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2017/11/23

老媼茶話巻之六 大鳥一平

 

老媼茶話卷之六

 

     大鳥一平

 

 出羽の國最上の御城主鳥井左京亮忠政へ仕へける、木田小兵衞盛秀といふ者、有(あり)。稻冨(いなとみ)流の鐵炮に能(ヨク)熟し、百發百中也。忠政の御舍弟久五郎盛次、甚(はなはだ)鐵砲の術を好み給(たまひ)、是に依(よつ)て小兵衞、盛次へ進仕(しんし)せり。

 或時、盛次、緣へ立出(たちいで)玉ひ、鳶の天に舞(まふ)を見て、小兵衞を召(めし)て、是をうたしむ。

 小兵衞、鐵炮の筒先を空をむけ、鳶の翩羽(ヘンハ)に隨ひて鐵砲を付𢌞(つきまは)し、終(つゐ)に是を打(うち)おとせり。

 小兵衞、南隣の水野何某の境に、大きなる檜(ひのき)の木、有。此木(コノキ)のふし穴へ、年每に、すゞめ、巣をくひて、子母(シボ)、相哺(アヒホシ)て、たのしむ。

 ある春、烏(からす)一羽とび來り、かの雀の巣をくひしふし穴を覗き懸り、數度、啄(タク)すといへども、穴、ちいさくして、烏の口ばし、底へとゞかず。母雀、

「ちうちう。」

と飛(とび)かけり、鳴(なき)もだへ、かなしむ。

 水野が小娘、是をみて、垣ごしに小兵衞をよび、

「此烏、追(おひ)のけ玉はれ。」

といふ。

 盛秀、三匁(もんめ)の鐵炮を以て、あひだ弐拾間斗(ばかり)にして、よくねらひ、からすの頭をあぐる處を打(うつ)に、口ばしを打切(うちきり)、烏、地に落(おち)たり。

 當り、こまかなる事、如斯(かくのごとし)。

 其頃、最上に大鳥一平と云(いふ)溢(アブ)れ者ありて、樣々の惡事をなす。

 或時、淨土寺の松原にて藤山源八といふ士を切殺(きりころ)し、つらの皮を裂(ハギ)、衣、淸水へ抛入置(なげいれおき)たり。

 此御詮義、強くして、

「大鳥組(ぐみ)の溢れものゝ所爲(しよゐ)たり。」

と明白に知れければ、足輕に被仰付(おほせつけられ)、

「一平を始(はじめ)手下のあぶれもの、見かけ次第、切(きり)とめにも生捕(いけどり)にもせよ。」

となり。

 其年の春の最中、峯寺の觀音の開帳あり。折ふし、山はさくらの盛(さかり)にて、貴賤群集(ぐんじゆ)するをり、大鳥一平、手下の溢れもの弐人召(めし)つれ、土手下を通りけるを、一平打手(うつて)の足輕ども、是を見付(みつけ)、相圖の拍子木打(うち)て、十四、五人、集まり、一平を押(おし)つゝむ。

 一平、是を見て、

「ものものしや。蠅蟲めら。」

と云(いひ)て、先進みし足輕を、立(たて)けさに割居(わりす)へ、左へ𢌞る男、

「とつた。」

といゝてだき付(つく)を、

「何を、とつた。」

と、いゝしまに、立首(たてくび)、かい摑み、ふり上(あげ)て打付(うちつけ)たるに、蛙(かはづ)を踏(ふみ)ひしぎたるやうに、手足をひろげ、半死半生になる。

 此折も、足輕、弐、三人、切殺され、大勢手負けれども、一平組のあぶれもの壱人も打不取(うちとらず)。

 それより、一平、跡をくらまし、いづくへ行(ゆき)さりけん、行方なし。

 此故に、

「家中の若きものども、一平、手がら次第に切(きり)とゞむべき。」

由、被仰付、一平におとらぬ荒もの共、家中に多かりしかば、我ましに心懸(こころがけ)ける。

 或時、小兵衞、下人壱人、召(めし)つれ、近山鳥打(とりうち)に行(ゆき)けるが、谷川をへだてゝ、大鳥一平、只、ひとり來(きた)る。

 下人、是をみて、小兵衞に、

「かく。」

といふ。

 小兵衞、

「幸(さひはひ)。」

と、よろこび、片原の杉の森に稻荷の小社有(あり)ける木陰に隱れ、弐玉をこめ、待居(まちゐ)たる。

 かくとも知らず、一平も、すそをまくり上(あげ)、谷川のなかば、越來(こえきた)りける折、小兵衞、杉森より出向ひ、

「いかに、一平。おのれ、大惡事をなしながら、いづくへ逃隱(にげかく)るゝぞ。天命、只今がかぎり也。最後のねんぶつ、申せ。」

と、鐵砲の筒先をおしむけ、頰付(ほほづけ)にしてふたを拂(はらふ)。

 一平、大の眼(まなこ)を見ひらき、

「ひきやうなやつ。鐵砲を捨(すて)、太刀にて勝負せよ。」

と、小兵衞を目がけ、一文字に川をわたり來(く)る。

 間(あひだ)拾間斗(ばかり)にて、鐵砲を打(うち)はなす。

 あやまたず、一平が胸板を後ろへ打拔(うちぬき)、すでに倒れんとせしが、齒がみをなし、立直(たちなほ)し、川岸へおどり上り、太刀を拔(ぬき)て切懸(きりかか)る。

 小兵衞も鐵砲をすて、刀を拔合(ぬきあは)せ、立(たち)むかい、散々に切(きり)むすぶ。

 一平、さしもの荒ものなれども、鐵砲の痛手によはり、血を吐(はき)てうつぶしにたをれけるを、おこしもたてず、首を切(きる)。

 此時、一平がさしける刀、岩木の國安三尺壱寸、無類の大ものきれ也。

 是より、大鳥が惡靈、小兵衞子孫迄、崇りけると言傳へけり。

 

[やぶちゃん注:最後の一文のみが怪談の実録武辺物。

「大鳥一平」鳳(おおとり)一平とも言うらしい。実在した人物で、豊臣秀吉の死から徳川幕府ができるまでの混乱期に京都を中心に暴れ回った「バサラ」の棟梁らしい。三田村鳶魚の「江戸ッ子」(但し、グーグルブックスでの視認)によれば、武蔵国大鳥の生まれの非武士であったが、本多百助なる旗本の徒士(かち)となって武士階級に入り込み、後には大久保石見森の目付大久保信濃なる人物の中小姓となった後、三田村曰く、『武家奉公人連盟とでも』いうような、武家使用人らの裏社会的仮想集団の首魁を気取って、乱暴狼藉を働き、果ては、江戸幕府(初期)から指名手配されて、捕縛・処刑されてしまったらしいウィキの「旗本によれば、決定的なモデルは大鳥居逸兵衛(大鳥逸平:天正一六(一五八八)年~慶長一七(一六一二)年)を首魁とする「大鳥組」(中間・小者といった下級の武家奉公人を集めて徒党を組み、殊更に異装・異風で男伊達を気取って無頼な行動をとった)で、彼らがその後の不良武士暴力集団としての「旗本奴」の先駆とされるようである。但し、ここはそうした「ばさら一平」の伝承譚の地方での一つとして読めばよかろう。

「出羽の國最上の御城主鳥井左京亮忠政」徳川家家臣で下総国矢作藩主・陸奥国磐城平藩主・出羽国山形藩主・壬生藩鳥居家初代である鳥居忠政(永禄九(一五六六)年~寛永五(一六二八)年)。ウィキの「鳥居忠政」によれば、三河国渡村(現在の愛知県岡崎市)出身。天正一四(一五八六)年に家康に従って上洛、従五位下左京亮に叙任されている。慶長五(一六〇〇)年、『父の元忠が伏見城攻防戦で討死し、長兄の康忠は早世していたので家督を継ぎ、下総矢作藩主となる』。『忠政は家康の命令で関ヶ原の戦いの時は江戸城留守居役を勤めてい』るが、『戦後に父の戦功によって陸奥磐城平に』十『万石を与えられ、亡父元忠のために長源寺を建て』、『家康から香花料として』百『石を賜っている』。『両度の大坂の陣では江戸城の留守居役を務めた』。元和八(一六二二)年に最上氏が改易された後を受け、出羽山形二十二万石に加増移封され、『妹婿で新庄藩主戸沢政盛、娘婿で鶴岡藩主酒井忠勝、従弟で上山藩主松平重忠らと共に』『徳川氏の譜代大名として伊達政宗などの東北諸大名の監視を命じられた』。享年六十三で山形で死去している。従って、話柄内時制は元和八(一六二二)年から寛永五(一六二八)年となるが、大鳥一平はどうもそれよりずっと以前に亡くなっている感じである。なお、磐城平藩の藩庁磐城平城は現在のいわき市平。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「木田小兵衞盛秀」不詳。「きだこひょうえもりひで」(現代仮名遣)と読んでおく。

「稻冨(いなとみ)流の鐵炮」戦国から江戸初期にかけての武将で砲術家、丹後国弓木城主であった稲富祐直(いなとみすけなお 天文二一(一五五二)年~慶長一六(一六一一)年)が創始した流砲術の流派。ウィキの「稲富祐直」によれば、『祖父・稲富祐秀から砲術を学び、それを発展させて稲富流砲術を創始したといわれている。合戦の際に具足を』二『枚重ねて着ていたため「二領具足」の異名を持つ』。始めは『丹後一色氏に仕え、弓木城で織田勢との激戦を繰り広げ、少数ながらこれを撃退し続けた。しかし、主家の当主である一色義定が滅ぶと』、『織田方の細川忠興に仕えた』、慶長二(一五九七)年の『慶長の役では蔚山倭城』(ウルサンじょう:現在の大韓民国蔚山広域市に日本人が築いた日本式の城)』『に籠もって活躍したという』。慶長五年の『関ヶ原の戦いにおいては、細川氏の大坂屋敷に居て、忠興の妻である細川ガラシャの警護をしていたが、ガラシャが石田三成の人質作戦に巻き込まれて死去すると、自身は砲術の弟子に助けられて屋敷から逃亡したという。そのため』、『戦後に忠興から恨まれて殺されそうになったが、徳川家康にその砲術の腕と知識を惜しまれて助命され』ている。『その後は、松平忠吉や徳川義直に仕えたという。後に剃髪して一夢、理斎と号した。井伊直政や黒田長政、浅野幸長なども指南を受けた』とある。

「忠政の御舍弟久五郎盛次」不詳。

「翩羽(ヘンハ)」ここは羽ばたいて飛び交うことを言っていよう。

「相哺(アヒホシ)て」餌を与えて養って。

「三匁(もんめ)」口径(弾丸直径)十二・三ミリメートル相当。

「弐拾間」三十六メートル三十六センチ。

「淨土寺」福島県いわき市大久町大久字中ノ内に真言宗の浄土寺があるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、藩庁磐城からえらい離れた位置にあるので、ここかどうかは判らぬ。

「藤山源八」不詳。

「大鳥組(ぐみ)」大鳥一平を首魁とした不良暴力集団。

「切(きり)とめ」その場で斬り殺すことであろう。

「峯寺の觀音」現在の福島県石川郡玉川村大字岩法寺にある白華山巌峯寺(はっかざんがんぽうじ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。源頼義・義家父子らの前九年の役出兵の途次に始まるという古刹で、観音山があった。そもそもがこの寺の奥の院はその観音山の頂上付近にあって、修行の聖地であったらしいが、現在は福島空港建設構想によって霊場であった観音山は徹底的に削られてしまい、同寺の奥の院も低地に移築されてしまった。以上は特別栽培米を作っている「FARM 巌峯寺」の公式サイト内のこちらに拠った。

「蠅蟲」個人的にはこれで「うじむし」と読みたくなる

「立(たて)けさ」「縱袈裟」か。「袈裟懸け」は通常、刀で相手を肩から斜めに切りおろすことであるが、ここは肩から真っ直ぐに斬り、人体を左右に観音開きに斬ることを言っているか。、

「立首(たてくび)」首から上の部分の謂いか。

「手がら次第に」功名そのままに。手柄として十分に許すによって。

「切(きり)とゞむべき」問答無用に斬り捨ててしまえ、斬り捨てて構わぬ、の謂いか。

「我ましに」読みも意味も不明。「我(われ)先にと」の謂いか?

「近山」不詳。或いは「近き山」のことで固有名詞ではないのかも知れぬ。

「片原の」「傍らの」。

玉」弾丸を二つ重ねて貫通力を強めたか。

をこめ、待居(まちゐ)たる。

「ねんぶつ」「念佛」。

「ふた」火蓋(ひぶた)。火繩銃の「火皿を覆う蓋」のこと。一般にはよく使う「火蓋を切る」で、弾を撃つためには、この火蓋を開いて、火繩の火を火薬に点火する。その「切る」「開く」「外す」をここでは「拂(はらふ)」と言っているのである。

「ひきやう」「卑怯」。

なやつ。鐵砲を捨(すて)、太刀にて勝負せよ。」

「拾間」十八メートル十八センチ。

「立直(たちなほ)し」立ち直り。ターミネーターみたようなやっちゃな。

川岸へおどり上り、太刀を拔(ぬき)て切懸(きりかか)る。

「おこしもたてず」ちゃんと起して、改めて斬首するのではなく、地面に俯せになっている大鳥の首を鉈斬りか鋸挽きに切断したものであろう。想像してみても、おぞましく格好悪いし、極悪人とは言え、泥だらけの顏のままに、挽き斬られたのでは、ちょっと大鳥も可哀想な気がしてくる。さればこそ、最後の唐突な「是より、大鳥が惡靈、小兵衞子孫迄、崇りける」が読者に、案外、腑に落ちるのかも知れぬ。少なくとも私は初読時、そうだった。

「岩木の國安」刀工の名らしいが、不詳。

「三尺壱寸」刀身だけで九十六・九六センチメートル。異様に長い。

「無類の大ものきれ也」無双の大名物の名大刀であった。]

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