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2017/12/05

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(8) 縁切・不吉な橋その他

 更に東京附近にある數例を擧げて見れば、武藏比企郡吉見村大字江綱の鎭守元巢大明神の社の前は、嫁入には通行をしなかつた。是は神樣の名がモトスであつて「戾す」の音に近いからと説明されて居るが、同じく南足立郡舍人(とねり)村の諏訪社に於ては、夫婦杉と稱ヘた二本の杉の木の前を嫁入の行列は避けて通らなかつた。此杉は幸にして後に枯れたが、此の如き俗信の起るに至つたのは、今から百九十年前の享保十三年三沼代用水の堀割の時二本の夫婦杉の中間に溝を掘つてから後であると云ふ。是は自分の結論の爲に入用たる一例である。八王子市の東南南多摩郡忠生村大字圖師の釜田坂は、村の南部で大藏院と云ふ寺の前の坂であつたが、此坂でも之を通つて緣附いた者は必ず還されると傳へられて居た。以上の三件は共に新編武藏風土記稿に載つて居る。或方面の人には今でも有名な下板橋の緣切榎のことも同じ書中に記してある。是も岩ノ坂と稱する坂路の側で、其榎は第六天の祠の御神木であつた。今では此木の削り屑を戴いて歸り、別れたいと思ふ相手の者に窃(そつ)と服ませると忽ちだと信じ、背中合せの男女を描いた繪馬札を賣る店屋までが出來たさうだが、是は事ろ神の惡德を利用した江戸の人間の働きで、元は他の村々と同樣な困つた障碍であつた證據には、此地が仲仙道の往來であるにも拘らず、現に京都の姫宮が將軍家へ降嫁せられた時にも、𢌞り路にわざわざ臨時の新道を造つて榎の下を避けられたことが一度では無かつた。東京の眞中でも今の甲武線の水道橋停車場の附近に、つい近頃まであつた三崎稻荷の社は、一名を緣切稻荷と稱し、婚禮婿入に此前を通れば必ず離別するとて通らなかつたと江戸志にある。又王子の町から北に當る荒川の豐島の渡でも、嫁入婿取には決して之を渡らず、双方川向へ緣組をするに上の渡又は小代河岸へ迂囘(まはりみち)をしたと、遊歷雜記二編中卷にある。其昔足立郡の領主宮城の宰相、一人娘の足立姫を豐島の左衞門尉に嫁がせたが、姫は無實の罪を著せられて豐島家を追出され、歸りに荒川の淵に於て十二人の侍女と共に身を投げた。其怨念が今も消えぬのだと云つたさうであるが、其事實の有無は未定としても、此渡場の少し上に足立姫嫁入の時、父の宰相が特に架けさせたと云ふ橋の跡があつて、近昔まで橋杭が殘つて居たとあるのは、やがて亦此地も橋姫の勢力範圍であつたことを想像せしめる。新宿の西青梅街道の上、井頭(いのかしら)用水に架けられた淀橋と云ふ橋は、小さな橋だが町の名と成つて人がよく知つて居る。 中野長者と云ふ人此橋の向に渡つて財寶を土中に埋め、祕密の洩れんことを恐れて伴の下男を殺したと云ふ傳説があり、橋の名も元は姿不見橋と呼んだのを、何代かの將軍鷹野の時に是は吉くない名だと仰せられ、ちやうど橋の袂に水車小屋があつたので、淀の川瀨の水車の緣を以て淀橋と云ふ名を下すつた。其にも拘らず此橋でもやはり緣組を嫉み、廂髮の女學生上り迄が御嫁に行くのにどうしても爰を通過せず、えらい大𢌞りをしたり又は田の中の小路を步いたりして居つた。大正二年の十一月二十一日(自分が今此事を書いて居るのも四年目の同じ日であるのは又一つの不思議である)、右の水車の持主で淀橋銀行の頭取もして居る淺田さんといふ長者の家で、嫁御を東京から迎へるにどうしても此橋を渡らねばならぬ際、いつそ此序にと云ふわけで盛大な鎭祭を擧行し、自分も傳説を知つて居ると云ふ廉で其式に招かれて行つた。祭場は橋から下手へ掛けて水の上に大きな棧敷を構へ、あんな立派な祭は曾て見たことが無い。其時の神官の祝詞及び來賓名士の演説は奇天烈を極めたものであつた。さうして其次の日には何臺かの自働車はブーブーと、花嫁さんを乘せて花々しく此橋を渡つたのである。自分は單に民衆心理の研究から、窃かに其後の成績に注意して居ると、一年も經たぬ内に早近所では御嫁さんは病氣ださうなとか、其他色々の不吉な事ばかり噂をして居る。確かな人の話で其は全く虚誕と判明したが、しかもかの方面の人々が其後自由に此橋を通つて緣組して居るかどうか。自分などはやつぱりだらうと思つて居る。

[やぶちゃん注:「武藏比企郡吉見村大字江綱の鎭守元巢大明神」埼玉県比企郡吉見町江綱(えつな)に現存する元巣神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。柳田が引く「新編武蔵風土記稿」(巻之百九十八)にある江綱村の条には(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認した)、「元巢明神社」として載り(句読点と濁点を追加した)、

   *

村ノ鎭守ナリ。祭神詳ナラズ。當社ノ戾ノ訓ニ近キトテ、嫁娶ノトキハ社前ヲ避忌ト云。

   *

とある。しかし、個人サイト(サイト主は社会科の教員であられるようだ)「ばらさ日本史」の「流行神・元巣(はやりがみ・もとす)神社」の記載によれば、これが恵方へ後に逆転した時があったという。もともと『「元に戻る」にあやかって、病気平癒(元の健康体に戻る)や家出人の発見、離婚などを願う人々の信仰も水面下にはあったと』されるが、『俄然』、『注目をあびるのは近代になってからで、まさに「元巣」(つまり、戦地から元の巣である家に無事戻ってきてほしいの意)がゆえに急速に人々の信仰を集める、いわゆる「流行神(はやりがみ)」となって』いったというのである。以下、少し引用を続けさせて貰うと、『「流行神」とは、民俗学上の用語で、ある特定の時代背景の下、一過性の流行がみられる信仰対象のことで』、『特に、近代以降の度重なる戦争を背景に、表面的には武運長久を祈願しつつ、その実、弾丸除けや徴兵逃れ、出征兵士が無事に帰還することなどをひそかに祈る神社が流行し』、『有名なところでは、龍爪(りゅうそう)大権現[=穂積神社。静岡市]、方広寺半僧坊大権現[静岡県引佐町]、大山祇神社(おおやまつみ)[茨城県高萩市]、大魔王天神社[山梨県鳴沢村]、高越(こうつ)大権現[徳島県山川町]などがあり』、『埼玉県でも、この元巣神社をはじめ、同じ比企郡内の嵐山町にある鬼鎮(きじん)神社、同郡小川町の半僧坊』『などがあり』、『この他、戦時中には、出征兵士の武運長久を祈って、八幡神社を順に』八『つ参拝する「八幡八社参り」、それぞれの地域を代表する』八『つの神社を参拝していく「八村八社参り」、近隣』三十三『の神社を参拝する「三十三社」参り、神社などに参拝して千社札を貼り付けていく「千社参り」などが、個人や家族、隣組、青年団等でさかんにおこなわれ』たという(以下、同神社で発見された祈願者の名簿発見によって、太平洋戦争の戦局が悪化するにつれて、祈願者が膨れ上がっていったという事実が記されてある。必見!)。『実は、この元巣神社』は『日露戦争』『のころに、徴兵逃れの祈祷中に憲兵から踏み込まれ、神職が追放された上に、社名を地名に由来する「江綱神社」に強制的に改称されられたという歴史をもって』いるともある。『しかし、こうした国家の弾圧はあっても、人々の祈りまで圧殺することができなかったことは、前述の祈願者の数字が雄弁に物語って』おり、敗戦の年昭和二〇(一九四五)年十二月『には元巣神社の名称に復帰し』たともある。最後にサイト主は『元巣神社は、今は黙して語らず、といった雰囲気ですが、そのかみ、実は無数の人々の切実な願いや祈りで埋め尽くされていた場所だったのです』と記しておられる。

「南足立郡舍人(とねり)村の諏訪社」現在の東京都足立区舎人に現存する舎人諏訪神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。「新編武蔵風土記稿」(巻之百三十八)にある舎人町(「村」ではない)の条には(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認した)、「諏訪社」として載り(句読点と濁点を追加した)、

   *

西門寺ノ持ナリ、此社地ニ夫婦杉ト唱ヘテ二樹アリシガ、三沼代用水堀割ノ時コノ二樹ノ間ニ溝ヲ開キシヨリ、土人婚嫁ノ時、前ヲ過ルハキラヒシトテ、此道ヲ避ルト云。此杉、今ハ枯タリ。

   *

とある。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同神社の解説によれば、それ以前に具体的な因果伝承が存在することが判る。この神社、鳥居が社殿の前になく、神殿のに対して左斜めに位置にあるが(リンク先に画像有り)、『舎人諏訪神社の創建年代は不詳で』あるが、『毛長川の名称にまつわる伝承から新里毛長神社の男神に比定して女神とされて』いるとされ、「ブックレット足立風土記舎人地区」による舎人諏訪神社の由緒によれば、『昔、舎人に嫁いだ新里村(草加市、毛長川の対岸)の娘が、姑との不仲で川に入水し、後を追って夫も自害した。その川からは娘の長髪が見つかり、それを神体としたのが新里毛長神社で、その川も毛長川と呼んだという。舎人諏訪神社の社殿が鳥居に対して斜めに建っているのは、夫婦の霊を慰めるため、諏訪神社(男神)と毛長神社(女神)の方向に向けたためだという』とある。これはこれで私には別な意味で非常に興味深い。

「享保十三年」一七二八年。

「三沼代用水」見沼(みぬま)代用水(だいようすい)。享保十三年に幕府役人井沢弥惣兵衛為永が、新田開発のために武蔵国に普請した灌漑農業用水。灌漑用溜池であった見沼溜井(武蔵国(現在の埼玉県さいたま市及び川口市にあった広大な沼を利用した、一種の灌漑用ダム)の代替用水路であった。流路は現在の埼玉県行田市付近の利根川より取水され、東縁代用水路の方が東京都足立区に、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区に至っている。参照したウィキの「見沼代用水」によれば、『埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている』とある。

「八王子市の東南南多摩郡忠生村大字圖師の釜田坂」「忠生」は現代仮名遣で「ただお」と読む。現在の東京都町田市忠生の北に接する東京都町田市図師町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。「釜田坂」はここ(グーグル・マップ・データを使用した「坂学会」による作成の水色部分)。参照した「坂学会」公式サイト「全国・坂のプロフィール」の「鎌田坂」(別称に「釜田坂」とある)によれば、『木曽宿を横切り、図師原を貫き、鶴見川の河谷へ向かって下るのが鎌田坂で』、『坂の途中から矢倉沢街道(大山みち)が南西方向に分岐しているが、そこに縁切り不動があり、この坂を、たまに縁切り坂とも呼ぶことがある』とあって、但し、その『縁切り不動は、坂上の簗田寺に移されている』とある。とすれば、この坂の縁切呪術はその不動の呪力によるものであり、今は既にその呪力は失われているとも採れよう。

「大藏院」現認出来ない。

「下板橋の緣切榎」かなり有名であるから、多くの記載がある。ここは画像の豊富な、サイト「東京DEEP案内」の縁切榎 (東京都板橋区)をリンクさせておく。場所は東京都板橋区本町。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「日本伝承大鑑」の「縁切榎」によれば、この縁切伝承の起原には語の訛とするしょぼい定説があるとし、『江戸時代、このあたりに旗本の屋敷があったが、この垣根の際に榎と槻の木が並んで生えていた。この』二『本の木が目立っていたため、誰が言うともなく「えのきつき」と呼び出し、それがいつしか詰まって「えんつき」、即ち』、『「縁尽き」の語呂合わせが広まり、その後榎だけが残ったということらしい』とある。なお、流行り神対象となった初代の榎は明治期に焼けてしまい(一部は現地に保存)、現在は三代目であるともある。

「岩ノ坂」「坂学会」公式サイト「全国・坂のプロフィール」の「岩ノ坂」を参照されたいが、この坂は或いは、それ自体にも不吉な呪力があるのかも知れない。そこには『かつて坂の左側に榎の大木が聳え』、『奥に第六天社があった。今は反対側に移され』て「縁切榎」と呼ばれているが、『坂の両側から覆いかぶさる樹木により昼なお薄暗く』、『不気味な坂であったので』、『「いやな坂」が訛って「いわの坂」と呼ばれた』とあるからである。

「第六天」ウィキの「第六天神社」より引く。『関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社。なお、神社によっては第六天を「大六天」と表記する場合もある』。『元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)』(仏道修行を妨げる天魔。三界の欲界の最高位で、且つ、六道の天道(天上界)の最下部とされる六欲天の第六天に住む、欲界の天主大魔王第六天魔王波旬(はじゅん)のこと。仏教で通常、天魔と言った場合は、狭義には彼を指す)『を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)』に『祭神を変更し』てしまった。「新編武蔵国風土記稿」には三百二十余社が、「新編相模国風土記稿」には百四十余社が、「増訂・豆州志稿」には四十余社の『「第六天神社」を確認でき』、『江戸時代末までは関東を中心に多く存在したが』、『前述の神仏分離によって改称』や『他の神社』へ合祀され等してしまい、粗末な『祠のようなものも数えれば』、『現在でも三百余社あるものの』、『宗教法人格を持つような独立神社としては珍しい存在となっている』。『なお、現在では東京都と千葉県の県境近辺に多く所在しており、神奈川県内において神社庁下の独立神社は二社に留まる』。『また、千葉県香取市の山倉大神は前述の神仏分離まで大六天王(第六天魔王と同一)を祀っており(現在では近距離に所在する真言宗山倉山観福寺に遷座)、大六天王社の総社とされていた』。『一方、第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが』、『西日本では皆無となっている』。これは一説に、『戦国時代の覇者である織田信長が篤く信奉していたとされることから、天下統一の跡を継いだ豊臣秀吉が第六天の神威(しんい)を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためと』もされる。『なお、信長が信奉し自ら「第六天魔王」と名乗っていたとされるのは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡の中で紹介されている、武田信玄と信長が書状のやり取りをした際の話からきており、それによると「信玄がテンダイノザス・シャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と署名したのに対して、信長は仏教に反対する悪魔の王、ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)と署名して返した」とされるが、実際に自ら名乗っていたという文献などは他に存在しない』。『この他、祭神については前述の第六天魔王から神世七代第六代の神に変更されたケース以外に、東京都墨田区押上や葛飾区西亀有の高木神社(旧称:第六天社)のように高木の神(タカミムスビ:日本書紀では高皇産霊神、古事記では高御産巣日神)を祭神としている場合』『や宮城県名取市の第六天神社のようにそもそも第六天魔王とは関係がなく天神を祀っている神社もある』。また、『さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社で』は『御使役の天狗様や社殿に宿る大天狗・烏天狗など天狗と関連付けられている』とあり、これはこれで、またまた私には興味深い事実である。

「現に京都の姫宮が將軍家へ降嫁せられた時にも、𢌞り路にわざわざ臨時の新道を造つて榎の下を避けられたことが一度では無かつた」先に挙げたサイト「日本伝承大鑑」の「縁切榎」によれば、文久弐(一八六二)年二月に実現した孝明天皇の妹和宮親子(ちかこ)内親王と第十四代将軍徳川家茂との結婚で、和宮降嫁の際、『「縁切り」の噂を聞き及んで、この木が見えないように迂回路を造らせて行列を通したという話』が最も知られ、『この噂にはさらに尾ひれがついて、和宮の行列が通る時には榎を菰筵で覆い隠したもされる。実際、縁切榎については「嫁入りの行列が通ると縁付かない」という言い伝えがあるが、』第十『代将軍徳川家治に嫁いだ五十宮倫子』(閑院宮直仁親王の第六王女。京都所司代牧野貞通が朝廷と交渉して家治との縁組が決定され、寛延二(一七四九)年二月に京都を発ち、三月に江戸へ到着している)『の場合も迂回路を通ったという記録があり、和宮の時だけ特別ということではなかったのが真相らしい』とある。

「甲武線」現在の中央本線の旧称。

「江戸志」近藤義休の著になる江戸地誌「新編江戸志」。寛政年間(一七八九年から一八〇一年)の刊行。

「荒川の豐島の渡」隅田川(嘗ての隅田川は荒川の分流であるからこの謂いは正しい)の「六阿弥陀の渡し」の別称。六阿弥陀詣で(春秋の彼岸の入りや中日或いは彼岸のうちの一日(いちじつ)、江戸近郊の六ヶ所の阿弥陀如来を巡拝する行事。実際には物見遊山が主目的)で霊場を巡る際に必ず使う必要があったため、この名で呼ばれ、付近の地名から「豊島(としま)の渡し」とも称された。現在の豊島橋の上流二百メートルほどの、隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」と呼ばれる場所にあった。大正一四(一九二五)年の豊島橋架橋によって廃止されている。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「上の渡」隅田川の「豊島の渡し」の上流にあった「宮堀の渡し」。「神谷の渡し」とも称されたのを、柳田は略して「かみのわたし」としたものであろう。現在の新神谷橋付近にあって、主に西新井大師への参拝客や荒川堤への花見客などを乗せていたらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小代河岸」「おだいがし」と読む。隅田川の「豊島の渡し」の下流にあった「小台(おだい)の渡し」のこと。「尾久の渡し」とも称された。現在の小台橋付近にあり、江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わい、参照したウィキの「隅田川の渡し」によれば、『江戸期は両岸の農民が半月交代の当番制で渡していたという』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「遊歷雜記」遊歷雜記」小石川の隠居僧十方庵(じっぽうあん)敬順が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に著わした江戸市中見聞録。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」の同書の「二編中卷」を探して見たが、どこに載るのか見出せなかった。識者の御教授を乞う。

「其昔足立郡の領主宮城の宰相、一人娘の足立姫を豐島の左衞門尉に嫁がせたが、姫は無實の罪を著せられて豐島家を追出され、歸りに荒川の淵に於て十二人の侍女と共に身を投げた。其怨念が今も消えぬのだ」東京都足立区扇にある浄土宗龍燈山貞香院性翁寺の公式サイト内の由緒に、『寺伝の縁起や絵巻(ともに足立区文化財)などによれば』、『「性翁寺は六阿弥陀発祥の地にして根元の旧跡である。」』とし、『今からおよそ』千三百『年前の神亀』二(七二五)年、『この地に居住の足立之荘司宮城宰相』の『娘「足立姫」と下女』十二『人水死の難に遭った』。『父・荘司は悲嘆のあまり』、『諸国廻行に出て』、『熊野権現より霊木を授かり、海中に投げ入れると、霊木は当処へ流れ着いていた』。『(旧来、熊の木の地名あり)』。『この霊木を当地に行化の行基菩薩の御手で、六道流転化益に当たって六体の阿弥陀仏を彫刻し、六つの村里に安置して』十三人の亡き『女子のため』、『又、末代衆生利益のため』に行われるようになったのが、『六阿弥陀の始まりである』という。『なお、余り木をもって娘成仏の御影として阿弥陀一体を刻して、荘司屋敷の傍らに草庵を建立して安置したのが当寺開創であり、木余り如来の由縁である』。『その後』、明応元(一四九二)年になって、『当地に来た龍呑上人が姫の墓処の菩提樹の木に毎夜、龍燈のかかるのを見て、守護処に一寺改転を願い出て、龍燈山貞香院性翁寺と給わり、浄土宗寺院として開山され』、『以来、女人往生の霊場として春・秋彼岸の「江戸六阿弥陀巡り」が盛んとなった』とある。

「淀橋と云ふ橋は、小さな橋だが町の名と成つて人がよく知つて居る」「姿不見橋」地名としては旧東京府豊多摩郡淀橋町。東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋。現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。橋はここ(グーグル・マップ・データ)。現在は東京都新宿区北新宿二町目内。因みに、ヨドバシカメラの淀橋はこの地名に由来する。ウィキの「淀橋」によれば、『淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが、「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。(「姿見ずの橋」は中野長者伝説から来たもので』(後注参照)『、花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えがあった。)』。一説は、『姿見ずの橋で休憩していた徳川家光により、川の流れが緩やかでよどんで見られたので淀橋と名づけた』、或いは、『放鷹した際に姿見ずの橋を通った徳川家光(徳川吉宗説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都の淀川に似ていたことから淀橋と改名した』、別説では、『豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移住させてできた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」と呼ぶようになり、さらに淀橋となった』とか、『柏木、中野、角筈、本郷の』四つの村(四戸)の『境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した』というものがあるという。

「中野長者と云ふ人此橋の向に渡つて財寶を土中に埋め、祕密の洩れんことを恐れて伴の下男を殺したと云ふ傳説」「中野区」公式サイト内のなかの物語 其の四 中野長者伝説を御存じですか?に以下のようにある。一部のアラビア数字を漢数字に代えさせて貰った。

   《引用開始》

今は昔、応永の頃(一三九四~一四二七)、紀州熊野から鈴木九郎という若者が中野にやってきました。九郎はある日、総州葛西に馬を売りにいきましたところ、高値で売れました。信心深い九郎は仏様の功徳と感謝して、得たお金はすべて浅草観音に奉納しました。

さて、中野の家に帰ってみたところ、我があばら家は黄金に満ちていたのです。観音様のごほうびでした。それから九郎の運は向き、やがて「中野長者」と呼ばれるお金持ちになりました。その後、故郷の熊野神社を移して熊野十二社を建てたり、信心深い生活は続いていました。ところが、あふれる金銀財宝が屋敷に置ききれなくなった頃、九郎に邪念が生じたのです。

金銀財宝を隠そうと人を使って運ばせて、帰りにその人を亡き者にするという悪業を働きはじめたのです。村人たちは、「淀橋」を渡って出掛けるけれど、帰りはいつも長者一人だということから、いつしかこの橋を「姿見ず橋」と呼ぶようになりました。

しかし、悪が栄えるためしなし、やがて九郎に罰があたります。九郎の美しい一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に化身して熊野十二社の池に飛び込んでしまったのです。九郎は相州最乗寺から高僧を呼び、祈りを捧げました。すると暴風雨はおさまり、池から蛇が姿を現し、たちまち娘に戻りましたが、にわかに湧いた紫の雲に乗って天に昇っていってしまったのです。以来、娘の姿は二度とこの世に現れることはなくなったのです。

九郎は嘆き悲しみ、深く反省して僧になりました。そして、自分の屋敷に正歓寺を建て、また、七つの塔を建てて、娘の菩提を弔い、再び、つましく、信心深い生活に戻りました。めでたし、めでたし[やぶちゃん注:中略。]

ところで、淀橋つまり姿見ず橋は、大正時代まで縁起の悪い橋とされ、婚礼などのめでたいことには絶対使われることはありませんでした。大正二年[やぶちゃん注:一九一三年。これはまさに本文に出る話である。]、土地の旧家浅田氏が親族の婚礼のときに、民俗学者柳田国男に講演をお願いするなど盛大な浄め式を行いました。これは「淀橋の迷信打破」と称され、新聞などに報道され広く話題を呼んだそうです。

   《引用終了》

「淀の川瀨の水車の緣」ウィキの「城」に、『淀城の西と北側に直径九間』(約十六メートル)『の大型水車が』二『基設けられていた。二の丸の居間や西の丸の園池に水を取り入れていたのに使用されていたと思われている。当時山城国の人々から「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌われた』とあるのを指す。

「淀橋銀行」まさに旧東京府豊多摩郡淀橋町に本店があった、大正期の私立銀行。ウィキの「淀橋銀行によれば、明治三〇(一八九七)年に『群馬県利根郡沼田町で沼田銀行』『の名称で設立』され、ここに出る話の翌年の大正三年には、『経営陣も入れ替わり、淀橋町に移転し、淀橋銀行に改称』したが、昭和二(一九二七)年の『金融恐慌の』煽りを受け、翌昭和三年に『名古屋銀行(東海銀行の前身の一つ)に営業譲渡後』、『解散した』とある。

「頭取」「淺田さん」不詳。

「自分などはやつぱりだらうと思つて居る」柳田國男は今現在も、婚礼の際には「やつぱり」相変わらず、忌避している「だらう」と推察しているのであると思われる。]

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