もないというのは、八年程前に、インドネシアの東ジャワ州マディウン市に住む女性が罹患しているという悪性腫瘍のケースと酷似している(記事を紹介出来るが、その顔面写真があまりにショッキングなので御自身で地名を用いて検索されたい)。耳・目・鼻どころか、その時の私の見た写真では顔面正面が殆んど全く奥の方まで空洞化していた(口はその空洞の下部に辛うじて残っていた)。彼女はその状態で生活していた(治療費が払えなかったため)。同時期に、同じように顔面の半分に大穴があいて喪失している西洋人男性(同じ病気かどうかは不明)が普通に生活している動画も見たことがある。ここに出る男性もそうした悪性腫瘍ではなかろうか(頭の頂(いただき)に口があるというのは、顔面欠損が進んで、大きな孔が顔面上部から額辺りに開口していることから、かく言ったものであろう)。それでも摂餌によって生き永らえているというのは、ある意味、他人から見れば悲惨には見える。また、その介護に明け暮れている妻は明らかに自らを不幸と感じている。なお、中に出る、切り取っても、生き物の如くに蠢く髪の毛というのは、説明のしようがない、真の怪談である。

「寛永」一六二四年から一六四五年。

「相馬」、福島県浜通りの北部に位置する相馬市及びかの原発事故で深刻な被害を受けた飯舘村(いいたてむら)がある相馬郡(そうまぐん:他に新地町(しんちまち)が含まれる)と南相馬市を含む地方。

「天寧寺」既出既注であるが再掲する。福島県会津若松市東山町石山天寧に現存する曹洞宗萬松山天寧寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「天寧寺(会津若松市)」によれば、文安四(一四四七)年に『蘆名盛信が大瞞行果禅師 南英謙宗のために陸奥国会津黒川東山に開いたといわれる。勧請開山は傑堂能勝であった。かつては会津曹洞宗の僧録司を兼ね、末寺』三十三ヶ寺、僧堂十二棟『を数えたとされる』。『蘆名家中興の英主とされ、会津地方に大勢力を築いた蘆名盛氏が銭』百『貫文を寄進した記録があり、最盛期には雲水』一千『名を擁する蘆名氏の菩提寺であった』。天正一四(一五八六)年、『蘆名亀王丸の死によって蘆名氏は血統が途絶え、伊達氏と佐竹氏の争いとなったが、結局は佐竹義重の次男・義広が跡を継いだ。義広は、当初陸奥国白河の白河結城氏を継いで結城義広あるいは白河義広と称していたが』、翌年、『蘆名盛隆の娘と結婚して正式に蘆名家を継ぎ蘆名義広を名乗った』。義広は天正一七(一五八九)年の『摺上原の戦いの敗北により』、『米沢の伊達政宗によって会津黒川を追われ、天寧寺もこの戦いで一時』、『焼亡している。当時の遺構として残っているのは本堂の礎石のみである』という。『会津を追われた蘆名義広は実兄・義宣を頼って常陸国に逃れ、のち、豊臣秀吉から常陸国江戸崎』四万五千石を『与えられ、名を蘆名盛重と改めた。なお、会津は伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の蒲生氏郷を封じた。氏郷の死後は上杉景勝を越後国より加増のうえ転封した』。『後援者を失った天寧寺であるが、その後も周囲の人びとの尽力によって維持され、現代につづいている』。因みに、この『境内裏手には、戊辰戦争に敗れ』、『刑死した新選組局長近藤勇の墓がある。近藤勇の墓は日本各所にあるが、天寧寺の墓は土方歳三が遺体の一部を葬ったとされている』とある。ここはその寺から少し南東の山間に入った、同じ会津若松市東山町にある東山温泉である。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「東山温泉」によれば、硫酸塩泉で、世間ではリウマチ性疾患・運動器障害・慢性皮膚疾患などに効能があるとされる。開湯は八世紀後半、或いは『天平年間に行基によってなされたと伝えられ』、『伝承によると、三本足の烏に導かれて発見したという。江戸時代には会津藩の湯治場として栄え、会津若松の奥座敷として発展した』。『会津民謡に登場する小原庄助ゆかりの温泉とされ』、『山形県の上山温泉、湯野浜温泉とともにかつて奥羽三楽郷と呼ばれた』とある。

「雜湯(ゾウユ)」ぬるい湯のことであろう。

「ふしんをなしければ」「不審を成しければ」。

「御子(みこ)」「巫女」。

「かご」「加護」。

「最上(もがみ)の高湯」蔵王連峰の西麓にある蔵王温泉の古称。ウィキの「蔵王温泉」によれば、東征した日本武尊に従った吉備多賀由(きびのたがゆ)によって発見され(西暦一一〇年頃か)、彼の名「多賀由」が転じて「高湯(たがゆ・たかゆ:山形弁では濁り、それは発見者の名とも一致する)」となったという、実に千九百年もの歴史を持つ。標高八百八十メートルの位置にある。『同県の白布温泉、福島県の高湯温泉と共に奥羽三高湯の一つに数えられる』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「其後(そののち)、いかゞ成(なり)けん、知(しら)ず」先に私が推定したヒト乳糖腫ウイルスによる良性疣贅(ゆうぜい)であれば、それで命を落とすことは、ない。

「御山(おやま)村」福島県会津若松市門田町大字御山か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一鷗宗閑(イチヲウさうかん)」不詳。

「みづから」私が。

「ゐん食」「飮食」。

『無住法師の「沙石集」』「しゃせきしゅう」「させきしゅう」(孰れも現代仮名遣)とも読む、鎌倉時代の仏教説話集。臨済宗東福寺派の高僧無住一円(嘉禄二(一二二六)年(鎌倉)~正和元(一三一二)年(桑名))の著。全十巻。弘安二(一二七九)年の起筆で、同六年に脱稿したが、その後も複数回。加筆訂正を行なったようで、種々の伝本がある。無住は、直接、見聞した同時代の話や民間に伝わった伝承を積極的に取り上げており、文章も俗語を多用して平易である。なかでも数多くの笑話風の話は後の狂言や咄本(はなしぼん)の材料となり、落語の源流ともなった。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。以下の話は「卷之五」の三つめにある「學生畜類に生たる事」の冒頭部に出る。

   *

 山に二人の學者ありけり。同法にて、年齡も、心操(こころもち)・振舞(ふるまひ)も萬づ、變らず。學問も一師の下にて稽古しければ、殊に見解(けんげ)も同じ。何事に付けても同じ體なりける故に、二人、契りて云はく、

「我等一室の同法たり。萬づ、變らず振舞へば、當來の生所も同じ報にてこあらめ。先立つ事あらば、生所を必ず告ぐべし。」

と、能々(よくよく)、互ひに契りぬ。

 一人、他界して、夢に告げて云はく、

「我、野槌(のづち)と云ふ物に生れたり。」

と云ふ。野槌と云ふは、常にもなき獸(けだもの)なり。深山の中に希にありと云へり。形、大にして、目・鼻・手・足もなし。只、口ばかりある物の、人を取りて食ふと云へり。是は佛法を、一向、名利のために學し、勝負諍論(じやうろん)して、或いは瞋恚(しんい)を起こし、或いは怨讎(をんしう)をむすび、憍慢勝他[やぶちゃん注:他の人以上に自分の考えを押し通すこと、又は、自分は他の人よりもすぐれていると思い上がって見下すこと。一般には「我慢勝他(がまんしょうた)」と言うが、これでも意味は通じる。]等の心にて學すれば、妄執のうすらぐ事もなく、行解(ぎやうげ)のをだやかなる事もなし。さるままに、口ばかりは、さかしけれども、知惠の眼もなく、信の手もなく、戒の足もなきゆゑに、かかるおそろしき物に生たるにこそ。

   *

という因果応報譚の場面で、ここに引くには、何だかな、という感じが拭えない。厭な感じがするのは、この悲惨な病者をそうした因果の輪の結果と片付ける無責任な差別性によるものであろう。

「喰たるものなるべし」意味不明。「述べたる」「謂ひたる」「描きたる」「喩(たと)へたる」辺りの誤りか。字形からは一番最後が一番ありそうな気がするのであるが。]

老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)

 

     山姥の髢(カモジ)

 

 猪苗代白木城の百姓庄右衞門といふ杣人(そまびと)、磐梯(バンダイ)の入山(いりやま)へ參りけるに、巖上(ガンじやう)の大松の梢に、何やらん、白き長き物、みへたり。彼(かの)者、杣人なりける間(あひだ)、松の梢に登り、件(くだん)の物をおろし見るに、白き雪のごとくにて長さ、七、八尺あり、かもじ也。毛のふとさ、駒の尾の如し。人作(じんさく)の及ぶ所にあらず。取(とり)て歸り、多くの人に見するに、何といふ事を知らず、「山姥(やまうば)のかもじ」といひ觸(ふれ)て今にもち傳へたり。

 山姥は南蠻(ナンバン)國の獸(けもの)也。其形、老女のごとく、腰に、かは有(あり)て、前後にたれさがりて、とくび褌のごとし。たまたま人をとらへては我(わが)住(すむ)巖窟連行(つれゆき)、強(しい)て夫婦のかたらいをもとむ。我(わが)心に隨はざる時は其人を殺せり。力強くして、丈夫に敵せり。好(このみ)て人の小兒を盜む。盜まれし人、是を知り、大勢集り居て、山姥が我子を盜みし事を大音に訇(ののし)り恥かしむる時は、ひそかに小兒をつれ來り、其家の傍(かたはら)に捨置(すておき)、歸ると言(いへ)り。

 又、山中には木客(キカク)・彭侯(ホウコウ)・山夫(ヤマヲトコ)・山女・狒々(ヒヽ)・野婆(ヤバ)・黑𤯝(カマイタチ)の類(たぐひ)、まゝあり。

 又、山獺(やまうそ)といふ獸、有。其肉、補益の功、有。然共(しかれども)、得難し。獵師、山獺を取(とら)んとて、美女を連(つれ)て山中へ入(いり)、美女を大木の元に立(たた)しむ。山獺、女の氣(かざ)をかぎて、一さんに出來(いでく)る。女、走り逃る。山獺、其木を懷き、もだへ、ありく。其木、忽(たちまち)、枯るゝなり。獵師、其隙(すき)に山獺を鐵砲にて打殺(うちころ)すといへり。

 

[やぶちゃん注:「山姥」本文では(私は表題には推定ルビは振らないことを基本としている)「やまうば」と振ったが、「やまんば」でも構わぬ。鬼婆(おにばば)や鬼女(きじょ)と同類ではある(私は一部の伝承内の属性に於いては同一ではないと考えている)。ウィキの「山姥」から引く。『山の中に夜中行く当てもなくさまよう旅人に宿を提供し、はじめはきれいな婦人の格好を取り食事を与えるなどするが、夜寝た後取って食うといわれる。グリム童話に出てくる森の奥に住んでいる魔女のように、飢餓で口減らしのために山に捨てられた老婆などの伝承が姿を変えたもの、姥捨て伝説の副産物と解釈する説もあり、直接西欧の魔女に当たるものという説もある』。『「山母」、「山姫」、「山女郎」とも呼ばれ、宮崎県西諸県郡真幸町(現えびの市)の「ヤマヒメ」は、洗い髪して、よい声で歌うという。岡山県の深山に存在する「ヤマヒメ」は、二十歳ほどの女性で、眉目秀麗で珍しい色の小袖に黒髪、出会った猟師が鉄砲で撃ったが、弾を手で掴んで微笑んだと伝えられる。 東海道や四国、九州南部の山地には、山姥と供に山爺がいる、山姥と山童が一緒に居ると伝え、山姥を「山母」、山爺を「山父」と呼ぶこともある。静岡県磐田郡の某家に来て休んだ「ヤマババ」は、木の皮を綴ったものを身にまとった柔和な女で、釜を借りて米を炊いたが、二合で釜が一杯になったという。特に変わったところもなかったが、縁側に腰掛けたときに床がミリミリと鳴ったという。八丈島でいう「テッジ」(テッチとも) は、神隠をしたり、一晩中、あらぬところを歩かせたりするが、親しくなるとマグサを運んでくれたりする。行方不明の子供を三日も養ってくれたこともある。体に瘡が出、乳を襷のように両肩に掛けると云う。香川県では川にいる山姥を「川女郎(かわじょろう)」といい』。『大水で堤が切れそうになると「家が流れるわ」と泣き声のような声をあげるという』。『静岡県周智郡春野町(現・浜松市)熊切には「ホッチョバア」という山姥が伝わり、夕方に山道に現れるほか、山から祭りや祝い事の音が聞こえてくる怪異はこの山姥の仕業とされた』。『長野県東筑摩郡には「ウバ」という、髪が長い一つ目の妖怪が伝わり』、『その名前から山姥の一種とも考えられている』。『説話では、山姥に襲われるのは牛方や馬方、桶屋、小間物屋などの旅職人や行商人であり、山道を歩き、山人との接触の多い彼らが、この話の伝搬者であったものと考えられる』。『山姥の性質は二面的である。牛に魚を積んで運ぶ男が、峠で山姥に遭遇し、追いかけられる『牛方山姥』や『食わず女房』、山姥に追いかけられた兄弟が天から現われた鎖を上って逃げ、それを追って鎖を上って来た山姥が蕎麦畑に落ちて死ぬ『天道さんの金の鎖』などでは、山姥は人を取って喰うとする恐ろしい化け物である。一方、木の実拾いにでかけた姉妹が出会う『糠福米福(米福粟福)』の山姥は、継母にいじめられる心優しい姉には宝を、意地の悪い本子である妹には不幸をもたらし、『姥皮』では、人間に福を授ける存在として山姥が登場する。高知県では、山姥が家にとり憑くとその家が急速に富むという伝承があり、なかには山姥を守護神として祀る家もある。 信州佐久では、山姥が、川久保地区の城山の岩と、一の淵の流岩山をまたいで大便をした。かかとの窪みが今もある。畑中付近の一丈』(三メートル三センチ)『の巨岩は山姥の大便だと言う』。『この様な両義性を持った山姥の原型は、山間を生活の場とする人達であるとも、山の神に仕える巫女が妖怪化していったものとも考えられている。 土地によっては「山姥の洗濯日」と呼ぶ、水を使ってはいけないとか、洗濯をしてはいけないとする日があり、例えば北九州地方では、「山姥の洗濯日」は暮れの十三日または二十日とされ、この日は必ず雨が降るため洗濯をしないという風習が残っている。これは恐らく、雨を司る山神の巫女の禊の日であったものの名残りである。また、『遠野物語』には、狂人、山の神に娶られる者、あるいは山人に攫われる者といった、山隠れする女が山姥になったという話が伝えられており、出産のために女性が入山する習俗や、村落の祭にあたって選ばれた女性が山にこもるという、山岳信仰の習俗の名残りも認められる。上述の様に、山姥は人を喰う恐ろしい鬼女の性格の背理として、柔和で母性的な一面も伝えられ、足柄山の金太郎を始め、多くの神童、若子の母でもあった。長野県飯田市上村程野の伝説では、猟に出た山神の兄弟が、お産に苦しむ山姥に出会うが、長兄オホヤマツミノミコトがこれを助け、七万八千の子を産み、彼に猟運を授けた。山の中で出産に苦しむ山神や山姥、女に出会い、それを助けた人間が福をもたらされるという伝承は全国各地にいろいろな形で伝えられるが、同様に、女神たる山神も、多産、また難産であることが知られている。長野県飯田市上村下栗では、一度に七十五人の子を産むという山神や、徳島県では一度男の肌に触れただけで八万近くの子を妊娠した山神などがいる。宮崎県の千二百人の子を出産する山の女神また徳島や高知の昔話によると、山神の妻になった乙姫は一度に四百四人あるいは九万九千もの子を産んだと伝えられている。この様に、非常に妊娠しやすいという特徴、異常な多産と難産であるという資質は、元来、山の神の性格であり、山姥が、山岳信仰における神霊にその起源を持つことを示している』。『山姥の産霊神的な特質を挙げるものとして、山姥の惨死した死体からは、様々なものが発生するという話がある。例えば『牛方山姥』では、殺された山姥の死体が、薬、金などの貴重なものとなって牛方を金持ちにしており、また山姥の大便や乳が、錦や糸などの貴重な宝物や、不思議な力を持つ品になったという話もある。『古事記』に登場するオホゲツヒメは、鼻、口、尻から食物を出し、自らの死体から蚕や稲、粟など作物を生じさせ、イザナミも、火の神を産んだ為に死ぬが、死の前に排泄物から、金鉱の神、粘土の神、水の神、食物の親神を生んでいる。しかしながら、イザナミの境遇にも明らかなように、母性を持った産霊神的な性格を持つ霊は、冷遇される傾向にある。古来神話は色々な勢力の伝承神話を融合したものであり、反発しあう勢力の神が一つの神話にまとめられると、敵対する勢力の神を部分的ではあるが』、『あまり良くは伝えようとしないが、これは』「古事記」『にもすでに見られる現象である。『三枚の御札』は、小僧が山姥に追いかけられ、山姥に向かって投げた御札が、川や山などの障害物を出す話だが、この構造は、イザナギが、 黄泉の国でイザナミの姿を見てしまい、追いかけられて逃げ帰るという神話をベースにしており、地母神の劣化が、山姥という妖怪の本源と考えて良い。イザナミは難産死をしてしまい、それが出雲と伯耆の国境の比婆山に葬られたと』「古事記」『には記されているが、この「比婆山」が山姥の語源という指摘がある。産鉄の神、金屋子神もこういった女神を冷遇するような話が一部あり、美形の顔立ちではないため女性を嫌い、たたら場(古代製鉄場)を女人禁制としたとある。「山の神」という既婚女性の別称もこのような説話の名残であると考えられる』。『また、謡曲『安達原』の「黒塚」、諏訪千本松原の「舌長姥」なども山姥の一種である』。『山姥の伝承として有名なものに、足柄山の金太郎の母がいる。金太郎は、名を坂田公時といい、源頼光の四天王の一人となった人物である』。伝承によれば天延四(九七六)年、『源頼光が上総国から上京したとき、足柄山にさしかかったところで、向かいの山の険しい場所に赤い雲気を見つけ、人傑が隠居しているものと、渡辺綱を遣わした。赤い雲気のたちこめていた場所には、老婆と二十歳ほどの童形の若者が茅屋に住んでおり、尋ねたところによれば、老婆はある日、夢の中に現れた赤い竜と通じ、産まれた子がこの公時なのだと説いた。頼光は彼を常人ではないと感じ、坂田公時と名付けて家臣としたといわれている』。『自然科学的なアプローチから、山姥の正体を解こうとする以下の考え方もある』寛政六(一七九四)年に画家長澤蘆雪に『よって描かれた山姥の絵は有名だが、この山姥が金髪になっている事が目を引く。形質人類学的にこの山姥の顔を観察しても、頤(おとがい)が前方に出ている、直顎(ちょくがく)である、典型的鉤鼻(かぎばな)を持っている、など白人的特徴を有している事が分かる。 この山姥像に限らず、一般的山姥の特徴として知られているのは、肌が非常に白い、背が高い、眼が鋭い、口が耳まで裂けている、毛深い、などだが』、『口が耳まで裂けているを誇張表現として、口が大きい、と言い換えれば、これらの特徴も皆、白人的特徴と一致する』。『もとより山姥は山の老婆の意味だが、山姥の伝説には山姥が若かった事を想像させるものも少なくない。山姫の異称もそれを示している。それでも山姥が老女=山姥と呼ばれたのは、上記、長澤蘆雪山姥像の如くの金髪を、山姥が有していたとして、一方、昔の人は西洋人の金髪を知らなかったので、その山姥の金髪を老人性の白髪の様なものと解した、それで山姥を老女と想像したとも考えられる。 静岡県磐田郡に残る平安時代の山姥伝説』、『を読み解いても、その山姥の息子が金髪だったと解釈できるという』。なお、『山姥の出自について、中村昻』(なかむらこう)『は、各地の山姥の機織り伝説の解読から、秦氏(はたうじ)などの古代の渡来人ではないかとしている』とある。以上を読んで感じることは、後で三坂が「山姥」を「南蠻國の獸」と断じていることの不審である。私は「山姥」の原型は中国(後注する)その他から渡来した舶来妖怪ではなく、基本、本邦で古い時代から信仰され畏敬されてきた山神の一つが零落した姿であると考えている

「髢(カモジ)」「髪文字」とも書く。狭義には日本髪を結う際に髪に添え加えて豊かにする人毛を「添え髪(がみ)」「入れ髪」を指すが、ここは古い女房詞から生まれた広義の「髪」の意。

「猪苗代白木城」地名で古い城塞跡。現在の福島県耶麻郡猪苗代町蚕養附近と推定される。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「入山(いりやま)」林業業務のために山に入ること。

「杣人なりける間(あひだ)」樵(きこり)であったから。木登りはお手のものということ。

「七、八尺」二メートル十三センチから二メートル四十二センチほど。

「駒」馬。

「人作(じんさく)の及ぶ所にあらず」凡そ人の手で似せて作った贋の白髪の及ぶところでない、本物の人間の白髪であって。

「山姥(やまうば)のかもじ」猪苗代町教育委員会蔵で福島県立博物館寄託品として「山姥のかもじ」が現存する(但し、最早、白くない)。ここで画像が見られるが、その解説によれば、『伝えられている話によると、あるとき山でいたずらをする女を捕まえようとして、逃してしまいますが、手の中には髪の毛が残りました。これを取り返そうと夜な夜な山姥は家に来たが、ついに返さなかったといいます。その後、このかもじを持っていると不幸になるということで、持ち主が転々と代わって最後は猪苗代町の公民館で預かることになったそうです。とにかく持っていると仕事をする気がしなくなって家が傾くというのですから、やっかいなものです』とあり、本「老媼茶話」の古い写本の画像も添えられてある。必見! なお、私は「山姥の髪の毛」と呼ばれるものをよく知っているし、見たこともある。「株式会社キノックス」の公式サイト内の「ヤマンバノカミノケ」を見られたい。これは実は多くの人が想定するような、特定の地衣類や苔の異名ではなく、菌類である茸(きのこ)のあるライフ・サイクル上のステージでの、人の髪の毛に似た一形態・形状を指すものである。同ページから引用する。『ヤマンバノカミノケ(山姥の髪の毛)とは、特定のきのこ(子実体)を指す名前ではなく、樹木(小枝)や落葉上に「根状菌糸束」と呼ばれる独特の黒い光沢を持った太くて硬いひも状の菌糸の束に対して、伝説の奥山に棲む老婆の妖怪である「山姥(ヤマンバ)」の髪の毛になぞらえて命名されたものなのです』。『この黒色の根状菌糸束を形成するきのこには、ホウライタケ属』(菌界 Fungi 担子菌門 Basidiomycota 菌蕈(きんじん)亜門 Hymenomycotina 真正担子菌綱 Agaricomycetes ハラタケ目Agaricales ホウライタケ科Marasmiaceae ホウライタケ属 Marasmius)『やナラタケ属』(ハラタケ目キシメジ科 Tricholomataceaeナラタケ属 Armillaria)、『さらには子のう菌であるマメザヤタケ属』(菌界子嚢菌門 Ascomycotaチャワンタケ亜門 Pezizomycotinaフンタマカビ綱 Sordariomycetes Xylariales Xylariaceae 科マメザヤタケ(クロサイワイタケ)属Xylaria:但し、本種の分類には錯綜がある。因みに本属のタイプ種マメザヤタケ Xylaria polymorpha には、海外では「dead man's fingers(死者の指)という有り難くない名がつけられている。こちらのページの画像を御覧あれ。う~ん、確かに!)『のきのこが含まれ、林内一面に網目状に伸びることもあれば、数メートルの長さに達するものまであります。通常、きのこの菌糸は乾燥に弱いのですが、ヤマンバノカミノケと呼ばれる菌糸束は細胞壁の厚い丈夫な菌糸が束の外側を保護していることから、乾燥や他の微生物からの攻撃に対して強靭な構造となっています』。『因みに、ヤマンバノカミノケの子実体を発見し、根状菌糸束であることを日本で始めて明らかにしたのは、世界的な博物学者として知られている南方熊楠です。ヤマンバノカミノケは丈夫で腐り難いことから、アフリカのギニヤやマレー半島の原住民などは織物に利用しており、日本では半永久的に光沢があることから、神社やお寺などの「宝物」として奉納しているところもあるようです』。流石! 南方先生!

「山姥は南蠻(ナンバン)國の獸(けもの)也」これに相当する大陸の妖怪を調べてみると、「変婆」というものに行き当たった。実吉達郎著「中国妖怪人物事典」(一九九六年講談社刊)によれば、『広西省の少数民族』である苗(ミャオ)族に『伝わる怪異な』話で、大抵は『死んで葬られた女性が何日かのちに墓を破って出て』きて、『髪をふりみだし』、『目は光り、やせこけて生気はなく』、突然、『笑ったり泣いたり発狂状態になる。これをしずめるのに』は『一定の呪術があ』り、それによって『人界からへだてられると、変婆は山谷(さんこく)をさまよい、やがてトラかクマに変ずる』というのである。これと本邦の「山姥」は属性としては似ているものの、この「変婆」を「山姥」のプロトタイプとすることは私は出来ない

「かは」「皮」。

「とくび褌」「犢鼻褌」であるが読みが判らぬ。この漢字三文字「犢鼻褌」で「たふさぎ(とうさぎ)」(古くは清音「たふさき」)或いはそのまま「ふんどし」と読むからである。これは、本来は「短い下袴」で、現在「褌(ふんどし)」或いは「猿股」のようなものだと伝える。後世では「女性の腰巻」も指したから、ここはそれでとってもよかろう。

「丈夫に敵せり」屈強自慢の男子とも互角に組める臂力を持つ。

「木客(キカク)」まずは、中国の古伝承に出てくる魑魅魍魎の一種で、野生の幻獣の中でも最も怪物らしい怪物である山魈(さんしょう)の別名としてよかろう。先の実吉氏の書によれば、『夜出てきて人を犯すといい、樹木の精怪(せいかい)』(精霊(すだま)のこと)『山中の異類』とされるが、後には一本足で足首の附き方が人間とは反対に後ろ前になっていたり、手足の指が三本ずつしかなかったりするようになって、男(山公)女(山姑(さんこ))の区別が生じ、人間に会うと山公は銭を、山姑は紅・白粉(おしろい)を要求し、はたまた、嶺南の山中の大木の枝の上に住処(すみか)を持ち、木製の囲い作って食料を貯えとか、虎を操ることが出来、物を呉れた人間には、虎に襲われぬようにして呉れたりすると尾鰭が着いてゆく。実は既に先行する「述異記(山魈)」の私の注で詳述しているので、そちらを是非、参照されたい。また、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」の「山精(さんせい)」(私は山魈に比定している)も是非、読まれたい。絵もある。但し、良安は実は「山精」とは別項立てで「木客」を挙げており(上記リンク先参照)、そこには、

   *

 

もつかく

木客

  【別に木客鳥有り。禽(とり)の部に見ゆ。】

モツ ケツ

 

「本綱」に、『「幽明錄」に載せて云ふ、『南方の山中に生(せい)す。頭・面・語言(ごげん)、全く人に異ならず。但し、手脚の爪、鈎(かぎ)のごとく利(と)し。絶岩の閒に居み、死するも亦、殯※す。能く人と交易するも、其の形ちを見せず。今、南方に鬼市有ると云ふは亦、此れに類す。』と。』と。[やぶちゃん字注:※=「歹」+「隻」。「殯※」で「ひんせき」と読むか?]

   *

とある。しかし、私が敢えてこれを最初の挙げなかったかといえば、読んで判る通り、これは奇体な山怪や奇獣ではないからである。リンク先の私の注でも述べたが、この「木客」の叙述を読むと、普通の人が登れないような断崖絶壁に住む民は実在するし、私にはこの「木客」なるものが、一種の少数民族若しくは特殊な風俗を有する人々を怪人として差別誤認したのではないかという非常に強い疑問があるからである。詳しくは私の「木客」の注及び私が「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」の中で「木客」について触れた部分(「木客」で検索されたい。他の箇所でも触れているからである)も是非、お読み戴きたい。私はこうした差別に対しては非常な怒りを覚える人間である。

「彭侯(ホウコウ)」中国の木の精霊の名。ウィキの「彭侯」によれば、生えてから千年たった木に取り憑くとされる。「捜神記」によれば、『呉の時代に敬叔と言う人物がクスノキの大木を切ると、血が流れて人の顔を持つ犬のような彭侯が現れ、煮て食べると犬の味がしたとある。また同書によれば、中国の聖獣・白澤が述べた魔物などの名を書き記した白澤図の中に、彭侯の名があると記述されている』彭侯の名は江戸時代の日本にも伝わっており』、「和漢三才図会」や怪談集「古今百物語評判」、鳥山石燕の妖怪画集「今昔百鬼拾遺」にも『中国の妖怪として紹介されている』。「和漢三才図会」には「本草綱目」からの『引用として前述の敬叔の逸話を述べており、彭侯を木の精、または木魅(木霊)のこととしている』。『山中の音の反響現象である山彦は、木霊(木の霊)が起こすと考えられたことから、かつて彭侯は山彦と同一視されることもあった。江戸時代の妖怪画集』「百怪図巻」や「画図百鬼夜行」などに『ある、犬のような姿の山彦の妖怪画は、この彭侯をモデルにしたという説もある』と記す。私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」の「彭侯(こだま)」も是非、読まれたい

「山夫(ヤマヲトコ)」「山女」先の「木客」(=山魈)の男(山公)女(山姑)の発生による同一種と考えてよい。これも私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」の「山精(さんせい)」に附録される「山丈山姑(やまをとこやまうば)」を参照されたい

「狒々(ヒヽ)」私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」の「狒狒(ひゝ)」には明の博物学者李時珍の「本草綱目」から以下のように引いている。

   *

「本綱」に、『狒狒は西南夷に出づ。狀、人のごとく、髮を被(かぶ)り、迅(とく)走りて人を食ふ。黑身、毛有り。人面にして、長き唇びる、反踵(はんしよう)。人を見れば、則ち、笑ふ。其の笑ふに、則ち、上唇、目を掩ふ。其の大なる者は、長(た)け、丈餘。宋【建武年中。】、獠人(らうひと)、雌雄二頭を進む。其の面、人に似たりて、紅赤色。毛は獮猴に似て、尾、有り。人言を能(よ)くす。鳥の聲のごとし。善(よ)く生死を知り、力、千鈞(きん)を負ふ。踵を反(そ)らし、膝無く、睡むる時は、則ち、物に倚(よ)りかゝる。人を獲り、則ち、先づ笑ひて、後、之を食ふ。獵人、因つて、竹筒を以つて臂を貫き、之れを誘ひて、其の笑ふ時を候(うか)がひ、手を抽(ひ)きいだし、錐(きり)を以つて其の唇を釘(う)つ。額に著け、死を候がひて、之れを取る。髮、極めて長し。頭髮(かもじ)に爲(つく)るべし。血は、靴及び緋を染むるに堪へたり。之を飮めば、人をして鬼を見せしむ。帝、乃ち工に命じて之を圖す。

   *

とある。また、私の訳注「耳囊 卷之九 奇頭の事」の私の注「狒猅」(ひひ)も参照されたい。

「野婆(ヤバ)」これこそ文字からは本邦の「山姥」らしくはあるが、中国の書ではそれほどオーソドックスな名ではないようであり、その記載も所謂、野人の女或いは先の「山姑」と変わらないし、古代からの馴染みの妖怪ではない感じで(宋・明以降の本草書に多出)、山の女怪というよりも、実在するヒトではない、所謂、類人猿、サルの一種と比定した方が、腑に落ちるくらいである。さればこそ、これを「山姥」のルーツとするのは私は反対である。

「黑𤯝(カマイタチ)」𤯝」の音は未詳」と同字と考えるなら、現代中国語では「シァン」で、意味は「勝つ」であるから音は「ショウ」となろうか? ウィキの「シイ(妖怪)」を見ると、シイは、『日本の妖怪』と規定し、和歌山県・広島県・山口県・福岡県に伝わる妖獣とあり、『姿はイタチに似ており、牛や馬などを襲うという』とあるのだが、その「シイ」に対して「青」や「𤯝」の字を当てている。以下、引くと、「日本国語大辞典」や「広辞苑」の『記述によると、シイは筑紫国(福岡県)や周防国(山口県)などに伝わる怪獣で、その姿はイタチに似ており、夜になると』、『人家に侵入し』、『家畜の牛や馬を害する存在であると』し、江戸時代の本草書である貝原益軒の「大和本草」や「和漢三才図会」及び大朏東華(おおでとうか)の随筆「斎諧俗談」などでは、この「シイ」に「黒𤯝」という『漢字表記をあてて』おり、「大和本草」の『解説によると、周防国(現・山口県)や筑紫国(現・福岡県)におり、やはり牛馬に害をなすもので、賢い上に素早いのでなかなか捕えることはできないとある』とし、「斎諧俗談」で『は奈良県吉野郡にいるものとされ、人間はこれに触れただけで顔、手足、喉まで傷つけられるとある』。『和歌山県有田郡廣村(現・広川町)や広島県山県郡では、シイを「ヤマアラシ」ともいって、毛を逆立てる姿を牛がたいへん恐れるので、牛を飼う者は牛に前進させる際に「後ろにシイがいるぞ」という意味で「シイシイ」と命令するのだという』。山口県『大津郡長門市では田で牛を使う際』五月五日に『牛を使う、田植え時期に牛に牛具を付けたまま川を渡す、女に牛具を持たせる』、五月五日から『八朔までの間にほかの村の牛を率いれるといった行為がタブーとされており、これらを破るとシイが憑いて牛を食い殺すといわれた』。福岡県『直方市にある福智山ダムには、地元に伝わるシイ(しいらく)の伝承を伝える石碑が建てられて』あるという。この「黒𤯝」とは、『本来は中国の伝承にある怪物の名であり、宋時代の書』「鉄囲山叢談」によれば、「黒𤯝」の『一種として「黒漢」というものが宣和年間の洛陽に現れ、人間のようだが色は黒く、人を噛むことを好み、幼い子供をさらって食らい、その出現は戦乱や亡国の兆しとして恐れられていたとある』。また、明代の書「粤西叢戴(えつせいそうさい)」では、この同類として「妖𤯝」という『ものが、夜になると』、『人家に侵入して女を犯し、時に星のごとく、黒気のごとく、火の屑のようにもなるとある』と記す。しかし、このように中国の「𤯝」類は本邦の「シイ」或いは知られた「かまいたち」とは似ても似つかぬ感じがし、このウィキの最後にも、『江戸期の書物にある「黒𤯝』『」は、日本の正体不明の怪物にこの中国の「黒𤯝』『」の名を当てはめたに過ぎないとの説もある』とあり、私はそれに激しく賛同するものである(下線やぶちゃん)。「和漢三才図会」の「黒𤯝」は、以下のように書かれてある(原典の私の訓読文。一部は私が読みや送り仮名を増補した)。

   *

𤯝(しい)

「震澤長語」云ふ、『大明の成化十二年[やぶちゃん注:ユリウス暦一四七六年。])、京師、物、有り。狸のごとく、犬のごとく、倐然として[やぶちゃん注:「しゆくぜん(しゅくぜん)」で「として」は私が振った。「ピカッと一瞬間に光るかのように」の謂いで、もの凄く敏捷であることを言っているようだ。]、風のごとし。或いは人面を傷(きづ)つけ、手足を噬(か)む。一夜、数十、發(おこ)る[やぶちゃん注:人傷事故が発生するの意で訓じてみた。]。黑氣(こくき)を負ふ來たる。俗に「黑𤯝」と名づく。』と。

△按ずるに、元祿十四年[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七〇一年。]、和州吉野郡の山中に、獸、有り。狀(かたち)、狼に似て、大きく、高さ四尺、長さ五尺許(ばか)り。白黑、赤皁(あかぐろ)、彪斑(へうはん[やぶちゃん注:虎の毛の斑(まだら)の模様。]の數品(すひん)、有り。尾、牛蒡の根のごとく、鋭き頭(かしら)、尖れる啄(くちばし)、牙、上下、各々二つにて、鼠の牙のごとく、齒は牛の齒のごとし。眼(まなこ)、竪(たて)にして、脚、太く、蹼(みづかき)有り。走-速(はし)ること飛ぶがごとく、觸るる所の者、人面・手足及び喉を傷つくる。之れに遇ふ人、俯(うつむ)き倒(たふ)るれば、則ち、噬(くら)はずして去る。銃・弓を用ひて射ること、能(あた)はず。阱(をとしあな)を用ひて數十を得て止む【俗に呼びて志於宇(しおう)と名づく。】蓋し、黑𤯝の屬か。

   *

付帯する図は何だか知らん大山猫か狼か山犬のようなおどろおどろしい感じの四足獣である。落とし穴で数十匹狩り獲ってそれ以後、襲来は納まったというのだから、まあ、徒党を組んだ野犬か狂犬病に罹患した彼らだったのかも知れぬ。なお、「鎌鼬(かまいたち)」については、私の電子化注「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」で、私自身の遠い中学生の時の目撃談(但し、私はあれは「カマイタチ」なんかじゃないと今も確信している)も含めて、さんざん語ってあるので、そちらも是非、参照して戴きたい

「山獺(やまうそ)」不詳。Q&Aサイトのズバリ「山獺(やまうそ)という動物は存在するのでしょうか?」という質問への答えに、

   《引用開始》

本草綱目に山獺が川獺、海獺とともに挙げられていますが、現在の動物名は不詳となっています。陰莖、骨[やぶちゃん注:ここに「水獺」とあるが、「本草綱目」を確認し、衍字と見て除去した。]を薬にするとの事です。川獺(かわうそ)海獺(あしか、らっことも)と並べてみるとこれに似た山の獣として認識していたのだろうと思います。なお日本野生生物研究センターの江戸時代の産物帳から過去の動物の分布を研究した資料には山獺は出ていませんでした。

朝鮮語にはテンの類またはタヌキを指す漢風の名称「山獺(サンダル)」という単語があります。老媼茶話の巻5山姥の髢という話の中に山獺が出てきますが狸と同じように民話に登場する存在です。机のまわりを獺祭状態にしましたが、あまり明確な回答でなくて、すみません。

   《引用終了》

とあった。回答者の獺祭舎屋に引用の敬意を表しておく。

「補益の功」漢方で虚証(「気虚」「陽虚」(陽気の不足による肉体の機能面での失調と及び、「血虚」「陰虚」(陰液の不足による肉体の物質面での失調の総体)を改善する絶大なる効果があること。

「氣(かざ)」私好みの推定訓。

「かぎて」「嗅ぎて」。

「一さん」「一散」。

「もだへ、ありく」「悶へ、步く」。悶えながら木の周りをうろつく。]

老媼茶話巻之五 嶋原の城化物

 

     嶋原の城化物

 

 松倉長門守嶋原の城に居給ひし時、廣間の入口の座敷にて、或夜、燈(ともしび)の光、有り。其夜の廣間に番せし士ども、此燈のひかりをみて、何となく物すざましく、誰(たれ)行(ゆか)んといふ人、なし。

 時に、士、弐人、行(ゆき)て見るに、大廣間の障子をひらき、六尺斗(ばかり)の大女(おほをんな)、髮を亂し、ゆかたを着し、側に行燈(あんどん)を置(おき)、庭を詠居(みゐ)たりけるが、人音(ひとをと)を聞(きき)て振歸(ふりかへ)りたるつらつき、眼(まなこ)、大きく、口、耳の際迄さけたるが、

「につこ。」

と打笑(うちゑみ)たる氣色を見て、壱人、卽座に死す。一人氣を失ひけり。

 其隙(すき)に件(くだん)の女、行衞なく失(うせ)けると、なん。

 

[やぶちゃん注:「嶋原の城」現在の長崎県島原市城内にあった島原城。有明海(有明湾口で島原湾奥)に臨み、雲仙岳の東北山麓に位置する。(グーグル・マップ・データ)。

「松倉長門守」肥前島原藩(この頃の呼称は日野江(ひのえ)藩)第二代藩主松倉長門守勝家(慶長二(一五九七)年~寛永一五(一六三八)年)。初代藩主松倉豊後守重政(彼同様、藩内に苛政と搾取を行って島原の乱の主因を作った)の嫡男。寛永七(一六三〇)年の父重政の急逝を受けて藩主となったが、父を凌ぐ収奪の悪政を敷き、切支丹を容赦なく虐殺、「島原の乱」(寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)~寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日))を引き起こし、乱鎮定後は江戸に送られ、幕府から領国経営の失敗と反乱惹起を問責されて斬首刑に処せられている(松倉家は改易となった。勝家には二人の弟がいたが、次弟の重利は讃岐国及び陸奥国会津へと預けられ、明暦元(一六五五)年に自殺、末弟三弥は助命されたものの浪人となった。但し、重利の後裔は後も三百俵の旗本として存続した)。大名が名誉刑としての切腹さえも許されずに一介の罪人として斬首させられたのは極めて異例で、江戸時代を通じてこの一件のみである。詳しい事蹟は参照したウィキの「松倉勝家を参照されたい。以上から、話柄内時制は寛永七(一六三〇)年から島原の乱の起こる前、寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)よりも前の七年余の閉区間内に限定出来る。或いは、彼の惨死の予兆(警告)ででもあったのかも知れない。

「六尺斗」一メートル八十二センチメートルほど。]

2017/11/21

老媼茶話巻之五 播州姫路城

 

     播州姫路城

 

 姫路の城主松平大和守義俊の兒小姓(ちごこしやう)森田圖書(ずしよ)、十四才の時、傍輩(はうばい)とかけをなし、ぼんぼりを燈し、よる、天守の七階目へ上るに、三拾四、五の、いかにもけだかき女、十弐一重(じふにひとへ)を着て、燈(ともしび)の元に、机へ向ひ、書(ふみ)を讀居(よみゐ)たりけるが、圖書を見て、

「汝、何故に來るぞ。」

と、いふ。

 圖書、手を突(つき)て、

「傍輩とかけをいたし、此所へ參り候。」

と、いふ。

 女、

「然らば、印(しるし)をとらするぞ。」

と、甲(かぶと)のしころを呉(くる)る。

 圖書、是をいただき、おりけるに、天守の三階目の後ろより、大入道、圖書が肩より、のぞき、ぼんぼりの火を吹消(ふきけし)て失(うせ)たり。

 圖書、又、取(とり)て歸(かへ)し、天守へ上るに、女、いつものごとく有(あり)て、

「何、又、何故(なにゆゑ)に來(きた)るぞ。」

と、いふ。

 圖書、申樣(まうすやう)、

「天守の三階目へ下り候に、大入道、後(うしろ)より火を吹消(ふきけし)候まゝ、闇(くら)くして、下へおりわづらい、火を燈(ともし)にまいり候。」

と云(いふ)。

 女、聞(きき)て、

「實(まこと)に汝は、けなげもの也。」

とて、ほんぼりへ、火をつけてくるゝ。

 圖書、天守より下り、殿の御前へ出(いで)、件(くだん)の事を物語して、甲のしころを取出(とりいだ)す。

 大和守、見玉ふに、我(わが)召料(めしりやう)の鎧のしころなりしかば、急ぎ、納戸(なんど)のものを召(めし)、鎧櫃(よろひびつ)を取出(とりいだ)し、見玉ふに、

「しころはなくして、鉢斗(ばかり)有りし。」

と、いへり。

 此もの語りは、姫路の當御城主に仕へる士の咄(はなし)也。

 森田圖書、今、士大將(さむらひだいしやう)と成(なり)けると也。

 

[やぶちゃん注:お馴染み、姫路城の女怪長壁姫(おさかべひめ)の登場である。本書では既に「巻之三 猪苗代の城化物」で名が先行登場している。同工異曲でこれよりも上手く出来ているのは諸國百物語卷之三 十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事「諸國百物語卷之五 四 播州姫路の城ばけ物の事」であろう。参照されたい(孰れも私の電子テクスト。注附き)。

「松平大和守義俊」恐らくは作者(三坂春編は元禄一七・宝永元(一七〇四)年(?)頃の生まれで明和二(一七六五)年没)と同時代の姫路藩藩主松平明矩(正徳参(一七一三)年~寛延元(一七四九)年)を憚って変名を用いたものであろう。彼は寛保元(一七四一)年に白河藩主から姫路藩主へと国替となっている。享保一四(一七二九)年に従四位下大和守を賜っており、彼は初名を松平知と言ったからである。

「森田圖書」不詳。「圖書」は元来は宮中の中務(なかつかさ) 省に属した図書寮(ずしょりょう:書籍・経典や紙・筆・墨などの管理・供給を担当し、また、国史編纂など を掌った役所の略官名。無論、ここは通称に過ぎぬ。

「かけ」「賭」。ありがちな肝試しのそれ。

「ぼんぼり」「雪洞」。灯火具の一種。「ぼんぼり」は「ほんのり」という語の転訛で、灯火を紙や布の火袋(ほぶくろ)で蔽い、火影のほのかに透いて定かならぬのを由来としたとされる。当初、「ぼんぼり」は広く灯火・茶炉(さろ)などに取り附けた蔽いそのものを指したが、その後、小型の行灯(あんどん)を言うようになり、後には、専ら、紙・布などを張った火袋を取り附けた手燭(てしょく)又は燭台を呼ぶようになった。手燭や燭台は蠟燭を用いる灯火具で、通常は灯台のように裸火を点したが、その炎が風のために揺り動かされ、吹き消されたりするのを防ぐためと、失火の虞れを避けるため、行灯のようにこれに火袋を取りつけた「雪洞」が考案されたという。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った。

「いかにもけだかき女」「如何にも氣高き女」。

「書(ふみ)」読みは底本に従った。

「しころ」「錣」。兜 (かぶと)の鉢の左右と後方に附けて垂らし、首から襟の防御とする武具。多くは木製の札(さね) 或いは鉄板を三段乃至(ないし)五段下(さが)りと成して縅し附けた。

「いつものごとく」さっきと同じ様子で。

「わづらい」ママ。「煩ひ」。不如意となり。

「けなげもの」「健氣者」。愛(う)い奴。

「召料(めしりやう)」これは誰からか戴いたというのではなくて、単に「貴人が使う物」の意。

「納戸(なんど)のもの」御納戸役。主君の衣類調度を管理し、誰かからの献上品や主君自身が賜うのに用いる金銀諸物に関する事務を担当した。

「士大將(さむらひだいしやう)」物頭。この場合は、家老の下で実際の軍兵を統括管理指揮する実務パートの最高責任者で、弓組・鉄砲組などの足軽の各組頭の総指揮官ととってよかろう。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶩(あひろ)〔アヒル〕


Ahiru

あひろ   鴨 家鳬

      舒鳬 𩿣

【音木】

      【和名阿比呂】

 

本綱鴨鳴呷呷其名自呼與鳬同名【野鴨鳬家鴨鶩】以別之鳬在

野高飛鶩在家舒緩不能飛也雄者綠頭文翅雌者黃斑

但有純黑純白者又有白而烏骨者【藥食更佳】皆雄瘖雌鳴重

陽后乃肥腯肉【氣味】甘冷稍美清明后生卵則内陷不滿伏

卵聞礱磨之聲毈而不孚無雌抱伏則以牛屎嫗而出之

此皆物理之不可曉者也

腦血 能解諸毒又治中惡及溺水死者【灌之卽活】

△按鶩人家多畜之毎𢩯泥啄蚯蚓啜穢水故肉有

 泥臭氣其飛不過一歩嘴如箆而不尖故不能破卵漫

 落不定其處人拾取使雞伏之其卵重不足十錢者不孚

一種有鳬鶩 形全似鳬而狀全似鶩其飛也捷於鶩人

 家畜之是亦生卵不能自孚

 

 

あひろ   鴨 家鳬〔(かふ)〕

      舒鳬〔ぢよふ〕 𩿣〔(ばつひつ)〕

【音、「木〔(ボク)〕」。】

      【和名、「阿比呂〔(あひろ)〕」。】

 

「本綱」、鴨は鳴くこと、「呷呷〔(かふかふ)〕」、其の名、自ら呼んで、鳬〔(かも)〕名を同じくす。【野鴨は鳬〔(かも)〕、家鴨は鶩〔(あひろ)〕。】以つて之れを別〔(わか)〕つ。鳬〔(かも)〕は野に在りて高く飛ぶ。鶩〔(あひろ)〕は家に在りて舒緩〔(じよくわん)にして〕飛ぶこと能はず。雄は綠の頭、文(あや)ある翅。雌は、黃斑〔(きまだら)〕なり。但し、純-黑(まくろ)・純白(ましろ)なる者、有り、又、白くして、烏(くろ)き骨の者有り【藥食〔するに〕更に佳し。】。皆、雄は瘖(をし)にして、雌は鳴く。重陽の后(のち)、乃〔(すなは)〕ち、肥