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2017/11/19

老媼茶話巻之五 男色敵討

 

老媼茶話卷之五

 

 

     男色敵討

 

[やぶちゃん注:標題は「なんしよくかたきうち」と読む。和歌は前後を一行空けた(和歌は読みその他を添えず、濁音化も避けた)。処刑場の罰札の条々は底本では全体が二字下げであるが、無視し、その代わり、前後を一行空けた。なお、本話は怪談ではなく、実録風仇討譚である。]

 

 伊豫の松山の御城主に仕へける兒小姓(ちごこしやう)、宮崎喜曾路(きそぢ)といふ美童あり。父は宮崎刑部左衞門とて祿四百石、足輕貳拾人、御預被成(おあづけなさる)。

 或春、同國妙法寺と云(いふ)山寺の華ざかりに、木曾路、花見に行(ゆき)ける折、寺町の片陰に住居(すまゐ)する與藏といふいやしきもの有(あり)。先祖は沖波何がしと云(いひ)て朝倉義景につかへけるが、義景ほろびて、松山に來り、與藏に至り、朝夕の煙絶々(たえだえ)の身となり、その日その日をさへ暮し兼(かね)、此日、妙法寺へやとわれて有けるが、觀音堂のさくらのもとに木曾路が花を詠(よみ)て立居(たちゐ)たる面影を見そめ、深く愛念し、いかなる便(たより)をか求めけん、木曾路がそば近くめしつかへける三夕(さんせき)といふ小坊主を賴(たのみ)、文(ふみ)を傳(つた)へける。木曾路、艷書(エンしよ)を見て、不便に思ひ、或夜更(よフケ)、五月雨(さみだれ)の降(ふる)闇に、みの笠を着て、すがたをやつし、與藏がすむ寺町のはづれなる草のわら家(や)に尋(たづね)て一夜の情(ナサケ)をかけ、曉(あかつき)ふかく起(おき)、わかれける折、扇に歌を書(かき)て與藏にあたへける。歌に、

 

  手枕の寢屋の扇の露よりもいつれ形見に契りおかまし

 

 爰に十時(ととき)三郎右衞門といふ侍大將の次男辰之助と云(いふ)者、或時、御城主御城の西千本の松原の馬場にて、兒小姓不殘(のこらず)、馬藝、御覽被成(なされ)られ、木曾路、大長(ヲフタケ)なる黑の駒(こま)に燃立斗成(モヘタツばかりな)る紅(クレナイ)の三階(サンガイ)かけ、黑地に金銀以て柏(カシハ)の木に兎(ウサギ)すつたる鞍に乘(のり)、鐙(あぶみ)ふみはり、手綱かいくり、あゆませ出(いで)し、其姿、

「馬に乘る少年、淸(きよ)ふして、且(かつ)、みやびやかなりと東破居士(トウハコジ)が風水洞(ふうすいだう)にて季節を譽(ホメ)しおもかげもかくまでにはよもあらじ。」

と見物の老若、ほめざるはなし。

 此(この)容色を辰之助、見染(みそめ)、笹野露休(ロキウ)と云(いふ)小兒醫者、宮崎刑部左衞門かたへしたしく出入(でいり)ける、此ものをよびよせ、身命(しんみやう)にかけ、文の使(つかひ)を賴みける。露休も難義におもひけるが、是非なく、文を受取、折を伺ひ有ける折、木曾路、此頃、風をなやみて勤(つとめ)を引(ひき)、宿(やど)におりけると傳へ聞(きき)、

「能(よき)折節。」

と、何となく木曾路が宅へ行(ゆき)ける。

 木曾路、對面し、

「病中つれづれなるに能(よく)こそ來りたれ。」

とて、機嫌よく樣々のもの語りをする。露休、つくづくと木そ路が容色を見るに、誠に朝顏の花、曉露(げうろ)ををふくめる面影ともいはまし。

 露休、辰之助に賴まれし文の事をば打捨(うちすて)、我身、木曾路に愛着せし趣、直直(ヂキヂキ)かき口説(クドキ)ければ、木曾路、露休が艷言(エンゲン)を聞(きき)て、色を正しくして申けるは、

「我等事、殿樣、御不便(ごふびん)をくわへらるゝ段、其方(そのはう)も能(よく)知れり。かり染(そめ)のたわむれといふとも、必(かならず)、已來(いらい)、いふ事、なかれ。若(もし)重ねてか樣の不義無道の事云(いふ)ならば、出入(いでいる)事、堅(かたく)無用也。」

と云ける。

 露休、手持(てもち)なく赤面し、その夜、辰之助かたへ行(ゆき)、

「貴殿御たのみのゑん書、今夕、能(よき)折有(あり)て木曾路に遣はし、樣々申(まうし)、せめて文の返事斗(ばかり)もといゝけれども、御文、手にだにとらず、剩(あまつ)さへ、此段、殿の御耳へ入(いれ)んと申(まうす)、以の外の挨拶にて候。」

と誠(まこと)しやかに申しければ、辰之助、元來、短慮無分別なる男にて、聞(きく)とひとしくせきあがり、

「古今、戀路(こひぢ)のならひ、文を送り、玉章(たまづさ)を通はす事、珎(めづら)しからず。然るに、木曾路、君寵(くんちよう)にほこり、左樣の惡言をはく。兎角、今よひ、木曾路を切殺(きりころ)し、恨(うらみ)を晴すべし。其方も、のがれぬ所、木曾路が宿所、案内せよ。」

と、その夜、深更に、露休を先に立(たて)、忍び入(いる)。

 折節、木そ路、ねもやらで、南面の障子をひらき、更行(ゆく)、月を詠(ながめ)ありけるが、もの音を聞付(ききつけ)、

「何者なるぞ。」

と、刀おつ取(とり)立(たち)むかふ。辰之助、聞(きき)て、

「意趣は定(さだめ)て覺(おぼえ)あらん。十時辰之助也。覺悟せよ。」

と、三尺三寸の刀をぬき、眞一文字に打(うつ)て懸(かか)る。き曾路、覺はあらねども、はげしくきり懸る故、刀、合拔(ぬきあはせ)、切結(きりむすび)、暫し戰(たたかひ)けるが、敵、兩人なり。辰之助は打太刀(うちだち)に、弓手(ゆんで)の高(たか)もゝ、切(きり)おとされ、かしこへ、

「どう。」

と、まろびけるを、すかさず、首を打(うち)おとし、立退(たちのか)んとする所へ、木曾路が親刑部左衞門、太刀音を聞付(ききつけ)、

「盜人入りし。」

と驚き、まくらもとに立(たて)し長刀(なぎなた)、おつ取(とり)、

「皆々、起(おき)よ。」

と呼(よば)はりながら、かけ來(きた)る。

 辰之助・露休、屛風の陰に隱れ居て、やり過し、兩人、後(うしろ)より切倒(きりたふ)し、夫(それ)より、辰之助・露休、奧州へ立退(たちの)けり。

 此騷動の砌、與藏は遠所(ゑんじよ)に行(ゆき)、程過(ほどすぎ)て立歸(たちかへ)り、此(この)荒增(あらまし)を傳聞(つたへきき)、血の淚を流し、十時辰之助・笹野を恨める氣、胸にみち、骨髓に徹し、口惜(くちをし)く、敵討(かたきうち)と思ひ立(たち)、姿を虛無僧(こむさう)にやつし、先祖沖波重代正宗壱尺八寸「笹の雪」と名付(なづけ)たる名劍を尺八にしこみ、名を「空花(くうくわ)」と改め、住馴(すみなれ)し故里の草のいほりを立出(たちいで)、宮崎が菩提所に行(ゆき)、木曾路が塚に參り申樣(まうすやう)、

「君、むかし、五月雨ふるやみの夜に獨(ひとり)、姿をやつさせられ、つゆふかき賤(しづ)が草のいほりを御尋下されし御恩の程、いかでわすれ申べき。此度(このたび)、不慮の橫難(わうなん)に逢(あひ)玉ひて、御父子やみやみと十時にうたれ玉ひ、冥土黃泉(かうせん)迄、さぞ、口おしく思召(おぼしめし)候べし。君の御兄弟御親類もましまさず、敵打(かたきうつ)べき人もなし。姿は賤(いやし)き土民なり共(とも)、心は丈夫におとるべきか。恩をしるを以て人とし、恩をしらざるをちく類とす。某(それがし)、命あらん限り、國々所々を尋𢌞(たづねまは)り、怨敵(をんてき)十時・笹野を討取(うちとり)、首を此所(ここ)へ持來(もちきた)り、御靈前へ手向(たむけ)、君の妄執(まうしふ)をはらし奉り、本望(ほんまう)をとげ候はゝ、浮世に思ひ置(おく)事なし。其時、我身、追腹(ツイフク)仕(つかまつり)、めいどの御供申つゝ、そのかみの御厚恩、報じ申さんと、御暇乞(おひとまごひ)に參り候。靈魂、草の影にて、我(わが)赤心の忠節、あはれとおぼし給へ。」

とて、塚の前に泣(なき)ふし、暫し、淚にくれけるが、

「心よはくて叶はじ。」

と袖に淚をおしぬくひ、敵の行衞、尋んと、いづくともなく出(いで)にけり。

 昨日とくらし、今日も過(すぎ)、國々里々、尋つゝ、二とせの秋、奧州筋を尋(たずね)むと、みちのく街道にさしかゝり、白川の御城下、「かわこの原」を通りけるに、男女のはりつけ弐人、有り。立寄(たちより)見るに、其罪札に曰、

 

              枝岡村定石衞門

 此もの、元伊豫の松山にて笹野露休と申者也。弐年前の秋當所民右衞門と申ものに少(すこし)所緣(ゆかり)有て尋來り、令同居(どうきよせしめ)、名を定石衞門と改(あらため)、醫を以て産業(なりわひ)と仕り、罷在(まかりある)右衞門女房と密通いたし、毒藥を以て民右衞門を殺し、民右衞門跡、橫領いたし、女房、末々夫婦に成可申(なりまうすべき)たくみ致(いたし)候處、其事、令露顯(ろけんせしめ)候。前代未聞惡人故、如此行者也(かくのごとくおこなふものなり)。

 

とあり。兼(かね)て露休を見知りしかば、近く立寄(たちより)、克々(よくよく)罪人の面をみるに、慥に露休也しかば、恨氣、むねにみち、杖を以(もつて)、露休がしかばねをたゝき、

「極惡天刑を得て、如此(かくのごとき)の死をなし、我(わが)眼前(がんぜん)に骸(カバネ)をさらせり。恨らくは、おのれが生前に、我(われ)、手にかけて切殺し、本望を達せざるこそ口おしけれ。『寒林にほねを打(うち)、靈鬼(レイキ)すく世の惡をかなしむ』といへり。嘸(さぞ)、來世にて無間(むけん)地獄にくるしむべし。」

とて、立(たち)わかれ行(ゆき)けるが、

「我(われ)、旅行の始、主公の御塚參り、御敵笹野・十時を討(うち)、しるしを御墓へ手向奉らんと堅ちかひしに、笹野は既に刑罪せられ、十時をも討得ずして、靈魂、草の陰にて、嘸(さぞ)、言甲斐(いふかひ)なく思ひ玉ふらん。」

と無念のなみだにくれけるが、それより、若松の御城下へ入(いり)、村々里々、尋𢌞り、高田といふ里にいたり。折節、彌生のころ、伊佐須賀大明神の御庭の八重櫻、盛(さかり)にて、華見の人も多く有ける。文殊堂の別當の元に立寄、「戀慕、すかゝき、子を思ふ夜の鶴すこもり」といふ大森宗林が始(はじめ)て吹出(ふきいだ)しける尺八の祕曲を至せば、亭坊、立出(たちいで)、

「虛無僧は何國の人ぞ。」

と問(トウ)。

「はるか遠國のものに候。」

といふ。

「幸(さひはひ)、今日、花見の客、有り。其節(ふし)一曲、所望申たし。障(サハリ)なくば、此寺に、四、五日も滯留しあれかし。」

と云。

 空花、

「忝(かたじけなく)候。」

とて内へ入(いり)、茶などのみ居たり。

 亭坊、かたりけるは、

「尺八は後醍醐帝の皇子(わうじ)中務(なかつかさ)卿懷良(モリヨシ)親王に始ると、『よし野拾遺』にありといへども、唐の玄宗皇帝、やうきひと吹(ふか)せ玉ひし事、有(あり)。中頃、高瀨備前守・安田城長(ジヤウチテウ)・是齋(ゼサイ)・宜竹(ギチク)・指田(サシダ)・一音(いちヲン)、是、皆、名人也。しかれども、貴殿には及ぶまじ。音色(ヲンシキ)は笙(セウ)、筒音(ツヽネ)は黃鐘調(ワウシヤウテフ)也。近代の上手なり。」

と、ほむる間もなく、若黨壱人走り來り、

「星崎龍左衞門その外誰々、御見舞申(おんみまひまうす)。」

と案内する。

 亭坊、是を聞、路まで立出、客人、七、八人、打連(うちつれ)、座敷へ招きしが、嘉肴(カコウ)・美酒をとり揃へ、心を盡し、樣々と馳走をする。客人、各(おのおの)數盃(すはい)をかたぶけ、奧に入(いり)、三味線・胡弓、引(ひき)つれ、謠舞(やうぶ)酒宴、數刻(すこく)におよぶ。

 亭僧、時分、見合(みあはせ)、空花をよび出(いだ)す。

 空花座敷へ出(いで)、しやう客、星崎龍左衞門をみれば、とし月、心をつくし、つけねろう十暗辰之助也。空花、天にものぼる心地して、

『只壱討(ただひとうち)。』

とおもひけるが、急度(きつと)、むねをおし沈め、畏(かしこま)り居たり。

 各々、一曲、所望すれば、空花、尺八、取出し、吹(ふき)ならす。

 皆々、一入(ひとしほ)、興に入る。

 辰之助は空花を見しらざれとも、空花は、辰之助、松山にありし時、度々(たびたび)、妙法寺來りける故、よく見覺へたり。

 かくて終日の酒盛に、各々、亂醉(らんすゐ)無性(むしやう)になり、日も西山に沈みければ、皆、亭僧に暇乞して、おのがやどりへ歸りける。

 跡にて空花、納所(なつしよ)坊主に申樣、

「星崎龍左衞門殿と申(まうし)御士は四國こと葉にて候。元來、此國の人にておはしまし候や。」

と、とふ。坊主、聞て、

「あの人は元(もと)伊豫の松山の人にて候。國本にて人を打(うち)、此處に星崎五兵衞と申(まうす)浪人おはし候、一族にて、此人を尋來り、實名十時辰之助と申せしと承る。五兵衞殿も、去(さる)冬、死去にて、跡とるべき子共もなかりしかば、其(その)一跡(いつせき)をつぎ、今、星崎龍左衞門と申(まうし)、富貴にさかえ、此寺の西、矢木澤(ヤキサハ)と云(いふ)所に居宅有(あり)て住(すみ)玉へり。」

と委(くはしく)語(かたり)ければ、空花、思ひける樣、

「人間のくわふく存亡は片時の内も知り難し。來(きた)るを期(ご)しては、互の命、賴まれず。運は天にあり。今夕(こんゆふ)、十時を討取(うちとり)、日頃の恨(うらみ)をはらさん。」

と只壱筋に思ひ定め、其夜、寺を忍び出(いで)、十時が屋敷へ忍び入(いり)、内のていを伺ふに、表は、門・塀、丈夫にかけ𢌞し、からぼりを堀置(ほりおき)たり。

 空花、高塀を越(こえ)、庭へおり、大きなる松の木の有りける、其木へ登り、ゑだのしげみに身を隱し、暫(しばらく)有(あり)て、人音(ひとをと)も靜まりしかば、木づたへに庭におり、寢間とおほしき處に、燈のひかり、障子にうつりければ、ぬき足して緣へ上り、障子の紙をやぶり、内を窺見(うかがひみ)るに、燈火、明らかにてらし、其傍に辰之助、沈醉(チンスイ)し、前後も知らず、伏居(ふしゐ)たり。

 あたりに人もなかりければ、障子をひらき、内へ入(いり)、枕元に立寄(たちより)、押動(おしうご)かし、

「いかに龍左衞門。我は三年以前、汝が爲に討(うた)れたる宮崎木曾路が下人に、沖波與藏と云(いふ)者也。『君父(くんぷ)の仇(あだ)にはともに天いたゞかず』といへり。因果の業報、今こそと思ひ知らん。念佛申せ。」

と、右の足にて龍左衞門が枕、

「かば。」

と蹴とばせば、龍左衞門、目をさまし、

「心得たり。」

と起上(おきあが)るを、壱尺八寸正宗の脇指にて、首より肩をつらねて切落(きりおと)し、首、搔切(かききり)、引提(ひつさげ)て、其夜の内に鶴沼・大川と云(いふ)大河弐を越(こえ)、御山のけう國寺といふ山寺のありける、その御僧にしるべありけるまゝ、ふかく賴み、二、三日、隱れ居て、十時が首を鹽漬にしてこもに包み、姿を順禮にやつし、笈(ヲイ)つりを懸(かけ)、金剛杖(こんがうづゑ)をつゐて、件(くだん)のこも包(づつみ)を背負(せをひ)、すげ笠に、「奧州會津御山村(おやまむら)何がし」と書付(かきつけ)、道すがら辛苦かんなんして、日數つもりて、漸(やうやく)、五月中旬、伊豫の松山に着(つき)にけり。

 其夜、人靜まり小夜更(さよふけ)て、木曾路菩提所玉峯禪寺參り、き曾路がしるしを尋(たづね)けるに、三とせ以前まふでしかど、あだし野露と消(きえ)にし人、數ぞふそとばは立(たち)ならび、いつれをそれと見分難(みわけがた)し。

 月の光りをしるべに次第次第に尋見るに、ひとつの石碑、有り。

「法名羅山秋錦居士宮崎木曾路勝重墓」

と有。

 いつしか、艷骨、土となり、しるしの石も苔むして、昔を思ふ淚なな。

 與藏、墓の前のちりを拂ひ、器物(ウツハもの)より十時が首、取出(とりいだ)し、傍(かたはら)の水にて洗(あらひ)、木曾次が石塔の臺石(ダイいし)にすへ置(おき)、しりぞひて手を合(あはせ)、淚を流し、申樣、

「法名羅山秋錦居士、俗名宮崎木曾路勝重公へ、怨敵十時辰之助が首を手向(たむけ)奉る。九品(くほん)の蓮臺(れんだい)にて、心よく受(うけ)玉ひ、しゆら道の御くるしみを遁れ、すみやかに成佛とくだつを、とげ玉へ。つらつら、君恩(くんおん)のふかきいにしへを思へば、山よりも高く、大海よりも深し。只今、公(きみ)の怨敵を打(うち)、其(その)かうべを靈前にまつり、往昔(わうせき)の御高恩、萬分が壱、報謝し奉る。先達(せんだつ)て、尊靈へ御約諾申せし通(とほり)、我身、年來の本望をとげ候得ば、浮世におもひ置(おく)事なし。只今、はら切(きり)、死(しし)て冥土黃泉まで、御宮(おんみや)づかえ申(まうす)べし。隔生則妄(カクシヤウソクモウ)とは申せとも、一蓮托生にむかひとらせ玉へ。」

と心靜(こころしづか)に念佛百遍斗(ばかり)申(まうし)、其後(そののち)、石筆(せきひつ)をかみ、むかし、木曾路が「手枕の寢屋の扇」と書(かき)て與藏にとらせける形見の扇、今まで、片時も身をはなさで、もちけるが、其扇を取出(とりいだ)し、一首の歌を書添(かきそへ)ける。

 

 今こそは浮世の闇もはれにけり西へ導ひけ山の端の月

 

と書(かき)て、腹、十文字に切破(きりやぶ)り、木曾路が塚へ向ひ、合掌し、眠がごとく、むなしく成(なり)にけり。

 あはれなる哉(かな)、公(キミ)の一日(いちじつ)の恩に、せうがもゝとせの命を捨(すつ)るとは、かゝる事をや、もふすべき。

 

 野々山に消る斗の情けかは消にし露のこけの下まて

 

[やぶちゃん注:本話について、「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内の「データベース『えひめの記憶』」のこちらに「愛媛県史 文学」(昭和五九(一九八四)年発行)の「二 伊予の怪談・奇談」の「敵討ち奇談」に、

   《引用開始》

 月尋堂著作の浮世草子『文武さざれ石』(正徳二年の自序がある。別名『文武君が代碝石』)の巻二の一では、「予州道後」の姉弟が兄の敵討ちをするが、敵も死に至らず義理によって円満解決をみるという奇談である。松風庵寒流著作の『老媼茶話』(寛保二年序)は男色敵討ちの奇談集である。この中の「男色宮崎喜曽路」の条に、「伊予の松山の御城主に仕へる児小姓宮崎喜曽路といふ美童」がいた。ある年の春妙法寺に花見に行った時、寺町に住んでいた沖波与蔵が喜曽路を見初めた。寺町とは加藤嘉明が松山城下を整備した際、寺院を城北の山越村に移し、その後多くの寺院が建築され、寺町が構成された。与蔵のことを知った喜曽路は一夜の情けをかけてやった。ある時馬芸で十時辰之助が喜曽路の美童ぶりに恋着し、取り持ちを笹野露休に依頼したが、露休は辰之助のことは一言も言わず、自分が愛慕したことを直接口説いたが拒絶された。露休は辰之助方へ行きあなたの恋は不首尾に終わったと誠しやかに言うと、辰之助はその夜すぐ露休を伴い喜曽路方に押し入り父子ともに斬殺し奥州へ立ち退いた。このことを伝聞した与蔵は敵討ちを決心し諸国を尋ねるうち、陸奥街道の白河藩御城下で露休が密通の罪科で処刑されたことを知った。仕方なくそれより会津若松城下に入ったところで辰之助に出合い、彼の首級をあげ辛苦の末松山に持って帰り、喜曽路の菩提所で自分も腹掻き切って死んだという奇談である。

   《引用終了》

とある。

「伊豫の松山の御城主」伊予松山藩。伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)を中心に周辺の久米郡・野間郡・伊予郡などを知行した。時制設定がはっきりしないが、一つ気になるのは、或いは非常な江戸初期の可能性もある点である、何故なら、いままで散々出て来た後に会津若松藩主となる加藤嘉明は慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」の功を以って二十万石を与えられて立藩したのが、この伊予松山藩だからである(彼の陸奥国会津藩四十二万石への加増転封は寛永四(一六二七)年)。しかし、この話柄、主人公空花(くうか)が宿敵十時辰之助に出逢うのが、やはり会津若松に設定されているからで、その場合、その後の蒲生忠知、更には松平(久松)家が藩主となった時代まで広げなくてはならなくなる。しかし、後に出るように、主人公空花(旧姓沖波)は祖父或いは曽祖父の代に朝倉義景(天正元(一五七三)年)に仕えていたとするなら、五十年は経過していると考えてよかろうから、そうなると、一六七三年前後となり、伊予松山藩第三代藩主松平定長(寛永一七(一六四〇)年~延宝二(一六七四)年)辺りが藩主だった時代になろうか

「宮崎喜曾路(きそぢ)」不詳。重要な役回りであるが、底本ではこの後、「木曾路」「木曾次」「木そ次」など表記が一定しない。基本的に名前で出ることが多いので、ある所から以下は漢字の場合は「木曾路」(稚児小姓であるから「次」より「路」が私の好みである故)で本文を統一した

「宮崎刑部左衞門」不詳。

「妙法寺」不詳。現在、愛媛県松山市会津町に日蓮宗の同名の寺があるが、明治以降の創建であるから違う。以下の「寺町」地区にはこの名の寺は現存しないようである。

「寺町」現行の松山市内にこの町名はないが、先の「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内の「データベース『えひめの記憶』」が有力な情報となり、現在の愛媛県松山市山越を指していることが判る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「朝倉義景」(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)。戦国大名。孝景の子で、初め、孫次郎延景と称したが、天文 二一(一五五二)年に将軍足利義輝の偏諱を得て義景、同 十七年、父の死により跡を継ぎ、一乗谷城主。加賀・能登・越前の一向一揆と戦ったが、義輝の命により、これと和し、越前を平定した。永禄九(一五六六)年、彼を頼った足利義昭を迎えることができなかったことから、以後、織田信長を頼った義昭と対立することとなった。義昭は同十一年に上洛して将軍職についたが、義景は信長とも対立することとなり、元亀元(一五七〇)年には浅井氏と連合して、姉川で織田・徳川連合軍と戦ったが、大敗を喫し(姉川の戦い)、さらに天正元年に信長の攻撃を受け、居城一乗谷に火を放ち、越前大野で自刃した。義景は歌を二条浄光院に学び、また、京風文化を一乗谷に移してそこを小京都たらしめた室町文化の一翼を担った人物でもあった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「與藏がすむ寺町のはづれなる草のわら家(や)に尋(たづね)て一夜の情(ナサケ)をかけ」ちょっと不審なのは、木曾路が何故、この与蔵だけには、たった一度の恋文だけでで躊躇なく木曾路の方から「哀れ」と積極的に感じ入って、率先して即座に出向き、契ったのかという点である。或いは、実は、木曾路の方が先に与蔵を知っていて、憎からず思っていたのか? しかも元は武家の出であることなども知り、重ねて「哀れ」に思ったのではなかったか? であれば、素直に腑に落ちるのである。

「曉(あかつき)ふかく」この場合は、曉(朝であるが真っ暗な時間帯である。ネット上でも誤認した記載が多い、ある者は平然と『空が白みかける頃』などと書いているが、それは暁ではなく曙である)の早い時間の謂いであろう。午前三時過ぎ頃か。

「手枕の寢屋の扇の露よりもいつれ形見に契りおかまし」整序すると、

 

 手枕(たまくら)の寢屋(ねや)の扇の露よりも

    いづれ形見(かたみ)に契(ちぎ)りおかまし

 

で、この一首自体が、実は不吉な予兆唄となってしまっていることが判る。

「十時(ととき)三郎右衞門」不詳。

「十時」「辰之助」不詳。

「御城の西千本」松山城はここ(グーグル・マップ・データ)。この中央付近か。

「三階(サンガイ)」既注であるが、再掲しておく。「三繫(さんがい)」或いは「三懸」が一般的漢字表記。掛馬具(かけばぐ)の面繋(おもがい)・胸繋(むながい)・尻繋(しりがい)の総称。革紐又は裂紐によって馬具を馬体に装着させる部品。ウマの頭部につけて轡(くつわ)を保持するものを面繋、胸部から鞍にかけてつけるものを胸繋、鞍から尻にかけて掛けるものを尻繋という。後には装飾性が強くなった。

「すつたる」「摺つたる」(摺りたる)の音便で、嵌め込み細工や螺鈿細工などに於いて漆を用いてある模様になるように石や青貝等を嵌めて塗り込んで、さらにそれを美しく磨き出すことを言っているものと思う。

鞍に乘(のり)、鐙(あぶみ)ふみはり、手綱かいくり、あゆませ出(いで)し、其姿、

「東破居士(トウハコジ)が風水洞(ふうすいだう)にて季節を譽(ホメ)し」「東破居士」は「東坡居士」の誤り。北宋の名詩人蘇東坡(蘇軾)には「風水洞二首和李節推」二首がある。李は蘇軾の友人(高官であったとも)で蘇軾の詩集には「往富陽新城李節推先行三日留風水洞見待」・「風水洞二首和李節推」が収められている(中文ウィキのこちらで後者の原詩二首が読める)。何故だか知らないが(少なくとも「風水洞二首和李節推」にはそのようなものは感じられない)、蘇軾と李節推は本邦では男色の例として語られることが多いらしい(ブログ「東京史楽」の「続・江戸の話 三十七」に拠ったが、そこの元ネタは馬絡みである)。

「笹野露休」不詳。この男も救い難い男である。当時、珍しい小児科医となったのも、恐らくはそうした強い小児性愛傾向があったからなのであろうが、そもそもがここで辰之助の恋文を隠しておいて、己れの恋情を吐露して、それが叶わなかった意趣返しに、辰之助に虚偽の告げ口をして、かくなるカタストロフを出来(しゅったい)させるというのは、まさに、本話の中で実は最もおぞましい存在とも言える。

と云ける。

「ゑん書」「艷書」。恋文。

「玉章(たまづさ)」ここは、前の自分が「文を送り」に対応する表現で、相手を敬ってそちらから送られてくる文章・詩文や手紙などを指す語。

「三尺三寸」刀身にみの実長が九十九・九九センチメートル。、江戸時代の武士が好んだ刀の平均長は二尺三寸前後、六十九・六九センチメートルであるから、これは異様に長い。

「弓手の高(たか)もゝ」左足の太腿。

「壱尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「橫難(わうなん)」思いがけなく起こる禍い。不慮の災難。

「やみやみと」「闇闇と」副詞。どうすることも出来ないさま。みすみす。やすやすと。

「ちく類」「畜類」。畜生の類い。獣(けだもの)。

「昨日とくらし」「昨日(きのふ)と暮し」。

「白川の御城下」「かわこの原」不詳であるが、白河藩の藩庁のあった白河小峰城(現在の福島県白河市郭内)は阿武隈川の右岸直近にあるから、これもその阿武隈川沿いの氾濫原近く(処刑場は通常、河原にある)ではなかろうかと類推される。この地図(グーグル・マップ・データ)にあると私は読む。

「寒林にほねを打(うち)、靈鬼(レイキ)すく世の惡をかなしむ」「平治物語」の一本の、「信賴降參の事並びに最後の事」の章中に、

   *

温野に骨を禮せし天人は、平生の善を喜び、寒林に骸(むくろ)を打ちし靈鬼は、前世の惡を悲しむとも、かやうの事をや申すべき。

   *

とある(個人ブログ「Santa Lab's Blog」のこちらを参考にした。私の所持する版本にはなかった。そこでは、『温かい野に骨を埋められた天人は、平素』、『善を積んだことを喜び、寒い林に骸を放られた霊鬼は、前世の悪行を悲しんで自らの死体に鞭打つというのは、このようなことを言うのでしょうか』と訳されてある)。「譬喩経(ひゆきょう)」等に基づくか。

「高田」現在の会津高田駅のある福島県大沼郡会津美里町附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「伊佐須賀大明神」現在の福島県大沼郡会津美里町宮林にある伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「文殊堂の別當」ウィキの「伊佐須美神社」を見ると、別当寺として暦応二(一三三九)年の『開基という清滝寺が存在したが』、寛文七(一六六七)年の『神社改めで社地からは除かれている』とある。現在、伊佐須美神社の北直近の会津美里町文珠西甲に天台宗清龍寺文殊院が現存するから、ここのことであろう(グーグル・マップ・データ)。

「戀慕、すかゝき、子を思ふ夜の鶴すこもり」「すかゝき」には底本に編者による『透垣』という添漢字がある。「すこもり」は「巢籠り」であろう。

「大森宗林」不詳。

「中務(なかつかさ)卿懷良(モリヨシ)親王」(元徳元(一三二九)年~弘和三/永徳三(一三八三)年)は主に参照した「ブリタニカ国際大百科事典」には「かねなが」とし、例によって他では「かねよし」とも読んでいる。後醍醐天皇の皇子で、足利尊氏離反にあたって、征西大将軍に任ぜられ、五条頼元らに守られて出立、四国に渡った。興国三/康永元(一三四二) 年、薩摩に行き、九州の勤王党である菊池・阿蘇らの豪族に擁せられて経略に従事し、大宰府に入って北九州を確保、南朝唯一の地方勢力として重きをなした。この勢威に驚いた足利氏は、初め、渋川義行を、さらに今川貞世(了俊)を遣わして勢力の回復に当らせ、征西府は圧迫され、大宰府は陥落、親王は退去し、将軍職を良成親王に譲って筑後矢部に隠居、同地で没したらしい。陵墓は熊本県八代市宮地にある。幼少時に京を出でて、その後、一度も京に戻ることなく生涯を終えている。「尺八修理工房幻海」公式サイトのこちらによれば、彼は、『幼い頃に尺八を吹かれ、その音色が天性妙を得ており、それにつられて吉野川の美しい魚が飛び跳ねた、という説話が』「吉野拾遺」や「本朝世事談綺」に』記されている。のちに南朝として、九州一円に勢力を拡大し、明と貿易して「日本国王」の位を授かるほど後ろ盾として良好な関係だった。その為、足利義満は明との貿易(日明貿易)を行なうにあたって外交相手と認識されず、苦労したという』とある。

「よし野拾遺」「吉野拾遺」は南朝(吉野朝廷)関係の説話を収録した室町時代の説話集。二巻本と三巻本とがあり、後者は「芳野拾遺物語」とも称する。ウィキの「吉野拾遺」によれば、『後醍醐・後村上天皇代の南朝廷臣の逸事・歌話を基礎とし、発心遁世譚・霊験譚・恋愛譚・怪異譚・復讐譚など多彩だが、『徒然草』・『兼好法師集』・『神皇正統記』・『太平記』から取材してこれを改変したものに加え、『撰集抄』と同様の方法で形成された虚構の創作説話が混在する。戦乱などの生々しい切迫した政情は反映されていないが、一応』、『南朝の参考史料として顧慮されてよいと思われる』とあるが、『近年では』『室町後期に偽作されたとする説が有力である。成立年代の下限は、『塵塚物語』との関係から』、天文二一(一五五二)年頃の成立『と推定される』とある。

「やうきひ」「楊貴妃」。

「高瀨備前守・安田城長(ジヤウチテウ)・是齋(ゼサイ)・宜竹(ギチク)・指田(サシダ)・一音(いちヲン)、是、皆、名人也」尺八の名奏家たちである。底本は中黒がなく、どこで切れるかに苦慮したが、矢頭治氏のサイト「虚無僧尺八 松籟・海鳴」の橋本海関「百物叢談」明治三六一九〇三)年有文社刊)の記載から推定した。

「黃鐘調(ワウシヤウテフ)」「黃鐘」は邦楽の十二律の一つで、基音の壱越(いちこつ)より七律高い音で、中国の十二律の林鐘(りんしょう)、洋楽のイ音に相当する。

「とし月、心をつくし、つけねろう」「歳月、心を盡し、つけ狙(ねら)ふ」。

「無性(むしやう)」節操なく、座が乱れること。

「納所(なつしよ)坊主」寺院で雑務を行う下級僧。

「矢木澤(ヤキサハ)」現在の会津美里町八木沢。(グーグル・マップ・データ)。

「くわふく」「禍福」。

「來(きた)るを期(ご)しては」計画に時間を費やして企略などし、万全の襲撃の時期を待っていたのでは。

「木づたへに」「木傳ひに」。

「君父(くんぷ)の仇(あだ)にはともに天いたゞかず」「君父の讐(あだ)は俱に天を戴かず」で「不俱戴天」のこと。主君や父・師の仇(かたき)とともには、この世に生きていくことは出来ぬ。命をかけても報復しないではいられぬことを言う。「禮記」「曲禮上」に基づく故事成句。

「鶴沼」福島県の中通り地方の岩瀬郡天栄村を中心に流れる阿賀野川水系の鶴沼川。(グーグル・マップ・データ)。

「大川」福島県会津盆地を流れる阿賀野川本流上流の会津地方での呼称。阿賀川とも。

「御山のけう國寺」不詳。福島県会津若松市門田町大字御山は現存するが、(グーグル・マップ・データ)では前の二つの川を渡ったというのと合致しないように思われるし、「けう國寺」なる寺も同地域には現存しない。識者の御教授を乞う。因みに、底本には「けう國寺」の「けう」に漢字を当てていないところを見ると、底本編者もこの寺を同定し得ていないものと思われる。但し、後に出る「奧州會津御山村(おやまむら)何がし」というのは現在の「御山」であってもおかしくない。

「こも」「菰」。

「五月中旬」辰之助仇討実行は弥生の桜の盛りであったから、二ヶ月以上かかって帰国したことになる。

「玉峯禪寺」不詳。

「しゆら道」「修羅道」。闘諍の末に討たれた彼は修羅道に輪廻していると考えるのは腑に落ちる。

「とくだつ」「得脱」。

「公(きみ)」私の推定訓であるが、最後に原典が「キミ」と訓じているから間違いない。

「隔生則妄(カクシヤウソクモウ)」「きやくしやうそくまう」が歴史的仮名遣としては正しい(現代仮名遣「きゃくしょうそくもう」)。人がこの世及び輪廻の転生先に生まれ変わる際に前世のことは忘れ去るということを指す。

「石筆(せきひつ)」黒色又は赤色の粘土を固め、削って筆のようにし、管軸に嵌めて字を書くもの。

「かみ」「嚙み」。

「今こそは浮世の闇もはれにけり西へ導ひけ山の端の月」整序する。

 

 今こそは浮世の闇も晴れにけり西へ導びけ山の端(は)の月

 

「せうがもゝとせの命を捨(すつ)る」「妾が百年の命を捨つる」。

「もふすべき」「申(まふ)すべき」。

「野々山に消る斗の情けかは消にし露のこけの下まて」整序すると、

 

 野の山に消ゆる斗(ばか)りの情(なさ)けかは消えにし露のこけの下まで

 

であるが、これは謂わば、この復讐譚に心うたれた作者三坂が最後に添えた花であるととれる。本篇では、後半、随所で、語り手であるはずの筆者自身が、慨歎する如き表現が随所に見られ、それがまた、本作を優れて感動的なものにしている。]

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