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2017/11/03

老媼茶話巻之四 山伏惡靈

 

     山伏惡靈

 

 三坂越前守隆景の家士、吾妻甚平教元(のりもと)子、八郎教爲(のりため)とて大刀の強弓、有(あり)。片手に碁盤のすみを弐指にて挾み、五拾目の蠟燭を一あふぎに消す。又碁ばんの上へ十二、三斗(ばかり)の子共をのせ、片腕にて差出(さしいだ)し、其上にて力足を踏(ふま)せ、おどり上らせ、樣々すれ共、碁盤、少しも不動(うごかず)、大盤石のごとく也。

 天正四年四月始(はじめ)、隆景の息(そく)神七郎(じんしちらう)を大將として吾妻八郎を相添(あひそへ)、三百騎を遣し、常葉・三春の敵を討(うた)しむ。敵、中途に伏兵を用ひ、三坂軍を大(おほい)に破る。大將神七郎久長、生年廿三、近國の美男也。緋おどしの鎧に六拾二間の筋冑(すぢかぶと)、金の鍬形(くはがた)打(うつ)て猪首(ゐくび)に着(つけ)、隆景祕藏の「いなづま影」といふ陸奧生立(そだち)の荒馬に乘(のり)、敵陣へかけ入(いり)、敵弐騎、切(きつ)て落し、切先につら貫き、しづしづと引退(ひきの)く。

 爰に船引(ふなびき)の「大行院」といふ山ふし、もとは出羽の羽黑のものなるが、其(その)長(たけ)六尺餘り有て、隱なき強力の大膽(ダイタン)者、白き布にて頭を包み、紺糸おどしの鎧の胴斗(ばかり)着て、白地に「あびらうんけんそわか」と筆ぶとに梵字に書(かき)し大旗を差(さし)さげ、針をも打(うつ)と云(いふ)鐵炮の上手なるが、拾匁(もんめ)の鐵炮を以(もつて)、小高き所の大松の陰より、ねらい濟(すま)し、神七郎久長がかけ通る所を打(うつ)。神七郎、運命や強かりけん、久長にはあたらず、乘(のり)たる「稻づま影」が平首を打拔(うちぬき)ければ、さしもの荒馬なれども屛風倒しにたをれ、久長、弓手(ゆんで)に折立(おりたち)たり。

 八郎教爲、遙に是を見て、

「久長、打(うた)れたり。」

とや思ひけん、

「南無三寶。」

と云(いひ)て、大弓に大雁股を引(ひつ)つかひ、強引(ヨツヒキ)、暫し、手持(テモチ)、

「兵(ヘウ)。」

と射る。其矢、あやまたず、谷越に引(ひか)へたる大行院が口の上より、つら半分、射(い)ちぎり、首は谷底へ飛(とび)、むくろは、鐵砲持(もち)ながら、松の下に前伏(まへぶせ)に

「どう。」

と倒れたり。

 神七郎、乘替(のりかへ)に乘(のり)、引退く。

 久長が馬の口取(くちとり)「礫(ツブテ)の三藏」といふ兎口(トクチ)の大力(だいりき)、有(あり)けるが、「稻妻影」が鐵砲にあたり死(しし)たるをみて、歎息し、申樣(まうすやう)、

「此馬は、さしも、主君隆景の御祕藏の馬也。死骸にても本國へもち歸るべし。爰に捨置(すておく)べからず。」

と、鞍(クラ)・鐙(アブミ)・三階(サンガイ)・轡(クツハ)・切付(きりつけ)・あをり・手綱(たづな)迄も、悉く取納(とりおさ)め、其後、敵味方、算を亂し、討死せし腹帶・鉢卷、取集(とりあつめ)、ふとなわにより合(あは)せ、八寸(やき)に餘る大馬のしかばねを、堅なは・橫なは、しつかとかけ、かるがるとせおい、大太刀片手に打振(うちふり)、むらがる敵の眞中を、おもてもふらず、切(きつ)て入(いり)、むかふ敵の追(おひ)ちらし、三坂の城へ歸りけり。

 神七郎も深手を負(おひ)ければ、八郎教爲、はいぐんを集め、三春より三坂へのすぐ道、「きりしまか嶽」に懸り、靜(しづか)に備へを立(たて)、我身は半町斗(ばかり)引(ひき)さがり、後殿(シンガリ)をして引退く。

 敵、又、大勢、附(つき)したひ、ときのこへをつくりかけ、追來(おひきた)りければ、八郎、「狼」といふ一騎打の細道にて取(とつ)て返し、馬より飛(とび)ており、例の大弓大矢にて、敵を目の下に見おろし、差(さし)つめ引(ひつ)つめ、散々に射る。死生は知らず、敵、大勢、射落され、人も馬も一同に笹の上にかさなり、ふす。敵、此弓勢(ゆんぜい)におそれ、人、なだれをついて、遁(ニゲ)ちりけり。八郎、是をみて心よげに打笑ひ、馬、引寄(ひきよせ)、打乘(うちのり)、味方の手負(ておひ)、引(ひき)まとい、久長を守護して三坂城へぞ歸りける。

 八郎、武勇に於ては壱人當千の兵たりといへども、其行跡(かうせき)、みだりにして、我儘無道也。

 父甚平は夢にも是を知らず。いつも城下の町より「威德院」といふ山伏、來りて、終日終夜、碁を打(うち)、是を以(もつて)、老後の樂(たのしみ)とす。

 或時、威德院、甚平にさゝやき申けるは、

「か樣(やう)の事、申候も甚遠慮に候得共、親しく御目被懸(おめにかけられ)候に、世間取沙汰、申さぬも心外に候まゝ、申上候。御息男(ごそくなん)八郎殿、武勇(ぶやう)の御働(おはたらき)、誠にいにしへの『泉の親(ちか)ひら』とも申べし。然共(しかれども)、人柄、宜しからず。ばくち・辻切(つぢぎり)・強盜を好み、此頃も取ざた承り候に、近國のある富家に夜盜弐三十人、押入(おしいり)、家内の男女壱人(ひとり)も不殘(のこらず)切殺(きりころ)し、金銀財寶、奪取(うばひとり)、家へ火を付(つけ)、燒拂(やきはらい)申候。是も、頭取は八郎殿にて候よし、さた仕(つかまつり)候。少しもなき事は人も申さざる物に候まゝ、百分一も、八郎殿、誤りも候べし。急度(きつと)、御意見被成(なされ)候へ。」

と云(いふ)。

 甚平、始(はじめ)て聞(きき)て、大きに驚き、

「扨々、能(よく)こそ知らせ給り候得。誠に以(もつて)過分にて候。我家の爲を被存(ぞんぜられ)、いひにくき事を申さるゝ段、深志、過分に候。」

と厚く禮謝して威德院を樣々もてなし、「いとく院」、歸りける跡にて、八郎教爲を呼出(よびいだ)し、暫(しばらく)白眼(にらみ)、

「おのれめは、近國他國のあぶれ者を召集(めしあつめ)、その棟梁となり辻切強盜をなし、人の財寶を掠取(うばひとり)、とがなき人、切殺し、かゝらぬ惡逆なすと聞(きく)。言語同斷の所行、前代未聞の大惡逆、是が侍のなすわざか。汝、たしかに承れ。不善の幽冥の内になす者は、鬼、得て、是を戮(リク)し、不善顯明(けんめい)の内になすものは、人、得て是をりくす、といへり。天の網(あみ)、いづくんぞのがるべき。終に他國にて生(いけ)どられ、なはめの恥におよび、己(おのれが)心から斬罪・梟首の刑に逢(あひ)、先祖の家名を糞土にけがし、死後迄、人に惡名をよばれ、一門類葉(るゐえふ)の面皮(めんぴ)をよごす事、心うしとやおもはずや。たとヘ、はんくわい・張良程たけくとも、武士道の義理を知らずんば、何の用にか可立(タツベキ)。畜類にはおとりたり。此(これ)以來、心をあらためずんば、七生(しちしやう)迄の勘當(かんだう)なり。そこ、罷立(まかりたて)。」

と、大きに怒り、八郎を追立(おつたて)、其身も奧へ入(いり)たり。

 八郎、父にしかられ、すごすごと我(わが)住(すむ)部屋に來り、

「誰か、此事、父に聞せたるらん。」

と、色々、思案すれども、是ぞと覺しき心當(こころあたり)の人もなかりければ、家ひさしく仕ふ若黨に源七と云(いふ)者有(あり)、この者をひそかに招き、

「いかに、源七。父、我(わが)惡行、細かに知り、したゝかにしかられ、七生迄の勘當を請(うけ)たり。誰が我(わが)惡事、父にしらせつらむ。汝、存(ぞんじ)あたりはなきか。」

といふ。

 源七、聞て、

「それは大方、橫丁(よこちやう)の威德院にて御座あるべし。昨夕、威德院、參り、碁を打(うち)、仕𢌞(しまはし)申候節、親旦那に、何やらん、ひそひそと耳語(サヽヤキ)候折(をり)、大旦那、以の外に、たまげ給ふ氣色(けしき)にて、『扨々、今迄、少しも知らず、言語(ごんご)を絶し、不屆(ふとどき)に候』と被仰(おほせられ)候。其砌(みぎり)、我、盃(さかづき)持出(もちいで)候得ば、威德院、咄(はなし)を止(や)申候。定(さだめ)て此儀に候半(さふらはん)。」

と云。

 八郎、聞て、大きに腹を立(たて)、

「扨は威德院の代待(だいまち)山伏がしわざなり。今夕、來たるものならば、其返報いたさん。」

と手ぐすね引(ひき)て待居(まちゐ)たり。

 かくとも知らず、いとく院、又候(またぞろ)、今宵ひ、甚平がかたより、呼使(よびつかひ)、來りければ、急ぎ、取(とる)物も取(とり)あへず、甚平かたへ來り。終日、碁を打、夜陰に及び、何心なく酒よく吞(のみ)、きげんよく歸りけるに、門の傍に、八郎、待請(まちうけ)、こぐらきすみのかた陰より、ながき肘を差延(さしのばし)、いとく院が首筋、後より引(ひつ)つかみ、中(ちゆう)に引(ひつ)さげ、遠裏(とほうら)の馬場へ連行(つれゆき)、松の大木にしたゝかにしばりつくる。

 いとく院、大きに驚き、

「是は八郎殿、何事をなし給ふ。狂亂ばししたまふか。」

と云。

 八郎、眼をいからし、

「よくも己は眞僞實否(シンイジツヒ)も聞定(ききさだ)めず、あるにもあらぬ事迄も我(わが)父にさかしらして、七生迄の勘當をうけさせたり。山伏の所在の祭文(さいもん)は讀(よみ)あるかず、いらぬむだ口、さへずりたる、その御禮、只今、申述(まうしのぶ)る。覺悟せよ。」

と、大弓に大かりまたをつがへ、威德院が首を射切らんとす。

 威德院、此よしを聞(きき)、眼をいからし、齒をかみ、

「扨々、己はよくよくの大惡無道人也。汝、あしかれ、とて父に告(つげ)たるにあらず。汝が武勇、名譽を以(もつて)、かゝる人望に背き、大惡逆をなす事、誠に世俗に云(いふ)玉に疵(きず)也。慈父の教戒を請得(うけえ)て心ざしを改め、若(もし)、善人にも成らば天下國家の重寶なり、と一筋に汝が身の爲を思ひ、ひそかに甚平殿へ告たる也。己、少(すこし)も人間の心あらば、深く禮謝すべき事なるに、人非人のくせとして、よこしまの恨(うらみ)をなし、恩を仇にて報じ、かゝるむたひの死を、あとふる。みよ、みよ、七日の内に、忽(たちまち)、惡靈となり、取殺(とりころ)すべきぞ。」

と血眼になり、頭の毛、空樣(そらざま)に立(たち)あがる。

 八郎、打笑(うちわらひ)、

「代待坊(だいまちばう)め、むだこと吐(はか)ずと、念佛申せ。」

と、

「きりきり。」

と引(ひき)しぼり、いとく院が首骨、

「ふつす。」

と、ゐきる。

 山伏が首、四、五間、飛(とび)て、二、三度、躍上(をどりあが)り、かたはらなる石にくらい付(つき)、

「かりかり。」

とかみけるが、血眼を

「くわつ。」

と、見ひらき、ふさがずして、死(しし)たり。

 射ちぎりたる首穴より、

「ひらひら。」

と稻づまの樣なる光りもの出(いで)、其跡より、手鞠程なる靑玉、飛出(とびいで)、松の木梢にとゞまり、夫(それ)より、空へ飛消(とびきえ)たり。

 いとく院が死骸を俵へふみこみ、片陰に、ふかく、埋陰(うづみかく)しけり。

 其夜は五月十七夜、月影、殊に、くま、なかりける。八郎、源七をよび、

「なんじ、骨折をしたり。酒壱のむべし。我、吞(のま)ん。」

とて、南面の障子をひらき、月に對し、只弐人、差向ひ、酒を吞(のむ)。

 源七、申樣(まうすやう)、

「山伏が最後のつら付、扨々、おそろしく、いまだ目に付(つき)、さぶけ立(たち)候。」

といふ。

 八郎、笑(わらひ)て、

「馬鹿山伏めが。己が故に非業の立出(たちいで)したり。口はわざはひの門、舌三寸のからくりを以(もつて)五尺のからだを損亡すと、能(よく)も云傳(いひつた)へたり。」

とて酒を吞(のみ)けるが、盃の中を、目を見張りて、見て居たり。

 源七、みて、

「何を御覽なさるゝ。若(もし)、蟲にても飛入(とびいり)候や。」

と云。

 八郎、聞て、

「いや。蟲の入(いり)たるにては、なし。此盃の中にいとく院がつらの、ありありと見ゆる。不思義也。」

とて、盃を庭へ、なげ捨ける。

 俄(にはか)に、月、くもり、村雨(むらさめ)、一通りして、風、吹來(ふききた)り、座の燈火(ともしび)を吹消(ふきけす)。

 そとより、靑玉、座中飛入(とびいり)、ひらめき渡る光の内を、よく見るに、いとく院が首也。

 八郎、立あがり、こぶしを握り、かの首を張落(はりおと)す。

 首、みぢんに碎け、靑火、紛々(ふんぷん)として飛散(とびちり)、きへうせたり。

 源七、急ぎ、燈を立(たて)たるに、いづくより來(きた)るともなく、いとく院、白き小袖に、柿の衣、靑きけさ、懸(かけ)、右にしやく杖(じやう)、左(ヒダリ)にあかぎの數珠(ずず)を持(もち)、八郎がそばに座し、眼を見開き、齒を喰しばり、八郎を、

「きつ。」

と白眼付(にらみつけ)、くやしそふなる面付(つらつき)にて、ひざまづき、居(ゐ)たり。

 八郎、脇差に手を懸

「己、我に仇(あだ)をなさんとて靈鬼の來りたるか。につくき山伏め。」

「礑(はた)。」

と、にらむ。いとく院惡靈、是を聞、立上り、錫杖を取直し、そばに有りし源七が首を打(うつ)とぞ見へし。

 源七、則(すなはち)、血をはきて、倒死(たふれし)す。

 其後(そののち)、數珠も錫杖もなげ捨、八郎に飛懸

 則(すなはち)、引組(ひつくみ)て、終夜、つかみ合(あひ)、曉方(あかつきがた)になり、東雲(しののめ)、空にたなびくころ、山伏が惡靈も立去(ちさ)りければ、八郎、正體なく、草臥(クタブレ)、すこしまどろみけるが、起上り、手水(ちやうづ)、つかはんとて、水、むすびければ、たらゐの底に山伏が姿あり。

 八郎、怒(いかつ)て、たらいを取(とつ)て、庭の立石(たていし)に抛付(なげつけ)、打(うち)くだく。

 髮、けずらんとて、鏡を見るに、鏡にも、山伏が面影、ありありと移りければ、鏡をも取て抛すて、あきれ果(はて)てありける所へ、朝飯の膳、持來(もちきた)りければ、椀を取あげ、箸(ハシ)を上(あげ)てすでに食せんとするに、山伏が亡靈、八郎がそばに有(あり)て、手をのべ、椀も箸もかなぐり捨(すて)、食事、なさせず。

 八郎、大きにいかり、わきざしを引拔(ひきぬき)、切らんとするに、山伏、打(うち)かくる刃(やいば)の下をくゞり、つかみ懸(かか)る。

 八郎、

「心得たり。」

と、切らん、うたんと、刀をふり𢌞し、ひらめかし、山伏を追(おひ)かくる。

 いとく院が怨靈、たゞ八郎が目にばかり、さへぎりて、他人の目には、曾て、みへず。

 此故に、八郎が、刀(カタナ)拔(ぬき)、飛狂(とびくるふ)有樣を見て、家内の者、大きに驚き、

「亂氣したり。」

とて、一門一族ども、つどひ集る。

 一間(ひとま)成(なる)所を嚴敷(きびしく)かこい、八郎を押込(おしこめ)、大勢のものども、終夜、守り居る。

 日も暮方になりて、空より、靑き玉、飛(とび)きたつて、八郎が座のうちへ入(いる)よ、とおもへば、八郎、氣色(けしき)かわり、大息(おほいき)つぎ、

「又、來るか、山伏め。」

と、目をいからし、はをかみ、こぶしを握り、立上り、飛あがり、大音上(あげ)、怒(イカリ)訇(ののしり)、人といさかひ、くみ合(あひ)、ねぢ合(あふ)風情(ふぜい)にて、獨りして、くんづ、おきつ、ふしたり、まろんだり、大あせを流し、身をもみて、曉に成(なり)て、すこし靜(しづま)り、正體もなく伏(ふし)たり。

 さも、強勢勇猛の八郎も、形容、やせ、つかれ、身體、おとろへ、かじけたり。

 八郎が母、大きに歎(なげき)かなしみ、いろいろ、佛神へきせいをかけ、あらゆる願立(がんだて)をして、祈り申といへども、露程(つゆほど)も印(しるし)なし。

 母、餘り、やるかたなきまゝ、なくなく、八郎が枕元により、

「汝、日頃、佛神を信ぜす、三寶をうやまはず、かゝるあやしき病(やまひ)を得たり。久長山耕山寺の地藏、靈驗あらたにまします事、汝もよく知る所也。なんじ、自ら、ほつとくし、一心に祈りなば、かんのふ、などか、なかるべき。母が教(をしへ)にしたがひ、地藏尊を誠心自得に祈るべし。」

と、かきくどきいひければ、八郎、聞て、起直り、打笑ひ、申樣、

「人間の死生存亡(ししやうそんばう)は天元(てんげん)の數(すう)有(あり)て、のがるゝ事、あたはず。神力(しんりき)・佛力にも及ばざるは、天命也。むかしより、知士・勇士、橫死劍刃(わうしけんぢん)に逢(あひ)候。是、皆、定まれる業因也。わが病、さのみ、大事に候はず。日を經(へ)ば、本腹、仕るべし。いたく御心を勞せさせ玉ふな。」

とて用(もちひ)る事なし。

 八郎、山伏を殺し、三七弐拾壱日めに當りける日は、鬼神(きしん)の樣なる八郎も、靈鬼の爲になやまされて、大きにつかれ果て、眠れるごとく見へて、忙然として居たりけるが、目をひらき、弟經七郎を呼(よび)て申けるは、

「我、度々、戰場に望(のぞみ)て、先駈(さきがけ)・後殿(しんがり)、人におくるゝ事なく、堅陣(けんぢん)を破り、強敵(がうてき)を打(うち)て、手柄を顯はす事、皆(みな)人、よく知(しる)所也。たとへ、鬼神にもせよ、神にもせよ、てきめんの勝負をせば、かくやみやみと成(なら)まじきに、惡靈亡魂のしわざなれば、力、不及(およばず)、件(くだん)の山伏めが靈魂にとり殺さるゝこそ、千萬口惜(くちおしき)次第也。我(わが)心神(しんじん)、既に、つかれて、心、しきりに迷妄せり。死せん事、只今に有(あり)。我(われ)死せば、日頃、戰場へきたりし黑皮おどしの鎧・甲・弓矢を取揃へ、長谷堂の觀音の御寶殿に寄進し奉り、我(わが)過去の冥(めい)あんを祈るべし。汝、我(わが)惡逆無道なる行跡(かうせき)に習はずして、主公に忠を盡し、父母に仕へて孝行を全ふせよ。我(われ)死(しし)て後、老たる父母の賴(たのみ)玉ふは、只(ただ)汝壱人也。必(かならず)、諸事、愼しみ、我(わが)教戒に背く事なかれ。」

とて、目をふさぎけるが、くるしむ事、數度にして、命、終れり。

 行年(かうねん)三拾五歳なり。

 さしも、近國にて鬼神の樣におぢ恐られたる八郎も、山伏が惡靈に三七日の内に取殺(とりころ)されけるこそ、おそろしけれ。

 八郎なき骸(がら)をば、明(あく)る夕暮、長久山耕山寺送りし。

 一法道勇英士と號

 母、死別の悲しみにたへかねける夕(ゆふべ)、時鳥(ほととぎす)の鳴けるを聞てかくぞ思ひつゞけける。

  時鳥しての山路へ行ならは我思ひ子の道しるへせよ

[やぶちゃん注:以下、「石地藏の建(たて)て有(あり)しと云(いふ)也。」までは底本では全体が弐字下げで、最初の割注様にした一行は、ポイント落ちで、一行に書かれてある。]

【第四卷郭公(ほととぎす)ノ歌ノ下別本ニ此一段アリ。補入(おぎなひいれ)スべキナリ】

 寛文の頃、粹山寺の現住比丘踈玄(そげん)、當院地藏の緣記、其略に曰(いはく)、

 三坂越前守父子三人、三春・常葉の戰場へ赴(おもむき)、二子、不運にして討死す【兄長信。弟芳信。】父の隆景、風樹の恨(うらみ)をいだき、骸(なきがら)を當院に葬る。季年(きねん)の后(のち)、二子、夢中に父母に告(つげ)て曰、

「われ、弱冠にして未修佛道(いまだぶつだうををさめず)、不幸にして、命、霜刃(さうぢん)に落せり。故に今、修羅窟(しゆらくつ)に沈倫(ちんりん)して晝夜六時に苦(くるし)みを請(うく)。願くは、父母二子の爲に、地藏菩薩を當院に安置し、黃泉(くわうせん)の冥福を助(たすけ)給へ。」

と。隆景夫婦、夢覺(さめ)て、悲歎の淚を押(おし)、地藏薩唾(ぢざうさつた)の尊容を彫刻して粹山寺へ納め、三坂村の内にて十石を寄附し、二子の菩提を祈(いのる)と書(かき)たり。

 延寶九年の頃の米澤上山(かみのやま)の城下に白土閑夢と云(いふ)桑門、有(あり)。其頃、年八十斗(ばかり)の人といへり。此者、出羽奧州、小城小城の戰(いくさ)、城落將士(しろおちしやうし)の剛臆(がうおく)・討死(うちじに)をしるし、「奧羽合戰舊聽記」と名付(なづけ)、全部三册物也。それに委しく有(あり)。此(この)書、赤羽隨世、所持なり。大行院が討(うた)れし跡の大松の元に、近ごろまてで、石地藏の建(たて)て有(あり)しと云(いふ)也。

[やぶちゃん注:ここから本文に戻る形となる。]

 もろこし呉の孫策といひし人、宇吉仙人を殺し、その神靈に取殺されし事あり。是、八郎教爲が事と和漢同日の物語なり。

 或記にいはく、

 凡人、死して、氣、散じ、其跡なきものは、是、其(その)常理也。けだし、人物の生(しやう)ずる天地陰陽の感ずる處、衆(あつめ)て、生れ、散じて、死す。故に生(せい)はおのずから、息(イコイ)、死はおのづから、消へ散ず。更に一息の間斷なし。いづくんぞ、人、死(しし)て、再生するの理(ことわり)あらんや。しかりといへども、魂氣の大虛(たいきよ)に行(ゆく)に、ちそくなき事、あたはず。譬(たとへば)、灯烟(ひけむり)のつき上り、漸(やうやう)なくなり、去(さる)がごとし。烟氣(ゑんき)のたち、聚泯(シユミン)然として、薄きものはなくなり、去事、すみやか也。是、則(すなはち)、朱晦翁が打麵做糊(チヤウメンエコ)のタト(タトヘ)有(ある)所以(ユエン)也。尫贏(ワウライ)の病死人、結氣、漸(やうやく)盡(つき)て、終(すべ)て死す。ゆへに、英氣、すみやかに散じて、とがめなし。其死を得たる人にいたりては、其氣、速(すみやか)に消散する事、あたはず。うつ結して、怪を、なす。鄭(テイ)ノ伯有之(ハクユウシ)、しばしば公孫叚(コウソンカ)を殺し、包生(ホウセイ)が靈魂のせい侯(コウ)をおびやかすの類(たぐひ)、是(これ)也。

 

[やぶちゃん注:「三坂越前守隆景」「老媼茶話巻之弐 山寺の狸」の私の迷走注を参照。実在した人物であることは確かである。後に出る根城である「三坂城」は現在の福島県いわき市三和上三坂にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。戦国時代にこの地方を治めた岩城氏の重要拠点とされ、三倉(さのくら)城とも呼んだ。

「吾妻甚平教元」不詳。人名の読みは以下すべて推定。この注は以下、略す。

「八郎教爲」不詳。

「大刀の強弓」ママ。底本、編者注なし。按ずるに、「大刀」は「大力」(だいりき)の原典の誤字ではあるまいか?

「五拾目」「目」は「め」で数詞と採っておく。但し、蠟燭は「挺・丁(ちょう)」・「本」・「個」・「束(そく)」・「対」・「穂(すい)」が数詞としては普通。

「天正四年」一五七六年。

「隆景の息(そく)神七郎(じんしちらう)」「久長」不詳。

「常葉」現在の福島県田村市常葉町(ときわまち)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三春」現在の福島県田村郡三春町(みはるまち)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。常葉西直近。

「緋おどし」「緋縅」。

「六拾二間の筋冑(すぢかぶと)」「筋冑」(筋兜)は南北朝から室町時代に用いられた兜の一形式で、細長い薄い鉄板を縦に順々に重ね並べ、それを小さい鋲で留め、鋲頭を平らに叩き潰して隙間をなくし、鉄板の重ね目(筋)だけを見せた兜。使用した鉄板の数により「何間の兜」と呼ぶ。本冑は六十二の鉄板数から成るものを言い、名物にはこの「六十二間」が多いようである。

「猪首(ゐくび)に着(つけ)」兜(かぶと)を後ろにずらして、少しあみだにして被り。これは顔面と頭部を普通より晒すことになるため、敵の矢も刀も恐れない、勇ましい被り方とされる。呼称は首が短く見えることに由来する。

「船引(ふなびき)」現在の福島県田村市船引町。先の常葉と三春の丁度、中間地区に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「あびらうんけんそわか」漢字で書くと「阿毘羅吽欠蘇婆訶」で、大日如来に祈る際の呪文。「阿毘羅吽欠」は、梵語で順に「地・水・火・風・空」の、「蘇婆訶」は梵語で「成就」の意を表わす語の音写。

「拾匁(もんめ)」弾丸の重さ。凡そ三十六グラム弱で直径は十八・四ミリメートル。

「平首」馬の首の両側の平らな所部分。

「弓手(ゆんで)」左手。ここは馬の左側。

「折立(おりたち)たり」馬から降り立った。この時、右手のかなり離れた位置から八郎教為は見ていたのであろう。「稲妻影」が斃死したその体の向う側に体が隠れてしまい、よく見えず、鉄砲に撃たれて落馬してしまったように見えたのであろう。

遙に是を見て、

「乘替(のりかへ)」戦場での武将の乗馬の危急の際に備え得て準備してある乗り換え用の軍馬。

「三階(サンガイ)」「三繫(さんがい)」或いは「三懸」が一般的漢字表記。掛馬具(かけばぐ)の面繋(おもがい)・胸繋(むながい)・尻繋(しりがい)の総称。革紐又は裂紐によって馬具を馬体に装着させる部品。ウマの頭部につけて轡(くつわ)を保持するものを面繋、胸部から鞍にかけてつけるものを胸繋、鞍から尻にかけて掛けるものを尻繋という。後には装飾性が強くなった。

「切付(きりつけ)」馬具の下鞍(したぐら)のうち、肌付(はだつけ)の上に重ねるもの。馬の背や両脇を保護するための台形を成す補助具。

「あをり」歴史的仮名遣としては「あふり」が正しい。漢字では「障泥」「泥障」などと書き、鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)に結び垂らして、馬の汗や蹴上げる泥が騎者を汚さないようにする補助具。下鞍(したぐら)の小さい大和鞍や水干鞍に用い、毛皮や皺革(しぼかわ)で円形に作るのを例とするが、武士は方形のものを「尺(さく)の障泥(あおり)」と呼んで好んで用いた。

「八寸(やき)に餘る大馬」地面から馬の首の付け根までの高さを「寸(き)」と言った。「八寸に餘る」は一メートル四十四センチメートル以上のを指す語。当時の馬の標準は「四尺」(約一メートル二十センチメートル)が標準で、それより寸刻みで、寸だけを言って、それを「き」と別称したもの。「八寸(やき)」以上の表現はないから、「稲妻影」はまさに超弩級に大きな「大馬」である(事実、「八寸に余る」馬はそう呼んだ)。

「おもてもふらず」正面をしっかと見据えて。

「はいぐん」「敗軍」。

「きりしまが嶽」霧島岳。大滝根山(おおたきねやま)。福島県東部の阿武隈高地中央にある。標高千百九十二メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「靜(しづか)に備へを立(たて)」落ち着いて、急襲された際のための武具や心の準備をし。

「半町」約五十四メートル半。

「後殿(シンガリ)」殿(しんがり)。「しりがり(後駆)」の転訛した語。退却する軍列の最後尾にあって敵の追撃を防ぐこと。「殿備(しんがりぞな)え」とも言った。

「附(つき)したひ」しつこく追跡追尾して来て。

「ときのこへをつくりかけ」「鬨の聲を作り懸け」。

『「狼」といふ一騎打の細道』山道の俗称として「狼」(私はそのまま訓じて「おほかみ(おおかみ)」と読んでいる)という名を採ったが、或いはこれは、猟師らの称したかも知れぬ狼の通う獣道(けものみち)の一般名詞かも知れぬ。「けものみち」はごく狭く、突然、道が(人が行くには)途絶えたりするから、敵に追尾されている場合は、敵も基本、一騎で向かわねばならないから、却って都合がよいものと思われる。

「人、なだれをついて、遁(ニゲ)ちりけり」追尾して来た敵兵は、雪崩を起したように、向うへ向うへと、逃げ散って行った。

「引(ひき)まとい」馬に纏わすようにして引き連れて。久長を守護して三坂城へぞ歸りける。

「みだり」「濫り」。ここは「秩序を無視し、自分勝手であるさま」、或いは「軽率であり、度を越して物事を、むやみやたらに成すさま」或いは「道理に反するさま」の意の総てを含む。

「泉の親(ちか)ひら」泉親衡(生没年未詳)は鎌倉初期の信濃国の武将で幕府御家人。信濃源氏の泉次郎公衡の子で「泉親衡の乱」の首謀者。名は「親平」とも書く。ウィキの「泉親衡より引く。『信濃国小県郡小泉庄(現長野県上田市)を本拠としたと言われる泉氏は、源満仲の五弟満快の曾孫・信濃守為公の後裔と伝えられ』、『親衡は満快の十代孫に当たる。しかし』、『後述するように』、『親衡には荒唐無稽な伝説が附与されたため、実像ははっきりしない。子孫は信濃国飯山を拠点とし、泉氏として栄えた』。建暦三(一二一三)年、北條時政によって謀殺された第二代将軍『源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し』、『執権北条義時を打倒しようと図り』、『郎党青栗七郎の弟で安念坊という僧を北条氏に批判的な御家人に遣わし』、『挙兵への協力を求めていたが、千葉成胤により安念坊が捕縛され、彼の自白により陰謀』は露見してしまい、『直ちに遣わされた捕縛の使者と合戦に及び、その混乱に乗じて逐電した。この時の配下に青栗四郎・保科次郎・籠山次郎・市村近村、粟沢太郎らの名が見える。乱の後、小泉庄は北条氏に没収された』。『上記合戦時の奮闘ぶりにより』、『後世』、『大力の士として朝比奈義秀と並び称され』、『様々な伝説を産んだ』。『一方、信濃国の民話に登場する先史時代の泉小太郎』(所謂、松谷みよ子の創作童話「龍の子太郎」のモデル。長野県上小(じょうしょう)・松本・大北(だいほく)のそれぞれの地域に広汎に伝わる民話で、人間の父親と大蛇の母親との間に産まれた少年小太郎に纏わる伝承。詳しくはウィキの「小泉小太郎伝説」を参照されたい)『と同一視されることにより、竜の化身としたり』、『犀を退治したという昔話の主人公にもなっている』とある。但し、私は私はこの泉親衡を非常に怪しい人物と踏んでいる。この「泉親衡の乱」そのものが、和田一族を追い落とす結果を惹起させている以上(私の電子化注「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈泉親衡の乱〉」を是非、参照されたい)、謀略以外の何ものでもない。この闇に消えた泉親衡なる男は、実は北条義時の息が掛かった間者ではなかったかと、つい、憶測したくなるのである。義時とは北条氏とは、そういう男であり、一族である、と私は思っている

「ばくち」「博奕」。

「さた仕(つかまつり)候」「沙汰仕り候ふ」。そのように専ら噂致しております。

「少しもなき事は人も申さざる物に候まゝ、百分一も八郎殿、誤りも候べし」少しも身に覚えのないことというもの(完全に潔白な事柄)は、幾らなんでも、そうした流言好きの誰彼とて、わざわざ話を作って噂申すことは、これ、なきことにて御座ることなれば、粗方は噓にても、その中の百分の一ほどは、八郎殿の、ある種の、よろしからざる誤れる行いに端を発したものにて御座ろうと存ずる。

「急度(きつと)」副詞。「必ず」。「厳しく」の意も含まれる。

「かゝらぬ惡逆」この「かからぬ」は不審。「尋常でない」「一般的でない」の意と採っておくが、そのような用法は私は目にしたことはない。孰れにせよ、意味は「かかる」由々しき「惡逆」の謂いではある。

「不善の幽冥の内になす者は、鬼、得て、是を戮(リク)し、不善顯明(けんめい)の内になすものは、人、得て是をりくす」「荘子」の「庚桑楚」の一節を順序を入れ替えて言っている。

   *

爲不善乎顯明之中者、人得而誅之。爲不善乎幽閒之中者、鬼得而誅之。明乎人、明乎鬼者、然後能獨行。

(不善を顯明の中(うち)に爲す者は、人、得て之れを誅す。不善を幽閒(いうかん)の中に爲す者は、鬼、之れを得て誅す。人に明らかに、鬼にまた明らかななる者にして、然(しか)る後、能(よ)く獨行す。)

   *

岩波文庫版金谷治氏の訳を掲げておく。

   《引用開始》

 人々の見ている所で悪事をはたらいた者は、人がとらえてそれを罰する。人のいない所で悪事をはたらいた者は、鬼神がそれを罰する。人の善悪の道理に明るく、鬼神の禍福の道理にも通じた者であってこそ、何ものにも束縛されない自由な心で行動ができる。

   《引用終了》

「天の網(あみ)、いづくんぞのがるべき」反語。所謂、「天網恢恢(かいかい)疎(そ)にして漏らさず」である。天(の不可知の霊的存在)の張る網は、広くて、一見、その網の目が粗いようではあるが、悪人をその網の目から漏らすことは決して、ない。悪事を行えば、必ず、捕らえられ、天罰を被(こうむ)るということ(出典は「老子」第七十三章)。

「なはめ」「繩目」。捕縄(ほじょう)。

「はんくわい」樊噲(はんかい ?~紀元前一八九年)は漢初の武将。諡(おくりな)は武侯。従がった劉邦(後の漢の高祖)と同じ沛(はい:江蘇省)の出身で、元は犬の屠畜業を生業(なりわい)としていた。「鴻門之会」に於いて項羽により窮地に立たされた劉邦を救ったことは漢文の授業でよく知られる。漢の天下統一後も軍功を立て、舞陽侯に封ぜられた。

「張良」(?~紀元前一八九年?/一八六年?/一八〇年?)同じく漢の高祖の功臣。戦国時代の韓の世族の子孫で、韓が秦に滅ぼされた仇を討とうとして、博浪沙で始皇帝を襲撃したものの、失敗、下邳(かひ:現在の江蘇省邳県の南)に潜伏した(この時、黄石公から太公望呂尚(りょしょう)の兵法書を授かったとされる)。秦末の反乱の折り、百余人を従えて劉邦の旗下に属し、樊噲と同じく「鴻門之会」では劉邦の窮地を智を以って救った。将としてその創業を助けた功により留侯に封じられたが、猜疑心の強い高祖に見切りをつけ、野に下った。

「七生(しちしやう)」仏教に於いて、悟りの初段階である預流果(よるか)を得た者は、人間界に七度生まれ変わる間に、必ず、涅槃に入る、とすることから、「七度生まれ変わること」また「永遠」の意。

「そこ」二人称。多く、目下の聞き手を指して用いる。「おい!おまえ!」。

「代待(だいまち)」庚申待等の徹夜や、長時間の諸法会・諸祈禱等をする信仰等に於いて本人の代理としてそれを執行することを指す。

「中(ちゆう)」「宙」。

「遠裏(とほうら)」屋敷裏の有意に離れた場所。

「狂亂ばししたまふか」「ばし」は副助詞で強意。係助詞「は」に副助詞「し」が付いたものが「ばし」と変化し、一語化したもの。会話文に多く出る。

「さかしら」人を陥れるためにする告げ口・密告のこと。

「さへずりたる」「囀りたる」。

「大かりまた」「大雁股」。先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常では飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いるが、ここはその鏃の特大のもの。

「むたひ」「無體」。歴史的仮名遣は正しくは「むたい」。

「あとふる」「與ふる」。「あたふる」が歴史的仮名遣であるが、ここは口語表現。

「ゐきる」「射切る」。「射る」はヤ行上一段活用であるので「いる」が正しい。

「四、五間」七メートル強から約九メートル。

「首穴」首(頭部)の無くなった胴体の上の穴。

「さぶけ」「寒氣」。い立(たち)候。」

「口はわざはひの門、舌三寸のからくりを以(もつて)五尺のからだを損亡す」孰れも諺。「口は禍(わざわい)の門」「三寸の舌に五尺の身を亡ぼす」で、不用意にして軽率なちょっとした発言によって、身を滅ぼしてしまうことがある、だから、口を慎めという意。「僅か三寸の舌が五尺の体を滅ぼしてしまう」という対比表現。他に同様の表現として「舌は禍の根」「舌の剣(つるぎ)は命(いのち)を絶つ」等がある。

「しやく杖(じやう)」「錫杖」。

「あかぎの數珠(ずず)」「あかぎ」は「赤木」で、赤身を帯びた或いは赤く染めた木材を丸く加工した数珠。ここは苛高数珠(いらたかじゅず)である。算盤の玉のように平たくて角の高い玉を連ねた数珠で、山伏や修験者が用い、揉むと高い音がする。通常、数珠材の木材は柘植・檜・梅・黒檀・紫檀・鉄刀木(たがやさん)・沈香・白檀等を用いる。

「くやしそふなる」ママ。「悔しいさうなる」。

「むすびければ」「掬(むす)びければ」。水を掬(きく)した(汲んだ)ところ。

「たらゐ」「たらい」は「盥」。歴史的仮名遣は孰れも誤りで、「たらひ」が正しい。

「けずらん」「梳(けず)らん」。

「さへぎりて」「遮りて」。

「大息(おほいき)つぎ」「大息繼ぎ」。

「きせいをかけ」「祈誓を掛け」。

「願立(がんだて)」神仏に願をかけること。願掛け。立願(りゅうがん)。

をして、祈り申といへども、露程(つゆほど)も印(しるし)なし。

「三寶」仏と、仏の教えである法と、その教えをひろめる僧。仏・法・僧。

「久長山耕山寺」既出既注。そこでは「奧州磐崎郡(いはさきのこほり)三坂村曹洞宗久長山耕山寺」と出る。現在の福島県いわき市三和町上三坂字中町地内に現存するものの、兵火と自家出火による火災によって、悉く焼失してしまい、寺の由緒が不明であるとする。ネットでも、めぼしい情報はない。

「ほつとく」「發得」。禅定や智慧などを我が身から発生させて体得すること。

「かんのふ」「感應」。

「誠心自得」真心を以って自ずから発得(ほっとく)を得ること。

と、かきくどきいひければ、八郎、聞て、起直り、打笑ひ、申樣、

「天元(てんげん)の數」中国由来の自然観の一つで、万物成育の源である「天の元気(宇宙の根源とされる「太極(たいきょく)」に呼応する概念で「元気・陰陽・四時・万物」の一つ)」或いは「万物の素・元素」によって予め、定められた命数(寿命)。

「三七弐拾壱日め」三七日(みなぬか)。没後、二十一日目。死者への審判の三度目の審判日。

「忙然」「茫然」に同じい。「忙」は心が冷静でなくなる状態を指すので誤字ではない。

「長谷堂の觀音」不詳。現在、福島県二本松市木幡に長谷堂という地名はあるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、寺らしきものは現認出来ない。

「時鳥しての山路へ行ならは我思ひ子の道しるへせよ」一首は底本の表記のままに示した。整序すると、

 時鳥死出(しで)の山路へ行くならば我(わが)思ひ子の道標(みちしるべ)せよ

「【第四卷郭公(ほととぎす)ノ歌ノ下別本ニ此一段アリ。補入(おぎなひいれ)スべキナリ】」これは著者三坂春編の記載ではなく、後に書写した誰かが、別な書写本と校合して、ここに以下の文を挿入したことを示す添書きである。

「寛文」一六六一年から一六七三年まで。第四代将軍徳川家綱。

「粹山寺」先に母が勧めた「耕山寺」の書写の誤りであろう。

「踈玄(そげん)」不詳。

「風樹の恨(うらみ)」「風樹の嘆」のこと。「詩経」の注釈書で前漢の韓嬰(かんえい)の著になる「韓詩外伝」の「樹欲靜而風不止、子欲養而親不待也」(樹、靜かならんと欲すれども、風、止まず、子、養はんと欲すれども、親、待たず)に基づく故事成句。親に孝養を尽くそうと思うときにはすでに親が死んでしまっていて、孝行することが出来ないという嘆き。ここは逆に見えるが、おかしくない。孝行を尽くすべき子が先に死んでしまい、親にそれを尽くすことが出来ない点に於いて、同じだからである。

「季年(きねん)」「期年」「朞年」(孰れも「きねん」と読む。「期」「朞」は「其」の物事の起こった「月」の合字)と同じであろう。一年経って、また、その月となること。満一周年。四「季」が廻って一「年」後のその月日に戻るの謂いで、腑に落ちる。

「修羅窟(しゆらくつ)」修羅道。阿修羅道。六道の三善道の最下位。阿修羅が住み、常に争い、闘い続けねばならない世界で、苦しみや怒りは絶えないものの、地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい時空間とされる。

「沈倫(ちんりん)」普通は「沈淪」(「淪」も「しずむ」の意)と書き、深く沈むこと。

「延寶九年」一六八一年。将軍は前年に代替わりして綱吉の治世。

「米澤上山」現在の山形県上山(かみのやま)市か。現在の米沢の東北に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「白土閑夢」「しらとかんむ」と読むか。

「桑門」「さうもん(そうもん)」は梵語「僧侶の意の漢字音訳。沙門に同じい。

「小城小城の戰」奥州の数々の小さな城(砦・山寨)で起った戦(いくさ)の意か。

「剛臆(がうおく)」-古くは清音で「かうおく(こうおく)」とも読んだ。剛勇と臆病。

「奧羽合戰舊聽記」不詳。識者の御教授を乞う。

「赤羽隨世」不詳。「あかばねずいせい」と読んでおく。

「呉の孫策」(一七五年~二〇〇年)は後漢末期の武将。揚州呉郡富春県(現在の浙江省杭州市富陽区)の人。若くして父孫堅を亡くし、十九歳の時、袁術の将軍となった。袁術軍に組み込まれていた孫堅の兵千人余りを纏めて、軍を編成、劉繇(りゅうよう)を倒して勢力を拡大、その後、袁術の元から独立して大きく躍進したが、刺客に襲撃された際に負った傷が元で二十六歳の若さで亡くなった。後継を、後にかの呉の初代皇帝となる孫権に定めた。後に孫権によって長沙桓王と諡(おくりな)された。以上はウィキの「孫策」に拠ったが、そこに「三国志演義に描かれる孫策」の項があり、同小説に於いて、孫策の『最期については』「捜神記」に載る『記述をもとに、呉に現れた道士・于吉の霊により呪い殺されるという設定になっている。于吉に民の人望が集まることを憎み、妬んだ孫策は、于吉に難題を押しつけるが、于吉はそれをことごとくこなしていったため、言いがかりをつけて彼を殺害してしまう。その後、孫策は厳白虎の残党に襲われ負傷するが、たいした傷ではなかった。しかし、死んだはずの于吉がその傷を悪化させるように毎晩孫策の前に現れて、ついにその傷が深くなり危篤になったとしている』とあり、三坂のここの記載はそれに基づくものであることが判明する(下線やぶちゃん)。「捜神記」のそれは、「第一巻」の以下。

   *

孫策欲渡江襲許、與于吉俱行。時大旱、所在熇厲。策催諸將士、使速引船、或身自早出督切。見將吏多在吉許。策因此激怒、言、「我爲不如吉耶。而先趨附之。」。便使收吉至、呵問之曰、「天旱不雨、道路艱澀、不時得過。故自早出、而卿不同憂慼、安坐船中、作鬼物態、敗吾部伍。今當相除。」。令人縛置地上暴之、使請雨。「若能感天、日中雨者、當原赦。不爾、行誅。」。俄而雲氣上蒸、膚寸而合。比至日中、大雨總至、溪澗盈溢。將士喜悅、以爲吉必見原、並往慶慰。策遂殺之。將士哀惜、藏其尸。天夜、忽更興雲覆之。明旦往視、不知所在。策既殺吉、每獨坐、彷佛見吉在左右。意深惡之、頗有失常。後治瘡方差、而引鏡自照、見吉在鏡中、顧而弗見。如是再三。撲鏡大叫、瘡皆崩裂、須臾而死。

   *

これを見ると、原典の道士于吉は尸解仙(しかいせん:(一旦、死んだ後に蟬が殻から脱け出るようにして仙人になること。登仙法としては最低級ではあるが、仙人には成れる)したことが判る。

「宇吉仙人」上記の通り、「于吉」の誤り。于吉(うきつ ?~二〇〇年?)は、中国後漢末期の道士。東洋文庫の竹田晃氏の訳注によると、『三国・呉の人。道術に通じ、彼に弟子入りする人が多かった』とある。ウィキの「于吉」によれば、『徐州琅邪郡の出身』で、『先祖以来、東方に寓居をし、呉会(呉郡・会稽一帯)を行き来して精舎(道教徒の集まる教会)を建て、香を焚き道教経典を誦読し、符や神聖な水を用いて病気の治療を行なっていた。呉会の人々には彼を信仰するものが多かった。 順帝の時代、薬草を採りに山に入ったところ、曲陽の水辺で白い絹に朱の罫を引いた神書』「太平清領道」『百余巻を手に入れたとされる』。小説「三国志演義」では、『孫策が許貢から受けた怪我の療養中、袁紹の元から使者として訪れた陳震を持て成すために、呉郡の城門の楼上で部将や賓客たちと宴会を開いている時に登場する』。『于吉は丁度そのとき、盛装をし漆で絵が描かれた小さな函を地に引きずりながら、その門の下を小走りに通り過ぎようとする。彼は「人々の病を治すありがたい仙人」として知られていた為、部将や賓客の』三分の二を『超える者までもが、楼を降りて于吉を出迎え』、『礼拝してしまう。このため、宴会係の役人が大声を挙げて禁じようとするが、それでも止めさせられない。これを見た孫策は、このような妖術使いは人心を惑わせる基だとして、直ちに命令を出して于吉を捕らえてしまう。于吉を信仰する者たちは、皆妻女たちを孫策の母親の元にやって、彼の助命を嘆願する。このため孫策は呂範の献策を用い、于吉に「干ばつが続いているから雨を降らせてみよ。降らせることができたら命を助けてやる」といって、于吉に祈祷を行わせる』。『全く雨が降らないことに業を煮やした孫策が、于吉の周りに積んだ柴に火をつけ焼き殺そうとすると、忽ち激しい雷雨が起こったため、部将たちはこれで于吉が助けられると安心する。しかし孫策は「天候が人に動かせるわけが無い」といい、約束を反故にして于吉を殺してしまうのである。しかし皆于吉が死んだとは信じず、また市中に晒しものにしておいた于吉の遺体も、その夜の間に消えてしまうと描かれている』。『于吉が死んで以後、孫策はよく于吉の幻影を見るようになる。母の勧めで道観に行くと、香の煙りの中にも于吉が現れる。その後もこのようなことが引っ切り無しに起こり、ある日疲れ果てた孫策がやつれた自分の顔を見ようと鏡を覗くと、何と死んだ筈の于吉の姿が見える。しかし後ろを振り返っても誰もいない。そこで孫策が鏡を床に投げつけて絶叫すると、体中の傷口が裂けて、まもなく死んでしまうということになっているのである』。この「演義」の話は、「捜神記」の『記事を元にしている』とある。

「或記」不詳。識者の御教授を乞う。

「大虛」中国の戦国時代に形成された宇宙万物の根源を示す概念。後漢から六朝時代にかけて、儒仏道三教の宇宙生成論的概念として定着した。北宋の張載は、「太虚は気の原初態であって、万物は気の運動の一時的・局部的現象である」とした(三省堂「大辞林」に拠る)。

「ちそく」「遲速」。

「あたはず」必ずしもそうではない。魂が天へ向かうのには相対的には「遅速がない」わけではない、ある、と言うのである。この世に死者の魂が暫く残存することがある、と言うのである。

「つき上り」「盡き上ぼり」。

「聚泯(シユミン)然」不詳。「聚」は「集まる」、「泯」は「滅びる・尽きる」の意であるから、火を消した後の煙が、濃く或いは薄く離合集散し、最後には空中に完全に消滅して行く現象を指すか。

「朱晦翁」南宋の稀代の儒者朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)の号の一つ。

「打麵做糊(チヤウメンエコ)」不詳。グーグルブックスの「性理大全書」なる書のここに出るが、意味は判らぬ。識者の御教授を乞う。

「尫贏(ワウライ)」「尫」は「弱い」意で、「贏」は「疲れる」の意で、「痩せ衰える」の意。

「結氣」「生命維持機能として人体に集中していた気」の意か。

「英氣」何かをしようとする気力。

「すみやかに散じて、とがめなし」極めて速やかに静かに雲散霧消して、この世に何か名残りがあって滞留してしまうようなことは全く、ない。

「其死を得たる人にいたりては、其氣、速(すみやか)に消散する事、あたはず」意味不明。私は、勝手に「其(その)」を「其(それ)」と指示語と採り、下に「無念の」を入れて「死を得たる人」と読んで、納得している。大方の御叱正を俟つ。

「うつ結」「鬱結」。気分が晴れない状態。鬱屈。

「鄭(テイ)ノ伯有之(ハクユウシ)」「鄭」は西周時代から春秋戦国時代(紀元前八〇六年から紀元前三七五年まで)に存在した国。晋と楚の二つの大国に挟まれた小国で、現在の河南省にあった。「伯有之」は恐らく「伯有」で、公室の権威を無視して改革を進めようとした時の執政と思われる(漢文資料を豊富に公開されている個人サイト「肝冷斎日録」のこちらに拠った)。平凡社の「世界大百科事典」の、鄭の穆公(ぼくこう)の孫で名宰相であった子産(?~紀元前五二二年)の解説に紀元前五四三年に『伯有の乱を収拾し』、以後二十年に亙って『鄭国の政治を』執り、『すぐれた政治的手腕と博識をもって』『晋と楚との両強国の間にはさまれながら』、『鄭を戦禍から免れしめた』とあるから、クーデタを起した人物らしい。

「公孫叚(コウソンカ)」:不詳。大田牛二氏の小説「第九章 名宰相の時代 鄭の子皮」に伯有とともに、それらしい名(公孫段・公孫肸・公孫蠆(「蠆」は「タイ」か)・公孫揮・公孫鉏(「鉏」は「サイ」か)。最初の「公孫段」或いは次の「公孫肸」(「肸」「キツ」か)の写し間違いが推測されはする)は出るが、伯有がこれらの誰かを「殺し」たとは出てこない。識者の御教授を乞う。

「包生(ホウセイ)」不詳。識者の御教授を乞う。

「せい侯(コウ)」底本に添漢字して斉侯とする。これは春秋時代の斉の第十七代君主であった斉侯無詭(せいこうむき ?~紀元前六四三年)か。ウィキの「斉侯無詭によれば、先代の父『桓公の死後、無詭を含む』五『人の公子(無詭、公子元(後の恵公)、公子潘(後の昭公)、公子商人(後の懿公)、公子雍)が後継者の座を巡って争ったため、太子昭(後の孝公)は後見人である宋の襄公の元へ亡命した。その後、無詭擁立派の家臣が反対派を暗殺して後継争いを収拾し、無詭を斉公に即位させた。即位から』三『ヶ月後、宋の襄公が太子昭の正統性を主張して斉に攻め入ったため、斉の家臣はこれを恐れて』、『無詭を暗殺した。太子昭は新君として迎え入れられ、即位して孝公となった』とある。]

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