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2017/12/17

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(9) 小野小町や橋姫物語

 

 少し御退屈かも知らぬが今些し京都方面の事を言はねばならぬ。京都では岡崎町池之内卽ち大學の先生の多住んで居らるゝ邊は、中古俊寛僧都の住んで居た法勝寺の跡で、今も俊寛屋敷有王屋敷など傳説がある。就中滿願寺と法雲寺との向を西から東へ通ずる路は、俊寛が鬼界島へ流される時に通つたからと云ふことで、今日でも婚姻の時に通らぬ土俗があると、京都坊日誌に見えて居る。都名所圖會卷二に曰く、四洞院四條の角の化粧水昔此處に小野小町の別莊があつた。其から三間ほど北の方に、四條通の人家の下を西へ流れて西洞院川へ落ちる溝川があつて、其名を藍染川と云ふ。小町に心を掛けた人が望を遂げすして此川に落入りて死んだと傳へ、これ故に今猶婚禮の輿入には此橋を渡らない云々。小町は固より古今の美人であつて、心を掛けて死んだ人も多かつたかは知らぬが、若し其がかの深草少將のことならぱ、伏見に近い黑染の欣淨寺から宇治郡の小野村へ通ずる一里ばかりの道を、少將の通路(かよひぢ)と謂ふと山州名跡志卷十三及び十四にある。但し太闇在世中訴願の事あつて伏見の城へ行く者、此道を通れば必ず不成功であつた爲に、終に人が往來せぬやうになつたとばかりで、婚禮の事は傳へて居らぬ。出來齋京土産卷七には、又宇治橋の橋姫の宮の前を嫁入する時には通らぬと云ふ話を載せて居る。宇治久世二郡の民緣を結ぶには橋の下を舟で渡る。橋を渡れば橋姫の御嫉により夫婦の末とほらずとかやとある。嫉の神としては山城宇治の橋姫は最も古く且つ有名である。比較的新しい俗説では京に一人の嫉深き女があつて、夫を恨んで貴船の社に禱り、神の教に隨ひ宇治橋に行つて生きながら鬼となり旅人を惱ました故に、之を橋の南詰に神に祭つたと云ふのであるが、其以前に別に橋姫物語と云ふ書が幾種かあつた。鎌倉室町時代文學史に依れば、其一種現存するものには某の中將に妻二人あり、其一人は名を宇治の橋姫と謂ふ。産に近づいて五ひろの若海布(わかめ)をほしがるにより、夫之を取りに伊勢の海邊に行き龍王に招かれて還らなかつたので、橋姫は赤子を抱いて伊勢へ尋ねて行き、次で他の妻も來たと云ふ話であると云ふが、山城名勝志に引用した爲家抄にあるのは、二人の妻の爭と云ふことは無く、宇治川の邊に仕む夫婦の者あり、夫は龍宮へ寶を取りに行つて歸らず、妻は戀悲しみて橋の邊に死し、橋守明神となつたと云ふので、此方が多分更に古く、前者に伊勢へ行つたとあるのは恐くは伊勢の神宮の宇治橋にも古くより橋姫を祭つて居た爲だらうと思ふ。古今集には宇治の橋姫と云ふ歌が既に二首あつて、何れも男が女を愛する心を詠じた迄で嫉妬のことは無い。顯昭の注には又此橋の北にある離宮と申す神樣が、毎夜橋の南の橋姫の社に通ひたまふと云ふ話が民間にあつたと記して居る。さうして此人は源平時代の學者である。

[やぶちゃん注:「法勝寺の跡」現在の岡崎公園及びその南東の京都市動物園一帯に比定されている。(グーグル・マップ・データ)。

「有王」(ありおう 生没年不詳)は法勝寺執行であった俊寛の侍童。ウィキの「によれば、「平家物語」によれば、安元三(一一七七)年に俊寛が「鹿ケ谷の謀議」に連座して薩摩国鬼界ヶ島へ配流されてしまうと、『師を慕う有王は鬼界ヶ島をおとずれ、変わり果てた姿の俊寛と再会』、『有王は俊寛の娘の手紙を渡し、それを読んだ俊寛は死を決意して食を断ち』、『自害する。有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を持ち帰り、高野山奥院に納め、蓮華谷で出家して菩提を弔ったとされる』とある。

「滿願寺と法雲寺との向を西から東へ通ずる路」満願寺は京都府京都市左京区岡崎法勝寺町にあるであろう(グーグル・マップ・データ)。「法雲寺」は不明。

「京都坊日誌」郷土史家確井小三郎著。大正四(一九一五)年刊。 

「都名所圖會卷二」の「化粧の水」にある。京に冥い私が唯一、親しく歩いた場所である。

「欣淨寺」現在の京都市伏見区西桝屋町にある「ごんじょうじ」と読み、深草の少将の宅地跡と伝える。(グーグル・マップ・データ)。

「宇治郡の小野村」現在の山科区小野御霊町の随心院に小町は住んでいたとされる。(グーグル・マップ・データ)。

「出來齋京土産」「できさいきょうみやげ」と読む。浅井了意作の紀行。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」ので画像で読める。但し、草書崩し字。

「嫉」「ねたみ」。

「京に一人の嫉深き女があつて、夫を恨んで貴船の社に禱り、神の教に隨ひ宇治橋に行つて生きながら鬼となり旅人を惱ました故に、之を橋の南詰に神に祭つたと云ふ」最後を除けば、これは「平家物語」の読本系異本の「源平盛衰記」や屋代本などに収録されている「剣巻」で、橋姫の物語の多くの原型となっているものである。

「其以前に別に橋姫物語と云ふ書が幾種かあつた」小学館の「日本大百科全書」によれば、「古今和歌集」に、『「さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫」の歌がみえ、当時橋姫にまつわる民間伝承のあったことがうかがえるが、その具体的な内容は明らかでない』。ここで柳田が挙げている「山城名跡志」(大島武好著・宝永二(一七〇五)年刊)所収の「古今為家抄」(藤原為家の手になる「古今和歌集」の抄注釈書か)には、『宇治川のあたりに夫婦が住んでいたが、あるとき夫が竜宮へ宝をとりに行ったまま帰らなかった。妻は恋い悲しんで橋のほとりで死に、橋守明神になったと記している。女性に対して嫉妬』『深いと語られるのが通例で』、「奥儀抄」には、昔、妻を二人持っていた男がいたが、その一人が『宇治の橋姫で、出産が近づいて和布(わかめ)を欲しがるので、夫がこれをとりに行き、竜王に捕らわれた。夫を捜しに出た橋姫は、浜辺の庵』『で再会するが、夜明けに夫の姿が消える。もう』一『人の妻がこれを聞いて尋ねるが、夫が橋姫の歌をうたっているのを聞いてねたみ、夫にとりかかると、たちまち』、『男も家も失せてしまったとあり』、二『人の女性の嫉妬による緊張感が描かれている。橋姫の嫉妬に触れるのを恐れて、嫁入り行列が橋を避けて通る土地も各地にあった。山梨県西山梨郡(現甲府市)の国玉(くだま)の大橋では、橋の上で猿橋の話をすると怪異があるという。境を守る神として、道祖神との関係も深く、元来は男女二神の神で、橋の傍らに祀』『られていたものと考えられる』とある。]

「鎌倉室町時代文學史」藤岡作太郎著。芳賀矢一・藤井乙男編。明四四(一九一一)年~大正六(一九一七)年大倉書店刊。以下は同書の「第四章 室町時代の小説(四)―嫉妬物語、附遁世物語」で国立国会図書館デジタルコレクションの画像でから視認出来る。

「古今集には宇治の橋姫と云ふ歌が既に二首あつて」これは不審で、「宇治の橋姫」を詠んだものは、巻第十四の「詠み人知らず」の「題知らず」の一首(六八九番歌)、

 

 さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫

      又は、「うぢのたまひめ」

のみである。或いは、その後書の結句の別伝を二首と採ったものか。しかし、それは、

 

 さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の玉姫

 

であって、「宇治の橋姫」ではない。名立たる百科事典などが九〇四番歌、

 

 ちはやふる宇治の橋守汝(なれ)をしぞあはれとは思ふ年のへぬれば

 

の「宇治の橋守」を「宇治の橋姫」として載せたりして二首としているのは頗る不審である。しかし、柳田が「何れも男が女を愛する心を詠じた迄で嫉妬のことは無い」と言っており、別伝を二首と数えたものではないことは明白で、とすれば、九〇四を「宇治の橋姫」とする伝本があるのだろうか? 私の所持する複数の古今和歌集の注には一切、載らないのであるが? 識者の御教授を乞うものである。

「顯昭」(けんしょう 大治五(一一三〇)年?~承元元(一二〇九)年?)は平安末から鎌倉初期の歌僧。少年期、比叡山で修学したが、離山し、後に仁和寺に入寺して「袖中抄」など、多くの歌学書を著している。顕輔・清輔没後の六条藤家の中心的存在として歌壇で活躍し、「千載和歌集」以下の勅撰和歌集に四十三首が入集している(以上はウィキの「顕昭に拠った)。最後の「此人は源平時代の學者」というのは彼を指している。

「此橋の北にある離宮と申す神樣が、毎夜橋の南の橋姫の社に通ひたまふと云ふ話が民間にあつた」宇治の離宮にいる神、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のこととも言う。しかし、先の浅井了意の「出來齋京土産」のの前に出る「離宮」の解説には「藤原惡文の靈」だとも称している。の「橋姫神社の記載も参考になる。]

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