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2017/11/22

老媼茶話巻之五 奇病

 

     奇病

 

 寛永年中、相馬(さうま)の者なりとて年四拾ばかりの男、天寧寺來り、雜湯(ゾウユ)に入(いる)。

 常に股引(ももひき)・脚半(きやはん)にて湯に入。

 皆人(みなひと)、ふしんをなしければ、彼(かの)男、申樣(まうすやう)、

「某(それがし)、如何成(いかなる)因果にて候(さふらふ)やらん。加樣(かやう)に怪敷(あやしき)煩(わづらひ)いたし候。」

とて、股引をぬぎ、脚半をはつづし、見せければ、股より下、向臑(むかふズネ)迄、蛇の頭(かしら)ひしと、弐、三寸斗(ばかり)ぬけ出(いで)、五、六拾斗(ばかり)有(あり)。

 其蛇の頭、目をひらき、口をあき、舌を出し、又、目をふさぎ、頭をたれ、口をとぢ、眠居(ねぶりゐ)たるも有(あり)。

 人を見て、目をいらゝべ、頭を上舌を出し、すざましき氣色也。

 見るに、身の毛、立(たち)けり。

 氣づよき者有(あり)て、件(くだん)の男に申樣、

「一筋に思切(おもひきり)、かみそりを、とぎすまし、蛇の頭、不殘(のこらず)そぎ落し見玉へ。もし、夫(それ)にて死(しに)玉はゞ、是非もなし。生(いき)玉へば、幸(さひはひ)の事也。」

と云(いふ)。

 件(くだん)の男、聞(きき)て、

「此(この)奇病、初(はじめ)は蛇の頭、壱股の邊(あたり)に出(いで)、はれ痛み候(さふら)へしが、次第次第にふへ申候まゝ、某(それがし)も、餘り、やるかたなく、いく度か、刀を以(もつて)そぎ見申(みまうし)候に、そぎ不申(まうさず)。以前は蛇の頭、小さく候得しが、そき落候得(おちさふらえ)ば、其度々(そのたびた)に、蛇の頭一倍大きく成(なり)、亦、數も一倍ふへ申候。樣々、佛神にいのり、御子(みこ)・山伏を賴み、祈願を仕(つかまつり)、あらゆる願立(ぐわんだて)・療治を致候得共、佛神三寶のかごもなく、藥力(やくりき)の功も立(たた)ず、かく斗(ばかり)くるしみ申候。國々の名湯共(ども)、湯治致し見候に、最上(もがみ)の高湯と、此所(ここ)の雜湯入候得ば、心神、心よく、足のいたみも少し快罷成(こころよくまかりな)り、蛇の頭も、たゞれ腐落(くされおち)候も有(あり)て候へども、程過(ほどすぎ)候へば、亦々、生出申(おひいでまうし)候。最早、此煩(わづらひ)にて命とられ可申(まうすべし)。」

と欺きけるが、其後(そののち)、いかゞ成(なり)けん、知(しら)ず。

 世には、さまざま、不思義なる煩(わづらひ)もある物也。

 御山(おやま)村といふ處の百姓の女房、頭の毛、つよくいたみけるが、髮の毛、ちゞみあがり、一束(ひとたば)になり、つぶり卷立(まきたち)、強く苦しみ、せんかたなく、夫(ヲツト)、剃刀(かみそり)にて髮の毛をそり落しけるに、其髮の毛、生(いき)たるごとく、のびつ、ちゞみつして、のたを打(うち)、終(つゐ)に一かたまりに成(なり)たり、といへり。

 また、一鷗宗閑(イチヲウさうかん)といふ醫師、筑紫罷(まかり)けるに、ある所にて宿を取(とり)けるに、婦人、出合(いであひ)て、

「主人の病、見せん。」

といふ。宗閑、入(いり)て見るに、壱人の男、有(あり)、耳・目・鼻もなくして、もくもくとして座せり。女、なくなく、申樣、

「是、則(すなはち)、我(わが)男也。」

といふ。

 宗閑、をどろき、くわしくとへば、かの婦人、

「いか成(なる)前世の因果にて候やらん、かゝる人とちぎりけるぞや。みづから、ゐん食をあたふれば、手に取(とり)て頭の上へ置(おき)、いたゞきに、口、有(あり)て、ものをば喰(くら)ふ。」

と、いへり。

 無住法師の「沙石集」に、『山中に野づちといふもの有(あり)、目・鼻・耳もなく、口斗(ばかり)有(あり)て人を取(とり)くらふ』と書(かき)給ひし。此類(たぐひ)の人を喰たるものなるべし。

 

[やぶちゃん注:前半の奇病は「人面疽(じんめんそ)」ならぬ「蛇頭疽(じゃとうそ)」とも言うべき奇怪な病いである。恐らくは、疣(いぼ)ならば、一般に膝(及び関節)に発生し、自己流で切除したりすると、より拡大して増えてしまうところの、ウイルス性の疣(無論、他人へも感染する)、「ヒト乳糖腫ウイルス(ヒトパピローマウイルス(第一群(Group I)の二本鎖DNA群の目未帰属であるパピローマウイルス科 Papillomaviridae パピローマウイルス属 Papillomavirus)」を病原とする「良性疣贅(ゆうぜい)」であろうと思われるが、この人物が湯に入るのにも猿股と脚絆を着用しているのは、却って擦れることで悪化するし、周辺部への感染も広がるので、よろしくない(他者への感染を考えると、単独でない限りは、入湯は望ましくない)。この疣は発症初期は半透明で小さく盛り上がっているが、それがだんだん大きくなり、表面もザラついてくると、皮膚科のサイトに書かれてあるので、小さな蛇の頭のようにも見えようものと私は思う。他に、「軟性線維腫(なんせいせんいしゅ)」という蛋白質の一種であるコラーゲン繊維や皮膚に包まれた血管などから形成された、腋窩・鼠径部などによく見られる、かなり大きな茸(きのこ)状の良性腫瘍があるが、これは単発で発生することが多いのを特徴とするので、この症状には当てはまらないように思われる。

 また、後半に出る耳・目・鼻もないというのは、八年程前に、インドネシアの東ジャワ州マディウン市に住む女性が罹患しているという悪性腫瘍のケースと酷似している(記事を紹介出来るが、その顔面写真があまりにショッキングなので御自身で地名を用いて検索されたい)。耳・目・鼻どころか、その時の私の見た写真では顔面正面が殆んど全く奥の方まで空洞化していた(口はその空洞の下部に辛うじて残っていた)。彼女はその状態で生活していた(治療費が払えなかったため)。同時期に、同じように顔面の半分に大穴があいて喪失している西洋人男性(同じ病気かどうかは不明)が普通に生活している動画も見たことがある。ここに出る男性もそうした悪性腫瘍ではなかろうか(頭の頂(いただき)に口があるというのは、顔面欠損が進んで、大きな孔が顔面上部から額辺りに開口していることから、かく言ったものであろう)。それでも摂餌によって生き永らえているというのは、ある意味、他人から見れば悲惨には見える。また、その介護に明け暮れている妻は明らかに自らを不幸と感じている。なお、中に出る、切り取っても、生き物の如くに蠢く髪の毛というのは、説明のしようがない、真の怪談である。

「寛永」一六二四年から一六四五年。

「相馬」、福島県浜通りの北部に位置する相馬市及びかの原発事故で深刻な被害を受けた飯舘村(いいたてむら)がある相馬郡(そうまぐん:他に新地町(しんちまち)が含まれる)と南相馬市を含む地方。

「天寧寺」既出既注であるが再掲する。福島県会津若松市東山町石山天寧に現存する曹洞宗萬松山天寧寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「天寧寺(会津若松市)」によれば、文安四(一四四七)年に『蘆名盛信が大瞞行果禅師 南英謙宗のために陸奥国会津黒川東山に開いたといわれる。勧請開山は傑堂能勝であった。かつては会津曹洞宗の僧録司を兼ね、末寺』三十三ヶ寺、僧堂十二棟『を数えたとされる』。『蘆名家中興の英主とされ、会津地方に大勢力を築いた蘆名盛氏が銭』百『貫文を寄進した記録があり、最盛期には雲水』一千『名を擁する蘆名氏の菩提寺であった』。天正一四(一五八六)年、『蘆名亀王丸の死によって蘆名氏は血統が途絶え、伊達氏と佐竹氏の争いとなったが、結局は佐竹義重の次男・義広が跡を継いだ。義広は、当初陸奥国白河の白河結城氏を継いで結城義広あるいは白河義広と称していたが』、翌年、『蘆名盛隆の娘と結婚して正式に蘆名家を継ぎ蘆名義広を名乗った』。義広は天正一七(一五八九)年の『摺上原の戦いの敗北により』、『米沢の伊達政宗によって会津黒川を追われ、天寧寺もこの戦いで一時』、『焼亡している。当時の遺構として残っているのは本堂の礎石のみである』という。『会津を追われた蘆名義広は実兄・義宣を頼って常陸国に逃れ、のち、豊臣秀吉から常陸国江戸崎』四万五千石を『与えられ、名を蘆名盛重と改めた。なお、会津は伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の蒲生氏郷を封じた。氏郷の死後は上杉景勝を越後国より加増のうえ転封した』。『後援者を失った天寧寺であるが、その後も周囲の人びとの尽力によって維持され、現代につづいている』。因みに、この『境内裏手には、戊辰戦争に敗れ』、『刑死した新選組局長近藤勇の墓がある。近藤勇の墓は日本各所にあるが、天寧寺の墓は土方歳三が遺体の一部を葬ったとされている』とある。ここはその寺から少し南東の山間に入った、同じ会津若松市東山町にある東山温泉である。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「東山温泉」によれば、硫酸塩泉で、世間ではリウマチ性疾患・運動器障害・慢性皮膚疾患などに効能があるとされる。開湯は八世紀後半、或いは『天平年間に行基によってなされたと伝えられ』、『伝承によると、三本足の烏に導かれて発見したという。江戸時代には会津藩の湯治場として栄え、会津若松の奥座敷として発展した』。『会津民謡に登場する小原庄助ゆかりの温泉とされ』、『山形県の上山温泉、湯野浜温泉とともにかつて奥羽三楽郷と呼ばれた』とある。

「雜湯(ゾウユ)」ぬるい湯のことであろう。

「ふしんをなしければ」「不審を成しければ」。

「御子(みこ)」「巫女」。

「かご」「加護」。

「最上(もがみ)の高湯」蔵王連峰の西麓にある蔵王温泉の古称。ウィキの「蔵王温泉」によれば、東征した日本武尊に従った吉備多賀由(きびのたがゆ)によって発見され(西暦一一〇年頃か)、彼の名「多賀由」が転じて「高湯(たがゆ・たかゆ:山形弁では濁り、それは発見者の名とも一致する)」となったという、実に千九百年もの歴史を持つ。標高八百八十メートルの位置にある。『同県の白布温泉、福島県の高湯温泉と共に奥羽三高湯の一つに数えられる』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「其後(そののち)、いかゞ成(なり)けん、知(しら)ず」先に私が推定したヒト乳糖腫ウイルスによる良性疣贅(ゆうぜい)であれば、それで命を落とすことは、ない。

「御山(おやま)村」福島県会津若松市門田町大字御山か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一鷗宗閑(イチヲウさうかん)」不詳。

「みづから」私が。

「ゐん食」「飮食」。

『無住法師の「沙石集」』「しゃせきしゅう」「させきしゅう」(孰れも現代仮名遣)とも読む、鎌倉時代の仏教説話集。臨済宗東福寺派の高僧無住一円(嘉禄二(一二二六)年(鎌倉)~正和元(一三一二)年(桑名))の著。全十巻。弘安二(一二七九)年の起筆で、同六年に脱稿したが、その後も複数回。加筆訂正を行なったようで、種々の伝本がある。無住は、直接、見聞した同時代の話や民間に伝わった伝承を積極的に取り上げており、文章も俗語を多用して平易である。なかでも数多くの笑話風の話は後の狂言や咄本(はなしぼん)の材料となり、落語の源流ともなった。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。以下の話は「卷之五」の三つめにある「學生畜類に生たる事」の冒頭部に出る。

   *

 山に二人の學者ありけり。同法にて、年齡も、心操(こころもち)・振舞(ふるまひ)も萬づ、變らず。學問も一師の下にて稽古しければ、殊に見解(けんげ)も同じ。何事に付けても同じ體なりける故に、二人、契りて云はく、

「我等一室の同法たり。萬づ、變らず振舞へば、當來の生所も同じ報にてこあらめ。先立つ事あらば、生所を必ず告ぐべし。」

と、能々(よくよく)、互ひに契りぬ。

 一人、他界して、夢に告げて云はく、

「我、野槌(のづち)と云ふ物に生れたり。」

と云ふ。野槌と云ふは、常にもなき獸(けだもの)なり。深山の中に希にありと云へり。形、大にして、目・鼻・手・足もなし。只、口ばかりある物の、人を取りて食ふと云へり。是は佛法を、一向、名利のために學し、勝負諍論(じやうろん)して、或いは瞋恚(しんい)を起こし、或いは怨讎(をんしう)をむすび、憍慢勝他[やぶちゃん注:他の人以上に自分の考えを押し通すこと、又は、自分は他の人よりもすぐれていると思い上がって見下すこと。一般には「我慢勝他(がまんしょうた)」と言うが、これでも意味は通じる。]等の心にて學すれば、妄執のうすらぐ事もなく、行解(ぎやうげ)のをだやかなる事もなし。さるままに、口ばかりは、さかしけれども、知惠の眼もなく、信の手もなく、戒の足もなきゆゑに、かかるおそろしき物に生たるにこそ。

   *

という因果応報譚の場面で、ここに引くには、何だかな、という感じが拭えない。厭な感じがするのは、この悲惨な病者をそうした因果の輪の結果と片付ける無責任な差別性によるものであろう。

「喰たるものなるべし」意味不明。「述べたる」「謂ひたる」「描きたる」「喩(たと)へたる」辺りの誤りか。字形からは一番最後が一番ありそうな気がするのであるが。]

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