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2017/11/06

柴田宵曲 續妖異博物館 「錢と蛇」 ~柴田宵曲「妖異博物館」(全)電子化注~完結!

 

 錢と蛇

 

 錢掛松といふのは伊勢の豐久野にある。昔參宮の人が宇治山田までの里程を尋ねたのに、非常に遠いやうな返事をしたため、その人賽錢を繫いで松に掛け本國に歸る。他人の目にはその錢が蛇に見えたが、時を經て本人が來たら、錢は依然として松にかゝつてゐたといふので、「松盡し」の中に「十でとよくの伊勢の松」とあるのがこの松のことださうである。

[やぶちゃん注:「錢掛松」先行する「巖窟の寶」で既出既注であるが、再掲する。サイト「日本伝承大鑑」(「日本伝承大鑑」制作委員会製作)内の「銭掛松(ぜにかけまつ)」(三重県津市高野尾町(ここ(グーグル・マップ・データ))の伝承)に以下のようにある。文中の「伊勢別街道」は「いせべつかいどう」と読む(但し、江戸時代にはこの街道は「いせみち」「参宮道」「山田道」などと記されてあり、「伊勢別街道」の名が使われるようになったのは明治一〇(一八七七)年以降と思われるという記載がネット上の別な記載にあった)。

    *

 東海道の関の宿から分かれて津で伊勢街道と合流するのが、伊勢別街道である。その旧街道沿いにあるのが銭掛松と呼ばれた松を祀るお堂である。お堂の中にはかつての松の古木が納められており、境内には今でも何代目かの松が植えられている。

 伊勢街道はその名の通り、伊勢神宮参拝のための主要街道である。そして銭掛松もその伊勢参拝にまつわる伝承が元になっている。

 西国に住む男が伊勢参にこの地までやって来た。しかし路銀がわずかであるために、そばの茶店の主人に伊勢神宮まであとどれぐらいか尋ねた。すると主人はまだ半月ほど掛かると答えた。それを聞いてこれ以上の旅は無理と諦めた男は、松の木に銭を掛けて、ここから神宮に遙拝すると帰路についてしまった。

 喜んだのは茶店の主人である。嘘をついてまんまと銭をせしめることが出来たばかりに、男の掛けていった銭の束を盗もうと近寄った。すると突然銭の束は白蛇に変わり、主人の方を睨みつけて威嚇するではないか。肝を冷やした主人は結局銭を盗むことも出来ず、そればかりかそれ以降客足は遠のいてとうとう茶店も潰れてしまったという。

 一方、帰国した男は、実際に伊勢神宮へ行った者からその場所が神宮から目と鼻の先であったことを聞かされ、翌年再び参拝を決意する。そして例の場所へ来てみると、松の木には自分が掛けた銭の束がそのまま残されていた。男はそれを取ると、改めて神宮に納めたのである。その話はいつしか参拝客の噂となり、その松に銭を掛けて道中の安全を祈願する風習が広まったという。

 この伝説にはいくつかのパターンがあり、隠岐に流された小野篁の妻が夫の赦免を祈願して伊勢神宮に参るという話も流布しているが、いずれも伊勢神宮参拝途中で諦めかけた者が銭を松の木に掛け、それを盗もうとした者がその罰を受けるという展開となっている。

   *

この『小野篁の妻』絡みの伝承に就いては、加藤訓峯氏「活動ブログ」の「伊勢音頭その7」の「伊勢音頭に(一部で字間を詰め、一部の改行を省略、アラビア数字を漢数字に代えさせて貰った)、

   《引用開始》

 

伊勢のナア豊久野 銭掛け松は 今は枯れてもヤンレ 名は残る

ヤートコセーノヨイヤナ アララ コレハイセ コノヨイトコイセー

 

伊勢音頭で唄われる有名な歌詞です。津市の高野尾にあった銭掛け松を唄ったものです。端唄の松ずくしにも『十で豊久野伊勢の松』と唄われています。

平安時代小野篁が隠岐に流罪になったとき、妻の命姫が夫の許される事を祈願するため、一人の盲人をともに連れて伊勢参宮に旅立ちました。そしてこの高野尾の縄手に来かかったとき、疲れ果てたので、草刈をしていた男に神宮までの道のりを尋ねたところ、「十日通る豊久野、七日通る長縄手、三日通る三渡」などと、まだ二十日余りもかかると答えたので姫はとても神宮までは行けない、とそばにあった松に銭の束をかけて遥拝をして立ち帰ろうとしました。草刈の男が、ものかげからその銭をとろうとすると、銭はたちまち蛇となって襲いかかりましたので、男は大いに驚いて嘘をいったことをあやまり、斎宮まで案内して送り、めでたく参宮したと言い伝えています。その後。銭掛け松は、伊勢神宮参拝の旅人が、銭に紐を付けて松に掛けたという。現在はその石碑が残っています。

   《引用開始》

とある。

「伊勢の豐久野」現在の三重県津市芸濃町椋本豊久野(とよくの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。伊勢神宮までは直線で四十八キロメートルほど。

『「松盡し」の中に「十でとよくの伊勢の松」とある』「松盡(づく)し」は江戸時代に流行った端唄の一つ。

   *

唄い囃せや 大黑

一本目には 池の松

二本目には 庭の松

三本目には 下がり松

四本目には 志賀の松

五本目には 五葉の松

六つ昔は 高砂の

尾上の松や 曽根の松

七本目には 姫小松

八本目には 浜の松

九つ 小松を植え並べ

十で 豊久能の伊勢の松

この松は 芙蓉の松にて

なさけ有馬の 松ヶ枝に

口説けば なびく 相生の松

また いついつの約束を

日を松 時松 暮れを松

連理の松に 契りをこめて

福大黑を みさいな

   *

参考にした笹木美きえ氏のサイト「江戸端唄・俗曲」のによれば、『松の名所を並べた歌詞で』、「松尽大黒舞」『として地歌で唄われるようになった』。『それが、江戸に入って大衆的な流行曲となり、寄席などでは曲技とも言える振りを付けて唄われている』とある。]

 

 かういふ傳説は必ずしも伊勢に限つたものではあるまい。古く「酉陽雜俎」に見えた王淸の話なども、若干の共通性がありさうに思はれる。王淸は洛陽村の百姓で、或時人に傭はれて銀五錢を得た。この銭で田の畔にあつた粟の枯木を買ひ、薪にして賣らうと考へてゐると、夜の間に鄰りの人が斫(き)りにかゝつた。その時黑い蛇がどこからか現れて首を擧げ、我は王淸本である、汝斫る勿れ、と云つたので、その人驚き懼れ、斧も何も抛り出して逃げ去つた。明方になつて王淸が子や孫を引き連れ、その根を掘つたら、大甕二つに錢の一杯詰まつたのが出て來た。王淸はそれ以來俄かに運がよくなり、十數年にして大金持になつた。こゝで問題になるのは、汝斫る勿れと云つた黑蛇の正體であるが、枯れた栗の木にそんな魔力はありさうもない。多分大甕二つに充滿した銀の氣が、意外な靈威を發揮したものであらう。こゝまで爽れば「酉陽雜俎」と錢掛松との間には、親類ぐらゐの因緣を生じて來る。

[やぶちゃん注:以上は、「酉陽雜俎」の「卷十四 諾皋(たくこう)記上」の以下。宵曲の訳はちょっといい加減である。隣人は栗の木を秘かに斧で伐ろうとし、樹の太い幹にその刃が入った時、その伐った疵口から黒い蛇が、突如、現れて鎌首を臂(腕)のように挙げて人語を操るのである。

   *

元和初、洛陽村百姓王淸、傭力得錢五銀。因買田畔一枯栗樹、將爲薪以求利。經宿、爲鄰人盜斫、創及腹、忽有黑蛇舉首如臂、人語曰、「我王淸本也、汝勿斫。」。其人驚懼、失斤而走。及明、王淸率子孫薪之、復掘其根、根下得大甕二、散錢實之。王淸因是獲利而歸。十餘年巨富、遂甃錢成龍形、號王淸本。

   *

「元和」唐の憲宗李純の治世の元号。八〇六年~八二〇年。]

 

 相州の小池といふところの眞言寺に、入曉といふ住職があつた。その師が遷化(せんげ)した後、寺を讓られて住んだのであつたが、師の坊が儉約な人だつたので、田地もあれば金子もある。貧乏寺の住持と違つて、氣樂に暮してゐるうちに、半年ばかりたつて氣が付いたのは、小さな蛇がどこからか來て、とぐろを卷いてゐる。いくら追つ遣つてもまたもとの場所に還つてゐる。數箇月に亙り、その蛇のゐる場所は必ず同じなので、不思議に思ひ、蛇の居らぬ間に地を掘つて見たら、金子を入れた小瓶が埋めてあつた。この金子は師の坊が年來儉約して溜めたものなので、人手に渡すことを惜しみ、地中に埋めたものであらう。その執心が蛇となつて、現在までこれを守つてゐるのかと思つたら、入曉は頓(とみ)に厭世の心を生じ、寺にあつた物を悉く人に領ち與へ、自分は瓢然とどこかへ行つてしまつた。その後年を經て、入曉は上總國で非人の群れに入り、物乞ひをしてゐるといふ話であつたが、なほ出離の心が深くなつたと見えて、故郷に辟つて山中に入り、入定(にふぢやう)したと傳へられた。

[やぶちゃん注:「相州の小池」地元ではあるが、位置不詳。識者の御教授を乞う。

「領ち」ママ。「頒ち」(わかち)の誤植であろう。

 以上は、次段の頭に出るように「譚海」の「卷の五」に出る「相州の僧入曉遁世入定せし事」。

   *

○相模の國小池の邊(あたり)に、眞言寺の住持に入曉(にふげう)といふ僧、有(あり)。其師、遷化の後、頓(やが)て其寺をゆづり受(うけ)て住(すみ)ける。もとより、其師、儉約成(なる)人なりしかば、田園も多く金子も有ければ樂しく有しに、半年ばかり住持して居(ゐ)けるに、いつとなく庭の隅に、小(ちさ)きへび、ひとつ、日々、出(いで)てうづくまり居(ゐ)けり。追(おひ)やれば、又、立(たち)かへりて、あり。如ㇾ此成(かくのごとくなる)事、數月に及(およん)で、其(その)出(いで)て居(ゐ)る所も替らず、同じ所と見定めつ、漸々(やうやう)、不思議に思ひて、蛇の居ざるあひだを伺ひて、地を掘(ほり)、みれば、小がめの内に金子を納めて埋(うづ)めあり。能々(よくよく)思惟(しゐ)するに、師の存生(ぞんしやう)の程、儉嗇成(けんしよくなる)人[やぶちゃん注:倹約で物惜しみをすること。]なれば、かく構へて埋みおかれたる也。其(その)執心、殘りて、猶、蛇と成(なり)て、是を守りける事の淺間敷(あさましき)事など思ひめぐらすに、しきりに、物うき心、起りて、世の中の事、も萬(よろづ)、はかなく思ひしかば、寺にある物・金錢を始(はじめ)て、殘りなく、人にわかちやり、我はいづちともなく、うかれ出(いで)て、行方(ゆくゑ)なく成(なり)ぬ。

 其後(そののち)、年を經て、此(この)入曉、

「上總の國に在(あり)て非人にまじり、むしろを着つゝ、人家に物ごひあるきけるを見たり。」

と人のいへりしが、猶、出離(しゆつり)の心、深く成(なり)ぬるにや、終(つひ)に本國に歸りて、山中にいり、入定(にふぢやう)せり、といへり。

   *]

 

 この話を書いた津村淙庵は、同じ「譚海」の別の卷に、次のやうな話を載せてゐる。江戸の神田に住む人々が、三四人連れで上州へ行く途中、川越まで來たところで、折からの暑熱に堪へず、或庵室を見かけて休息することにした。あるじの僧が出て挨拶し、一同は緣側に腰をおろしてゐるうちに、主僧はうたゝ寢をしてしまふ。神田の者の一人が雪隱をさがしに庭のうしろへ𢌞ると、井戸のほとりの石の上に、小さな蛇がとぐろを卷いてゐる。恐る恐る追つてもなかなか逃げぬので、石を投げ付けたらそれが蛇の頭に當つた。再び緣側に戾つて、もとの如く腰をおろしてゐたところ、主僧は目をさまして俄かに怒り出した。暑い時分の事だから、お休みになるのは御隨意であるが、どうして拙僧の頭に疵を付けられたか、これは料簡ならぬ、といふのである。何の事かわからぬながら、一同平(ひら)にあやまつたが、主僧は承知しない。僧の頭には血が滲んでゐるのは事實であるし、さりとてそんな惡戲をした者もないので當惑してゐると、雪隱へ行つた男が蛇に石を投げた一部始終を話し、その外に何も惡い事をしたおぼえはありません、と云つた。この話を聞いた僧は俄かに態度を改め、暫く何も云はなかつたが、やがて一同を井戸のほとりに案内し、石を除けば小さな瀨戸物の蓋茶碗がある。僧はこの中にあつた七兩の金子を取り出して、實はこのほど思ひがけず七兩の金子が手に入りましたので、盜人に取られぬやうに、こゝに埋めて置きましたが、この金子の事が絶えず頭を離れませぬため、眠つた間に蛇になつて參つたものと見えます、まことにお恥かしい次第で、懺悔のため御覽に入れました、もう今後はこの金子は要りません、あなた方に進上致しますから、何になりともお使ひ下さいまし、と淚を流して語るのであつた。

[やぶちゃん注:以上は、「譚海」の「卷の七」に出る「武州河越庵室の僧藏金に執心せし事」。

   *

○江戸神田の三四人、用事ありて上州へ行(ゆき)ける道、川越に至りしに、暑(あつさ)強き頃にて、ある庵室の有(あり)けるに入(いり)て休らひけるに、あるじの僧、壹人有(あり)。ねもごろにあいさつして、しばし緣に尻かけてある程、あるじの僧は、やがて、轉寢(うたたね)せしに、神田の者壹人、雪隱を求(もとめ)て庵のうしろへ行(ゆき)てみれば、井の有ける側(そば)の石の上に、ちいさきへび、とぐろ卷(まき)てあり。おづおづ追(おひ)けれど退(のか)ざりければ、石をもちて打付(うちつけ)たるに、其石、へびのかしらに打あてたり。扨、用事終(おはり)てもとの緣に尻かけてをるに、僧、目をさまし大に怒(いかり)て、

「何れも暑中故、休息せらるゝは其分(そのぶん)なり、何とて、我等がかしらへ疵(きず)付(つけ)られたるぞ、了簡ならず。」

と、いひつのりけるに、皆々、心得ぬ事とて、

「一向左樣のわざせし事なし、ひたすら御免有(ある)べし。」

と詫(わび)けれど、僧のかしらより、血も出いで)けるまゝ、いとゞ腹立て堪忍せざれば、詫事(わびごと)をも聞(きか)ず、さりとて、誰(たれ)手をおろし打(うち)たる事もなければ、甚(はなはだ)不審に思ひけるに、雪隱へ行たる男、詫(わび)かねて是非なく、

「我等、先ほど、用有(あり)て庵の後へ行たる時、へびの石の上にゐたるに、石をこそなげうちつれ、其外に、かまへて、あしき事はせず。」

と詫けるに、此僧、此物語を聞(きき)て、其まま、頭をさげ、慚愧(ざんき)の體(てい)にて、やゝしばし、物も、いはず。やうやう、頭をもたげて、

「扨々、今の御物語を承(うけたまはり)て恥入(はぢいり)て候、誠に後生(ごしやう)の罪障とも成(なり)ぬべく、おそろしき事、返々(かへすがへす)、身にしみはづかしく覺え候、各(おのおの)、井のもとへおはして御覽あれ。」

とて、此人々を伴ひ、井の側の石を取除(とりの)ければ、小き瀨戸物のふた茶碗、有(あり)、内に金子七兩ありけるを取出(とりいだ)して、此(この)人々にみせつゝ、

「我等事、思ひかけず、此七兩の金子を、まふけ、ためたれども、盜人にとられぬべき事を思量して、かく、人しれぬ所に埋置(うづめおき)たる也、されども我等こと、心、常に此金子にまよひしまゝ、さては我等、へびに成(なり)て、こゝにありしにて候、扨々、はづかしき事、各へも、此(この)次第、ざんげのために見せしなり、今より後(のち)は金子も何も用事にあらず、各へ此金子進じ申度(たく)、何用にもつかひ給はれ。」

とて、淚、玉をなして物語けると、其人のかたりし。

   *]

 

 前の話は死者の執心、後の話は生者の執心であるが、その人はいづれも出家の身分である。この種の慾は第一に斷たなければならぬのに、蛇になつてまでも埋めた金を守る一念を見出されては、深い懺悔の心を生ずるのは當然だと云はなければならぬ。「酉陽難俎」の王淸は粟の枯木を買つただけで、その根に埋められた鏡甕のことは知らぬのだから、黑蛇になつて守るのは不審である。これは前に錢甕を埋めた人の執念が、現在栗の枯木の所有者である王淸の名を借用したと見た方がいゝかも知れぬ。

 

 錢に對する執心は蛇になつて現れるときまつてゐるかといふに、必ずしもさうではない。「一時隨筆」にある姫路の話は、化物屋敷と評判されただけで、その正體ははつきりせぬが、三人も五人も取り殺され、さうでない者も氣が變になつた爲、荒れ放題になつてゐた。新知千石で抱へられた士が、似合はしい家もなく、町家住ひをしてゐるうちに、この屋敷のことを聞き及び、是非居住したい旨を願ひ出る。早速許可されて引き移つたその夜、書院に燈火を細くかゝげ、柱によりかゝつて「論語」里仁の篇を讀んでゐると、夜更けに至り屋後の艮(うしとら)の隅から地響きして、大磐石がころがり出た。暫くして今度は緣の下に咳の聲がかすかに聞え、十疊餘りの疊がぐらぐら搖れはじめた。その時士は聲を揚げ、主人の前をも憚らず、家鳴り震動させるのみで、姿を現さぬのは卑怯千萬である、狐狸のたぐひなら容赦はせぬぞ、と罵つたところ、やがて次の間の襖をさらりと明け、年の頃七十餘りと見える瘦せた老人が出て來た。そこで士も見を退け、姿を現さるゝ以上は心靜かに語らう、と改めてやさしく問ひかけたので、老人も漸く安堵したらしく、次のやうな話をした。自分は先代の時、この屋敷の主であつたが、常に有福で黃金千枚を庭前の榎の下に、瓶のまゝ埋めて置いた、臨終の際にこの事を云ふつもりで、つい口籠つてしまつた爲、黃金は今なほ徒らに土中に埋もれてゐる、この妄執により未だ浮び得ぬ次第であるから、夜が明けたならば、黃金は速かに掘り出して世の寶とし、僧を呼んで一遍の供養をしていたゞきたい、自分の願ひはこれのみである、實はこれまでもこの事を告げたいと思つたが、貴殿の如く健氣な人に出逢はず、二日とこの家に住む人がないので、申したい事も申されずに居つた、貴殿をお見かけして、くれぐれもお願ひ申す、と云ひ、士が子細あらじと領承するのを見て、よろこんで襖をしめて去つた。夜明けて後、榎の下を掘つたら、千枚の黃金は無事にそこに在つた。士は早速國中の僧を招き、かたの如く供養を執り行つた。

[やぶちゃん注:「一時隨筆」江戸前・中期の俳人岡西惟中(いちゅう 寛永一六(一六三九)年~正徳元(一七一一)年:因幡出身。西山宗因に師事し、談林随一の論客として知られた)の随筆。所持しないので原典は示せない。

『「論語」里仁の篇』如何にも見え見えの設定である。「論語」の同篇は、仁者にのみ、他者や対象を、正当に、等身大に、真に、深く、理解して愛することが出来ることを説いているからである。]

 

 同じく金錢に對する執心ではあるが、これは黃金の空しく地中に在つて、世に用ゐられぬことが氣がかりなのである。黃金千枚と云へば、眞言寺の和尚が儉約して溜めたのなどとは比較にならぬ量であらう。天下有用の財の用ゐられぬのを歎くのは、寧ろ出家方外の人にふさはしいと思はれるのに、事実は反對であつた。さういふ自己の財を吝(をし)む心の現れが、蛇の形を取ると解釋することも出來る。

 

[やぶちゃん注:本章を以って柴田宵曲の「續妖異博物館」は終わっている。正篇「妖異博物館」を始動したのは本二〇一七年元旦であった。年内に終えることが出来たのは、意想外であった。数少ない私の愛読者の方々からの応援に謝意を表して、終りとする。]

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