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2017/11/15

老媼茶話巻之四 幷、主水行末 /老媼茶話巻之四~了

 

   幷、主水行末

 

 寛永四年五月四日、加藤左馬助嘉明(ヨシアキラ)、及(および)、式部少輔明成、豫州松山より若松の城に入(いり)玉ふ。義明、同八年九月二日、武州にて逝去ましまし、死骸を火葬にしてたゞちに棺槨(くわんくわく)を作り、會陽城の西住吉大明神の前應胡(ヲウコ)河原にて荼毘(ダビ)し、松光院殿前拾遺釋道譽大居士と號しける。子息明成の代になり、國の政道、亂大(おほいにみだれ)、欲(ヨク)無道の仕置、多かりける。

 明成の臣、堀主水正(ほりもんどのしやう)、代々、家老職なり。しばしば明成の非道を諫(イサメ)、爭(アラソイ)を以て主君明成と不和なり。明成、主水正をにくみ給ふ事、深く、亡父義明より主水にゆるし給(たまふ)所の采配(サイハイ)を取返し玉ふ。

 此主水、拾六の時、大坂冬陣の戰(いくさ)に眞先(まつさき)に進み、能(よく)敵と懸合(かけあひ)、馬上より堀の中へ組(くみ)て落(おち)、終(つゐ)に敵の首を取り高名を顯はす故、夫(それ)より多賀井を改(あらため)、堀を以(もつて)、家號とす。大剛のもの也。依之(これによつて)、義明、采配をゆるし給へり。

 然るに、明成の代に取返し給(たまふ)間、主水正、是を大きにうらみ、いきどをり、同十六年四月十六日、護法山示現寺へ湯治(たうぢ)のよしを申立(まうしたて)、町々より、驛馬(えきば)を多(おほく)集め、主水正、幷(ならびに)、兄眞鍋小兵衞・多賀井又八、兄弟三人・家臣八人、各(おのおの)妻子從(シウ)類三百餘人、若松を出奔して中野街(カイ)道にて若松の御城に向ひ、一面に鐵砲を打放(うちはなつ)。辰の刻、闇川橋(くはがはばし)にいたり、柴を積上げ、火を懸(かけ)、橋板を燒落(やきおと)し、あしの原の關所、押破(おしやぶ)り、二股山に至り、持來る所の鑓(やり)・長刀(なぎなた)を捨(すて)、相州鎌倉に蟄(チツ)居しけるが、

「此處へも式部殿より討手(うつて)向ふ。」

と聞(きき)て、妻子をば、鎌倉の尼寺へ賴置(たのみおき)、夫(それ)より、紀州高野山趣(おもむき)、引籠(ひきこも)り隱れ居たり。

 式部殿、彌(いよいよ)、腹にすへかね、

「會津四拾萬石にも替(かへ)て唯(ただ)置(おく)まじ。」

とて、彼(かの)山の文殊院へ手を入(いれ)、文殊院の應昌(わうしやう)へ、さまざまの音物(いんもつ)をなし玉ふ故(ゆゑ)、文殊院、賄賂(マイナイ)にふけり、とかくにかこつけ、主水兄弟を追出(おひいだ)す。

 主水、是非なく、高野山より、和歌山の御城下にしのびけるが、

「又此所へも會津より討手向(むかふ)。」

と聞て、

「いづくへか、身を隱さん。」

と、兄弟、打寄(うちより)、相談しけるが、三界(さんがい)廣しといへども、暫くも彳(たたず)む方(かた)なかりければ、兄弟三人、江戸へ趣き、松平伊豆守殿へ、式部殿不儀不道とも共、壱ケ條、書立(かきた)て、目安(めやす)を差上(さしあげ)ける。

 其内に、大坂へ内通の次第、事細(ことこま)やかに申上(まうしあげ)けるまゝ、上聞に達し、式部少輔明成、在國たりけるを、江戸へ御召被成(おめしなされ)、御詮義の上にて、式部殿申分(まうしぶん)、立(たち)て、主水正兄弟三人、式部殿被下(くだされ)ける。

 是は、

「會津四拾萬石にかへても主水兄弟三人被下度(くだされたき)。」

よし、御家中迄、強訴(がうそ)なし給ける故也。

 式部殿、主水兄弟を被下ける間、大きに悦び是を請取(うけとり)、芝增上寺の表門通り海邊の下屋敷(しもやしき)引取(ひきとり)、主水兄弟、高手小手(たかてこて)にくゝし上(うへ)、乘物に乘(のせ)、つるし置(おき)、當番の侍共にいひ付(つけ)、乘物を突動(つきうご)かし、

「いかに主水、主に背(そむ)きし天罸、早くも報(むくひ)けるかな。何と、只今、後悔にては、なきか。」

と、樣々に言(いは)せ玉へり。

 其後、美酒・美食をあたへ給ふ。

 主水は禁搦(キンダク)せられし日より、湯水・食事をたつ。

 兄小兵衞・弟又八郎は食事をなしける故、乘物の内にて糞尿(フンシウ)にまみれ、見ぐるしかりける。

 かくて、寛永十八年三月廿一日、主水兄弟三人、兄眞鍋小兵衞・弟多賀井又八郎、兩人切腹、主水は芝の下屋敷の庭にて、しばり首をきらせらるゝ。

 御庭の露路口(ろぢぐち)迄は、繩取足輕(なはどりあしがる)なり。御庭へ引入(ひきい)れては貝塚金七と云(いふ)徒士(かち)、繩を取(とり)、既に主水を御庭に引(ひき)すへて、式部殿御出(おいで)を待居(まちゐ)たり。

 主水、繩取の貝塚を返り見、申けるは、

「其方と我、同家中に有(あり)といへども、祿位(ろくゐ)、其(その)品(しな)有(ある)を以(もつて)道に交(まぢは)る事なしといへども、最後に賴度(たのみたき)事、あり。其方も知る通り、我(われ)いましめを得てより、晝夜、乘物の内に有(あり)、眠(ネム)事、あたはず。今更、眠(ねむり)を催し、よん所なし。少(すこし)の内、其方が膝(ヒザ)を枕に、かし候へ。」

といふ。

 貝塚、聞て、

「安き事にて候。御休候へ。最後の節、おこし可申(まうすべし)。」

と、いふ。

 主水、

「過分也。」

と云て、縛(シバ)られながら、橫に伏貝塚がひざを枕になし、足、踏出(ふみいだ)し、高鼾(たかイビキ)をかき、心よく眠りける。

 式部少殿、朝御膳上られ、切手(きりて)は堀河喜兵衞と云もの也。主水がきらるゝを直(ぢき)に御覽被成(ごらんなさる)べきとのよし、被仰(おほせられ)けるを、磯山數之助と申(まうす)兒小姓(ちごこしやう)、是を諫(いさめ)、障子の紙を破り、ひそかに御覽被成(なされ)ける。

 貝塚、

「最後、只今なり。」

と主水をおこしけれは、主水、起直り、高高(たかだか)とあくびをなし、貝塚に申樣(まうすやう)、

「其方影(そのはうかげ)を以(もつて)、一睡、心よくせし段、滿足也。其上、氣味よき夢をみたり。所は此所の樣に覺(おぼえ)たり。鬢(ビン)を櫛形成(くしがたなり)にそりて、やせ面(づら)に、すが目なる男、さがり藤の紋所附(つけ)たる淺黃(あさぎ)の上下(かみしも)を着て、我(わが)前に膝まづき、我(わが)ひりたるくそを、うまそふに、三盃、喰(くら)ふ、と見たり。夢心に、扨(さて)もよく、容儀の式部少輔に似たる事哉(かな)とおもひて、心よかりし也。」

と、高々と打(うち)はらひ、首、差(さし)のべて、切らるゝ。

 吉兵衞、拔打(ぬきうち)に、首、打落(うちおと)す、と、ひとしく、いづくより來(きた)るともなく、老狐、飛來(とびきた)り、主水が首をくわへ、御庭の築山(つきやま)の後(うしろ)の狐穴へ引入れしが、いかに尋ぬれど、首、見へぬ、と、いへり。

「むかし、會津に有りし時、常に狐をかりて慰(なぐさみ)とせし、其故にや、あるらん。」

と、さたせしとかや。

 式部殿、是(これ)にてもあきたらずや思はれけん、相州鎌倉の尼寺へ、數百人の討手(うつて)を遺し、尼寺押入(おしいり)、主水正兄弟三人が妻子を搦(からめ)とらせ、悉(ことごと)く、首を刎(はね)玉へり。

 此鎌倉の尼寺へ、いか成(なる)罪ある者にても、一度、入(いり)ては、たとひ、天下の御とがめ有(ある)とても、御ゆるし有(ある)處也。然るに、式部少輔、是を御用(おんもち)ひなく殺害(せつがい)なさるゝ事、大きなる落度なり。

 同二十年五月二日、式部少輔殿、願(ねがひ)の通(とほり)、會津四拾萬石被召上(めしあげられ)、嫡子内藏助明友に石州安濃郡の内(うち)、弐拾壱村、高壱萬石被下(くだされ)候。其節、被仰付(おほせつけられ)候條々、

[やぶちゃん注:以下は、ここでは底本にある訓点を除去した形で示した。前後を一行空けた。それが、下知状をよく再現するものと判断したからである。訓点に従った訓読文は注で示すことにした。]

 

 一 於分國新關を立る事無其謂事

 一 家來切支丹雖多有之不穿鑿令用捨事

 一 諸侍召仕樣爲壱人不足不爲者無之事

 一 對公儀不忠之事

 一 堀主水正數年進諫言處、不承引、剩依

   罪科行鎌倉御所立退令蟄居處彼從類

   令死罪それのみならす鎌倉討手を差

   出し理不盡令戒補右大將以來無其例事

 一 越後銀山出來候處號分國無故出入之事

 右の惡逆壱として咎因不遁改易被仰付爲

 堪忍分於石州壱萬石被遣者也

  寛永二十年癸未五月二日

 

 會津には未(いまだ)、此事、知れざりしかば、端午の祝義、諸士、相務(あひつとめ)けるに、早曉(さうぎやう)より、大霧(たいむ)、深くおりて、しせきの内も見へわかず。諸人、大きにあやしみ思ふ處に、五日の午(うま)の下刻、江戸より明成の使節として不破源太郎・伴伊左衞門、晝夜のわかちなく急ぎ走下(はしりくだ)り、右の趣(おもむき)、家老の面々へ申聞(まうしきか)せける間、同六日早朝、畑三郎兵衞宅へ、諸士、不殘(のこらず)めし集(あつめ)、明成致仕(ちし)之事を告(つげ)、藏をひらき、白銀を取出(とりいだ)し、身上しんじやう)相應・知行高(ちぎやうだか)に隨ひ、悉く、割渡(わりわた)し、面々に、ほどこしける。是、式部少輔殿、下知し給ひしによつてなり。

 同六日、明成、武州を立(たち)、石州に趣(おもむき)て、剃髮し、名を休意と號し、寛文元年辛丑正月廿一日、行年七拾歳にて卒去

  戒名  圓通院殿と號しける。

[やぶちゃん注:以下、五行は、前後を一行空けた。]

 

堀主水正戒名          一譽積秀

眞鍋小兵衞

  祿千五百石 切腹 主水兄也 相譽離憶

多賀井又八郎

  祿弐千五百石 主水弟 切腹 釼譽舟秀

 

堀主水菩提所、半兵衞(はんびやうゑ)町、極樂寺のよし。

 

 

老媼茶話四終

 

[やぶちゃん注:前章の主人公堀主水の実録風の後日談。しかし怪奇談の押さえは、しっかり決まっていて、すこぶるよい。標題は「幷(ならびに)、主水(もんど)、行末(ゆくすゑ)」と読む。

「寛永四年五月四日」グレゴリオ暦一六二七年六月十七日。三代将軍家光の治世。

「加藤左馬助嘉明」既出既注。前章「堀主水、女の惡靈に逢ふ」の私の注及びそのリンク先の私の旧注を参照のこと。

「式部少輔明成」同前。

「豫州松山より若松の城に入(いり)玉ふ」寛永四年、会津の蒲生忠郷の死後、嗣子不在であっために蒲生氏が減封となって伊予松山藩へ転じ、その入れ替わりとして嘉明が伊予松山藩から会津藩へ移封された。この時、四十三万五千五百石に加増されている。

「義明、同八年九月二日、武州にて逝去」誤り。彼の逝去は寛永八年九月十二日(一六三一年十月七日)である(但し、この時代、死亡日は公にされず、後になって後ろにずらして報知された傾向があるから、三坂の時代にはこの日とされていた可能性は排除出来ないかも知れぬ)。因みに、江戸の会津藩の桜田第に於ける病死であった。享年六十九であった。

「棺槨(くわんくわく)」遺体を納める箱。柩(ひつぎ)。

「會陽城の西住吉大明神の前應胡(ヲウコ)河原にて荼毘(ダビ)し」まず「會陽城」、次の「西住吉大明神」、「應胡(ヲウコ)河原」の総ての意味・社名・地名が不詳である。ウィキの「加藤嘉明」によれば、東京都港区元麻布一丁目に現存する浄土真宗麻布山(あざぶさん)善福寺(天長元(八二四)年に空海によって開山されたと伝え、当初は真言宗であったが、鎌倉時代、越後国に配流になっていた親鸞が赦免後に当寺を訪れた際、浄土真宗に改宗したとされ、その後、歴代天皇や幕府などの保護を受けて発展したという。ここ(グーグル・マップ・データ))で『荼毘に付され、後に遺骨は東本願寺大谷祖廟に葬られた』とあるが、現在のこの附近に当該ランドマークは見当たらない。識者の御教授を乞う。

「松光院殿前拾遺釋道譽大居士と號しける」前記ウィキによれば、松苑院殿拾遺釋道譽大禪定門。但し、この法名、本書が執筆(寛保二(一七四二)年序)される百年近く前の正保四(一六四七)年に東本願寺法主琢如によって「三明院道譽宣興」と改名されている、とある。

「欲(ヨク)無道の仕置」愚君明成の「欲」に満ちた「無道」非道の咎め立てや処罰。

多かりける。ウィキの「会津騒動」によれば、『嘉明の死後、家督は長男の明成が継いだが、明成は』「古今武家盛衰記」に於いて、『「私欲日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける故、家士の口論、商工の公事喧嘩止むことなし」、また飯田忠彦の』「大日本野史」には、『「明成財を貪り民を虐げ、好んで一歩金を玩弄す。人呼んで一歩殿といふ。歴年、貪欲暴横、農商と利を争ひ、四民貧困し、訟獄止まず、群臣あるひは諫むるも聴かず」と伝えられる』とある。『堀主水は嘉明時代の功臣で、本姓は「多賀井」であるが』、ここで語られる通り、『大坂の役では敵と組みあい、堀に落ちても相手の首を取ったということから「堀」と名乗ることを嘉明に許されていた』(下線やぶちゃん。この「堀」姓の由来は面白い)。『先代からの実績もあり、戦国時代の気骨があった堀は』、『明成の素行に対して何度も諫言したが、堀と明成は次第に不仲になっていく』。そのような折も折り、『堀の家臣と明成の家臣が喧嘩をするという事件が起こ』り、『一方は筆頭家老の家来、一方は藩主の直臣であったことから奉行の権限で裁けることではなく、明成による裁断が仰がれた。すると』、『明成は堀の家来に非があるとして処罰し、さらに堀も連座として蟄居を命じた。この処置に怒った堀は、蟄居を破って明成のもとに現』われ、『再度の裁断と処罰の無効を訴えた。これに対して明成は怒り』、『家老職を罷免』してしまう。寛永一六(一六三九)年四月十六日、『堀は実弟の多賀井又八郎ら一族郎党を率いて、白昼堂々と若松城から立ち去った。しかもこの』際、『若松城に向かって鉄砲を撃ち、関所を押し破るという暴挙にも出ている。堀は鎌倉に立ち寄ったあと』、『高野山に逃れた。高野山は堀主水を匿いきれず、主水は紀州藩を頼るが、明成は紀州藩にも引き渡しを要求する。堀主水は紀州にも居られなくなり、江戸へ出て幕府へ「おのれつみなきよしを申す」が、 家臣でありながら関所を破り、城に鉄砲を撃ちかけたことは「家臣の礼を失ひ』、『国家の法をみだる。罪ゆるさるべからず」と』して、『明成に引き渡され、明成によって弟二人と共に処刑された』。四年後の寛永二〇(一六四三)年四月、『明成は「我は病で藩政を執れる身ではなく、また大藩を治める任には堪えられず、所領を返還したい」と幕府に申し出』、翌月、『幕府は加藤氏の改易・取り潰しを命じたが、加藤嘉明の幕府に対する忠勤なども考慮して、明成に』一『万石を新たに与えて家名再興を許した。しかし』、これに『明成が応じなかったため、幕府は明成の子・明友に石見吉永藩』一『万石を新たに与え』、『家名を再興させ』ている。「徳川実紀」が伝えるのは、『以上のような経緯である』が、「徳川実紀」の巻五十三の寛永二十年五月二日の条には『改易の事実を記したあとで「世に伝うる処は」と経緯を記し、そこに堀主水の一件があるので、この経緯は幕府の記録(日記)に基づくものではなく、同時代の確実な史料はない』。『明成は明友の庇護のもとで藩政に口出しせずに余生を送り』、万治四(一六六一)年一月に享年七十で死去している。

「采配」嘉明は軍兵を動かす権限を主水に与えていたから、軍師としたいところであるが、ここは太平の世であるから、彼の家老職のことを指している。

「主水、拾六の時」私の調べた限りでは、彼の生年は天正一二(一五八四)年で、大坂冬の陣(慶長一九(一六一四)年)だと、満二十歳、数え二十一となるが、まあ、こうした手柄話では年齢が若く詐称されるから、よかろう。

「多賀井」前章で注したが、多賀井氏は和泉淡輪の土豪で織田信長に従い、紀伊の根来雑賀衆と戦うなどしている。

「いきどをり」「憤(いきどほ)り」。歴史的仮名遣は誤り。

「同十六年四月十六日」グレゴリオ暦一六三九年五月十八日。

「護法山示現寺」底本本文は「慈現寺」であるが、編者によって右に『示』の添え訂正が成されてあるため、それを採用した(旧寺名との混同があったようである。後述)現在の福島県喜多方市熱塩(あつしお)加納町熱塩甲(こう)にある曹洞宗護法山示現寺(じげんじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。元真言宗で五峯山眼寺と称し、空海開基の伝承がある。永和元(一三七五)年に殺生石で知られる源翁心昭が護法山示現寺として再興した。熱塩温泉の湯元がある。

「兄眞鍋小兵衞」不詳。

「中野街(カイ)道」不詳。鶴ヶ城の南西に現在、門田町大字中野の地名ならば、現認出来る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「辰の刻」午前八時前後。

「闇川橋(くらがはばし)」底本は編者が『くわがわばし』とルビするが従わない。私はこの中央付近ではないかと推測した。この中央附近に架かっている会津鉄道の橋梁の名が「闇川橋梁」という名称だからである。因みに、本話当時、この「若郷湖」という湖(ダム湖)は存在しない。

「あしの原の關所」現在の栃木県那須町芦野附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「二股山」栃木県鹿沼市下沢二股山(ふたまたやま)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高五百七十メートル。

「鎌倉の尼寺」後の叙述から確実に「駆け込み寺」で知られる神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗松岡山東慶寺であることが判る

「會津四拾萬石にも替(かへ)て唯(ただ)置(おく)まじ」と本当に明成が言っんかいなあ? だとしたら、まっこと、救い難い愚君だわ。

「文殊院」「應昌」(天正九(一五八一)年~正保元(一六四五)年)は紀伊那賀郡出身の真言僧で、高野山文殊院の勢誉に教えを受けたと、サイト「大阪の陣絵巻」のこちらにある人物であろう。慶長一一(一六〇六)年に『駿府に行き、徳川家康・秀忠に会』っている。『駿府に住んで』、『秀忠の命令で本多正信の猶子(相続を目的としないで、仮に結ぶ親子関係の子)となったが』、慶長一八(一六一三)年に『勢誉が亡くなったため』、『高野山に戻』っている。『大坂冬の陣が起こると』、『奈良や吉野の僧侶を鎮め』、寛永七(一六三〇)年に『高野山の伽藍諸堂が焼失すると』、『幕府に援助を願い出』ているとあるから、相当なパイプを持った人物ではあるようだ。

「音物(いんもつ)」「引物」とも書く。贈物。進物。「賄賂(わいろ)」にも言う。ここは、それ。

「和歌山の御城下」当時は和歌山徳川家始祖である徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年:徳川家康十男)が藩主。

「松平伊豆守殿」当時、老中首座であった松平信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)。

「目安(めやす)」訴状。

「大坂へ内通の次第」私には意味不詳。識者の御教授を乞うものである。因みに明成の長男加藤明友(但し、側室の子)は大阪で生まれているが、何か、関係があるか?

「會津四拾萬石にかへても主水兄弟三人被下度(くだされたき)」「よし、御家中迄、強訴(がうそ)なし給ける」こりゃ、愚君だけでなく、藩の連中もこれ、救い難い馬鹿どもだわ。

「高手小手(たかてこて)」両手を後ろに回させて、首から繩を懸け、二の腕から手首まで厳重に縛り上げることを指す。

「くゝし」「括(くく)りし」の脱字か。

「禁搦(キンダク)」底本ルビは「キンタク」。「搦」の音は呉音が「ニヤク(ニャク)」・漢音が「ダク」であるので濁音化した。このような熟語は私は初見であるが、意味は「搦(から)め捕って閉じ込める」の意であることは判る。

「弟又八郎」先の「会津騒動」の引用に実弟多賀井又八郎と出る。詳細事蹟は不詳。

「糞尿(フンシウ)」ルビは原典のママ。呉音 なら「ネウ(ニョウ)」、漢音なら「デウ(ジョウ)」であるから、漢音のそれを誤って表記したものであろう。

「寛永十八年三月廿一日」グレゴリオ暦一六四一年四月三十日。

「貝塚金七」不詳。

「徒士(かち)」藩士の下級武士。先に連行担当であった足軽は士分格ではないから、極めて恥辱極まりない。

「堀河喜兵衞」不詳。

「磯山數之助」不詳。

「兒小姓(ちごこしやう)」貴人の傍近く仕えて雑用をする元服前の小姓。多く同性愛の対象となった。

「其方影(そのはうかげ)を以(もつて)」その方の御蔭を以って。

「鬢(ビン)を櫛形成(くしがたなり)にそりて」両サイドの鬢(びん)の毛を極端に剃り梳いて櫛の歯の形のようにして。

「やせ面(づら)」「瘦せ面」。

「すが目」加藤明成は片方の目が細いか、斜視であったのであろう。

「さがり藤の紋所」「下り藤」は加藤嘉明系の紋所。これ(ウィキの「加藤氏」の同紋の画像。下に解説も出る)。

「くそ」「糞」。

「うまそふ」「美味さう」。

「三盃、喰(くら)ふ」私なら、ここまでヤラセるなら、明成が朝御膳をおかわりして「三杯」食したと、前に記すね。

「相州鎌倉の尼寺へ、數百人の討手(うつて)を遺し、尼寺押入(おしいり)、主水正兄弟三人が妻子を搦(からめ)とらせ、悉(ことごと)く、首を刎(はね)玉へり」以下で「此鎌倉の尼寺へ、いか成(なる)罪ある者にても、一度、入(いり)ては、たとひ、天下の御とがめ有(ある)とても、御ゆるし有(ある)處也」とあるのは東慶寺以外にはない駆寺法(縁切寺法)による強力な治外法権なのである。東慶寺がこのような驚くべき寺法を持てたのは、大坂落城の翌年の元和二(一六一六)年に豊臣秀頼の娘天秀尼が千姫の養女として東慶寺に入いり、後に二十世住持となったことに拠る。この天秀尼以降、東慶寺は幕府(寺社奉行)直轄寺であり、住持任命も幕府が行った、極めて特殊な尼寺であったのである(因みに現在は尼寺ではない)。但し、大きな問題は、ここで三坂が「相州鎌倉の尼寺へ、數百人の討手(うつて)を遺し、尼寺」へ「押入(おしいり)、主水正兄弟三人が妻子を搦(からめ)とらせ、悉(ことごと)く、首を刎(はね)玉へり」とし、駄目押しで「式部少輔、是を御用(おんもち)ひなく殺害(せつがい)なさるゝ事、大きなる落度なり」と、大量の虐殺を既遂事件のように記している点である。堀主水の妻は確かにこの時、東慶寺に駆込んでおり、且つ、加藤明成が執拗にその引き渡しを求めたのに対し、天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴え、その助命を嘆願、それが実現しており、堀主水の妻は事件から三十数年も後の延宝七(一六七九)年十月十九日に亡くなったことが、ごく近年になって明らかになっているのである。そもそもが、明成が事実、東慶寺に乱入して対象者らを略奪した上、かくなるジェノサイド行っていたら、文句なしに則罪にお家断絶となて藩も取り潰しである。三坂の筆、あまりに滑り過ぎである。

東慶寺に堀主水の妻が駆け込んだこと、明成が東慶寺へ向けて実際に捕り手の兵を遣って妻を捕縛しようとしたこと、その寺法を犯さんとする暴挙に対して天秀尼が千姫に嘆願して事なきを得たこと、彼女がその後、会津に戻って永く生きたことは、サイト「鎌倉探索」の「東慶寺天秀尼」の会津騒動、ウィキの「東慶寺」の「会津四十万石改易事件」、或いはウィキの「天秀尼」の方の「会津四十万石改易事件」に明らかである。最後のそれには前にも別から引いたが、事件の記述は「大猷院殿御実紀」の巻五十三の寛永二〇(一六四三)年五月二日の条に『改易の事実を記したあとで、「世に伝うる処は」と経緯を記している。従ってその経緯は幕府の記録(日記)に基づくものではない。また、その「世に伝うる処」の内容は作者不明の』「古今武家盛衰記」なる書の記述に酷似しており、しかも、その両方ともに「東慶寺」の寺名も住持「天秀尼」の名も出てこない(但し、注釈によると、「古今武家盛衰記」の方には「相州鎌倉へ赴く」及び「鎌倉を立ち退き、紀州高野山へ登り忍び居す」とはあるというから、三坂の叙述は或いはこの怪しげな「古今武家盛衰記」そのものではなくても、同一の原ソースに基づくものである可能性が強く感じられる)。『天秀尼と事件の関係を記した史料は』正徳六(一七一六)年『に刊行された』「武將感狀記」『という逸話集と』(これは三坂が読んだ可能性は高い)、文化五(一八〇八)年『に水戸藩の史館で編纂された』「松岡東慶寺考」で、「武將感狀記」『巻之十の「加藤左馬助深慮の事/付多賀主水が野心に依て明成の所領を召上げらるる事」にこうある』。

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[やぶちゃん注:引用元引用開始。但し、私が恣意的に漢字を正字化し、一部の仮名遣いを歴史的仮名遣に訂した。]その身は高野に入り、妻子は鎌倉の比丘尼所に遣はしぬ。[やぶちゃん注:引用元でここで中略されているようである。]鎌倉に逃れたる主水が妻子を、明成人を遣はして之を縛りて引きよせんとす。比丘尼の住持大いに怒りて、賴朝より以來此の寺に來る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不盡の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退轉せしむるか二つに一つぞと 、此の儀を天樹院殿に訴へて事の勢解くべからざるに至る。此に於て明成迫つて領地會津四十餘萬石差上げ、衣食の料一萬石を賜りて石見の山田に蟄居せらるる[やぶちゃん注:引用元の引用終了]

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『「天樹院殿」(千姫)が出てくるので』、『「比丘尼所」(尼寺)とは東慶寺のこと。「比丘尼の住持」とは天秀尼のこと、「天寿院」ではないので千姫没後に書かれたものと判る。もうひとつの「松岡東慶寺考」には』、

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[やぶちゃん注:引用元引用開始。但し、私が恣意的に漢字を正字化し、一部の仮名遣いを歴史的仮名遣に訂した。]住持大いに怒り古來よりこの寺に來る者いかなる罪人も出すことなし。しかるを理不盡の族無道至極せり。明成を滅却せしむるか、此の寺を退轉せしむるか、二つに一つぞ[やぶちゃん注:引用元の引用終了]

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とあって、「賴朝より以來」は「古來」となっているものの、それ以外は上記「武将感状記」の『下線部分とまったく同じである』[やぶちゃん注:下線も再現した。]「武將感狀記」は『「成田治左衛門亡妻と契る事」などと』「雨月物語」紛いの『話まで載せている逸話集であり、そのまま事実とみなす訳にはいかないが』(これは寧ろまさに本「老媼茶話」の作者三坂好みではないか!)、『当時、将軍家所縁の鎌倉の尼寺が加藤明成の引き渡し要求に応じなかったことが広く知られていたということは解る。堀主水の妻は確かに東慶寺の天秀尼に命を助けられていたことが近年判明した。その妻の墓が会津にあり、かつその妻が事件後に身を寄せていた実家の古文書の跋文に経緯が書かれていた』。

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[やぶちゃん注:引用元引用開始。但し、私が恣意的に漢字を正字化し、一部の仮名遣いを歴史的仮名遣に訂し、一部に読み・濁点を附した。丸括弧は引用元或いはウィキ筆者の添え注。](天秀尼は堀主水妻を)忝くも戒弟子となされ、剰(あまつさ)へ寶光院觀譽樹林尼と法名を給はり、命を與へ給ふ事強く頻(しきり)なり。されば明成殿も御威光置きがたく宥(ゆる)して、先祖黑川喜三郎貞得(主水妻の兄)に扶助すべしと給はりたるより[やぶちゃん注:以下、引用元で下略。]

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『つまり』、『明成が折れて、堀主水の妻は会津加藤家改易より前に会津の実家へ帰ったと』いうこと、しかも、『それも「明成殿」から』「給はりたる」ことであったと記すのである。『つまり』、『堀主水妻の身柄は明成の元にあったということになる。これが事実とすれば』。「武將感狀記」に『記された結末は短絡しすぎで』あって『不正確であり、「事の勢解くべからざるに至る」ではなく「解けた」ことになる。両方をつなげて整合性を取るなら、会津藩の武士が東慶寺から堀主水の妻達を寺側の制止を振り切って強引に連れ去ったが、天秀尼の猛烈な抗議に折れて』、となって、以下で』、『跋文の通りとなる。両方とも後世の文書であるので正確性には欠けるが、いずれにせよ』、『堀主水の妻は東慶寺に駆け込んでおり、かつ天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴えて、その助命を実現したことだけは判る』(ここでウィキの筆者は主水の妻の捕縛自体を既遂としているが、私は留保したい。天秀尼が助命嘆願しているうちに殺害される可能性が遙かに高いからである)。

「同二十年」一六四三年。

「五月二日」所領返上の願い出は前月四月。

「嫡子内藏助明友」加藤明友(元和七(一六二一)年~天和三(一六八四)年)は明成の長男。大坂生まれ。ウィキの「加藤明友」によれば、『正室の子供でなかったため、父の命令で京都の山田氏に預けられて養育された。しかし正室との間に男児が恵まれなかったため』、寛永一一(一六三四)年に『江戸に戻されて世子に指名された』。しかし、寛永二〇(一六四三)年、会津騒動の余波と父自身の領知返上願いによって、『明成は改易され、会津領も没収された。その後、祖父・嘉明の功績を江戸幕府より評価されて明友に』一『万石が与えられ』、『石見吉永藩』(石見国安濃郡吉永(現在の島根県大田市))『を立藩した』。天和二(一六八二)年には、『祖父と自らが奏者番として立てた功績を評価され』、一『万石を加増の上』、『近江水口』(近江国水口周辺(現在の滋賀県甲賀市))『に移封され』ている。逝去後は『長男の明英が継い』でいる。マニアックな狂父のために流浪者とならなかったのは幸いであった。

「一 於分國新關を立る事無其謂事

 一 家來切支丹雖多有之不穿鑿令用捨事

 一 諸侍召仕樣爲壱人不足不爲者無之事

 一 對公儀不忠之事

 一 堀主水正數年進諫言處、不承引、剩依

   罪科行鎌倉御所立退令蟄居處彼從類

   令死罪それのみならす鎌倉討手を差

   出し理不盡令戒補右大將以來無其例事

 一 越後銀山出來候處號分國無故出入之事

 右の惡逆壱として咎因不遁改易被仰付爲

 堪忍分於石州壱萬石被遣者也

  寛永二十年癸未五月二日」以下に底本の読みを参考に書き下す。一部に送り仮名を追加した。今まで通り、カタカナは原典の読み。ここに限っては原典ルビの濁音化処理をしなかった。五条目の「江」は「へ」に、「補」は「捕」に読み換えた。

   *

一 分國に於いて新關を立つる事、其の謂(イハレ)無き事。

一 家來[やぶちゃん注:原典は「家賴」。編者注で訂した。]、切支丹、多く之れありと雖(イヘトモ)、不穿鑿(ふせんさく)、用捨せしむる事。

一 諸侍(しよし)、召し仕ふ樣(やう)、壱人として不足爲(せ)ざる者、之れ無き事。

一 公儀に對して不忠の事。

一 堀主水正、數年(すねん)、諫言を進むる處、承引せず、剩(アマツサ)へ、罪科、行ふに依り、鎌倉御所に立ち退(の)き、蟄居せしむる處、彼の從類、死罪せしめ、それのみならず、鎌倉へ討手(うつて)を差し出(いだ)し理不盡に戒捕(かいほ)せしめ、右大將以來、其の例(ためし)、無き事。

一 越後、銀山、出で來き候ふ處、分國と號(なづ)け、故(ゆゑ)無く出入りの事。

右の惡逆、壱ツとして、咎(とが)、遁(のが)れざるに因つて、改易仰せ付けられ、堪忍分(かんにんぶん)と爲(し)て、石州にて、壱萬石遣はさるる者なり。

   *

以上は加藤明成の咎を箇条書きし、嫡子明友への祖父嘉明の遺勲によって恩情で禄を新たに与えて立藩することを許可した下知状という体裁をとっている。本説話の伝承者が勝手にデッチアゲたものであろうが、その中には或いは真実も含まれているのかも知れぬ。

第一条は、幕府の許可なく、分国(飛び地?)の中に新たな関所を設けたこと。

第二条は、家来の中に禁教の切支丹の信者が多くいたにも拘わらず、それを全く調べ上げることをせず、容認していたこと。しかし、この一条だけで文句なしの確実改易でしょ?!

第三条はよく判らない家臣を諸務に於いて担当させるに際し、必要以上に過剰に割り当てて、いたずらに職務を軽減させて、全体に構成員が怠惰となる藩政を行っていたということか? 識者の御教授を乞う。

第四条は、言わずもがな。ここに臭わされているのは、堀主水が上訴した内容に関わるのであろう。実はここに並べられた条々も、殆んど総てがその中に書かれていたものなのではなかろうか?

第五条は、既に述べた東慶寺絡みの騒動であるが、縁者家来総てを死罪という部分で、多分に都市伝説(アーバンレ・ジェンド)としての「幻の東慶寺乱入とジェノサイド」によって入れられた条と読める。「右大將」は源頼朝。因みに、徳川家康は自身が源氏の血を継ぐ末裔と認識していた節があり、座右の書もなんと「吾妻鏡」であった。

第六条は、接する他国越後国の山間部で銀山が発見されたのを、分国(飛び地)と勝手に称して、入山し、採掘を行っていた違法行為の告発である。これも家老の主水あたりでなくては知り得ない、藩の最重要機密事項であろう。それだけに却って真実味はあると言える。

「しせき」「咫尺」。「咫」は中国の周の制度で八寸(周代の一寸は二・二五センチメートルであるから、十八センチ)、「尺」は十寸(二十二センチ五ミリ)を意味し、距離が非常に近いことを指す。

「不破源太郎」不詳。

「伴伊左衞門」不詳。

「是、式部少輔殿、下知し給ひしによつてなり」事実なら、狂王にも五分の誠意はあったものか。

「寛文元年辛丑正月廿一日」正確には万治四年一月二一日(一六六一年二月二十日)。万治四年は四月二十五日になってから寛文に改元しているからである。

「行年七拾歳」

「釼譽舟秀」「釼」は「劍」(剣)の異体字。音はいろいろあるが、まあ、「ケン」であろう。

「半兵衞(はんびやうゑ)町」現在の会津若松市本町内の旧町名に「半兵衞町」が存在する。ウィキの「本町(会津若松市の「近代」の項を参照。

「極樂寺」福島県会津若松市本町七に現存する浄土宗寺院。(グーグル・マップ・データ)。]

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