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2017/11/02

北條九代記 卷第十一 久明親王征夷將軍に任ず

 

      ○久明親王征夷將軍に任ず

 

同九月、北條貞時一族參會して、「關東爪牙(さうが)の將軍には、誰(たれ)をか册(かしづ)き奉りて、武家の柱礎(ちうそ)と崇(あが)め奉るべき」とて、評議、數般(すはん)なる所に、貞時、申されけるは、「攝家の中には然るべき器量の人おはしますとも聞及ばす。後深草〔の〕院第二の御子は、是、主上の御連枝(ごれんし)として、久明(ひさあきの)親王と申す。御母は三條内大臣藤原〔の〕公親(きんちか)公の御娘、從二位房子(ふさこ)と號し、御匣殿(みくしげどの)と稱す。この親王を迎へて、鎌倉に居ゑ奉り、主君の禮を致さん」とありしかば、一族諸親、皆、一同して、賴綱入道が次男飯沼〔の〕判官に、名ある武士七人を相副(あひそ)へて、上洛せしめらる。後深草〔の〕院も然るべき事と思召して、卽ち、勅許あり。同十月三日、親王、御元服あり、征夷大將軍に任じ、一品に叙し、式部卿を兼ね給ふ。御年十六歳。仙洞より六波羅へ移り給ひ、關東に赴き給ふ。惟康親王の通り給ひし足柄越(あしがらごえ)は、先蹤(せんしよう)宜(よろ)しからずとて、別の路を御下向あり、貞時、大に喜び、前將軍惟康の住み給ひける館を壞(こぼ)ちて、新しく御所を造り、册入(かしづきい)れ參らせ、幕府の權威、此所(こゝ)に新(あらた)なり。大名、諸侍、殊に拜趨(はいすう)の禮を盡し、番役の勤(つとめ)を致されしかば、鎌倉、二度(たび)、平安の風に皈(き)し、關東、悉く、政治の德を仰ぎ奉る。前將軍惟康親王の御娘を御息所とせられしかば、その方(かた)の人々も、何(いつ)しか怨(うらみ)の雲も散じて、悦(よろこび)の眉をぞ開きける。

 

[やぶちゃん注:「久明親王」(ひさあきのしんのう:本条では標題にも「の」が入っているのでそれに従う 建治二(一二七六)年~嘉暦三(一三二八)年)は後深草院(久明出生時に既に上皇で三十歳)と藤原(三条)房子(二位局・三条公親の娘)の間に生まれた。鎌倉幕府八代征夷大将軍。ここでは第二皇子としているが、実際には後深草の第六皇子である(第一皇子常仁親王(この当時は既に故人)・第二皇子熈仁親王(伏見天皇)・第三皇子性仁法親王(仁和寺)・第四皇子幸仁親王(この当時は既に故人)・第五皇子行覚法親王(円満院)の次(それぞれの母はウィキの「深草天皇を見られたい)。ウィキの「久明親王によれば、ここに記されている通り、正応二(一二八九)年九月、従兄の前将軍惟康親王(後嵯峨天皇第一皇子で鎌倉幕府第六代将軍となった後深草天皇の異母兄宗尊親王の子)が『京に送還されたことにともない、征夷大将軍に就任した』(当時、未だ満十二歳であった)『幕政の実権は得宗北条貞時が一貫して握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった。ゆえに在職中は特に業績もなかったが、冷泉為相を師として和歌を学んでいた久明親王は鎌倉歌壇の中心として歌合を主催しており、執権の北条貞時も複数の和歌を久明親王家で詠んでいる。親王自身の和歌も』二十二首が「新後撰和歌集」「玉葉和歌集」「続千載和歌集」など八『つの勅撰集に入集している』。就任から十九年後の延慶元(一三〇八)年八月に、惟康同様、北条氏(当時の執権は第十代執権北条師時(非得宗家)であったが、得宗家高時(第十四執権)の中継ぎであって事実上は依然として前執権貞時及び得宗家が実権を握っていた)に『よって将軍職を解任され、京に送還され』、『出家した。交代する形で』八『歳の子の守邦親王(前将軍惟康親王の娘との間に出来た子)が将軍となった』。但し、『鎌倉幕府の皇族将軍は先々代宗尊親王・先代惟康親王と放逐同前の形で京都へ送還されていたが、久明親王の場合』は『京都へ送還された後も幕府との関係は平穏であったようで』、嘉暦三(一三二八)年に彼が逝去した際には、幕府は喪に服すため、五十日間の沙汰停止(ちょうじ)を行い、『翌年正月には百箇日法要が鎌倉で行われている』。『守邦親王の他に、歌道の師である冷泉為相の娘との間に子息久良親王がいる。久良親王の息子は臣籍降下して源宗明として従一位権大納言まで昇っている。また』、『鎌倉幕府滅亡後に天台座主となった聖恵も久明の子とする説もある』とある。

「同九月」の惟康親王京都送還に続くので、「同」は正しく、正応二(一二八九)年九月。

「關東爪牙(さうが)」「爪牙」は「主君や国家を守護する家来・主君の手足となって働く家臣」の意であるが、ここは関東を守る事実上の東の守りの頂点たる征夷大将軍のことを指す。

「册(かしづ)き奉りて」大切にお世話申し上げて。

「三條内大臣藤原〔の〕公親(きんちか)」(貞応元(一二二二)年~正応五(一二九二)年)は正二位内大臣。父は従一位右大臣三条実親。母は従一位太政大臣西園寺公経の娘。

「賴綱入道」北条得宗家の御内人筆頭格として北条時宗・貞時の執事を勤め(貞時にとっては乳母父)、時宗死後に対立した有力御家人安達泰盛を先の「霜月騒動」で滅ぼし、「内管領(うちかんれい)」として幕府内に絶大なる権勢を持った平頼綱(仁治二(一二四一)年?~正応六(一二九三)年)。

「飯沼〔の〕判官」飯沼資宗(文永四(一二六七)年~正応六(一二九三)年)は頼綱の次男で得宗家御内人。安房守。ウィキの「飯沼資宗によれば、御内人で国司に『任命されるケースは稀である』とある。弘安二(一二七九)年九月、『得宗領である駿河国富士郡内で「刈田狼藉」を行ったとして日蓮門徒の百姓が捕縛され』、『頼綱の命で鎌倉の侍所へ連行された、いわゆる「熱原法難」の際、当時』十三『歳(数え年)の資宗が門徒に改宗を迫って鏑矢を射たという』。この正応二(一二八九)年九月、得宗政権による将軍すげ替えのために将軍惟康親王が京都へ送還された後、『資宗は御内人としては異例の検非違使に任ぜられ』、十月に『新将軍久明親王を迎えるために上洛した。その際、「流され人ののぼり給ひしあとをば通らじ」と、流罪として送還された前将軍惟康親王の通った跡は通れぬと詠い、箱根を通らず』、『足柄山を越えたという。入洛後は検非違使任官の挨拶回りのため、束帯姿で』四、五『百騎の武士を従えて上皇御所や摂関家、検非違使別当邸を訪れ、そのありさまを多くの貴族達が大路の傍で見物した。資宗はさらに五位の位を得て、大夫判官となり、御内人としてかつてない栄誉を極めた。直属の上司である検非違使別当は、ある法会の上卿(責任者)を急遽辞して、資宗の訪問を待ち受けている』。『この年の』三『月から鎌倉に滞在していた』「とはずがたり」の作者である『後深草院二条を邸にたびたび招いて和歌会を催している。二条は資宗を「思ったよりも情ある人」と評し、その交流の深さから周囲に仲を疑われたと思わせぶりに描いている』。正応四年、『鎮西の訴訟と引付衆による神社・仏寺の裁判迅速化のための監察とな』るが、正応五年五月には『再び上洛し、検非違使として葵祭の行列に加わった。金銀で飾り立てた資宗一行の出で立ちは、見物した正親町三条実躬』(おおぎまちさんじょうさねみ)が日記「実躬卿記」に『おいて「その美麗さは、およそ言語の及ぶところではない」と評するほどであった』。『賀茂祭の翌年』正応六年四月二十二日、『鎌倉大地震での混乱の最中、鎌倉の経師ヶ谷にある頼綱邸で、頼綱の権勢を危険視した貞時の命を受けた武蔵七郎の軍勢に急襲され滅ぼされた(平禅門の乱)。享年』二十七。『御内人の賀茂祭り参加は資宗が最初で最後となった』とある(下線やぶちゃん)。

「惟康親王の通り給ひし足柄越(あしがらごえ)は、先蹤(せんしよう)宜(よろ)しからずとて、別の路を御下向あり」前の注の引用下線部を参照されたい。

「册入(かしづきい)れ參らせ」心を籠めて丁重に御養育申し上げ。

「拜趨(はいすう)の禮を盡し」急遽、御所に参上しての威儀正しき礼拝の礼を丁重に尽くし。

「番役」警護役。

「皈(き)し」「歸し」に同じい。

「關東」ここは旗下の幕臣総ての意。

「前將軍惟康親王の御娘」(?~嘉元四(一三〇六)年)次代で最後の鎌倉幕府将軍となる守邦親王の母。

「その方(かた)」惟康親王方。]

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