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2017/11/28

柴田宵曲 俳諧博物誌(11) 河童

  

     河童

 

 ここで河童を登場させたら、河童という動物が果してあるのか、という質問が出るかも知れない。その点は甚だ不慥(ふたしか)である。しかし河童という動物は、過去において存在を認められていた。現在においても小川芋銭(おがわうせん)氏の画幅や、芥川龍之介氏の小説の中にちゃんと控えている。『俳諧博物誌』は動物学者の参考資料ではないのだから、何が飛出したところで、そう驚く必要もあるまい。

[やぶちゃん注:「小川芋銭」(慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は私の好きな日本画家。私はよく知っているが、知らない方のためにウィキの「小川芋銭」から引いておく。本名は茂吉。生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』(下線やぶちゃん)。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。

「芥川龍之介氏の小説」昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表された「河童」。私のサイトには正字正仮名版「河童 附草稿」及び、それに合わせてオリジナルに作成した『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』の他、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認してオリジナルに作成した芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史』(これにはHTML縦書版及びブログ分割版もある)がある。]

 尤われわれの河童に関する知識は、『山嶋民譚集(さんとうみんたんしゅう)』の範囲を一歩も出ぬものである。その点は「河郎之舍」の印を蔵し、好んで河童を自家の文学に取入れようとした芥川氏が「河童の考證は柳田國男氏の山島民譚集に盡してゐる」といった通り、何人(なんぴと)もあの研究の上に何物かを加えることは困難であろう。『甲寅叢書(こういんそうしょ)』が次第に市に乏しく、たまに逢著しても恐るべき高価を呼ぶようになった結果、もう一度読直してかかる便宜に乏しくなったが、柳田氏自身「『山嶋民譚集』を珍本と呼ぶことは、著者においても異存がない」というに至り、日本文化名著選という肩書の下に再び世に現れたのは、われわれに取っても頗る好都合だといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「山嶋民譚集」柳田國男の「山島民譚集」(大正三(一九一四)年甲寅叢書刊行所刊)のこと。

『「河郎之舍」の印』これ。

Kawarou2

上記画像は中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の再版(昭和五三(一九七八)年)の小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」に載る朱判の「河郎之舍」(「かはらうのいへ」と読む。言わずもがな、「河郎」とは河童の異名)の印影である。なお、篆刻者である芥川龍之介の最年長の友人で俳人で篆刻家であった小澤碧童は昭和一六(一九四一)年没であるから、彼の作品もパブリック・ドメインである。

『芥川氏が「河童の考證は柳田國男氏の山島民譚集に盡してゐる」といった』大正九(一九二〇)年に雑誌『人間』に発表した「雜筆」の中の「水怪」中の一節。底本では「河童の考証は柳田国男氏の『山嶋民譚集』に尽している」となっているが、ここは原文に則して底本の表記を訂正した。なお、「水怪」の全文は私の「雜筆 芥川龍之介 附やぶちゃん注」を参照されたい。

「日本文化名著選」創元社が刊行した叢書名。「山島民譚集」は初刊から二十八年後の昭和一七(一九四二)年にその「日本文化名著選」の第二巻として「再版序」を附して刊行された。但し、本「俳諧博物誌」は昭和五六(一九八一)年刊で、この刊行時には既に筑摩書房から刊行された「定本柳田國男集」によって容易に読むことが出来た。]

 芥川氏は晩年「河童」一篇を公にしたけれども、あれは「グァリヴアの旅行記式」といい、「僕のライネッケフックス」という自評が最も適切なように、日本産の水虎とはあまり交渉のない産物である。大正十年頃の『新小説』にちょっと断片を出して、インフルエンザを理由に引込んだなり、遂に未完に終った「河童」の方は、晩年の「河童」とは全然別の意図のものだったらしく思われる。全集にして三頁しかないあの「河童」は、「河童の話の一部分、否、その序の一部分なり」と断ってあるが、もしインフルエンザに罹らなかったら、どういう風に進むつもりであったか、妄(みだり)に臆測を逞しゅうするわけには往かぬ。ただあの文章の終にある数行は、河童の如何なるものかを要約した点で、一顧の価値がありそうである。

[やぶちゃん注:「グァリヴアの旅行記式」これは芥川龍之介の昭和二(一九二七)年二月二日附齋藤茂吉宛書簡(田端発信)中の一節である。底本では「ア」が「ァ」となっているが、書簡原本の表記に訂した(校合は岩波版旧全集に拠った。旧全集書簡番号は「一五六七」である)。

「僕のライネッケフックス」これは同年同二月十一日附佐佐木茂索宛書簡(田端発信・旧全集書簡番号一五七七)。その冒頭で「河童」に言及して(以下に見る通り、唐突な書き方で、この書簡は或いは前部が欠損しているのかもしれぬ)、

   *

常談言つちやいけない。六十枚位のものをやつと三十枚ばかり書い所だ。「河童」は僕のライネッケフックスだ。

   *

(「書い所」はママ)と書いているのを引いたものである。「ライネッケフックス」Reineke Fuchsとはかのゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九~一八三二)の書いた一七九三年に刊行された叙事詩(小説)の題名で「ライネケ狐」などと邦訳されている。奸謀術数の悪玉狐ライネケに封建社会の風刺をこめた寓意文学である。個人のHP「サロン・ド・ソークラテース」の主幹氏による「世界文学渉猟」の中のゲーテのページに、以下のようにある。『これはゲーテの創作ではなく、古くは』十三『世紀迄遡ることが出来る寓話である。ゲーテは韻律を改作するに止まり、物語に殆ど手を加へてゐない。数々の危機を弁舌と狡智で切り抜ける狐のライネケ。その手口は常に相手の欲望を引き出し、旨い話にまんまと目を眩ませるもの。欲望の前に理性を失ふ輩を嘲笑する如くライネケはかく語りき。「つねに不満を訴へる心は、多くの物を失ふのが当然。強欲の精神は、ただ不安のうちに生きるのみ、誰にも満足は与へられぬ。」』。ともかくも、この正に「河童」擱筆(脱稿は二月十三日)直前の佐佐木茂索宛書簡の言葉は只物ではないという気が私はする。

『大正十年頃の『新小説』にちょっと断片を出して、インフルエンザを理由に引込んだなり、遂に未完に終った「河童」』言っとくが、私は芥川龍之介に関してはそんじょそこらに転がっている芥川龍之介フリークとはわけが違う。これもちゃんと「河童(やぶちゃんによる芥川龍之介真原稿恣意的推定版) 附やぶちゃん注(又は やぶちゃん恣意的副題――どうかPrototype“Kappa”と讀んで下さい――)」として電子化注している宵曲のうろ覚えは誤りで、小説「河童」が執筆される五年前の、大正一一(一九二二)年五月一日発行の雑誌『新小説』に掲載されたものである。末尾に、

   *

以上は河童の話の一部分、否、その序の一部分なり、但し目下インフルエンザの爲、如何にするも稿を次ぐ能はず。讀者並びに編輯者の諒恕を乞はんとする所以なり。作者識。

   *

とあるものの、続編は遂に書かれなかった。私も、この続篇が読みたかった一人である。

「インフルエンザを理由に引込んだなり」確かに芥川龍之介は以上の通り、「目下インフルエンザの爲、如何にするも稿を次ぐ能はず」と述べてはいるのであるが、実は宵曲を始め読者は騙されているのである。先の「河童(やぶちゃんによる芥川龍之介真原稿恣意的推定版) 附やぶちゃん注」の最後の私の注で推理した通り、大正一一(一九二二)年四月中旬以降(推定)の脱稿前、芥川龍之介が、臥せって執筆不能に陥るようなインフルエンザに罹患しているという記載は如何なる年譜にもないからである。それどころか、芥川は元気ピンピンである。四月一日頃から八日頃までの伯母フキとの京都奈良旅行、十三日の英国皇太子来日記念英文学講演会での「ロビン・ホツド」講義を経て――この間にインフルエンザに罹患したとしても――二十五日には溌剌と二度目の長崎に旅立ち、月末には京都で豪遊、帰京したのは実にこの後の六月一日だからである。――これは実は原稿が書けない、書きたくない、遊びたい嘘だったのだ――と、私は思っている。]

 なお、以下、宵曲はそこから最後の部分を引用をしている(底本では全体が二字下げであるが、無視した。宵曲は前後にある鍵括弧を略しているが、再現した)が、ここでは前後を一行空けにして、原文からの引用に変えた(例によって宵曲の引用は完全ではなく、一部記号に誤りがある)

 

「河童は水中に棲息する動物なり。但し動物學上の分類は、未だこれを詳らかにせず。その特色三あり。(一)周圍の變化により、皮膚の色彩も變化する事、カメレオンと異る所なし。(二)人語を發する鸚鵡に似たれども、人語を解するは鸚鵡よりも巧みなり。(三)四肢を切斷せらるるも、切斷せられたる四肢を得れば、直ちに癒着せしむる力あり。産地は日本に限られたれども、大約六十年以前より、漸次滅亡し去りしものの如し。

 

 已に斯の如きものである以上、ルナアルの『博物誌』やセルボーンの『博物誌』をいくら捜しても、出て来ないにきまっている。その代り日本人の著作を読んでいると、意外なところにひょっくり顔を出すことがある。

[やぶちゃん注:「ルナアルの『博物誌』」「俳諧博物誌」冒頭の「はしがき」で既出既注であるが、再掲する。私の偏愛するフランスの作家ジュール・ルナール(Jules Renard  一八六四年~一九一〇年)が一八九六年に発表したアフォリズム風随想Histoires naturelles。私が如何に偏愛しているかは、私の古い電子テクスト「博物誌 ルナール 岸田国士訳(附原文+やぶちゃん補注版)」(ナビ派(Les Nabis:ヘブライ語「預言者」)のピエール・ボナール(Pierre Bonnard 一八六七~一九四七年)の挿絵全添付)をご覧になればお判り戴けるものと存ずる。

「セルボーンの『博物誌』」やはり私の愛読書である、十八世紀イギリスの牧師で博物学者でもあったギルバート・ホワイト(Gilbert White 一七二〇年~一七九三年:ロンドンの南西約八十キロに位置するハンプシャーの小村セルボーン(Selborneここ(グーグル・マップ・データ))に生まれ、オックスフォードのオリオル・カレッジに進学、一七四六年に執事の命を受けて以降、ハンプシャー(セルボーンも含む)とウィルトシャーで助任司祭を務めた。一七五八年に父が亡くなってからはセルボーンに戻り、ウェイクス荘に定住。一七六三年に正式に相続し、一七八四年には第四代のセルボーン副牧師に任命されて、その職を全うした。生涯、独身を通した。ここはウィキの「ギルバート・ホワイト」に拠った)が著わした鳥類・植物・昆虫等の生態や自然景観をフィールドで直に観察しつつ、それに民俗学(フォークロア)的観点をも加味して記された優れた博物誌The Natural History and Antiquities of Selborne(セルボーンの自然史と古代)。正確には彼の友人であった二人の博物学者ペナント(Thomas Pennant)とバリントン(Daines Barrington)へ二十年にも亙って送られ続けた書簡の内容を纏めて、一七八九年にたまたま博物学書の出版を手掛けていたギルバートの弟ベンジャミン(Benjamin White)の手によって出版されたのが本書である。]

 伊沢蘭軒が雨夜に若党を連れて、蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)の堂に近い某街を歩いていたら、背後から筍笠(たけのこがさ)を被かぶった童子が来て、蘭軒と並んで歩きながら「小父さん。こはくはないかい」と反復して問うた。蘭軒は何とも答えなかったが、顧みて童子の顔を見た若党は、一声叫んで傘と提灯を投出した。その小僧の額の真中に大きい目が一つあった、河童が化けて出たのだ、閻魔堂の前の川には河童がいる、というのである。この事は蘭軒近視の話に関して伝えられているのであるが、鷗外博士は科学者だけに「河童が存在するか。又假に存在するとして、それが化けるか。此等は評論すべき限で無い。額の正中に一目を開いてゐる畸形は胎生学上に有りやうがない」と附加えている。しかしこの話は柳田氏の研究題目たる河童と一目小僧とを一身に兼ねている点で、われわれには特別の興味があるのである。

[やぶちゃん注:以上は森鷗外の史伝「伊沢蘭軒」(全篇の初出は『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』(大正五(一九一六)年六月から翌年九月まで)の「その百九十」に基づく。されば、引用部は底本に従わず、原本によって表記を訂した。新字正仮名なら「青空文庫」のこちらで読めるが、やはり、新字では迫真力がまるでない。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像での視認を強くお勧めする。

「伊沢蘭軒」(安永六(一七七七)年~文政一二(一八二九)年)は江戸後期の考証派(江戸後期に興隆し、幕末まで続いた医学の一派。儒学との折衷派の影響を受け、古方派と後世派を折衷する立場を採る流れから生まれた。中でも多紀元簡らは古文献学及び書誌学的考証を行い、そのお蔭で散逸を免れて後世に伝えられた医書も少くない)に属した医師。福山藩医。名は信恬(のぶさだ)で、蘭軒は号。

「蒟蒻閻魔」現在の東京都文京区小石川二丁目にある浄土宗の寺院常光山源覚寺の別称。ウィキの「源覚寺(文京区)によれば、寛永元(一六二四)年に『に定誉随波上人(後に増上寺第』十八『世)によって創建された。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に』天保一五(一八四八)年の『大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。再建は明治時代になったが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた』とある。この閻魔像は『鎌倉時代の作といわれ』、寛文一二(一六七二)年に『修復された記録がある』一『メートルほどの木造の閻魔大王の坐像である。文京区指定有形文化財にもなっており、文京区内にある仏像でも古いものに属する。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴でこれは、宝暦年間』(一七五一年~一七六四年)『に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に備え続けたといわれている言い伝えによるものである。以来この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、当閻魔像にこんにゃくを供える人が多い』とある。何より、この「蒟蒻閻魔」は行ったことがないのに私には異様に懐かしい。だって、かの漱石の「こゝろ」の中の重要なランドマークだからである。私のブログ初出電子化注版(サイト一括版はこちら「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」を参照されたい。

「筍笠」竹の皮を裂いて編んだ粗末な被り笠。「竹の皮笠」「法性寺(ほっしょうじ)笠」とも呼ぶ。因みに、「伊沢蘭軒」原文では「篛笠」で、所持する岩波の新書版選集では『たけのかはがさ』とルビしてある。

「額の正中に一目を開いてゐる畸形は胎生学上に有りやうがない」額の中央という位置にやや問題はあるが、先天性奇形の一つで必ずしも稀ではない「単眼症」(cyclopia:サイクロピア)はこれに明らかに相当する。殆んどは出生直後に死亡し、生存率は頗る低いものの、「胎生學上に有りやうがない」という鷗外医師の言葉は誤りである。

「柳田氏の研究題目たる河童と一目小僧」柳田國男の河童の民俗学的研究は、例えば、既出既注の「山島民譚集」があり、後者は昭和九(一九三四)年六月に小山書院より刊行された「一目小僧その他」がある。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で「一目小僧その他」の電子化注を進行中であるが、「一目小僧」についてのパートは既に完遂している。かなりマニアックな注附きであるが、よろしければお読み戴きたい。]

 蘭軒の子の柏軒(はくけん)にも同じような逸話が伝えられている。浜町(はまちょう)の山伏(やまぶし)井戸の畔(ほとり)で道連になった男が「檀那。今夜はなんだか薄気味の悪い晩じゃありませんか」という。柏軒がその男を顧みたまま徐(おもむろ)に歩を移すと、男は少焉(しばらく)して去ってしまう。翌晩も同じように現れて、同じ問を発した。男は獺(かわうそ)の怪で、来かかる人にこの問を発しては怖るべき面貌を示したのであるが、柏軒は近視のために見えなかった。そのせいか三晩目にはもう出なかったというのである。蘭軒はその子に近視を遺伝すると共に、怪を見て怖れざる功徳をも併せ伝えた。獺は水怪の一として、河童の仕業をこれに帰する人もあるのれども、『山嶋民譚集』は竟(つい)に獺には触れていないように思う。

[やぶちゃん注:以上も同じく鷗外の「伊沢蘭軒」の「その三百二十五」に基づく。同前注の理由から国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここからの視認を推奨する。

「柏軒」伊沢柏軒(文化七(一八一〇)年~文久三(一八六三)年)は伊沢蘭軒の次男。名は信重。考証学者として知られた狩谷棭齋(かりやえきさい)に経学を、父に医学を学んだ。妻は、棭齋の娘俊子。幕府の奥詰医。老中首座であった阿部正弘(備後福山藩第七代藩主)の治療を担当したが、死亡(安政四年)したため、一度、奥医から表医に移されたが、安政六(一八五九)年には再び奥詰医となっている。

「浜町(はまちょう)の山伏(やまぶし)井戸」日本橋久松町九(ここ(グーグル・マップ・データ))に存在した井戸(定位置は不明)。山伏が飲用したことに由来するという。ここは「人形町商店組合」公式サイトのこちらに拠った。

「獺の怪」哺乳綱食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon(但し、絶滅種)は、日本や中国の伝承では狐や狸と同様に人を化かす妖怪と信じられていた。ウィキの「カワウソ」の「伝承の中のカワウソ」を参照されたい。]

 『山嶋民譚集』によると、河童に関する記録は近世の二、三百年に偏っていて、古いところには見当らぬそうである。その点俳諧の歴史と共通点がないでもない。北は奥羽から南は九州まで、諸国に散在している模様もまた俳人の分布とほぼ趣を同じゅうするにかかわらず、河童の俳句は極めて乏しい。

 

 すべりてや河童流るゝ瓜の皮      風流

 河童(かはらう)がちからおとしや厚氷 和丈

 

 この二句はいずれも芭蕉以前、談林時代の産物である。『山嶋民譚集』にはカッパソウ(カッパノシリヌグイ)という植物は出て来るが、瓜との交渉は書いてない。「わたしゃ葛西(かさい)の源兵衛堀(げんべえぼり)、源兵衛さんの隣の河童でござる、河童に御馳走なさるなら……」というのは、われわれが文字以外に耳からおぼえた河童資料の最も古いものであるが、制作年代は勿論不明である。由来胡瓜(しゅうり)と尻子玉(しりこだま)は河童につきもののような気がしていたのに、『山嶋民譚集』を一読するに及んで、いわゆる河童伝説は両者とあまり縁のないことがわかった。しかし延宝度の俳諧が夙(つと)に「瓜の皮」を扱っているのを見れば、必ずしも後世の附会ではなかったのであろう。河童が瓜の皮に辷(すべ)るというのは、あるいは人間が西瓜(すいか)の皮などに辷ることから思いついたのかも知れぬ。芋銭氏の「水草絵巻」というものの中にも、瘦せこけた河童の相撲を取っている傍に胡瓜が三本ころげており、他の河童がこれを指しているところが画いてあった。河童に瓜はいささか常套的であるにせよ、また看過すべからざる配合であろう。

[やぶちゃん注:「カッパソウ(カッパノシリヌグイ)」ナデシコ目タデ科イヌタデ属アキノウナギツカミ Persicaria sieboldi の秋田県の一部での方言異名。「山島民譚集」には「河童藥法」(河童が人に伝えたとされる万病処方の条)に続く、というよりもその続きで「河童草」として出、『扛板歸(コウハンキ)、和名ヲ「イシミカワ」一名「カツパサウ」、又ハ「カツパノシリヌグヒ」ナドト稱スル植物ナリ〔雪之出羽路十二〕。忠陵漫錄卷十三ニ曰ク、萬病回春ニ扛板歸アリ。和名ハ「イシミカハ」ト云フ草ニ當ツ。今時藥肆ニモ此草ヲ賣ル。能ク折傷ヲ治スルコト妙ナリト云フ』と出るものを指す。岡山理科大学生物地球学部生物地球学科「植物生態研究室(波田研)」のサイトのこちらの記載によれば、『アキノウナギツカミは北海道から九州、朝鮮・中国・シベリアなどに分布する』一『年草。沼沢地、湖岸、放棄水田などの水湿地に生育する。茎はよく伸びて葉と葉の間が離れる。茎から葉柄、中脈の下半分にかけては鋭い曲がった棘があり、他の植物に引っかかって生育する。葉は細長い長被針形で基部はやじり形となり、茎を抱く。花は茎の先端あるいは葉腋から枝分かれした枝の先端に付き、いくつかの花序をつける。花は上部が淡紅色を帯びる。花期は』七月から十月とあって、画像も載る。

「わたしゃ葛西(かさい)の源兵衛堀(げんべえぼり)、源兵衛さんの隣の河童でござる、河童に御馳走なさるなら……」宵曲同様、この唄の濫觴は見出せなかったが、岡本綺堂の「半七捕物帳」の「海坊主」(初出は『新青年』の大正一三(一九二四)年一と二月発行号への連載で、初出時の題名は「潮干狩」)の「三」に、

   *

 この頃、顔やからだを真っ黒に塗って、なまの胡瓜をかじりながら、「わたしゃ葛西の源兵衛堀、かっぱの伜でござります」と、唄ってくる一種の乞食があった。したがって河童といえば生の胡瓜を食うもの、河童の棲家すみかといえば源兵衛堀にあるというように、一般の人から冗談半分に伝えられて、中にはほんとうにそれを信じている者もあったらしい。

   *

と出る(引用は「青空文庫」版「海坊主」から)。

「源兵衛堀」現在の東京都を流れる北十間川(きたじっけんがわ)の一部の旧呼称。ウィキの「北十間川」によれば、北十間川は総延長三・二四キロメートルの『荒川水系の一級河川であり、江戸時代初期に開削された運河である。西に隅田川、東に旧中川と接続する。横十間川との合流点より西は墨田区内を通り、東は墨田区と江東区の区界となっている』。『名称は、本所の「北」を流れる、川幅が』十間(十八・一八メートル)『の川であることに由来する。以前は大横川の分流点より西を源森川(別名源兵衛堀)、東を北十間川といった』とあるから、現在の東京スカイツリーを中心としたこの流域であろう(グーグル・マップ・データ)。

「延宝」一六七三年から一六八一年。

『芋銭氏の「水草絵巻」』大正七(一九一八)年の第四回珊瑚会展出品。「茨城県近代美術館 所蔵作品検索システム」のこちら(三枚目。拡大されたい)で当該画像が見られる。]

 森羅亭万象の黄表紙『面向不背御年玉(めんこうふはいのおとしだま)』(天明七年刊)は「海士(あま)」の謡をもじったものであるが、河童が両国の夕納涼(ゆうすずみ)で、ぽんと上る花火の玉を面向不背の玉と心得て、うろうろ船の落した真桑瓜(まくわうり)を攫(つか)み帰り、龍王の不興を蒙(こうむ)ることが書いてある。ここでは明(あきらか)に真桑瓜とあって、胡瓜ではないが、山東京伝の洒落本『仕懸(しかけ)文庫』(寛政三年刊)になると、

  「ここにむきずな胡瓜がながれ付ついている。

  「そりゃア河童へやるといってながしたのさ。

という会話があり、胡瓜と限定されるのみならず、河童のために胡瓜を流すという事実が現れて来る。河童と瓜との交渉は、更にいろいろな材料によって傍証さるべきものと考える。

[やぶちゃん注:「面向不背御年玉(めんこうふはいのおとしだま)」ペンネーム森羅亭万象の作。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。短い作品である。

「天明七年」一七八七年。

「山東京伝の洒落本『仕懸(しかけ)文庫』」国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認で視認出来るが、崩し字で当該箇所は捜すのが面倒。ご自身で探されたい。悪しからず。

「寛政三年」一七九一年。]

 河童は季題としては取扱われてはいないが、これを詠んだ句は殆ど夏ばかりである。和丈の句は冬の河童である点が異彩を放っている。厚い氷が張っていたのでは、寒中水泳という新手に出るわけにも往くまい。紀州の河童は冬は山に入ってカシャンボとなり、九州の河童も同じく山に入ってヤマワロとなると『山嶋民譚集』にある。九州南部の河童のように敢て改名せぬ者といえども、冬季は山に入って猟師の側(そば)に現れたりするらしいから、厚氷に遭って力を落すが如きは、よくよく初心の徒に相違ない。

[やぶちゃん注:以上の「山島民譚集」の原記載は以下。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認した。

   *

紀州熊野ニテハ、河童ハ冬ハ山ニ入ツテ「カシャンボ」ト云フ物ニナルト云フ。「カシャンボ」ハ六七歳ホドノ小兒ノ形、頭ハ芥子坊主ニシテ靑キ衣ヲ着ス。姿ハ愛ラシケレドモ中々惡事ヲ爲ス。同國東牟婁郡高田村ニ高田權頭(ゴンノカミ)・檜杖(ヒヅヱノ)冠者ナド云フ舊家アリ。此ノ中ノ或ル家へ每年ノ秋河童新宮川ヲ上リテ挨拶ニ來ル。姿ハ見エザレドモ一疋來ル每ニ小石ヲ投ゲ込ミテ著到ヲ報ジ、ソレヨリ愈山林ニ入リテ「カシャンボ」ト成ルトイエリ〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」牛馬ノ害ヲ爲スコト多シ。或ハ木ヲ伐リニ山ニ入リシ者、樹ニ繫ギ置キタル馬ヲ取リ隱サレ、漸クニシテ之ヲ見出デタレドモ、馬苦惱スルコト甚シク、大日堂ノ護摩札ヲ請ヒ受ケテ、僅カニ助ケ得タルコトアリ。或ハ水邊ヨリ出デ來タリテ夜々牛小屋ヲ襲ヒ、涎ノ如キ物ヲ吐キテ牛ノ身ニ塗リ附ケ之ヲ苦シム。試ミニ小屋ノ戸口ニ灰ヲ撒キ置ケバ水鳥ノ如キ足趾一面ニ其ノ上ニ殘レリ〔同上〕。「カシャンボ」ハ火車ヨリ轉ジタル名稱カト南方(ミナカタ)氏ハ言ハルレドモ未ダ確證ヲ知ラズ。兎ニ角夏ノ間里川ノ水ニ棲ム者ヲモ同ジク「カシャンボ」トモ呼ブト見エタリ。

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ああ、この「山島民譚集」の河童の部分は近い将来、電子化したくなってきた。]

 

   足駄(あしだ)行人

 暑き日も水こそ絶ね河童(かわわつぱ) 腹松

 

 前書の意味は十分にわからぬが、「水こそ絶ね」というのは、例の頭の皿に溜たまるやつであろう。この窪みに水が溜っている間は、彼の力は人に数十倍する。馬を水に引摺り込もうとした河童が、あべこべに厩(うまや)まで引摺って来られることがあるのは、馬の跳躍によって皿の水をこぼされたためである。これを厩の柱に繫いで置いたところ、傍に洗濯していた母親が大に罵って盥(たらい)の水を打掛けたため、蛟龍(こうりょう)の雲を得たるが如く忽(たちまち)に力を生じ、綱を引切って逃れ去ったという話を『山嶋民譚集』は伝えている。仮令(たとい)如何なる炎暑に際しても、頭の皿の水を絶やすまじきことは、河童として当然の心掛でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「山島民譚集」の当該箇所は以下。

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曾テ肥前佐賀郡ノ三溝(ミツミゾ)ト云フ地ニ於テ、農民其ノ馬ヲ樹ニ繫ギ置キシニ、河童水ヨリ出デ其ノ綱ヲ解キテ身ニ絆(マト)ヒ之ヲ水際マデ引キ行キケレバ、馬驚キテ大イニ跳ネ、乃チ河童ノ皿ノ水ヲ覆(コボ)ス。河童忽チ力弱リ却ツテ馬ニ引キ摺ラレテ厩ニ至ル。主之ヲ厩ノ柱ニ繫ギ其ノ由ヲ母ニ語ル。母ハ洗濯ヲシテアリシガ、大イニ罵リテ盥ノ水ヲ河童ニ打チ掛ケタレバ、其ノ水少シク皿ノ中ニ入リ、河童力ヲ復シテ馬ノ綱ヲ引切リテ逸シ去リ、終ニ片手ヲ失ウニモ及バズ、又詫狀モシクハ藥ノ祕傳ノ沙汰ニモ立チ至ラズ〔水虎考略後篇三〕。従ッテ此ノ地方ニハ河童ノ侵害後世ニ至ルマデ中々多カリキ。

   *]

 腹松の句はただ水とのみあるが、同じく元禄度の俳諧に明(あきらか)に頭の水となっているのがある。

 

 油煙藏(ゆえんぐら)鳥も覗かぬ寒の内 浮生(ふせい)

   頭の水をこぼす河童(かわわつぱ) 兎株

 何ものか鉦(かね)太鼓にて泣ないて行(ゆく)

                    風水

 

 この河童の状態もあまり明瞭でない。寒の内という前の句を受けたためか、後の鉦太鼓を鳴らして行くのも、どうやら冬の夜の趣らしく感ぜられる。冬の天地に抛り出された河童が、頭の水をこぼしてしまっては、全く活動の余地はなさそうである。

[やぶちゃん注:「寒の内」。二十四節気の第二十三に当たる「小寒」(旧暦十一月後半から十二月前半。現在の一月六日から一月十九日相当)から「立春」の前日(節分)までの約三十日間。「大寒」の日がほぼ中間となる。]

 河童の対人交渉の中で最も多いのは、悪戯(いたずら)をしかけるか、あるいは馬を引摺り込もうとした結果、大事の腕を失って、羅生門の鬼の如く取返し手段を講ずる話であろう。偶〻(たまたま)九州の河童のように、華美な犢鼻褌(ふんどし)をひけらかして闊歩し、人に相撲を挑む輩(はい)もないではないが、概して河童の打つ手は単調である。その中にあって、

 

 河童(かはたろ)の戀する宿や夏の月  蕪村

 

の句は那辺(なへん)より著想し来ったものが、常套を脱して一脈の妖気を漂わせている点を珍とすべきであろう。夏の月夜に人を恋う水虎先生は、水郷怪談の一齣(ひとこま)として何人かの作中に入るべきものだが、下手に作為を加えたら、この蕪村の句が持つだけの雰囲気もぶち壊してしまうかも知れぬ。

 明治以後の河童の句にはどんなものがあるか、いまだ子細しさいに点検する遑(いとま)がない。

 

 浮草に河童恐るゝ泳ぎかな   子規

 泳ぎ上り河童驚く暑さかな   漱石

 

 共に泳(およぎ)を題材にしているが、前者は河童を恐れるというまでで、実際は人の上にとどまっている。陸(おか)に上って暑さに驚く河童も、奇想のようで人間世界を脱却し得ぬ憾(うらみ)がある。

 

 夕立に瓜流るゝを河童かな    句一念(くいちねん)

 子等らのいふ河童の昼寐時分かな 鹿語

 

 河童と瓜は珍しくもないが、夕立に流れる瓜を追駈けて行くところとすれば、そこに多少の動きがあって、従来の句に見られぬ特色を具えている。「河童晝寐時分」は、しずまり返った日盛(ひざかり)の空気を連想せしめるが、それも河童の棲息するような、水辺を背景としている点に注意する必要がある。

 

 獺を河童思ふや秋の水   月斗

 

 これは蕪村の句に現れたような河童の恋であるか、単に水郷仲間の獺を思いやるというのであろうか、いずれにしても秋の水だけに一種のさびしみがある。

 

 子河童を捕りし祟(たたり)や秋出水(でみづ) へき生(せい)

 

 水辺の者が河童の子を捕えた、それが彼らの恨(うらみ)を買って、秋になってから雨が降り続き、遂に一面の出水となる。子河童を捕えた者の家は固(もと)より浸水を免れぬであろう。この句には妖気というほどではないが、今までの句と違った匂においがする。子河童事件を眼前に描こうとせず、現在の秋出水を以てその祟とした、時間的経過を含んでいることが、この句の特色なのであろう。

 

   韓街所見

 親河童子河童喰ふや真桑瓜   月斗

 

 これは瓜を食いつつある親子を、河童に見立てたまでの句と思われる。一句に現れたところだけでは、その光景を髣髴することが出来ないが、もし瓜の因縁のみを以て河童に見立てたものとすれば、浅薄の嫌(きらい)を免れぬ。韓街所見という以外、何か意味を補うところがないと、この河童は躍動することにならぬのかも知れない。

[やぶちゃん注:この句、差別視線が強く、厭な句である。戦後の本篇にこれを引いた柴田宵曲の品格の低さが露呈している。]

 俳諧における河童は好題目のように見えて、その実真の妙味を発揮したものが見当らぬようである。われわれが河童の姿に愛すべき俳味を感ずるのは、芋銭氏の画に親しんだためかもわからぬ。山魈(さんしょう)といわず、木魅(ぼくみ)といわず、芋銭氏によって新あらたに生命を吹込まれたものは少くないが、その最も著しいのは河童であろう。芋銭氏が河童の自画に「誰識古人画龍心」の七字を題したのは、決して偶然ではない。

[やぶちゃん注:「山魈」中国古代の山中に棲む一本足の妖怪の名。「山精」「山𤢖(さんそう)」「やまわろ」などと同一視される。狭義には一本足で、足首の附き方が人間とは反対に後ろ前になっており、手足の指は三本ずつとする。男は「山公」、女は「山姑」と称し、人間に会うと山公は銭を、山姑は紅・白粉を要求する。嶺南山中の大木の枝の上に住み、木で作った囲いに食料を貯え、虎を操り、要求物を呉れた人間は虎が襲わないようにしたりするという。「ウィキの「山わろ」によれば、中国の古書「神異経」には、『西方の深い山の中に住んでおり、身長は約』一『丈余り、エビやカニを捕らえて焼いて食べ、爆竹などの大きな音を嫌うとある。また、これを害した者は病気にかかるという。食習慣や、殺めた人間が病気になるといった特徴は、同じく中国の山精(さんせい)にも見られる』とあり、そのウィキの「山精」を見ると、『中国河北省に伝わる妖怪』『山鬼(さんき)とも』称し、「和漢三才図会』」では『中国の文献が引用した解説が載っている。それによると、安国県(現在の中国の安国市)に山精はおり、身長は』一尺或いは三~四尺で、一本だけ『生えている足は』、『かかとの向きが前後逆についており』(本書の次条「廣異記」を参照)、『山で働く人々から塩を盗んだり、カニやカエルをよく食べたりする。夜に現れて人を犯すが、「魃」(ばつ)の名を呼ぶと彼らは人を犯すことが出来なくなるという』(本話の最後に語られる内容を逆手にとった人間の方から先に「言上げ」することによる絶対的な神怪の退治法)。また、『人の方が山精を犯すと、その人は病気になったり、家が火事に遭ったりするという。また』、「和漢三才図会」に於いては『「山精」という字には「片足のやまおに」という訓がつけられている』とし、再び、ウィキの「山わろ」に戻ると、やはり「和漢三才図会」には『山𤢖(さんそう)に対して「やまわろ」の訓が当てられている。「やまわろ」という日本語は「山の子供」という意味で「山童」(やまわろ)と同じ意味であり、同一の存在であると見られていた』とある。その辺りは、どうぞ、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖(やまわろ)」及び「山精(かたあしのやまおに)」等をじっくりとお読み戴きたいし、本邦の「やまわろ」や「山男」についても、本「怪奇談集」の「想山著聞奇集 卷の貮 山𤢖が事」等々で散々っぱら電子化注してきたので、これくらいにしておく。因みに、現代中国語の「山魈」は実在する生物種、かの哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科マンドリル属マンドリル Mandrillus sphinx の漢名である。

「木魅」一般には前のそれと合わせて「山魈木魅(さんせうぼくみ)」で、山中の妖怪・精霊である「魑魅魍魎」の一群の別称とされる。「木魅」は所謂、「木霊(こだま)」の妖怪化と捉えてよいと私は考えている。]

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