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2017/11/26

柴田宵曲 俳諧博物誌(9) 鯛 一

 

柴田宵曲 俳諧博物誌 鯛

 

     

 

       

 

 真夏に際して

 

 水無月や鯛はあれども塩くじら   芭蕉

 

と詠んだ芭蕉は、冬季において

 

 ふぐ汁や鯛もあるのに無分別    芭蕉

 

の句を遺している。この二句は鯛を正面から扱わず、引合(ひきあい)に出した点で揆(き)を一(いつ)にしているが、引合に出された鯛の立場は必ずしも同じではない。腐っても鯛といわれる代物にしても、炎暑の際は危険だから安全な塩鯨を択(えら)むというのが前者で、鯛という安全なしかも上等な肴(さかな)があるのに、殊更に中(あた)る虞(おそれ)のある河豚(ふぐ)を食う者を戒めたのが後者である。芭蕉は自ら世に処するに当り、常にこの種の用心を忘れなかったであろう。ただこの用心は如何なる道学先生をも首肯せしむべき性質のものなるが故に、俳句になって見ると一向面白くない。少くとも珍夕(ちんせき)が酒落堂(しゃれどう)の戒旛(かいばん)に「分別の門内に入(いる)ことをゆるさず」と書いたのを賞(ほ)めて、「かの宗鑑(そうかん)が客にをしふるざれ歌に一等くはへてをかし」といった芭蕉の作としては、いささか分別臭過ぎる憾(うらみ)がある。

[やぶちゃん注:「鯛」宵曲の扱いから見て、代表種としての動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata 条鰭綱 Actinopterygii スズキ目 Perciformes タイ科 Sparidae マダイ亜科 Pagrinae マダイ属 Pagrus マダイ Pagrus major を挙げておけばよかろう。

「水無月や鯛はあれども塩くじら」底本は『塩鯨』とするが、諸本から、かく平仮名にした。「蕉翁句集」では元禄五(一六九二)年(死の二年前)の作とする。

「ふぐ汁や鯛もあるのに無分別」この句は現在、芭蕉の句ではなく、誤伝と推定されている。中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波文庫刊)では「みつがしら」所収の「花百韻」の賀子の付句「世の中に鯛有(あり)ながら無分別」を誤ったものか、とする

「揆(き)を一(いつ)にしている」「軌を一にする」は「軌」は「車輪の跡・轍(わだち)」で、「車輪の通った後を同じくする」の意から、「同じ轍を辿る」という意であるが、「揆」は「方法・やり方」という意であるから、こう書いても誤りとはならない。反して「機」とすると、「時を同じくする」の意となるので誤用となる。

「珍夕(ちんせき)が酒落堂(しゃれどう)の戒旛(かいばん)」芭蕉が元祿三年三月(四十七歳)の時、膳所に滞在していた際、近江蕉門の一人で医師であった浜田珍夕(後に洒堂と改名した)の琵琶湖畔の邸宅「洒楽堂」の脱俗と風雅を讃美した一文「洒樂堂(しやらくだう)の記」を指す。「戒幡」とは禅宗の山門にある「葷酒(くんしゅ:臭いの強い物と酒。不浄なる食物とされた)山門を入るを許さず」の類いの刻記された標語を指し、芭蕉はそれを珍夕の風流なる「洒樂堂」には「分別の門内に入ることを許さず」は確かに相応しいと「樂」しく「洒」落たのである。以下に全文を示す。

   *

 山は靜かにして性(せい)を養ひ、水は動いて情を慰(ゐ)す。靜・動二つの間にして、住みかを得る者あり。濱田氏珍夕といへり。目に佳境を盡し、口に風雅を唱へて、濁りを澄まし、塵を洗ふがゆゑに、洒樂堂といふ。門に戒幡(かいばん)を掛けて、「分別の門内に入ることを許さず」と書けり。かの宗鑑が客に教ゆる戲(ざ)れ歌に、一等加へて、をかし。且つそれ、簡にして、方丈なるもの二間(ふたま)、休(きう)・紹(ぜう)二子の侘びを次ぎて、しかもその矩(のり)を見ず。木を植ゑ、石を並べて、かりのたはぶれとなす。そもそも、おものの浦は、瀨田・唐崎(からさき)を左右の袖のごとくし、湖(うみ)をいだきて三上山(みかみやま)に向ふ。湖は琵琶の形に似たれば、松のひびき、波をしらぶ。比叡(ひえ)の山・比良(ひら)の高根をななめに見て、音羽(おとは)・石山(いしやま)を肩のあたりになむ置けり。長等(ながら)の花を髮にかざして、鏡山(かがみやま)は月を粧(よそ)ふ。淡粧濃抹(たんしやうのうまつ)の日々に變れるがごとし。心匠(しんしやう)の風雲も、またこれに習ふなるべし。

                 ばせを

 

 四方より花吹き入れて鳰(にほ)の波

 

   *

文中の「宗鑑が客に教ゆる戲(ざ)れ歌」とは京西郊の山崎に隠棲した山崎宗鑑(生没年未詳(一説に天文二二(一五五三)年没とも):室町後期の連歌師。近江の生まれ。名は範重、通称は弥三郎。始め、将軍足利義尚に仕え、後に出家して一休宗純に師事した。当初は宗祇らと連歌を作ったが、次第に滑稽機知の句風へと向かい、俳諧撰集「犬筑波集」を編して宗長や荒木田守武らと交わり、彼らとともに俳諧の創始者の一人となった)が、庵の入口に掲げたと伝えられる俳諧歌「上は來ず中は來て居ぬ(着座はしない)下は止まる二夜泊る二夜泊るは下下の下の客」を指し、「休」は千利休、「紹」は利休の侘茶の師であった紹鷗(しょうおう)を指す。「おものの浦」膳所の古名であると同時に、貴人の食膳の意もあり、それを掛けている。「長等」は園城寺の裏にある山で桜の名所。「鏡山」は前に出た近江冨士の異名をとる「三上山」の東の山で歌枕であると同時に月の名所として知られた。「淡粧濃抹」「奥の細道」の「象潟」でも用いられた蘇東坡の詩「西湖」に用いられている一句。「心匠」心情を句にする技。]

 けれども芭蕉は何時も右の如き観念を以て、鯛に臨んだわけではない。

 

 鹽鯛の齒ぐきも寒し魚の店(たな)   芭蕉

 

などという光景は、前人のいまだ捉え得なかった、枯淡なる芭蕉世界の一として、直(じか)にわれわれに迫るものを持っている。これは単なる観念の産物でなしに、芭蕉の眼を通して見た実感の現れである。もし余りに枯淡に過ぎて、鯛のみずみずしい華かさを欠いているという人があるならば、眼を転じて

 

 小鯛さす柳すゞしや海士(あま)が軒   芭蕉

 

を挙ぐべきであろう。この句は可憐な小鯛と柳の緑との調和が美しい上に、「すゞし」の一語によって夏らしいみずみずしさを添えている。芭蕉にして「鯛はあれども塩鯨」の観念を固守するとしたら、夏の鯛の上にこうした美しさを発見することは、所詮不可能であるに相違ない。

[やぶちゃん注:「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)」底本は「店」を「棚」とするが、これに換えた。「棚」と表記する諸本(露川編「流川集(ながれがわしゅう)」・編者不詳「古蔵集(ふるくらしゅう)」・炭翁著「俳諧染糸」)もあるが、私は採らない。元禄五(一六九二)年十月の作で、其角の句「聲かれて猿の歯白し峯の月」に想を得て作られたことが知られている。土芳自筆の「赤草紙草稿」では「鹽鯛の齒ぐきは寒し魚の店」とし、「此句、句兄弟に出る。白船にハ齒ぐきもと有」と注する。「句兄弟」は元禄七年(芭蕉没年)其角編(後で注する)。以上は先に示した中村氏の岩波文庫「芭蕉俳句集」の脚注に拠った。漢字表記は明治期の諸本に従った。

「小鯛さす柳すゞしや海士(あま)が軒」元禄二年の「奥の細道」の旅での詠句である(但し、「奥の細道」には載らない)。「曾良書留」には「西濱」の前書で「小鯛さす柳涼しや海士(あま)がつま」の句形で出るが、その「西濱」という地は決定的に比定はなされていない。但し、金沢の俳人らが表六句を付けているので、この句が金沢で披露されたことは確かである。山本健吉「芭蕉全発句」(二〇一二年講談社学術文庫刊)によれば、「曾良書留」の記載では本句は夏の句の間に挟まって記されており、「西濱」については、荻原井泉水は象潟と外海とを隔てる地峡の西側の浜を比定地とし、金沢在の殿田良作は直江津以西の海岸説を主張し、簑笠庵(さりゅうあん)(高梨)梨一(りいち)(芭蕉よりも七十年後の正徳四(一七一四)年生まれ)の精緻な注釈書「奥細道菅菰(すがごも)抄附録」では金沢の西海岸の宮腰とするが、山本は六月二十八日・二十九日の越後村上(新潟県村上市の海浜)での作と推定している(私もそれを支持する)。宵曲の示した「海士が軒」の句形は蝶夢編「芭蕉翁発句集」・仏兮・湖中編「俳諧一葉集」の句形であるが、「白雄夜話」はこれ(「軒」)を初案とする。他に「小鯛さす柳涼しや海士が家」(曾良編「雪満呂気(ゆきまろげ)」)の句形もあるが、私は「つま」(妻)が断然よいと思う。正直、宵曲が「軒」なんぞを選んだ理由が解せないくらいである。なお、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 55 村上 小鯛さす柳涼しや海士が妻』(二〇一四年八月十四日記事)も是非、参照されたい。]

 

 六月は空鮭をがめ鯛よりも   支考

 

の句は明(あきらか)に「塩鯨」の伝統を引いたものであるが、あらゆる意味からいって、殆ど芭蕉の句から一歩も出ておらぬ。空鮭はカラザケと読むので、乾鮭のことであろう。盛夏の安全なる食料品として塩鯨を乾鮭に替えただけでは、そこに何の新味をも発見し得ぬのである。

 

 鯛の味あれて牡丹のさかりかな   壺中

 

 鯛は春季を以て最も美味とする。桜鯛の称はこの時において妍麗(けんれい)なる桜色を呈するからだともいい、桜花の季節だからともいう。いずれにせよ、桜から牡丹に移れば、鯛の味はいささか落ちることになる。牡丹は桜に次ぐ花として、季節の移りかわりを現したものであろうが、「鯛の味あれて」の一語にこまかな味覚の消息を伝えているのを看過しがたい。

[やぶちゃん注:「妍麗」艶(あで)やかで美しいこと。娟麗とも書く。]

 

 あやめふく屋根から鯛をねぎりけり 南里

 

 これは瑣末な事柄のスケッチと見られる。端午の菖蒲を葺きに屋根へ上った男が、折から来た肴屋の荷を見下して、屋根を下りもせずに鯛を値切るという、ややはしたない動作を描いたのであろう。あやめ葺く五月になれば鯛の盛(さかり)を過ぎるので、そのために値切ったものと解すると、理窟は合う代りに重苦しくなる。あやめ葺く業と、鯛を値切ることと、二つの所行を同時に一人に兼ねさせて、不調和の調和を見出したところに、この句の主眼はあるらしい。

 

   宮嶋の船中

 鯛網の太鼓もちかし雲の峯     摘山

 

 今までの鯛の世界は、この句に至って豁然(かつぜん)と展ける。「鯛網の太鼓」というのは、網を引く際の合図か何かに打つ太鼓であろう。海上にはその太鼓の音をはね返すように、白い雲の峯が聳えている。自然の背景が大きくなるだけ、鯛そのものの影はむしろ稀薄であるが、夏の鯛の句としては異彩を放つに足るものといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「豁然」原義は「ぱっと開けること。広々としたさま」で、転じて「疑いや迷いや瑣末な事柄が瞬時に消え去るさま」をも言う。]

 芭蕉の鯛の句と或点で対照をなすものは其角の鯛である。『句兄弟』にある

 

 鯛は花は江戸に生れて今日の月   其角

 

の如きは、西鶴の「鯛は花は見ぬ里もあり今日の月」から生れたもので、其角の独造と見るべき点はないが、この江戸意識は別に、

 

   一食千金とかや

 津國(つのくに)の何五兩せんさくら鯛 其角

 

の句をなさしめた。江戸はどう考えても鯛を以て誇り得べき地ではない。しかるに本場の関西に対して「津國の何五兩せん」の一語を著(つ)け来るところ、其角の面目躍如たるものがある。

[やぶちゃん注:「句兄弟」宝井其角編元禄七(一六九四)刊。立命館大学アート・リサーチセンター「ArtWikiの「兄弟」によれば、『上中下三巻きのうち、上巻は三十九番の句合を載せる。古人から当時に及ぶ三十八人の句を兄として、其角自身が「反転の一躰をたてて」弟句を詠み、句合ごとに解かれる判詞には弟句の当代性や機知を提示する。最後の三十九番のみ其角の句を兄、芭蕉の句を弟としている。中巻以降は紀行句、其門人や当代俳人諸家の句を、健・新・清・偉・麗・豪の六格に分類して収める』とある。]
 
「鯛は花は見ぬ里もあり今日の月」この句は西鶴の延宝八(一六八〇)年刊の「阿蘭陀丸二番船」所収で、其角の句の載る「句兄弟」はその十四年後の元禄七(一六九四)年刊。西鶴はその前年に元禄六(一六九三)年に没している

「独造」ママ。独創。]

 

 墨染に鯛彼(かの)櫻いつかこちけん  其角

 紀國(きのくに)の鯛釣つれて汐干かな 同

 

 前の句は好んで奇を弄した延宝度の作だから、多くいうに足らぬ。紀国の鯛釣を汐干に拉(らつ)し来るに至っては、全く余人の窺うを許さぬ世界である。この句はわかったようで十分にわからぬが、如何に鯛釣の名人といえども、汐干潟では策の施しようがあるまい。但「津國」といい、「紀國」といい、共に関西の国名を挙げたのは、鯛の本場の那辺に存するかを示す結果になっている。

[やぶちゃん注:「かこちけん」「かこち」は「託(かこ)つ」「喞(かこ)つ」で「嘆いて言う・不平を言う」の意。

「延宝」一六七三年から一六八一年。]

 この句に直接関係はないけれども、紀国の鯛は西鶴も『永代蔵』の材料に用いている。大湊(おおみなと)泰地の鯨突(くじらつき)源内なる者が、舟枕(ふなまくら)の御夢想に恵比須(えびす)様の示現(じげん)を得て、生船(なまぶね)の鯛を殺さずに遠方まで送る方法を発明する。「弱し鯛の腹に針の立所(たつところ)尾さきより三寸ほど前をとがりし竹にて突(つく)といなや生(いき)て働く」というのが秘伝で、大(おおい)に利を博する話である。この源内の御夢想談はあるいは西鶴の創作かも知れぬが、鯛の療治の一段は、其角も俳話中に取入れているから面白い。

[やぶちゃん注:「永代蔵」正しくは「日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)」。井原西鶴作の浮世草子で、町人物の代表作の一つ。貞享五(一六八八)年刊。以上は「巻之二」の「天狗は家名(いへな)の風車」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。引用部はその末尾(リンク先の次頁)であるが、宵曲のそれとはリンク先のその表記はやや異なるので示す。「弱(よはり)し鯛の腹に針の立處(たてところ)尾さきより三寸程前をとがりし竹にて突(つく)といなや、生(いき)て働(はたら)く」。]

 

  あらめの茵(しとね)辛螺(しんら)を枕(まくらす)と

              揚水

 心地やむ鯛に針さす生小船 其角

  まれに尾だきを出(だし)し山老(さんらう)

              才丸(さいまる)

 

 延宝年中のものだから、『永代蔵』より早いわけである。こういう興味において、西鶴と其角とは慥(たしか)に一脈相通ずるところがあったろうと思われる。

[やぶちゃん注:「あらめ」不等毛植物門褐藻綱コンブ目レッソニア科アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis

「辛螺(しんら)」狭義には食用にする巻貝の内で、外套腔から出す粘液に独特の辛味を感ずる種群、例えば、軟体動物門腹足綱前鰓亜綱新生腹足上目吸腔目アクキガイ(悪鬼貝)超科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus、新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アクキガイ上科アクキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシ(疣辛螺・疣螺)Thais clavigera(以上の二種はかなり辛い)、アクキガイ超科アクキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa、アクキガイ超科テングニシ科(カンムリボラ)テングニシ属テングニシ Hemifusus ternatanus などが挙げられるが、広義にはそれらの近縁種やそれらの独特のごつごつした形状に似た全く辛くない全くの別種をもかく呼ぶ傾向がある。]

 鯛の腹を突いて肚裏(とり)の浮袋を破り、生かしたまま遠方へ送る方法は、現在でも行われているらしい。暁台の「針刺(ささ)ば涼しき鯛の眼(まなこ)かな」という句なども、これだけでははっきりわからぬが、恐らく同様の手段を講ずる場合であろう。鯛の涼しい眼に留意するあたり、俳句としては単なる事柄以上に歩を進め得た点もある。

[やぶちゃん注:以上に書かれた浮き袋に対する手法は現在でも重要な処置として生きている。多様な状態の鯛に種々の処方がある。サイト「豊後水道 佳丸」の「漁師の常識」のページの「フク」とある(まさに鯛のケースが書かれてある)条々を参照されたい。]

 鯛の名所として地方的季題になりそうなのは安芸(あき)の浮鯛(うきだい)であろう。『大言海』にも「安藝國、豐田郡、味潟(あぢかた)ノ海ニ、每年春夏ノ交、數日ノ間、鯛、水面ニ群リ浮ブコトノ称。古ヘハ、櫻鯛ト云ヒシトゾ」と出ている。『詞花集』の「春來ればあぢ潟の浦一潟に浮くてふ魚の名こそ惜しけれ」という歌も引いてあるが、これは花を惜しむ心を桜鯛に寄せたので、実感は極めて乏しい。俳人の作るところも多くはその範疇を出ぬようである。

[やぶちゃん注:「大言海」のそれは正字化した。

「味潟」現在の広島県三原市幸崎能地(のうじ)地区の海浜の古称。同所のここ(グーグル・マップ・データ)に浮鯛神社がある。「株式会社ナッツカンパニー」製作のサイト「kusudama」の「海に漂う鯛と人」に『かつて瀬戸内海に面した広島県三原市能地の沖合では浮鯛という現象がありました』。三『月中旬から』五『月初めの満潮時に、鯛を主とした魚類が腹を上にして大量に浮ぶのだそうです。漁師は待ち構えてこれを網ですくうというのですから、まさに天のお恵みです。理由は定かでありませんが、強い潮流のためとか、水温変化のためとかいわれています。この現象は古くからあったらしく、『日本書紀』には、功神皇后(仲哀天皇室)が渟田門(ぬたみなと)に停泊し食事していると、鯛が船に群がってきたので海に酒を注いだ。するとみな酔って浮んだので漁師は歓喜してこれを捕り、以来』、六『月になると鯛が浮ぶようになったとあります。季節はずれますが』、『浮鯛現象のことでしょう。渟田門の比定地は若狭・出雲・安芸説がありますが、安芸には沼田(ぬた)郡があり、同郡能地で浮鯛現象が起きていることからして安芸が妥当と思います。能地は、陸地に家を持たず家船に住み、漁業や水夫として生計をたてていた海人(あま)と呼ばれる人々の拠点でした。いわゆる漂泊の民です。かれらは功神皇后に鯛を捧げたのは自分たちの先祖で、以来、菅原道真・平清盛・源義経・足利尊氏といった歴史上の有名人に浮鯛を献上してきたのだという伝承を伝えています。これはただの自慢話ではなく、こういう歴史があるから自分たちには浮鯛を捕る権利・由緒があるのだ、という主張につながります。またそれは、自分たちはなぜ漂泊しているのか、自分たちの水夫・漁民としての技能がなにに由来するのか、そうした疑問に対する漂泊の民の自己確認でもあるでしょう』とある。民俗学的にも第一級の解説である。脱帽した。]

 

 おぼろ月浪のうき鯛よるさヘや     曉臺

   宮嶋奉納

 いき鯛や是も神代の一雫(ひとしづく) 乙由

   藝州能地の浮鯛は多く古哥(こか)

   にもよめる所なり、その里人浮鯛

   の發句あつめらるゝよしきこへ侍

   りければつかはす

 浮鯛よ何所(どこ)で夢見て花はちる  除風

   能地の浦

 浮鯛の名やさくら散(ちる)三四月   支考

 

 諸人から集めた浮鯛の句は、果して上木(じょうぼく)の機を得たかどうか。除風の句はその需(もとめ)に応じたまでのものであるが、支考のは全然それとは別で、旅行の途次能地の浦に遊んだ際の句である。それにしては句も振わず、『梟日記(ふくろうにっき)』の本文にも浮鯛の実感を伝えたものがないのを憾(うらみ)とする。

[やぶちゃん注:「上木」書物を印刷するために版木に彫ることから転じて、書物を出版すること。板行(はんぎょう)。上梓。

「梟日記」各務支考が師芭蕉没後四年目、初めて職業俳諧師としての自覚を持って行った元禄一一(一六九八)年の筑紫への俳諧行脚の旅日記。芭蕉が予定していながら、ついに果たせなかった西国行脚の夢の実現でもあった。尾花沢市歴史文化専門員の梅津保一氏の「西国行脚の夢」に詳しい。必読。]

 以上の句はいずれも鯛を詠んだものには相違ないが、鯛そのものの姿はあまり明瞭に浮んで来ない。

 

 山吹の底は鯛なりさかな籠   文鳥

 

という句になると、山吹に蔽われているにかかわらず、その下の鯛が生々とわれわれの感覚に触れて来る。あるいはこの句境は必ずしも鯛に限らぬ、他の魚にも流通するという人があるかも知れない。しかし山吹の花の底に肴籠の鯛が赤くほのめいているのは、如何にも豊な感じで、棄て難いように思う。

 

 紅(あk)ン頰(づら)の鯛はカヂケズ雪の濱

                     句空

 

 「カヂケズ」というのは妙な字が書いてあるけれども、普通の活字にはなさそうだから、印刷所に敬意を表して仮名に換えた。雪の浜に赤鯛の投出されているところは、美しい眺であるに相違ない。但(ただし)紅白の対照がやや殊更めいて、山吹の底にほのめく鯛の自然なるに如かぬのである。

[やぶちゃん注:「カヂケズ」歴史的仮名遣は「かじけず」で「悴けず」と漢字もある。古くは「かしく」と清音で、無論、今も用いる「かじける」で、「手足などが凍えて自由に動かなくなる」こと、「かじかむ」ことである。]

 

 生鯛のすきとほりけり朝の月   恕風(じよふう)

 

 この鯛はどういう場所に置かれているのかわからぬが、鯛そのものの美しさを詠じた句としては、先ずこれらを挙げなければなるまい。朝の月も単なる配合でなしに、透き通るような鯛の美しさを大に助けている。こういう魚の美しさを浮上るように描いた句は、鯛以外の場合にもあまり見当らぬようである。

 

 花の雨鯛に鹽するゆふべかな   仙化

 

 この句は厨(くりや)の中の光景で、鯛の美しさを描いていないことはないが、その美しさは連想に俟(ま)つところが多く、「すきとほりけり」というほど、直接眼前に浮んで来ない。朝月の下に透き通る鯛は、鮮(あざやか)な色彩の上に或光を帯びているように感ぜられる。

 

 二の膳やさくら吹込む鯛の鼻   子珊(しさん)

 

 ここに至り鯛は遂に俎上を飛び越えて膳上のものとなった。二の膳に幅を利かす先生は、いずれ大鯛に相違ない。小さな鯛では特に「鯛の鼻」というのも工合が悪いからである。花見の宴ででもあるか、一陣の風が膳部の上に桜を吹込む趣は、画よりも更に美しい。鯛を点じたのは膳上の印象を強からしむる効果があるが、「鼻」とまでは少々いい過ぎであろう。真に落花を吹込むほどの鼻とすれば、その鯛の大きさも思いやられて、ちょっと箸を執る勇気が出にくくなる。二の膳の鯛の上に桜が散りかかるというだけでは、作者は満足出来ぬのであろうか。

 

 鯛の骨打つたゝいつ春くれぬ   利牛

 

 焼かれた鯛の運命は型の如く骨となる。その上に打ったり叩いたりされては、あまりありがたい仕合(しあわせ)ではない。但この骨は鳥の場合のように、スープの役を勤めるのでもなさそうである。子規居士の『仰臥漫録』に「サツマ四ワン」という記載があり、括弧して「コレハ小鯛ノ骨ヲ善ク燒キテ善ク叩キテ粉ニシテ味噌ニ和シテヌク飯ニカケテ食フナリ、尤(もつとも)鯛ノ肉ハ生(なま)ニテ味噌ニ混ジアルナリ」と註してある。利牛の句の鯛の骨も多分そんな目的の下に打ったり叩いたりするのであろう。そこに暮春の情と何か相通ずるものがあるから面白い。

[やぶちゃん注:老婆心ながら、利牛の句の中七は「うつつたたいつ」(うっつたたいつ)と読む。

「仰臥漫録」の引用は明治三四(一九〇一)年九月二十七日の条の夕食のリストの冒頭の「サツマ四ワン」の下にある割注風の記載。子規が没するのは翌明治三十五年九月十九日である。無論、ルビは原典にはない。この「サツマ」とは魚を用いた混ぜご飯である「薩州飯(さつすいはん)」のことである。そのレシピは、私の愛読書である、江戸後期の漢詩人柏木如亭(かしわぎじょてい 宝暦一三(一七六三)年~文政二(一八一九)年)の遺稿として文政一五(一八二二)年に刊行された、日本漢文で書かれた世界に冠たるグルメ本「詩本草」に載る。柏亭は魚を用いた種々の炊き込みご飯や汁かけ飯などを総称して「魚飯(ぎよはん)」と称して二条に渡って述べているのであるが(如何に彼がそれが好きだったかを如実に物語っている)、その「魚飯」の冒頭で、如亭が第一の絶品とするのが、他ならぬ「薩州目飯」なのである。「詩本草」の原文及び訓読文を示す。底本は揖斐(いび)高校注「詩本草」二〇〇六年岩波文庫刊)を参考に用いたが、漢字は恣意的に正字化し、訓読文は読み易くするために私が一部に手を加えた。

   *

魚飯之法、先斫鯛魚作二三寸肉片、揀其骨最軟者、火烘爲抹、團赤味噌煆投淸水、以作冷羹、而埋肉片干熱飯内、撤抹及紅椒白葱細切者干羹中、澆飯食之。飯不覺熟、肉不覺冷、奇不可言。名薩州飯。魚飯數十法中此爲第一。

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魚飯(ぎよはん)の方は先づ鯛魚(てうぎよ[やぶちゃん注:タイ。])を斫(き)りて二三寸の肉片と作(な)し、その骨の最も軟かき者を揀(えら)び、火烘(くわこう)[やぶちゃん注:炙ること。]して抹(まつ)と爲(な)し、赤味噌を團(まる)めて煆(や[やぶちゃん注:=燒。])きて淸水に投じ、以つて冷羹(れいかう[やぶちゃん注:冷たい味噌汁。])を作り、而して肉片を熱飯内に埋(うづ)め、抹及び紅椒(こうせう[やぶちゃん注:唐辛子。])、白葱(はくそう)の細かに切る者を羹中に撤(さん)し、飯に澆(そそ)ぎて、これを食らふ。飯は熱きを覺えず、肉は冷たきを覺えず、奇なること言ふべからず。「薩州飯(さつしうはん)」と名づく。魚飯數十法の中、此を第一と爲す。

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 也有は『百魚譜』の冒頭において「人は武士、柱は檜(ひ)の木、魚は鯛とよみ置ける、世の人の口にをける、をのがさまざまなる物ずきはあれど、此(この)魚をもて調味の最上とせむに咎(とが)あるべからず」といった。鯛は百魚の王とも呼ばれるようであるが、これを以て首(はじめ)とするに異論はないと見える。

[やぶちゃん注:「百魚譜」これまた私の愛読書である俳人横井也有(元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年):尾張出身。名は時般(ときつら)。尾張藩の重臣で武芸・詩歌・絵画・音曲など各方面に優れ、多芸多能で知られた)の有名な俳文集「鶉衣(うずらごろも)」の中の「百魚譜(ひゃくぎょのふ)」の冒頭部。寛延二(一七四九)年、四十八歳の時のもの。「衆魚賦」の別称もある。サイト「俳句森」で読める。以下に出る引用もこの引用のすぐ近くである。リンク先で確認されたい。]

 

 諸佛あれど魚にして鯛籃(かご)の花 支考

 

の句も、鯛を重んずる一証に算(かぞ)うべきである。

 也有はまた「しかるをもろこしにては、いかにしてかことに賞翫の沙汰も聞へず、是(これ)に乘(のり)ける仙人もなし」ともいっている。仙人を持出したのは、鯉に乗った琴高(きんこう)があるためであろうが、日本人が特に鯛を重んじ、漢土の人がこれを顧みぬとすれば、そこに国民性の掩うべからざるものがある。「人は武士、柱は檜の木、魚は鯛」も、日本精神に結びつけて説くべきものかも知れぬ。左の一句は古人にもそういう気持のあったことを、明示しているものの如くである。

 

 日の本や鯛を喰(くら)ふてさくら狩  沙月

 

[やぶちゃん注:「琴高」周代の趙の仙人。仙術を得意とする琴の名手で、二百年気儘に暮らした後、河の龍を捕えると称して水中に去り、約した時日に鯉に乗ってそれを巧みに馭して水中から現われ、人々を驚かせた。一説に八百年を生きたともされる。琴高仙人図は本邦でも室町以降に故事人物画の画題として好んで取り上げられた。]

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