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2017/12/12

老媼茶話巻之七 釜煎

老媼茶話卷之七

     釜煎

 

 「諸家深祕錄(しよけしんぴろく)」には、釜煎(かまいり)は大臣家(だいじんけ)にあらずしては、なりがたし。臺德院樣御代、石川五右衞門といふぬす人、三條河原にて釜ゐりに被仰付(おほせつけ)らるゝ。御當代、これ、始(はじめ)也。

 蒲生藤三郎秀行卿、其身(そのみ)、正四位下宰相にて、領内の罪人、毎度、釜煎申付(まうしつけ)られ候。そのむくひにて、子孫斷絶せしといへり。

 宰相の御代、會津、中荒井組蟹川(なかあらいぐみかにがは)村に平七といふ百姓、有(あり)。此もの、鳥殺生(とりせつしやう)を能(よく)する。

 ある時、「しらふ」の雲雀(ひばり)、本郷河原といふ所にて取(とり)、宿へ歸り、女房に見せ申(まうし)けるは、

「此(この)雲雀は、當時、珎敷(めづらしき)『しらふ』也。天下をしなべて、小鳥流行なれば、殿樣へ差上(さしあげ)、過分の御褒美いたゞくべし。嬉敷(うれしき)事なり。」

とて、大きに悦(よろこぶ)。女房、きゝもあへず、

「今の殿樣をば、『しぶ柹(がき)宰相樣』とて、人、皆、うとみはて、大欲無道のとの樣なり。たとへ、『しらふ』の雲雀は扨置(さておき)て、きんのひばりを上(あげ)給ふとも御褒美は存(ぞんじ)もよらず。けつく、『百姓の務(つとむ)べき農作は不動(はたらかず)して、殺生致(いたす)事、不屆也、身こらしに』とて、いかなるうきめにか逢(あひ)玉ふべき。とくして、仙臺へ持行(もちゆき)、仙臺の殿樣へ賣り玉ふべし。必(かならず)、當所の殿さまさしあげ玉ふな。」

と申ける。

 平七、女房の申(まうす)に任せ、忍(しのび)て閑道(かんだう)を經(へ)、仙臺へ行(ゆく)。

 仙臺中納言政宗卿へ賣上(うりあげ)、金子十五兩、くだされける。

 平七、大きによろこび、會津歸り、女房に向ひ、

「汝がおしへにしたがひ、如此(かくのごと)し。」

と、金子を差出(さしいだ)し、見せて、悦びける。

 女の饒舌(ジヨウゼツ)、末のわざはひを、知らざりけり。

 此(この)雲(ひ)ばり、政宗卿より將軍樣へ差上(さしあげ)玉ふ。將軍樣、甚御寵愛被遊(あそばされ)、

「此雲雀、『しらふ』にして、類(たぐひ)なき名鳥なり。鳴音(なくね)、大音(だいおん)にて、いさぎよく御所中にひゞく。定(さだめ)てつたへ聞召及(きこしめしおよ)ばれし、かの奧州名取郡宮城野ゝ、はぎの名所の野邊より、もとめつらん。」

との上意也。

 政宗卿、謹(つつしみ)て申被上(まうしあげられ)けるは、

「此鳥は我領内より求(もとめ)つるにては候はず。若君樣、小鳥御好被成(このみなさる)事故、若(もし)、珎敷(めづらしき)鳥も候はゞ、御慰(おなぐさみ)にさし上度存(さしあげたくぞんじ)候て、近國へ申遣(まうしつかは)し、會津領より、求め候て差上候。」

と被申上(まうされあげ)ける。

「會津に加樣(かやう)の名鳥出(いづ)るならば、宰相方(かた)よりこそ可差上(さしあぐべき)に、そまつなる仕形(しかた)なり。」

とて御機嫌あらく、秀行卿、めいわくなさるゝ。

 依之(これによりて)、秀行卿、御在國なりければ、江戸家老より會津國家老右の趣(おもむき)、こまやかに申遣(まうしつかは)す。

 兼々、會津にても小鳥殺生の役人有(あり)て、すべて小鳥をも其筋へ差上候掟(おきて)也。

 國家老、嚴敷(きびしき)詮義のうへにて、平七、罪、悉く顯れ、女房が惡言も知(しら)れければ、夫婦共に、大川河原にて釜煎に成

 其刑罪場所、「平七畑」とて近き頃まで有けるが、元祿十五年午(うま)の十月二日の洪水にて、其所、押流し、今は河原と成

 平七が幽靈、雨ふり闇夜は、夫婦ながら、くだんの刑罪場へ立出(たちいで)て、泣(なき)さけびしを、村人、度々、見たるなり。

 蟹川村寶光院の過去帳には、釜煎とはなく、『雲雀上(のぼさ)ざる咎(とが)にておもき刑におこなはる』とあると、なむ。

 石川五右衞門、もと河内國石川のもの、七歳より盜(ぬすみ)をいたし、四十弐歳にて、三條河原にて釜煎に成(なる)。辭世、

  石川や濱の眞砂は盡る共よも盜人の種は盡きまじ

 或記に、加藤左馬介、大坂より伏見へ被參(まゐられ)ける道、日暮がた、伏見なはてにて、ぬすびとの大將石川五右衞門、手下の盜人大勢、鐵砲三拾挺、其間へ鑓を組合(くみあひ)伏置(ふせおき)、使(つかひ)を以て左馬介殿へ酒手(さかて)を乞(こひ)ける。

 嘉明、聞(きき)て、

「につくき盜人め。それ、壱人もあまさず、なでぎりにせよ。」

と自身、大長刀(おほなぎなた)をおつ取(とり)、かけ出(いで)られける。

 此勢ひに恐れ、五右衞門を始(はじめ)、ちりぢりに逃失(にげうせ)たり。前々、此如(かくのごと)くして、諸大名より、大分(だいぶん)、金を取(とり)けり。

 

[やぶちゃん注:「釜煎」一般に「釜茹(かまゆ)で」で知られるが、大きな釜で熱せられた湯や油を用いて罪人を茹でる死刑方法で、石川五右衛門の場合は油が用いられたとする説があり、その場合は「釜煎り」が相応しくはある。ウィキの「釜茹でによれば、『日本においては、戦国時代から江戸時代まで、釜茹での刑が存在して』おり、それ以前に『刑罰として実際にあったかは別として、他界における刑罰としては、認識的にはさらに遡る。『地獄極楽図屏風』(京都金戒光明寺所蔵、鎌倉中・後期作)の仏教説話画には、釜茹でにされる人間の描写があり』十三~十四『世紀には、地獄の刑罰』として広く『認知されていたことがわか』り、従って、『京都で処刑された五右衛門の処刑方法は、地獄における刑罰の再現ともいえる』とあり、『金沢藩では』元和四(一六一八)年、『姦通の末に夫を殺害した田上弥右衛門の妻たねが「釜煎」に処された』とある。また、中村彰彦氏の「なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦」(二〇一六年PHP研究所刊)によれば、『蒲生四代の時に定められていた酷薄非情な刑罰が』、寛永二〇(一六四三)年に保科正之(慶長一六(一六一一)年~寛文一二(一六七三)年:会津松平家初代。信濃高遠藩主・出羽山形藩主を経、陸奥会津藩初代藩主。徳川家康の孫で三代将軍徳川家光の異母弟。家光と第四代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなし、日本史上、屈指の名君との呼び声も高い)が寛永二〇(一六四三)年に『会津入りしてからも』、依然として行われていたことを示す資料が、『会津若松市図書館にある『贈従二位左中将保科正之之事実略』という資料』に、それらの『刑罰について記述している』として、そこに、『又、大釜ヲ作リ其蓋(そのふた)ニ穴ヲ穿(うが)チ、罪人ヲ其中ニ容(い)レ、頭、面、及ビ両手ヲ出(い)ダシ、脚ニハ木履(ぼくり)ヲ着ケシメ慢火(まんか)(とろ火)ヲ以テ之ヲ熬(い)ル(熱する)。火気、釜内ニ透ル時、膏油(こうゆ)(灯火用の油)ヲ穴ヨリ濺(そそ)ギ入ル。是ヲ釜熬(かまいり)ト云フ』とあるのが、この残酷刑の正確事実をよく伝えている。なお、同資料によれば、政之は『こうした残忍きわまりない刑罰を』承応三(一六五四)年『十月十八日に廃止したこと』が書きとめられてある、とある

「諸家深祕錄(しよけしんぴろく)」作者不詳の江戸初期に成立した戦国大名諸家に関する記述を集めた書。「国文学研究資料館」のデータベースに同書の全画像があるが、以前に述べた通り、私のパソコンでは画像表示が異様にかかるので、探索は諦めた。悪しからず。

「大臣家(だいじんけ)」江戸時代、大臣の資格があると認められていた家柄。中院(なかのいん)・正親町三条(おおぎまちさんじよう)・三条西の三家。

「臺德院」この箇所、底本では、改行して一マス目から書かれている。これは所謂、敬意を示すための書式であるが、私は無視して前に続けた。台徳院は第二代将軍徳川秀忠(在位:慶長一〇(一六〇五)年五月一日(征夷大将軍宣下)~元和九(一六二三)年七月二十七日隠居)を辞任の法号。但し、現行では石川五右衛門は安土桃山時代の人物とされており、この謂いはおかしい。思うに、本話柄の中心である「雲雀」事件の時制と勘違いしているのではなかろうか?

「石川五右衞門」(?~文禄三年八月二十四日(一五九四年十月八日))は安土桃山時代の盗賊の首長。ウィキの「石川五右衛門」より引く。『従来』、『その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている』。『江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た』。『都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による』。『史料に残された石川五右衛門の記録は、いずれも彼の処刑に関わるものである。まず、安土桃山時代から江戸時代初期の』二十『年ほど』、『日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した』「日本王国記」に『よると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、』その十五『人の頭目が捕らえられ』、『京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に』、『「この事件は』一五九四『年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族』九『人ないしは』十『人であった。彼らは兵士のようななりをしていて』十『人か』二十『人の者が磔になった」』『と記している』。また、公家の山科言経(ときつね)の日記「言経卿記」には、文禄三年八月二十四日『の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの』、『宣教師の注釈と一致を見る。また、時代はやや下るものの』、寛永一九(一六四二)年に編纂された「豊臣秀吉譜」『(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類』二十『人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている』とある。

「三條河原」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「蒲生藤三郎秀行」陸奥会津藩主。既出既注

「正四位下宰相」蒲生秀行は従四位下・飛騨守・侍従であった。侍従は参議(唐名「宰相」)の下であるから、正しい謂いではない。

「宰相の御代」文禄四(一五九五)年から慶長三(一五九八)年に宇都宮に移封されるまでの短い時期と、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」での軍功によって会津に復帰した時から、死去した慶長一七(一六一二)年五月十四日までになるが、後に仙台藩主として伊達正宗が登場するから後者の時期

「中荒井組蟹川(なかあらいぐみかにがは)村」現在の会津若松市北会津町蟹川。ここ(グーグル・マップ・データ)。中荒井は現在、その地区の南西に接してある(ここ(グーグル・マップ・データ))から、「中荒井組」とは村落共同体的なものを指すか。

「しらふ」「白斑」。たヒバリ(スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis)の背中には、それぞれの羽を縁取る多くの白斑が入るが、それは必ずしも珍しいものではない。

「本郷河原」JR東日本只見線に会津本郷駅(福島県会津若松市北会津町上米塚)があり、平七の住まう蟹川とも近く、阿賀川河岸であるから、この附近(グーグル・マップ・データ)であろう。

「しぶ柹(がき)宰相」「澁柹宰相」。蒲生秀行このような渾名があったことは調べ得なかった。

「うとみはて」「疎み果て」。

「けつく」「結句」。挙句の果ては。

「不動(はたらかず)して」「動」はママ。「働かずして」。

「身こらし」「身懲らし」め。

「いかなるうきめ」「如何なる憂き目」。

「とくして」「疾くして」。

「仙臺の殿樣」後に出る仙台藩の初代藩主伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)。彼が仙台に開府するのは慶長六(一六〇一)年。

「閑道(かんだう)」普通は「間道」。

「將軍樣」前に述べたように、蒲生秀行が会津藩主である時期は秀忠の治世である。

「奧州名取郡宮城野」は「源氏物語」にも既に詠まれた平安の昔からの歌枕で、「奥の細道」で芭蕉も訪ねている(リンク先は私が二〇一四年に行った「奥の細道」全行程のシンクロニティ・プロジェクトの一篇)。陸奥国分寺が所在した原野で「宮木野」とも書き、「宮城野原」とも称した。陸奥国分寺は現在の真言宗護国山医王院国分寺の前身であるが、本寺は室町時代に衰微、後に伊達政宗によって再興されたものの、明治の廃仏毀釈で一坊を残して廃絶、それが現存の宮城県仙台市若林区木下にある国分寺名義となって残る。ここ(グーグル・マップ・データ)で、地形的には若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいであろう。

「はぎの名所」ここで言う「萩」は通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギ属」にはある。

「若君樣」かく言うのは父家康が存命であるからで、家康は元和二年四月十七日(一六一六年六月日)に没しており、蒲生秀行が死去したのが、慶長一七(一六一二)年であるから、秀忠がこの事件は、事実とするならば、その間(一六一二年から一六一六年)の間の出来事とみなすすることが出来る。秀忠は天正七(一五七九)年生まれであるから、この時、満三十三から三十七歳となる。

「仕形(しかた)」「仕方」。仕儀。

「めいわく」「迷惑」。

「大川河原」「大川」は福島県会津盆地を流れる阿賀野川本流上流の会津地方での呼称。

「平七畑」位置不詳。

「元祿十五年」一七〇二年。

「蟹川村寶光院」福島県会津若松市北会津町蟹川に現存する。真言宗。ページで位置が確認出来る。

の過去帳には、釜煎とはなく、『雲雀上(のぼさ)ざる咎(とが)にておもき刑におこなはる』とあると、なむ。

「石川五右衞門、もと河内國石川のもの、七歳より盜(ぬすみ)をいたし、四十弐歳にて、三條河原にて釜煎に成(なる)」ウィキの「石川五右衛門」によれば、伝説上では、彼の『出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地三太夫の弟子とされる事もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある』。『丹後国の伊久知城を本拠とした豪族石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたが、天正十年、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は豊臣秀吉の命を受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門二男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる』。また、『一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し』、十六『歳で主家の宝蔵を破り、番人』三『人を斬り』、『黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも』言われるとある。なお、彼が『処刑された理由は、豊臣秀吉の暗殺を考えたからという説もある』という。因みに、三坂の自信を持った四十二が享年だとすれば、彼の出生は天文一三(一五五三)年ということになる。

「石川や濱の眞砂は盡る共よも盜人の種は盡きまじ」整序すると、

 

 石川や濱の眞砂(まさご)は盡(つ)きるともよも盜人の種は盡きまじ

 

であるが、一般に流布されているそれは、

 

 石川や濱の眞砂は盡くるとも世に盜人の種は盡くまじ

 

である。ウィキの「石川五右衛門」によれば、これは「古今和歌集」の「仮名序」にある、譬え歌として挙げられてある、

 

 わが戀はよむとも盡きじ荒磯海(ありそうみ)の濱の眞砂はよみ盡くすとも

 

の本歌取ではないかとする。

「加藤左馬介」伊予松山藩・陸奥会津藩の初代藩主加藤嘉明(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)。豊臣秀吉の子飼衆で賤ヶ岳の七本槍一人で、さんざん出てきた加藤明成の父。

「伏見なはて」「伏見繩手」。りか(グーグル・マップ・データ)。この場合の「繩手」は「田の間の道・畦道」或いは「真っ直ぐな道」を指す。

「なでぎり」「撫で斬り」。]

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