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2017/11/14

老媼茶話巻之四 堀主水、女の惡靈に逢ふ

 

     堀主水逢女の惡靈

 

 奧州會津若松の御城主加藤左馬介義明の臣下、堀主水(ほりもんど)と云(いひ)て、三千石を領す。

 主水、宿願の事ありて塔寺の八幡宮へ詣でける折、高瀨と云(いふ)里はづれの土橋の元にて、水にひたり、物洗(あらふ)女、有り。主水、籠の内より能(よく)見るに、年頃廿(はたち)斗(ばか)りにて、世に稀なる美人也。若黨に、

「いづくの者ぞ。」

と、とはせければ、女、答(こたへ)て、

「我、元は中の目と申(まうす)所の賤(しづ)の女(め)にて候が、此春、此所へ緣付(えんづき)參り候。」

と云。

 主水、深く愛着し、權威を以て、おして、夫に緣をきらせ、我方(わがかた)へ、かの女、召寄(めしよせ)、其名を花と名付(なづけ)、なのめならず、寵愛す。

 此女、勝れたる美女なれ共、好色の女にて、主水が小性(こしやう)より召仕(めしつかひ)ける源五郎といふ美男ありしに、互に心ざしを通じながら、人目の關を急(せき)て、月日を過(すぐ)しける。

 主水、そば近く召仕(めしつかふ)女の内にて、

「かく。」

と、主水に告知(つげし)らす。

 主水、大きに怒り、咎(とが)の實否も糾明せず、源五郎をば、首を刎(はね)、花をば、強くいましめ、庭の松の木へくゝりあげ、足の下へ源五郎が首をおき、花に是を踏(ふま)せける。

 花、大きにうらみ、いかり、主水を散々に訇(ののし)り、惡口をしける間、主水、彌(いよいよ)はらにすへかね、馬屋の下部(しもべ)角助といふ強力者に云付(いひつけ)、花を〆殺(しめころ)し、死骸を、ひそかに寶積寺(はうしやくじ)の後(うしろ)なる松陰に埋(うづめ)鳬(けり)。

 其後、半年程過(すぎ)て、主水、書院に立出(たちいで)、柱にもたれ、皐月(さつき)中旬の、朧月夜の空行(ゆく)月を詠(よみ)、何心なく有けるに、俄に月くもり、雨ふりて、何となく物すごく、寒毛(さむけ)たち、おそろしさ、忍ひ難く有ける折、庭の木陰のほのくらき所より、白きもの、見へけるが、次第に近く步み來(きた)るを見るに、花なり。

 白かたびらを天窓(アタマ)よりかぶり、雨落(あまおち)へ來り、縁(えん)ふちへ手を懸(かけ)、主水を、つくづくとまもり居たりけるが、則(すなはち)、座へ上(のぼ)り、主水に近付けるを、わきさしを拔、切付(きりつけ)たるに、たゞ雲水(くもみづ)を打(うつ)がごとく、姿、彷彿(ホウホツ)として、手に、たまらず。是より、每夜、花が幽靈、來り、主水を、さまざま、せめ、なやます事、百日斗(ばかり)、主水も力つかれて、形體、衰へける。

 主水、ある時、欝氣(ウツキ)、なぐさみの爲、神指原(カミサシハラ)の新城(しんじやう)の跡へ、鷹野(たかの)に出(いで)、終日(ひねもす)、小鳥をかりくらし、夕方、宿所へ歸りけるに、藥師堂の刑罰場の大そとばの松陰に、年頃、六拾斗(ばかり)の老僧、石に腰をかけ、傍に杖と笠とを、をき、わらじのひもをむすび有けるが、主水がその前をとふりけるを見て、

「殿、暫く御止り候得(さふらえ)。申上度(まうしあげたき)事、候。」

と云。

 主水、立(たち)どまり、

「御僧は、いつくより、いつかたへ御通り候ぞ。用ありとは某(それがし)が事か。」
と云。僧の曰、

「愚僧は越後の國より當國天寧寺へ用ありて參候所化(しよけ)の僧侶にて候が、只今、殿の御面色(めんしよく)を見奉りけるに、怪物の爲に神氣をうばはれ、魂魄、身を守らず、血水、色をかざらず、筋骨、肉をはなれ、死相、今夕(こんせき)にあり。人間の命數は天元(てんげん)定まりありといへ共、御身は定業(じやうがふ)にあらずして非命(ひめい)の死を請(うけ)玉へり。必(かならず)、陰惡をなし玉はん。その業報たるべし。御用心候得。」

と云。

 主水、心に覺へあれば、

『扨は、此僧、凡骨にあらず。』

とおもひ、敬して僧に近付、

「我等住宅は壱の町と云所にて天寧寺へ近く、今日、まげて、我方に一宿あられ候得。爰は中途にて往來の人も多く、咄申度(はなしまうしたき)事も罷(まかり)ならず。ぜひ、御供可申(おともまうすべし)。」

とて、僧を、むたいに我(わが)乘來(のりきた)山かごに打乘(うちの)せて、急ぎ、宿所に歸り、僧を座敷招(しやう)じ、樣々もてなし、其後(そののち)、人を除(のぞき)、主水、申樣(まうすやう)、

「先程、御僧の、『積惡(せきあく)の家には必(かならず)餘殃(よあう)有(あり)て身命(しんみやう)をほろぼす物也』と、の玉ふ。誠に不思義に覺へ候。それに付(つき)、我(われ)、死相のあらはれ候、子細こそ候へ。」

とて女を殺しける後、靈鬼の每夜來り、惱(なやま)す事、くわしく語り、

「御僧の佛力方便を以(もつて)、件(くだん)の惡靈を退(しりぞ)け給はれ。」

と、わりなく賴(たのみ)ければ、僧の曰、

「人は萬物の靈長なるものに候。其(その)命取ると申(まうす)は、かろからぬ事にて候。其咎(とが)の眞僞をも御糺(おただし)なく、むたひに御殺(おころ)し被成(なされ)候故(ゆゑ)、女、罪にふくせず、其氣、凝滯(ケツタイ)して散ぜず、魂(たましひ)、中有(ちゆうう)にさまよい、あやしみをなすものに候。それ、人の始(はじめ)て死(しに)、七日を以(もつて)、忌とす。七日、七日に、一魂、散ず。故に七々(しちしち)四十九日を限りとして、魂、亡ぶ。易に曰、『精氣、物となり、游魂(ユウコン)、變(ヘン)をなす』と申(まうす)は、此故(このゆゑ)にて候。女の恨(うらみ)の氣、深くして、其身、骸(むくろ)をはなれず、魂魄、天地に離散せず、中有にさまよひ、祟(たたり)をなすものに候。其女、殺されし月日を指を折(をり)てかぞふるに、明日、一囘忌に相(あひ)當候得共、靈鬼、宿報をとぐる期(き)、すでに來(きた)れり。たとへ其身大ばんじやくの内に陰(かく)れ、萬刃(ばんぢん)のかこみをなし玉ふとも、決(けつし)て、御命、のがれ給ふべき樣(やう)、人力・佛力にも及(および)難し。倂(しかしながら)、靈鬼退散仕(つかまつる)べき方便、候。人、多(おほく)ては、他の聞(きこ)へ憚(はばかり)あり。御身近く候(さふらふ)人、一兩輩、めしつれ候わん。」

とて、其曉、主水を始(はじめ)、弐、三人にて、忍びて寶積寺山へ行(ゆき)、女を埋(うづめ)し塚を見るに、草茫々と生しげれる塚の上に、少(ちいさ)き、穴、あり。

 其穴より、なまぐさき氣を、吹出(ふきいだ)す。

 其氣をかぐ者、おうゑつして、黃水(わうずい)を吐(はく)。

 坊主、みずから、土を崩し、棺(おけ)のふたをひらき見るに、死(しし)て年を過(すぎ)けれども、女の面色、平生にかはらず、猶、生(いけ)るがごとく也。

 坊主、則(すなはち)、主水にしやうぞくぬがせ、主水が頭(かしら)・面(おもて)・身内(みのうち)、不殘(のこらず)、經文を書(かき)て、壱の神符(しんぷ)を主水が口にふくませ、氣息をやすからしめ、坊主、申樣(まうすやう)は、

「今夜、必(かならず)、あや敷(しき)事、候べし。其折、氣をおさめ、息をしづめ、少(すこし)も動き給ふな。」

とて、女の死骸と主水とを壱棺に入(いれ)、もとのごとくに埋置(うづめおく)。

 坊主は、主水が屋敷へ歸りける。

 牛滿過(すぐ)る頃、女の死かばね、頻りに動き起直(おきなほ)り、くるしげなる息をつぎ、うしろ樣(ざま)に、ひやゝかなる手をまはし、主水が身の内、克々(よくよく)探り見て、

「不思義成(なる)事哉(かな)。にくしと思ひける人もいつしか死果(しにはて)て、白骨に、苔(コケ)、生(ヲイ)たり。此曉は、必(かならず)、此人の命をうばひ、魂を拔(ぬき)、血を吸(すひ)、骨を喰(くらひ)、日ごろの恨み晴(はら)さむと思ひしに、今こそ、怨念、はれたり。」

とて、振返り、主水にひしといだき付(つき)、首をのべ、口をひらき、舌を出し、主水を天窓(アタマ)より手足迄、不殘(のこらず)、ねぶりけるが、女の屍(シカバネ)、主水が膝に倒れ懸り、弐度(ふたたび)、起(おき)あがらず。

 かくて、あかつきになりける頃、坊主、來り。女の塚を崩し、棺を開き、主水を出(いだ)し、女の骸(むくろ)を能(よく)見るに、凝結、いまだ散ぜざるにや、面色に惡相殘り有りければ、坊主、珠數(ずず)を以(もつて)、女の額を撫(なで)て曰、

「見よ、見よ、汝がふかく大惡心をとゞめし堀主水正(しやう)、今、すでに死(しし)、骸(むくろ)、汝が傍(かたはら)にあり。肉、消(きえ)、骨、晒(さらされ)たり。主水、去(さり)て後(のち)、誰(たれ)をさして怨敵となさんや。今、汝に妙文(みやうもん)の一句を示さむ。靈骸(れいがい)、慥(たしか)に、うけ、たもて。」

とて高聲(こうしやう)に曰、

「落華、枝に返らず、破鏡、二度、てらさず。四大、破れて、五薀(ごうん)、空(くう)に歸(き)す。魂魄、天地に消散して、冥々朧々たり。今汝が色身(しきしん)、いづくにありて、此世に執着(しゆうぢやく)をとゞめんや。一心の迷妄によつて、永く地獄にだざいして、剉燒舂磨(ザシヤウセウマ)のくるしみを受けんや。すみやかに惡念を去(さり)て成佛とくだつせよ。則(すなはち)、汝を『法通妙心信女』と名づく。悟道せよ、悟道せよ。

  思ひ見よ仇(あだ)も情(なさけ)も白露の消(きえ)にしあとはたゞの秋風」

 靈鬼、此一句のしめしを得て感得やしたりけん、忽(たちまち)、姿、にうはの相となり、快然たる氣色にみへけるが、唯(ただ)、朝日にむかふ露霜のごとく、皮肉、見る内に消(きえ)とけて、一具の骸骨斗(ばかり)、殘りけり。

 坊主、白骨に向ひ、目をとじ、合掌し、暫く、經、讀(よみ)、念佛して、其後、女の死骸、元のごとく埋置(うづめおき)、主水が屋敷へ歸りけり。

 主水、申(まうし)けるは、

「此度(このたび)、貴僧の法力によらずば、惡鬼の爲に命をとられ申(まうす)べし。此地に永く御留り候得。幸(さひはひ)、天寧寺の住持、老衰し、寺勢、叶(かなひ)難き由(よし)、申上(しんじやう)たり。我等、取計(とりはから)ひ、天寧寺へすへ申べし。」

と、再三、云(いひ)けれども、坊主、承引せず、

「雲水の一所不住を樂と仕(つかまつ)る。御志(おこころざし)、悦存候得(よろこばしくさふらえ)ども、御免候へ。しばし斗(ばかり)の假(かり)の世を、とてもかくても、過(すぐし)候べし。御緣も候はゞ、重(かさね)て御目に懸り申べし。亡者のなき跡をも、克々(よくよく)御とむらい候へ。菅相公(くわんしやうこう)の靈、伯有(はくいう)が鬼も候。乍憚(はばかりながら)、御身は血氣の勇士にて、ものゝ哀(あはれ)を知り玉はず。不仁不義の行跡(かうせき)、多かるべし。君寵(くんちよう)にほこり、奢(おごり)をほしいまゝにして、人のにくみを得玉はゞ、終りをよくはしたまふまじ。こうりやうの悔(くい)なきやうに御愼候べし。さなくば、三年をへずして大難に逢(あひ)玉ふべし。御暇(おいとま)申候。」

とて立出(たちいで)けるが、いづくへか行(ゆき)たりけん、其行方(ゆくゑ)を知る人、なし、とかや。

 

[やぶちゃん注:本篇には実は次に、この実在した主人公堀主水の、凄絶なる実録形式の後日談が続くが、この主水の殺害した女の靈とは無関係で、寧ろ、この亡霊を鎮めた僧の最後の言葉を、所謂、会津騒動で数奇な最期を遂げることとなった主水の後半生に繋げた、卓抜した優れ物(しかも次話でもそのエンディングには、やはり、ある怪異がしっかりと仕込まれてある)となっていると言えよう。標題は「堀主水(ほりもんど)、女の惡靈に逢ふ」と訓読する。

「加藤左馬介義明」(よしあき/よしあきら 永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)。会津藩初代領主。既出既注

「堀主水」(天正一二(一五八四)年~寛永一八(一六四一)年)加藤家家臣。主水は通称、元姓は多賀井。多賀井家は和泉淡輪の土豪で織田信長に従い、紀伊の根来雑賀衆と戦うなどした。主水は成長して加藤嘉明に仕え、大坂の陣で善戦して敵将を討ったことから(次章でも語られる)堀姓及び加藤家の軍事の采配権が与えられ、会津に移ってからはここにあるように三千石を与えられ、次の息子明成(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年:加藤嘉明長男。会津藩第二代藩主。既出既注)の代になってからも家老として国政に関わったが、放埓な明成をしばしば諫めた結果、彼から憎しみを買い、遂には会津騒動で斬首されることとなる(それはまた次章で語られる)。

「塔寺の八幡宮」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺松原にある心清水八幡神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。道を挟んだ東隣には既出既注の恵隆寺(立木観音堂)がある。社伝によれば、陸奥守源頼義が天喜三(一〇五五)年にこの地に八幡神社を勧請したのを起源とするという。会津藩の崇敬を受けた。

「高瀨」九キロメートルほど東になるが、福島県河沼郡高瀬西という地名を見出せはする(ここ(グーグル・マップ・データ))が、ここかどうかは不明。直ぐ東を日橋川という川は流れている。

「水にひたり」「水に浸り」。

「籠の内より」三千石取りの軍師采配の家臣であるから、プライベートな参拝ではあるが、籠に乗っているのである。

「中の目」現在の河沼郡会津坂下町内に中目十日町という旧地名を見出せる(ここ(グーグル・マップ・データ))が、ここかどうかは判らないが、前の二つの地名の位置関係から見るならば、とんでもない位置とは言えない。

「人目の關を急(せき)て」「人目の關」は関所のように人を容易に通さない意から、人目が憚られて思うままに逢えないことを言い、「急(せき)て」はその「関」に掛けながら、「(恋しい思いのために)心がどうにも激しく動き」しようがない気持ちを謂っていよう。

「寶積寺(はうしやくじ)」福島県会津若松市花見ケ丘に現存する曹洞宗宝積寺(ほうしゃくじ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。因みに、ここのまさに裏手(実際に山である)には後年、白虎隊ら、会津藩士が実弾の訓練をしたと言われる的跡がある。

「神指原(カミサシハラ)の新城(しんじやう)の跡」現在の福島県会津若松市神指町本丸(ここ(グーグル・マップ・データ))にあった神指城(こうざしじょう)址。慶長三(一五九八)年)正月に会津へ移封の命を受けた上杉景勝が、会津盆地の東南隅に位置する若松城が狭隘であることを憂慮し、慶長五(一六〇〇)年二月より、盆地中央で阿賀川畔の神指ヶ原(こうざしがはら)に新たな城の建設を始めた(惣奉行は直江兼続)。石塁・二の丸・堀まで構築したが、六月の酷暑のために休工し、さらに徳川家康の会津征伐によって竣工に至らず、関ヶ原の戦いの後、慶長六(一六〇一)年八月、上杉景勝は米沢へ移封となり、完成を待たずして神指城は破却された(慶長年間に石垣は若松城へ運ばれた模様)。以上はウィキの「神指城」に拠った。

「鷹野」鷹狩りのこと。

「藥師堂の刑罰場」先行する「巻之三 藥師堂の人魂」で考証済みで、この附近(グーグル・マップ・データ)と私は推定した。

「大そとば」「大卒塔婆」。

「とふりける」「通りける」。

「天寧寺」福島県会津若松市東山町石山天寧に現存する曹洞宗萬松山天寧寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「天寧寺(会津若松市)によれば、文安四(一四四七)年に『蘆名盛信が大瞞行果禅師 南英謙宗のために陸奥国会津黒川東山に開いたといわれる。勧請開山は傑堂能勝であった。かつては会津曹洞宗の僧録司を兼ね、末寺』三十三ヶ寺、僧堂十二棟『を数えたとされる』。『蘆名家中興の英主とされ、会津地方に大勢力を築いた蘆名盛氏が銭』百『貫文を寄進した記録があり、最盛期には雲水』一千『名を擁する蘆名氏の菩提寺であった』。天正一四(一五八六)年、『蘆名亀王丸の死によって蘆名氏は血統が途絶え、伊達氏と佐竹氏の争いとなったが、結局は佐竹義重の次男・義広が跡を継いだ。義広は、当初陸奥国白河の白河結城氏を継いで結城義広あるいは白河義広と称していたが』、翌年、『蘆名盛隆の娘と結婚して正式に蘆名家を継ぎ蘆名義広を名乗った』。義広は天正一七(一五八九)年の『摺上原の戦いの敗北により』、『米沢の伊達政宗によって会津黒川を追われ、天寧寺もこの戦いで一時』、『焼亡している。当時の遺構として残っているのは本堂の礎石のみである』という。『会津を追われた蘆名義広は実兄・義宣を頼って常陸国に逃れ、のち、豊臣秀吉から常陸国江戸崎』四万五千石を『与えられ、名を蘆名盛重と改めた。なお、会津は伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の蒲生氏郷を封じた。氏郷の死後は上杉景勝を越後国より加増のうえ転封した』。『後援者を失った天寧寺であるが、その後も周囲の人びとの尽力によって維持され、現代につづいている』。因みに、この『境内裏手には、戊辰戦争に敗れ』、『刑死した新選組局長近藤勇の墓がある。近藤勇の墓は日本各所にあるが、天寧寺の墓は土方歳三が遺体の一部を葬ったとされている』とある。

「所化(しよけ)」(しょけ)は、修行中の僧や弟子、また広く寺に勤める役僧を指すが、ここでは僧の謙譲語であろう。

「魂魄、身を守らず」魂魄が精気を失って心身を守るべきはずのそれが全く以って働いておらず。

「血水、色をかざらず」血の気はその生気の色を完全に失っており。

「死相、今夕(こんせき)にあり」死相は、まさに今日の夕暮れに死の迫れることを指し示して明らかである。

「凡骨」僧としての才能や素質が平凡な者。

「壱の町」既出既注であるが、再掲しておく。福島県会津若松市上町(うわまち)一之町。ウィキの「上町(会津若松市)」によれば、『若松城下の城郭外北部に属しており、西側の大町から馬場町を経て東側の甲賀町に至る東西を結ぶ通りで、幅は』四間(七百二十七メートル。)『あった。西側の大町から馬場町までを下一之町、東側の馬場町から甲賀町までを上一之町といった』とある。この中央付近(グーグル・マップ・データ)。

「むたいに」「無體に」。無理に。強引に。

「人を除(のぞき)」人払いをして。彼が小姓を斬首し、花を無残に折檻した上に殺害、宝積寺の裏に秘かに埋めたことは、花を絞め殺させた厩番の角助以外には知らぬ秘密であるからである。

「餘殃(よあう)」(よおう)は、広義には「祖先の悪事の報いが、災難として子孫にまでも及ぶこと」を言う。

「むたひに」先の「無体」に同じい。歴史的仮名遣は誤り。

「中有(ちゆうう)」仏語で四有(しう)の一つ(後述)。死有(しう)から次の生有(せいう)までの間。人が死んでから次の生を受けるまでの期間。七日間を一期とし、第七の四十九日までを指す。「中陰」とも言う。「四有」の「有」は梵語の漢訳で「生存」「存在」の意で、「衆生の存在の在り方」を期間別に四種に分類したもので、死んでから次の生を受けるまでの期間を「中有」、それぞれの世界に生を受ける瞬間を意味するのが「生有」、その新たな生を受けてから死ぬまでの一生の期間を「本有」、その生あるものが死ぬ瞬間を意味するのが「死有」である。

「易に曰、『精氣物となり、游魂(ユウコン)、變(ヘン)をなす』と申(まうす)」「易經」の「繫辭上」に「仰以觀于天文、俯以察于地理。是故知幽明之故。精氣爲物、遊魂爲變、是故知鬼神之情狀」(仰ぎて以つて天文(てんもん)を觀(み)、俯(ふ)して以つて地理を察す。是(こ)の故に幽明の故(こと)を知る。始(はじめ)を原(たづ)ね、終(おはり)に反(かへ)る、故に死生の説を知る。精氣は物を爲(な)し、游魂は變を爲す。是(こ)の故に鬼神の情狀を知る)とあるのを指す。「天を仰いでは天文(日月星辰)を、俯いてはこの世の地理(山川草木)を正しく観察する。これによって目に見える有形の世界のみでなく、目に見えぬ無形の幽冥の世界をも読み解くことが可能となる。それは、あらゆる存在や現象の始まりを究明し、同時にその終わりに回帰することが出来る、即ち、それらは循環するものなのである。それ故にあらゆる死生(栄枯盛衰)の原理をも解明出来る。即ち、陰陽の精気が凝集したものが、我々の視認出来る有形の世界に現出し、生物となり、即ち、それが分散遊離したものが、本来は不可視の無形の世界に幻出し、霊魂となるのである。この離散集合の原理を認識することによって、鬼神の出来消滅という現象も知ることが出来るのである」といった意味であろう。

「骸(むくろ)」底本では編者は『からだ』とルビするが、従わない。後もそう読んだ。

「大ばんじやく」「大磐石」。巨大で堅固な大石。

「かこみをなし」「圍みを成し」。

「かぐ」「嗅ぐ」。

「おうゑつ」「嘔咽」。嘔吐。

「しやうぞくぬがせ」「裝束脱がせ」。

「神符」護符。

「うけ、たもて」「請け、保て」。

とて高聲(こうしやう)に曰、

「てらさず」「照らさず」。

「四大」仏教での原義は物質世界を構成する四つの元素「地」・「水」・「火」・「風」の四大種を指すが、ここは、それらによって構成されている「人間としての生身の身体」を意味する。

「五薀(ごうん)」「蘊」は「集合体」を意味し、対象や現象の認識をするための物質的存在の在り方を言う「色(しき)」と、精神的作用を示すところの「受」・「想」・「行(ぎょう)」・「識」の五つを指す。

「冥々朧々」暗くはっきりとしないさま。

「色身(しきしん)」仏教で、物質的なものから出来ている人間の肉体の意。

「剉燒舂磨(ザシヤウセウマ)」地獄の責め苦を四字熟語に纏めたもの。「剉」は型に嵌めて出っ張ったものを斬り取ること、「舂」は臼で舂(つ)くこと、「磨」は石臼で粉微塵にすること。

「とくだつ」「得脱」。生死の苦界(くがい)から脱して、菩提に向かうこと。

「にうは」「柔和」。

「露霜」底本は『つゆじも』とするが、「つゆしも」でよい。

のごとく、皮肉、見る内に消(きえ)とけて、一具の骸骨斗(ばかり)、殘りけり。

「申上(しんじやう)たり」「申し出が以前よりある」の意であろう。

「すへ」「据え」。歴史的仮名遣は誤り。住持とし。

「菅相公(くわんしやうこう)の靈」祟り神、御霊(ごりょう)としての菅原道真の霊。

「伯有(はくいう)が鬼」「春秋左氏伝」に出る伯有の幽霊(「鬼」は中国語では「死者」「死者の霊」を指す)。之四 山伏惡靈に「鄭(テイ)ノ伯有之(ハクユウシ)」として既出既注なので、事蹟はそちらを参照されたい。一九九二年十月刊の『岩手大学教育学部年報』に載る中村一基氏の論文「蟠桃・篤胤の朱子〔鬼神説〕批判」(PDFファイルでダウン・ロード可能)を引用しておく。

   《引用開始》

 紀元前五百四十三年(孔子の少年の頃)鄭国の貴族伯有が反乱を起こし国の武器庫を押さえたが、彼の兄弟によって殺される(裏公三十年)。それから八年後、鄭の国内に伯有の霊の噂が流れる。或る人が夢で伯有を見たという。共の夢の中で伯有は自分を殺した二人の者の死を宣告する。そして、予告通りの日に彼らは死ぬ。鄭の人々は恐怖に襲われおののいた(昭公七年)。

 朱子は 〔伯有の霊〕出現について、

[やぶちゃん注:以下の引用は底本論文では全体が二字下げ。]

 

伯有厲り[やぶちゃん注:「たたり」(祟り)と読む。]を為すが如きに至りては、伊川は別に是れ一般の道理なりと謂う。蓋し其の人の気未だ当に尽きざるべきに強に[やぶちゃん注:「したたかに」と訓じておく。生にしぶとく執着しての意。]死なば、自是ら[やぶちゃん注:これで「おのづ(ず)から」と訓ずる。]能く厲りを為す。(『語類』三)

 

 と説く。朱子は気の尽きる前に無理遣りに死に至らしめた者が、死後幽霊となって祟りを為すと言う。〔気の聚散〕説から言えば「強死」則ち非業の死を遂げた者の気がとどまり幽霊となるという理解だ。朱子は生から死へという行程を〔気の衰弱〕過程と見た。彼によれば老衰による死とは衰弱しきった気が散ることだ。気は盛んな状態を強引に断ち切られた時、すぐには消滅出来ないという。此の考えは鄭の大夫子産の「物を用いて精多ければ、則ち魂魄強し」(『春秋左伝』昭公七年)という生前の魂魄の強さが死後に及ぼすとともに「匹夫・匹婦も強死すれば、其の魂魄、猶ほ能く人に憑依して、以て淫席を為す」(同上)という強死説の朱子流の継承であろう。

   《引用終了》

「こうりやうの悔」「亢龍の悔(く)い」。「亢龍有悔」(亢龍、悔い有り)は、やはり「易經」の「乾(けん)」に出る語句(先の「繫辭上」にも再掲されている)。「亢龍」は「昇りつめた龍」の意で、「天に昇りつめてしまった龍は、後は、下るしかなく、後悔することになる」の謂いで、後には「栄達を極めた者はそれを自戒自省して、対処しなければ、必ず衰える」という譬えとして用いられる。因みに、主水に死を賜った次代の加藤明成は結局、その会津騒動によって寛永二〇(一六四三)年に改易され、代わって第二代将軍秀忠の子保科正之(慶長一六(一六一一)年~寛文一二(一六七三)年)が藩主となるのであるが、実はこの正之の座右の銘がまさに「亢龍有悔」であったのである(例えばの記事を参照されたい)。これはどう考えても、偶然とは思われない(次注末尾を参照されたい)

「三年をへずして」ここでは冒頭で堀主水は嘉明の家臣として出る嘉明の没年は寛永八年九月十二日(一六三一年十月七日)であり、主水が会津騒動で斬首されるのは寛永一八(一六四一)年であるから、十年余りが経っているおり、この「三年」は、彼の最期が彼の性格に基づく因果応報であるとするのならば、合わないように見えるしかし、ここで僧の忠告を受けて主水が改心したとすれば、納得は出来る。彼が殺されるに至ったのは、彼の過去の悪行によるものでは、基本、なく、次代の暴虐の主君明成の惡逆非道による全くの外部からの暴威による別物の宿命であった、と考えればよいからであるこの後に三坂が主水の死の物語を続けたのは、どのような意図かは定かではない。しかし、私は案外、三坂は主水の死を因果応報とは思っていなかったのではないかと秘かに思うのである。だからこそ、三坂は、明成の次代に会津藩を背負って立ったた。日本史史上屈指の名君と讃えられる保科正之の座右の銘「亢龍有悔」をここに敢えて持ち出したのではなかったろうか?

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