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2017/11/07

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(7) せめぎ合う神と婚姻タブー

 

 諺語大辭典を見ると、京都などでは弘法樣の日(二十一日)に雨が降れば、天神樣の日(二十五日)は晴天、弘法樣の日が晴天なら天神樣の日は雨と云ふとある。是は他の地方でも廣く言ふことであるが、東京などでは今は金毘羅が天氣なら水天宮は雨、水天官が天氣なら金毘羅は雨と言つて居る由、つい此頃子供が女中から聞いたと言つて居た。然るに蠣殼町の水天宮も虎の門の金毘羅も、共に僅か百年ほど前に勸請した流行神で、之と比べると東京の天候の方が何千年古いか分らぬ。つまり是も形式の稍異なつた一の嫉で、最初から僧空海と菅原道眞との二人格が相爭つたことは有り得ぬのである。其に就て猶言ひたいのは、關東の各地に藤原時平を祀るといふ社の多いことである。是などは天神樣に對する反抗と云ふの外に、此邊で神に齋(いは)ふべき道理の無い人物である。前にも引いた譚海の卷十に下總佐倉領の酒々井(しゆすゐ)では、産土神が時平の大臣(おとゞ)である故に、一帶に天滿宮を祀らぬとある。下野下都賀郡小野寺村大字古江の鎭守は時平大明神である。而して其南鄰の安蘇郡犬伏町大字黑袴では菅原道眞を鎭守として居る爲に、昔から兩村の間に取結んだ緣組は一つも終りを完うしたものは無いと、安蘇史と云ふ近年の地誌に記して居る。日本の緣組などは至つてこわれ易いもので、殊に惡いとなつたら猶早く破れたであらうから、單純な迷信とも見られようがどうして又其樣な事になつたか、第一に古江の氏神がなぜ時平となつたかを考へて見ると、是は最初黑袴村の方で天神を村の境の守護神として祭り始めたからであらうと思ふ。是も類例を擧げて見なければ本意を知り難いが、通路の衝に祭る神樣に嫉みと云ふ神性があると考へた結果として、婚姻と云ふ如き緣喜を重んじしかも嫉妬の目的物となりやすい交通に、之を避けたと云ふのは人情の自然である。人類學會雜誌の第四十五號に、信州下伊那郡の伊賀良村と山本村竹佐との境に、二つ山と云ふ小山があつて其麓は縣道である。山を南北にするこの二箇村では緣組をすれば必ず末遂げずと言つて次第に通婚が絶えて居たのを、三州伊良湖の漁夫磯丸と云ふ歌人に歌を詠んで貰ひ、其後此患が無くなつたとある。岐蘇古今沿革志を見ると、右の二つ山は一名を恨山と謂ひ、飯田の城下ヘ出る古道は二つの山の間を通つて居た。高さ大小共に同じ程の二つ山で、西の方が少し低いかと思はれる。嫁入の行列は勿論のこと、其荷物ばかりでも此道を通つて行けばきつと離緣になるとて、常に𢌞り道をして行くとあつて、而も此書は磯丸が死んだ後に著されたものである。福島縣信夫郡宮代村の日枝神社には、源賴義の側室尾上の前が夫を慕つて來て死んだなどゝいふ口碑と石碑とがあるが、其附近の屋敷畠には弘安三年の文字ある今一つの碑があつて、何か由緣のある他の上﨟の墓だと傳へて居る。此村でも婚姻の者は此石塔の前を通ることを忌むので、後に之を中村某の屋敷内へ移したと、二十年ばかり前に出版した信達二郡村誌に出て居るが、今日はどうなつて居るかを知らぬ。

[やぶちゃん注:「諺語大辭典」(げんごだいじてん)は国文学者藤井乙男(おとお 慶応四(一八六八)年~昭和二一(一九四六)年)の編になる明治四三(一九一〇)年有朋堂刊の俗諺の辞典。

「弘法樣の日(二十一日)」空海は承和二(八三五)年三月二十一日(ユリウス暦八三五年四月二十二日)に入定したことによる月命日。

「天神樣の日(二十五日)」菅原道真は承和十二年六月二十五日(八四五年八月一日)生まれで、延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日)に没しており、生没の日付が孰れも二十五日であったことから、毎月二十五日を縁日とする。

「金毘羅」現在の東京都港区虎ノ門一丁目にある金刀比羅宮(ことひらぐう:万治三(一六六〇)年に讃岐丸亀藩初代藩主京極高和が芝三田の江戸藩邸内に讃岐の金毘羅大権現の分霊を勧請したのを起源とする)の縁日は毎月十日

「水天宮」東京都中央区日本橋蛎殻町にある水天宮(文政元(一八一八)年に久留米藩第九代藩主有馬頼徳(よりのり)が江戸三田の久留米藩江戸上屋敷内に久留米の水天宮の分霊を勧請したのを起源とする)の縁日は毎月五日

「流行神」「はやりがみ」。

「嫉」「ねたみ」。

「譚海の卷十に下總佐倉領の酒々井(しゆすゐ)では、産土神が時平の大臣(おとゞ)である故に、一帶に天滿宮を祀らぬとある」「酒々井(しゆすゐ)」は現在の千葉県印旛郡酒々井町(しすいまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「産土神」は「うぶすながみ」と読む。土地神。「卷の十」の「下總國佐倉領時平公の社祭禮の事」。以下。

   *

○下線佐倉領より南に、酒すいといふ所有、此地うぶすな、時平の大臣を祀れるよしにて、天滿宮をまつらず。しゆすひの領よほど廣き所にて、此近邊すべて皆然り。祭禮の日每年ありて、神輿をいだす、殊外にぎはへる事なり。三山とて千葉と大和田の間に、七ケ村あり、壹村に神輿壹づつありて、壹ケ年に神輿一づつ一村にて出す事なり。

   *

「下野下都賀郡小野寺村大字古江の鎭守」「都賀」は「つが」と読む。現在の栃木県栃木市岩舟町(まち)古江(ふるえ)に現存する時平神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「安蘇郡犬伏町大字黑袴では菅原道眞を鎭守として居る」栃木県佐野市黒袴町(くろはかまちょう。ここ(グーグル・マップ・データ))の西北西五キロ圏内に位置する、現在の栃木県佐野市天神町に鎮座する朝日森天満宮の分社か。ここ(グーグル・マップ・データ)。「佐野市」公式サイト内の「黒袴町」の由来に、『黒袴にある天満宮の祭神菅原道真公が、黒い袴を着用していたことによるといわれてい』るとあるからである。但し、地図上では黒袴地区の天満宮は現認出来ない。]

「安蘇史」「あそし」と読む。荒川宗四郎著明治四二(一九〇九)年安蘇郡役所刊。旧安蘇郡は現在の佐野市の一部町域を除く全域と、日光市の足尾町各町及び群馬県桐生市梅田町の一部に相当する。

「衝」「しよう(しょう)」必ず通る道や地点。要所。

「信州下伊那郡の伊賀良」(いがら)「村と山本村竹佐」(たけさ)「との境に、二つ山と云ふ小山があつて其麓は縣道である」ここ(グーグル・マップ・データ)がロケーション。中央に「二ツ山」(「三ツ山」も北西にあり、この両地区がこの二つの山塊によって南北に分けていることが判る。航空写真に切り替えると、その様子が、より鮮明となる)があり、それを挟んで東北に「飯田市立伊賀良小学校」が、画面の左下に小さく地名の「竹佐」を確認出来る。県道は二三三号が「二ツ山」の東北山麓を、四九一号が西南部を通っている。

「三州伊良湖の漁夫磯丸と云ふ歌人」糟谷磯丸(かすやいそまる 明和元(一七六四)年~嘉永元(一八四八)年)は呪(まじな)い歌を得意とした、伊良湖の漁師の子(長男)である。「愛知県東海市」公式サイトのこちらによれば、彼が生まれた当時の『伊良湖村は貧しく、その上、』三十一『歳で父を亡くし、母は長い間病気でした。親孝行の磯丸は、母の病気が治るように』三年間、『近くの伊良湖神社に毎日お参りをし、そのかいあって』、『やがて母の病気は良くなりました。磯丸が和歌に興味を持ったのは、ちょうどこの頃で、伊良湖神社にお参りする旅人たちが歌を口ずさむのを聞き、その短い言葉の中に不思議な魅力を感じたためでした。磯丸は、もともと漁師で文字を書くことができませんでしたが、努力し』、『歌を作るようになりなりました。そして現在の亀山町に住んでいた大垣新田藩の役人、井本常(いもとつねかげ)に文字や和歌の教えを受け、「磯丸」という名前をもらいました。その後、吉田(現在の豊橋市)の女性の歌人、林織江(はやしおりえ)が伊良湖へ旅をしたときに』、『磯丸が世話をしたのがきっかけとなり、織江の先生であった京都の芝山大納言持豊(しばやまだいなごんもちとよ)の弟子になり、「貞良」の名前をもらい、ますます歌がうまくなっていきました』。『磯丸は旅が好きで、三河各地をはじめ、南信州、静岡、遠くは京都、伊勢、尾張、江戸なども旅をしています。また、田原の殿様に呼ばれ、田原城の月見で歌を詠んだこともありました』。『磯丸は、一生のうちに数万首の歌を作ったといわれています。中でも「まじない歌」は、当時の人々の暮らし向きや磯丸の人がらがよく表れています。磯丸が詠んだまじない歌は、人々の願いや困りごとなどを誠心誠意、心を込めて歌にしたものです。磯丸に歌を詠んでもらい、その歌を石碑にしたり、掛軸にして床の間に掛けると、不思議とその願いがかなったのです。磯丸は、その行く先々で歌を詠んでほしいと頼まれ、断ることもなく、それぞれの願いを歌にしていきました』。『老若男女、身分、貧富を越えて、多くの人々に愛された磯丸は』、『生まれた日と同じ』五月三日、八十五『歳で伊良湖の地で亡くなりました』。『磯丸を慕う人々は神様としてお祀りすることを願い出、それが許され』、『「磯丸霊神(いそまるれいじん)」の名前をもらいました。神様となった磯丸のために伊良湖の人たちは、「磯丸霊神の祠」をつくりました。この祠は、現在、伊良湖神社境内に「糟谷磯丸旧里」の石碑とともにあります』とある。

「患」「わずらひ」。悪因縁。

「岐蘇古今沿革志」(きそここんえんかくし)は明治二三(一八九〇)年に西筑摩郡長の要請によって元儒者で明治期の自由民権運動家となった武居用拙(たけいようせつ 文化一三(一八一六)年~明治二五(一八九二)年)が編纂した木曽地方の歴史地誌。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で読める。

「右の二つ山は一名を恨山と謂ひ、飯田の城下ヘ出る古道は二つの山の間を通つて居た。高さ大小共に同じ程の二つ山で、西の方が少し低いかと思はれる」この叙述から見ると、或いは現在、間を中央自動車道が通って、西を「三ツ山」、東を「二ツ山」と地図でなっている全体が、実は原「二ツ山」だったのかも知れない気がしてきた

「福島縣信夫郡宮代村の日枝神社」現在の福島県福島市宮代鍛治畑にある日枝神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。社伝によると、永承年間(一〇四六年~一〇五二年)に源頼義が奥州平定の際、当地に鎮守府を設け、近江国日枝山の神を奉斎、その後、康平五(一〇六二)年に嫡男八幡太郎義家が社殿を造営して国家鎮護を祈願したのが始まりとされる(「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の日枝神社に拠った。説明版の写真その他、必見! 住所が「屋敷畑」(後注参照)とあるが、これは「鍛治畑」の誤りである)。

「源賴義の側室尾上の前が夫を慕つて來て死んだなどゝいふ口碑と石碑とがある」この尾上(おのえ)の前伝説は東北地方に点在し、古浄瑠璃にもあるが、その内容は頼義の妻ではなく、子の義家と敵安倍貞任の一人娘との悲恋という構造になっている。「石碑」「がある」と柳田國男は言っているが、ネット上では確認出来なかった(前注のリンク先にもそれらしい記載はなく、今一つ、日枝神社を紹介したブログ記事にも出ない)。

「字屋敷畠」福島市宮代屋敷畑(やしきはた)として現存する。(グーグル・マップ・データ)。先の日枝神社のある東北で、川を挟んで隣接する。

「弘安三年」一二八〇年。

「今一つの碑」「後に之を中村某の屋敷内へ移した」「今日はどうなつて居るかを知らぬ」不詳。現存しないか。

「信達二郡村誌」既出既注。農民志田正徳著になる福島の信夫郡と伊達郡(こちらは一部のみが残存)の地誌「信達一統誌」を補完する形で、明治三六(一九〇三)年に出版された中川英右編・佐沢広胖訂になる地誌と推定される。]

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