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« 和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕 | トップページ | 柴田宵曲 俳諧博物誌(8) 龍 四 / 龍~了 »

2017/11/24

柴田宵曲 俳諧博物誌(7) 龍 三

 

       

 

 今度は少し目を転じて美術工芸方面の龍を覗いて見る。龍を用いた代表的なものは鐘の龍頭であるが、鐘の句が非常に多いにかかわらず、龍頭(りゅうず)を詠んだものはあまり見当らぬ。

 

 龍頭まで雨にしほるや梨のはな    浪化

 冴(さ)ゆる夜や龍頭に落つる曉の月 玄何

 あけの鐘の龍頭や辰の年始      武次(たけつぐ)

 晩(い)り鐘(がね)の龍頭や濡(ぬら)す袖の秋

                   似船

 

 「梨花一枝春帶雨」という「長恨歌」の句があるせいか、梨の花には一面雨の連想がある。「龍頭まで雨にしほる」というところを見ると、この降は相当強そうである。桜のように集団的な花で、鐘楼まで咲き埋めるような場合ならば、花の雫(しずく)に鐘も濡れ渡ることになるであろうが、梨の花ではそんな感じも起らない。雨は鐘に降りまた梨の花に降る。鐘のほとりにある梨の白い花は、何だかうすら寒い感じがする。

[やぶちゃん注:知られた白居易の「長恨歌」の「梨花一枝春帶雨」は底本では総ルビであるが、ここで訓読して代える。方士が楊貴妃の魂を探して仙山に至ったシークエンスの中の彼女の形容部に現われる一句である。「梨花 一枝 春 雨を帶ぶ」。涙を流す彼女の姿を梨の花の一枝が春の雨にうたれているようだとする、何とも可憐にして哀しい、読む者の涙をも誘うワン・シーンである。]

 玄何の句は落ち方に近い暁の月がほのかに鐘楼を照す、龍頭が寒い光を放っている、といったような趣であろう。暁の月の凄涼な趣は四季いずれも同じであるが、冬の明方は特に骨に沁む想(おもい)がある。この句は単に鐘を照すといわずに、龍頭という焦点を定めたところが頗る利いているように思う。

 武次の句は現在鐘を撞く場合か、その音を聞いている場合か、その点がいささか明瞭でない。要するにその鐘には御定(おさだま)りの龍頭がついているから、それを辰の年に持って来たのである。辰の年の始で龍頭だというほど、手の込んだ趣向でもあるまい。横道に入るようだけれども、辰年を詠んだ旬は存外少い。この句の外には、

 

 あけぼのや岩戸に名のる辰の年 不磔(ふたく)

 

というのが目に入ったに過ぎぬ。これは龍の句の中に挙げるには躊躇すべき性質のものである。武次の暁鐘に対して似船は晩鐘を持出した。この鐘を撞くのは何者かわからぬが、胸に無限の哀愁を湛えつつある。「濡す袖の秋」の語はその涙を十分に伝えている。もしこの句に「龍頭」がなかったならば、晩鐘を聞いて涙を流すところとも解せられるが、龍頭を点ずる以上、その人は鐘の近くにいなければならぬ。鐘の近くにいるとしたら、撞く場合と解するのが妥当であろう。これは前の武次の句も同様のわけであるが、あの句には殆ど光景と目すべきものがない。似船の方はとにかく秋の暮に調和すべき情趣を持っている。

 金工方面の材料にはもう一つ

 

 雨龍(あまりやう)の筆架にちゞむ暑さかな 太無(たいむ)

 

という句がある。雨龍は龍の属ではあるが、角がなくて尾が長いものだという。そうとすれば牡鹿に対する牝鹿の如く、甚だ風采の揚らぬものに相違ない。この筆架が雨龍の形であることはいうまでもないが、特に「ちゞむ」という語を用いたのは、雨龍そのものが小さくちぢこまって筆架になつた、という風に見ているのではあるまいか。ちぢこまるには冬の方が適当であるにしても、大暑の候はまた大暑の候で、あらゆる水分を蒸発せしめずには置かぬ。水を欲する龍の属が乾固(ひかたま)って小さくなったと解せられるのはそのためで、またそう解せなければ「暑さ」と「ちゞむ」とが旨(うま)く繫(つなが)らないように思われる。

 この暑さと少しく趣を異にするのが、

 

   西陣

 龍虎織(りゆうこをり)手もあらそうて暑さかな 蓼太

 

であろう。この句の龍は独立していない。敵役の虎と同居の形である。しかし西陣織の模様だから、それに費される糸も華麗なものであろう。織子(おりこ)は大暑に喘(あえ)ぎながら、孜々(しし)としてこの華麗な模様を織りつつある。誰の目にも龍虎とわかるほど完成に近づいて、織子の手はいよいよ速度を加えつつある。京の夏の暑さはその織物が華麗なだけに、特に西陣の世界に集っているように感ぜられる。もしこれが花鳥その他の模様であったら、この句ほど暑さは強くないかも知れぬ。龍虎のような、美しい中にも重苦しい感じを伴うものなるが故に、無限の暑さとなって現れる。変った場合を見つけたものであり、織物の龍虎を描く上からいっても慥(たしか)に成功した句である。

[やぶちゃん注:「孜々(しし)」]熱心に努め励むこと。]

 絵画の龍は多かるべくしてあまり見当らぬ。

 

   待乳山(まつちやま)の社頭に雨をしのぎて

 空は墨に畫龍のぞきぬ郭公(ほととぎす) 嵐雪

   龍宮圖

 八大龍王涼しさうにて小淋しき      乙二(おつに)

 

 待乳山聖天(しょうてん)の別当は金龍山本龍院とある位だから、ここに画龍のあるのは偶然でない。明治四十年の博覧会の時、橋本雅邦の八方睨(はっぽうにらみ)の龍が美術館の天井に掲げられた。あれは雅邦晩年の大作ではなかったかと思う。待乳山の画龍はどんなものか知らぬが、この句は場合が面白い。空は墨を流したようになって雨が降りつつある。社頭に雨を凌ぎながら仰ぎ見る時、画龍は一段と精彩を加え、今にも雲に乗って昇天しそうな気がする。ほととぎすは実景でもあったろうが、これによって季節を現すことにもなっている。ほととぎすの一、二声を耳にし得る以上、仮令(たとい)空は墨のようになっていたにしろ、雷雨や豪雨ではないものと想像する。

[やぶちゃん注:「待乳山(まつちやま)」「待乳山聖天」東京都台東区浅草にある浅草寺の子院の一つである聖観音宗の待乳山本龍院(本尊は歓喜天(聖天)及び十一面観音。「待乳山聖天(しょうでん)」とも称され、浅草名所七福神のうちの毘沙門天も祀られている)及び、それが立地する隅田川べりの小高い丘待乳山を指す。参照したウィキの「本龍院によれば、この丘は推古天皇三年(機械的換算で五九五年)九月『に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと伝えられる』。六年後の推古天皇九年、『この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられる。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れている』、江戸の名所として知られた。

「明治四十年」一九〇七年。

「博覧会」同年三月に上野で開催された第三回目の東京勧業博覧会。明治政府が殖産興業政策の一つとして開いた国内の物産や美術・工芸品の展示博覧会である。

「橋本雅邦」(はしもとがほう 天保六(一八三五)年~明治四一(一九〇八)年)は日本画家。父橋本養邦(おさくに)は武蔵国川越藩の御用絵師で、江戸木挽町の狩野家当主晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)の高弟として同家の邸内に一家を構えており、雅邦そこで生まれた。ウィキの「橋本雅邦によれば、五『歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け』、十二歳の時に『正式に父と同じく養信に入門する。ただし』、『養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である勝川院雅信(しょうせんいん』『ただのぶ)を師としたと見てよい。この時』、『同日に狩野芳崖も入門しており』、七『歳年上で穏和な人柄の雅邦と激情家の芳崖と性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となる。両者は早くも頭角をあらわし』、安政四(一八五七)年に二十三歳で『塾頭となる。芳崖、狩野勝玉、木村立嶽と共に勝川院門下の四天王と称され、特に芳崖とは「勝川院の二神足」と呼ばれ、塾内の絵合わせでは共に源平の組頭を務めた』。安政七(一八六〇)年、『雅邦の号をもらって』、『絵師として独立を許され、池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。しかし当時』、『既に絵画の需要は少なく、また明治維新の動乱に際しては』、『一時』、『藩主のいる川越に避難』した。さらに明治三(一八七〇)年には『木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた』。『転機となったのはアーネスト・フェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようにな』り、明治一五(一八八二)年に行われた『第一回内国絵画共進会では』「琴棋書画図」『が銀印主席を取り、同じく』、出品した「竹に鳩」が『宮内省の御用となっている』。明治一七(一八八四)年に『フェノロサが鑑画会を発足すると』、『早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになった』。明治十九年には『海軍兵学校を辞し、文部省の絵画取調所に出仕するようになった。こうしてフェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした』明治二二(一八八九)年に『芳崖は死去、その絶筆である』「悲母観音」の『仕上げを任された。このため、明治二三(一八九〇)年の『東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると』、『第一次のメンバーに選ばれ』、『これにより』、『名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた』。『東京美術学校では下村観山や横山大観、菱田春草、西郷孤月、川合玉堂、寺崎広業、橋本静水らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい』しかし、明治三一(一八九八)年には『天心が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し』、『日本美術院の創立に参加した』。『以後、雅邦は在野でありながらも』、『画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている』。『雅邦は同門の狩野芳崖ともに、日本画の「近世」と「近代」を橋渡しする位置にいる画家で、芳崖と共に狩野派の描法を基礎としつつも』、『洋画の遠近法等の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した』とある。

「八方睨(はっぽうにらみ)の龍」不詳。識者の御教授を乞う。

「雅邦晩年の大作」雅邦はその発表から凡そ十か月後の、明治四一(一九〇八)年一月十三日に胃癌のために没している。]

 乙二の句は龍宮の中に加えてもよかったのであるが、特に図とあるのでここに挙げた。この涼しさは勿論龍宮の海底にある事から来ている。古来幾多の龍宮文学の中で、龍王に「小淋しさ」を認めたのはあるいはこの句だけかも知れぬ。俳人の観察は往々にして意外の辺に及ぶことがある。

 

 狂ひ龍その風のこす扇かな   龜玉

 

 これは扇の画様をいったものかどうか、はつきりわからない。狂い龍の起した風が現在扇に残っているという意味らしいが、もし扇の面に龍がいないとすると、両者がどこで繫るのかわからなくなって来る。解釈する上からいえば、龍が扇に画いてあった方が便利である。一種の奇想ではあるが、少しひねり過ぎた嫌(きらい)がないでもない。

 

 寒垢離(かんごり)の背中に龍の披露かな 一茶

 

 文身(ほりもの)は美術品の中に入りそうもないが、画には相違ないからここに挙げて置く。御祭の趣向に龍の文身を思いついて、何人かずらりと列ぶと大きな龍を形成するという話があった。文身の持主はとかく得意になつてひけらかす傾があるから、水を浴びる寒垢離の背中に龍の姿を認めて、やや冷かし気味に「披露かな」といったのであろう。一茶一流の滑稽味はあるが、この龍はあまり働いていない。寒の水を浴せられたのでは、背中の龍も小さくなってちぢこまらざるを得ぬ。寒中に水を浴びてまで背中の龍を披露する、御苦労様、というようなところが眼目だとすれば、その程度の句として適当に評価すべきである。これに比べると、同じ背中の龍でも、

 

 駕舁(かごかき)が脊の龍や雲の峯    靑々

 

という明治の句の方が大分面白い。雲の峯は前に支考の拄杖の句があったが、駕舁の黒い背中に施された文身の龍も、遥(はるか)なる雲の峯に呼応して昇天すべき勢を持っている。

[やぶちゃん注:「脊」は「せなか」と読んでいよう。

「靑々」俳人松瀬青々(まつせせいせい 明治二(一八六九)年~昭和一二(一九三七)年)。大阪出身。本名は弥三郎。正岡子規に認められ、明治三二(一八九九)年に上京して『ホトトギス』編集員となった。翌年、大阪朝日新聞社に勤め、同新聞の「俳句欄」の選者を担当し、また、二年後の明治三十四年には俳誌『宝船』(後に『倦鳥(けんちょう』と改題)を創刊して主宰した。]

 明治の句には更に

 

 羅(うすぎぬ)に文身の龍躍りけり 五丈原

 

という句があり、作者がしばしばこれを揮毫するというので有名であった。龍の文身としてはこの方が一茶の句より景気がいいようである。羅に透いて見える龍の姿は雲中飛騰の趣がある、などと余計な解釈を加えないでも、この句を誦(しょう)すれば慥に颯爽たるものが感ぜられる。

[やぶちゃん注:「文身」「いれずみ」。刺青。

「五丈原」弁護士で俳人の宮島五丈原(みやじまごじょうげん 明治八(一八七五)年~昭和七(一九三二)年)か。新潟県生まれで、東京帝国大学仏法科卒。東京で弁護士を開業したが、学生時代より俳句に親しみ、早くから法曹界の俳人として知られた。「黒龍会」に関係し、雑誌『黒龍』の「俳句欄」を担当、また「筑波会」に加入して句作し、『人民新聞』『文芸界』『実業界』などで俳句の選評も行った。明治四二(一九〇九)年には朝鮮で「一進会」が日韓合邦の請願を行った当時、合邦運動を支持して各地で遊説、日韓合邦の機運を高め、後、対支聯合にも参加している策士でもある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]

 

 春の水龍頭鷁首(りようとうげきしゆ)うかびたり 几董

 

 龍頭鷁首の船は好材料たるを失わぬが、これだけしか見当らなかった。明治になってからでも、子規居士の「不忍(しのばず)に鷁首の船や春の風」の如き光景があった位だから、古人はこれを句にする機会が少くなかったろうと思われるのに、存外閑却されているのは遺憾である。あの華かな船を描くには、春の世界を措(お)いて他にない。几董が春水に泛(うか)べ、子規居士が春風に配したあたり、期せずして古今趣を同じゅうするものがある。

[やぶちゃん注:「龍頭鷁首」船首に、それぞれ竜の頭と鷁(中国の想像上の水鳥。白い大形の鳥で風によく耐えて大空を飛ぶとされた)の首とを彫刻した二隻一対の船。平安時代に貴族が池や泉水などに浮かべ、管弦の遊びなどをするのに用いた。]

 

 陽炎や銀貨の龍の天上す   瓊音

 

などという句も明治の人間なら直(すぐ)にわかったのであるが、今日では銀貨の裏面の龍について多少の説明を要する。時代の変遷で如何ともすることが出来ない。

[やぶちゃん注:「銀貨の龍」明治初期の銀貨(明治三(一八七〇)年の旧一圓銀貨幣が最初か)には裏に龍の絵が刻印されていた(参照したウィキの「日本の銀貨で画像で確認できる)が、明治三九(一九〇六)年に龍図を日章に変更する改正が行われ、この時点では、既に、金貨や青銅貨の龍図は姿を消しており、旭日のデザインとなっていたことから、日本の貨幣の龍図は、この時を以って、完全に姿を消した。]

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